2015年9月22日火曜日

【ふまじめな考察】ナンパをできるやつは喪主もできる

『ナンパをできるやつは葬式の喪主もできる』
 これはぼくの座右の銘である。

 ぼくはナンパをしたことがない。
 だからナンパのできる人には素直にあこがれる。
 ナンパをする男は、どうして見知らぬ女性(それも美しい女性)に声をかけられるのだろうか。不思議でしょうがない。
 ぼくなんて、知り合いであっても美しい女性と話すのは苦手だ。
 美しい女性を前にすると、緊張して思っていることの1パーセントも伝えられない(もっともぼくが考えていることの100パーセントを伝えたとしたらまちがいなく変態呼ばわりされるだろうから、伝えられなくてむしろラッキーだ)。
 ところがナンパ屋さんたちは、見知らぬ女性に声をかけるだけでなく、その話術と情熱をもって相手と仲良くなってしまったりするらしい。
『プロジェクトX』級のビッグプロジェクトだ。

 できたら楽しいだろうなあ、ナンパ。
 べつにかわいい女の子とどうこうなりたいからナンパをしたいわけではない。
 ……。
 いや、本当はもちろんどうこうなりたいんだけど。
 ……。
 あー。
 どうこうなりたーい!

 いかんいかん、思考100パーセントのうちの2パーセント目が出てしまった。話を戻そう。
 ナンパの成果云々は別にして、「見知らぬ人に気安く声をかける」という行為自体にあこがれる。
 かわいい女の子でなくてもいい。居酒屋で隣に座った小太りのおっさんでもいい。
 小太りのおっさんに
「Hey, そこの彼、どっから来たの? ひとり?」
と話しかけられたらどんなにいいだらう。
 きっとその先に待ち受けるのは夢のように楽しい時間だ。
 だけど。
 無駄に自意識だけが高いぼくは、恥をかくことをおそれるあまり、その一歩を踏み出すことができない。
 ナンパした相手に無視されたり、
「はぁ? マジキモイんですけど」
と云われたら、二度と立ち直れない。
 自らを否定されたショックでゲロ的なものを吐いてしまうかもしれない。

 しかし。
 そのプレッシャーに立ち向かい、克服したものだけが、皆から「ナンパ師」という称号で呼ばれることができるのだ。
 ナンパ経験のあるお方と未経験のチキン野郎では、持っている力がちがう。
 普段その違いは目に見えない。
 一生に一度あるかないかの大舞台が突然やってきたとき。そのときナンパ力の有無が決定的な差となってあらわれる。
「突然やってくる一生に一度あるかないかの大舞台」とは何か。
 それが“喪主”である。

 それはある日突然やってくる。
 はじめてだからといってリハーサルはさせてもらえない。失敗したからといってやり直しは許されない。
 まさに一世一代の大勝負だ。

 葬式という舞台における主役が死体なら、喪主は監督であり総合演出であり脚本家だ。
 喪主がいなくてはどんなに立派な死体もただの遺棄死体。葬儀において、死体を活かすも殺すも喪主の腕にかかっているわけだ。死んでるけど。

 ぼくの父親はまだピンピンしていて週3でゴルフに行ったりしているが(どう考えても行きすぎだ)、人生というやつはわからないものだから、明日死んでしまうかもしれない。
 そのとき、長男であるぼくは立派に喪主を務めあげることができるだろうか。
 まったくもって自信がない。
 見ず知らずの参列者たちとうまく挨拶できる気がしない。へらへらしてしまいそうだ。
 喪主挨拶で緊張して「本日はお日柄も良く……」とか云ってしまいそうだ。
 なぜぼくには喪主が務まらないのか。
 それはナンパをしたことがないからだ。

 見知らぬ相手と落ち着いて会話をおこなう社交性。
 つらくても常に己を保つ強い精神力。
 本心を押し殺して確実にことを運ぶ冷静さ。
 一方でときには感情を表に出す素直さ。
 どれもが、ナンパと喪主の双方に必要なものである。
 ナンパという修羅場をいくつもくぐってきた百戦錬磨の兵士に、葬式の喪主が務まらないはずがないのだ。
『ナンパができるやつは喪主もできる』
 自信を持って提唱しよう。


 葬儀だけではない。
 たとえば異星人とのファーストコンタクトにおいても、ナンパの経験は成否の鍵を握っている。
 西の空に強い光が差し、あたりが真昼のように明るくなった。
 空から、30億人は乗れるかという巨大な船がゆっくりと降りてきた。それほど大きな宇宙船が地上に降りたったというのに、あたりは怖いくらいに静かだった。それが彼らの科学力の高さを示していた。
 地球人たちが集まり、誰もが固唾を飲んで宇宙船を見つめている。
 やがて。
 船の中からそれは姿を現した。
 誰もがはじめて見る地球外生物。さすがは宇宙人。頭に三本のツノを生やしているぞ。あれは地球のものではないな。地球人であんな頭をしているやつは、スネ夫をのぞけばひとりもいないからな。
 まだ彼が敵なのか味方なのかわからない。どうやってコミュニケーションをとっていいのかもわからない。
 
 あっ。

 ひとりの地球人が宇宙人に近づいてゆくぞ。
 誰だあいつは。
 雑誌で見たことあるぞ。たしか『LEON』とかいう雑誌で。
 そうだ、あいつはジローラモだ!

 さすが八年連続でナンパ・イタリア代表に選ばれただけのことはある(選考委員はぼく)、あっという間に宇宙人を口説きにかかっちまった。
 なんてナンパな野郎だ。見てみろよ、もう打ち解けちまった。スネ夫型宇宙人と熱い抱擁を交わしている。
 まちがいない、ナンパができるやつは宇宙人とだって仲良くなれるんだ。
 ナンパは数万光年の距離だって軽々と超えるんだ!

 ジローラモを皮切りに、次々に世界中のナンパ師たちが宇宙人と仲良くなってゆく(説明するまでもないが、宇宙人はたくさんの人と同時に会話する技術を持っている)。
 ぼくだって異星間交流を深めたい。宇宙人に向かって「その頭、地球の漫画に出てくる人と同じでかっこいいですね」と言ってあげたい。
 だけどナンパをしたことのないぼくは、宇宙人に声をかけることができない。
 どんなタイミングで話しかければいいのか。なんて言葉をかければいいのか。気味悪がられるんじゃないだろうか。高い知性を持った宇宙人にばかにされるんじゃないだろうか。
 フォアグラのように肥大しきった自意識に邪魔されて、ぼくは話しかけることさえできない。

 いつまでも逡巡しているぼくを後目に、スネ夫型宇宙人は仲良くなった地球人たちに呼びかける。
「おおい親愛なる地球人たち。
 立ち話もなんだからさ、うちの星に寄っていかない? うちの星でSVD(スペース・ヴィジュアル・ディスク)でも観ない?
 うちの星は地球とちがって、差別もないし、貧困もないし、戦争もないし、おまけに肉ばなれもないんだよ。うちに来たらいいじゃん」

 さすがは単独で地球にやってくる宇宙人、なんてナンパがうまいんだ。
 ぼくも行ってみたい。戦争と肉ばなれのない世界へ。
 人類のおよそ半分がすでに宇宙人と仲良くなったころ、ようやくぼくも決意を固めた。
 一世一代の勇気をふりしぼってスネ夫型宇宙人に話しかける。
 あのう。ぼくも連れていってもらえませんか。あなたの星へ。
 だが、スネ夫型宇宙人はその三本のツノをかきあげ、スネ夫特有のイヤミな口調でぼくに云う。
「悪いなのび太、この宇宙船30億人乗りなんだ」

 なんと。
 ぼくの前の人がちょうど30億人目だったのだ。
 もっと早くに声をかけていれば!
 日頃からナンパのトレーニングを積んでさえいれば!

 そして宇宙船は、地球上のすべての「ナンパのできるやつ」を乗せてゆっくりと地上から飛び立っていく。
 残されたぼくたちはショックのあまりゲロ的なものを吐きながら、去りゆく宇宙船を呆然と眺めるばかりだ。

 選ばれなかった絶望感はでかい。
 こんなつらい思いを抱えて、とても生きていける気がしない。かといって死ぬわけにもいかない。だって喪主をできるやつらは全員宇宙人に連れていかれちゃったんだもの。死んでも葬式もあげてもらえない!
 ぼくたちの悲痛な叫び声は銀河の彼方には届かない。

 だが、次第に気持ちも落ち着いてきた。
 いつまでも落ち込んでいてもしょうがない。
 そうだ。ナンパのできる30億人は連れていかれてしまったが、まだ地球には約40億人もいるじゃないか。
 このナンパのできない40億人でこれから仲良くやっていこうじゃないか!

 とは思うのだが、ナンパのできないぼくたちはやっぱり互いに声をかけることができず、地球上にはただ気まずい沈黙だけが漂っているのであった。

2015年9月21日月曜日

【思いつき】教えておばあさん

「ねえおばあさん、おばあさんの自尊心はどうしてそんなに大きいの」

「それはね赤ずきん、幼いうちから『あなたはできる子』と育てられたから、自分にできないことを受け入れたくないがために、失敗をおそれるあまりはじめから難しいことには挑戦しようとせずに困難から逃げ回りつづけてきた結果、根拠を伴わない自信だけが肥大化していったのよ」

「まあなんて正確な自己分析!」

【読書感想】 真保 裕一 『奇跡の人』

真保 裕一 『奇跡の人』

「BOOK」データベースより
31歳の相馬克己は、交通事故で一度は脳死判定をされかかりながら命をとりとめ、他の入院患者から「奇跡の人」と呼ばれている。しかし彼は事故以前の記憶を全く失っていた。8年間のリハビリ生活を終えて退院し、亡き母の残した家にひとり帰った克己は、消えた過去を探す旅へと出る。そこで待ち受けていたのは残酷な事実だったのだが…。静かな感動を生む「自分探し」ミステリー。

 いっとき「自分探し」という言葉が流行った。有名サッカー選手が「自分探し」を引退の理由に挙げたりしていたが、最近は堂々と口にするのが恥ずかしい言葉になった。たぶん。
 いい歳して自分探しなんて恥ずかしいとか、自分を探すのに縁もゆかりもないインドに行ってどうすんだよ、とかのつっこみを受けて、ダサい言葉として認識されるようになった、ってのが最近の潮流だ。

 しかし自分探しをしたくなる気持ちはわかる。
 ぼくは中国で一ヶ月ほど暮らしたことがあるが、そのときなぜか女にすごくもてた。日本では彼女もいなくて童貞だったのに、中国では二人の女性からあからさまに好意を示され、他の女性からも「あなたはすてきな人だ」と言われた。
「ひょっとすると本来のぼくの居場所はここなのかもしれない。これがぼくの本当の姿なのでは……?」と思ったものだ。
 小学生のころは「もしかするとぼくは養子で、ある日大富豪の両親が迎えに来てくれて……」と妄想した。
「ここじゃないどこかに今よりすばらしい自分がいるはず」と思うという点で、これもまた自分探しだ。
 自分が変わる努力はしなくても環境だけが劇的に好転するなら、こんなにいいことはない。ぼくは買ってもいない宝くじに当たりたい。自分が『みにくいアヒルの子』であってほしい。
 だから引退の理由に自分探しを挙げてしまう中田英寿を誰も責められない(あっ名前書いてしもた)。


 というわけで、自分探しは人間の本分だ。
 で、『奇跡の人』である。事故で過去の記憶をなくした主人公が、過去の自分を探す物語である。
 周囲からは「今の君は生まれ変わったんだ。昔は関係ないじゃないか」と云われる。読者も、読みすすめているうちに「あーこれ知ろうとしないほうがいいやつだわ。やめときゃいいのに」と思う。好ましくない過去が出てきそうな予感がする。
 しかし立ち止まれない。ふつうの人でも自分を探してしまうのだ。過去の記憶がなければ、その空白の期間にすばらしい自分を探してしまうのは避けられない。
 かくして、次第に自分探しにとりつかれた主人公はずぶずぶと深みにはまり、現在持っているものまで失ってゆく……。


 という、たいへんおそろしい物語。梗概に「静かな感動を生む」なんて書いてあるからハートウォーミングな話かと思っていたらとんでもない。

 自分なんて探すことなかれ。
 宝くじがめったに当たらないように、より良い自分より悪い自分が出てくる可能性のほうがずっと高いんだから。

2015年9月19日土曜日

【エッセイ】さらばおれらの時代

高校野球を観ていると

最近の高校生はみんなうまいなー。
おれらのときよりレベルが高くなったよなー。
おれらのときよりずっと科学的で効率のいい練習をしてるんだろうなー。
って思うんだけど、

よく考えたらおれ野球部じゃなかったわ、ってことない?
おれは毎年思うんだけど。

2015年9月18日金曜日

【エッセイ】ぶどうの学校

知り合いが、ぶどうの学校に通っているという。

「ぶどうの学校……。そんなのがあるんですか」

 「そうなんですよ」

「ほんとですか」

 「ほんとにあるんですよ」

「あっ。“武道”の専門学校ですね」

 「いえ、“葡萄”のです。食べるほうの」

「ほんとですか」

 「ほんとにあるんです」

「……。あっ、わかった。ワイン作りを教えるんですね」

 「いえ、ワイン用とはべつの品種です。学校でやるのは食べる用です」

「ほんとですか」

 「ほんとですってば」

「ぶどうを育てるんですか」

 「そうです。育て方を教えてくれるんです」

「……。ああ、農業高校みたいなのですか。それの果樹コースとか」

 「そこまでじゃないです。ぶどうを育ててみるだけです。他の果樹や野菜はやってません」

「ほんとですか」

 「ほんとなんですって」

「なぜまたぶどうを」

 「生徒を募集してたんで。ぶどう嫌いじゃないですし」

「そんな理由ですか」

 「そんなもんですよ。わたし、以前ダンスを習ったこととありますけど、そのときもなんとなく楽しそうだったからっていう程度の動機でした」

「いや、ダンスはわかるんですけど。気楽にはじめてもいいと思います。でもぶどうの学校は……」

 「ぶどうも同じでしょう」

「ぶどう狩りでいいじゃないですか。わざわざ学校で習わなくても」

 「収穫だけじゃなくて栽培もしてみたかったんです。ちゃんとした先生に教わって」

「ぶどうだけをですか……。
 ああ、わかった。ご実家がぶどう農家なんでしょう! そしてあとを継ぐ予定なんですね。だからぶどう栽培について学ぼうと思った。なるほど、それなら理解できる!」

 「いえ、実家はサラリーマン家庭です。親戚にぶどうを育てている人はひとりもいません」

「だめだ……。ぼくの理解の範囲を超えている……!」