2026年9月9日水曜日

【読書感想文】保阪 正康『なぜ日本人は間違えたのか 真説・昭和100年と戦後80年』 / 戦争反対の人こそ戦争を知るべき

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なぜ日本人は間違えたのか

真説・昭和100年と戦後80年

保阪 正康

内容(e-honより)
国家を滅亡の淵まで追い込んだ「あの戦争」から八〇年、同時代史として語られてきた昭和史は、これから歴史の中へと移行する。二・二六事件、東京裁判、高度成長、田中角栄、昭和天皇…時代を大きく変えた八つの事象を、当事者たちの思惑や感情を排して見つめ直す時、これまでの通説・定説とはおよそ異なる歴史の真相が浮かび上がる。いったい、日本人はどこで何を間違えたのか―昭和史の第一人者による衝撃の論考。

 昭和史を改めて見つめなおした本。

 読んでいて感じたのは、左派による左派批判という感じ。この人自身は太平洋戦争を間違いだったと認めているし、戦争をくりかえしてはいけないと感じている。たぶん。でもそんなことは書かない。むしろそういう人を批判している。

「戦争はいけない。再びあの愚かな過ちをくりかえしてはいけない」と言うことで平和に対して貢献した気になった人を批判している。

 戦争に対する反省ってのはそういうことじゃないだろ。いつどこで誰が何をした、それに対して周囲の人間や国民はこんな反応をした、それに対して他国はこういう行動をとった、その結果こうなった。こうした歴史に対する正しい向き合い方から反省や改善は生まれるのだろう。これが著者の主張だ。


 そうだよね。左派だからこそ左派のダメなところを直してほしいんだよね。

「平和は大事! 戦争はいけない!」って教わって、そういうものなんだ平和は大事なんだな、って信じてる人って「天皇は神! おまえらは神のために死ね!」って言われて信じていた人たちと大差ない。

 でもこういうことを言うと「おまえはどっちの味方なんだ!」「極右め!」とか言われちゃうんだよね。特に政治的に熱くなっちゃってる人に「その目的を達成したいのならそっちよりこっちの道を選んだ方がいいですよ」って言うと、全部否定されたとおもって反発しがちだ。耳に痛いアドバイスをしてくれる人こそ大事にしたほうがいいのに。



 筆者の歴史研究に対するスタンスは、なるべく生の声を集めるというもの。

 二・二六事件はその典型で、私は事件について単著こそ書いていないが、多くの関係者に実際に会ったからこそわかることがある。ほとんどの学者は裁判記録がすべてというスタンスだが、法廷での証言と自分の書いたものとの内容が異なることはしばしばある。その違いは学問的に意味がないというのだが、そんな画一的な扱いでどこまで本当の歴史と人間がわかるのか、との疑念は拭えない。
 そもそも、史料を残すのは国家など何らかの力をもつ者だ。しかも昭和の戦争で国家は自分たちに都合の悪い、記述の正確な多くの史料を燃やしてしまった。逆に言えば、少ない史料で繋ぐぶんだけ、唯物史観に都合のよい歴史も書きやすい。

 裁判記録というのはオフィシャルなものなので(ほとんどの場合)間違いではないのだけれど、それだけが正解かというとかなり怪しい。

 現在ですら、政府が発表していることはかなり不正確だ。さすがにあからさまな嘘は少ないが(ときどきあるけど)、あえて書かないことは山ほどある。黒塗りだらけの開示資料を見れば明らかだ。オフィシャルな記録なんてものは一面的なものの見方でしかない。

 市民たちの生の声というのは誤りや記憶違いも多くて信頼性には欠けるけど、公的な史料からはこぼれ落ちる事実を拾ってくれることもまた事実。

 


 戦場では生者は死者であり死者は生者で、生者に聞いても生きたその人のことしかわからないというのは誤解である。本当に話を聞けば死者の言葉が必ず入ってくる。実際に面と向かい話をするから死者の声も伝わるのだが、ほとんどの学者は生者の証言と残された史料で歴史を見ようとする。そこから死者は見えてこない。学者の学問は生者の学問でしかない。だから日本の歴史学者の書くものにはある種のヒューマニティ、膨らみがないのである。記憶を父として、記録を母として、知恵という子を生む、それが歴史に学ぶということであるはずだ。だからこそ私は聞き書きを重ねてきた。

 戦場で生死を分けるのは、人徳でも努力でもない。運だけだ。運が悪かったやつは死に、運が良かったやつは助かる。彼我の間に運以外の差はなく、だからこそ生還した者は死者の言葉を代わりに語る。


 これを読んでぼくは、中島 岳志 『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆』を思いだした。中島岳志氏はこう書いている。

 つまり、過去の人たちが積み上げてきた経験知に対する敬意や情熱。かつての民主主義は、そういうものを大事にしていたというわけです。  ところが、平均人である大衆は、そうした経験知を簡単に破壊してしまう。過去の人たちが未来に向けて「こういうことをしてはいけませんよ」と諫めてきたものを、「多数派に支持されたから正しいのだ」とあっさり乗り越えようとしてしまうというのです。
 過去を無視して、いま生きている人間だけで正しさを決定できるという思い上がった態度のもとで、政治的な秩序は多数派の欲望に振り回され続ける。この「行き過ぎた民主主義」こそが現代社会の特質になっているのではないかと、オルテガは指摘しているのです。

「死者の声」に耳を傾ける必要がある、現代人の考えだけで正しさを決定することなどできない、という考え方だ。保阪正康の主張ともよく似ている。

 このように、ぜんぜん別のテーマを扱った別の著者の本を読んでいても、驚くほどよく似た主張をしていることにぶつかることだ。読書の悦びのひとつだ。


 死者の声に耳を貸す。現代では忘れられがちだが、重要な考え方だとおもう。歴史を見ればわかるように、人間はずっと間違いつづけてきた。今の政治も正しくないし、これから先も間違える。我々は必ず間違える。独裁制だろうが共和制だろうが間違える。

 と考えれば「選挙で勝利したから民意を得た。我々が正しいと考える政策を進めていい」なんて愚かな考えには至らないはずだ。我々は間違える、という謙虚な考えを持つことが特にトップにとっては大事な資質だ。残念ながら人々はその逆の「私失敗しませんから」と考えるバカをリーダーに選んでしまうものなんだけど。

 歴史は権力者や歴史学者が作るものではない。死者の声の中にこそ歴史があるはずだ。



 日中戦争の話になると、すぐに日本軍の行動の是非の話になってしまう。

 筆者は、そうした善悪思想から離れた分析をやるべきだという立場をとる。このリアルな姿勢、嫌いじゃないぜ。

「あの戦略はどこが間違いだったか」と考えることはべつに反戦思想と矛盾しない。なのに戦略の分析をしたら「そうやって戦争の研究をしてまた戦争を始める気なのか!」と言いがかりをつけてくる人がいることは容易に想像できる。

 そうやって戦争について本当にじっくり考えることを避けてきたことこそが、著者の語る「日本人は間違えた」ポイントなのだ。

 日中戦争が真の侵略戦争だったかどうか、いまだに論争がある。だが私は思想的立場によって変わる歴史には関心がないし、論じたい人たちに任せておけばいいことだ。侵略と非難するのは中国から見た見方であって、日本から見れば自国の軍事指導者がいかにお粗末だったか、逆に言えば、なぜ侵略と一方的に誇られるほど幼稚な戦いを続けたか、それ自体を徹底的に解剖することが重要だ。
 侵略云々の論争に熱中したところで、歴史から何も学ぶことはできないだろう。侵略と呼ぶべき非は認めるとしても、それだけが日中戦争の全てではない。同時代史は日本の侵略戦争だと自虐的に教えるが、毛沢東や蒋介石の政略と戦略を知れば、一方的な侵略戦争といえるほど単純ではない。中国の巧妙な罠に嵌まったという見方もできるのだ。あの戦争が同時代史から歴史の中に入る時、それを再度考える必要がある。

 日中戦争において、中国は内陸へ退却した。日本軍はそれを追いかけてどんどん内陸に進軍していった。そこに戦略はなく、ただ逃げる敵を追いかけたに過ぎない。

 そもそも日本よりはるかに広くて人口もずっと多い国を制圧できるはずないなんて、誰でもわかることなのに。イギリスがアヘン戦争の後に要所の上海に租界を置いて効率的に統治したのとは対照的だ。


 つまり日本軍は何も考えてなかったわけだ。ただ追いかけた。その結果、食料や物資が枯渇し、民間人から掠奪することになった。非軍人からの抵抗を受け、虐殺をした。国際的な非難を受けた。日本軍にとって、すべてが悪い方に転がった。

 著者は「中国の巧妙な罠に嵌まった」と書く。はたして中国がそこまで見通して退却をしたのかはわからないが、日本軍の戦い方がまずかったのは間違いない。

 これを「日本軍は虐殺という悪いことをした」と教えるだけでは真の反省にならない。当時の軍人だって「民間人から虐殺、掠奪しよう!」と思って進軍していったわけではない。彼らには彼らの事情があった。その理由を検討しなければ、また同じ状況になれば同じことをくりかえすことになる。


「侵略戦争だった。侵略戦争はいけないこと!」というイデオロギーからはこういう考察は生まれない。

 反省は必要だが、それと冷静な分析は切り分けて考えなければならない。戦争に反対する者こそ戦争について知る必要がある。目を背ける人が多いけど。



 戦争の文脈でよく語られる「反省」について。

 日本の教科書のほとんどに「私たちは反省しなければならない」ということが、無批判に書かれている。確かに八〇年近く前、東京裁判で裁かれた私たちの国はそれまでの言論弾圧をはじめ人命を軽視する、今では考えられないほど後進的な国家だった。東京裁判はそのことを白日の下に晒した。反省すべきは私たちではない、国家が事実を隠蔽し続けた時代を反省しなくてはならないのだ。自分が誰かを殺したなら反省すべきだが、私も含めた今を生きる日本人の大半は戦争に関わっていないのである。

 ぼくは、右も左も外国の反応を気にしすぎだと思っている。

 少なくとも国民の単位では、他国民に対して謝罪する必要なんてない(出兵した人は別にして)。かといって必要以上にはねつける必要もない。

 ずっと昔、ぼくが中国に行ったときに出会ったある中国人から「おまえら日本人は中国人からたくさんのものを奪った」と言われたことがある(言っておくがそんなことを言ってきたのは大勢出会った中国人のうちひとりだけだ)。で、ぼくは「たしかに悪いことをした日本人はいた。それに対してはぼくも胸を痛めている」的なことを言った。

 同じ日本人だからというだけの理由で過去のあやまちの責任をこっちに持ってこられても、知らんがな、である。そんなこと言ったら中国人が過去にどれだけ

 とはいえ相手を怒らせていいことなんてないので「ひどいことだよね。私も心を痛めている」ぐらいは言ってあげたらいい。つまり「ナチスにひどいことをされたユダヤ人の子孫」に対するのと同じ態度をとればいい。


 戦争に対する知識も思考もない反省なら、しないほうがマシかもしれない。

 もう終戦から81年。戦争を体験した人がいなくなる時代になった。そろそろ「脊髄反射的な反省」をやめて、リアルな分析をできる時代になっているかもしれない。


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