2026年6月15日月曜日

【読書感想文】鈴木 俊貴『僕には鳥の言葉がわかる』 / 情熱的で醒めた視点を持つ研究者

僕には鳥の言葉がわかる

鈴木 俊貴

内容(e-honより)
古代ギリシャ時代から現代まで、言葉を持つのは人間だけだと決めつけられてきた。しかし、シジュウカラたちは、それが間違いであることを教えてくれた。人間には人間の言葉があるように、鳥には鳥の言葉がある。シジュウカラは言葉を使って文を作る。世界を驚かせた研究者が綴る、大発見に至るまでの鳥愛あふれる研究の日々。


 少し前に、アリク・カーシェンバウム『まじめに動物の言語を考えてみた』という本を読んだ(→ 感想)。

 動物が音声を使って様々なコミュニケーションをとっていることを認めた上で、「とはいえ他の動物たちは人間の言葉に翻訳できるような言葉は持っていなさそうだ」といった論調だった(誤解を招きそうなので補足しておくと、人間が他の動物たちに比べて優れているとは書いていない。ただ異なると書いているだけだ)。


 それを読んだ後だったので、この『僕には鳥の言葉がわかる』というタイトルを見たときは「正確性を欠くタイトルだな。研究者としての知的誠実さが足りないのでは」と思っていた。

 そして読んでみた。

 いや、「鳥の言葉がわかる」という言葉は決して大げさじゃないな! もちろん「鳥の言葉を一対一で人間の言葉に翻訳できる」という意味ではないが、鳥の言葉を“わかる”ことは可能かもしれない。この場合の“わかる”とは、“理解する”というよりは“感じる”に近いけど……。



 シジュウカラのヒナが、親鳥の鳴き声によって異なる反応を見せることについて。

 夢中で観察しているといろいろなことに気がつくが、もっとも印象に残ったことはヒナの聞く耳の発達だ。この時期のヒナは、巣箱の外から聞こえてくる親鳥の声にも敏感に耳を傾けて、応じているようだった。
 たとえば、父親が近くで「ツツピーツツピー」とさえずると、「はやく餌を持ってきて」と言わんばかりに「ビビビ!」と激しく声を出す。すると、親も急いで巣箱の中に餌を運び入れるのだ。周囲から聞こえる様々な鳥の声のうち、自分の父親の声を覚えて、それにだけ餌を求めて鳴くのかもしれない。一体どうやって覚えたんだろうと不思議に思う。
 ある日、いつものようにカメラをつけて巣箱を観察していると、ハシブトガラスが近くの木までやってきた。ヒナは相変わらず「ビビビ!」と鳴いて、親に餌を求めている。「このままではマズいかも」と思った瞬間、「ピーツピ!」という親鳥の声が森に響いた。
 カラスに警戒して鳴いているのは明らかだ。この声は、人間やネコなど、他の動物が巣箱に近づいた時にもよく出すので、「警戒しろ!」という意味だろう。
 それと同時に、あることにも気がついた。先ほどまで騒がしかったヒナの声が聞こえないのだ。モニターで巣箱の中を確認すると、ヒナたちはググッとうずくまって静まり返っている。「そうか! ヒナは親鳥の声に対して静まることで、カラスに巣の場所を特定されないようにしてるんだ。それだけではない。もし、カラスが巣箱に気づいて嘴を突っ込んできたとしても、うずくまってさえいれば、つまみ出されずに済むだろう! なんて賢い方法なんだ」と僕は思った。
 親鳥はカラスがその場を去るまで警戒の声を出し続けた。そして、ヒナたちもずっとうずくまったまま、ひと声も発さず静かにしていた。

 ヒナたちは親鳥が近づくと餌をねだる声を出すが、親鳥が警戒音を出すと、鳴くのを辞めて巣の中でうずくまるという。

「じっとしろ!」というメッセージを伝えることに成功しているので、これは言語といってもいいのではないだろうか。最も人間が使う「じっとしろ!」とはまったく同じではないけれど。

 人間の「じっとしろ!」は敵に見つかりそうなときも、逆に獲物に気づかれないようにするときにも、朝礼で落ち着きのない生徒を叱るときにも使えるが、おそらくシジュウカラの「ピーツピ!」にそこまでの汎用性はない(どっちが優れているということはない)。



 カラスが巣に接近したときには「ピーツピ!」と鳴くシジュウカラは、ヘビが接近したときには「ジャージャー」という声で鳴く。

 そして「ピーツピ!」を聞いたヒナは、カラスから身を守るために巣の中でじっとするのに対し、「ジャージャー」を聞くと親鳥は地面を見下ろす。さらにヒナは巣箱から飛び立つ。

「ピーツピ!」のときは対カラスの行動(カラスが巣箱にクチバシを突っ込んでもつつかれないようにうずくまる)を取るのに対し、「ジャージャー」のときは対ヘビの行動(飛んで逃げる)をおこなう。異なる刺激に対して異なる音を出し、異なる音に対して異なる行動をアウトプットする。これは……言語だ。

 さらに著者は、枝に紐をつけて動かす実験をすることで、「ジャージャー」を聞いた後ではシジュウカラが枝をヘビと見間違うのに対し、音がない場合は見間違えないことを確かめる。

 そして二〇一七年五月、ようやく僕はすべての実験を終えた。気がつくと、実験を始めてから四年の月日が流れていた。結果はとてもクリアなものだった。八十四羽のシジュウカラからデータを得たが、本当予想通りの結果が得られた。
 ここまできて、ようやくシジュウカラの鳴き声にも“言葉”があると証明できた。「ジャージャー」という声を聞いたシジュウカラは、頭にヘビのイメージを思い描き、それを用いて視界の中からヘビのようなものを探す。だから、ヘビのような動きをする枝を、ヘビと見間違えて確認してしまうのだ。つまり、「ジャージャー」はヘビを示す"名詞"のようなものだといえる。
 これはすごい発見である! それまでにも、多くの動物学者がベルベットモンキーやミーアキャット、プレーリードッグ、ハンドウイルカなどの鳴き声を調べてきた。しかし、ある鳴き声が内的な感情ではなく、外的な対象物を指示し、聞き手にそのイメージを想起させることを明らかにした例は一つもなかった。僕の研究が、初めてそれを証明したのである。

 このあたりの実験の設計がすごくうまくて、実験の詳細を見ているだけでわくわくする。


 もしぼくが研究者だったら「カラスとヘビが近づいた時では異なる声を出して、異なる反応を見せる」と気づいた時点で「シジュウカラは敵によって言語を使い分けてる! まちがいない! やったぜ、オレすげー!」と発表しちゃうとおもうんだけど、鈴木俊貴さんはそこから数々の反論を想定して、その反論に負けないための実験をデザインしている。これがプロの研究者かー。

 研究者というと好きなことに対してまっしぐらな人、というイメージだけど、一流の研究者は情熱だけでなく醒めた視点も併せ持っているんだな。



 シジュウカラの“言語”はシジュウカラだけでなく、他の鳥も理解できるらしい。

 シジュウカラの鳴き声を聞いて他種の鳥が逃げたり、逆に他種の鳥の鳴き声を聞いてシジュウカラが警戒を強めたり。多種多様な鳥が協力して警戒に当たったほうが天敵から逃れる確率は上がるからだ。

 さらにそれを逆手にとって他の鳥を騙すことさえするというから驚きだ。

 たとえば、シジュウカラがタカを見つけて「ヒヒヒ」と鳴けば周りにいるコガラやヤマガラは一斉に藪に逃げ入るし、餌を見つけて「ヂヂヂヂ」と鳴けば、次から次へと集まってくる。反対に、シジュウカラもコガラやヤマガラの言葉を理解できる。森の中の小鳥たちは、周りに棲んでいるいくつもの鳥の言葉の意味を学習し、天敵から身を守ったり、食べ物を見つけるために役立てているのである。バイリンガルどころではない。“鳥リンガル”だ。
 たまに嘘をつくことだってある。たとえば、シジュウカラは、自分より体の大きなヤマガラやゴジュウカラが餌場を独占していると、「ヒヒヒ」とタカが来た時の声で警報を出すことがある。実は空にタカなんていないのに、そう鳴くのだ。すると、大きな鳥はまんまと騙され、藪に逃げ入る。その隙にシジュウカラは餌をゲットできるというわけだ。僕もしょっちゅう騙されるが、騙し騙される関係も、他種の言葉がわかるからこそ成り立つものだ。

 人間のように「嘘の情報を流して追い払ってやろう」と考えているわけではないだろうが、結果的には誤情報によって他個体の行動を操作しているわけでから、“嘘をつく”といっても大きな間違いではあるまい。


「鳥の言葉」と言ってしまうと誤解を招くかもしれないけれど、シジュウカラなどの鳥が部分的には人間と同等、あるいはそれ以上に高度なコミュニケーションをとっていることは間違いなさそうだ。

 研究内容もおもしろいし、文章も親しみやすいし、選んでいるトピックスもほどよく初心者向け、ほどよく専門的で、すごくよくできた本でした。


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小ネタ51(かけ算の順序 / コンビ名 / 効率)

かけ算の順序

「かけ算は(かけられる数)×(かける数)の順序でなければならない」という順番気にしいや派(シーヤ派、転じてシーア派)と「いや順番が逆でも数学的に問題はない」の順番気にすんな派(スンナ派、転じてスンニ派)の抗争は収まることがなく、すでに争いは泥沼化している。

 問題文にいちいち「※ただし、かけられる数を先に書くこと」と注釈をつければ一応両方の顔は立つが、それでも「何をかけられる数とするか」という抗争が生まれるだけだろう(4人にりんごを3個ずつ配る場合、3個/人×4人としてもいいし、4個/周×3周と考えることもできる)。

 戦争は始めるよりも終わらせるほうがはるかにむずかしい。


コンビ名

 個人的に好きなコンビ名のひとつが“メイプル超合金”だ。

 ただ単語を並べただけのように見えるが、コンビのそれぞれを見てみると、ちゃんとメイプル(シロップ)を好きそうな人と超合金を好きそうな人だ。どっちがメイプルでどっちが超合金だとおもう? と訊いたら、99%の人の答えは一致するだろう。


効率

「ダイエットしようとウォーキングをすることにした。数ヶ月やったけどぜんぜん痩せない。ウォーキングは効率が悪い」と書いている人がいた。

 それって効率が悪いんじゃなくて「エネルギー効率がいい」じゃないかと思った。時間あたりのエネルギー消費量が少ないのだから燃費がいい。

 ダイエットとしては効率が悪いけど、エネルギーの観点では効率がいい。

 お金がありあまっていてなんとかして使い果たしたい人からすると「読書は(浪費する上で)不経済だ。ギャンブルは短い時間でたくさん使うことができるから(浪費する上で)経済的だ」ということになる。



2026年6月12日金曜日

【読書感想文】岸本 佐知子『あれは何だったんだろう』 / 私の中に住んでいるホームレスのおじさん

あれは何だったんだろう

岸本 佐知子

内容(e-honより)
日常は不思議、不思議が日常。虚実のへだてを乗り越えてどこにも行かずにどこまでも行く。翻訳家のささやかな大冒険はつづく。お待ちかね、『ねにもつタイプ』第四弾!

 ぼくがいちばんおもしろいと思っているエッセイの書き手(本業は翻訳家)による待望の新作。


 第四弾だが岸本さんのエッセイのおもしろさはちっとも鈍っていない。むしろ円熟味を増している。

 ○月○日
 AさんからのメールをBさんに転送しようとして、間違ってAさんに返信してしまうというヘマをする。しかも「こんなの来たけど、どうする?」というコメントつきで。「穴があったら入りたいです」とAさんに詫びのメールをしてしばらくしてから、だんだんとその穴のことが気になりだす。
 それってどんな穴だろう。人ひとりが中でうずくまれるぐらいとなると、やはり直径七十センチ、深さ一メートルぐらいは必要だろうか。
 蓋もあったほうがいい気がする。外光を遮断したほうが反省の機運が高まるし、人が落ちたりしたら危険だ。
 内部の材質とかも気になる。冬はフリース素材にしてあたたかく、夏は通気性よくさらりとした麻素材。
 そうなってくると、意外と居心地がいいんじゃないか、この穴。
 ましてや穴を出れば、そこは自分がしでかしたヘマの恥が待ち受ける元の世界なのだ。自分だったらそのまま穴に住みつくだろう。
 そう考える人は他にもいて、穴人口はどんどん増えていく。だんだん穴と穴がつながって人の行き来がはじまり、経済が生まれ、地下に巨大な穴帝国ができあがり、ついには穴世界の人口が外の世界のそれを凌駕する日がやってくる。そのとき世界は。
 などと考えているうちに年が明ける。

 これぞ岸本佐知子氏エッセイ(エッセイか?)の真骨頂。

 身辺雑記からいつの間にか空想の世界に連れていかれ、空想が空想を呼び、空想世界に秩序が生まれる。あんなに狭い入口だったのにこんなに広い世界につながっているなんて。

 岸本さんのエッセイを読むたびに、エッセイってこんなに自由なものだったのかと感心する。



 めずらしく(?)翻訳家ならではの話も。

 May you grow like an Onion with your head in the ground ! (お前が頭を地面にめりこませて、タマネギみたいに逆さに生えますように!)
 調べてみたら、これはイディッシュ語の有名なののしり文句で、一言でいえば「くたばれ」となるところを、わざわざこういう回りくどい、ちょっと笑える言い方をしているところがいかにもユダヤ流だ。
 さらにもっと調べてみると、イディッシュ語はどうやらこの手のののしりフレーズの宝庫であるらしく、
――お前の歯が一本だけ残して全部抜けますように、そしてその一本が虫歯になりますように!
――お前がうんと金持ちになって、お前の寡婦の新しい夫が一日も働かなくて済みますように!
――お前が百軒の家を持ち、その一軒ごとに百の部屋があり、その部屋ごとに二十の寝台があり、お前が高熱に苦しんでその寝台を転々としますように!
――お前が百足になって、全部の足が巻き爪になりますように!
――お前が悠々自適の身分になって毎日昼寝をしているあいだに、お前のシャツのシラミとマットレスのトコジラミが結婚して、子々孫々がお前のパンツの中で繁栄しますように!
などの古典から、新しいところでは
――お前が億万長者になること間違いなしの素晴らしい企画書を書きあげた瞬間にパソコンがクラッシュしますように!
 みたいなのまで、枚挙に暇がない。
 英語にも、たとえば May you step on a Lego bare foot ! (お前が裸足でレゴ踏んづけますように!)のようなのがあるが、じゃあ日本語はどうなんだろう。「タンスの角に小指ぶつけろ」ぐらいか。でも足りない。「死ね」とか「くたばれ」とか「ぶっ殺す」みたいな直截的で殺伐としたのじゃない、皮肉で辛辣なんだけれどどこか可愛くて、それゆえに決定的な殺し合いは回避できる、そんな今の日本に何より必要なはずのののしりフレーズが、圧倒的に足りない。
 私か。私が考えるしかないのか。

 ただの罵り言葉ではなく、一度祝福の言葉をかけてから呪ったりするのがウィットに富んでいておもしろい。

「お前がうんと金持ちになって、お前の寡婦の新しい夫が一日も働かなくて済みますように!」なんて、一瞬悪口を言われたと気づかないもんな。そのときは「ああどうも」なんて言って、後から「よくよく考えたらめちゃくちゃひどい言葉ぶつけられてるじゃねえか」と気づくやつだ。

 日本語の定番の言い回しだと「豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ」が近いかな。でも「死ね」って言っちゃってるしなー。



 わりと共感できる話。

 今年もまた冬が来た。
 冬は嫌いだ。寒いからだ。
 冬は寒いというその事実を、何年たっても受け入れることができない。
 ときおり、冷え込みのきびしい日にやむを得ず外に出なければならないことがある。地面からしんしんと冷気が上がってきて、頭皮、顔、手、外気に触れているすべてが冷たい。そんなとき、体のどこかから声がする。
〈ああ、これではこの冬はとても越せん〉
 私の声ではない。初老の、しわがれた、男の声。私の中に住んでいるホームレスのおじさんの声だ。
 いつごろから住み着いたのかはわからない。もうかれこれ二十年にはなると思う。この人のせいで、私はつねにホームレス目線で世界を見てしまう。
 街を歩いていても、植え込みや、ビルとビルの隙間や、駅構内のちょっと奥まったスペースなどに自然と目が行く。
〈あそこなんか、風が防げて暖かそうだな〉
〈おっ、あの段ボール、いい具合に厚みがあるぞ〉
 寒い外から家の中に入ると、
〈ああ、ありがてえありがてえ、屋根があるってのはいいもんだ〉
 このおじさんは極度の寒がりであるらしく、現れるのはもっぱら冬だ。温かくなるとぱったり声が聞こえなくなり、そうするとちょっと寂しい。

 これはぼくもけっこう考える。街を歩きながら、自分がホームレスだったら、野宿をするなら、どこに寝るだろうかと考える。地下街とかにちょっとした隙間を見つけると「おお、ここなら安心して寝られそうだな。あとはどうやって警備員の巡回をやりすごすかだよな……」とか考えてしまう。

 他にもこんなこと考えてる人いたのかー。もしかしてわりとポピュラーな妄想なのかな。



 アピヨンポンポンについて。

 年とともにだんだんと、「アピヨンポンポン」は私ひとりが知らない、そしてそのためにいろんな場面で人生に不具合を起こさせるものの象徴のようになっていった。親しい友人たちの会合に一人だけ呼ばれなくなったのはアピヨンポンポン。私が気に入った商品が必ず廃番になるのはアピヨンポンポン。いくら考えてもわからない、この英文もアピヨンポンポン。
 自分には永遠に謎の、それゆえに美しいものの代名詞のようにそれを使うことさえある。あの映画はアピヨンポンポンみたいに良かったな、とか、この料理はアピヨンポンポンの味がする、とか。

 アピヨンポンポンが何なのか、それはぜひこの本でお確かめください。


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【読書感想文】山本 健人『すばらしい人体 あなたの体をめぐる知的冒険』 / 血液型は知っていてもしょうがない

すばらしい人体

あなたの体をめぐる知的冒険

山本 健人

内容(e-honより)
外科医が語る驚くべき人体のしくみ。唾液はどこから出ているのか?、目の動きをコントロールする不思議な力、人が死ぬ最大の要因、おならは何でできているか?、「深部感覚」はすごい…ブログ累計1000万PV超、Twitterフォロワー8万人超著者による人体&医学入門。

 医師による医学入門書。

 第1章は人体の雑学、第2章は病気になる理由、第3章は医学の歴史でこのへんはちょっと教科書っぽい。第4章は医療雑学で、第5章は現代医学の紹介。

 冒頭におもしろ雑学を持ってきてツカみ、中盤はちょっと堅めの話で、飽きてきたころに血液型や食中毒など身近な話。 で、最後はまた雑学的な話。構成がうまい。


 語り口も見事で、
「肛門はやってきた物体が固体か液体か気体かを判断して気体のときのみ通すというすごい判断をやっている」
なんてちょっとビロウな話で、とっつきにくさを感じさせない。さすがネットで人気になっている(ぼくは知らなかったけど)人だね。



 食物アレルギーについて。

 なぜ、経口免疫寛容がうまく働かなくなるのだろうか? 何がきっかけで、本来無害な相手を敵と見なすようになるのだろうか?
 その原因として、近年は「経皮感作」という現象が明らかになっている。
 昔から、アトピー性皮膚炎のある子どもは食物アレルギーを起こしやすい、という事実はよく知られていた。以前は、いわゆる「アレルギー体質(素因)」によるものと考えられていた。だが近年は、バリア機能が破綻した皮膚で、経皮感作が起こりやすいことが原因だと考えられるようになった。
 つまり、私たちの免疫は、どうやら「口から入ったもの」には寛容になり、「皮膚のバリアを突破して侵入したもの」は異物と見なすようなのだ。そして食物アレルギーは、周囲の環境にある食べものが、皮膚を通して「異物」という記憶を植えつけてしまうことで起こると考えられている。
 まだ謎の多い食物アレルギーだが、研究が進むにつれ、その一端が徐々に明らかにされつつあるのだ。

 へえ。口からではなく皮膚から身体に入ってきたものに対してアレルギー反応を起こしやすいのか(それが原因のすべてではないらしいが)。

 たしかに「皮膚から異物が入ってくるものは基本的に悪いものなので追い出す」「口から入ってきたものは基本的にはいいものなので許す」ってのは確率的にはいいやりかただよね(たまには有害なものも口から入ってくるけど)。


 職業性アレルギーというのを聞いたことがある。たとえばパン職人が、長年パンを作っているうちに小麦アレルギーになってしまう、といったケースだ。これも経皮感作によるものなのかもしれない。

 逆に、漆塗りの職人は漆をなめることによって漆にかぶれないよう耐性をつけていたのだとか(今はあんまりやらないらしい)。

 


 日本人の大好きな血液型について。

 では、私たちが記載する血液型情報は、一体何に使われるのだろうか?
 もしかすると、怪我などをして輸血が必要になった際に役立つ、と思ったかもしれないが、それは誤りだ。
 輸血前には、必ず血液検査で血液型を確認するからである。病院によって異なるが、一般に血液型の検査結果は数十分で得られる。さらに、患者の血液と血液製剤の一部を混ぜてみて有害な反応が起こらないかを見る「クロスマッチ試験(交差適合試験)」も輸血前に必ず行う。
 これは、もし本人が「私はA型です」と主張しても決して省略しない。同じ病院で以前血液検査を受けたことがある人で、血液型が確実にわかっている場合でも、クロスマッチ試験は必ず行う(術前検査など一部の例外は除く)。

(中略)

 では、血液型がわからない患者に大出血が起き、血液型検査をする余裕もないくらいの緊急事態だったらどうするだろうか?このときばかりは仕方なく本人の自己申告を信じるだろうか?
 もちろん、それもありえない。この場合は、やむを得ずO型の血液製剤を用いる。相手が何型でも重篤な反応が起こらない可能性が高いからだ。たとえ緊急事態であっても、やはり自己申告の血液型情報を利用することはないのである。
 近年は、こうした事情から出生時に血液型検査をしない医療機関も多い。これを読んでいるあなたも自分の子の血液型を知らないかもしれないが、心配ご無用である。

 へえ。自分の血液型を知っていても何の役にも立たないんだ。緊急の場合であっても自己申告に基づいて輸血をすることはないのか。

 そういや最近は病院の問診票とかでも書かないかも。うちの子が生まれたときも病院から血液型を教えてもらえなかったな(だから今も知らない)。


 あと何十年かしたら自分の血液型を知らない日本人が大半になって、血液型占いは完全になくなるかもね(今でもだいぶ廃れているけど)。

 ええこっちゃ。



 医師の技術について。

 かつてはすべて人間が手で縫っていたのだが、近年は多くを器械に任せられるようになった。たとえるなら、裁縫道具を使って手で布を縫うことと、ミシンを使うことの差に相当するだろう。手術用の自動縫合器を使うと、ホチキスの針のような金属製のステープルが細かい間隔で走り、あっという間に縫うことができるのだ。
 もちろん今でも手縫いが必要な場面はある。だが、便利なデバイスの導入によって、時代とともに、より安全かつ均質な治療が提供できるようになってきたのだ。
 医療ドラマなどのエンタメで手術が扱われるときは、たいていカリスマ的な一人の天才にスポットが当たる。確かに、誰も真似できない技術を持つゴッドハンドは、人間ドラマを大いに盛り上げてくれるものだ。
 だが、手術を受ける身になってみれば話は別である。全国どこでも同じ水準の手術が受けられるほうが、よほどありがたいはずだ。「誰にも真似できない技術」よりは、「誰でも真似できる技術」が普及するほうが、多くの人に利益をもたらす。利便性の高いデバイスは、こうした技術の普及に大いに役立っているのである。

 医療器具はどんどん進歩していて、個人の技術による差は昔ほど重要ではなくなっているそうだ。だいたいどの分野でもそうだね。職人を育成するよりも、道具やシステムによって「誰でも一定の水準の成果を出せる」方向に進んでいる。


 そういや『天久鷹央の推理カルテ』という小説がいま人気なんだけど、この小説に出てくる天才医師・天久鷹央は、症状や患者の様子やデータから診断を下すプロで、自分自身では一切治療をおこなわない(不器用なので手術などはできないという設定)。

 時代を映している「天才医師」と言えるかもしれない。

 フィクションにおける天才医師といえばブラック・ジャックだが(無免許なので厳密には医師でないのかもしれないけど)、ブラック・ジャックはどちらかといえば執刀のプロだ。一匹狼なので診断も自分でおこなうが、診断はけっこうまちがえたり迷ったりしている。

 器具や治療環境が充実していない時代ではブラック・ジャックのような手先の器用な人が天才医師とされたけど、現代の総合病院においてはブラック・ジャックよりも適切な診断を下せる天久鷹央のような人のほうが求められるのかもしれない。

 現代建築では、凄腕大工よりも全体を見るのに長けている現場監督のほうが重宝されるように。


 ただし「データから診断を下す」という行為はAIが最も得意とする分野なので、今後は天久鷹央のような「診断のプロ」もあまり必要とされなくなって、結局「親身になって話を聞いてくれる、人あたりの良さ」みたいなものが最も医師に求められる資質になってくるかもしれない(ちなみにブラック・ジャックも天久鷹央も真逆のタイプだ)。


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2026年6月11日木曜日

【芸能鑑賞】『シークレットNGハウス シーズン2』



 シークレットNGハウス
シーズン2

(AmazonPrime)

 大まかなルールは前作と同じ。

 8人のプレイヤーが集められる。「○○してはいけない」「××と言ってはいけない」といったNGルールが課せられるが、プレイヤーはそれが何なのかは知らされない。

 NGが多かったプレイヤーから徐々に脱落していく。NGが発生したときに鳴るブザーを頼りにNGを回避し、同時に他プレイヤーをNG行動へ誘導する。最後まで残ったプレイヤーが見事賞金を獲得する……というルール。


 シーズン1よりルールは洗練されていたものの、パワーダウンした印象。特に終盤がひどかった。

 やっぱりルールの細かいところが甘いのと、MC陣の出番が減ったことが最大の敗因だろうね。


良かった点

 まずシーズン1に続きメンバーのバランスが良かった。妙に察しのいい人、逆にひとりだけNGに気づかない人、天真爛漫な人、テンパってわけのわからないことを口走る人、攻めるのが下手すぎて他のメンバーにヒントを与えてしまう人……。タイプの異なる人たちがバランスよく配置されていて、様々なドラマを生んでいた。賢い人ばかりでは息苦しいし、バカばっかりでもつまらないしね。

 あと「最初のステージでは誰も脱落しない(与えられたNGは第2ステージへとくりこし)」としたのもいい。前回はなにがなんだかわからない状態でほとんど見せ場のないまま脱落しちゃった人がいたからね。


お題が良くない

 シーズン1では、序盤は「とにかくしゃべらない」が最善の策だった。

 なので、だんまり対策だろう、シーズン2では、クイズ番組、ゲームセンター、記者会見といった舞台を用意して、しゃべらざるをえない状況にしていた。

 それは良かったのだが、今作はお題が良くなかった。舞台にあっていない。たとえばゲームセンターでは「店員に文句を言う」がNGだったが、だったらあの店員じゃだめでしょ。ウザキャラだったり横暴だったり抜けてたりして、文句を言いたくなる人じゃないと。そもそも「ツッコミを入れる」ってバラエティでは場を盛り上げる行為だからね。それをNGにしたら、盛り上げてくれる人から先にいなくなっちゃうじゃん。

 案の定、番組を盛り上げることに貢献してくれた人から退場してしまい、後半は楽しい雰囲気が減ってしまった。


 シーズン1ではMCが状況を見てNGを決めていたけど、ぜったいにそっちのほうがいい(NG判定するスタッフは大変だろうけど)。

「カタカナ語禁止」も無茶苦茶だった。擬態語もNGにされてたし。うちの子の小学校の国語の教科書には「音をあらわす言葉(擬音語)は通常カタカナ、様子や心理を表す言葉(擬態語)は通常ひらがなで表記します」って書いてあったよ。

「わくわく」がカタカナ語とされてNGになったのは納得いかない。「湧く」に由来する生粋の日本語でしょ。その一方で「タラバガニ」はセーフってどういうことよ。スタッフ全員「たらばがに」って聞いて「鱈場蟹」を思い浮かべるのかよ。

「外来語(通常漢字表記しないもの)禁止」ぐらいにしとけばよかったのに。


「MCに対する敬語禁止」もひどかったなあ。「よろしくお願いします」がNGにされてたけど、あれはその場にいるすべての人への挨拶だしなあ。

 だいたいふだんから若林さんに敬語を使わない人(春日さん)に有利すぎるし。


 記者会見は、先に質問に答える人が圧倒的に不利になってしまう(後の人はそれを観ながらNGを推測できるので)。

 それ自体がダメなわけではなく、「現在のNG数が少ない人から順に指名する」とすればゲームバランスをとる有効な手段になったのに、「NG数が多い人が狙い撃ちにされる」というやりかたをしていた。逆だろー。


新ルールが機能していない

 シーズン1の感想でぼくは「一切の会話を拒否して、ときどき意味不明な奇声を発する」が最強の戦略になってしまう、と書いた。

 そうした行動への対策だろう、シーズン2ではイエローカードおよびレッドカードという新ルールが追加された(結局イエローカードは一度も発動しなかったが)。消極的な言動に対してはMC判断でペナルティが追加される、というルールだ。

 おお、ちゃんと改善してるじゃないか! とおもったのだが……。

 これがひどかった。

 レッドカードが激甘。レッドカードというからには退場かそれに近い処分を期待したのに、レッドカード=NG1つ加算、ってなんじゃそりゃ。一人がダンマリを決めこんでいる間に他のプレイヤーのNGが5個も6個も加算されてるのに、黙っていることの罰則がNG1個ってそれペナルティになってないじゃん。だったらレッドカードもらったほうがいい。最低でも「その時点でのNG最多数に並ぶ」ぐらいの罰じゃなきゃ意味がない。


ファイナルステージがつまんなかった

 ファイナルステージだけルールが異なり、「3名のプレイヤーはそれぞれ1つずつ(場合によっては2つ)NGを知っている。他のプレイヤーにそのNGを踏ませることができれば+1ポイント。自分自身がNGを踏んだときや、(導かれたのではなく)偶然NGを踏んだときはノーカウント」だった。また、NGは数分ごとに入れ替わる。

 これが良くなかった。

 推理の楽しみがまったくない。どうせ数分でNGが失効するんだから、自分だけが知っているNGがバレてもいいから強引に他のプレイヤーをNGに導けばいい。

 実際、終盤はどのプレイヤーもかなり強引な手段でポイントを稼いでいた。「追いかける」というNGカードを引いた人が、「ちょっとこっちへ」と他プレイヤーを歩かせて1ポイント、とか。それは「追いかける」じゃなくて「ついていく」または「連れだって歩く」だろう。判定がむちゃくちゃ。


「NG行為をしたとしても誘導されて発動したものでなければノーカウント」というルールも悪い方に出ていた。だってそれだと「他人の言動にリアクションをとらずにひたすらしゃべりつづける」をやれば無敵じゃん。他人のNGワードを言ってしまったとしても、自分が勝手に言っただけだからノーカウントなんだし。消極的じゃないからレッドカードも食らわないし。コミュニケーションをとらない人が有利になるルール。

 ラストは推理も心理戦もへったくれもなく「たまたまNGを踏んでしまったプレイヤーが負ける」という運ゲーになってしまった。

 シリーズ通していちばんつまらなかったのが今作のファイナルステージ。MCが仕切っていればもうちょっとマシだったんだろうけど。


総括

 シーズン1に比べればルールの改善の跡は見られた。でも跡が見えただけで改善はしていなかった。

 シーズン1は今作以上にルールに欠陥が多かったけどおもしろかった。それは幸運に助けられた部分もあるし、なにより出演者たちの「よくわからないゲームだからおもしろくなるかどうかは自分たちのがんばり次第。みんなで協力して盛り上げよう」という意思があったようにおもう。

 シーズン2では、明らかに番組の盛り上がりよりも自分の勝利を優先している人がいて、しかもその人が勝ち進んでしまったから後半に行くほどつまらなくなってしまった(その人が悪いのではなくそれを許してしまうルールが悪いんだけど)。

 つまんない人を残したらちゃんとつまんなくなる、ということがわかったことがシーズン2の最大の収穫かもね。次回作では改善してくれー。


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2026年6月9日火曜日

【読書感想文】朝日新聞「志布志事件」取材班『虚罪 ドキュメント志布志事件』 / 鹿児島県警によって捏造された事件

虚罪

ドキュメント志布志事件

朝日新聞「志布志事件」取材班

内容(e-honより)
前代未聞の捜査権力による「でっち上げ事件」はなぜ起こったのか。捜査内部の「情報提供者」の協力を得て、朝日新聞鹿児島総局の報道が捜査当局を追いつめる過程を詳細に報告し、元被告たちの苦悩の日々を追う。裁判員制度が始まろうとする今、まさに必読の書。

 2009年刊行。

 2003年の鹿児島県議会選挙で、自民党所属の現職議員3名の間に割って入るような形で新人が立候補し、見事当選。ところがその陣営が住民に現金や物品などを配ったとして、15名が逮捕・起訴され、厳しい取り調べを受けた。

 ところがこの容疑自体が県警の捏造であり、真っ赤な嘘だった。裁判においては全被告人の無罪が言い渡された。

 ここのところ全国で冤罪事件が相次いでいるが、この志布志事件は、その中でも極めて異常といえる。多くの冤罪事件は、事件そのものは存在し、警察が間違って容疑者を捕まえたケースだ。もちろんそれも許されないことである。だが、今回は、事件そのものを警察がでっち上げ、一三人の無実の人を容疑者に仕立て上げ、起訴したものだ。「冤罪」というより、いわば「警察の犯罪」と言える。
 起訴事実となった買収会合そのものが存在しなかったのである。誤って無実の人を逮捕、起訴したのではない。捜査権力がなかったことをあったとして無実の人の「罪」を問うたのだ。このようなことが、二一世紀になった現代でも実際にあるということに、驚くとともに、恐ろしさを感じずにはいられなかった。

 とんでもない事件だ。

 たとえば「他殺死体が見つかった。捜査を進めた結果、有力な容疑者が浮かびあがったので逮捕して起訴した。だが裁判の結果、無罪になった」というケース。冤罪事件だ。決して許されることではないが、これを100%防ぐことはできないだろう。人間誰しもミスは犯す(100%防ぐためには、ちょっとでも疑いが残る場合はすべて放免するしかない)。

 だが志布志事件は、このような冤罪とはちがう。鹿児島県警による事件の捏造である。本来なら存在しない事件だったのだ。間違えたのではなく、でっちあげられた事件だったのだ。まさに“虚罪”だ。

 警察が事件をでっちあげるのなら、もうなんでもありだ。どんなに品行方正な人だって、警察が気に食わなければ逮捕することができてしまうのだ。

「まちがって真犯人でない人を逮捕した」なら真犯人を見つければ無実が証明されるが、そもそも存在しなかった事件で逮捕された場合、身の潔白を証明するのは至難の業だろう。



 なぜこのような事件が起きたのか。

 警察が調べていないのではっきりした事情は判明していないが(そもそも調べないことがおかしな話なのだが鹿児島県警はそういう組織なのだ)、かぎりなく疑わしいのは、この事件によってくりあげ当選したP県議と県警の関係だ。

 実はP県議とX警部は、県警関係者の間では「親子同然の仲」と呼ばれていた。県警の内部関係者によると、二人の関係の親密度は県警も認知していた。かつて、県議会の正副議長選をめぐる贈収賄容疑でP県議が逮捕されたときには、二課の捜査員だったX警部を、県警は事件の捜査から外したという。ある県議会関係者は言う。「無投票だったらP県議は引退し、息子に地盤を譲るつもりだった。中山の立候補で計算が狂った」。P県議周辺で、中山さんの出馬に対する不満がくすぶり始めたのではとみる。

 県警の警部と県議が親密な仲だった。県議が選挙で落選した。あいつが立候補しなければ当選してたのに。で、その県議と応援者たちを逮捕。誰が見たってそういう構図だろう。だが県警はそれを認めない。とんでもなく異常な組織だ。



 事件自体も異常なのだが、もっと異常なのだが志布志事件が鹿児島県警の捏造だと判明した後の県警や地検の対応。

 久我本部長が会見すべきではないかと問われると、岩井田刑事部長は紅潮した表情で「執務時間なので本部長室で執務をしている」などと答えた。
 捜査を指揮した当時のQ志布志署長の責任については「(責任は)負っているが、二月末で退職したのでもう身分がない」と述べた。
 この日、警察庁は、当時の県警本部長だった稲葉一次・関東管区警察局総務部長に対し、長官が文書で厳重注意した。ただし、国家公務員法上の懲戒処分ではなく、業務上の指導。だが、長官自らが文書で行うのは異例という。漆間巌警察庁長官は同日の記者会見で「全体を見渡して指揮するのが本部長の役割。事件を見極めて引くなら引く、更に詰めが必要なら詰めるよう言える資質がないと失格だ」と語った。
 二〇〇七年六月二九日の久我本部長の定例会見では、志布志事件の処分についてのやりとりがあった。一二人全員が無罪となったこの事件の捜査をめぐる内部調査(後述)で、「(処分済みの「踏み字」事件をのぞけば)現時点で懲戒処分として取り上げるべき事由は把握していない」と述べた。三日前にあった接見交通権をめぐる国家賠償請求訴訟の口頭弁論で、当時の捜査幹部が、事件を指揮したX警部が捜査報告書を改ざんしたことを証言したが、X警部の行為も懲戒事由にあたらないとの見方を示した。清水警務部長は捜査報告書の改ざんについて、「係争中の裁判の具体的な証言内容についてのコメントは控える」とした。
 また、一二人の被告全員の無罪が確定したことを受けての責任の取り方を問われ、本部長ら幹部にボーナスを返上する考えがないことも示した。岩井田刑事部長は「判決は重く受け止めている」と断った上で、「法律違反があったというような判決内容ではない」と説明。ほかの県警での事例を踏まえて判断したとした。
 結局、この事件の処分は、捜査をした当時の本部長の稲葉一次関東管区警察局総務部長が警察庁長官名の文書での厳重注意。捜査の指揮をとったX警部と当時の志布志署生活安全刑事課長の二人が県警による口頭での厳重注意だった。しかし、X警部とともに捜査を指揮したQ志布志署長に対しては、二〇〇七年二月二六日付で退職したことを理由に県警は責任を問わず、退職金は規程通り払われた。しかも、X警部らへの口頭での厳重注意は、「職務上の注意」で、正式な処分ではない。

 当時の署長は注意を受けただけ。退職金を満額受け取って退職している。さらに警部や捜査主任は訓戒。要するに口頭注意で、「気を付けてね」で済まされている。

 担当警部補は3ヶ月の減給を受け、後に特別公務員暴行凌辱罪で執行猶予付きの有罪判決が下っているが、これは「取り調べの手段が適切でなかった」という理由の処分であり、「そもそも事件が捏造だった」ことの責任は誰もとっていないのだ(そしていちばん悪いのは取り調べにあたった警部補ではなくもっと上の人間だろう)。

 なんちゅう組織だ。



 事件の捏造が起きたのはもちろん悪いことだが、それが捏造だと判明した後も保身と組織の擁護に終始し、反省・改善を見せない鹿児島県警。

 反省がないのだからまた同じようなことをくりかえす。

 案の定、その後も鹿児島県警では不祥事が相次いでいる。個々の警察官による不祥事を隠蔽しようとしただけでなく、内部告発した勇気ある警察官を国家公務員法(守秘義務)違反で逮捕するなど、組織的なひどい動きは続いている。

Wikipedia:鹿児島県警内部告発事件

 こちらはまだ公判が始まってもいない。

 はたして骨の髄まで腐敗しきった鹿児島県警や鹿児島地検がまともになる日は来るのか。残念ながらあまり期待できない。


 ところで……。

 志布志事件の無罪判決が出たのが2007年の2ケ月。そのわずか4ヶ月後の6月に、くりあげ当選した県議が真夜中の交通事故で急死したそうだ。

 えっ、なにそれ。めちゃくちゃ怖いんだけど……。消された……?


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2026年6月4日木曜日

【読書感想文】乙一『暗いところで待ち合わせ』 / 視覚にも聴覚にもよらないコミュニケーション

暗いところで待ち合わせ

乙一

内容(e-honより)
視力をなくし、独り静かに暮らすミチル。職場の人間関係に悩むアキヒロ。駅のホームで起きた殺人事件が、寂しい二人を引き合わせた。犯人として追われるアキヒロは、ミチルの家へ逃げ込み、居間の隅にうずくまる。他人の気配に怯えるミチルは、身を守るため、知らない振りをしようと決める。奇妙な同棲生活が始まった―。書き下ろし小説。

 全盲の女がひとりで暮らす家に、殺人犯として追われる男が忍びこむ。見えない女と、見つかりたくない男。女は男の存在に気づくが、気づかぬふりをしたまま静かな同棲生活を続ける……。



(以下、少しネタバレを含みます)


 いくら全盲だからって、同じ家、それも同じ部屋に何日も別人がいて気づかないのは無理があるだろう。

 完全に音を出さないのは不可能だし、温度とかにおいとか空気の流れとかも伝わる。視覚以外の情報に関しては全盲で他の感覚が鋭敏になっている人のほうが気づきやすいかもしれない。

 書いてないけどトイレどうしてたのよ。仮に夜中に行くとしても、トイレを流す音は相当でかいよ。流さなければそれはそれでばれるし。

「使ってない部屋に住みつく」とか「屋根裏に居つく」ならまだしも(昔屋根裏に住んでいた人がいたというニュースを見たことがある)、「住人に気付かれずに同じ部屋に居続ける」は相当無理がある。


 というわけで、前半は「さすがにこれはないわ」と冷めた目で読んでいた。

 でも中盤、男がいることを女が確信するようになってからはわりと入りこめた。

 男の存在に女が気づき、女が気づいたことに男が気づく。それでもふたりは言葉を交わさない。だが無言のまま一緒に食事をとるようになる。

 昨夜の夕食は、向かい側の席でいっしょにシチューを味わっている他人がいるという以外に、何も変わっていない。静かだったし、何かが見えるわけでもない。それでも心の深いところに、不思議な安らぎを感じた。
 お互いの関係が微妙な均衡の上で成り立っているだけで、偶然、いっしょに食事をしているだけだということはわかっていた。
 言葉をかけることはできなかった。声を発しただけで崩れて消えてしまうような、危ういつながりしかないように思えていた。

 聴覚にも視覚にも頼らないコミュニケーション。ただ「ここに存在する」ことによるコミュニケーション。最も根源的で、シンプルだからこそ強力なコミュニケーション。


  いい友だちの条件って「話してて楽しい」とか「趣味が合う」とかいろいろあるけど、親友の条件は「何もしなくてもいい」だとおもうんだよね。

 なんとなく部屋に遊びに来る。だからといって何もしない。それぞれ漫画を読んだりギターを弾いたり、好き勝手なことをしている。でも間が持つ。「なんかあるかな。UNOあるけどやる?」とか気を遣う必要がない。

 何もしない、会話もない、それが苦にならない間柄こそが親友だとぼくはおもう。夫婦もやがてそうなる(そうでなかったらやってられない)。


『暗いところで待ち合わせ』で描かれる関係は、緊張感もあるのだけれど、同時に気の置けない親友同士のような居心地の良さも感じられる関係だった。



 言葉にしにくいけど、なんとなく心地の良さを漂わせている小説だった。

 終盤は種明かしのような展開があって物語としてのおもしろさもあるのだけれど、どっちかっていうとストーリーよりも雰囲気が印象に残る小説だった。


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2026年6月2日火曜日

【読書感想文】アリク・カーシェンバウム『まじめに動物の言語を考えてみた』 / 「遊んでほしいワン」とは言わない

まじめに動物の言語を考えてみた

アリク・カーシェンバウム(著)  的場 知之(訳)

内容(e-honより)
動物にはヒトと同様に言語はあるのだろうか。では、何のために動物はしゃべるのだろうか。ヒトはどうして言語を使うようになったのか。


 ヒト以外の動物は言語(この本での言語とは、ボディランゲージなどは除く音声による言語)を持つのか。あるとしたらどのようなものなのか。言語を持つために必要な条件は何なのか。そもそも言語とは何なのか。

 オオカミ、イルカ、ヨウム(オウム)、ハイラックス、テナガザル、チンパンジーなどの動物の言語コミュニケーションを通して、まじめに動物の言語を考えた本。


 タイトルにあるように、ほんとにまじめ。

 ほとんどの人は「動物にも言語があってほしい」と思っているはず。動物語翻訳機みたいなものが発明されてペットの犬や猫と会話をすることができたらいいな、と。

 しかし著者の立場はあくまで冷静。「動物と会話したい」人たちに冷や水を浴びせるように、動物の言語は人間語に翻訳できるようなものではないと言いつづける。

「動物たちは鳴き声を使ってこんなことを言ってるんですよ!」とした方が話としてはおもしろいが、おもしろさよりも正確さのほうを優先している。少々堅苦しすぎるほどに。



 イルカは「自分自身の名前」を持っていて音声として発する、という話。

 イルカのホイッスルについて、確実にわかっていることが少なくともひとつある。イルカの各個体は、自分自身の名前を表すひとつの特別なホイッスルを発するのだ。
 この事実だけでも圧倒的な衝撃だ。これまでにわかっているかぎり、ヒトとイルカのほかに、自然状態で通常のコミュニケーションの一環として、自分に名前をつける動物はいない。イヌに自分の名前を覚えさせることはできる。他個体の声からその主が誰かを認識できる動物はたくさんいて、かれらは声を個体の「シグネチャー」として利用する。だが、自分自身を表すものとして独自の音の配列をつくりだすというのは、これらとは深層の部分で、本質的に異なる行動だ。しかもこの配列は、他個体にも認知され、使用される。かれらは本当に、自分自身をほかのイルカとは異なる「個」として理解していて、こうした理解をどの個体も等しくもっているのだろうか?どんなに疑り深い人でも、こうした可能性を考えずにはいられないはずだ。
 
 (中略)
 
 なぜ動物のなかで唯一イルカだけが自分に名前をつけるのかを説明するのは難しい。だが、答えは間違いなくかれらの社会構造にあるはずだ。世界にはたくさんの種のイルカがいるが、もっとも研究が進んでいるハンドウイルカとタイセイヨウマダライルカは、いずれも「離合集散型」と呼ばれる社会のなかで生きている。これは、ある個体と顔見知りの個体すべてからなる関係の輪の大きさはある程度固定的だが、関係の輪そのものは流動的である、という意味だ。食料や配偶相手など、そのときどきでどれだけ資源が手に入るかによって、大きな集団は分裂し、融合し、また分裂する。このような場合、ラジャに最後に会ってからずいぶんたつとしても、もし前回彼と協力してうまくことを運べたなら、ラジャのことを覚えておくほうが賢明だ。逆に、心底嫌いな相手のことも忘れないほうがいい。いずれにせよ、誰が誰かを知っていて損はない。

 自分自身の名前を持つということは、自分が他者からどう認知されるかをある程度わかっているということだろう。

「相手はおれのことをわからないかもしれない。でもおれと会ったことのあるやつならこの名前を聞けば思いだすよね!」という認知があるからこそ(もちろん明確に意図しているわけではないだろうが)自分の名前を発するわけだ。

「他のイルカは自分とは異なる認知を持つ個体である」と理解していないと、名前を名乗る必要がないもんね。その理解がなければ、仮に人間の持つような言語があったとしても「腹減った! 疲れた! 休もう!」みたいな感じになるだろう(主語は常に自分なので)。


 自分自身の名前を使うなんてやっぱりイルカって賢いね、とおもうが、話はそう単純ではない。

また、かれらにとってコミュニケーションをとる際に個体のアイデンティティがなぜそこまで重要なのかも、おおむね明らかになっている。広大な海のなかで、イルカは小グループをつくって生活しているが、グループのメンバーは顔見知りの個体リスト全体のごく一部でしかない。今週はこのメンバーで移動したり魚を獲ったりするけれど、来月、あるいは来年になれば、グループ構成はまったく違うだろう。かれらは付き合う相手を常に流動的に変える。したがって、他者の個体情報敵か味方か、家族か赤の他人かを認識することは決定的に重要だ。これはけっして簡単なことではなく、洗練されたコミュニケーションに加えて、たくさんの(おそらくは数十頭以上の)仲間のことを何年も何十年も覚えていられる、高度に発達した脳が必要だ。

 グループの構成員がたびたび変わるからこそ、名前が必要になるのだ。タコも知能が高いとされているが、タコはイルカのようにグループを作らないので名前を持つ必要がない。またオオカミのようにいつも決まったメンバーで群れをつくる動物も「ほら、おれだよ! 以前会った○○だよ!」と名乗る必要がない。

 言語を使うために必要なのは「知能」「発声器官」だけでなく、「そもそも言語を必要とするような生活をしているか」も重要なのだ。



 ヒトと動物が言語によってコミュニケーションをとるというのは夢のような話だが、実際にそれをおこなっている動物がいる。しかも、ヒトによって訓練されたわけでもないのに。

 ここで、ヒトと動物のコミュニケーションにおける例外中の例外を紹介しよう。ノドグロミツオシエはサハラ以南アフリカに広く分布する小さな鳥だ。外見こそ地味だが、この鳥は野生で自由生活を送りながら、ヒトとの驚異の協力関係を築きあげた。家畜化されたわけでも、飼育されたわけでも、訓練されたわけでもないのに、かれらはヒトがもつ、ハチの巣を壊してこじ開けるという便利な能力に気づき、さらにはヒトが蜂蜜を目当てにハチの巣を見つけて壊したがっていることを学習した。だが、僕たちヒトは広大なサバンナでハチの巣を見つけるのがあまり上手くない。一方、毎日木々の間を飛び回っているミツオシエには、おいしい幼虫がひしめく魅惑の食料庫に出くわすチャンスが豊富にある。そんなわけで、ミツオシエは名前のとおり、ヒトを蜂蜜のありかに導く。東アフリカの多くの部族は、ミツオシエとの間で互恵的な協力関係を保ち、導く側と導かれる側で双方が理解できる語彙を形成した。各部族はそれぞれに異なる口笛やその他の音声レパートリーを生み出し、その意味はヒトと鳥の間で共有されている。ミツオシエには、「ついてこい! ハチの巣を見つけたぞ!」を意味する決まった音声があり、現地部族にもまた蜂蜜採集に出かけたいときにミツオシエを呼ぶための、トリルとグラントを組み合わせた特別な音声がある。

 ミツオシエはヒトに蜂の巣のありかを教え、ヒトは蜂の巣を壊すことでミツオシエが蜂の幼虫を食べる機会を与える。見事な共生関係だ。その関係が言語によって支えられているのが興味深い。

 ヒトが利用している動物はいろいろいるけど、いちばん巧みに言語を使ってコミュニケーションをとっているのが、家畜でもペットでも類人猿でもなく野鳥だというのは意外。

 しかも対等な関係なのがすごい。ほとんどの家畜やペットって、人間からしたら「いたら便利だけどいなくてもなんとかなる」だが、動物側からしたら「ヒトに見捨てられたら生きていけない」場合が多い(その最たるものがカイコガ)。でもミツオシエはヒトがいたほうが便利だが、ヒトなしでも生きていける。ミツオシエこそが唯一のヒトの友だちと呼ぶにふさわしい動物かもしれない。



 動物の“言語”を理解する上で重要なのは、動物はヒトとはちがうし、ヒトになりたいわけでもないということを理解することだという。

 コミュニケーションでも同じことだ。動物が僕たちと同じ装備で同じ耳、同じ眼、同じ脳で――コミュニケーションをとっていると想像しつづけているかぎり、かれらの世界に踏み込むことはできず、かれらが言っていることを理解できない。けれども、僕たちの外へ、現代の人間社会の外へ踏み出して、動物たちのように物事を見て、聞いて、考えるのは、じつはそれほど難しくない。(中略)僕たちが苦戦する理由は、何よりもまず、僕たちがかれらの世界に住んでいないからだ。ものの見え方や聞こえ方がかれらと違うというのもあるが、それ以上に、僕たちはかれらのありのままの姿に目を凝らし、耳を傾けようとしていない。かれらと違って、僕たちの心配事は、食料を見つけ、捕食者を避け、配偶相手を惹きつけることではない。動物が探し求めているものに注目しなければ、かれらが何を話しているかは理解できない。動物たちを理解できないもうひとつの理由は、かれらに僕たちのようにふるまうことを期待しているせいだ。僕たちは、動物に人間らしさを求めがちだ。ペッのイヌやネコに語りかけるとき、僕たちはかれらに本気で自分のことをわかってほしいと願っている。かれらはある程度はわかってくれるが、このようなケースは例外だ。数千、数万年にわたる家畜化の過程で、動物とヒトの両方が、コミュニケーションの共通基盤を築くのに尽力してきたおかげなのだ。
 動物のありのままの姿に目を向け、かれらが暮らす世界のなかで、かれらの生活に密着して初めて、僕たちはかれらを理解できる。そうすればきっと、動物たちの現実が目に入り、かれらに言ってほしいことではなく、かれらが本当に言っていることが聞こえてくるはずだ。地球の生命の豊かな多様性を実感できる、じつに有意義なやり方だ。

 ぼくもいくつかの生き物を買ってきたからわかるけど、ついつい動物の中に「人間っぽい感情」を見いだしてしまうんだよね。愛情をもって観察するほど。

 イヌの動作を見て「しょんぼりしている」とか、ネコのしぐさから「放っておいてくれと言いたげだ」とか、ヒトの心理・行動を重ねあわせてしまう。

 だがヒト以外の動物は、「ヒトになれなかった動物」ではない。ヒトとはまったく異なる論理で動いているし、仮に彼らが言語のようなものを持つとしても、ヒトの言語とはまったく異なるものになるはずだ。少なくとも「遊んでほしいワン」とか「退屈だニャー」のような言語は持っていない(持てないのではなく、持つ必要がない)。


『まじめに動物の言語を考えてみた』でくりかえし語られるのは、動物の言語は(それがあるとして)人間の言葉のように単語に分解できるものではないということ。

 どっちかっていうと歌のほうが近いのかもしれない。より身体性を伴うし。


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