2025年9月3日水曜日

小ネタ38(魔改造の夜 / 後ろこうなってます / 犬の形)


魔改造の夜

夜会主催者「今回の生贄はこちら……」

メーカー社員たち「Word……!?」

夜会主催者「君たちにはこの文書作成ソフトを使って、原価管理表を作ってもらう……」

メーカー社員たち「めちゃくちゃだっ……!」


後ろこうなってます

 美容院で散髪後に「後ろこうなってます」と手鏡を見せられるが、自分の後頭部を見るのは「散髪直後」だけなので比べるものがない。いいのか悪いのかわからないから、「こうなってます」と言われても「はあ」としか言いようがない。

 散髪前にもちゃんと「切る前は後ろこうなってます」と見せてほしい。


犬の形

 娘と茨城県の話になったとき、「茨城県って犬の形やろ?」と言われた。

「ちがうよ、犬の形の県は千葉県やで。チーバくんの形やろ?」

「茨城も犬って習ったで」

 調べてみたところ、千葉県も茨城県も犬の形に似ていると言われているらしい。さらに、神奈川県や岐阜県も犬の形をしていると言われているらしい。

 しかしいずれも「そこに犬を見いだそうとすれば見えないこともない」レベルだ。人はどんなものにも犬の形を見出してしまう生き物なのだ。


 だが、「犬の形に似ている」と挙げられている自治体の中で、東京都日野市だけはどこからどう見ても犬だった。

日野市


 もはや「犬市」にしてもいい。


2025年9月2日火曜日

ちびまる子ちゃんとH₂O

 少女漫画雑誌『りぼん』に連載されていた漫画で、最も売れているのは『ちびまる子ちゃん』で3200万部だそうだ。2位の『ときめきトゥナイト』は2800万部 であるが、現在もテレビアニメを放送されている『ちびまる子ちゃん』のほうが今後も売れる可能性が高いだろうから、この差は開いていくとおもわれる。

 『ちびまる子ちゃん』は『りぼん』で最も売れた漫画であり最も有名な漫画だが、『りぼん』を代表する漫画かと言われるとそれはちょっと違う気がする。

 『ちびまる子ちゃん』は『りぼん』の中ではかなり異色な作品である。恋愛要素がまるでないし、絵も下手だし、美少女も美男子も出てこない。はっきり言えば『りぼん』っぽくない。邪道が王道を抑えて一位になってしまったのだ。

 蕎麦屋がカレーを出していたら一番の人気メニューになってしまったようなものだ。


 邪道がいちばん有名になってしまった例としては、他に水がある。

 そう、あの水だ。H₂O。

 水はダントツで有名な液体だ。「液体を思いうかべてください」と言われれば、99%ぐらいの人が水または水溶液を思いうかべるだろう。雨も海も川もお湯も泥水もお茶もコーラもビールもワインもほとんど水だ。エタノールとかベンゼンを最初に思いえがく人はほとんどいない。

 でも水は液体としては異端だ。固体になると体積が増えるとか、0℃から4℃までの間は温度を下げると体積が縮むとか、いろいろと変な性質を持っている。

 水は決して“代表的な液体”ではない。王道じゃない。たまたま時代にあったから売れただけ!



2025年9月1日月曜日

【読書感想文】鹿島 茂『小林一三 日本が生んだ偉大なる経営イノベーター』 / 未来が見えていた人

小林一三

日本が生んだ偉大なる経営イノベータ

鹿島 茂

内容(Amazonより)
Amazonでも、googleでもない。
2020年、東京オリンピック後の日本社会を構想するヒント

阪急電車、宝塚歌劇団、東宝株式会社など、明治から昭和にかけて手がけた事業は数知れず。大衆の生活をなにより重んじ、日本に真の「近代的市民」を創出することに命を捧げた天才実業家の偉大なる事業と戦略とは?

 小林一三(1873~1957年)の評伝。箕面有馬電気軌道(今の阪急電鉄)、阪急百貨店、宝塚歌劇団、東宝などの創業者であり、鉄道事業の運営と周辺の都市開発や商業施設の経営などの手法は、後の鉄道会社の運営にも大きな影響を与えている。


 小林一三氏は鉄道会社が沿線の不動産開発をおこなったり駅ビルを運営したりして利用者の満足度を高めつつ路線価を高めるという画期的な手法を確立した。どれぐらい画期的かというと、みんな真似して今ではあたりまえになって画期的には見えなくなった。それぐらい画期的だった。

 このように、箕面有馬電気軌道株式会社は、創立前から前途が危ぶまれるボロ鉄道だったわけだが、ひとり、小林だけはまったく違う見方をしていた。
 
阪鶴鉄道会社の本社は、現在の省線池田駅の山手の丘上にあった。そこでいつも発起人会や、会社の重役会が開かれてゐたので、私は、そこに出席する機会に、大阪から池田まで、計画の線路敷地を、二度ばかり歩いて往復した。その間に、沿道に於ける住宅経営新案を考へて、かうやれば屹度うまくゆくといふ企業計画を空想した。(「逸翁自叙伝』)
 
 そう、「沿道に於ける住宅経営新案」なのである、小林の頭にあったのは!この点はいくら強調しても強調しすぎるということはない。

 明治時代、大阪の人口は急速に増えており、住宅事情は悪かった。

 そこで小林一三氏は中産階級(サラリーマン階級)にターゲットを絞り、大阪近郊に住み心地の良い住宅地を供給すれば必ず売れると踏んだのである。

 私はかういふ広告文を書いた。『新しく開通した大阪(神戸)ゆき急行電車、綺麗で、早うて、ガラアキで、眺めの素敵によい涼しい電車』それがお家芸の一枚看板、電車正面の此広告が、阪神間の全新聞紙に載った時の私の嬉しさ、アア、ガラアキ電車!オールスチールカー、四輛連結、三十分で突走してゐるあの日本一の電車の前身である、たった一輛のガラアキ電車!(『逸翁自叙伝』)
 
 なんという驚くべきキャッチコピーであろうか! いかに大阪では自虐ネタが受けるとはいえ、念願の神戸線の電車を自ら「ガラアキ電車」と命名するとは! 小林は破れかぶれでこんなキャッチコピーをつくったのだろうか?
 もちろん、否である。深慮遠謀の末に出てきたコピーにほかならない。
 小林が灘循環線の買収にこだわったのは、一つには、それが大阪―神戸間の基幹鉄道を可能にするからであるが、もう一つの理由として、箕面有馬電気軌道で実証済みのように、沿線に優良住宅地を開発して不動産収入を得るということがあった。
 小林が鉄道事業に乗り出すに当たってターゲットとしたのは日清・日露の戦争を契機にして日本にも生まれつつあった都市部中産階級、すなわち自分がかつてそうであったようなサラリーマン階級であるが、このサラリーマン階級というのは、原則として住居と勤め先が分離しており、朝と晩にこの二つを往復するだけで、従来の大阪人のような地域密着型の生活ではない。接待でも自費での飲み会でも居住地域の店を使うことはなく、そうした場合には仕事の延長として北の新地を使うだろう。となったら、梅田から阪急電鉄に乗ったら、あとは一路、自宅のある駅を目指すしかないが、その場合には座席に座れてしかも短時間で着くのがベストである。
 つまり、小林は、阪急というのはサラリーマンたちのための電車であるという前提から逆算して、「新しく開通した大阪(神戸)ゆき急行電車、綺麗で、早うて、ガラアキで、眺めの素敵によい涼しい電車」というコピーを考え出したのである。たしかに、自宅と勤め先を往復するだけのサラリーマンにとっては、ガラアキで道中、座って快適に過ごせ、しかも、緑の多い景色を見ながら爽快な気分で、短時間で目的地に着きたいと思うはずだ。小林のコピーはサラリーマンの願望をすべて言い表していたのだ。

 小林一三氏は箕面有馬電気軌道創業前に銀行員として十五年ほど勤務している。この経験があるからこそ、サラリーマンたちの求めているものがよくわかったのだろう。


 目を見張るのは、当時の箕面有馬電気軌道の路線はほとんどが田畑が広がる田舎だったことである。その頃近くにあった阪神(大阪ー神戸)や京阪(大阪ー京都)が大都市間を結ぶ鉄道であったのと対照的だ。そのため採算がとれないのではないかと予想されていたという。

 だが小林氏はそのデメリットをメリットに変えた。沿線が田舎ということは地価が安いということである。周辺の土地を買収して、それを住宅地として販売することで増収につなげた。鉄道事業としてはマイナスでしかない「ガラアキ電車」も、沿線に住宅を購入しようとする人にとってはプラスになる。鉄道運賃で利益が出なくても、他の事業で収益を挙げればいいと考えたのだ。

 さらに当時めずらしかった住宅ローンでの販売を導入した。

 なぜかというと、当時、計画されていた私鉄のほとんどが都市間鉄道か市内電車であったことからも明らかなように、鉄道経営を企てていた企業家の大部分が鉄道を利用する「乗客の数」だけを考えて採算ラインを計算していたのに対し、小林は沿線に住宅を構える「住人の数」を考えていたのである。土台、発想が違うのである。
 今でこそ住宅ローン方式は当たり前になっているが、日本での歴史は銀行家の安田善次郎が創立した東京建物が建物の建築費を五年以上十五年以下の月賦で支払うことを可能にしたのを先駆とするものの、実際面での適用ということであれば、この箕面有馬電気軌道の池田室町分譲地をもって嚆矢とする。
 では、小林はなにゆえに、住宅ローン方式を採用したのか? つまり、大阪にはまとまった現金を所有する富裕な商人たちがたくさんいたから、彼らを購買者と想定すればローン方式にする必要はなかったはずなのに、あえてローンを売り物にしたのはなにゆえかということである。
 答えは、資産は持たないが、学歴を有するがゆえに一〇年後、一五年後には確実に社会の中核を占めるであろう中堅サラリーマンを分譲地の住人として想定していたからである。言い替えれば、「今」ではなく来るべき「未来」に住宅を売ろうとしたのである。
 この発想は、三井銀行で足掛け一五年、サラリーマン生活を送ったものでなければ生まれないものである。

 今ある市場で勝負するのではなく、ない市場を生みだす。相当先見の明がある人でないとできないことだ。


 小林一三氏は人口学に基づいた考え方ができる人だったようだ。それを物語るエピソードがいくつも紹介されている。これからはこれぐらい人口が増える。するとこれぐらいの需要が生まれるのでこのぐらいの価格帯の商品を提供すれば年間の売上がこれぐらいになる。こうした計算をやっていたようだ。

 著者の鹿島茂氏は「人口学は未来をかなり正確に予測できる学問だ」と書いている。たしかに。戦争とかジェノサイドとか大量の難民発生とかがなければ、50年後の人口はだいたいわかる。




 他にも小林一三氏はあの手この手で電車との相乗ビジネスを成功させた。言わずと知れた宝塚歌劇団、劇場、ホテル、高校野球選手権大会(第一回は阪急沿線の豊中球場で開催。後にライバルである阪神の甲子園球場に奪われることになるが)、プロ野球チーム(阪急ブレーブス)、名門大学の誘致など、次々に「阪急」ブランドを高めることに成功した。


 ぼくは阪急沿線で生まれ育ったので身びいきも入っているのだが、阪急は上品だ。客層がいい。身なりもいいし、みんな静かに座っている。特に阪急今津線なんて閑静な住宅地と名門大学とかお嬢様学校とか宝塚音楽学校とかが沿線にあるので、なんとも優雅な雰囲気が漂っている(今津線に乗るとよく未来のタカラジェンヌの姿を見ることができる。みんな姿勢がいいし運転士にお辞儀をしているのですぐわかる)。会話をしている人もみんな物静かだ。

 それも、創業当初から中産階級をターゲットにしてきたからなのだろう。住民の生活レベルを引き上げることを目指した小林氏の取り組みが見事に成功している。


 ここで小林が述べていることは、基本的に三越などの既存のデパートに対して阪急デパートを対抗させたときの原理と同じである。
 すなわち、高品質の商品に対して一定のサービスを付けたらそれは高額な商品になるのが当たり前だが、しかし、それではその商品を買える消費者は限られた階層だけになる。しかも、いったん顧客の数が限定されてしまえば、その商品の価格が下がる可能性は低くなり、大衆は永遠にそうした商品にアクセスできない。
 小林のユニークなところは、こうした当たり前の原理を当たり前だと思わなかったところである。小林は、高品質商品でも、それを低価格でより多くの人々に届けてこそビジネスであると考えるのだ。
 では、なぜ、ビジネスはかくあらねばならないかというと、それは最大多数の最大幸福の原理のみが良き社会を保証するからである。ごく一般的な家庭の成員全員がよりよき商品を享受しうるのが良い社会であり、特権的な人々だけしかその利益を享受しえないのは良くない社会なのだ。それは商品に限らない。芝居や映画といった娯楽もまた同じ原理によるべきなのだ。なぜなら、娯楽は生活を潤し、人間性を豊かにするからである。より多くの人がよりウェル・メイドな娯楽に接することができるのが良い社会なのだ。
 つまり、小林の頭の中にはあらかじめ「より良き社会」という理想があり、いつでもその理想に照らして演繹が行われているのである。理想から具体的な現実に降りていったときに困難に直面したら、それをどう回避すればいいかが小林にとってのビジネスなのだ。小林が理念的な実業家であったというのはまさにこうした意味においてである。

 感心するのは「儲けすぎないようにする」という精神があふれていることだ。「儲けすぎない」を示す逸話が、この本の随所にあふれている。

 もちろん金儲けは考えるが、それと同じくらい「人々の暮らしを良くすること」を大事に考えている。小林一三氏が特異だったのか、それともこの時代のエリートはこのような意識を持っていたのか。

 今の時代にこういう考えをする経営者は絶滅危惧種だろうな。経営者が「儲けすぎないように」と考えていても株主がそれを許さないだろうし。


 小林一三という人は、まちがいなく日本人の暮らしを良くした人だった。彼がいなければ、日本はもっと階層社会だったかもしれない。

 なぜ彼は次々に革新的なビジネスで人々の暮らしを塗り替えることができたのか。逆に言えば、なぜ今の経営者にはそれができないのか。

  • 当時の日本社会がまだまだ未熟だったから
  • 人口がどんどん増えてゆく時代だったから
  • (株主含めて)当時の経営者が、金儲け、株価を上げること以外に使命があると考えていたから


 うーん、今後の日本でこういうスタンスを継続できる大企業が生まれる可能性は低いだろうなあ……。




 いい評伝でした。小林一三氏は未来をかなり正確に見通せていた人だったんだなと感じる。


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2025年8月28日木曜日

モアイゆるキャラ説

 プラスチックはなかなか自然には分解されないそうだ。数百年たてば紫外線によって分解されるらしいが、土の中など紫外線があたりにくい場所であれば何千年も残ってもおかしくない。

 千年後の考古学者が千年前(つまり現代)の人々の暮らしぶりを想像するときに、プラスチックは大きな手掛かりになるはずだ。自然界にはないものだから、プラスチックが多く出土する場所は確実に人々が暮らしていたはず。貝殻が残りやすいので貝塚が昔の集落を知る手掛かりになるのと同じように。


 プラスチックについた色や絵も残るのだろうか。

 残ってほしいな。そしたらそれも、人々の暮らしを未来に伝えるための重要な情報源になる。

 プラスチックって子ども向けの製品が多いから、特に子ども向け文化が未来に伝わりやすい。

 未来の考古学者は、出土したプラスチック製品に描かれたミッキーマウスやハローキティやリラックマを見てどんなことをおもうんだろう。

「これは当時の人々が信じていた神様の姿ですね。当時はアニミズム信仰がさかんで、ネズミやネコやクマの姿に神聖なものを感じていたのでしょう。これらの食器は神にさ捧げる供物を載せるのに使われていたのでしょう」なんてことを言うかもしれない。

 そんなことを想像すると楽しい。


 はっ、待てよ。

 ってことは、今我々が数千年前の出土品や壁画を見て「これは神々への祈りのためにつくられたものです」なんて言ってるのもまるで見当違いで、あれは当時の人気キャラだったんじゃないだろうか。

 モアイなんて、今のくまモンみたいなものでイースター島のご当地ゆるキャラだったのかもね。



2025年8月25日月曜日

ダンスの著作権

 ふとおもったんだけど、ダンスに著作権ってあるんだろうか。聞いたことがない。

 たとえば、他人の曲を歌って金儲けをしようとおもったら、ちゃんと楽曲使用料を得ないといけないじゃない。同様に、他人の描いた絵や、他人の書いた文章や、他人の撮った写真を商用目的で勝手に使うことはできない。


 でも、ダンスってみんな勝手に使ってない? よくヒット曲のダンスが流行って、SNSとかYouTubeとかでみんな真似するじゃない。中にはそれで収益を得ている人もいる。あの人たち、ダンスの振付師に金を払っているんだろうか。そんな話、聞いたことがない。

 まあ厳密には著作権が発生するのかもしれないが(答えを出しちゃうとつまんないので調べない)、現実的には厳密に運用されていない。


 個人的な考えを言えば、ダンスにはあんまり著作権うんぬん言ってほしくない。

 ダンスって身体表現じゃない。それを著作権で保護しちゃうと、体操とか発声方法とか筋トレとか歩き方とか、あらゆるものが著作権保護の対象になっていく可能性があるわけで、「おまえの呼吸方法はおれが考案した呼吸の権利を侵害しているから今すぐその呼吸方法をやめろ」なんて言われる未来がくるかもしれない。





2025年8月22日金曜日

【読書感想文】熊代 亨『人間はどこまで家畜か』 / 家畜化というより年寄り化じゃなかろうか

人間はどこまで家畜か

熊代 亨

内容(e-honより)
自己家畜化とは、イヌやネコのように、人間が生み出した環境のなかで先祖より穏やかに・群れやすく進化していく現象だ。進化生物学の近年の成果によれば人間自身にも自己家畜化が起き、今日の繁栄の生物学的な基盤となっている。だが清潔な都市環境、アンガーマネジメント、健康や生産性の徹底した管理など「家畜人たれ」という文化的な圧力がいよいよ強まる現代社会に、誰もが適応できるわけではない。ひずみは精神疾患の増大として現れており、やがて―。精神科医が見抜いた、新しい人間疎外。

 精神科医による、“ヒトの自己家畜化”傾向と、それによって生まれる病理についての本。

 自己家畜化とは、たとえばイヌやネコがペットとして飼われるうちに人に好かれる特徴をより強く発露させるようになること。小さく、かわいく、噛まず、人の言うことに従う。野生で生きるには不利な特徴だが、ペットとしてはそういう特徴を持っている個体のほうが有利なので、世代を重ねるごとに増えていくらしい。

 そして、ペットだけでなく、ヒト自身が自己家畜化しているのではないか。より理性的、合理的で、安定した感情を持ち、衝動的・暴力的な行動をとることが減っているのではないか。

 これが“ヒトの自己家畜化”だ。この著者の熊代亨氏が言いだした概念ではなく、もっと前から提唱されている考え方だ。


『人間はどこまで家畜か』の前半では、数々の文献などをもとに「ヒトが自己家畜化している」根拠をあげていく。

 正直、このパートはちょっと強引だ。「ヒトは自己家畜化している」という結論ははじめから決まっていて、そのために都合の良い証拠を方々から集めてきているだけ、という感じがする。

 そもそも「自己家畜化」というワードの定義自体があいまいで、どうなったら自己家畜化なのか、どこまでは自己家畜化じゃないのか、という基準がない以上、著者の言ったもん勝ちじゃないのという気がする。


 論としては少々乱暴であるとはいえ、「ヒトが自己家畜化している」、もっとあけすけにいえば「飼いやすい存在になっている」こと自体はぼくの感覚とも一致している。

 もし、自分が絶大な力を持つ宇宙人で地球人たちを支配するとしたら、千年前の地球人よりも現代の地球人のほうが支配しやすそうだもん。

 ここ数十年に限っても、古い本や映像を見ると(それが生活の一部しか描いていないことはさしひいても)昔の人って現代人よりもずっと暴れている。他人にからんだり、暴力をふるったり、徒党を組んでものを壊したり、そういうことをするハードルが今よりずっと低い。人々がルールを守って暮らしている社会のほうが暮らしやすい可能性は高い。もちろんそれはルールが適切であることが条件なので、ルールに従順であることが必ずしもいいとは言えないけれど。

 我々がテレビで昭和の映像を見て「昭和ってなんて野蛮な時代だったんだ」とおもうように、五十年後の人々もまた「令和ってなんて野蛮な時代だったんだ」とおもうことだろう。またそうあってほしい。それはすなわち社会から暴力、暴言、怒りの発露が消えてゆくことだから。




 ただ人々の「自己家畜化」により多くの人にとっては生きやすい社会になったとしても、それがすべての人の救済になるかというと、それはまた別の話である。

 ただし、進化にはさまざまな制約もあります。人間の身体は哺乳類共通のメカニズムから成り立っていて、そのひとつが衝動や感情です。読者の皆さんも身に覚えがあるでしょうけど、これらは私たちを穏やかならざる行動へと導いたり、理性では制御しづらい気持ちを生み出したりします。どんなに進化しても人間が哺乳類をやめられるとは思えませんから、これからも人間には衝動や感情がついてまわるでしょう。そのうえ人間は世代交代に長い時間がかかるため、進化のプロセスも非常にゆっくりとしか進みません。ラジオの時代からテレビの時代へ、そしてスマホの時代へと早足で変わっていく文化や環境の変化に比べれば、過去に起こった自己家畜化のスピードも、現在進行形で起こっているだろう自己家畜化のスピードも、スローベースと言わざるを得ません。
 だから自己家畜化というトピックを眺める時、私はこう思わずにいられないのです。文化や環境が変わっていくスピードが速くなりすぎると、人間自身の進化のスピードがそれに追いつけなくなるのではないか? 実際、現代社会はそのようになってしまっていて、動物としての私たちは今、かつてない危機に直面しているのではないか? と。
 たとえば令和の日本社会は暴力や犯罪が少なく、物質的にも豊かで、安全・安心な暮らしが実現しています。過去のどんな時代より法や理性に照らされたこの社会は、一面としてはユートピア的です。ところがその裏ではたくさんの人が心を病み、社会不適応を起こし、精神疾患の治療や福祉による支援を必要としているのです。
 精神医療の現場にいらっしゃる患者さん(以下、患者と略します)の症状から逆算するに、現代人はいつも理性的で合理的でなければならず、感情が安定しているよう期待されているようです。都会の人混みでも落ち着いていられ、初対面の相手にも自己主張でき、読み書き能力や数字的能力も必須にみえます。ですが、それら全部を誰もが持ち合わせているわけではなく、このユートピアでつつがなく生きるのもそれはそれで大変です。

 かっとなって大声を出したり、手を出したりするのは良くない。冷静になるべきだ。できることなら感情的にならないほうがいい。多くの人が賛成するだろう。

 だが、ついつい大声を出したり手を出したりしてしまう人がいるのもまた事実。直したほうがいいけど、かんたんに直せるものではない。そういう人の居場所はどんどん減っている。昔はもっと“荒くれ者たちが働く職場”があったはず。

「理性的な行動ができない人」が減るのはいいことかもしれないけど、「理性的な行動ができない人の居場所」まで減るのはいいことなのだろうか。


 家畜化というより、規格化といったほうがいいかもしれない。昔は大きさも形もばらばらだったキュウリが、今では大きさも形もそろったものばかりスーパーに並ぶようになったもの。それはつまり“スーパーの棚に並ぶことのできないキュウリ”が増えたことを意味する。




 著者は精神科医の立場から「自己家畜化」の流れについていけない人たちの処遇を心配するが、中でも子どもたちの社会への適応について警鐘を鳴らす。

 確かに文化や環境は人間の行動を変え、世代から世代へ受け継がれ内面化されながら洗練の度合いを高めてきました。しかし変わっていったのは大人たちの行動、それと子どもたちに内面化されていくルールまでです。新しく生まれてくる子どもは必ず、生物学的な自己家畜化以上のものは身に付けていない野生のホモ・サピエンスとして、〝文化的な自己家畜化〟という観点ではいわば空白の石板として生まれてきます。
 赤ちゃんは本能のままに夜泣きや人見知りをし、母親の抱っこを求めます。危険や外敵の多かった時代には、そのような行動形質こそが生存しやすく、夜泣きも人見知りもせず抱っこも求めない赤ちゃんは自然選択の波間に消えていったでしょう。
 ところが赤ちゃんの行動形質は現代社会ではまるきり時代遅れです。第二章でも参照した進化生物学者のハーディーは、著書『マザー・ネイチャー』のなかで、働く母親にとって都合の良い架空の赤ちゃん像を描いてみせましたが、それは朝夕に簡単な世話さえすれば良く、昼間は放っておいても構わない、そのような赤ちゃん像でした。
 今日の文化や環境に最適で、社会契約や資本主義や個人主義にも都合の良い赤ちゃんとは、きっとそのようなものでしょう。しかし実際の赤ちゃんは文化や環境の手垢がついていない状態で生まれてきますから、そんな行動形質は望むべくもありません。
 幼児期から児童期の子どもも、まだまだ真・家畜人には遠いといえます。教育制度ができあがる前の子どもたちは、大人たちの手伝いや集団的な遊びをとおしてルールも技能も身に付けていきました。第一章でも触れたように、人間の子どもは文化や環境をとおしてルールを内面化したり、年長者を模倣したりする点ではとても優れています。しかし、教室に静かに座って学ぶのは教育制度以降の新しい課題ですし、拳骨を封じること、感情や衝動を自己抑制することも近現代以前にはあまりなかった課題です。
 現代社会は座学のできない子どもを発達障害とみなし、感情や衝動を自己抑制できない子どもを特別支援教育の対象とするでしょう。ですがそれは、社会契約の論理が子どもの世界にまで闖入した管理教育以降の文化や環境に適応できていないからであって、ホモ・サピエンスのレガシーな課題に適応できていないからではありません。

 社会がより洗練された人々を求めるようになった結果、社会に適応できない子どもが増えた。なぜなら子どもは動物として生まれてくるから。

 だから発達障害とみなされる子どもが増えたのではないか、と疑問を投げかける。




 ここまで読んで「『自己家畜化』というより『年寄り化』じゃないのか」とおもった。

 社会はどんどん年寄り化している。

 暴力的でない、感情を抑制して冷静、理性的。これって一般に年寄りの特徴じゃないか。脳が壊れてすぐキレちゃう老人もいるけど。

 少子化、超高齢化で社会の平均年齢がどんどん上がっていることと関係あるのかわからないが、社会はどんどん年寄り化している。だから子どもほど社会に適用できない。

 昔は十数年で「社会が求める大人」になれたが、社会が年寄り化して求められる精神年齢が上がった。二十代なんてまだまだ子ども。だから大人のルールについていこうとするとそのギャップに苦しむことになる。


 ぼく自身のことを考えても、歳をとって生きやすくなった。自己顕示欲や性欲や社会の矛盾に対する怒りが薄れて、年寄り化した社会の求める“大人”の姿に近づいていったから。

 今の日本において、人口のボリュームゾーンは50代だ。40~70代ぐらいの人が「平均的」とされる。10代、20代が社会に適応しづらいのもあたりまえかもしれない。

 すまんなあ、若者たちよ。


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2025年8月20日水曜日

私はいつも他人の幸福を考えて生きている

 善行自慢をさせてほしい。

 ここ十年の間に私は落とし物を拾って交番または警察署に届けたことが四度ある。交通系ICカード、スマートフォン×2、財布だ。スマートフォンを落とした人はすごく困っただろうし、財布にいたってはちらっと中をのぞいたら数万円と各種カードが入っていた。

 相当な善行だ。もし私が地獄に落ちてもお釈迦様は縄ばしごを垂らしてくれるにちがいない。ヘリコプターで逃走する怪盗のようにハハハハハと高笑いしながら極楽に上がってゆける。


 スマートフォンを拾ったときに何か手掛かりがないかと起動してみたら、ハングル文字が表示された。たぶん韓国人のものだったのだろう。もしかしたら落とし主がこれを機に親日家になり、さらにその人が将来韓国の大統領になるかもしれない。そうすると私の善行が日韓関係の改善に大きく貢献することになる。すばらしいことだ。


 こうして拾得物による善行を重ねる一方、私は落とし物をして警察のお世話になったことがない。落とし物をしたことがないわけではないが、せいぜいマフラーとか折り畳み傘とか、「ちょっと惜しいけど買い替え時だとおもえばあきらめもつく」ぐらいのものばかりだ。

 折り畳み傘の場合は「もしかしたら私が落とした傘を誰かが拾って使っているかもしれない。そうすると私は傘を損したが人類全体で見ると幸福の総量は変わっていない」とおもえばちっとも悔しくない。私はいつも人類全体の幸福を考えて生きているのだ。あの日私が失ったマフラーだってホームレスのおじさんの首元を温めているかもしれない。

 落とし物でいちばん悔しかったのは買ったばかりの食パンを落としたことだ。会計後に買い物袋に入れたことははっきりおぼえているのに、家に帰ったら袋になかったので道中で落としたのだろう。パン屋さんで買った、ちょっといい食パンだった。三百五十円ぐらいのものだが、値段以上に悔しかった。なぜなら食パンの場合は、拾った人もたぶん食べてくれないからだ。きっとそのまま廃棄されているにちがいない。私も悔しいが、丹精込めてパンを焼いてくれたパン屋さんもさぞ悔しかろう。私はいつも他人の幸福を考えて生きている。


 私は一度も落とし物をして警察のお世話になったことがないので、“落とし物貯金”はずいぶん貯まっているはずだ。逆に「落とし物をしたが親切な人が届けてくれたおかげで無事に返ってきたけど、自分は一度も落とし物を警察に届けたことがない人」もいるはずだ。そういう人は、私がうんこを漏らしそうになっているときにはトイレの順番を譲るぐらいのことをしてもらいたい。なぜなら私がうんこを漏らしたらそのにおいによってあなたたちも不幸になるからだ。私はいつも他人の幸福を願って生きている。



2025年8月19日火曜日

【読書感想文】松岡 享子『子どもと本』 / 物語の種明かしをするなよ

子どもと本

松岡 享子

内容(e-honより)
財団法人東京子ども図書館を設立、以後理事長として活躍する一方で、児童文学の翻訳、創作、研究をつづける第一人者が、本のたのしみを分かち合うための神髄を惜しみなく披露します。長年の実践に力強く裏付けられた心構えの数々から、子どもと本への限りない信頼と愛が満ちあふれ、読者をあたたかく励ましてくれます。


 今から60年ほど前のアメリカの児童図書館で勤務し、日本に帰国後も児童向け図書館の設立などに携わった著者によるエッセイ。

 前半は「あたくしはこんな苦労をしてきたのよ」ってな感じの話が長々と続くので、あーおばあちゃんの自分語り本かーこれはハズレだなーとおもっていたのだが、中盤の児童文学論はおもしろく読めた。



 口承の物語について。

 ストーリーテリングの研究者で、恵まれた語学の才能を生かして、世界各地の語りの実状を調べたアン・ペロウスキーさんから聞いた話ですが、語りの伝統が生きているアフリカでは、たいていの子どもたちが、ひとつやふたつ物語を語ることができるものだそうです。ところが、地域に学校ができて、子どもたちが字を習うようになると、語れなくなってしまう、というのです。どうやら、わたしたちは、文字を獲得するのと引き換えに、それまでもっていた能力を失うのではないかと考えざるをえません。失うというよりは、その能力を十全に発達させる機会を失うということでしょうか。その「失う」能力は、実は、読書のためには欠かすことのできない力ことばをこころに刻む力、ことばに対する信頼、想像力を目いっぱい伸ばしてことばの奥に世界を創り出す力なのです。
 学校へ行くまでに、人より半年、一年ほど字をおぼえるのが早かったり、遅かったりすることが、十年後にどれほどの差を生むでしょうか。子どもが興味をもって習いたがったり、ひとりでにおぼえてしまったりするのはよいとして、耳からのことばをまず蓄えるべき幼児期に、無理に字を教え込もうとすることは、けっして賢明なことではないと思います。

「語りの伝統が生きているアフリカでは」ってめちゃくちゃ雑なくくりかただなー。さすが戦前生まれ(これも雑なくくり)。

 それはさておき。

「文字を獲得するのと引き換えに、それまでもっていた能力を失う」というのは興味深い考察だ。というのも、最近似た話を読んだからだ。

 鈴木 宏昭『認知バイアス』によれば、多くの幼児には写真のように見たものをそのまま記憶する能力があるのに、成長して言語を習得すると同時にその能力は失われてゆくのだそうだ。

 幼児は未熟で大人になるにつれ様々な技能を身につけていく、つまり成長とは一方的な能力アップだと思いがちだが、案外そうでもないのかもしれない。多くのステータスはアップするが、中には能力ダウンするステータスもあるのではないだろうか。


 うちの下の子は小学一年生だが、今でも寝る前には本の読み聞かせをしている。すると一度聞いただけの言い回しを正確におぼえていたりして、驚かされることがある。

 ぼくはまとまった文章を読んで内容を理解するのは得意な方だと自負しているが、その反面、他人の話を聞いて理解するのはめっぽう苦手だ。仕事でセミナーを聞いたことがあるがまったくといっていいほど頭に入ってこない。学生時代も、授業を聴くのをやめて教科書を読んで独学するようにしてからぐんぐん成績が上がった。

 そんな、「耳よりも目から情報を入れるほうが圧倒的に得意」なぼくからすると信じられないぐらい、娘は耳から聞いた情報をしっかりおぼえている。学校で先生から言われたこともちゃんと伝えてくれる。ぼくなんかまったく聞いていなかったのに。

 娘は一年生なのでもう一人で(ふりがながあれば)本を読めるが、それでもまだ耳から聞くほうが得意なのだろう。なのでぼくのところに「本読んでー」と持ってくる。

 そのうち目で読むほうが得意になって、父親のもとに「本読んで―」と言ってくることもなくなるのだろう(上の子はもうない)。さびしいことだ。




 昔話の特性について。

 また、リュティは、昔話の主人公には個性がないといいます。それは彼らに名前がないことからもわかるでしょう。昔話に登場する人物は、ただ「男とおかみさん」、「王さまとお妃さま」であって、名前がある場合でも「太郎、次郎、三郎」「ジャック」「イワン」など、性別や、兄弟の順を示すだけのもので、それらの人物の年齢、顔かたち、背格好、さらには、性格や、好みなどがくわしく描写されることはありません。せいぜい「世界一美しいお姫さま」「見あげるような大男」といった程度です。これらの人物は、ひとりの人間であるより、ひとつのタイプを示していると考えられます。
 タイプである人物には、「いいおじいさんと、わるいおじいさん」「やさしいおかあさんと、意地悪なまま母」「働き者の姉に、怠け者の妹」というふうに性格も極端に色づけされています。現実社会では、善良と見える人が、別の場面ではずるく立ち回ったり、相手によっては悪意をもって行動したりと、ひとりの人間のなかに違う性質が重層的に存在しているわけですが、昔話では、複雑なものを単純化し、ひとつの性質をひとりの人物にあてはめ、それをひとつの平面にならべて、違いを際立たせて見せています。リュティは、これを「平面性」と呼んでいます。単純になったことで、人の性質がつかみやすくなり、個性の縛りのないことで、聞き手(読者)の主人公との一体化が容易になります。これも、昔話が子どもに受け入れられやすい理由のひとつです。

 なるほどね。たしかに昔話の悪人って「四六時中悪いことを考えている徹底した悪」として描かれるよね。

 でも現実の悪はそんなんじゃない。たとえば賄賂を贈って東京オリンピックを誘致したやつらはすっごい悪だけど、一部の業界には利益をもたらしてくれる“いい人”なわけだし、家に帰れば善良な父や母や友人であったりするのだろう。

 大人になると、「いいやつに見えて悪いことをしてるやつ」が成敗される物語のほうがおもしろいけど、子どもにとってはもっと単純なほうが理解しやすくておもしろいのだろう。そういえばうちの子も小さいとき、映画などを観ていると「これいい人? 悪い人?」と聞いてきたものだ。すべての人はどちらかに分類できるとおもっているのだ。


 最近のディズニー映画やドラえもん映画などを観ていると、“完全なる悪”が減ってきているのを感じる。少子化の影響や大人もアニメを観るようになった影響だろう、ディズニーやドラえもんの映画でも「一見いい人の顔をして近づいてくるけど実は悪だくみをしている敵キャラ」や「こっちサイドにとっては悪だけど向こうには向こうの事情があって形は違う理想を描いている敵キャラ」が出てくる。敵に深みがあると物語に奥行きが出て大人にとってはおもしろいんだけど、はたして子どもにとってもおもしろいんだろうか。

 たとえば白雪姫の妃やフック船長のような、「己の欲望にしか興味のない、誰がどう見ても悪いやつ」のほうが、子ども向けコンテンツの敵役にはふさわしいんじゃないだろうか。

 近年はアニメ映画なんかがヒットしているけど、ほんとに子ども向けのコンテンツはかなり少なくなっている気がする。




 昔話、おとぎ話における“先取り”について。

 ビューラーは、予言、約束と誓い、警告と禁止、課題と命令、の四つを効果的な先取りの様式としてあげています。なるほど、「いばらひめ」は、予言が軸になって物語が展開しますし、「おおかみと七ひきの子やぎ」は、警告と禁止がきっかけで物語が動きはじめます。そのほかの項目についても、少しでも昔話に親しんでいる人なら、すぐにいくつかの例を思いつくでしょう。もし、首尾よくこれをなしとげたら、三つのほうびを約束しておこう。この三つのなぞを解いたら、娘を嫁にやろう。ほかはよいが、この扉だけは開けてはならぬ。これをなしとげるまで、けっして口をきいてはならない。ひとことでもしゃべれば、命はないぞ……。
 これらは、昔話のなかで、わたしたちが何度も耳にすることばです。そして、これらのことばが発せられるたびに、わたしたちの心には、期待、不安、怖れなどの感情が生まれ、緊張感をもって話の先へ注意を向けることになるのです。
 
 (中略)
 
 一般的にいって、子どもたちの注意の集中力は長くありません。先を見通す力も十分ではありません。そんな子どもたちに、話の先を知らせ、注意をそらすことなく、いつも話の中心に関心をひきつけておく、それが先取りの方法だと思います。先取りの示すヒントに従っていけば、注意力の散漫な子どもでも、話についていけます。
 歩きはじめた子どもは、いきなり長い距離を歩きとおすことはできません。でも、母親が、ちょっと先に立って、手招きしてやれば、そこまではたどりつくことができます。そして、母親がそのたびに、少しずつうしろへ下がって同じように誘えば、そこまで、またつぎのところまで……と歩き、結果として、かなりの距離を歩くことになるでしょう。先取りは、この母親役なのです。幼い子でも、昔話であれば集中して聞けるのは、この先取りがうまく作用しているからではないでしょうか。

 たしかにね。昔話って、この「予言」あるいは「警告」が頻繁に出てくる。「○○するだろう」と言えばその通りになるし、「決して××してはいけない」と言えば必ず××することになる。

 あれは物語におけるガイド役なんだね。歩くときに子どもの手を取って「そこに段差があるからこけないように気を付けて」「車が来るからちょっと待ってね」と先導してやるように、上手に歩けるように助ける役割を果たしているわけだ。

 毎日絵本の読み聞かせをしているけど、気づかなかったなあ。




 著者のエッセイ部分で、大きくうなずいたところ。

 国語力をつけるという面では、多くを負っている先生なのですが、たったひとつ、恨めしく思うことがあります。それは、副読本でその一部を読んだメーテルリンクの「青い鳥」についての説明のなかで、作品がいわんとしているのは、幸福は結局家庭にあるということだと種明かしをしてしまわれたことです。
 それまで、どんな物語も、ただただ「おもしろいお話」として読んできたわたしに、これは手痛い一撃でした。ふぅーん、そうなのか! 幻滅といっていいのか、裏切られたといっていいのか、「青い鳥」が一瞬にして色あせた気がしました。F先生は、わたしがよもやそこまで幼いとは思っていらっしゃらなかったのでしょうが、大げさな言い方をすれば、これはわたしの読書生活史のうえで、無邪気で幸せな子ども時代の終焉を告げる忘れがたい出来事でした!

 そうそう、物語って教訓とか意図とかを言語化されると急に色あせてしまうんだよ!

 以前にも書いたが(魔女の宅急便と国語教師)、物語に込められた作者の意図を説明してしまうという行為は、マジックの種明かしをするようなものだ。種明かしをされたら感心するし種明かしをするほうは気持ちいい。でも、それをしてしまうとマジックのおもしろさは永遠に損なわれてしまう。

 物語の種明かしはやめてくれよな! 特に国語教師!


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2025年8月18日月曜日

【読書感想文】長岡 弘樹『傍聞き』 / ふつうのミステリだと周縁の人たち

傍聞き

長岡 弘樹

内容(e-honより)
患者の搬送を避ける救急隊員の事情が胸に迫る「迷走」。娘の不可解な行動に悩む女性刑事が、我が子の意図に心揺さぶられる「傍聞き」。女性の自宅を鎮火中に、消防士のとった行為が意想外な「899」。元受刑者の揺れる気持ちが切ない「迷い箱」。まったく予想のつかない展開と、人間ドラマが見事に融合した4編。表題作で08年日本推理作家協会賞短編部門受賞。


 四篇のミステリ短篇を収録。

 表題作『傍聞き』以外は、登場人物たちの職業が刑事ではなく、救急隊員、消防署員、更生保護施設の施設長など「ふつうのミステリだと出てきても脇役程度の人たち」なのがおもしろい。

 いいところに目をつけたなあ。救急隊員や消防署員ってけっこう“事件”を目撃する機会がありそうだもんな。刑事よりも先に現場に駆けつけるわけだから、刑事以上に重要な手掛かりをつかむことだってあるだろう。「なんだこの奇妙な現場は」とおもうようなミステリに遭遇する機会だって、ふつうの人よりずっと多いはず。

 そう考えるとミステリ小説の主人公としてはけっこう適役かもしれない。



迷走

 刃物で刺された人物のもとへ駆けつけた救急隊員。刺された人物はなんと救急隊長と因縁のある人物だった。病院へ搬送する最中、隊長はなぜか病院とは違う道へ車を走らせるよう指示を出す。病院へ向かわずに迷走を続ける救急車。はたして隊長の目的は……。


 これがいちばんおもしろかった。舞台設定に偶然が過ぎる部分もあるが、真相が明らかになる種明かしは実に鮮やか。今まで見えていた景色が一瞬にしてまったく別の姿に変わる。

 ただ隊長が他の隊員に説明しない理由がちょっと弱い。最後にいっぺんに種明かしするほうがミステリとしてはおもしろいけどさ。


傍聞き

 娘と二人暮らしの刑事。留置所の窃盗常習犯から面会の申し出があるが、会いに行ったのに何も語らない。

 一方、刑事の家庭では反抗期の娘は不満があると口を聞かなくなり、要件はメモで伝えてくる。さらに最近はわざわざ手紙を投函して刑事の仕事に対する文句を言って来るようになる……。

 

 ミステリとヒューマンドラマを上手に組み合わせている、のか……? 高く評価された作品らしいけど、ずいぶんまどろっこしいことしてんなーという印象だった。


899

 消防士の男は、近所のシングルマザーに恋愛感情を抱いている。ある日、そのシングルマザーの家が火事に。乳児が取り残されているとの通報が。駆けつけた男は、最近子どもを亡くした部下に自信を取り戻させるため乳児の救出を任せる。だがいるはずの乳児の姿がなく……。


 種明かしは鮮やかではあるけれど、現実的かというと、かなり無理がある。(理由があったとはいえ)乳児をわざわざ危険にさらすようなことを消防士が行動に移すかというとなあ……。恋心を抱いている相手の家が火事になって消防士として駆けつけるのも偶然が過ぎるし(主人公が犯人だったらわかるが)、部下がとった行動も無理があるし、その行動の結果も狙い通りにいきすぎだし。

 いろいろとやりすぎな小説。


迷い箱

 元受刑者を受け入れる更生施設の施設町は、ある入所者が自殺するのではないかと心配していた。就職先を世話した後も気がかりで、あるとき彼の後をつけると……。


 ここまでハートフルな結末が続いていたのでこれもそうだろうなとおもっていたら、案の定。いちばん意外性のない作品だった。



 個人的な好みの差はあったが、どれもよくできた短篇ミステリだった。ちょっとした驚きもあって、後味も悪くなくて、主人公の心の揺れも描かれている。“傍聞き”“迷い箱”といったキーワードの使い方もうまい。そして文章に無駄がなく、過不足なくまとまっている。

 この作者の作品を読むのははじめてだったが、他のミステリも読んでみたいとおもわされる出来だった。


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2025年8月8日金曜日

【読書感想文】高橋 克英『なぜニセコだけが世界リゾートになったのか』 / 誰もが楽しめるリゾートの時代は終わった

なぜニセコだけが世界リゾートになったのか

「地方創生」「観光立国」の無残な結末

高橋 克英

内容(Amazonより)
地価上昇率6年連続日本一の秘密は何か。
新世界「ニセコ金融資本帝国」に観光消滅の苦境から脱するヒントがある。
富裕層を熟知する著者の知見「ヒトより、カネの動きを見よ!」
ローコスト団体旅行によるインバウンドの隆盛はただの幻想だった。かわりにお金を生むのは、国内に世界屈指のリゾートを作ることだ。平等主義に身も心もとらわれた日本人は、世界のおカネのがどこに向かっているのか、その現実にそろそろ目覚めるべきではないだろうか。
ニセコ歴20年、金融コンサルタントとして富裕層ビジネスを熟知した著者による、新しい地方創生・観光論。バブル崩壊以降、本当にリスクを取ったのは誰だったのか?

 上質なパウダースノーがあることからオーストラリア人スキーヤーの間で人気となり、それに伴って次々にリゾート開発がおこなわれ今や日本を代表するリゾート地となっている北海道・ニセコ。地価はどんどん上がり、超高級ホテルやコンドミニアムなど開発が進んでおり、コロナ禍を経てもその勢いは止まらない。

「上質なパウダースノー」という自然環境もあるが、それだけではニセコの成功は説明がつかない。ニセコ開発の歴史や他の観光地との比較を通して、成功の要因を探る本。




 ニセコの成功の要因のひとつは、外国資本が入ってきたことだ。

 海外の企業が投資して宿泊施設、サービスなどを提供したことで、海外富裕層が訪れやすくなった。日本企業、あるいは国や自治体などが主導していたならこううまくはいかなかっただろう。

 現在、日本各地に死屍累々と存在する「バブル期につくったでっかいハコモノの跡地」がそれを証明している。

 こうしてバブル期に東急グループや西武グループなど日本企業によって作られたニセコの礎は、バブル崩壊後、豪州や米国資本の手を経て、今は香港、シンガポール、マレーシアなどアジアの財閥グループなどによって、更なる大規模開発が続くに至っている。
 地元への還元という意味では、「外国資本」も「日本資本」もあまり変わらないのかもしれない。むしろ海外資本のほうが、景観など自然環境や地元還元、ダイバーシティに理解があったりする。概してビジネスライクで、合理的ではあるが、ロジカルであったりもする。長期的関係を重視する姿勢もニセコにおける開発計画にはみられる。
 ニセコの歴史を振り返ってみる限り、日本資本のほうが短期的でビジネスライクだったといえるのかもしれない。以前の日系ホテルのレストランでは、ニセコ産以外の食材を使う傾向があったが、外資系ホテルに代わってからは地元食材を使ってくれるようになったという。

 外国資本だからうまくいったというのもそれはそれで極端な意見だが、少なくとも海外富裕層を呼びこむためのノウハウは日本企業よりもずっと豊富に持っているだろう。もちろん官庁主導なんて話にならない。

 著者は、国や自治体が主導するリゾート計画の失敗を痛切に批判する。

 官主導、地元自治体主導の観光策やリゾート計画だと、卓上のこうあるべき論や、調査やアンケートやイメージなどから始まり、デメリットやリスクも考え、結局、総花的で「幕の内弁当」のような施策となり、肝心の需要が置き去りにされて、失敗するケースがほとんどだ。いつまでも勉強ごっこと資料収集ばかりしないで、実需を生む営業をし、収益を生む仕事にフォーカスすべきであり、まずは見切り発車すべきだ。
 走りながら考え、実践しながら修正してきたのが、まさにニセコの軌跡だ。行政を筆頭に日本の観光当事者には、事なかれ主義や完璧主義の弊害から、見切り発車をし、走りながら修正するという、スピーディーに顧客ニーズに応えるスタイルが著しく欠けているのではないだろうか。

 そうなんだよね。日本が豊かになった1980年代、あちこちにリゾート施設ができた。「あそこはあんなのを作ったそうだ。おらの町も負けてらんね」的な発想で、次々に。地元の需要も地域の特性も無視して、日本中に同じようなテーマパークができた。

 結果、ほとんどつぶれた。だって同じようなものがあちこちにあるんだったら、わざわざ遠くのテーマパークに行く必要ないんだもん。


 また、多くのリゾート施設の失敗は、すべての人をターゲットにしようとしてあれもこれもと詰めこむ「幕の内弁当」化にあると著者は指摘する。

 猫も杓子も押し寄せる場所に富裕層は来ない。彼らが望むのは特別扱いであり、待たずに済むことである。庶民が大勢来る場所ではそれは叶えられない。

 幕の内弁当にすればたしかに観光客数は増える。だが人が増えれば交通は渋滞し、景観は乱れ、環境は破壊される。観光客の満足度が下がるだけでなく、住民の生活にも支障が出る。京都などで現在起こっているオーバーツーリズム問題だ。

 ニセコがうまくやったのは、富裕層にターゲットを絞ったことで、観光客数を絞りつつ地元に落とさせるお金を増やせたことだ。

 ニセコの場合は雪質が良かったからできたことなのですべての観光地がまねできるわけではないけれど、参考にはなるだろう。


 べつに富裕層にターゲットを絞らなくたって、「長時間並ぶし料理が出てくるのも遅い入場料5,000円のテーマパーク」と「並ばずに済む入場料10,000円のテーマパーク」だったら後者を選ぶ人も少なくないとおもう。ぼくはどっちかっていったら後者だ。めったに行かないからこそ、行くときはストレスなく楽しみたい。

「入場料5,000円で1日200人来場」と「入場料10,000円で1日100人来場」だったら売上はどちらも100万円だけど、後者のほうがコストは少なくなる。つまり利益は大きくなる。来た人の満足度も後者のほうが高いだろう。

 これから働き手はどんどん少なくなる。外国人観光客を呼びこんだって受け入れ先に従業員がいなければどうしようもない。「誰もがそこそこ楽しめる施設」は淘汰され、「ターゲットを絞って満足度と使うお金を高める施設」が生き残ってゆくのだろう。



 この本が刊行されたのは2020年12月。コロナ禍まっただなかである。

 だが海外旅行客がほぼゼロになったときですら、ニセコ開発の速度は陰る様子もなかったという。

 コロナショックにより、日本だけでなく米国、欧州の政府と中央銀行により、史上最大規模の金融緩和策と財政出動策がとられている。コロナ禍から国民の生命はもちろんのこと、
 「雇用と事業と生活」を守るためにはあらゆる手段を尽くすとの意思表示である。
 金融緩和とは、極めてシンプルにいってしまうと、「人工的にカネ余り状態を作り経済を浮揚させる」ことだ。このため、極論をいってしまえば、日米欧が大規模な金融緩和策を採っている限り、おカネはジャブジャブ状態にあり、国際金融市場は悪くなりようがないということだ。
 各国の中央銀行から、おカネが際限なく供給されているわけであり、水の流れと同じように、おカネは必ずどこかに流れ着く。本来は銀行貸し出しなどを通じて設備投資や運転資金に回り、経済や雇用の活性化につながるのがベストではあるが、そこから余り溢れたおカネは、余剰資金として、株式市場や不動産市場に流れることになる。
 金融緩和策とは、言い換えれば低金利政策であり、今はゼロ金利政策やマイナス金利政策が日米欧でとられている。このため、余剰資金を定期預金や国債など債券に預けても、雀の涙ほどの利息にしかならないどころか、マイナス金利の預金のように、逆に金利を払ったり、手数料を払ったりする必要がある場合もあるほどだ。だから、少しでも高い利回りを求めて世界中のおカネが動くことになる。とはいえ、ハイリスク・ハイリターンはご免だ。せいぜいミドルリスク・ミドルリターンを狙いたい、ということで、日米欧といった先進国の株式市場や不動産におカネが日々流れ込んでいるのだ。途上国よりも先進国の株式、過疎地より都市部や高級リゾートの不動産という選択となり、その流れのなかにニセコも含まれている。それがコロナ禍下で、実体経済はダメながら金融市場は活況であるからくりだ。

 なるほどねえ。コロナ禍で株価がすごく高くなってたのをふしぎにおもってたけど、こういうからくりか。みんなが困っている時代でも(そんな時代だからこそ)お金が余って余ってしかたない人がいるんだなあ。




 札幌市が開催地として手を挙げている冬季オリンピックについて。
  2020年1月、日本オリンピック委員会(JOC)により、札幌市が2030年冬季オリンピック・パラリンピックの開催地に立候補することが正式に決まった。札幌の計画には輪のマラソン会場を受け新設の競技会場は一つもなく既存施設を活用すること、東京夏季五輪のマラソン会場を受け入れたことなどもあり、IOCの評価も高いとされている。
 もし開催されれば、1972年以来となる札幌五輪のアルペンスキーの会場候補地には、富良野など並み居る競合地を抑え、ニセコが挙がっている。4種あるアルペン競技の中で、滑降とスーパー大回転は湯の沢地区(ニセコビレッジスキー場とニセコアンヌプリ国際スキー場の間)に新コースを造る方向で検討、大回転と回転はニセコビレッジスキー場の既存コースを活用するという。ニセコビレッジでは、今後リフトやゴンドラ増設などが検討されることになる。
 なお、札幌では、サッポロテイネスキー場、札幌国際スキー場などが、フリースタイルやスノーボードの会場として計画されている。大会開催に伴う経済波及効果は、北海道内で約8850億円、雇用誘発数は同じく北海道内で約7万人と試算されている。
 ニセコでの五輪競技開催は、ニセコの地を、欧州や北米など海外スキーヤーや富裕層に、強くPRすることになる。2030年は北海道新幹線が札幌まで延伸され、ニセコに新駅が誕生する年でもある。五輪と新幹線の効果で、北海道、札幌、そしてニセコの活性化とブランド力の更なる向上につながることになろう。

 なるほどなあ。一般市民の反対の声が強くても、東京五輪が汚職まみれになっても、それでも開催したいのはそれだけ儲かる人がいるからなんだなあ。


 小林一三(阪急電鉄の創設者)は、鉄道路線を敷くと同時にその周辺に百貨店・遊園地・劇場などをつくり、鉄道の利便性を高め、施設利用者を増やし、地価を上げるという相乗効果を生みだした。

 この手法は他の会社でも踏襲され、鉄道会社が不動産開発をしたり、商業施設をつくったり、新聞社がスポーツ大会を開催したりした。

「イベントが開催されることによって儲かる会社が、自ら金を出してイベントを主催する」という手法だ。

 ところが今はあまりそういう会社はない。

「政党に献金をして税金をたんまり使ってイベントを開催させ、それによって甘い汁だけ吸う」というやり方にシフトしている。

 オリンピックや万博のまわりに群がっている連中だ。万博なんて「営業黒字になるかも!」とかわけわからんこと言ってるけど、あれ、用地費用とか建設費用はすべて税金だからゼロ円計算だからね。何千億という税金をもらって「やったー黒字だ!」って言ってるんだよ。黒字にならなきゃおかしいでしょ。


 ニセコのリゾート開発がうまくっているならけっこう。ぜひその調子で税金でアホなイベントを開催せずにがんばってもらいたい。


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2025年8月6日水曜日

変な名前に対する処世術

 六歳の娘が「こどもが生まれたらどんな名前をつけるか考えた」と言う。


「へーどんなの」

  「女の子だったら、かりん」

「へー。かりんちゃんかー。かわいい名前だね」

  「でしょ? で、男の子だったら、さいかわ!」

「さ、さいかわ……?」

  「そう!さいかわ!」

「(苗字みたい……)へー、えーっと、とってもめずらしい名前だねー」

  「でしょ!」

 そして娘は、母親のところへ走っていき、「ねえ聞いて、こどもが生まれたらどんな名前にするか考えた! めずらしい名前!」とうれしそうに語っていた。

 どうやらぼくの言った「めずらしい名前」という感想が気に入ったらしい。


 だが娘よ。

 君はまだ人生経験が浅いから知らないだろうが、おとうさんの言った「めずらしい名前だね」は褒め言葉じゃないぞ!

 悪いとは言えず、かといって良いとも言いたくないときに使う苦しまぎれの感想だ!

 おとうさんは、知人からこどもの名前を聞いて「変な名前」とおもったときは「へーめずらしいですねー」とか「クラスの誰ともかぶらなさそうですよね」とかで切り抜けてるぞ!

 変な名前をつけるやつは「唯一無二な名前であること」に異常に誇りを持っているから、そんな感想でもけっこう「そうなんですよー☆」と喜ばれるぞ!

 おぼえとくといいぞ!



2025年8月5日火曜日

ウナギとドジョウとヒトの呼吸

 ウナギはエラ呼吸だけでなく、皮膚呼吸もできるのだそうだ。だから泥の中でも動ける。落語で「ウナギをつかもうとしたらぬるりとすべって逃げるのでひたすら追いかけて、知り合いから『どこまで行くんだ』と言われたので『ウナギに訊いてくれ』と言った男」が出てくるが、あれもウナギが皮膚呼吸をできるから成り立つ噺なのだ。


 一方、ドジョウは腸呼吸ができるそうだ。口から息を吸い、腸から酸素を吸収。二酸化炭素は肛門から排出するのだそうだ。そのとき出た空気はドジョウのおならとも呼ばれるそうだ。

 このシステムはなかなかいいんじゃないだろうか。ヒトをはじめとする多くの陸上生物は、口にいろんな仕事を担わせすぎだ。噛みつく、咀嚼する、食べる、飲む、息を吸う、息を吐く。「息を吐く」だけでも他の器官が担当すれば、口の負担はずいぶん減るんじゃないだろうか。それに吸うのと吐くのが同じなんて効率が悪い。「吸いながら吐く」ができないじゃないか。掃除機だってエアコンだって換気扇だって吸うとこと吐きだすところは別口だ。

 ヒトも腸呼吸ならよかったのに。そしたらずっと肛門から空気が出ているわけだからおならも恥ずかしくないのに。でも痔になったりしたらずっと音が鳴っててそれはそれで恥ずかしいだろうな。



2025年8月4日月曜日

【読書感想文】畑 正憲『ムツゴロウの獣医修業』 / 医者はだめでもともと

ムツゴロウの獣医修業

畑 正憲

内容(文藝春秋BOOKSより)
ホモの豚、カゼ引きのキツネ、虫歯と痔に悩む犬、ペニスを骨折した牛等々、難病奇病でテンヤワンヤの動物王国。名獣医をめざすムツゴロウ氏と動物たちとの間のお色気ムード。

 1980年刊行。50年近く前ということで、あらすじの文章ですらかなり強烈。もちろん中身はこれ以上。ほとんど下ネタである(といっても動物の性行為とか性器とかの話だが)。


 畑正憲氏(通称ムツゴロウさん)といえばテレビでの変人のイメージが強いとおもうが、本業は作家である。ぼくは中学生のときに畑正憲氏のエッセイにはまり、古本屋をまわって数十冊のエッセイのほとんどを蒐集していた。畑正憲氏はすごく賢くてすごく行動力があってすごく変な人なので、エッセイも抜群におもしろい(小説はイマイチだが)。現在ではほとんど入手困難なのが惜しい。

 ひさしぶりに古本屋で氏の本を見かけ、なつかしかったのと、『獣医修業』はたぶん読んだことがなかったので(似たようなタイトルが多いので自信はない)、数十年ぶりに氏のエッセイを読んでいた。

 うん、今も変わらずおもしろい。というか、こういうヘンな文章を書く人が他にいないんだよな。鳥類学者の川上和人さんとか昆虫学者の前野ウルド浩太郎さんとか鳥類学者の松原始さんとかがそれに近いかな。動物を研究している人に特有の文章があるのか?

 でも畑正憲氏の博学で精力的で淫靡で嘘か誠かわからない文章はやっぱり他に類がない。どこまでほんとかどこからホラ話かわからない文章は、今の時代だと書かせてもらえないのかな。



 

 犬の交尾を手伝っている獣医の話。

「染色体だとか遺伝子だとか、難しいことはわかりませんがね、犬が年々下手になっていっているのは、これはもう疑いようのない事実ですよ。月末に収支をしめてみますとね、助手料が着実に増えています。この助手料というのは、つまり、交配の際の犬の押え役であるわけです」
「物理的に好き嫌いを超越させるわけですね。今度、私にもやらせて下さい」
「ああどうぞ。しかしですね、獣医というのが犬同士の結びの神であるわけでして、本来は必要でないところへシャシャリでているわけでしょう。要らぬことをやるので、犬どもが下手になっていくと思えるし、だとしたら犬に悪い影響を与えているのは獣医だと言えるし、これで、なかなか複雑な思いをさせられています」
 童貞の犬と十分に発情したメス犬を広い囲いの中に入れると見ものである。オスの方は次第に落着かなくなり、メスの上に乗ろうとする。しかしメスは、そう簡単に許さないので、童貞夫は身をよじって、サービスにこれつとめる。
 首筋を咬む。体をこすりつける。食物をゆずる。前にまわって口を開け、必死で相手の関心をひこうとする。
 要するにサービス精神のかたまりとなり、メスのしもべと化すのである。その有様を先生はこう表現した。
「まったく何か至上のもの、この世で一番の快楽がすぐそこにあるぞと自然が犬に吹込み、犬は食事も要らぬ、プライドも要らぬと張切っているのだけれど、さてどうしていいかわからない。それで、ひたすらメスにつきまとい、機嫌を取り結んでいるみたいですな」
 と、私は相づちを打って、
「かわいいとも言えるし、じっと見ているとアメリカの男性を連想しませんか」
「そうですね。あの似非ヒューマニズム、レディファーストの習慣は童貞犬のものですなあ」
「もし犬が煙草を吸うとしたら、ライターをパチリとつけるのはオスの役目ですね」

 酒の席の会話のようなくだらない会話だ。でもくだらなさの中にも知性が漂う。だけどいいかげん。

 最近、こういう「賢いのにちゃらんぽらんな文章を書く人」が減ったよなあ。北杜夫、遠藤周作の系譜。



 

 この本に書かれているのは、畑正憲氏が北海道の広大な土地で数多くの動物を飼いはじめた時期のことである。多くの動物がいれば怪我もするし病気にもなる。そんな中で、駆け出し獣医として奮闘している。

 ちなみに氏は免許を持つ獣医ではない。

 獣医師法第十七条には「獣医師でなければ、飼育動物(牛、馬、めん羊、山羊、豚、犬、猫、鶏、うずらその他獣医師が診療を行う必要があるものとして政令で定めるものに限る。)の診療を業務としてはならない。」とあるが、あくまで「業務としてはならない」なので、自分の飼っている動物を治療したり、知人の動物を無報酬で診療したりするのは獣医師法違反ではないようだ。そのへんは人間の医者とはちがう(人間の場合は無報酬でも医師でない者が医療行為をしてはいけない)。

 虫歯が一本や二本ならば、何とでもする自信が私にはあった。
 ロボットの腕みたいな歯医者のドリルは、私も一台持っている。先がとがったドリルや平たいヤスリをつけ、かつては幾多の手術に活用したものだ。
 特に便利だった点は、出血する部位の骨を削る場合などに、ごく僅かずつ作業を進め得ることだった。カエルやナマズの脳下垂体除去手術、カメ類の手術にも有用だった。
 なに、歯だって似たようなものだろう。人と違って全身麻酔を施してあるのだから、手早く削って悪い部分を除き、充填剤を注入すればよい。
 この充填剤も、私はしばしば活用している。二剤にわかれているものをガラス板の上で混ぜると、後の作業を急がねば固化してしまう速乾性が気に入って、ズガイ骨に穴を開ける手術などを行なった際には、ちょいと借用しているのである。
 動物学者はさまざまな手技を獲得しなければやっていけないのである。この私でさえ、センバンからガラス細工、七面倒くさいアンプの組立て並びに設計、バキュームカーの運転並びに汲取作業、処女の鑑定から発情の検定まで、一応の技術は身につけている。
 私は自分で再手術をすることにした。
 薬品類を調べると非バルビタール系の麻酔剤や、全身麻酔の薬が取揃えてあった。それを使って開いてみた。
「あれ、何だいこれは」
 皮を切って私はうろたえた。何が何だか分らないのである。
 赤い肉がごちゃごちゃと重なり、膿らしきものは見当らない。しかも、筋肉の所在が明瞭でないし、あまり深く切ると、腸を傷つけるのではないかと不安になった。私は途方に暮れ、
「おい。どうしよう」
「そう訊かれたって困りますよ。執刀医はムツさんだから、どうするのか自分で決めて貰わなければ」
 助手はてんで冷たいのである。私は、切口を引っ張ったりつねったりしてみたが、結論らしきものは出なかった。
「えい、思い切って!」
 メスを一閃、ズバリと切ってみた。分らなければ、分るようにしなければならぬ。手掛けた以上、原因をつきとめてやるのが情というものだ。傷口が三十センチになった。
 すると、見慣れた懐しい腹壁が現れたのである。胸のすぐ下で、腹直筋と外腹斜筋が見分けられた。とすれば、わけの分らぬ代物は、皮膚と腹壁の間に存在しているのだ。そこまで調べて私はやっと件の代物が腫瘍であろうと見当をつけた。
「大丈夫ですか」
「なるほど。おぼろげながら正体がつかめたぞ。こんなものを腹に入れていいわけがないから、ながら正体がつかめたぞ。こんなものを腹に入れていい切除してしまおう」
「なあに、腹壁の上ならことは簡単だよ」
 腫瘍が悪性のものであるのか良性であるのか、判別するのは容易ではない。私に出来るのは、止血しながら切ってしまうことだけである。
 切除には三時間かかった。傷が古く、治っては口が開き、閉じては開きしたものらしく、どうに惨憺たる有様だった。こぶしを三つ並べたほどもある肉塊を切出して開いてみたら、管状になった腫瘍が三つ複合し、ねじれ合って一つになっていた。
 切ってしまうと犬は元気になった。お腹がペソリとしてスマートになって、食もすすむようになった。素人の治療でもたまには功を奏すこともあるようだ。

 ずいぶん悪戦苦闘、試行錯誤している様子が伝わってくる。


 ほんの百数十年前までは人間の医療もこんな感じだったんだろうな。

 よくわかんないけど切ってみる。なんだかわからないけど悪そうなものがあるから切り取ってみる。切ったらうまくいったから次回もそうする。切ったら死んじゃったから次はもうやめとく。医療ってその歴史の大部分は「勘でやってみる。だめでもともと」で成り立っていたんだろう。

 でも今はそんなやりかたをとるわけにはいかない。人間相手なら当然、動物相手でも、世間的に許されないんじゃないだろうか。たとえ法的にはOKでも。

 畑正憲氏は、見よう見まね、試行錯誤、実践あるのみ、だめでもともと、というやり方で医者ができた最後の人かもしれない。


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ファストパスはイヤだ

 ファストパスってあるじゃない。テーマパークで、高い金を出してファストパスを買った人は並ばずに優先的にアトラクションを体験できますよってやつ。

 あれ、いやだよねえ。

 最初に行っておくと、ぼくはディズニーランドにもUSJにも行かない。最後にディズニーランドに行ったのは2歳のときだし(もちろんまったくおぼえていない)、USJには会社のイベントで業務として行っただけだ。


 なので想像でしかないのだが、ファストパスはイヤだ。

「金の力で順番を抜かされる」のはもちろんイヤだし、逆に「金の力で順番を抜かす」のもイヤだ。ズルしてるようで後ろめたい。

 そもそもああいう場所で金のことを考えたくない。持たざる側に立つのも持ってる側に立つのもどっちもイヤだ。

 ぼくが好きなテーマパークは大阪のスパワールドなのだが(ただし夏場を除く)、あそこは水着が裸で移動するので「リストバンドでツケ払いをして帰るときに精算」というシステムをとっている。これは中でお金のことを考える必要がないのでたいへん気分がいい。


 ファストパスを売って売上を増やしたいという施設側の思惑もわかるのだが、それって短期的には収益上がっても長期的に見たらライトユーザーの印象を下げることにつながってマイナスなんじゃねえの? ともおもう。

 ぼくの意見としては、もっと収益を増やしたいんだったら入場料を上げてくれたほうがいい。そしたら入場者数は減るかもしれないけどその分待ち時間が減って居心地は良くなる。「行かない人」と「行って満足する人」に分かれるのが理想だ。前者はテーマパークを味わえないけど、時間も金も失っていないのでがっかり感は少ない。

 ファストパス制度は「行かない人」と「行って満足する人」の他に「行ったけど満足できない人」を生みだしてしまう。お金も時間も使ったのにあんまり楽しめなかったね、の人だ。これは最悪だ。行って楽しめないぐらいなら行けないほうがずっとマシだ。


 ファストパスじゃないけど、以前某テーマパークに行ったときの印象が最悪だった。とにかく従業員が足りていない。客は長蛇の列をつくっているのに従業員が少なすぎてまったくさばけていない。「乗物に誰も乗っていないのに、説明をする従業員がいなさすぎて乗れない」という状況だった。人が多くて乗れないのよりも腹が立つ。並んでいる人たちはみんなイライラしていた。ぼくも二度と行くもんか、とおもった。

 従業員がいないのはしゃあない。でも、対応できないならいっそ「今日はこのアトラクションは中止します!」とやってくれたほうがいい。遊べないとわかっていれば他のプランを考えられるのだから。


 今の時代、どれだけチケットが売れているか、どれぐらい客が来たらどれぐらい待つことになるかなんてリアルタイムですぐわかるはず。もっと賢いやり方があるはず。

 行くなら、「チケットは確実に買えるけどぜんぜん楽しくないテーマパーク」よりも「(枚数的、金額的に)なかなかチケットを買えないけど行ったら楽しいテーマパーク」だ。

 これから働き手は減っていく一方。海外からの旅行客は増えていて、あちこちで「需要はあるけど供給が追いつかず長時間待たせる」ことが増えてくるにちがいない。

 そろそろ旧来の「とにかくたくさんの人に来てもらう」やり方を捨てて、来てもらう人を絞って満足度を高めるほうに舵を切ってもらえないだろうか。単価を上げて同程度の売上を確保するやりかたもあるんじゃないかとおもうのだが。


 ま、ディズニーランドにもUSJにも行かないぼくにはほとんど関係のない話なのだが。

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2025年7月29日火曜日

【読書感想文】ジェンマ・エルウィン・ハリス『世界一シンプルな質問、宇宙一完ぺきな答え 131の質問に111人の第一人者が答える』 / かっこいい質問にすばらしい回答

世界一シンプルな質問、宇宙一完ぺきな答え

131の質問に111人の第一人者が答える

ジェンマ・エルウィン・ハリス(編)  西田 美緒子(訳)

内容(Amazonより)
人間はなんのために生きているの? どうして右と左があるの? なぜ虹は曲がっているの? ……子どもは疑問の天才だ! 大人が困る子どもの質問に世界の第一人者が答える。


 子どもたちからの質問に、各分野のプロが答えるという企画をまとめたもの。ほぼ日本の「子ども科学電話相談」だね。ただし日本のほうは科学に限定しているけど、こっちはもっとくだらない質問も含まれる。

 どうすれば目から牛乳を出せるの?
 
 質問 ― ベン、一〇歳
 
 回答 ― イルケル・ユルマズ(目から牛乳を飛ばすチャンピオン)
 
 ぼくは目から牛乳を遠くまで飛ばす世界記録をもっている。どうやっているのかって? まず、鼻から牛乳を吸いこむ。それから鼻をつまんで(鼻から息を出すように、しかも鼻をつまんだまま)息を吹くんだよ。そうすると牛乳が強い力で押されて、鼻から目のはじっこまでつづいている涙管に流れこみ、上がっていく。そして目から飛びだしていく!ぼくが牛乳を遠くに飛ばした最長記録は、二メートル七九センチ五ミリ。これをできるのは、ぼくの左目の涙管が、たいていの人よりも太いからなんだ。
 だれにでも目から鼻につうじる涙管があって、目と鼻はなかでつながっている。泣くと鼻水がでるのはそのせいで、涙の一部が目から鼻に流れこむからさ。鏡に自分の目を映してごらん。目がしらの内側の上下に、小さい点が見えるはずだ。それがきみの涙管につがなる穴だね。
 お医者さんは、目から牛乳を出すのはよくないと言うだろうから、きみはやってはいけないよ。目が伝染病になったり傷ついたりすることがある。牛乳は、最後には耳にはいっていくかもしれない。でも、この回答をよろこんでもらえたらうれしいな。

 すばらしい。バカな質問にバカが真剣に回答している。なんだよ“目から牛乳を飛ばすチャンピオン”って。こいつに訊くこと、この質問しかないだろ。

 めちゃくちゃくだらない。くだらないけど、くだらないからといってボツにせず、ちゃんと採用して専門家(しかもこれ以上の適任はいない)に答えさせる姿勢はえらい。何がくだらなくて何が大事かなんて当人にしか決められない。もしかしたらこの回答を読んだ子どもが、人体の構造にさらに興味を抱いて優秀な研究者になるかもしれないしね。それか二代目目牛乳を飛ばすチャンピオンになるか。



 大人が読んでもけっこう勉強になる。

 グルグルまわると、どうして目がまわっちゃうのかな?
 
 質問―ジュマイナ、七歳
 
 回答―エリー・キャノン医師(テレビに登場する開業医)
 
 知らないかもしれないけれど、人がからだをまっすぐにしてじっと立っていられるのは、じつは耳のおかげなの。耳は音を聞きわけるだけでなく、からだのバランスもとっている。ほんとうにすぐれものね。
 耳の奥のほうの、脳のすぐ近くに、アーチ形をしたとても小さい管が三つあって、そのなかには液体がいっぱい詰まっている。
 その小さい管の内側には、もっと小さい毛がびっしり生えていて、液体が動くと、つられて毛もゆれる。
 海の底の海藻にちょっと似ているわね。でもその毛には、脳に信号を送って、「今はたくさん動いている」とか「今はあまり動いていない」と伝える役割があるのよ。
 あなたが動いていないときには、液体はおだやかな池の水のようにじっとしているから、両足でしっかり立っているかじっとすわっていることがわかって、管のなかの毛が脳にそう教える。でもグルグルまわりはじめると、液体は嵐の日の海のように激しくかきまわされるから、毛も激しくゆれ、からだがグルグルまわっていることを脳に伝える。ところが問題は、からだがまわるのをやめても、液体はしばらくバシャバシャ波うつのをやめないこと。
 液体のゆれがしずまるには少し時間がかかり、そのあいだは毛もゆれて、からだが動いているという信号を脳に送りつづける。からだは止まっているのに、脳はまだ動いていると思う。こうして脳が考えていることとからだがしていることがちがうために、目がまわってしまうというわけ。

 揺れるから酔うのかとおもっていたけど、これを読むかぎり、そうではなさそうだ。「揺れてて止まった」あるいは「揺れのリズムが変わった」ときに酔うわけだ。ずっと一定のリズムで揺れているのであれば酔わないのだろう。

 VR映像で酔うことがあるそうだけど、これはちょっとちがうな。「からだは止まっているのに脳は動いていると認識してしまう」という点では車酔いや船酔いといっしょだけど、VR映像では半規管は揺れないもんね。




 ぼくが選ぶベストQ&Aがこちら。

 サソリに紫外線をあてると光るのはなぜ?
 
 質問―シリン、八歳
 
 回答―ダグラス・D・ガフィン博士(生物学者)
 
 これはまた、むずかしい質問だ。まず、もう少しやさしい「サソリに紫外線をあてると、どうやって光る?」という質問に答えてみよう。光るのはサソリの表皮にある、紫外線(UV)があたると反応する化学物質だ。紫外線は目には見えないが、この化学物質のなかの電子というとても小さい粒のようなものを、いつもより活発に動かす力をもっている。その電子がまたふだんの動きに戻るとき、ぼくらの目に見える緑色の光を出すんだよ。
 でもきみの質問は「なぜ?」だね。たくさんの人たちが、こうではないかという答えを考えているが、たしかなことはまだわかっていない。そのなかのひとつは、メスのサソリが光ってオスのサソリを引きつけるというものだ。そのほかに、えさになる動物を引きつけているという考えもある。サソリは夜になると姿をあらわして、ガなどの昆虫をつかまえる。虫は光に集まるから、おなかをすかせたサソリのかすかな光にも誘われるかもしれない。
 三つ目は、サソリは表皮を使ってぼんやりした光を「感じている」という考えだ。ネズミやフクロウがサソリを食べようとねらっているので、サソリは逃げて身をかくさなければならないことがある。もし表皮で星の光を感じることができれば、からだに光があたらない、かげになるところまで走って、安全な場所を見つけられるかもしれない。ほのかに光るのは、緑色の光に気づく感覚が最も鋭いからだろう。表皮は星の光を吸収して緑色の光を出すことで、サソリができるだけうまく、ものかげを見つけられるようにしているというわけだ。
 ほかにもきみの質問にはいろいろな答えが考えられる。もしかしたら、サソリの光が果たしている役目などないのかもしれない。きみのようなすばらしい生徒が気づいて、質問をして、どんな可能性があるかと考えるよう、興味を呼び起こす以外にはね。

 えっ、サソリって紫外線をあてると光るの!? かっこいー!

 しかも画像検索してみたら、エメラルドグリーンに光ってた。かっこいー!

 質問もいいけど、回答が実にいい。

 三つの異なる答えを用意し、その上で仮説はまだまだあると伝えている。さらに、目的などない可能性も伝えている。世の中のものにすべて意味があるとおもっている人もいるけど、自然界には「たまたまあるだけで何の役にも立たないもの」もけっこうあるからね。ぼくらも含めて、すべての生物はまだまだ進化の途中なのだから。

 そして最後に、質問を褒めて、自分でも考えてみるよう誘導している。なんとすばらしい姿勢!


 NHKでやってる某クソ番組の「こうに決まってる! これ以外の答えをするやつはボーっと生きてんじゃねえよ! あ、でも文句つけられたらイヤだから『諸説あります』って言い訳しとこ。わからないことをわかりませんって言わずに済むための便利な言葉だから」の科学軽視の姿勢とは正反対だね!


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2025年7月28日月曜日

【読書感想文】高比良 くるま『漫才過剰考察』 / 表現者じゃないからこその強み

漫才過剰考察

高比良 くるま

内容(Amazonより)
M-1グランプリ2023王者・令和ロマンの髙比良くるまがM-1と漫才を完全考察!
分析と考察を武器に、芸歴7年目の若手ながら賞レースをはじめ様々な分野で結果を残してきた令和ロマン。そんな令和ロマンのブレーン・髙比良くるまが、2015年から昨年のM-1、さらには2024年のM-1予想に至るまで、考えて考えて考え尽くした一冊。
「現状M-1に向けて考えられるすべてのこと、現在地から分かる漫才の景色、誰よりも自分のために整理させてほしい。頭でっかちに考えてここまで来てしまった人間だ。感覚でやってるフリをする方がカッコつけだと思うんだ」(本文より)
史上初のM-1二連覇を狙う著者が、新型コロナウイルス流行や、東西での言葉の違い、南北の異なる環境が漫才に与えた影響、昨今話題の「顔ファン論争」に漫才の世界進出まで、縦横無尽に分析していきます。著者の真骨頂“圧倒的マシンガントーク”は本書でも健在です。

 M-1グランプリ2023、2024で史上初の連覇を成し遂げた令和ロマンの高比良くるまさんによる、漫才に対する“考察”。この本の刊行は2024年なので、初優勝をした後、連覇をする前に書かれたもの。


 まず本の内容と関係ない話をしておくと、電子書籍版はただの画像でレイアウトもクソもなくて超読みにくいので、読むなら紙版です。

 また、雑誌の連載を元にしているので時事性も強く、固有名詞やネタの話がばんばん出てくるが「当然みんな観てるしおぼえてるよね」という前提で話が進んでいくので、M-1とかキングオブコントとかをしっかり観ている人以外はついていけないんじゃないかなー。




 M-1グランプリの話もおもしろかったが、個人的により興味深かったのは寄席の漫才の話。

 そこで達人たちがやってることは何だろうって考えると、「顔」だと思う。顔芸。ただの変顔じゃなく「顔」の芸。
 寄席最強芸人の一角、中川家さんの漫才は細かいモノマネ芸の連発。車掌さんや大阪のおじさんなどの鉄板ネタの前に、まず「笑顔の切り替え」のくだりで「サラリーマンがエレベーターで先方と別れるときの顔」のくだりから始めてることが多い。これって自分や相方の顔を使って「画像で一言」大喜利をしてるみたいなことだけど、実はそれが最も情報量が少なく伝わりやすいんだよな。台詞や演技というのは、手足の動き、発言の意味などお客さんが注目しなければならないポイントがたくさんあって、大袈裟にいえばマルチタスクを強いちゃってるんだ。それによって船に乗れない人が出てきちゃったら、そのモノマネの内容がどれだけ面白くても意味がない。だからまず「顔」にフォーカスして笑いを誘えば、とりあえず顔だけは「理解」がクリアになってる状態。最初は全身モヤがかかってるみたいな状態で、まず顔が見えて、次に声のモノマネで喉が見えて、舞台を広く使ったボケで手足が見えてくる、って感じ。モンハンのマップみたいなさ、最初は「???」になってるけど、移動したらそこが見えてくるみたいなさ。これ「顔」の中でも目とか鼻とか「顔の上半身」な気もする。子どもって「顔の上半身」好きじゃない? やっぱり人間が本能的に見るのは話している人の「目」なわけで、そこが寄席お笑いのど真ん中、BULLなんだと思う。

 あとサラッと言ったけど、最後に舞台を広く使うってのは賞レースでもオススメテクニックとして語られるけど、こういう理屈だったんだ。見てるのは賞レースのお客さんだから初めからたくさん動いても「理解」してくれようとするだろうけど、演者の存在が鮮明に見えてからやると最大の効果が得られる技なのかも。
 ベテランのみなさんがやる「顔が芸能人でいうと○○に似ててー」とか「すみません○○みたいな顔して」というお決まりのツカミたちも、単純に顔を覚えてもらうためにはやった方がいいのかな、くらいに思っていたけど実は「顔」へのピントを合わせさせる技でもあったんだろうな。こういうお決まりのものって、若手から見るとクラシックに見えてしまうけど実際現代においても意味があるということだよ。だいたい人間なんそんな大きく変わってるわけじゃないもんな。

 何度か生の漫才を見たことがあるけれど、ベテランのほうがウケていたし、ベテランのほうが「ぼくらのこと知ってる人ー!」と客に手を挙げさせたり、客に話しかけたり、「漫才に客を引きこむこと」にたっぷり時間をかけていた。手を動かさせ、声を出させ、しょうもないけどわかりやすいボケでまず笑わせてから、ネタに入っていた。

 漫才というと「おもしろいことを言う」が最重要だと思いがちだけど、もっと大事なのは「まず聞いてもらう」「安心して笑える状況をつくる」ことなのだろう。その準備が整っていないうちにいくらおもしろいことを言ってもウケない。


 そういえばM-1グランプリ2023での令和ロマンの漫才も、「松井ケムリさんはあごひげともみあげがつながっていて……」と、まず顔に注目させるツカミをしていた。

 おそらくトップバッターだったから余計に、おもしろいことを言うより先に「話を聞いてもらう」状況をつくることに時間をかけていたのだろう。

 令和ロマンの漫才が高い点数を獲得したとき、テレビで観ていたぼくは正直「悪くはなかったけどそんなに高くつけるほどか?」とおもった。でもそれはテレビで観ていたからわからなかっただけで、「まだ場が整っていなかった舞台ですごいスピードでお客さんを引き込んだ」ことを含めた評価だったのかもしれない。数々のやりにくい舞台で漫才をやってきた審査員だからこそ、そのすごさがわかったのだろう。




「大阪弁は親しみやすく漫才に向いてる」というのは、よく聞く話。

 ただ高比良さんのすごいのは、「親しみやすいから」とか「もともと商人の言葉だから」なんて根拠のあいまいな話で終わらせず、ちゃんと理論立てて説明しているところ。

 それを漫才に落とし込むと、同じ台詞でも音的に短く済むため、間を取って喋ることもできるし、さらに違う台詞を詰め込むこともできる。アクセントが語尾にあるので、語順を少し端折っても伝わりやすい。「なんでだよ」は「なん」にアクセントがあるのでそこと前のボケが被ると分かりづらいけど、「なんでやねん」は「やねん」が大事なのでぶつかっても大丈夫。だから「っでやねん」くらいしか聞こえなくても平気。ダイアン津田さんとか常にそう。

 なるほど、アクセントか。「ボケる」→お客さんがお笑い終わるのを待つ→「なんでだよ」だと遅すぎるもんな。

 よく「漫才は掛け合いが大事」と言うけど、関西弁じゃなければ速いテンポでの掛け合いはむずかしい。言われてみれば、関西弁以外の漫才師は、遅いテンポでやるか、テンポを上げるのであれば細かくツッコまないやりかたをとっていることが多い。


 万事こんな感じで理論を持っているから、どんな場にもあった対応をできて、不利とされるトップバッターからのM-1グランプリ2連覇という偉業を成し遂げることができたのだろう。

 ほとんどのコンビが「そのとき自信のある2ネタ」を持って決勝に臨むのに、令和ロマンは何本ものネタを用意してその場にあったネタを選んでいたのだそうだ。すごい話だ。




 ぼくは漫才を見るのは好きだが、芸人の書いた本はあまり読まない。芸のプロではあっても文章を書くプロではないとおもっているからだ。

 特に令和ロマンのファンでもないぼくがこの本を買ってみたのは、高比良くるまという人が、芸人としてはあまりに特異な思想を持っていることに興味を持ったからだ

 M-1優勝後のインタビューで、高比良くるまさんは「自分が優勝した年のM-1は失敗だった。盛り上がりに欠けた」とか「大会が盛り上がることを最優先に考えている。盛り上がるのであれば自分たちが優勝でなくてもいい」といったことを何度も口にしていた。

 ほんまかいな、とおもう。そんなわけないだろ。番組プロデューサーが言うならわかる。でも漫才師としてずっと芸を磨いてきて、1000万円の賞金とそれ以上の名誉や肩書を手に入れることのできる大会の決勝に出て、「優勝は自分たちでなくてもいい」とおもえるだろうか? そんなモチベーションの芸人がそこまで勝ち進められるのだろうか?


 何度インタビューを読んでも「嘘じゃないの? 話をおもしろくするためにおおげさに語ってるんじゃないの?」とおもっていた。

 だがこの本を読んでみて、ほんとかもしれないとおもうようになった。

 とにかく表現者としての我が感じられない。

 芸人になろうとする人って多かれ少なかれ、「己のすごさを世に知らしめたい!」というエゴを持っているものだとおもう。そのエゴこそが(うまく世間の求めているものと合致したときは)世間を惹きつける力になる。

 だが高比良くるまさんの語りからは、そういうエゴがほとんど感じられない。「他の人に理解されなくてもおれはこれをおもしろいとおもう! だからおれはこれをやる!」という思想がまるでない。

 だが観察眼や分析力はとんでもなく長けているので、「どうやら世間はこれを求めているらしい」「こういうことを言えばみんなは笑うらしい」と察する力はすごい。他の成功している芸人にもそうした力はあるだろうが、エゴと「世間の求めているもの」の間で葛藤する。「こうしたらウケるだろうけどダサいからやりたくない」と。

 だがくるまさんにはそのエゴがほとんどないので葛藤がない。だから変幻自在に自分のスタイルを変えることができる。NON STYLEというコンビがその名前とは逆にがっちがちにスタイルを定めた漫才をやっているのとは逆に、令和ロマンには特定のスタイルがない。これこそノンスタイルだ。


 この本には、同じく若くしてM-1グランプリを制してよく並んで比較される粗品さんとの対談も収録されている。

 二人の対談を読むと、思想の違いがはっきりわかっておもしろい。粗品さんは「おれがいちばんおもろい! 世間がなんと言おうと、おれがおもろいと認めないやつはおもろない!」という強烈なエゴがある。

 これはむしろ芸人としてはふつうだ。ほとんどの芸人が多かれ少なかれそういう意識を持っているだろうし、成功した芸人ほどそれが顕著だ(例外はナインティナインだとおもう。あれだけ成功した芸人でありながらほとんどエゴを感じない)。

 バスケで言うと、粗品さんはスコアラーだ。自分が得点にからみたい。自分がシュートを打って決めたいし、そうでなくてもアシストをするぐらいのポジションでありたい。

 一方、くるまさんはシュートにはこだわっていない。チームの勝利、あるいはいいゲームを目指していて、そのためなら自分はディフェンスでもいいしなんならベンチでもいい。攻めることが必要と考えれば攻める。翔陽の藤真ポジションだ。

 ただしふたりとも戦術には絶大の自信を持っているので、納得のいかない戦術には従いたくない。


 世間一般の話をすれば、くるまさんみたいなタイプもめずらしくはないとおもう。ただし芸人界、それもメジャーになる芸人ではべつだ。裏方もやれるタイプはそう多くないだろう。

 くるまさんは、表現者というよりファンとしての立場で漫才に関わっているのだろう。YouTubeで分析動画を語っているくるまさんなんか、完全にファン目線だ。

 読んでいておもうのは、この人を漫才師にしておくのはもったいないということだ。もっと広い視野で物事を考えられる人なのだから。

 ちょうど所属事務所を退所したことだし、これを機に、何かもっと大きなこと(事務所をつくって漫才で海外に進出するとか)をやってほしい。


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2025年7月25日金曜日

【読書感想文】坪田 信貴『「人に迷惑をかけるな」と言ってはいけない』 / 買ってあげるかどうかを決めるのは金額じゃない

「人に迷惑をかけるな」と言ってはいけない

坪田 信貴

内容(e-honより)
「子どものために」と伝えた一言が未来の可能性を奪っている。「人に迷惑をかけないように」「今忙しいからあとで」「勉強しなさい」「宿題くらいやりなさい」…。ついつい言ってしまいがちな一言が、子どもにとって逆効果になっていることがある。大事なのは、制限をかけることではなく、その子に合った可能性を見せることなのだ。ミリオンセラー著者による大事な人の未来を奪わないための新時代の子育て論。

 元塾講師である著者による子育て論。

 多くの子育て書がそうであるように、自分の観測範囲で「短期的にうまくいった事例」を集めて紹介しているだけで、科学的再現性は乏しい。

 なんで子育ての本を書く人ってみんな「うちはこれでうまくいきました」レベルの話を、唯一の正解であるかのように語るんだろうな。「赤いシャツを着ていったら競馬で勝ちました」ぐらいの話なのに。




 タイトルにもなっている、「人に迷惑をかけるな」と言ってはいけないという話。

「人に迷惑をかけてはいけない」と思い込む最大のデメリットは、「人に助けを求められなくなる」ことです。
 何か困ったことがあっても、助けを求めれば迷惑をかけることになる。だから自分1人でなんとかしようとしてしまうのです。
 生活保護にしても、「貧しいのは、頑張っていない本人のせいだ」と自己責任論を掲げる声もあり、経済的に困窮した人たちの中には、生活保護の受給になかなか踏み切い方もいます。自分の行動が社会的に迷惑になると考え、助けを求めることができないのです。
 日本人は先進国の中で自殺が多いことでも有名ですが、助けを求めることができず「人に迷惑をかけるくらいなら自分がいなくなってしまおう」と考えてしまうのだとしたら、あまりにも悲しいことです。近年10代の自殺が増えていると言われますが、もっと早く助けを求めることができれば、結果は変わってくるのかもしれません。

 まあ部分的にはうなずけるかな。

 ぼく自身、他人に相談したり頼ったりするのが苦手なので、「もっと若いうちは特に他人に甘えて生きたらよかったな」とおもう。完璧であろうとするよりも、だめなところをさらけ出すやつのほうがかわいいもんね。特に若い子だと。

 とはいえ「他人に迷惑をかけるな」ってのもいろいろあって、「道に迷ってしまったので人に尋ねる」ぐらいならぜんぜんいいけど、「小学生がレストランででかい声を出して走りまわる」だったら「人に迷惑をかけるな」と言ったほうがいい。

 現実にはその間にいろんな段階があって、どこに「迷惑をかけていいか」のラインを引くかはケースバイケースなので、正しくは「『人に迷惑をかけるな』と言ってはいけない状況もある」ぐらいかな。乱暴に本のタイトルにしていい話ではないかな。




 親として悩むことの多い、お金について。

「ほしいものはお小遣いを貯めて買いなさい」と言ってはいけない、という話。

 決められた予算の中で買う、予算を消化するというのと、自分からほしいものを手に入れようとするのとでは子どもの積極性は大きく変わるはずです。これはお金のみの話ではありません。お小遣いという枠の中で考えることが、あらゆる面で予算主義的な発想につながるのです。
 (中略)
 ほしいものがあるつど、プレゼンしてお金をもらう方式だと、適正な金銭感覚が身につかないのではと思われるかもしれません。確かにあれもほしい、これもほしいととりあえず主張するだけでは一方的に主張しているだけになります。お金を渡す側の事情も明かす必要があるでしょう。「今の家計はこうで、余裕があまりないのはわかっている。そのうえで、これがほしい」と主張できるなら、金銭感覚も身についていると言えるのではないでしょうか。

 たしかになあ。「高いから買えない、安いから買う」という単純な話ではないよな。

 生物が好きな子がいい顕微鏡を買ってほしいと言ってきたら少々高くても買ってやりたいけど、くだらないガチャガチャをやりたいと言われたら「自分のお小遣いで買いなさい」と言いたい。


 ぼくが高校生のとき。辞書を読むのが好きなので、広辞苑を欲しかった。いちばん分厚いやつ。たしか当時二万円ぐらいした。高かったので誕生日プレゼントで買ってもらったんだけど、今にしておもうと、誕生日じゃなくても「広辞苑買ってほしいんだけど」と言えば買ってもらえたんじゃないかとおもう。ぼくが親だったら買ってあげる。

「ガチャガチャやりたい!」「だめ!」とか「友だちとボーリング行きたい」「自分のおこづかいから出しなさい」みたいなやりとりの結果「自分の好きなもののために親はお金を出してくれない」とおもいこんでたけど、「博物館行きたい」とか「プログラミングの勉強したいから安いやつでいいからパソコン欲しい」とかだったら十分特別予算がついてた可能性があるんだよな。今ならわかる。


 親の気持ちとしては「ものによっては高くても買ってあげるけど、ものによっては安くても買ってあげない」なので、これを子どもに伝えていきたい。




 最初に書いたように「うちの場合はこうしたらたまたまうまくいきました」レベルの話が並んでいるんだけど、いちばん共感できたのは「親は完璧であろうとしないほうがいい。ダメなところのある親のほうがむしろしっかりした子に育つ」というとこ。

 そうね。だからこの手の本もあんまり真剣にとらえなくていい。ぱぱっと飛ばし読みして、うなずけるところだけをつまんで「オッケー、自分のやりかたで大丈夫」とおもうぐらいでいい。ぼくはそういう読み方をしました。


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2025年7月23日水曜日

ダブルインパクト2025の感想


 日テレ主催ということでぜんぜん期待せずに観たのだが、はたして日テレの悪いところが全面に出た大会だった。

 いや、ネタはおもしろかったんだけどね。でもとにかく大会の思想がなかった。今のシステムでは世に出ることのないこういう芸人を発掘したいとか、こんなネタが評価されないのはおかしいから評価する場をつくろうとか、そういう意義はまるでない大会だった。漫才の大会もコントの大会もあって、両方できる芸人は両方に参加して、それぞれで結果を残している。そんな中でこの大会を開催する意義はなんだったんだろう。「二刀流」って言いたかっただけなんだろうなあ。

 で、案の定M-1でもキングオブコントでもいいところまで行っているニッポンの社長とロングコートダディが上位。他の大会の劣化コピーになってしまっている。大会のセットや審査方式なんかも全部どこかで見たことあるような感じ。

 ただの劣化コピーならいいんだけど、良くないのが開催時期。キングオブコントの2ヶ月前、M-1予選が始まる時期に開催。下位互換のくせに生意気だ。邪魔するなよー。

 ということで、各コンビがM-1やキングオブコントの決勝で披露できなかった捨てネタを持ってくることになるのも必然。キングオブコントのほうは準決勝を観ていないけど、ほとんどのコンビがM-1予選でかけてたネタを披露してたよね。それはそれでネタ供養の場として有意義なんだけど、大会としては1ランク下であることを突きつけられてしまってる。M-1やキングオブコントでだめだったから来年のダブルインパクトに持っていけばいいや、ってすべり止めの大会になってしまいそう。


 ま、観てる側としては思想がなくても大会のランクが低くてもおもしろかったらいいんだけど、だったら審査に時間をかけないでもっとたくさんのネタを見せてほしい。「みんな2ネタずつ披露して、最後におもしろかったところに投票」ぐらいでいいんじゃないの? 重みがないのに、重みがある大会のシステムだけ真似しなくていいからさ。


 ということで大会の向いている方向には疑問が残るけど、これからも続いてほしいとはおもうよ。

 良かったところ。

  • すべてのコンビが2ネタ披露してくれるとこ

 キングオブコントから失われたものが復活したのがうれしい。でも漫才とコントの順番を選べるようにしたのはどうなんだろう。7組中6組がコントを先にしていたけど、そりゃそうなるよなあ。

「コントのほうが準備に時間がかかるので後がコントだと余裕がない」「漫才のほうがネタかぶりに対応したり、番組中に起こったことなどをアドリブで盛り込んだり融通が利く」と考えると、今後もコント先漫才後が多くなりそうな気がする。

  • 無駄なものが少なかった

 これまでの人生をふりかえるような長いVTRとか観覧ゲストとか。これでいいんだよ、これで。


 以下、ネタに関する感想。

かもめんたる

 コントも漫才もどっちも気持ち悪くてよかった。

「女性の部分に話しかけている」というなんともいえない(今の時代だと「気持ち悪いな!」と言いづらいけどやっぱり気持ち悪い)設定のコント。完全に否定するのではなく、とまどいながら徐々に受け入れていくのが演劇的。ただし丁寧に心の機微を描くには時間が短すぎた。心境の変化が急すぎたな。

 個人的には漫才のほうが好み。忘れていたけどぼくも「おじさんはおばさんをかわいく見えるのか?」って疑問におもってたなあ。でも誰にも言ったことはないし、自分自身でも忘れていた。絶妙な問いの立て方だ。

 槙尾さんがほとんどあいづち役でう大さんの独演会になっていたのは漫才としては物足りない面もあるが、でもそれこそがリアルなかもめんたるなので、ここを崩すかどうかはむずかしいところ。かもめんたるの関係性を知っているものからすると、槙尾さんがガンガンつっこんでたらそっちのほうが嘘っぽいわけで。

 他のコンビがほとんどコントに近い漫才をやっていた中、いちばん本格的な漫才を見せてくれた点はもっと評価されてもいいとおもった。


スタミナパン

 漫才は、麻婆さんがコントに入ってボケ続け、トシダさんが半歩だけコントに入って半分外からつっこむというめずらしいスタイル。半歩外に出ていることで、強いつっこみが可能になる(だって完全にコントに入って彼氏が彼女にキレまくってたらなんでデートしてるんだってことになるでしょ)。一方、半歩中に入っていることでストーリーを進めやすくなる。かなりむずかしいことをかんたんそうにしている。このスタイルでスタミナパンの漫才はまだまだ進化しそう。

 コントははじめて見たけど「ベルが三つある」という設定は良かったものの、その設定ならまだまだやれることはあったんじゃないかともおもう。違う音のベルがあったらどうなるんだろうとか、他の客はどうしてるんだろうとか、いろいろ考えたくなる設定ではある。


コットン

 コントはさすが。「バイト代わってくれません?」はわりと使い古されたネタだけど、確かな演技力と、母さんとか靴紐とかの積み重ねで魅せてくれる。裏の裏をかく「どうせ買い物につきあってくれでしょ?」「はい」とか。

 漫才はひどかったなあ。コットンの悪いところが出てたなあ。己の魂を出すんじゃなくて、他の芸人を表面だけなぞった感じ。2年目芸人みたいな漫才だった。今後はコントに専念でいいんじゃないかな。


セルライトスパ

 夜行バスを舞台にしたコント。派手すぎる展開に持っていかずに抑えたおもしろさをかもしだす、セルライトスパらしいコント。バスの座席だけで完結する狭い舞台なのに、前後の時間も感じられる上質な芝居だった。あの後この二人は仲良くなるのかなとか考えてしまうなあ。

 漫才も「得意分野で勝負しろ」というテーマの通り、自分たちの持ち味を十分に発揮していた。いちいち説明しないところがコント師っぽい。大須賀さんの魅力は昔から変わらないけど、肥後さんの異常性が強く出るようになったのはコンビとしていい変化。


ロングコートダディ

 謎の組織でコードネームをつけられるという大喜利色の強いコント。ただし名前の羅列ではなく、ダサいコードネームから、言いにくい名前、学習しない男、みんな対応しているのにやっぱり一人だけ学習しない男など、笑いのポイントが微妙に変化しているのがニクい。最後のは、映画のタイトルだとわからなかった人もいたのでは(一緒に観ていた妻はわからなかった)。けど説明しないところがオシャレだしなあ。

 漫才のほうは、だるまさんがころんだ2、おにごっこ5などの新しい遊びを披露するというネタ。ロングコートダディらしさもありつつ、ビジュアル的なおもしろさもあり、後半に盛り上がりもあり、ほんといいネタ。M-1予選でもやってたけど、なんでこれで決勝に上げなかったんだ。

 人間味を出さなくてもおもしろい漫才はできることを示してくれた。


ニッポンの社長

 コントは、「電流を浴びることによって扉を開けることができる」という設定が明らかになって時点でだいたいの展開が見える。そして予想通りの展開。なのに笑ってしまう。わかっていても笑わせる、ニッポンの社長の力強さが存分に出ていた。

 以前にも書いたけど、ケツさんってどんな目に遭わされてもちっともかわいそうに見えないんだよね。ずっとちょっと憎らしい。すごい才能だ。

 漫才は、コントよりもスケールダウンしていた印象。三つのシチュエーションがあり、そのたびに暴力性がリセットされてしまうからか。ただ「なー!?」の言い方であそこまで笑いをとるパワーはさすが。


ななまがり

 コントも漫才も徹頭徹尾くだらないネタ。ぶっとんだ発想ではあるがちょっとものたりない。何度もななまがりのネタを観てきた身としてはもうこれぐらいでは驚かない。逆にオーソドックスな漫才やコントをやってきたほうが衝撃を受けるかも。



 ということで、優勝はニッポンの社長。まあ優勝はどうでもいい。関西コント保安協会のニッポンの社長、ロングコートダディ、セルライトスパがトップ3を占めたのがめでたい。

 おもしろかったけど、「この大会でしか観られないもの」は感じとれなかったなあ。今後もあまり期待はできない。

 個人的には「他の大会で披露できなかったネタの受け皿」としての価値は見いだしているんだけど、それでも続けてやろうという気概があの放送局にあるかどうか。どうもあの局は芸人へのリスペクトを感じないんだよなあ……。


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2025年7月22日火曜日

そんじょそこらの人として生きる

 最近ふとおもう。

 昔の自分はおもしろいことを言おうとしてたなあ、と。


 逆に言えば、最近の自分はおもしろいことを言おうとしていない。

 たとえば、同僚から「脚痛いわ~」と言われたとき。


ぼく「どうしたんですか?」

同僚「昨日マラソン大会に出たんですよ」

ぼく「へえ。何km走ったんですか?」

同僚「フルマラソンです」

ぼく「フルマラソン? すごいですねー。普段から練習してるんですか?」


みたいな会話をする。ごくふつうのやりとりだ。順調に会話が進んでいく。


 でも若い頃はこうはいかなかった。

「昨日マラソン大会出たんですよ」と言われたら「1時間何分?」とか「なんで走らされたん?」とか「五輪選考会?」とか、“おもしろいこと”を言おうとしていた。いや、実際におもしろいかどうかはわかんないけど、とにかく“ふつうの人が言わなさそうなこと”を言っていた。いわゆる“ボケる”という行為だ。

 もちろん誰かれ構わずボケていたわけではなく気心の知れた相手に対してだけだが、とにかく「隙あらば笑いをとってやろう」と身構えていた。

 いや身構えていたというのは正確ではないな。なぜならべつに「笑いをとってやろう」と意気込んでいたわけではなく、デフォルトが「ふざける」で、これといったボケが思いつかないときだけ「ふつうに返答する」を選択していたから。それぐらいおもしろいことを言おうとするのがふつうだった。

 とにかく、おもしろい人間だとおもわれたかったのだ。そんじょそこらの人とはちがうとおもわれたかったのだ。



 そんなぼくも四十代になった。

 昨今では「ごくふつうの受け答え」が標準になった。聞かれたことに正面から答える。いちいちボケない。相手が望んでいるであろうリアクションをとる。

 よほど絶妙なタイミングでおもしろいことをおもいついたら口にすることはあるけど、基本は「どうってことのない返答」だ。とにかく、波風を立てないことが最優先。

 べつにおもしろい人とおもわれなくていい。そんじょそこらの人でいい。オレはチームの主役でなくていい。

 我執がなくなっているのを自分でも感じる。

 四十歳を過ぎて、この先自分が「特別な人」になる可能性がほぼなくなったから。

 結婚して、中年になって、もうモテる必要がなくなったから。

 子どもが生まれて、自分の人生が自分のためのものでなくなったから。


「そんじょそこらの人」として生きることにしてしまえば、人生はずいぶん生きやすい。

 なんせおもしろいことを言おうとしないのだからウケるタイミングを見計らう必要もない。スベることもない。「あいつおもしろいことを言おうとしてウケなかったな」とおもわれることもない。


 でも自分の変化に気づいてふっと寂しくなることもある。

 ふだんからおもしろいことを言おうとしなければ、反応速度も落ちる。だいぶん後になってから「さっきああ言えばウケただろうな」と気づくこともある。

 若い頃のぼくが今の自分を見たら、きっと「つまんないおっさん」とおもうだろうな。今のぼくには返す言葉もない。「そう、つまんないおっさんなんだよ」とつまんない返答をするだけだ。



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2025年7月18日金曜日

【読書感想文】黒井 克行『男の引き際』 / なぜ老害は身を引けないのか

男の引き際

黒井 克行

内容(e-honより)
一生のうちに同じ局面は二度とやってこない。たった一度の判断が、評価を大きく左右する。それが「引き際」だ。では、引き際を見事に飾れた人と誤った人は、何が違ったのだろうか。完全燃焼できるまで頑張る、一つのことを成し遂げたことでけじめをつける、過去の実績とは全く関係ない世界に新たに挑戦する―。六タイプ九人の引き際にまつわる物語をひもときながら、男にとって引き際とは何かを探る。

 2004年刊行。

 様々な分野で一流と呼ばれた人たちの“引き際”を書く。

 新書ブーム時に出された本だからだろう、正直あまり質は高くない。ばらばらなエピソードをむりやり一冊にまとめたという感じがする。一応“引き際”というテーマがあるが、全盛期の活躍にもけっこうページが割かれている。

 また、八百長疑惑をかけられてプロ野球界から永久追放された選手(池永正明)とか、それは引き際もクソもねえだろという人の項もある。

 あとボランティア活動に注力したくて検察官を辞めた堀田力とか、オリンピック選手育成のために仕事をやめた小出義雄とかも、それは引き際じゃなくてただの転身だろ、というのもある。新たにやりたいことが見つかったから辞めることに対して「引き際」という言葉を使うのはふさわしくないだろ。

 テーマはおもしろそうだったのに、内容がだいぶズレてしまっている。


 引き際が大事なのって組織の長なんだよね。時代の変化についていけない人、現場をわかっていないがトップに居座っていたら下はやりづらいし、組織は硬直化するし、やる気のない若手は外に出ていくし、ろくなことがない。現在の日産の凋落なんかを見ていると、上層部の引き際が悪いと大きな組織でもかんたんに傾いてしまうのだということがよくわかる。

 だからそういう話を読みたかったのだが、出てくるのはスポーツ選手とか芸能人とか。そういう個人事業主は好きにしたらいいんだよ。失敗したって迷惑を被るのは自分なんだし。実力の世界なんだから、能力が衰えてきたら待遇も悪くなるはずでしょ。

 個人事業主の項は削って、組織のえらいさんにスポットを当てた話をもっと読みたかた。




 おもしろかったのは、島原市長だった鐘ヶ江管一氏の項。

 雲仙普賢岳噴火が起こり、復興に尽力し「ヒゲの市長」として一躍有名になった。

 市長を3期務め、周囲からも続投を期待されていたが、市長選に対立候補(かつて自信の支援者だった人物)が出馬したことで引き際を考えるようになる。

 鐘ヶ江は悩んだ。選挙の行方に不安を抱いていたわけではない。このまま普通に戦っても、四選される自信は十分にあった。彼の悩みは自分の当落ではなく、選挙が行われることで行政に空白ができることだった。そしてもう一つ、町を二分してしまうことだ。無投票四選しか考えていなかった鐘ヶ江は、また新たな決断を迫られていたのだ。
 「住民とは賠償問題をめぐり、侃々諤々の議論をすることもありました。自然災害は自主救済が原則ですので、怒りのもって行き場が大変にむずかしい。住民が納得できないこともよくわかっていました。私は市の財政事情や国や県の支援体制を、市長室に押しかけてくる住民と膝を交えて時には怒鳴り合いながら話し合いました。警戒区域の設定時も、予想どおり反対してくる人がいました。その中に、本多議員の選対にまわった私の支援者もいたのです。みなそれぞれの思惑があります。正直なところ、町は一枚岩となって災害復興へ向かっているとはいえませんでした。でも、徐々にではありますが、時間をかけてじっくり議論していく中でいい方向に向かってきていたんです。
 それがここで選挙をやったらどうなるか? 今までやってきた努力がリセットされてしまいかねません。選挙の行われる十二月は、首長として陳情のために積極的に動き回らなければならない時期でもあるんです。だからこそ絶対に、選挙運動によって、復興の妨げとなる空白期間をつくってはいけなかったんです。立候補すべきかどうか、誰にも相談せず一週間悩み、眠れない状態が続きました」

 そして鐘ヶ江氏は市政の安定のため、不出馬を決意する。

 まあこれは本人の弁だからかっこつけてる面もあるだろうが、たとえかっこつけでもこれを言って、実際に身を引ける現職政治家がどれぐらいいるだろうか?


 成功した人ほど、潔く身を引くのはむずかしい。自分の能力に対する自信もあるだろうし、だから余計に若手が頼りなく見える。周囲も持ち上げてくれるので「おれはまだまだいける」という気になってしまう。

 若いときはみんな「年寄りは老害になる前に早く引退したほうがいい」とおもっているけど、いざ自分が年寄りになると権力者の座に居座ってしまう。かつて新進気鋭の若手として、古い体質に風穴を開けてきた人が、年を取って古い体質の象徴のようになってしまう。なんとも悲しいことだ。


 人の評価を分けるものは何だろうか。
 これまで、引き際が潔かった人たちを見てきたが、彼らに共通するのは、迷いがないことではないだろうか。長い一生の中で、何かを成し遂げるには、並大抵の苦労ではないだろう。苦労が多ければ多いほど、自負も大きくなり、後に続く人たちが不甲斐なく見える。すると、今の地位に未練が生まれ、権力に執着し、周りが見えなくなって独善に陥る……。
「自分はそんなことない、引き際ぐらいちゃんと見極められる」と思うかもしれないが、もしかしたら、そう思った時点で、すでに引き際を飾るタイミングとしては遅いのかもしれない。
 多くの晩節を見ていると、そんな気がしてならない。
 権力の座にいる人たちは、特に晩年の過ごし方が難しいようだ。苦労して上りつめた地位だからこそ、なかなかそこから下りられないのもわかる気がする。もちろん、居心地もいいのであろう。ただ、居座るのもほどほどにして、驕ることなく権力と付き合っていくことができれば、歴史に名を残せるかもしれない。が、その居心地のよさに甘んじておぼれてしまうと、ただの人以下になりかねない。この権力という魔物に取り憑かれ、翻弄される人は、昔も今も変わりなくいるように思う。
 特に、二ケタの当選回数を誇る政治家ともなると、腰がだいぶ重たくなってしまうらしい。なかなか地盤の選挙区から離れられず、後に控える人に道を譲ってくれない。老害などと後ろ指をさされる頃には、開き直り、聞く耳を持たなくなってしまい、せっかくそれまで築いてきた業績が泣いてしまう。

 ホンダ創業者であり一代で会社を大きくした本田宗一郎氏が六十代で社長職を退いているのを見ると、つくづくすごいことだとおもう。

 きっとまだやれたのだろうが、それでは後進が育たない。「今ばたばたしていることが落ち着いたら引退しよう」とおもっていても、「すべてが落ち着いて安心して引き継げる時期」なんて永遠に来ない。

 組織のトップに立つ者の最後にして最大の仕事は「後継者を育てて椅子を譲る」だ。そして最もむずかしい死後でもある。


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2025年7月14日月曜日

【読書感想文】永 六輔『芸人その世界』

芸人その世界

永 六輔

内容(e-honより)
芸の世界に憧れ、芸人たちの哀歓に満ちた生き方にかぎりない感興を覚え、持ち前の旺盛なる好奇心で、観たり、聞いたり、読んだりして集めた芸人の世界の可笑しくも哀しいエピソードとプロフィル800話。膨大なコレクションから精選された文章は、一流の役者や映画俳優の知られざる側面を紹介するとともに、日々研鑚の崇高な精神と、危うく愉快な彼らの愛すべき人間性を垣間見せる。著者自身が「<その世界>シリーズは僕の青春であった」と述懐する珠玉の一冊。

 1975(昭和50)年刊行。膨大な資料をもとに、芸人(落語家、役者、歌舞伎役者、講談師、歌手、曲芸師など広義の芸人)たちの逸話を紹介する本。

 巻末に非常に多くの参考資料があるのだが、そうはいっても一次資料自体がどこまで信用できるのか怪しい。だって芸人のエピソードだからね。多分に話を盛っている可能性がある。というかその可能性が高い。明治の芸人の話とか、だいぶ尾ひれがついてるだろうし。芸人のエピソードの又聞きの又聞き、みたいな逸話が多いので話半分に楽しむのが良さそうだ。



 一個一個のエピソードは信憑性が低いけど、数百数千のエピソードを読んでいると、昔の芸人の空気は十分伝わってくる。

 つくづくおもうのは、芸人ってヤクザな世界だったんだなあということ。芸能界というのはまっとうに生きていない人たちが集まる場所だったんだとしみじみおもう。

 浅草オペラ全盛時代。
 金竜館の楽屋口に貼ってあった注意書。
 「犬、猫、刑事入るべからず」
 楽屋はアナーキストのたまり場でもあった。
 中村芝鶴の文章に、
「演劇界は地獄の世界です。強きを助け弱きを挫く権力者の横行、謀略、偽善、虚勢、嫉妬、羨望、虚栄、淫猥、全て完備している世界です。そしてその中で働く者は忍従と屈辱、飢餓、精神錯乱に耐えながら、飽きることなく生涯を生き続ける不思議な世界であります」
 芸人が初めて税金をとられたのが明治八年、人間扱いをされたというので芸人は課税を感謝した。
 落語の桂文治はこの課税の名誉にこたえんものと紋つきの羽織袴に身を正し、玄関に高張提灯をかかげて税金を払いに出かけたという。

 現在の芸能界は、やれコンプラ順守だの、やれ不祥事による謹慎だのとよくニュースになるが、ほんの半世紀前までは「世の中の常識や法律や人権なんて知ったこっちゃねえぜ」という世界だったんだろう。法を破り、周囲に迷惑をかけまくり、人々が眉をひそめるようなことをやり、反省するどころか居直って武勇伝として吹聴する。いかれた人間たちが集まる場所。

 半世紀どころか、二十年前でも、いや今でも、そういう風潮は芸能界の一部には残っているのだろう。ときどき「芸能界の常識は世間の非常識」が明るみになって大きなニュースになる。


 芸能界がならず者の集まりだった時代と、まっとうな人間が集まる時代。どっちが正しいかと言ったらどう考えても後者だ。

 でも、まっとうに生きられない人間があらゆる場から追放されてしまう世の中もそれはそれで不健全な気がする。

 貯金ができない人間、朝起きられない人間、酒やギャンブルや女遊びをやめられない人間、嘘をついてしまう人間、軽犯罪をしてしまう人間。そういう連中が犯罪でない手段で稼いだり、ときには脚光を浴びたりする場があってもいいんじゃないだろうか。


 最近、お笑い芸人でも大卒で活躍する人が増えているという。大学のお笑いサークルで学び、研究を重ねて芸を研鑽し、さらには大学で培った人脈を活かしたりもしながらメディアで活躍するわけだ。

 YouTuberだとかラッパーもやはり高学歴の人の参入・活躍が目立つという話を聞く。どんな分野であれ、頭がよく、継続的に努力ができ、さらには家庭環境にめぐまれていて芸に打ち込む時間が長い人のほうが成功しやすいのだろう。

 なんだか夢のない話だなあ。大卒で芸人を目指すのが悪いことではないけれど。


 メジャーではなかったカウンターカルチャーの分野にもエリートたちが踏みこんでいき、文句のつけようのない「公正な競争」を勝ち抜いて、非エリートたちを放逐してしまう。

 そうなると、持たざる者はどこで戦えばいいのか。ほんとにアウトローの世界に行くしかなくなるのか。


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2025年7月11日金曜日

【読書感想文】マッシミリアーノ・スガイ『イタリア人マッシがぶっとんだ、日本の神グルメ』 / 褒めるときは日本のスイーツのように

イタリア人マッシがぶっとんだ、日本の神グルメ

マッシミリアーノ・スガイ

内容(Amazonより)
noteで驚異の95万PVを記録した「サイゼリヤの完全攻略マニュアル」が話題の日伊通訳者による、初著書!
日本の伝統料理からB級グルメ、チェーン店、コンビニスイーツ、冷凍食品まで。
イタリア・ピエモンテから彗星のごとくやってきた食いしん坊マッシが日本で出会った絶品グルメとその感動体験をまとめた、日本の食文化への情熱とアモーレ満載のエッセイ!
イタリア人フーディーの舌を唸らせ、胸を打ったのは、日本の意外なあの食べ物だった!?
日本人もぶっとんじゃう、斬新な視点や考察、日伊の異文化トリビアも満載。
読めば、私たちがいつも当たり前のように食べているあの料理が、何倍もおいしく感動的に感じられるはず!
ニッポングルメ再発見の旅へ、いざ参らん!

 イタリアで生まれ育った後、日本に移住した著者による日本の食エッセイ。

 こういう「外国人から見た日本エッセイ」は、なじみのある題材でありながら毎回新鮮な視点に気づかせてくれるのでおもしろい。

 コリン・ジョイス『「ニッポン社会」入門 英国人記者の抱腹レポート』も、M.K.シャルマ『喪失の国、日本』も、高野 秀行『異国トーキョー漂流記』 も、ロバート・ホワイティング『和をもって日本となす』も、みんなおもしろかった。

 「外国人から見た日本エッセイ」にハズレなし。



 おでんについて。

 まず「おでんください」と言ったのに「どれにします?」と言われて困った、という話が新鮮。

 たしかに、おでんって料理名のようでありながら、じっさいのところは「麺類」「鍋料理」みたいな、広めのジャンル名だよね。

 たとえばラーメンであれば、種類はいろいろあれど、少なくとも麺はぜったいにある。麺がないとラーメンとは呼べない。でもおでんには、「これがないとおでんじゃない!」って食材が存在しない。大根、玉子、こんにゃくなど定番の食材はあるけど、必須ではない。「すみません、今大根切らしてるんですよ~」でもおでんは成立する。「麺を切らしてるんですけど、ラーメン提供できます」とはならない。

 そんなことに改めて気づかされる。

 そしてそれぞれの具に対する観察眼が鋭い。

 まずは大根。その日までに食べた大根は白くて一口サイズだったのに、お皿に入っているのは濃い茶色で、大きくて箸で切りながら少しずつ食べるもの。ごぼう天を頼んだら、ごぼうが見当たらない。なんと練り物の中に隠されていたのだ。お次は、薦められたはんぺん。噛んだ瞬間、(ここからは申し訳ない表現になるが)その食感に驚きすぎて、すぐに口から出してしまった。故郷では感じたことのない柔らかさで、困惑した。少しずつチャレンジしたら、意外にすぐに慣れて、おいしく味わって食べることができた。今ではおでんを食べるとき、お皿にはんぺんが乗ってない日はない。
 よくわからないまま注文したものの中には、思わず驚きの声が出るほど不思議なものも。昔の日本の財布のように見えたのは「餅巾着」だった。中身を出すためにかんぴょうの結び目を解こうと頑張っていたら、お店の大将に笑われた。なんと袋ごと食べるらしい。袋だと思っていたのは油揚げという食材で、豆腐の仲間だと言うではないか!おでんが一体なんなのか、ますますわからなくなり、僕はまんまと“おでんラビリンス”に迷い込んでしまっていた。
 さらに僕を迷宮に迷い込ませたのが、「結びしらたき」。パスタ文化を持つイタリアから来た僕には、そもそも「麺を結ぶ」という発想がない。1個丸ごとを口に入れたら、噛み切るのが大変で死ぬかと思った。
 ここまで勇気を出しながら頑張って食べたおでんは、どれもおいしくて面白かった。これ以上、僕を驚かすものは出てこないだろうと思っていたが、最後に、最強の敵が出てきた。「こんにゃく」だ。こんにゃくの驚きを言葉にするのは難しい。今まで出会ったことも、見たことも、考えたこともない味と食感だった。この最強の敵に苦戦して、結局、この日は食べきれずに負けてしまった。あの日の悔しさをバネに、そのあと何回もチャレンジして、今はおいしく食べられる。

 言われてみれば、おでんってよくわからないものだらけだよね。日本人だってあたりまえのように食べてるけど、ごぼ天とかはんぺんとか巾着とかかんぴょうとかがんもどきとかはんぺんとか、外国人から「これ何?」と訊かれたら説明に窮してしまうものばかりだ。




 つくづく感心するのは、マッシさんの柔軟性。この人ほんとにイタリア人? とおもうぐらい、日本の料理を受け入れている。
  最初に出会ったパスタには非常にカルチャーショックを受けて、食べる勇気が出るまで時間がかかった。スパゲッティーにしょうゆ、のり、大根おろしという今までの僕の人生では存在しなかった組み合わせのソースだ。「イタリアにないものをパスタに入れておいしいの?」と思ってしまった。
 オリーブオイルの代わりにしょうゆ、チーズの代わりにのりと大根おろしという発想は、イタリア人にはない。和食によく出てくる食材や味がパスタにも使えるなんて。半信半疑だったけど、なんとか勇気を出してみようと思い、よく混ぜてから食べてみた。
 一口食べて、目ん玉が飛び出た。頭で考えていた「ありえない」というイメージから、「なんじゃこりゃ!おいしすぎ!」という気持ちになるまで、あっという間だった。涙が止まらない。感動しかない。しょうゆとのりと大根おろしは最高の組み合わせだということを、日本人はみんな知っているのか?パスタに合いすぎて、もっと早くに出会っていればよかった。塩辛さとパスタの食感はすばらしいマリアージュだった。パスタの国から来ている僕は、新しいパスタのアレンジに驚いて、日本はもしかしたらイタリア以上に“パスタ力”を持っているかもしれないと思い始めた。

 和食や日本のスイーツはもちろん、パスタやピッツァのようなイタリア発祥の料理ですら、日本のものを絶賛する。これができる人はなかなかいない。

 ぼくも食に関しては好奇心旺盛なほうだとおもうけど、それでも海外で和食が“魔改造”されてたら、「うーん、これはこれで悪くないけど、でもこれはオリジナルとは別料理だよね……」とか言ってしまうとおもう。カリフォルニアロールもまだ寿司とは認めてないし。

 和風パスタをここまで絶賛できるイタリア人がどれぐらいいるだろうか(リップサービスも多分に含まれているんだろうけど)。日本人ですら気が引けて「日本はもしかしたらイタリア以上に“パスタ力”を持っているかもしれない」なんて言えないぞ。




 カフェの役割について。
  僕が感じる、イタリアと日本の「カフェ文化」の大きな違いは、カフェが存在する目的だ。イタリアではコーヒーを飲むために行く場所、日本ではカフェでの時間を過ごしたいから行く場所。簡単に言うと、日本ではカフェで勉強、仕事、読書、おしゃべりする人がほとんどだけど、イタリアではこのような光景がほとんどない。しゃべっていても飲み終わったらすぐに出る。「カフェ」という同じ場所なのに、国柄とその文化の違いがあらわれている。
 コーヒーの種類や飲み方の種類も日本の方が多くて、イタリアでは考えられないアメリカン、ブレンドコーヒー、豆乳系の飲み物などがとてもおいしい。イタリア人にわかってもらいたくて、そのよさを説明しても、エスプレッソから生まれた飲み物でないと、カルチャーショックというよりカルチャーのシャッターが閉まる。通訳者として言葉の通訳よりも、文化の通訳の方がいっそう難しいときもあるのだ。
 日本のカフェに行って驚いたのは、注文したコーヒーの情報までもが出てくること。例えば、どこの国のどんな豆か、そしてどんな味かまでわかる。このようなサービスはイタリアでは見たことがなくて、仮に店員さんに聞いても、答えられるかどうか怪しいところだ。

 へえ。たしかに日本のカフェって、最大の目的はコーヒーじゃないよね。たいていの場合、打ち合わせをしたいとか、自習をしたいとか、疲れたから座って休みたいとか、時間をつぶしたいとかの理由で行くものであって、正直言うと別にコーヒーじゃなくてもいい。極端なことを言えば「コーヒーを置いてないカフェ」があっても客は入るだろう。

 ぼくがイタリアに旅行に行ったときにカフェに入ったことがあるけど、驚いたのは「立って飲んでいる人」がいたことだ。

 日本だったら「コーヒーのないカフェ」は成立しても「座席のないカフェ」はなかなか成り立たないだろう(コーヒースタンドはあるけど少ない)。座るためにカフェに行くと言ってもいいぐらいだ。

 立ち喰いそばに行くのはとにかく腹を満たしたい人、立ち呑み屋に行くのはとにかく酒を飲みたい人。イタリアでカフェに行くのはとにかくコーヒーを飲みたい人なのだ。



 冒頭で、「外国人から見た日本エッセイにハズレなし」と書いたけど、この本はハズレではないけどアタリというほどでもなかった。

 マッシさんが絶賛しすぎなんだよな。とにかく日本の全料理を褒める。手放しで褒める。日本人として悪い気はしないけど、ここまで褒められると「ちょっと大げさすぎるな」という気がしてくる。

 褒めるのにも緩急が必要なんだよな。「あれもすばらしい、これも最高、ここは完璧!」と言われるよりも「あそこはちょっと好きになれないけどでもこういうところはすごくいいとおもうよ!」と言われたほうが真実味があってうれしい。

 そう、甘さを抑えることでかえって甘さを引き立たせる日本のスイーツのように。


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2025年7月9日水曜日

【読書感想文】吉田 裕『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』 / 戦うことすらできずに死んでゆく兵士たち

日本軍兵士

アジア・太平洋戦争の現実

吉田 裕

内容(e-honより)
310万人に及ぶ日本人犠牲者を出した先の大戦。実はその9割が1944年以降と推算される。本書は「兵士の目線・立ち位置」から、特に敗色濃厚になった時期以降のアジア・太平洋戦争の実態を追う。異常に高い餓死率、30万人を超えた海没死、戦場での自殺と「処置」、特攻、体力が劣悪化した補充兵、靴に鮫皮まで使用した物質欠乏…。勇猛と語られる日本兵たちが、特異な軍事思想の下、凄惨な体験を強いられた現実を描く。


 膨大な史料をもとに、太平洋戦争下における、兵士たちのおかれた状況を解き明かした本。

 分析は微に入り細を穿っていて、たとえば出兵している軍には歯科医がほとんどいなかったせいで兵士の大部分が虫歯に悩まされていた、なんて話も出てくる。

 なるほどなあ。考えたこともなかったけど、戦場では歯科医も必要だよなあ。長期に渡る行軍、物資や水や時間が足りずに満足に歯磨きができない環境。当然虫歯になる人は多いはず。たかが虫歯とあなどることなかれ、歯が悪くなれば集中力も落ちるし、身体の他の部分にも悪影響を及ぼす。

 こういうことの積み重ねが太平洋戦争での惨敗につながったのだろう。




『日本軍兵士 アジア・太平洋戦争の現実』を読むと、 日本軍兵士がいかにひどい状況に置かれていたかがよくわかる。

 そりゃあ戦争なんだからひどい状況に置かれるのはあたりまえなんだけど、想像よりもっとひどい。

 たとえば我々が戦死と聞いて思い浮かべるのは、戦闘で銃撃されたとか、飛行機で追撃されたとか、爆弾で爆死したとか、そういう「戦闘による死」だろう。

 だが太平洋戦争における戦士のうち「戦闘による死」はごく一部で、じっさいのところは餓死、溺死、病死、自殺、殺人、上官からの自殺の強要、古参兵の暴行による死、人肉食のための殺害など、戦闘死すらできなかった人がすごく多かったのだという。

 第三四師団歩兵第二六連隊の戦記は、宜昌に向かう長い行軍の状況について次のように記している。なお、同書によれば、一人ひとりの兵士が多くの弾薬や食糧、日用品などを携行したため、「この時の各兵士の装具の重量は小銃を含めて三十キロを軽く越え」たという。
 灼熱赤土の道を行軍する兵士の中から、日射病・熱射病で倒れる兵士達がぼつぼつあらわれてきた。[中略]小銃は肩に喰いこみ帯革〔バンド〕は腰部に擦傷を作る。体重・荷重は両足に物凄い負担をかけ、日に二十キロ近くを行軍するため靴傷〔靴ずれ〕ができる。内地のハイキングで作る豆のさわぎでない。
 まず水疱状の豆が出来る。それがつぶれる。皮はずるむけになり、不潔な靴下のため潰瘍となりさらに進行すると[中略]完全に歩行はできない。広大な予南平野はたださえ水が乏しい。[中略]小休止中、「ドカーン」と物凄い爆発音が聞こえる。「敵襲!」と兵士達は銃を手にして立ち上がる。そうではない。「やったか……」と兵士達は力なく腰を降ろす。中隊長たち幹部がその爆音のした方へ駆け寄る。ああ……。体力・気力の尽き果てた若い兵士[中略]が苦しみに耐えかね、自ら手榴弾を発火させ、胸に抱いて自殺をするのである。肉体は焼けただれ、ほとんど上半身は吹き飛び、見るも無惨な最後である。この宜昌作戦間にこの連隊において三十八名の自殺者を出した。
 (『歩兵第二百十六連隊戦史』)

 過酷な行軍に耐えかねての自殺が日常茶飯事になっていたことがよくわかる文章。

 死ぬよりもつらい行軍だったのだろう。行軍に耐えたところでどっちみち待っているのは勝ち目のない戦闘で、生きて還れる望みはほとんどなかっただろうしな。



 

 日本軍のダメっぷりをあらわす一例として挙げられているのが、軍靴だ。

 前線への軍靴の補給も途絶えたため、行軍の際に通常の軍靴を履いていない兵士も多かった。一九四四年の湘桂作戦に参加したある部隊の場合、脛を保護するための巻脚絆を靴の代用として足に巻きつける者、靴の底が抜けている者、靴のない者、裸足にボロ布を巻いている者、徴発(事実上の略奪)した「突かけ草履や支那靴」を履いている者もいた(前掲、『支那駐屯歩兵第二連隊誌』)。
 また、補給がないため、軍靴は戦闘用に保管し、普段は裸足か草鞋履きの部隊も少なくなかった。一九四四年八月に陸軍経理学校を卒業し、フィリピンの第一〇五師団独立歩兵第一八一大隊に赴任した那須三男は、部隊長は裸足、将校以下全員が草鞋で訓練に励んでいるのを見て驚いたと回想している(『るそん回顧』)。

 物資がないため質の悪い靴しか支給されなくなり、補給もされないのでろくな靴を履けない。靴もないのに行軍や戦闘なんてできるはずがない。裸足でサッカーワールドカップに出るようなもので、強い弱い以前の問題だ。


 一九四四年三月に開始されたインパール作戦では、日本軍は山岳地帯を通過してインパールに向かった。戦後の座談会で、歩兵第五八連隊に従軍した兵士たちは、「あの時の個人装備は、少なくとも十貫(四十キロ)を超えていたと思う」、「進発した時の携行品は、米二十日分(約十八キロ)、調味料、小銃弾二百四十発、手榴弾六発、その他色々、それに小銃や帯剣〔銃剣のこと〕、鉄帽、円匙、小十字鍬〔つるはし〕がある。擲弾筒手や軽機関銃手は五十キロは担いでいただろう」などと語っている(『高田歩兵第五十八連隊史』)。
 また、同じくインパール作戦に参加した歩兵第二一五連隊の場合でも、負担量は一人では立ち上がれない重さであり、「出発準備の号令がかかった時など、亀の子みたいに手足をバタつかせても起き上がれず、かわるがわる手を引いてもらって立」ち上がったという(『歩兵第二一五連隊戦記』)。
 中国戦線でも、一九四四年に入ると制空権を連合軍側に完全に奪われたため、目的地への行軍は夜間となり、兵士をいっそう疲弊させた。
 迫撃第四大隊の一員として、大陸打通作戦の湘桂作戦に参加した中与利雄は、「昼間の戦闘と夜行軍が幾日も続くと、将兵たちは極度な疲労と過激な睡眠不足に陥り、あげくの果ては意識が朦朧となって行軍の方向すら見失い右や左、後方に向かって進む戦友もいたことは事実でございます。特に雨中暗夜の行軍は大へんでした。〔中略〕激しい撃ち合いの戦闘よりも、行軍による体力・気力・戦意の消耗はとてもひどかったことは事実です」と回想している(『野戦の想い出』)。

 あらゆるものが不足していて、そしてそのすべてを精神論で乗り切ろうとしていた。つらいなあ。太平洋戦争中は「お国のために戦って死ね」と言われていた、と習ったけど、じっさいは戦うことすらできずに死んでいったのだ。




 太平洋戦争における日本軍はとにかく弱かった。

 物資、機械化、燃料、補給、医療、メンタルケア、情報、通信。ありとあらゆる面でアメリカに劣っていて、戦闘能力以前の問題だった(もちろん戦闘能力でもはるかに劣っていたわけだが)。

 小説の世界には架空戦記というジャンルがあって「あのときああしていたら戦争の結果は変わっていたかも」みうたいな話が語られるが、太平洋戦争に関しては百回やっても百回とも日本が負けていただろう(「ちょっとマシな負け方」ぐらいはできただろうが、勝つ道は万に一つもない)。

 そして日本が弱いことは、開戦当初はともかく、中期以降は完全にはっきりしていたはず。いろんな本を読むと、多くの情報が集まる軍部はもちろん、末端の兵士や市民ですら勝ち目がないことを理解していたようだ。大っぴらに言えないだけで、いい大人はみんなこの戦争は負けるとおもっていた。

 それでも「玉砕」という名の惨敗に向かうのを誰も止められなかった。

 負けを認めるのはとにかくむずかしい。

 ぼくは「特攻作戦で亡くなった兵士たちは犬死に」とおもっていたけど、その考えは誤っていた。じっさいのところは「特攻に限らずほとんどの兵士が犬死に」だったのだ。泣ける。


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2025年7月2日水曜日

【読書感想文】高野 和明『踏切の幽霊』 / ミステリに全知全能の存在を出すんじゃない

踏切の幽霊

高野 和明

内容(e-honより)
マスコミには、決して書けないことがある―都会の片隅にある踏切で撮影された、一枚の心霊写真。同じ踏切では、列車の非常停止が相次いでいた。雑誌記者の松田は、読者からの投稿をもとに心霊ネタの取材に乗り出すが、やがて彼の調査は幽霊事件にまつわる思わぬ真実に辿り着く。1994年冬、東京・下北沢で起こった怪異の全貌を描き、読む者に慄くような感動をもたらす幽霊小説の決定版!

 妻を亡くしたショックで新聞社を辞め婦人向け雑誌の記者になった主人公。心霊ネタの取材の途中で「幽霊の目撃談が多発している踏切」の存在を知る。

 取材を進めるうちに、その踏切のすぐ近くで殺人事件が発生していたことが判明。犯人は既に逮捕されているが、殺された女の身元は不明。はたして殺された女は誰なのか……?




【以下ネタバレを含みます】

 ホラー&ミステリ小説。幽霊話を追っているうちに殺人事件にたどりつき、殺人事件を掘りすすめているうちにある大物政治家のスキャンダルにたどりつき……と、どんどん話が転がっていくのがおもしろい。


 オカルトものは好きじゃないんだけど、こういう社会派ミステリは好きだぜ、オカルトとおもわせた本格ミステリか、おもしろいじゃないか。

 とおもって読んでいったのだが……。

 結局またオカルトに戻ってしまった。幽霊の正体見たり枯れ尾花、かとおもったらやっぱり幽霊。


 この展開は嫌いだなあ。不可解な現象の原因を霊に求めてしまうと、なんでもありになっちゃうんだもん。何が起きたって、どんなご都合主義の展開になったって、霊の仕業ですっていえば一応の説明はついちゃう。ずるいよ。

 実際、『踏切の幽霊』でも「事件の黒幕が怪奇現象に巻きこまれて不可解な死を遂げる」という、なんとも都合のいい展開になってしまう。

 そんなあ。だったら主人公の記者が丁寧に事件の真相を追い求めてきたのはなんだったんだ。はじめから幽霊が悪いやつに憑りついて祟り殺せばよかったじゃないかよ。なんで主人公が黒幕と対峙するまで待ってたんだよ。

 この幽霊ってもはや全知全能の神といっしょなんだよな。すべてをお見通しでどんなことでもできちゃう。こんなやつが出てくる小説、おもしろいわけがない。

 密室殺人が起こりました。犯人は神様でした。凶器は天罰でした。ちゃんちゃん。これと一緒。


 せっかく主人公が丁寧な取材で事件を追ってたのに、ラストの「考えもなく政治家をぶん殴る」と「政治家を追い詰めることができなかった主人公の代わりに幽霊が復讐」のせいで台無しになってしまった。

 小説に幽霊を出すなとは言わないけど、幽霊に力を与えちゃだめだよ。


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【読書感想文】高野 和明『ジェノサイド』

パワーたっぷりのほら話/高野 和明『13階段』



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2025年6月27日金曜日

テレビが強かった理由

 ちょっと前まで、テレビは強いメディアだった。誰もが認めるところだ。

 テレビの影響力はすごかった。視聴率10%だったら、単純計算で1000万人近くが観ていたわけだ。世帯視聴率なので実際はもっと少ないけど、それでも数百万、多ければ数千万人に同時にリーチできていたわけだから、とんでもないメディアだ。

 ある番組で健康にいいと言われた食材が翌日のスーパーから消えた、なんて話も聞く。1000万人が視聴して、そのうち5%が買いに行ったとしても50万人が買うことになるわけだ。それも同じ日に。すごい。


 今それに匹敵するメディアってないだろう(テレビ自身も含めて)。

 YouTubeを月に一度以上利用する人が、日本で7000万人ぐらいだそうだ。

 少し前ならテレビを月に一度以上視聴する日本人なんて100%に近かっただろう。月に一度どころかほとんどの人は日に一度以上は視聴していたはずだ。しかもYoutubeは観られている動画が無数にあるけど、地上波放送は数チャンネルしかない。ほとんどの人が同じものを観ていた。


 じゃあ昔のテレビがそれだけおもしろかったのかっていうと、必ずしもそうとは言いきれない。テレビが強かったのは「テレビがおもしろかったから」ではない。


 テレビの最大の強みは、「手軽に見られる」ことと「みんなが見てる」ことだ。

 まず手軽さだけど、リモコンのボタンを押すだけですぐに再生が始まる。テレビ放送の再生に特化したデバイスが居間にどんと置いてあって、ボタンを1個か2個押すだけで再生が始まる。

 パソコンの起動ボタンを押して、起動するのを待って、ブラウザを立ち上げて、検索するなりURLを入力するなりブックマークを探したりして目的のサイトを開き、そこで動画を検索し、再生ボタンを押すのに比べてずっと手軽だ。


 そしてみんなが観ていること。

 テレビの話題は、かなりの確率で共通の話題になりうる。いきなり映画や小説の話題を振ってくる人はあまりいないが、いきなりテレビの話題を振る人はけっこういる。

 以前、同じ職場のおばちゃんから朝いきなり「X(女優)とY(芸人)が結婚したのびっくりしたねー」と話しかけられて驚いたことがある。みんながワイドショーネタに興味を持っているとおもっているのだ。それぐらい芸能ネタというのは一般的な話題だ。

 人は「昨日のあのドラマ観た?」「こないだの〇〇おもしろかったなー」という会話をしたいものだ。だからネット動画になってもコメント欄がにぎわっている。


 テレビは娯楽の王様とか言われていたけど、決してテレビのコンテンツが優れていたからではないだろう。もちろんおもしろい番組もいっぱいあったが、それと同じぐらい、おもしろい映画、おもしろい小説、おもしろい舞台演劇もいっぱいあった。コンテンツ自体の強さでテレビに劣っていたわけではない。

 それでもテレビが圧倒的に強かったのは、手軽に、みんなが観ることができたからだ。


 昨今、テレビ業界も斜陽産業になりつつあるらしく、有料配信などの会員制ビジネスを始めたりしている。

 たぶんうまくいかないだろうな、とおもう。そういう囲い込みって、テレビの強みであった「手軽さ」「大衆性」の対極にあるものだから。


 ついでに言えば、新聞も似たようなものだ。

 日本の新聞が強いメディアだったのは、大衆性(みんなが同じような記事を読んでいる)と手軽さ(毎朝家に配達されるのでかんたんに読める)に依るところが大きい。

 だから多くの人が購読をやめて大衆性が失われれば読まなくたって平気だし、一度購読をやめてしまえばわざわざ買ってまで読もうとはおもわない。


 我々はとにかくめんどくさがりなのだ。


 仕事以外でパソコンを使う人が減ってスマホにシフトしているのも、やはり手軽さが理由だろう。

 だから今後スマホに取って代わるものができるとしたら、スマホを手に取って画面をオンにするよりも手軽なもの、たとえばまばたきするだけで眼前に映像が浮かびあがってくるようなメディアなのだとおもう。



2025年6月26日木曜日

【読書感想文】鈴木 宏昭『認知バイアス 心に潜むふしぎな働き』 / 言語は記憶の邪魔をする

認知バイアス

心に潜むふしぎな働き

鈴木 宏昭

内容(e-honより)
見ているはずのものが見えていない。確かだと思っている記憶が違っている。後から考えると不思議な判断間違い。―誰もがよく感じる、このような認識のずれは、なぜ起こるのか、そのメカニズムを詳しく解説!

 認知バイアスとは、思いこみ、偏見、先入観などによって適切な判断をしてしまうことを指す。これはほとんど誰にでも起こることである。

 思いこみや偏見というとネガティブなイメージがつきまとうが、必ずしも悪いことではなく、むしろ判断をスピーディーにしたり、脳のエネルギー負担を抑えたり、プラスにはたらくことが多い。だからこそ人間の脳は思いこみ、偏見を持つように進化したわけだ。

 食物は腐ると刺激的なにおいを放つことが多い。だから刺激的なにおいがするものは食べないほうがいい。これは“偏見”だ。レモンのように刺激的なにおいだけど食べてもよいものも存在する。

 だが、採集生活をしている人がいちいち食べてみて「これは大丈夫」「これは危険」と判断していたら命がいくつあっても足りない。だから「刺激臭のするものは食べるな」「色鮮やかなキノコは食べるな」といった“偏見”にもとづいて行動するわけだ。すごいぞ偏見。

 認知バイアスを持っていなければとっくに人類は絶滅していたかもしれない。




 しかし認知バイアスがあるせいで、判断を誤ることも多々ある。

 こういう次第だから、目撃者証言などもかなり問題を含むことが了解できると思う。ずいぶんと古い実験だが、有名なものを紹介したい。これは実際のテレビ番組を用いた、2000名以上の参加者からなる、かなりコストのかかる実験である。番組の中では、廊下を歩いている女性が突然現れた男性に突き飛ばされ、バッグから財布を盗まれる場面が13秒間放送される。その中の3.5秒間には犯人の顔がしっかりと映されている。この放送の後、視聴者にはあなたたちが目撃者である、と告げられ、2分後に6人の被疑者が1から6の番号札を持って並んでいる写真が見せられる。そして一人ずつはっきりと映された後に、報告用の電話番号が伝えられ、自分が犯人だと思う人の番号を電話で伝えるように指示される。ちなみに6人の中に犯人はいないという選択肢もあり、これは0の数字で答えるようになっていた。
 これは7択の問題なので、ランダムに答えても14.3パーセントが正解する。さてどのくらいの人が正しく答えられたと思うだろうか。なんと正解したのは14.7パーセントに過ぎない。つまりでたらめに答えたのと変わりがないのである。また犯人は6人の中に存在したが、この中にはいないと答えた人(つまり0と報告した人)が1/4程度も存在した。

 人間は、見たものを見たまま記憶することが苦手なのだ。


 ぼくは以前、裁判員に選ばれたことがある。裁判で検察官の主張、被告人側弁護士の主張を聞き、その後評議室で裁判官と裁判員で議論をおこなう。

 そのとき、「たしか検察の主張ってこうでしたよね」「あれ、そうでしたっけ? 私の記憶だとこうだったような……」「じゃあもう一回裁判の記録を見返してみましょう」となることが何度かあった。それで記録を見返すと、どちらの記憶もまちがっていた、なんてこともあった。

 かなり集中して裁判を聴いているのに、採番から評議まで数日しか経っていないのに、細部はけっこう忘れている。裁判員だけでなく、プロの裁判官も記憶がおぼろげなことがあった(一応書いておくと、ちゃんと記録を見返すので誤認のまま評議が進むことはほとんどないはず)。


 以前別の本で読んだのだが、鳥はヒトに比べてものの形を正確に覚えられるらしい。

 だが、正確に記憶するせいで、ちょっと形が変わっただけで別のものと認識してしまうのだそうだ。これは不便だ。人の顔をおぼえても、ちょっと髪型が変わっただけで別人と判断してしまっては困る。

 つまり記憶はあいまいであるほうがよい面もあるのだ(むしろそっちのほうが多いのだろう)。

 この本によると、幼児期には写真のように見たものを記憶できるが、言語の発達とともにその能力は衰えていくのだそうだ。写真のように正確におぼえるよりも「眉が太くて柔和な顔つきのひげの濃い男性」のように特徴を取り出しておぼえるほうが効率がいいからだろう。

 それでは言語のもたらす影の部分に進んでみたい。直前に述べた記憶から始めることにしよう。これについてジョナサン・スクーラーたちが行った実験がある。この実験では、ある犯罪が行われた時のビデオを参加者たちに視聴させる。なお犯人の顔ははっきりと映っている。その後に、一方のグループの参加者には、ビデオに登場する人の顔を詳細に5分間言語的に記述するように求めた。もう一方のグループにはそうしたことをさせずにまったく別のことをさせた。その後に犯人の顔写真を含んだ何人もの顔写真を見せ、その中のどれがビデオに登場した人物かを尋ねた。さてどう考えても一所懸命犯人の姿を思い出しながら文章で記述していたグループの成績の方がよいと思うだろう。片方のグループは、5分間その男の特徴を一所懸命思い出し、文章化までしているのに対して、もう一方のグループは何もしていないわけだから、その差は歴然と考えるだろう。しかし結果は逆になる。言語的に記述したグループの成績はもう一方のグループの成績よりも悪くなったのである。こうした現象は言語隠蔽効果と呼ばれている。

 言語能力が高いのも良し悪しである。




 対応バイアス、について。

 一般に、私たちは自分の行動の原因をその時の状況に求めるが、他人の行動の原因はその人の性格意思、態度などに求めることが多い。これは対応バイアスと呼ばれている。たとえば自分が遅刻をした時には「電車が遅れた」「たまたま朝寝坊した」「出がけに面倒な用事を押し付けられた」などとする。しかし他人が同じことをすると、「あの人はズボラだから」「ルーズな性格だから」と考えがちである。
 この原因の追究に社会的なカテゴリー、つまり所属集団が関わることもある。ある変わった行動をとる人がいたとしよう。たとえば、合コンの時に1時間以上にわたってコンクリートの話をし続ける男子学生がいたとする(伝聞だが、これは実話だ)。
 この非常に特異な行動の原因を人は考えてしまう。原因はいろいろと考えられる。理由は状況かもしれないが(合コンがあまりにつまらないので早く終わらせたかった)、前にも述べたように私たちは他者の行動の原因をその人の内面に求めがちである。「変わった性格」「空気が読めない」などで止まることもあるだろうが、その大学生の所属集団に求める場合もあるだろう。むろん人はいろいろな集団に属している。たとえばその男子学生は「静岡県出身、AKB48のファン、一人暮らし、東京大学」だとする。さて、この「コンクリートの話を合コンで長々とする」という行動の原因として適当なものはなんだろうか。おそらく東京大学に求める人が多いのではないだろうか。
 どうしてこのような帰属が起こるのだろうか。合コンでコンクリートの話をするというのは、相当に変わった出来事である。この出来事の原因の候補の中で、静岡出身、AKBのファン、一人暮らしなどはいずれもよくある珍しくないことである。一方、東大生というのは十分に珍しい。そうした次第で「東大だからあんな変わったことをする」という話が成立してしまう。そしてさらにおかしな東大生ステレオタイプが強化されることになる。つまり、変わったことの原因は、変わったこととされるのである。

 他人の行動の原因をその人の人間性に求めてしまうのが対応バイアスだ。

「罪を憎んで人を憎まず」の逆の思考だね。

 近所に騒音を出す人がいる。その人は外国人だった。「外国人だからマナーが悪いのだ」と考える。じゃあうるさいのが日本人だったら「日本人はマナーが悪い」と考えるのかというと、そうは考えない。「大学生はマナーが悪い」「派手な服を着てるからマナーが悪い」など、べつの“それっぽい属性”に理由を求める(もちろん自分自身がその属性に含まれていないことが前提である)。


 対応バイアスは、差別を生みだす大きな原因なのだろう。戦争を持続させるきっかけだって同じかもしれない。

「A国人はおれたちの国の人間を殺した。A国人は残虐だ。おれたちの国にもA国人を殺したやつがいるが、それはそいつが特別に悪いやつだっただけだ。よってA国人は滅ぼすべし!」みたいな発想になるのだろう(そしてそういう思考に導く政治家がいる)。


 バイアスを持つことは避けられないし、必ずしも悪いことではない。バイアスは我々が利用する道具だ。言語や自動車やナイフのように、いい使われ方もするし悪い使われ方もする。

 バイアスを抱くのは避けられないが、ただバイアスを持っているという意識は忘れないようにしたい。


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2025年6月23日月曜日

【読書感想文】中野 信子『脳の闇』 / 「好かれやすい」は防衛手段

脳の闇

中野 信子

内容(e-honより)
ブレない人、正しい人と言われたい、他人に認められたい…集団の中で、人は常に承認欲求と無縁ではいられない。ともすれば無意識の情動に流され、あいまいで不安な状態を嫌う脳の仕組みは、深淵にして実にやっかいなのだ―自身の人生と脳科学の知見を通して、現代社会の病理と私たち人間の脳に備わる深い闇を鮮やかに解き明かす。五年にわたる思索のエッセンスを一冊に凝縮した、衝撃の人間論!

 脳科学者が人間の思考についてあれこれとつづった本。

 様々な知見が紹介されてはいるが、研究報告というよりエッセイに近い。

 この人、他の著書を調べると『科学がつきとめた「運のいい人」』『東大卒の女性脳科学者が、金持ち脳のなり方、全部教えます。』とか『エレガントな毒の吐き方 脳科学と京都人に学ぶ「言いにくいことを賢く伝える」技術』とか、どう考えてもまともな学者のものとはおもえないタイトルが並んでいたので、「これはたぶんヤベー学者だな……。だいたいメディアによく出る脳科学者ってろくなやついねえんだよな……」と眉にたっぷり唾をつけてから読んだのだが、エッセイとして読む分にはなかなかおもしろかった。


 ぼくが好感を持ったのは、文章がわかりにくいところだ。

 ぜんぜん論旨が明解でない。あれこれ読んだあげく、「で、結局何が言いたかったのかよくわからない」となることもある。

 でも誠実な文章というのはそういうものだ。断定をしない、判断を避けて結論を保留にする、主張をする場合でも反対側の可能性も残しておく。結果、わかりづらくなる。真実に対して誠実であろうとすればわかりづらくなるのは必然だ。

 声のでかい人が言う「〇〇は正しい! ××はダメだ!」とは真逆の態度だ。


 とても『科学がつきとめた「運のいい人」』『東大卒の女性脳科学者が、金持ち脳のなり方、全部教えます。』を書いたのと同じ人とはおもえない。ほんと、なんであんな本出したんだ。読んでないけど。



 好かれやすい人、について。

 どんな世界のどんな人であっても、人間は自分に興味を持ち、自分の言葉を聞いてくれる人に好意を持つものだ。要するに、この性質を使えばよい、ということになる。
 タイプではなくても心惹かれてしまう人というのが誰しもいた(いる)だろうと思う。
 その人は、おそらく「ああ、この人は私のことを好きに違いない」というサインをどこかで出してきたはずだ。あるいは、それを自分から勘違いしてしまったか。
 そのサインは、あなたにだけは自分の話を打ち明ける、あなたの話だけは面白く聞くことができる、あなたとだけは自分の秘密を共有できるといった関係性を使った方法であったり、あなただけが優れた才能の持ち主、あなただけがこの世界の中にあって美しい、あなただけが本当にすばらしい、となにがしかの特別性を付与する語り掛けをするという方法によって提示されているだろう。
 提示する側は、自分の好意を示すことによって、相手の歓心を得ることができる。けれども、歓心以上のものは特に必要ない場合も多い。このときに、齟齬が起きる。
 相手から、適度な好意だけを得られるのなら、それはバランスがとれているといえる。けれども、本気にさせてしまったときには厄介だ。相手が本気になってしまったときに、それをうまくあしらうことをしないと、面倒なことになりかねない。

(中略)

 私が面白いと感じたのは、この方法をセキュリティとして用いている人間が少なからずいる点である。既存の倫理基準が変わりつつある遷移期、不確実性の時代と言われる現代にあって、法も社会も自分を守ってくれる保証がない。なんなら、自分は虐げられてきた側の人間である、という自覚のある人物にとっては、こういうセキュリティを行動様式として身に着けでもしなければ、本当に死んでしまうかもしれないのだ。
 社会に守られ、そのシステムを信頼して生きてきた人間とは、根本のアーキテクチャが違う。それを互いに、狂っている、あるいは、思慮が足りない、といって貶すのはたやすい。けれども、本当にこの先の世界で必要とされるのはどちらなのだろう。何千年も生きることができたなら、その顛末を見届けてみたいものだと思う。

 好かれすぎる人、というのはいる。こちらが好きではない(どちらかといえば嫌いな)人から行為を向けられやすいタイプ、極端なことを言えばストーカーにつきまとわれやすいタイプだ。

 個人的な印象でいえば女性に多いようにおもう。

 ただ単にすっごい美人、という場合もあるだろうが、「誰にでも愛想がいい」「男性との距離が近い」など、「思わせぶりな態度をとりがちな人」であることも多い。

 だからだろう、ストーカー被害に遭った女性が「気を持たせるような態度をとったあなたも悪いんじゃないの?」と責められる、なんて話も聞く。


 でも、「その気もない相手に対して気を持たせるような態度をとる女性」も、決して相手をなぶって遊んでいるわけではなく、自分を守る手段として「思わせぶりな態度」をとっているのかもしれない。

 周囲(特に異性)から敵意、攻撃性を向けられやすい環境にいた場合、「私はあなたを好きですよ。だから攻撃しないでくださいね。守ってくださいね」というメッセージを発していないと身の安全を保てなかったのかもしれない。

 赤ちゃんがにこにこするのは「私を守ってください」というメッセージを(結果的に)発しているからだ、という話もある。

「気のない人に対して思わせぶりな態度をとる人」が女性に多い(ような気がする)のも、女性のほうが弱い立場に置かれやすく、誰かの庇護を求めることで身を守る必要があるとおもえばうなずける。

 そうだとすると、身を守ろうとする行動がストーカーを招き寄せてしまうこともあるわけで、なんとも皮肉なことだ。



 信用されやすい人、について。

 人間が何かを信じる際、現状では、明確な根拠は必要とされていないように見える。
 ほとんどの人はそこまで解像度よく対象を吟味してはいないし、論理的に判断を下してもいない。一つの判断にそんなに時間をかけていられないのである。
 人は、「大きな体の人」が「大きな声」で「自信たっぷりに話す」ことで、いとも簡単にその人の話を信用してしまうことがわかっている。実際に、心理学の実験で、グループのメンバーにリーダーを選ばせるという実験をしてみると、論理的に話す人ではなく、声が大きくて身体が大きく、確信を持って話す人が選ばれるという結果が出ている。逆に、とりわけ顔が見えるグループの中では、根拠を持って論理的に話す人は、むろ煙たがられる傾向がある。人間は、かくもあいまいで騙されやすい存在なのだ。

 さっきの「わかりづらい文章」の話にも通じるものがある。

 論理的に、科学的に、謙虚にものを語ろうとすれば、どうしても不明瞭な物言いになってしまう。「Aである可能性が高いがBを主張する人もいるしCも完全に否定されたわけではない」のように。

 だがメディアでは「絶対A! それ以外を信じるやつはバカ!」みたいな語り方をする人間のほうが重宝される。どっちが賢いかは考えたらすぐわかるとおもうのだが、それでも人は自信たっぷりの人間の言うことを信じてしまうのだ。




  正しい人、について。

 
 ニューヨーク市立大学バルーク校の研究グループが面白い実験を行っている。
 実験の場としては、マクドナルドの模擬店舗が使われた。研究グループは2種類のメニューリストを用意した。一方にはサラダなど、健康を連想させるメニューが載っている。もう一方には載っていない。客として現れた被験者には、その2種類のメニューリストのうちのいずれかが渡される。
 その結果、サラダが掲載されたメニューリストを受け取った客は、掲載されていないメニューリストを受け取った客よりも、明らかに、最も太りそうなメニュー――ビッグマックを選ぶ人が増加し、その割合は約10%だったものが約50%にもなったという。
 つまり、一緒にサラダを買ったり食べたりするわけでもないのに、ヘルシーさを演出する食べ物の名称がリストに載っていただけで、無意識に最もカロリーの高いメニューを購入してしまった、という人が相当数いたことになる。
 これがどういうことか、わかるだろうか。
 「健康」という、「倫理的に正しい」何かを想像すると、それがなぜか免罪符のような効果を発揮して、人間はより「倫理的に正しくない」行動を取ってしまいやすくなるということ。そして、倫理的に正しい何かというのは、健康だけとは限らないということ。「正義」や「平和」などの概念も同様に、倫理的に正しいと脳が判断する可能性が高く、同じ効果を持ってしまう可能性がある。
 要するに、正義! 平和! 人道! などと連呼する人ほど、怖ろしいともいえる。善意の発露として、残虐な行為を行いかねない。そういう「倫理的に正しい」人は、たくさんの免罪符が貼られた脳を持っているわけで、非人道的な行為を犯すことに微塵もためらいがないのではないかと、私などは真っ先に警戒してしまう。もし戦争が起きたら、善意の身内から殺されてしまう人も少なからず出ることだろう。

 いやほんと、正しい人ほどおそろしいものはないよ。

 ぼくは、駅前で通路をふさぎながら「盲導犬に募金を!」と呼びかけている団体を見たことがある。他方、たとえば路上ミュージシャンなどは通行の邪魔にならないようにしている。通路いっぱいに広がりながら演奏しているミュージシャンなんて見たことない。

 商品の宣伝などをしている車などはそんなに大きな音を出していない(昔はうるさいやつもいたがたぶん規制されたのだろう)。だが選挙カーや政党の街宣車なんかはとんでもなくうるさい音を出している。

「自分は正しいことをやっている」とおもうと、「正しい目的のためなんだからみんなも少しぐらいの不便は我慢しろ」という傲慢な発想になってしまうのだろう。おそろしい。




 うつ傾向について。

  この結果を受け、抑うつ気分は、複雑なタスクを遂行する場合や困難な状況下では、より良い決定を下すのに役立つのではないか、という主張をする研究者もいる。実際に、要求度の高いタスクでより適切な戦略を考えられるのは、こうした被験者だというのだ。例えば、オーストラリアの研究チームの報告では、死とがんについての短編映画を見せられて憂鬱な気分に陥った被験者のほうが、噂話の正確さを判断したり、過去の出来事を思い出したりする課題の成績が良かったという。さらに重要なのは、見ず知らずの人をステレオタイプ的に分類する傾向が大幅に低かったということである。
 つまり、外集団バイアスに対して自覚的であり、それを自省しながら抑えることに成功していた、ということになる。
 うつなどの気分障害は、人生における諸問題を効果的に分析し、対処可能にするという目的のために生まれた、脳に備え付けられた仕組みの一つなのかもしれない。たしかに気分は良くないものだ。けれど、抑うつ状態が存在せず、ストレスもトラウマもなく、自身の問題について深く長く反芻的に思考するという習慣がなければ、人間は、ひとたび自分が困難な状況に置かれたとき、その苦境を脱することが難しくなってしまうのではないだろうか。私たちの現在の繁栄は、ネガティブな抑うつ的反芻によってもたらされたものかもしれないのだ。

 なぜ人間はうつになるのか。うつになると行動力が落ちたり、ひどい場合には自殺をしたりするので、生存・繁殖にとっては不利になる。だったら「うつになりやすい遺伝子」は淘汰されて、常にハッピーな人間ばかりになりそうな気がする。

 だが、抑うつ傾向にもメリットはあるのだ。情報を正確に判断したり、問題の解消方法を考えたりするのには抑うつ状態は有利なのだという。有利な面もあるからこそ、人はうつになる。

 うつ病という言葉もあるが、うつは病気というよりは症状に近いのかもしれない。風邪(病気)と発熱(症状)の関係のようなものだ。身体が熱を出して細菌をやっつけて風邪を治そうとするのと同じように、うつ状態になることによって問題に対処しようとするわけだ。

 うつというと防衛的なイメージがついているが、実は戦闘状態なのかも。


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