2025年8月28日木曜日

モアイゆるキャラ説

 プラスチックはなかなか自然には分解されないそうだ。数百年たてば紫外線によって分解されるらしいが、土の中など紫外線があたりにくい場所であれば何千年も残ってもおかしくない。

 千年後の考古学者が千年前(つまり現代)の人々の暮らしぶりを想像するときに、プラスチックは大きな手掛かりになるはずだ。自然界にはないものだから、プラスチックが多く出土する場所は確実に人々が暮らしていたはず。貝殻が残りやすいので貝塚が昔の集落を知る手掛かりになるのと同じように。


 プラスチックについた色や絵も残るのだろうか。

 残ってほしいな。そしたらそれも、人々の暮らしを未来に伝えるための重要な情報源になる。

 プラスチックって子ども向けの製品が多いから、特に子ども向け文化が未来に伝わりやすい。

 未来の考古学者は、出土したプラスチック製品に描かれたミッキーマウスやハローキティやリラックマを見てどんなことをおもうんだろう。

「これは当時の人々が信じていた神様の姿ですね。当時はアニミズム信仰がさかんで、ネズミやネコやクマの姿に神聖なものを感じていたのでしょう。これらの食器は神にさ捧げる供物を載せるのに使われていたのでしょう」なんてことを言うかもしれない。

 そんなことを想像すると楽しい。


 はっ、待てよ。

 ってことは、今我々が数千年前の出土品や壁画を見て「これは神々への祈りのためにつくられたものです」なんて言ってるのもまるで見当違いで、あれは当時の人気キャラだったんじゃないだろうか。

 モアイなんて、今のくまモンみたいなものでイースター島のご当地ゆるキャラだったのかもね。



2025年8月25日月曜日

ダンスの著作権

 ふとおもったんだけど、ダンスに著作権ってあるんだろうか。聞いたことがない。

 たとえば、他人の曲を歌って金儲けをしようとおもったら、ちゃんと楽曲使用料を得ないといけないじゃない。同様に、他人の描いた絵や、他人の書いた文章や、他人の撮った写真を商用目的で勝手に使うことはできない。


 でも、ダンスってみんな勝手に使ってない? よくヒット曲のダンスが流行って、SNSとかYouTubeとかでみんな真似するじゃない。中にはそれで収益を得ている人もいる。あの人たち、ダンスの振付師に金を払っているんだろうか。そんな話、聞いたことがない。

 まあ厳密には著作権が発生するのかもしれないが(答えを出しちゃうとつまんないので調べない)、現実的には厳密に運用されていない。


 個人的な考えを言えば、ダンスにはあんまり著作権うんぬん言ってほしくない。

 ダンスって身体表現じゃない。それを著作権で保護しちゃうと、体操とか発声方法とか筋トレとか歩き方とか、あらゆるものが著作権保護の対象になっていく可能性があるわけで、「おまえの呼吸方法はおれが考案した呼吸の権利を侵害しているから今すぐその呼吸方法をやめろ」なんて言われる未来がくるかもしれない。





2025年8月22日金曜日

【読書感想文】熊代 亨『人間はどこまで家畜か』 / 家畜化というより年寄り化じゃなかろうか

人間はどこまで家畜か

熊代 亨

内容(e-honより)
自己家畜化とは、イヌやネコのように、人間が生み出した環境のなかで先祖より穏やかに・群れやすく進化していく現象だ。進化生物学の近年の成果によれば人間自身にも自己家畜化が起き、今日の繁栄の生物学的な基盤となっている。だが清潔な都市環境、アンガーマネジメント、健康や生産性の徹底した管理など「家畜人たれ」という文化的な圧力がいよいよ強まる現代社会に、誰もが適応できるわけではない。ひずみは精神疾患の増大として現れており、やがて―。精神科医が見抜いた、新しい人間疎外。

 精神科医による、“ヒトの自己家畜化”傾向と、それによって生まれる病理についての本。

 自己家畜化とは、たとえばイヌやネコがペットとして飼われるうちに人に好かれる特徴をより強く発露させるようになること。小さく、かわいく、噛まず、人の言うことに従う。野生で生きるには不利な特徴だが、ペットとしてはそういう特徴を持っている個体のほうが有利なので、世代を重ねるごとに増えていくらしい。

 そして、ペットだけでなく、ヒト自身が自己家畜化しているのではないか。より理性的、合理的で、安定した感情を持ち、衝動的・暴力的な行動をとることが減っているのではないか。

 これが“ヒトの自己家畜化”だ。この著者の熊代亨氏が言いだした概念ではなく、もっと前から提唱されている考え方だ。


『人間はどこまで家畜か』の前半では、数々の文献などをもとに「ヒトが自己家畜化している」根拠をあげていく。

 正直、このパートはちょっと強引だ。「ヒトは自己家畜化している」という結論ははじめから決まっていて、そのために都合の良い証拠を方々から集めてきているだけ、という感じがする。

 そもそも「自己家畜化」というワードの定義自体があいまいで、どうなったら自己家畜化なのか、どこまでは自己家畜化じゃないのか、という基準がない以上、著者の言ったもん勝ちじゃないのという気がする。


 論としては少々乱暴であるとはいえ、「ヒトが自己家畜化している」、もっとあけすけにいえば「飼いやすい存在になっている」こと自体はぼくの感覚とも一致している。

 もし、自分が絶大な力を持つ宇宙人で地球人たちを支配するとしたら、千年前の地球人よりも現代の地球人のほうが支配しやすそうだもん。

 ここ数十年に限っても、古い本や映像を見ると(それが生活の一部しか描いていないことはさしひいても)昔の人って現代人よりもずっと暴れている。他人にからんだり、暴力をふるったり、徒党を組んでものを壊したり、そういうことをするハードルが今よりずっと低い。人々がルールを守って暮らしている社会のほうが暮らしやすい可能性は高い。もちろんそれはルールが適切であることが条件なので、ルールに従順であることが必ずしもいいとは言えないけれど。

 我々がテレビで昭和の映像を見て「昭和ってなんて野蛮な時代だったんだ」とおもうように、五十年後の人々もまた「令和ってなんて野蛮な時代だったんだ」とおもうことだろう。またそうあってほしい。それはすなわち社会から暴力、暴言、怒りの発露が消えてゆくことだから。




 ただ人々の「自己家畜化」により多くの人にとっては生きやすい社会になったとしても、それがすべての人の救済になるかというと、それはまた別の話である。

 ただし、進化にはさまざまな制約もあります。人間の身体は哺乳類共通のメカニズムから成り立っていて、そのひとつが衝動や感情です。読者の皆さんも身に覚えがあるでしょうけど、これらは私たちを穏やかならざる行動へと導いたり、理性では制御しづらい気持ちを生み出したりします。どんなに進化しても人間が哺乳類をやめられるとは思えませんから、これからも人間には衝動や感情がついてまわるでしょう。そのうえ人間は世代交代に長い時間がかかるため、進化のプロセスも非常にゆっくりとしか進みません。ラジオの時代からテレビの時代へ、そしてスマホの時代へと早足で変わっていく文化や環境の変化に比べれば、過去に起こった自己家畜化のスピードも、現在進行形で起こっているだろう自己家畜化のスピードも、スローベースと言わざるを得ません。
 だから自己家畜化というトピックを眺める時、私はこう思わずにいられないのです。文化や環境が変わっていくスピードが速くなりすぎると、人間自身の進化のスピードがそれに追いつけなくなるのではないか? 実際、現代社会はそのようになってしまっていて、動物としての私たちは今、かつてない危機に直面しているのではないか? と。
 たとえば令和の日本社会は暴力や犯罪が少なく、物質的にも豊かで、安全・安心な暮らしが実現しています。過去のどんな時代より法や理性に照らされたこの社会は、一面としてはユートピア的です。ところがその裏ではたくさんの人が心を病み、社会不適応を起こし、精神疾患の治療や福祉による支援を必要としているのです。
 精神医療の現場にいらっしゃる患者さん(以下、患者と略します)の症状から逆算するに、現代人はいつも理性的で合理的でなければならず、感情が安定しているよう期待されているようです。都会の人混みでも落ち着いていられ、初対面の相手にも自己主張でき、読み書き能力や数字的能力も必須にみえます。ですが、それら全部を誰もが持ち合わせているわけではなく、このユートピアでつつがなく生きるのもそれはそれで大変です。

 かっとなって大声を出したり、手を出したりするのは良くない。冷静になるべきだ。できることなら感情的にならないほうがいい。多くの人が賛成するだろう。

 だが、ついつい大声を出したり手を出したりしてしまう人がいるのもまた事実。直したほうがいいけど、かんたんに直せるものではない。そういう人の居場所はどんどん減っている。昔はもっと“荒くれ者たちが働く職場”があったはず。

「理性的な行動ができない人」が減るのはいいことかもしれないけど、「理性的な行動ができない人の居場所」まで減るのはいいことなのだろうか。


 家畜化というより、規格化といったほうがいいかもしれない。昔は大きさも形もばらばらだったキュウリが、今では大きさも形もそろったものばかりスーパーに並ぶようになったもの。それはつまり“スーパーの棚に並ぶことのできないキュウリ”が増えたことを意味する。




 著者は精神科医の立場から「自己家畜化」の流れについていけない人たちの処遇を心配するが、中でも子どもたちの社会への適応について警鐘を鳴らす。

 確かに文化や環境は人間の行動を変え、世代から世代へ受け継がれ内面化されながら洗練の度合いを高めてきました。しかし変わっていったのは大人たちの行動、それと子どもたちに内面化されていくルールまでです。新しく生まれてくる子どもは必ず、生物学的な自己家畜化以上のものは身に付けていない野生のホモ・サピエンスとして、〝文化的な自己家畜化〟という観点ではいわば空白の石板として生まれてきます。
 赤ちゃんは本能のままに夜泣きや人見知りをし、母親の抱っこを求めます。危険や外敵の多かった時代には、そのような行動形質こそが生存しやすく、夜泣きも人見知りもせず抱っこも求めない赤ちゃんは自然選択の波間に消えていったでしょう。
 ところが赤ちゃんの行動形質は現代社会ではまるきり時代遅れです。第二章でも参照した進化生物学者のハーディーは、著書『マザー・ネイチャー』のなかで、働く母親にとって都合の良い架空の赤ちゃん像を描いてみせましたが、それは朝夕に簡単な世話さえすれば良く、昼間は放っておいても構わない、そのような赤ちゃん像でした。
 今日の文化や環境に最適で、社会契約や資本主義や個人主義にも都合の良い赤ちゃんとは、きっとそのようなものでしょう。しかし実際の赤ちゃんは文化や環境の手垢がついていない状態で生まれてきますから、そんな行動形質は望むべくもありません。
 幼児期から児童期の子どもも、まだまだ真・家畜人には遠いといえます。教育制度ができあがる前の子どもたちは、大人たちの手伝いや集団的な遊びをとおしてルールも技能も身に付けていきました。第一章でも触れたように、人間の子どもは文化や環境をとおしてルールを内面化したり、年長者を模倣したりする点ではとても優れています。しかし、教室に静かに座って学ぶのは教育制度以降の新しい課題ですし、拳骨を封じること、感情や衝動を自己抑制することも近現代以前にはあまりなかった課題です。
 現代社会は座学のできない子どもを発達障害とみなし、感情や衝動を自己抑制できない子どもを特別支援教育の対象とするでしょう。ですがそれは、社会契約の論理が子どもの世界にまで闖入した管理教育以降の文化や環境に適応できていないからであって、ホモ・サピエンスのレガシーな課題に適応できていないからではありません。

 社会がより洗練された人々を求めるようになった結果、社会に適応できない子どもが増えた。なぜなら子どもは動物として生まれてくるから。

 だから発達障害とみなされる子どもが増えたのではないか、と疑問を投げかける。




 ここまで読んで「『自己家畜化』というより『年寄り化』じゃないのか」とおもった。

 社会はどんどん年寄り化している。

 暴力的でない、感情を抑制して冷静、理性的。これって一般に年寄りの特徴じゃないか。脳が壊れてすぐキレちゃう老人もいるけど。

 少子化、超高齢化で社会の平均年齢がどんどん上がっていることと関係あるのかわからないが、社会はどんどん年寄り化している。だから子どもほど社会に適用できない。

 昔は十数年で「社会が求める大人」になれたが、社会が年寄り化して求められる精神年齢が上がった。二十代なんてまだまだ子ども。だから大人のルールについていこうとするとそのギャップに苦しむことになる。


 ぼく自身のことを考えても、歳をとって生きやすくなった。自己顕示欲や性欲や社会の矛盾に対する怒りが薄れて、年寄り化した社会の求める“大人”の姿に近づいていったから。

 今の日本において、人口のボリュームゾーンは50代だ。40~70代ぐらいの人が「平均的」とされる。10代、20代が社会に適応しづらいのもあたりまえかもしれない。

 すまんなあ、若者たちよ。


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2025年8月20日水曜日

私はいつも他人の幸福を考えて生きている

 善行自慢をさせてほしい。

 ここ十年の間に私は落とし物を拾って交番または警察署に届けたことが四度ある。交通系ICカード、スマートフォン×2、財布だ。スマートフォンを落とした人はすごく困っただろうし、財布にいたってはちらっと中をのぞいたら数万円と各種カードが入っていた。

 相当な善行だ。もし私が地獄に落ちてもお釈迦様は縄ばしごを垂らしてくれるにちがいない。ヘリコプターで逃走する怪盗のようにハハハハハと高笑いしながら極楽に上がってゆける。


 スマートフォンを拾ったときに何か手掛かりがないかと起動してみたら、ハングル文字が表示された。たぶん韓国人のものだったのだろう。もしかしたら落とし主がこれを機に親日家になり、さらにその人が将来韓国の大統領になるかもしれない。そうすると私の善行が日韓関係の改善に大きく貢献することになる。すばらしいことだ。


 こうして拾得物による善行を重ねる一方、私は落とし物をして警察のお世話になったことがない。落とし物をしたことがないわけではないが、せいぜいマフラーとか折り畳み傘とか、「ちょっと惜しいけど買い替え時だとおもえばあきらめもつく」ぐらいのものばかりだ。

 折り畳み傘の場合は「もしかしたら私が落とした傘を誰かが拾って使っているかもしれない。そうすると私は傘を損したが人類全体で見ると幸福の総量は変わっていない」とおもえばちっとも悔しくない。私はいつも人類全体の幸福を考えて生きているのだ。あの日私が失ったマフラーだってホームレスのおじさんの首元を温めているかもしれない。

 落とし物でいちばん悔しかったのは買ったばかりの食パンを落としたことだ。会計後に買い物袋に入れたことははっきりおぼえているのに、家に帰ったら袋になかったので道中で落としたのだろう。パン屋さんで買った、ちょっといい食パンだった。三百五十円ぐらいのものだが、値段以上に悔しかった。なぜなら食パンの場合は、拾った人もたぶん食べてくれないからだ。きっとそのまま廃棄されているにちがいない。私も悔しいが、丹精込めてパンを焼いてくれたパン屋さんもさぞ悔しかろう。私はいつも他人の幸福を考えて生きている。


 私は一度も落とし物をして警察のお世話になったことがないので、“落とし物貯金”はずいぶん貯まっているはずだ。逆に「落とし物をしたが親切な人が届けてくれたおかげで無事に返ってきたけど、自分は一度も落とし物を警察に届けたことがない人」もいるはずだ。そういう人は、私がうんこを漏らしそうになっているときにはトイレの順番を譲るぐらいのことをしてもらいたい。なぜなら私がうんこを漏らしたらそのにおいによってあなたたちも不幸になるからだ。私はいつも他人の幸福を願って生きている。



2025年8月19日火曜日

【読書感想文】松岡 享子『子どもと本』 / 物語の種明かしをするなよ

子どもと本

松岡 享子

内容(e-honより)
財団法人東京子ども図書館を設立、以後理事長として活躍する一方で、児童文学の翻訳、創作、研究をつづける第一人者が、本のたのしみを分かち合うための神髄を惜しみなく披露します。長年の実践に力強く裏付けられた心構えの数々から、子どもと本への限りない信頼と愛が満ちあふれ、読者をあたたかく励ましてくれます。


 今から60年ほど前のアメリカの児童図書館で勤務し、日本に帰国後も児童向け図書館の設立などに携わった著者によるエッセイ。

 前半は「あたくしはこんな苦労をしてきたのよ」ってな感じの話が長々と続くので、あーおばあちゃんの自分語り本かーこれはハズレだなーとおもっていたのだが、中盤の児童文学論はおもしろく読めた。



 口承の物語について。

 ストーリーテリングの研究者で、恵まれた語学の才能を生かして、世界各地の語りの実状を調べたアン・ペロウスキーさんから聞いた話ですが、語りの伝統が生きているアフリカでは、たいていの子どもたちが、ひとつやふたつ物語を語ることができるものだそうです。ところが、地域に学校ができて、子どもたちが字を習うようになると、語れなくなってしまう、というのです。どうやら、わたしたちは、文字を獲得するのと引き換えに、それまでもっていた能力を失うのではないかと考えざるをえません。失うというよりは、その能力を十全に発達させる機会を失うということでしょうか。その「失う」能力は、実は、読書のためには欠かすことのできない力ことばをこころに刻む力、ことばに対する信頼、想像力を目いっぱい伸ばしてことばの奥に世界を創り出す力なのです。
 学校へ行くまでに、人より半年、一年ほど字をおぼえるのが早かったり、遅かったりすることが、十年後にどれほどの差を生むでしょうか。子どもが興味をもって習いたがったり、ひとりでにおぼえてしまったりするのはよいとして、耳からのことばをまず蓄えるべき幼児期に、無理に字を教え込もうとすることは、けっして賢明なことではないと思います。

「語りの伝統が生きているアフリカでは」ってめちゃくちゃ雑なくくりかただなー。さすが戦前生まれ(これも雑なくくり)。

 それはさておき。

「文字を獲得するのと引き換えに、それまでもっていた能力を失う」というのは興味深い考察だ。というのも、最近似た話を読んだからだ。

 鈴木 宏昭『認知バイアス』によれば、多くの幼児には写真のように見たものをそのまま記憶する能力があるのに、成長して言語を習得すると同時にその能力は失われてゆくのだそうだ。

 幼児は未熟で大人になるにつれ様々な技能を身につけていく、つまり成長とは一方的な能力アップだと思いがちだが、案外そうでもないのかもしれない。多くのステータスはアップするが、中には能力ダウンするステータスもあるのではないだろうか。


 うちの下の子は小学一年生だが、今でも寝る前には本の読み聞かせをしている。すると一度聞いただけの言い回しを正確におぼえていたりして、驚かされることがある。

 ぼくはまとまった文章を読んで内容を理解するのは得意な方だと自負しているが、その反面、他人の話を聞いて理解するのはめっぽう苦手だ。仕事でセミナーを聞いたことがあるがまったくといっていいほど頭に入ってこない。学生時代も、授業を聴くのをやめて教科書を読んで独学するようにしてからぐんぐん成績が上がった。

 そんな、「耳よりも目から情報を入れるほうが圧倒的に得意」なぼくからすると信じられないぐらい、娘は耳から聞いた情報をしっかりおぼえている。学校で先生から言われたこともちゃんと伝えてくれる。ぼくなんかまったく聞いていなかったのに。

 娘は一年生なのでもう一人で(ふりがながあれば)本を読めるが、それでもまだ耳から聞くほうが得意なのだろう。なのでぼくのところに「本読んでー」と持ってくる。

 そのうち目で読むほうが得意になって、父親のもとに「本読んで―」と言ってくることもなくなるのだろう(上の子はもうない)。さびしいことだ。




 昔話の特性について。

 また、リュティは、昔話の主人公には個性がないといいます。それは彼らに名前がないことからもわかるでしょう。昔話に登場する人物は、ただ「男とおかみさん」、「王さまとお妃さま」であって、名前がある場合でも「太郎、次郎、三郎」「ジャック」「イワン」など、性別や、兄弟の順を示すだけのもので、それらの人物の年齢、顔かたち、背格好、さらには、性格や、好みなどがくわしく描写されることはありません。せいぜい「世界一美しいお姫さま」「見あげるような大男」といった程度です。これらの人物は、ひとりの人間であるより、ひとつのタイプを示していると考えられます。
 タイプである人物には、「いいおじいさんと、わるいおじいさん」「やさしいおかあさんと、意地悪なまま母」「働き者の姉に、怠け者の妹」というふうに性格も極端に色づけされています。現実社会では、善良と見える人が、別の場面ではずるく立ち回ったり、相手によっては悪意をもって行動したりと、ひとりの人間のなかに違う性質が重層的に存在しているわけですが、昔話では、複雑なものを単純化し、ひとつの性質をひとりの人物にあてはめ、それをひとつの平面にならべて、違いを際立たせて見せています。リュティは、これを「平面性」と呼んでいます。単純になったことで、人の性質がつかみやすくなり、個性の縛りのないことで、聞き手(読者)の主人公との一体化が容易になります。これも、昔話が子どもに受け入れられやすい理由のひとつです。

 なるほどね。たしかに昔話の悪人って「四六時中悪いことを考えている徹底した悪」として描かれるよね。

 でも現実の悪はそんなんじゃない。たとえば賄賂を贈って東京オリンピックを誘致したやつらはすっごい悪だけど、一部の業界には利益をもたらしてくれる“いい人”なわけだし、家に帰れば善良な父や母や友人であったりするのだろう。

 大人になると、「いいやつに見えて悪いことをしてるやつ」が成敗される物語のほうがおもしろいけど、子どもにとってはもっと単純なほうが理解しやすくておもしろいのだろう。そういえばうちの子も小さいとき、映画などを観ていると「これいい人? 悪い人?」と聞いてきたものだ。すべての人はどちらかに分類できるとおもっているのだ。


 最近のディズニー映画やドラえもん映画などを観ていると、“完全なる悪”が減ってきているのを感じる。少子化の影響や大人もアニメを観るようになった影響だろう、ディズニーやドラえもんの映画でも「一見いい人の顔をして近づいてくるけど実は悪だくみをしている敵キャラ」や「こっちサイドにとっては悪だけど向こうには向こうの事情があって形は違う理想を描いている敵キャラ」が出てくる。敵に深みがあると物語に奥行きが出て大人にとってはおもしろいんだけど、はたして子どもにとってもおもしろいんだろうか。

 たとえば白雪姫の妃やフック船長のような、「己の欲望にしか興味のない、誰がどう見ても悪いやつ」のほうが、子ども向けコンテンツの敵役にはふさわしいんじゃないだろうか。

 近年はアニメ映画なんかがヒットしているけど、ほんとに子ども向けのコンテンツはかなり少なくなっている気がする。




 昔話、おとぎ話における“先取り”について。

 ビューラーは、予言、約束と誓い、警告と禁止、課題と命令、の四つを効果的な先取りの様式としてあげています。なるほど、「いばらひめ」は、予言が軸になって物語が展開しますし、「おおかみと七ひきの子やぎ」は、警告と禁止がきっかけで物語が動きはじめます。そのほかの項目についても、少しでも昔話に親しんでいる人なら、すぐにいくつかの例を思いつくでしょう。もし、首尾よくこれをなしとげたら、三つのほうびを約束しておこう。この三つのなぞを解いたら、娘を嫁にやろう。ほかはよいが、この扉だけは開けてはならぬ。これをなしとげるまで、けっして口をきいてはならない。ひとことでもしゃべれば、命はないぞ……。
 これらは、昔話のなかで、わたしたちが何度も耳にすることばです。そして、これらのことばが発せられるたびに、わたしたちの心には、期待、不安、怖れなどの感情が生まれ、緊張感をもって話の先へ注意を向けることになるのです。
 
 (中略)
 
 一般的にいって、子どもたちの注意の集中力は長くありません。先を見通す力も十分ではありません。そんな子どもたちに、話の先を知らせ、注意をそらすことなく、いつも話の中心に関心をひきつけておく、それが先取りの方法だと思います。先取りの示すヒントに従っていけば、注意力の散漫な子どもでも、話についていけます。
 歩きはじめた子どもは、いきなり長い距離を歩きとおすことはできません。でも、母親が、ちょっと先に立って、手招きしてやれば、そこまではたどりつくことができます。そして、母親がそのたびに、少しずつうしろへ下がって同じように誘えば、そこまで、またつぎのところまで……と歩き、結果として、かなりの距離を歩くことになるでしょう。先取りは、この母親役なのです。幼い子でも、昔話であれば集中して聞けるのは、この先取りがうまく作用しているからではないでしょうか。

 たしかにね。昔話って、この「予言」あるいは「警告」が頻繁に出てくる。「○○するだろう」と言えばその通りになるし、「決して××してはいけない」と言えば必ず××することになる。

 あれは物語におけるガイド役なんだね。歩くときに子どもの手を取って「そこに段差があるからこけないように気を付けて」「車が来るからちょっと待ってね」と先導してやるように、上手に歩けるように助ける役割を果たしているわけだ。

 毎日絵本の読み聞かせをしているけど、気づかなかったなあ。




 著者のエッセイ部分で、大きくうなずいたところ。

 国語力をつけるという面では、多くを負っている先生なのですが、たったひとつ、恨めしく思うことがあります。それは、副読本でその一部を読んだメーテルリンクの「青い鳥」についての説明のなかで、作品がいわんとしているのは、幸福は結局家庭にあるということだと種明かしをしてしまわれたことです。
 それまで、どんな物語も、ただただ「おもしろいお話」として読んできたわたしに、これは手痛い一撃でした。ふぅーん、そうなのか! 幻滅といっていいのか、裏切られたといっていいのか、「青い鳥」が一瞬にして色あせた気がしました。F先生は、わたしがよもやそこまで幼いとは思っていらっしゃらなかったのでしょうが、大げさな言い方をすれば、これはわたしの読書生活史のうえで、無邪気で幸せな子ども時代の終焉を告げる忘れがたい出来事でした!

 そうそう、物語って教訓とか意図とかを言語化されると急に色あせてしまうんだよ!

 以前にも書いたが(魔女の宅急便と国語教師)、物語に込められた作者の意図を説明してしまうという行為は、マジックの種明かしをするようなものだ。種明かしをされたら感心するし種明かしをするほうは気持ちいい。でも、それをしてしまうとマジックのおもしろさは永遠に損なわれてしまう。

 物語の種明かしはやめてくれよな! 特に国語教師!


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魔女の宅急便と国語教師



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2025年8月18日月曜日

【読書感想文】長岡 弘樹『傍聞き』 / ふつうのミステリだと周縁の人たち

傍聞き

長岡 弘樹

内容(e-honより)
患者の搬送を避ける救急隊員の事情が胸に迫る「迷走」。娘の不可解な行動に悩む女性刑事が、我が子の意図に心揺さぶられる「傍聞き」。女性の自宅を鎮火中に、消防士のとった行為が意想外な「899」。元受刑者の揺れる気持ちが切ない「迷い箱」。まったく予想のつかない展開と、人間ドラマが見事に融合した4編。表題作で08年日本推理作家協会賞短編部門受賞。


 四篇のミステリ短篇を収録。

 表題作『傍聞き』以外は、登場人物たちの職業が刑事ではなく、救急隊員、消防署員、更生保護施設の施設長など「ふつうのミステリだと出てきても脇役程度の人たち」なのがおもしろい。

 いいところに目をつけたなあ。救急隊員や消防署員ってけっこう“事件”を目撃する機会がありそうだもんな。刑事よりも先に現場に駆けつけるわけだから、刑事以上に重要な手掛かりをつかむことだってあるだろう。「なんだこの奇妙な現場は」とおもうようなミステリに遭遇する機会だって、ふつうの人よりずっと多いはず。

 そう考えるとミステリ小説の主人公としてはけっこう適役かもしれない。



迷走

 刃物で刺された人物のもとへ駆けつけた救急隊員。刺された人物はなんと救急隊長と因縁のある人物だった。病院へ搬送する最中、隊長はなぜか病院とは違う道へ車を走らせるよう指示を出す。病院へ向かわずに迷走を続ける救急車。はたして隊長の目的は……。


 これがいちばんおもしろかった。舞台設定に偶然が過ぎる部分もあるが、真相が明らかになる種明かしは実に鮮やか。今まで見えていた景色が一瞬にしてまったく別の姿に変わる。

 ただ隊長が他の隊員に説明しない理由がちょっと弱い。最後にいっぺんに種明かしするほうがミステリとしてはおもしろいけどさ。


傍聞き

 娘と二人暮らしの刑事。留置所の窃盗常習犯から面会の申し出があるが、会いに行ったのに何も語らない。

 一方、刑事の家庭では反抗期の娘は不満があると口を聞かなくなり、要件はメモで伝えてくる。さらに最近はわざわざ手紙を投函して刑事の仕事に対する文句を言って来るようになる……。

 

 ミステリとヒューマンドラマを上手に組み合わせている、のか……? 高く評価された作品らしいけど、ずいぶんまどろっこしいことしてんなーという印象だった。


899

 消防士の男は、近所のシングルマザーに恋愛感情を抱いている。ある日、そのシングルマザーの家が火事に。乳児が取り残されているとの通報が。駆けつけた男は、最近子どもを亡くした部下に自信を取り戻させるため乳児の救出を任せる。だがいるはずの乳児の姿がなく……。


 種明かしは鮮やかではあるけれど、現実的かというと、かなり無理がある。(理由があったとはいえ)乳児をわざわざ危険にさらすようなことを消防士が行動に移すかというとなあ……。恋心を抱いている相手の家が火事になって消防士として駆けつけるのも偶然が過ぎるし(主人公が犯人だったらわかるが)、部下がとった行動も無理があるし、その行動の結果も狙い通りにいきすぎだし。

 いろいろとやりすぎな小説。


迷い箱

 元受刑者を受け入れる更生施設の施設町は、ある入所者が自殺するのではないかと心配していた。就職先を世話した後も気がかりで、あるとき彼の後をつけると……。


 ここまでハートフルな結末が続いていたのでこれもそうだろうなとおもっていたら、案の定。いちばん意外性のない作品だった。



 個人的な好みの差はあったが、どれもよくできた短篇ミステリだった。ちょっとした驚きもあって、後味も悪くなくて、主人公の心の揺れも描かれている。“傍聞き”“迷い箱”といったキーワードの使い方もうまい。そして文章に無駄がなく、過不足なくまとまっている。

 この作者の作品を読むのははじめてだったが、他のミステリも読んでみたいとおもわされる出来だった。


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2025年8月8日金曜日

【読書感想文】高橋 克英『なぜニセコだけが世界リゾートになったのか』 / 誰もが楽しめるリゾートの時代は終わった

なぜニセコだけが世界リゾートになったのか

「地方創生」「観光立国」の無残な結末

高橋 克英

内容(Amazonより)
地価上昇率6年連続日本一の秘密は何か。
新世界「ニセコ金融資本帝国」に観光消滅の苦境から脱するヒントがある。
富裕層を熟知する著者の知見「ヒトより、カネの動きを見よ!」
ローコスト団体旅行によるインバウンドの隆盛はただの幻想だった。かわりにお金を生むのは、国内に世界屈指のリゾートを作ることだ。平等主義に身も心もとらわれた日本人は、世界のおカネのがどこに向かっているのか、その現実にそろそろ目覚めるべきではないだろうか。
ニセコ歴20年、金融コンサルタントとして富裕層ビジネスを熟知した著者による、新しい地方創生・観光論。バブル崩壊以降、本当にリスクを取ったのは誰だったのか?

 上質なパウダースノーがあることからオーストラリア人スキーヤーの間で人気となり、それに伴って次々にリゾート開発がおこなわれ今や日本を代表するリゾート地となっている北海道・ニセコ。地価はどんどん上がり、超高級ホテルやコンドミニアムなど開発が進んでおり、コロナ禍を経てもその勢いは止まらない。

「上質なパウダースノー」という自然環境もあるが、それだけではニセコの成功は説明がつかない。ニセコ開発の歴史や他の観光地との比較を通して、成功の要因を探る本。




 ニセコの成功の要因のひとつは、外国資本が入ってきたことだ。

 海外の企業が投資して宿泊施設、サービスなどを提供したことで、海外富裕層が訪れやすくなった。日本企業、あるいは国や自治体などが主導していたならこううまくはいかなかっただろう。

 現在、日本各地に死屍累々と存在する「バブル期につくったでっかいハコモノの跡地」がそれを証明している。

 こうしてバブル期に東急グループや西武グループなど日本企業によって作られたニセコの礎は、バブル崩壊後、豪州や米国資本の手を経て、今は香港、シンガポール、マレーシアなどアジアの財閥グループなどによって、更なる大規模開発が続くに至っている。
 地元への還元という意味では、「外国資本」も「日本資本」もあまり変わらないのかもしれない。むしろ海外資本のほうが、景観など自然環境や地元還元、ダイバーシティに理解があったりする。概してビジネスライクで、合理的ではあるが、ロジカルであったりもする。長期的関係を重視する姿勢もニセコにおける開発計画にはみられる。
 ニセコの歴史を振り返ってみる限り、日本資本のほうが短期的でビジネスライクだったといえるのかもしれない。以前の日系ホテルのレストランでは、ニセコ産以外の食材を使う傾向があったが、外資系ホテルに代わってからは地元食材を使ってくれるようになったという。

 外国資本だからうまくいったというのもそれはそれで極端な意見だが、少なくとも海外富裕層を呼びこむためのノウハウは日本企業よりもずっと豊富に持っているだろう。もちろん官庁主導なんて話にならない。

 著者は、国や自治体が主導するリゾート計画の失敗を痛切に批判する。

 官主導、地元自治体主導の観光策やリゾート計画だと、卓上のこうあるべき論や、調査やアンケートやイメージなどから始まり、デメリットやリスクも考え、結局、総花的で「幕の内弁当」のような施策となり、肝心の需要が置き去りにされて、失敗するケースがほとんどだ。いつまでも勉強ごっこと資料収集ばかりしないで、実需を生む営業をし、収益を生む仕事にフォーカスすべきであり、まずは見切り発車すべきだ。
 走りながら考え、実践しながら修正してきたのが、まさにニセコの軌跡だ。行政を筆頭に日本の観光当事者には、事なかれ主義や完璧主義の弊害から、見切り発車をし、走りながら修正するという、スピーディーに顧客ニーズに応えるスタイルが著しく欠けているのではないだろうか。

 そうなんだよね。日本が豊かになった1980年代、あちこちにリゾート施設ができた。「あそこはあんなのを作ったそうだ。おらの町も負けてらんね」的な発想で、次々に。地元の需要も地域の特性も無視して、日本中に同じようなテーマパークができた。

 結果、ほとんどつぶれた。だって同じようなものがあちこちにあるんだったら、わざわざ遠くのテーマパークに行く必要ないんだもん。


 また、多くのリゾート施設の失敗は、すべての人をターゲットにしようとしてあれもこれもと詰めこむ「幕の内弁当」化にあると著者は指摘する。

 猫も杓子も押し寄せる場所に富裕層は来ない。彼らが望むのは特別扱いであり、待たずに済むことである。庶民が大勢来る場所ではそれは叶えられない。

 幕の内弁当にすればたしかに観光客数は増える。だが人が増えれば交通は渋滞し、景観は乱れ、環境は破壊される。観光客の満足度が下がるだけでなく、住民の生活にも支障が出る。京都などで現在起こっているオーバーツーリズム問題だ。

 ニセコがうまくやったのは、富裕層にターゲットを絞ったことで、観光客数を絞りつつ地元に落とさせるお金を増やせたことだ。

 ニセコの場合は雪質が良かったからできたことなのですべての観光地がまねできるわけではないけれど、参考にはなるだろう。


 べつに富裕層にターゲットを絞らなくたって、「長時間並ぶし料理が出てくるのも遅い入場料5,000円のテーマパーク」と「並ばずに済む入場料10,000円のテーマパーク」だったら後者を選ぶ人も少なくないとおもう。ぼくはどっちかっていったら後者だ。めったに行かないからこそ、行くときはストレスなく楽しみたい。

「入場料5,000円で1日200人来場」と「入場料10,000円で1日100人来場」だったら売上はどちらも100万円だけど、後者のほうがコストは少なくなる。つまり利益は大きくなる。来た人の満足度も後者のほうが高いだろう。

 これから働き手はどんどん少なくなる。外国人観光客を呼びこんだって受け入れ先に従業員がいなければどうしようもない。「誰もがそこそこ楽しめる施設」は淘汰され、「ターゲットを絞って満足度と使うお金を高める施設」が生き残ってゆくのだろう。



 この本が刊行されたのは2020年12月。コロナ禍まっただなかである。

 だが海外旅行客がほぼゼロになったときですら、ニセコ開発の速度は陰る様子もなかったという。

 コロナショックにより、日本だけでなく米国、欧州の政府と中央銀行により、史上最大規模の金融緩和策と財政出動策がとられている。コロナ禍から国民の生命はもちろんのこと、
 「雇用と事業と生活」を守るためにはあらゆる手段を尽くすとの意思表示である。
 金融緩和とは、極めてシンプルにいってしまうと、「人工的にカネ余り状態を作り経済を浮揚させる」ことだ。このため、極論をいってしまえば、日米欧が大規模な金融緩和策を採っている限り、おカネはジャブジャブ状態にあり、国際金融市場は悪くなりようがないということだ。
 各国の中央銀行から、おカネが際限なく供給されているわけであり、水の流れと同じように、おカネは必ずどこかに流れ着く。本来は銀行貸し出しなどを通じて設備投資や運転資金に回り、経済や雇用の活性化につながるのがベストではあるが、そこから余り溢れたおカネは、余剰資金として、株式市場や不動産市場に流れることになる。
 金融緩和策とは、言い換えれば低金利政策であり、今はゼロ金利政策やマイナス金利政策が日米欧でとられている。このため、余剰資金を定期預金や国債など債券に預けても、雀の涙ほどの利息にしかならないどころか、マイナス金利の預金のように、逆に金利を払ったり、手数料を払ったりする必要がある場合もあるほどだ。だから、少しでも高い利回りを求めて世界中のおカネが動くことになる。とはいえ、ハイリスク・ハイリターンはご免だ。せいぜいミドルリスク・ミドルリターンを狙いたい、ということで、日米欧といった先進国の株式市場や不動産におカネが日々流れ込んでいるのだ。途上国よりも先進国の株式、過疎地より都市部や高級リゾートの不動産という選択となり、その流れのなかにニセコも含まれている。それがコロナ禍下で、実体経済はダメながら金融市場は活況であるからくりだ。

 なるほどねえ。コロナ禍で株価がすごく高くなってたのをふしぎにおもってたけど、こういうからくりか。みんなが困っている時代でも(そんな時代だからこそ)お金が余って余ってしかたない人がいるんだなあ。




 札幌市が開催地として手を挙げている冬季オリンピックについて。
  2020年1月、日本オリンピック委員会(JOC)により、札幌市が2030年冬季オリンピック・パラリンピックの開催地に立候補することが正式に決まった。札幌の計画には輪のマラソン会場を受け新設の競技会場は一つもなく既存施設を活用すること、東京夏季五輪のマラソン会場を受け入れたことなどもあり、IOCの評価も高いとされている。
 もし開催されれば、1972年以来となる札幌五輪のアルペンスキーの会場候補地には、富良野など並み居る競合地を抑え、ニセコが挙がっている。4種あるアルペン競技の中で、滑降とスーパー大回転は湯の沢地区(ニセコビレッジスキー場とニセコアンヌプリ国際スキー場の間)に新コースを造る方向で検討、大回転と回転はニセコビレッジスキー場の既存コースを活用するという。ニセコビレッジでは、今後リフトやゴンドラ増設などが検討されることになる。
 なお、札幌では、サッポロテイネスキー場、札幌国際スキー場などが、フリースタイルやスノーボードの会場として計画されている。大会開催に伴う経済波及効果は、北海道内で約8850億円、雇用誘発数は同じく北海道内で約7万人と試算されている。
 ニセコでの五輪競技開催は、ニセコの地を、欧州や北米など海外スキーヤーや富裕層に、強くPRすることになる。2030年は北海道新幹線が札幌まで延伸され、ニセコに新駅が誕生する年でもある。五輪と新幹線の効果で、北海道、札幌、そしてニセコの活性化とブランド力の更なる向上につながることになろう。

 なるほどなあ。一般市民の反対の声が強くても、東京五輪が汚職まみれになっても、それでも開催したいのはそれだけ儲かる人がいるからなんだなあ。


 小林一三(阪急電鉄の創設者)は、鉄道路線を敷くと同時にその周辺に百貨店・遊園地・劇場などをつくり、鉄道の利便性を高め、施設利用者を増やし、地価を上げるという相乗効果を生みだした。

 この手法は他の会社でも踏襲され、鉄道会社が不動産開発をしたり、商業施設をつくったり、新聞社がスポーツ大会を開催したりした。

「イベントが開催されることによって儲かる会社が、自ら金を出してイベントを主催する」という手法だ。

 ところが今はあまりそういう会社はない。

「政党に献金をして税金をたんまり使ってイベントを開催させ、それによって甘い汁だけ吸う」というやり方にシフトしている。

 オリンピックや万博のまわりに群がっている連中だ。万博なんて「営業黒字になるかも!」とかわけわからんこと言ってるけど、あれ、用地費用とか建設費用はすべて税金だからゼロ円計算だからね。何千億という税金をもらって「やったー黒字だ!」って言ってるんだよ。黒字にならなきゃおかしいでしょ。


 ニセコのリゾート開発がうまくっているならけっこう。ぜひその調子で税金でアホなイベントを開催せずにがんばってもらいたい。


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2025年8月6日水曜日

変な名前に対する処世術

 六歳の娘が「こどもが生まれたらどんな名前をつけるか考えた」と言う。


「へーどんなの」

  「女の子だったら、かりん」

「へー。かりんちゃんかー。かわいい名前だね」

  「でしょ? で、男の子だったら、さいかわ!」

「さ、さいかわ……?」

  「そう!さいかわ!」

「(苗字みたい……)へー、えーっと、とってもめずらしい名前だねー」

  「でしょ!」

 そして娘は、母親のところへ走っていき、「ねえ聞いて、こどもが生まれたらどんな名前にするか考えた! めずらしい名前!」とうれしそうに語っていた。

 どうやらぼくの言った「めずらしい名前」という感想が気に入ったらしい。


 だが娘よ。

 君はまだ人生経験が浅いから知らないだろうが、おとうさんの言った「めずらしい名前だね」は褒め言葉じゃないぞ!

 悪いとは言えず、かといって良いとも言いたくないときに使う苦しまぎれの感想だ!

 おとうさんは、知人からこどもの名前を聞いて「変な名前」とおもったときは「へーめずらしいですねー」とか「クラスの誰ともかぶらなさそうですよね」とかで切り抜けてるぞ!

 変な名前をつけるやつは「唯一無二な名前であること」に異常に誇りを持っているから、そんな感想でもけっこう「そうなんですよー☆」と喜ばれるぞ!

 おぼえとくといいぞ!



2025年8月5日火曜日

ウナギとドジョウとヒトの呼吸

 ウナギはエラ呼吸だけでなく、皮膚呼吸もできるのだそうだ。だから泥の中でも動ける。落語で「ウナギをつかもうとしたらぬるりとすべって逃げるのでひたすら追いかけて、知り合いから『どこまで行くんだ』と言われたので『ウナギに訊いてくれ』と言った男」が出てくるが、あれもウナギが皮膚呼吸をできるから成り立つ噺なのだ。


 一方、ドジョウは腸呼吸ができるそうだ。口から息を吸い、腸から酸素を吸収。二酸化炭素は肛門から排出するのだそうだ。そのとき出た空気はドジョウのおならとも呼ばれるそうだ。

 このシステムはなかなかいいんじゃないだろうか。ヒトをはじめとする多くの陸上生物は、口にいろんな仕事を担わせすぎだ。噛みつく、咀嚼する、食べる、飲む、息を吸う、息を吐く。「息を吐く」だけでも他の器官が担当すれば、口の負担はずいぶん減るんじゃないだろうか。それに吸うのと吐くのが同じなんて効率が悪い。「吸いながら吐く」ができないじゃないか。掃除機だってエアコンだって換気扇だって吸うとこと吐きだすところは別口だ。

 ヒトも腸呼吸ならよかったのに。そしたらずっと肛門から空気が出ているわけだからおならも恥ずかしくないのに。でも痔になったりしたらずっと音が鳴っててそれはそれで恥ずかしいだろうな。



2025年8月4日月曜日

【読書感想文】畑 正憲『ムツゴロウの獣医修業』 / 医者はだめでもともと

ムツゴロウの獣医修業

畑 正憲

内容(文藝春秋BOOKSより)
ホモの豚、カゼ引きのキツネ、虫歯と痔に悩む犬、ペニスを骨折した牛等々、難病奇病でテンヤワンヤの動物王国。名獣医をめざすムツゴロウ氏と動物たちとの間のお色気ムード。

 1980年刊行。50年近く前ということで、あらすじの文章ですらかなり強烈。もちろん中身はこれ以上。ほとんど下ネタである(といっても動物の性行為とか性器とかの話だが)。


 畑正憲氏(通称ムツゴロウさん)といえばテレビでの変人のイメージが強いとおもうが、本業は作家である。ぼくは中学生のときに畑正憲氏のエッセイにはまり、古本屋をまわって数十冊のエッセイのほとんどを蒐集していた。畑正憲氏はすごく賢くてすごく行動力があってすごく変な人なので、エッセイも抜群におもしろい(小説はイマイチだが)。現在ではほとんど入手困難なのが惜しい。

 ひさしぶりに古本屋で氏の本を見かけ、なつかしかったのと、『獣医修業』はたぶん読んだことがなかったので(似たようなタイトルが多いので自信はない)、数十年ぶりに氏のエッセイを読んでいた。

 うん、今も変わらずおもしろい。というか、こういうヘンな文章を書く人が他にいないんだよな。鳥類学者の川上和人さんとか昆虫学者の前野ウルド浩太郎さんとか鳥類学者の松原始さんとかがそれに近いかな。動物を研究している人に特有の文章があるのか?

 でも畑正憲氏の博学で精力的で淫靡で嘘か誠かわからない文章はやっぱり他に類がない。どこまでほんとかどこからホラ話かわからない文章は、今の時代だと書かせてもらえないのかな。



 

 犬の交尾を手伝っている獣医の話。

「染色体だとか遺伝子だとか、難しいことはわかりませんがね、犬が年々下手になっていっているのは、これはもう疑いようのない事実ですよ。月末に収支をしめてみますとね、助手料が着実に増えています。この助手料というのは、つまり、交配の際の犬の押え役であるわけです」
「物理的に好き嫌いを超越させるわけですね。今度、私にもやらせて下さい」
「ああどうぞ。しかしですね、獣医というのが犬同士の結びの神であるわけでして、本来は必要でないところへシャシャリでているわけでしょう。要らぬことをやるので、犬どもが下手になっていくと思えるし、だとしたら犬に悪い影響を与えているのは獣医だと言えるし、これで、なかなか複雑な思いをさせられています」
 童貞の犬と十分に発情したメス犬を広い囲いの中に入れると見ものである。オスの方は次第に落着かなくなり、メスの上に乗ろうとする。しかしメスは、そう簡単に許さないので、童貞夫は身をよじって、サービスにこれつとめる。
 首筋を咬む。体をこすりつける。食物をゆずる。前にまわって口を開け、必死で相手の関心をひこうとする。
 要するにサービス精神のかたまりとなり、メスのしもべと化すのである。その有様を先生はこう表現した。
「まったく何か至上のもの、この世で一番の快楽がすぐそこにあるぞと自然が犬に吹込み、犬は食事も要らぬ、プライドも要らぬと張切っているのだけれど、さてどうしていいかわからない。それで、ひたすらメスにつきまとい、機嫌を取り結んでいるみたいですな」
 と、私は相づちを打って、
「かわいいとも言えるし、じっと見ているとアメリカの男性を連想しませんか」
「そうですね。あの似非ヒューマニズム、レディファーストの習慣は童貞犬のものですなあ」
「もし犬が煙草を吸うとしたら、ライターをパチリとつけるのはオスの役目ですね」

 酒の席の会話のようなくだらない会話だ。でもくだらなさの中にも知性が漂う。だけどいいかげん。

 最近、こういう「賢いのにちゃらんぽらんな文章を書く人」が減ったよなあ。北杜夫、遠藤周作の系譜。



 

 この本に書かれているのは、畑正憲氏が北海道の広大な土地で数多くの動物を飼いはじめた時期のことである。多くの動物がいれば怪我もするし病気にもなる。そんな中で、駆け出し獣医として奮闘している。

 ちなみに氏は免許を持つ獣医ではない。

 獣医師法第十七条には「獣医師でなければ、飼育動物(牛、馬、めん羊、山羊、豚、犬、猫、鶏、うずらその他獣医師が診療を行う必要があるものとして政令で定めるものに限る。)の診療を業務としてはならない。」とあるが、あくまで「業務としてはならない」なので、自分の飼っている動物を治療したり、知人の動物を無報酬で診療したりするのは獣医師法違反ではないようだ。そのへんは人間の医者とはちがう(人間の場合は無報酬でも医師でない者が医療行為をしてはいけない)。

 虫歯が一本や二本ならば、何とでもする自信が私にはあった。
 ロボットの腕みたいな歯医者のドリルは、私も一台持っている。先がとがったドリルや平たいヤスリをつけ、かつては幾多の手術に活用したものだ。
 特に便利だった点は、出血する部位の骨を削る場合などに、ごく僅かずつ作業を進め得ることだった。カエルやナマズの脳下垂体除去手術、カメ類の手術にも有用だった。
 なに、歯だって似たようなものだろう。人と違って全身麻酔を施してあるのだから、手早く削って悪い部分を除き、充填剤を注入すればよい。
 この充填剤も、私はしばしば活用している。二剤にわかれているものをガラス板の上で混ぜると、後の作業を急がねば固化してしまう速乾性が気に入って、ズガイ骨に穴を開ける手術などを行なった際には、ちょいと借用しているのである。
 動物学者はさまざまな手技を獲得しなければやっていけないのである。この私でさえ、センバンからガラス細工、七面倒くさいアンプの組立て並びに設計、バキュームカーの運転並びに汲取作業、処女の鑑定から発情の検定まで、一応の技術は身につけている。
 私は自分で再手術をすることにした。
 薬品類を調べると非バルビタール系の麻酔剤や、全身麻酔の薬が取揃えてあった。それを使って開いてみた。
「あれ、何だいこれは」
 皮を切って私はうろたえた。何が何だか分らないのである。
 赤い肉がごちゃごちゃと重なり、膿らしきものは見当らない。しかも、筋肉の所在が明瞭でないし、あまり深く切ると、腸を傷つけるのではないかと不安になった。私は途方に暮れ、
「おい。どうしよう」
「そう訊かれたって困りますよ。執刀医はムツさんだから、どうするのか自分で決めて貰わなければ」
 助手はてんで冷たいのである。私は、切口を引っ張ったりつねったりしてみたが、結論らしきものは出なかった。
「えい、思い切って!」
 メスを一閃、ズバリと切ってみた。分らなければ、分るようにしなければならぬ。手掛けた以上、原因をつきとめてやるのが情というものだ。傷口が三十センチになった。
 すると、見慣れた懐しい腹壁が現れたのである。胸のすぐ下で、腹直筋と外腹斜筋が見分けられた。とすれば、わけの分らぬ代物は、皮膚と腹壁の間に存在しているのだ。そこまで調べて私はやっと件の代物が腫瘍であろうと見当をつけた。
「大丈夫ですか」
「なるほど。おぼろげながら正体がつかめたぞ。こんなものを腹に入れていいわけがないから、ながら正体がつかめたぞ。こんなものを腹に入れていい切除してしまおう」
「なあに、腹壁の上ならことは簡単だよ」
 腫瘍が悪性のものであるのか良性であるのか、判別するのは容易ではない。私に出来るのは、止血しながら切ってしまうことだけである。
 切除には三時間かかった。傷が古く、治っては口が開き、閉じては開きしたものらしく、どうに惨憺たる有様だった。こぶしを三つ並べたほどもある肉塊を切出して開いてみたら、管状になった腫瘍が三つ複合し、ねじれ合って一つになっていた。
 切ってしまうと犬は元気になった。お腹がペソリとしてスマートになって、食もすすむようになった。素人の治療でもたまには功を奏すこともあるようだ。

 ずいぶん悪戦苦闘、試行錯誤している様子が伝わってくる。


 ほんの百数十年前までは人間の医療もこんな感じだったんだろうな。

 よくわかんないけど切ってみる。なんだかわからないけど悪そうなものがあるから切り取ってみる。切ったらうまくいったから次回もそうする。切ったら死んじゃったから次はもうやめとく。医療ってその歴史の大部分は「勘でやってみる。だめでもともと」で成り立っていたんだろう。

 でも今はそんなやりかたをとるわけにはいかない。人間相手なら当然、動物相手でも、世間的に許されないんじゃないだろうか。たとえ法的にはOKでも。

 畑正憲氏は、見よう見まね、試行錯誤、実践あるのみ、だめでもともと、というやり方で医者ができた最後の人かもしれない。


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ファストパスはイヤだ

 ファストパスってあるじゃない。テーマパークで、高い金を出してファストパスを買った人は並ばずに優先的にアトラクションを体験できますよってやつ。

 あれ、いやだよねえ。

 最初に行っておくと、ぼくはディズニーランドにもUSJにも行かない。最後にディズニーランドに行ったのは2歳のときだし(もちろんまったくおぼえていない)、USJには会社のイベントで業務として行っただけだ。


 なので想像でしかないのだが、ファストパスはイヤだ。

「金の力で順番を抜かされる」のはもちろんイヤだし、逆に「金の力で順番を抜かす」のもイヤだ。ズルしてるようで後ろめたい。

 そもそもああいう場所で金のことを考えたくない。持たざる側に立つのも持ってる側に立つのもどっちもイヤだ。

 ぼくが好きなテーマパークは大阪のスパワールドなのだが(ただし夏場を除く)、あそこは水着が裸で移動するので「リストバンドでツケ払いをして帰るときに精算」というシステムをとっている。これは中でお金のことを考える必要がないのでたいへん気分がいい。


 ファストパスを売って売上を増やしたいという施設側の思惑もわかるのだが、それって短期的には収益上がっても長期的に見たらライトユーザーの印象を下げることにつながってマイナスなんじゃねえの? ともおもう。

 ぼくの意見としては、もっと収益を増やしたいんだったら入場料を上げてくれたほうがいい。そしたら入場者数は減るかもしれないけどその分待ち時間が減って居心地は良くなる。「行かない人」と「行って満足する人」に分かれるのが理想だ。前者はテーマパークを味わえないけど、時間も金も失っていないのでがっかり感は少ない。

 ファストパス制度は「行かない人」と「行って満足する人」の他に「行ったけど満足できない人」を生みだしてしまう。お金も時間も使ったのにあんまり楽しめなかったね、の人だ。これは最悪だ。行って楽しめないぐらいなら行けないほうがずっとマシだ。


 ファストパスじゃないけど、以前某テーマパークに行ったときの印象が最悪だった。とにかく従業員が足りていない。客は長蛇の列をつくっているのに従業員が少なすぎてまったくさばけていない。「乗物に誰も乗っていないのに、説明をする従業員がいなさすぎて乗れない」という状況だった。人が多くて乗れないのよりも腹が立つ。並んでいる人たちはみんなイライラしていた。ぼくも二度と行くもんか、とおもった。

 従業員がいないのはしゃあない。でも、対応できないならいっそ「今日はこのアトラクションは中止します!」とやってくれたほうがいい。遊べないとわかっていれば他のプランを考えられるのだから。


 今の時代、どれだけチケットが売れているか、どれぐらい客が来たらどれぐらい待つことになるかなんてリアルタイムですぐわかるはず。もっと賢いやり方があるはず。

 行くなら、「チケットは確実に買えるけどぜんぜん楽しくないテーマパーク」よりも「(枚数的、金額的に)なかなかチケットを買えないけど行ったら楽しいテーマパーク」だ。

 これから働き手は減っていく一方。海外からの旅行客は増えていて、あちこちで「需要はあるけど供給が追いつかず長時間待たせる」ことが増えてくるにちがいない。

 そろそろ旧来の「とにかくたくさんの人に来てもらう」やり方を捨てて、来てもらう人を絞って満足度を高めるほうに舵を切ってもらえないだろうか。単価を上げて同程度の売上を確保するやりかたもあるんじゃないかとおもうのだが。


 ま、ディズニーランドにもUSJにも行かないぼくにはほとんど関係のない話なのだが。

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