2025年12月15日月曜日

【読書感想文】レイチェル・カーソン『沈黙の春』 / 外来種は環境にいいという60年前の主張

沈黙の春

レイチェル・カーソン(著)  青樹 簗一(訳)

内容(e-honより)
自然を破壊し人体を蝕む化学薬品。その乱用の恐ろしさを最初に告発し、かけがえのない地球のために、生涯をかけて闘ったR・カーソン。海洋生物学者としての広い知識と洞察力に裏付けられた警告は、初版刊行から四十数年を経た今も、衝撃的である。人類は、この問題を解決する有効な手立てを、いまだに見つけ出してはいない―。歴史を変えた20世紀のベストセラー。待望の新装版。

 環境問題について語る上で避けては通れない古典的作品。初出は1962年。今もって最も有名な環境問題の本といってもいい。

 (学生時代に英語の問題集に載っていたのでごく一部だけは読んだことがあった気がするが)刊行から60年以上たって、今さらながら読んでみた。



 今さら『沈黙の春』を手に取ったきっかけのひとつが、ポール・A・オフィット『禍いの科学 正義が愚行に変わるとき』に『沈黙の春』の引き起こした被害が書いてあったからだ。

『禍いの科学』によれば、『沈黙の春』が有機塩素系の農薬であるDDTの環境への悪影響を主張した結果、世界的にDDTの使用が禁止された。だがDDTはマラリアなどの疾病を抑えるためのきわめて効果的な薬だった。DDTが禁止された結果、ほぼ根絶できていたマラリアは再流行し、結果として5000万人がマラリアで命を落とした。そのほとんどは5才未満の子どもだった。

 ことわっておくと、『沈黙の春』にはDDTなどの化学農薬や殺虫剤をすべて使用禁止にせよとは書いていない。ただ、環境に与える害を述べ、不適切な使用、過度の使用に対して警鐘を鳴らしただけだ。

 だが、おそらくこの本は大きな反響を呼んでしまった。結果、カーソンが書いた以上に(カーソンはマラリア予防でのDDTの使用禁止は訴えていない)DDTは敵視され、過度に制限されてしまった。言ってみれば、科学肥料や殺虫剤のバカな使い方を批判したら、別のバカが過剰に反応してしまったというところだ。

「とにかく殺虫剤をばらまいて環境を破壊する人間」と「すべての農薬や殺虫剤を敵視してむやみに禁止させようとする環境保護主義者」は、主張こそ反対ではあるが思考はきわめて近いところにある。どちらも実験や観測を軽視して感情のために行動し、己の行動を顧みないという点が一緒だ。

 環境問題にかぎらず、あらゆる問題がそうだよね。政治的極右と極左とか、エネルギー問題とか、両端にいる人たちって実はけっこう似た者同士なんだよね。バカ同士仲良くしなよ、と言いたくなる。

『沈黙の春』は(おそらく著者の想定以上に)大きな反響を引き起こした。ちょうど、虫を殺すためだけに殺虫剤を使ったのに、他の虫や鳥や魚や獣まで殺してしまったように。


『沈黙の春』が過剰な反応を引き起こしたのは、刊行されたタイミング(科学の進歩によるひずみが表面化してきたころ)が良かったのもあるだろうし、カーソン氏の文章がうますぎるのもあるとおもう。情景を想起させる力が強いし、よくできたストーリーは人間の感情に訴えかけてくる。

 撒布剤、粉末剤、エアゾールというふうに、農園でも庭園でも森林でも、そしてまた家庭でも、これらの薬品はやたらと使われている。だが、《益虫》も《害虫》も、みな殺しだ。鳥の鳴き声は消え、魚のはねる姿ももはや見られず、木の葉には死の膜がかかり、地中にも毒はしみこんでいく。そして、もとはといえば、わずか二、三の雑草をはびこらせなため、わずか二、三の昆虫が邪魔なためだとは……。地表に毒の集中砲火をあびせれば、結局、生命あるものすべての環境が破壊されるこの明白な事実を無視するとは、正気の沙汰とは思えない。《殺虫剤》と人は言うが、《殺生剤》と言ったほうがふさわしい。
 化学薬品スプレーの歴史をふりかえってみると、悪循環の連鎖そのものといえよう。DDTが市販されてから、毒性の強いものがつぎからつぎへと必要になり、私たちはまるでエスカレーターにのせられたみたいに、上へ上へととどまるところを知らずのぼっていく。一度ある殺虫剤を使うと、昆虫のほうではそれに免疫のある品種を生み出す(まさにダーウィンの自然淘汰説どおり)。そこで、それを殺すためにもっと強力な殺虫剤をつくる。だが、それも束の間、もっと毒性の強いものでなければきかなくなる。そしてまた、こんなこともある。殺虫剤をまくと、昆虫は逆に《ぶりかえして、まえよりもおびただしく大発生してくるのだ。これについては、あとでくわしく書こう。とまれ、化学戦が勝利に終ったことは、一度もなかった。そして、戦いが行われるたびに、生命という生命が、はげしい砲火をあびたのだった。

 読んでいると「このままじゃだめだ。なんとかしないと」という気になってくる。60年後の日本人にすら強く訴えかけてくるのだから、当時の人々はより強い危機感を抱いたことだろう。

 多くの客観的な数字やグラフを並びたてるよりも、一行の詩のほうがはるかに力強く人間の心を動かしてしまう。



『沈黙の春』はそこそこのページ数があるが書かれている内容はシンプルで、だいたい同じことのくりかえしだ。

 害虫を殺すために殺虫剤を使っているが、その薬は他の生物も攻撃する。他の虫、魚、鳥、場合によっては獣やヒトも。直接害を及ぼすこともあるし、間接的に(殺虫剤を浴びた虫を食べることなどで)健康被害を受けることもある。

 また、狙った害虫だけを殺せたとしても、それがさらなる悪い結果を生むこともある。害虫が激減 → その害虫を食べていた虫や魚や鳥がエサ不足で減る → 捕食者がいなくなったことで再び害虫が増える(しかも薬品に対する耐性をつけている)、ということも起こる。

 これと似たようなことは、ほかにもある。私たちがふだんかまわずまったく無知のまひっこぬいている雑草のなかにも、土壌を健康に保つのに、なくてはならないものが、いろいろある。また、いま《雑草》と一言のもとに片づけられているものも、土壌の状態を的確に示すバロメーターとなっている。一度化学薬品が使われれば、もちろんこのバロメーターは狂ってしまう。
 何でも化学薬品スプレーで解決しようとする人たちは、科学的に重要な事柄――つまり植物の群落をそのまま残しておくのがほかならず科学的にどれほど大切であるか、を見落している。それは、私たち人間の活動がひき起す変化を知る物差なのだ。また、それは野生の生物たちのすみかでもある。

 生態系は無数の生物が複雑にからまりあって構成されているので、ピンポイントで「この生物だけを絶滅させる」「この生物だけを増やす」ということができない。何かが増減すれば、必ず他の生物も影響を受ける。



 そのあたりは納得できる。殺虫剤の農薬の過剰な使用は良くない。その通りだとおもう。

 ただ同意できないのは、終章『べつの道』で著者が提唱する化学薬品の代わりとなる手法。

 微生物殺虫剤というと、ほかの生物を危険にさらす細菌戦争を思い浮べるかもしれないが、そんな心配は無用だ。化学薬品と違って、昆虫病原体は、ある特定の昆虫をおそうだけなのだ。昆虫病理学の権威エドワード・スタインハウス博士は言う―――《本ものの昆虫病原体が、脊椎動物に伝染病を発生させたことは実験においてもまた実際にも一度もなかった》。昆虫病原体は、きわめて特殊なもので、ごくわずかの種類の昆虫だけ、ときには一種類の昆虫だけしかおそわない。高等動物や植物に病気をひき起すものとはまたべつの系統に所属している。スタインハウス博士が指摘しているように、自然界の昆虫に病気が発生するときには、その病気はいつも昆虫にかぎられ、それが寄生する宿主植物や宿主動物に及ぶことはない。

 要するに、ある種の虫を減らしたいのであれば、その虫の天敵となる菌、虫、鳥などを連れてきて、捕食(または病気に感染)させよ、というのが著者の主張だ。

 いやあ……。それはそれでだめでしょ……。

 外来種とかさんざん問題になってるし、沖縄でハブ退治のためにマングースを連れてきたらマングースがハブ以外の生物を食べて害獣化しちゃったなんて例もあるし、うまくターゲットとなる虫を減らせたとしてもどこにどんな影響が出るかわからない。

 60年後の世界から批判するのはずるいけどさ。でも化学薬品はダメで外来種ならいいというのは、やっぱり近視眼的だ。生態系は複雑で影響を予想できないのとちゃうかったんかい。


 環境問題ってつきつめていけば最後は「人間がすべての文明を捨てて原始的な生活をするしかない。子どもや働き盛りの人がばたばた死んでもそれはそれでしかたない」になっちゃうから、どこかで許容するしかないんだよね。農薬を使わないほうがいいといったって、農薬なしで今の人口を支えられないのもまた事実なわけで。

 まるで環境問題に“正解”があって、その“正解”を著者が知っているような書き方がきになったな。研究者として誠実な態度ではない。ま、だからこそ大きな反響を呼んだんだろうけど。世間は「Aが正しそうだがBの可能性もあるしCも否定できない」という人よりも、「Aが正解! 絶対A! 他はだめ!」っていう単純な人に扇動されてしまうものだから。


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2025年12月11日木曜日

知識がなくても正解にたどりつけるクイズ

「知識がなくても正解にたどりつけるクイズ」が好きだ。


「アメリカ合衆国の首都は?」という問題は、知っているか知らないかだ。知っていれば答えられるし知らなければ答えられない。それだけ。頭をひねる必要がないからおもしろくない。

 ぼくが好きなのは、答えを知らなくても、周辺知識から推理して答えにたどりつけるクイズだ。

 お気に入りの「知識がなくても正解にたどりつけるクイズ」を2つ出題しよう。



1. 日本の市町村(東京23区除く)のうち、JRの駅がなく、かつその中でもっとも人口が多い市町村はどこ?


2. ニュージーランドには人間がやってくるまで哺乳類が1種類しかいなかった。その哺乳類とは何か?(ヒント:ネズミではない)


以下、考え方と答え。

【読書感想文】堀井 憲一郎『若者殺しの時代』 / 成熟しすぎて腐ってしまった社会

若者殺しの時代

堀井 憲一郎

内容(e-honより)
クリスマスが恋人たちのものになったのは1983年からだ。そしてそれは同時に、若者から金をまきあげようと、日本の社会が動きだす時期でもある。「若者」というカテゴリーを社会が認め、そこに資本を投じ、その資本を回収するために「若者はこうすべきだ」という情報を流し、若い人の行動を誘導しはじめる時期なのである。若い人たちにとって、大きな曲がり角が1983年にあった―80年代に謎あり!ずんずん調べてつきとめた。

 様々な史料、そして著者自身の体験・記憶を元に、1980年代に「若者」の扱いがどう変わったのかを記録した本。

 史料がかなり偏っているし記憶に頼っている部分もあるので信頼性はないが、それでも「時代の空気」みたいなものは十分に伝わってくる。なにより堀井さんの語り口がおもしろい。いろんな人の文章を読んできたが、その中でも好きな文章ランキング上位に入る。

 ぼくは1980年代生まれなので、1980年代の空気というものをまったくといっていいほど知らない。新聞やテレビで自分の手の届かない“世間”を知るようになった頃にはもう1990年代だった。だから著者の語る「1980年代の前と後」の話はおもしろかった。なにしろぼくは“後”のほうしか体験していないのだから。



「若者」向けのマーケティングがなされるようになったのが1980年頃だと著者は語る。

 おとなにとって、若い連中とは、社会で落ち着く前に少々あがいてるだけの、若いおとなでしかなかったのだ。その後、「若いおとな」とはまったく別個の「若者」という新しカテゴリーが発見され、「若者」に向けての商品が売られ、「若者」は特権的なエリアであるかのように扱われる。若い、ということに意味を持たせてしまった。一種のペテンなのだけど、若さの価値が高いような情報を流してしまって、とにかくそこからいろんなものを収奪しようとした。そして収奪は成功する。
 あまりまともな商売ではない。田舎から都会に出てきたばかりの人間に、都市生活に必要なものをべらぼうな値段で売りつけているのと変わらない。それも商売だと言えば商売だが、まともな商売とは言えない。自分たちでまだ稼いでいない連中に、次々とものを売りつけるシステムを作り上げ、すべての若い人をそのシステムに取り込み、おとなたちがその余剰で食べてるという社会は、どう考えてもまともな社会ではないのだ。まともではない社会は、どこかにしわ寄せがくる。それが21世紀の日本と日本の若者だ。

 それ以前は、社会人になれば「大人」のカテゴリだったと著者は主張する。

 1980年代といえばだいたい団塊ジュニア世代が十代だった頃と一致する。つまり「若者」の数が多かった時代だ(それ以降ずっと減り続けている)。しかも日本は好景気。数多くいる「若者」にはそこそこ自由に使える金もあった。

「若者」は金になると気づいた大人たちが様々なメディアで「これが若者の理想の生活」「若者のカップルはこう行動する」「このアイテムを持っているのがナウい若者」とはやし立て、まんまと若者から収奪することに成功した……というのが著者の主張だ。

 そんなものかもしれない。ちがうかもしれない。なにしろぼくは80年代以前を知らないので。

 でも少なくとも90年代~00年代には「理想の若者像」がなんとなくあった気がする。こういう服を着て、こういう化粧をして、こういう所に行くのがイケてる若者ですよ、という像が。それは若者自身が抱いていたものというより、もっと上の世代が作って押しつけようとしていたものだったんだろうけど。

 最近はどうなんだろう。なんとなくだけど、なくなりつつあるような気がする。新聞やテレビが力を失い、ネット上では趣味が細分化され、SNSでの流行はあれどすごいスピードで消化され、1週間前のトレンドをもう誰も話題にしなくなっている。

 それに、若者の数がすごく少ない(今の10代は100万人ぐらいで全人口の9%ぐらい。1980年代にはこの倍ぐらいいた)ので「若者」市場が魅力的でなくなったのもあるだろうしね。しかも今の若者は金を持ってないし。



 社会の動きが止まった、という話。

 80年代の後半、バブルの時期は、まだ社会が動いていた。90年代に入ってすぐのころまで、まだ社会はダイナミックだった。つまり、がんばれば逆転可能だったのだ。
 でも90年代に入り、動きがにぶくなり、ついにほとんど止まってしまう。
 がんばれば逆転、の可能性がなくなって、もっともわりを食うのは若者である。「こいつは見どころがある」程度のレベルでは、相手にしてもらえなくなった。可能性があるだけでは、誰も見守ってくれなくなったのだ。入試に遅れそうな大学受験生に対して、1980年代が持っていた寛容さは、どんどん姿を消している。若者を許しておいてやろう、というおとながいなくなってしまった。それは、戦後生まれの世代とそのあとの世代が、まったくおとなになろうとはせず、いつまでたっても自分たちが若者のつもりだからである。上の世代がおとなになって、おとなを演じてくれなければ、10代や20代の若者は、若者にさえなれないのだ。若者にとってつまらない時代がやってきた。若者がおとな社会にとびこむには、札束で頬を叩き、ルールを無視して実績を作っていくライブドア的手法しか見出されなくなった。
 若者がゆっくりと殺され始めたのだ。

 個人的に強く印象に残ったのがこの文章。

「こいつは見どころがある」程度のレベルでは、相手にしてもらえなくなった。

 昔がどうだったかは知らないけど、たしかに90年代以降、ぼくが知るかぎりでは「若者の可能性に賭ける」だけの余力は日本の社会にはほとんどない。

 上に引用したのはずいぶん抽象的な文章で、裏付けとなるようなデータもないけど、ぼくの実感としてはしっくりくる。わけのわからんやつだけど若さに賭けていっちょ任せてみよう、という余裕を持っている企業や組織がどれだけあるんだろうか。それだけ日本社会が成熟したということでもあるし、成熟しすぎて腐ってしまったのかもしれない。



 今の日本を見てみると、多くのものが戦後に作られたシステムで動いている。

 マイナーチェンジはくりかえしているが、大きなシステムは1960年頃とあんまり変わっていない。

 問題はここにある。
 五十年かけて作ったシステムを、誰も手放すことができなかったのだ。
 ゴールしたことも知らされなかった。
 そのまま走り続けた。1995年のゴールから十年。無意味に走り続けたのだ。息も詰 まってくるはずである。
 でも次なる目標が設定されない。目標がおもいつかないのだ。おもいつかないのなら、 しかたがない。
 僕たちの社会は、古く、意味がなくなった目標のもとで進むことになった。「これから もまだ裕福で幸せな社会をめざして右肩上がりで発展してゆく」ことになったのだ。
 無理だ。おもいっきり無理である。わかってる。でもしかたがない。これから、いろん なものが過剰になる。 富が偏在する。どこかで綻びが目立ち始め、いつか破裂する。 それ でも進むしかない。僕たちは「いまのシステムを手放さず、このまま沈んでいくほう」を 選んでしまった。
 「大いなる黄昏の時代」に入ってしまったのだ。

 たとえば軍事に関していえば、「アメリカの核の傘に入って、アメリカと仲良くしておけば大丈夫」という感じでずっとやってきた。戦後80年それでやってきた。だがこれが続くという保証はない。

 経済に関しても「経済成長を続けていけば大丈夫。好不況の波はあれど長期的にはGDPが増えて国が豊かになる」という方針でやってきた。そのやりかたはもうとっくに破綻している。人口がどんどん減っていく社会で経済発展が続くはずがない。嘘だということにみんな気づいている。でも気づかないふりをして、80年間やってきたやり方を続けようとしている。その“嘘”のひずみが若者に押しつけられていても、年寄りを守るために見て見ぬふりをしている。



 ある時期を境に、若者の未来が年寄りに収奪されるようになった。『若者殺しの時代』ではその転機となった時代の流れを書いている。

 が、“若者殺しの時代”に抗う方法は書いていない。そんなものはないのだろう。年寄りだけが感染する致死性の高いウイルスでも流行しないかぎりは。

 いよいよ国がぶっ壊れてしまうまでは年寄り優先のシステムを続けていくんだろうな、この国は。


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2025年12月10日水曜日

【読書感想文】高野 秀行『未来国家ブータン』 / 不自由が幸福の秘訣

未来国家ブータン

高野 秀行

内容(e-honより)
「雪男がいるんですよ」。現地研究者の言葉で迷わず著者はブータンへ飛んだ。政府公認のもと、生物資源探査と称して未確認生命体の取材をするうちに見えてきたのは、伝統的な知恵や信仰と最先端の環境・人権優先主義がミックスされた未来国家だった。世界でいちばん幸福と言われる国の秘密とは何か。そして目撃情報が多数寄せられる雪男の正体とはいったい―!?驚きと発見に満ちた辺境記。

 ブータン探訪記。

 正直、高野秀行さんの他の著作と比べると、わりとふつうの旅行記に収まっているかな。高野さんのノンフィクションは「ほんとにそんな民族いるのかよ!?」「21世紀によくこんな国が成り立ってるな!」と我々とはまったく異なる文化を紹介してくれるのでおもしろいのだが、『未来国家ブータン』を読んでいておもうのは「ブータンってけっこう日本に似ているところがあるな」とか「昔の日本もブータンみたいだったのかもなあ」といったことで、あまり驚きはない。

 ブータンは「半鎖国国家」である。一般の旅行者は一日二百ドルも払う義務があり、基本的に観光ガイドを連れて、予定したルートしか回れないという。私は旅行者でなく政府と一緒に調査に来ている。「どこへ行ってもいい」と聞いていたから、おもしろい情報があればそこに行ってみるくらい当然できるだろうと思っていたのだが、それは間違いだった。
 行く場所は自由だが、それは前もって許可を申請しないといけない。それだけではない。その場所に到着する日にち、そこを出る日にちも申請し、その日程通りに動かなければいけない。
 要所要所に関所のような検問所があり、提出した書類の日にちとズレがあると通してもらえなくなるという。

 もしも明治維新が起きずに日本が鎖国を続けていたら、ひょっとしたらブータンみたいになっていたのではないか……。そんな想像もしてしまう。

 企業の依頼で生物資源探査に向かう、という(高野さんにしては)まっとうな目的があるのも、ルポルタージュとしてものたりない理由のひとつだ。



 ブータンは中国・インドという二大大国に挟まれる位置に存在している。人口は約87万人。世田谷区民より少ない。

 ブータンは小さな国だ。それは今までもさんざん見てきたが、ここタシガンに着いて改めて驚かされた。なにしろ、ブータンでも最も人口の多い土地の中心地なのに、呆れるほど小さい。端から端まで歩いて十分かからない。山の斜面に石造りとコンクリートの建物が数十軒へばりついていて、イメージとしては、箱根登山鉄道の一つの駅(例えば強羅)の周辺みたいだ。
 町の総人口が少ないうえ都市化も進んでいない。
 ホテルの部屋からタシガンの町を眺めていると、「どうしてブータンは国として認められているのか」という恐ろしい疑問をおぼえてしまう。
 別に国である必要はないんじゃないか。中国雲南省やタイ北部やインド東部の山奥の州や県であってもおかしくない。いや、そっちのほうがよほど自然だろう。
 私が思うくらいだから、ブータン王国を運営する人たちは、間違いなくそれを不安に思うはずだ。だからことある毎に「ブータンは一つ」「ブータン人は独自の民族」と訴えるわけである。
 なにしろインドと中国という人口十数億の二大超大国の間に挟まっているのだ。いつ、どちらかに飲み込まれるかわからない。現実にブータンと近しい二つのヒマラヤの国、シッキムとチベットはインドと中国にそれぞれ吸収されてしまった。
 シッキム王国はネパール系移民の数が元の住民を上回り、住民投票でインドに帰属することになってしまったし、チベットはご存じのとおり中国に侵略され、そのまま同化の道をたどっている。
 ブータンの独自路線というのは、環境立国にしても伝統主義にしても理想を追い求めた結果ではなく、「独自の国なんですよ!」と常にアピールしつづけないと生き残れないブータンの必死さの現れなんだとしみじみ思う。

 なるほど。このあたりはちょっとイスラエルにも似ている。イスラエルは(宗教的に対立する)アラブ諸国に囲まれているので、アメリカとの結びつきを強くしたり、諜報活動に力を入れたりしているそうだ。

 だがブータンは経済や軍事ではなく、「環境保護」「国民の幸福度」といった独自の路線で生き残る道を選んだ。これはいい戦略だとおもう。へたに軍備に力を入れたらかえって攻め込まれる口実を与えるだけだし、山ばかりの内陸国で経済発展はかなりむずかしいだろう。

 そして先進国が「経済成長ばかりじゃだめだ。物質の豊かさだけでは幸福にはなれない」と気づいたとき、気づけばブータンという理想的(に見える)国があったのだ。周回遅れで走っていたらいつのまにか先頭になっていたようなものである。

 ブータンがこの状況を完全に読んでいたわけではないだろうが、とにかく独自路線を貫いていたブータンは世界から注目される国になったのである。とりあえず今のところは作戦成功していると言ってよさそうだ。




 ブータンでは、1970年代に国王が提唱した「国民総幸福量」を提唱した。国内総生産のような物質的豊かさではなく、精神面での豊かさを強調したのだ。

 現にブータン国民は自身が幸福と感じている人が多く、結果、「世界一幸せな国」とも呼ばれるようになった(※ ただし2010年頃からはスマホの普及などで海外の情報が入ってきたこともあってブータン国民が感じる幸福度は低下してきている)。

 ブータン国民の「幸福」の原因を高野さんがこう考察している。

 そうなのである。ブータンを一ヶ月旅して感じたのは、この国には「どっちでもいい」とか「なんでもいい」という状況が実に少ないことだ。
 何をするにも、方向性と優先順位は決められている。実は「自由」はいくらもないが、あまりに無理がないので、自由がないことに気づかないほどである。国民はそれに身を委ねていればよい。だか個人に責任がなく、葛藤もない。
 シンゲイさんをはじめとするブータンのインテリがあんなに純真な瞳と素敵な笑みを浮かべていられるのはそのせいではなかろうか。
 アジアの他の国でも庶民はこういう瞳と笑顔の人が多いが、インテリになると、とたんに少なくな
 教育水準が上がり経済的に余裕が出てくると、人生の選択肢が増え、葛藤がはじまるらしい。
 自分の決断に迷い、悩み、悔いる。不幸はそこに生まれる。
 でもブータンのインテリにはそんな葛藤はない。庶民と同じようにインテリも迷いなく生きるシステムがこの国にはできあがっている。
 ブータン人は上から下まで自由に悩まないようにできている。
 それこそがブータンが「世界でいちばん幸せな国」である真の理由ではないだろうか。

 なるほどねえ。自由が少ないから、悩まない。情報が少ないから、迷わない。

 うーん。たしかに幸福なのかもしれないけど、なんかそれってディストピアみたいだよなー。知らないから幸せでいられる。大いなる存在が無知な人民を支配して、人々はぼんやりとした顔で幸福に暮らす、SFでよくある話だ。

 でも「幸福」ってそんなもんなんだよね。たとえば今の女性って(昔に比べて)いろんな生き方を選べるけど、じゃあ「女の幸せは結婚して子どもを産んで育てることよ」と言われていた時代と比べてハッピーになったのかというと、うーん……。幸福って相対的なものだから、「自分は70点だけど隣の人は90点」よりも「みんなが50点で自分が60点」のほうが幸福なんだよな。昔はせいぜい「隣の花は赤い」ぐらいだったのが、今では「SNSで流れてくるどっかの誰かの花は赤い」だもんな。


 人類は「便利になれば幸福になる」と信じて突き進んできたけど、実際は逆で、便利で自由になるほど不幸の種が増えていく。それでも便利への道を進むのを止められない。幸福立国ブータンですらも。


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2025年12月2日火曜日

【読書感想文】浅倉 秋成『教室が、ひとりになるまで』 / SFミステリとしても小説としても傑作

教室が、ひとりになるまで

浅倉 秋成

内容(e-honより)
北楓高校で起きた生徒の連続自殺。ひとりは学校のトイレで首を吊り、ふたりは校舎から飛び降りた。「全員が仲のいい最高のクラス」で、なぜ―。垣内友弘は、幼馴染みの同級生・白瀬美月から信じがたい話を打ち明けられる。「自殺なんかじゃない。みんなあいつに殺されたの」“他人を自殺させる力”を使った証明不可能な罪。犯人を裁く1度きりのチャンスを得た友弘は、異質で孤独な謎解きに身を投じる。新時代の傑作青春ミステリ。

 SFミステリ。

 クラス全員で集まって積極的にイベントをやる「仲のいいクラス」で、相次いで自殺が起きた。主人公の幼なじみは、これは自殺ではなく他殺だ、次に狙われるのは自分かもしれないと語る。そして主人公はある“能力”を授かる。それは「他人の嘘を見破ることができる」という力。校内にはあと三人、能力の「受取人」がいるという。はたしてクラスメイトを自殺に追いやった「受取人」を見つけ、犯行を食い止めることはできるのか――。


 おもしろかった。

 正直、SFミステリに対してあんまりいい印象を持ってなかったんだよね。超能力や超常現象を扱ったSFミステリって一歩まちがえれば「何でもあり」になってしまいおもしろくない。かといってきちんと作りこみすぎても、他人がパズルを解いているところをただ見せられているような窮屈な小説になってしまう。

『教室が、ひとりになるまで』は、そのどちらでもない、謎解きのおもしろさを存分に与えてくれながら、登場人物たちの思考の広がりも感じさせてくれる優れた小説だった。

 超能力を扱ってはいるが、その能力にいくつかの制約をつけている(発動には条件がある、能力と発動条件を他人に知られたら能力を失う、発動できるのは学校の敷地内だけ)。またミステリの肝である「誰が能力者なのか?」「どのような能力なのか?」についても十分なヒントが与えられていて、決してたどりつけない謎ではない。ミステリとしてきわめてフェアだ。

 この「ミステリとしてフェア」という部分がSFミステリにとっては命だ。超能力という「どうとでもできる」題材を扱っているからこそ、ルールをきっちり定めてほしいし、そのルールを読者に明かしてほしい。「言ってなかったけど実はこんな能力もありましたー」と後出しをされると台無しだ。

『教室が、ひとりになるまで』は、とても誠実なSFミステリだった。4つの能力にもちゃんと意味があるのがすばらしい。



 なによりすばらしいのが、傑作SFミステリでありながら、青春小説としてもしっかり読みごたえがある点だ。

 クラスメイトたちを死に追いやった犯人を突き止めて、能力を暴き、めでたく事件解決……とならない。むしろそこからが本番だ。

「事件の謎を解いてさらなる悲劇を食い止める高校生探偵もの」で終わらせない。殺人事件が解決したことで、その裏にあったもうひとつの謎が明るみに出るという見事な仕掛けが用意されている(もちろんその仕掛けに対するヒントも十分に提示されている)。

 SFミステリはともすれば登場人物たちがストーリーを展開させるためのコマになってしまい、パズル作品になってしまう。だが『教室が、ひとりになるまで』では各人が葛藤を抱えた人物として描かれている。また価値観の違う人物同士が最後までわかりあえない。ミステリを成立させるためのコマではなく、生身の人間が描かれている。


 他にも、『そして誰もいなくなった』を想起させるタイトルの仕掛け、終盤で明らかになる主人公が「受取人」に選ばれた理由、決してハッピーではないが救いを残したエンディング、細部までよく練られた小説だった。傑作!


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2025年11月27日木曜日

【読書感想文】品田 遊『名称未設定ファイル』 / 一般人の行動を実況するスレ

名称未設定ファイル

品田 遊

内容(e-honより)
他愛もない投稿を火種に無限に炎上が広がるSNSの滑稽さを映しだす「猫を持ち上げるな」、一億総発信者時代の闇が垣間見える「紫色の洗面台」ほか、ダ・ヴィンチ・恐山名義でも活躍する作家・品田遊がネット世界の虚無をシニカルに描く短編17本を収録。

 ショートショート集。

 ほとんどの作品が現代的なアイテムを題材にしている。SNSでの拡散・炎上、ネット通販のレコメンド機能、アフィリエイトブログ、匿名掲示板、gif画像など。

 時代性が強いので、刊行から8年たった今読むとすでにちょっと古くなっているネタも多い。アフィリエイトブログとか匿名掲示板とかかなり衰退しているもんなあ。


 おもしろかったのは、

オンライン通販会社が趣味や異性との出会いまでレコメンド(推薦)してくるようになった時代を描いた『この商品を買っている人が買っている商品を買っている人は』

他人の健康状態を視覚化できるようになったガジェットを開発した男が気づいた思わぬ副産物を書く『過程の医学』

なぜかただのサラリーマンが多くの人によって監視・実況されている『亀ヶ谷典久の動向を見守るスレ part2836』


 中でも好きだったのは『亀ヶ谷典久の動向を見守るスレ part2836』。ごくごくふつうの会社員のありとあらゆる行動がなぜか多くの人に筒抜けになっており、匿名掲示板で実況中継されているという短篇だ。

「なんで一般人がこんなに監視されてるの?」という疑問(当然の疑問だ)を書き込む人もいるのだが、それに対して「嫌なら見なきゃいいだろ」「叩きたいならアンチスレ行け」みたいな書き込みが返されるのが妙にリアルだ(そしてそのせいで疑問に対する答えは返ってこない)。

  ばかばかしいしナンセンスなんだけど、そもそも匿名掲示板ってそういうものだよね。テレビ番組とか漫画とかの実況をしていたりもしたけど、それだって別に意義があるわけじゃないし。ただの雑談なんだから、題材はサッカーの試合でも今週号のONE PIECEでも亀ヶ谷典久でもなんでもいいわけで。


 時代性が強い作品集だからこそ、ひょっとしたら今から20年後とかに読んだ方がおもしろいかもしれない。「あの頃はこんなことをめずらしがってたんだなー」「これがSFだと思ってたんだ。今じゃすっかり現実だけど」って感じで。


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2025年11月26日水曜日

【読書感想文】松原 始『カラスはずる賢い、ハトは頭が悪い、サメは狂暴、イルカは温厚って本当か?』 / 「最強の動物」はナンセンス

カラスはずる賢い、ハトは頭が悪い、サメは狂暴、イルカは温厚って本当か?

松原 始

内容(e-honより)
かわいい、怖い、賢い、頭が悪い、汚い、ずるい―人間が動物たちに抱いているイメージは果たして本当か?カラスの研究者である著者が動物行動学の視点から、さまざまな動物たちにつきまとう「誤解」をときあかしていく。一匹狼は、孤独を好んでいるわけじゃない。ハゲタカは、ハゲだから清潔に生きられるのだ!真剣で切実で、ちょっと適当だったりもする彼らの真の生きざまが見えてくる一冊。文庫化にあたり書き下ろしのエッセイと新規イラストを収録。


 動物に対して我々が感じる美醜、好悪、賢愚などのイメージに対して「いやいやほんとの動物の生態って一般的なイメージとちがうんですよ。っていうか動物に対して人間の尺度であれこれ言うことはナンセンスなんですよ」と説いた本。

 たとえば「最強の動物は何か?」という議論でライオンやカバやゾウやシャチなどが挙げられることが多いけど、異なる種の動物同士が一対一で戦うことは多くない。一対一で戦ったとして、陸上ならライオンがワニに勝つだろうが水中なら文句なくワニが勝つ。また集団で行動する動物の場合は集団での強さを考慮する必要がない。また絶滅しかかっているサイと世界中で繫栄しているアリを比べたら、後者のほうがはるかに種として強いと言えるだろう。だがそれも現代の話であって、地球環境が大きく変化したらアリが絶滅してサイが繫栄する時代がくるかもしれない……。

 ……と考えると、「どの動物が最強か?」を論じるのはまったく無意味だろう。「どの人間がいちばんえらいか?」というのと同じぐらいナンセンスだ。



 ヒトは、自分と近い動物に肩入れをする。環境保護を訴える人ですら。

 スナメリという動物がいる。小型のクジラで、せいぜい2メートルくらいにしかならない。ハクジラ類(つまりイルカの親戚)だが、鼻先は丸く、シロイルカのような姿だ。日本でも瀬戸内海や伊勢湾など、内湾や近海に分布している。それが減少している、と聞いたら、ちょっと胸が痛まないだろうか。
 では、オーストラリアのクイーンズランド州にいた、全長5センチほどの、鮫肌でざらっとした感じのカエルが絶滅したと聞いたら? スナメリほど気になるだろうか?
 これについて、2012年にこのような論文が発表された。
 「保全の対象となっている動物は多くが大型でかわいい、あるいは目立つ動物である。目立たない動物は少なく、植物に至っては滅多に取り上げられない」(Earnest Small, 2012, The new Noah's Ark : beautiful and useful species only. Part2. The chosen species. Biodiversity:12-1)

 最近読んだ別の本に、「毎日100種以上の生物が絶滅している」と書いてあった。大半は菌類や微生物だろう。

 だがそいつらは話題にならない。数が減っているイルカやパンダやトキは大きなニュースになるのに。我々はイメージで保護するかどうかを決めているのだ。



 クジャクのオスが長く美しい尾を持つのはメスにアピールするため……というのが定説であるが、これはすべてのクジャクにあてはまるわけではないそうだ。

 例えば、クジャクのオスだけが持つ長い尾(正しくは尾と上尾筒からなる)はどう考えてもメスにモテようと発達したものなのだが、現在の伊豆シャボテン動物公園においては、もはやメスに対するアピールにいないという研究がある。
 長谷川寿一(東京大学)らは長年、伊豆シャボテン動物公園で繁殖しているクジャクのモテ方を計測していた(というとなにやら軽く聞こえるが、性選択の実証研究として非常に重要で厳密なものである)。長谷川らは尾の長さ、目玉模様の数、対称性など、様々な要因と、繁殖成功の関連を調べ続けた。だが、結果はことごとく予想を裏切るものであった。尾の長さも目玉模様も、オスのモテ具合と今ひとつリンクしないのである。
 ところがある時、思いもよらない結果が出た。クジャクのオスの繁殖成功と強い相関を持っているのは、鳴き声だったのだ。よく鳴くオスはモテるなんとシンプルな、そして意外な結果であったことか。
 もちろん、「だからクジャクの尾はオスのモテ方とは関係なかったんだ」とか「進化論なんてうそっぱちだ」という意味ではない。海外の研究では対称性や目玉模様の数などが影響するという結果も出ているからだ。かつては立派な尾を持つことが、クジャクにとって重要だったのだろう。
 ただ、伊豆シャボテン動物公園においては、どうやらメスがオスの選択基準を切り替えてしまい、「歌えるオスがいい」という好みにシフトしてしまっていたようなのである。あるいは、「尾が立派なのは当たり前、さらに歌がうまくなきゃイヤ」と言う方が正しいかもしれない。

 まあ人間だって、文化や時代によって「どんな男/女がモテるか」は変わるもんね。クジャクだって世界中どこへ行っても同じ嗜好をしているわけではないんだね。

 考えてみればあたりまえの話なんだけど、ついつい「動物には固有で不変の生態がある」と考えてしまう。



 多くの日本人に愛されているツバメ。そんなツバメの「イメージ」が変わるかもしれない話。

 さて、ライオンはいかにも「猛獣」だから、こういうことをやると聞いてもそんなに不思議に思わないかもしれない。だが、身近なところで子殺しをやるのはツバメだ。
 ツバメは渡り鳥で、春になると日本にやって来る。そして、営巣場所を見つけると巣を作り始める。
 ところが、巣の前にツバメが3羽、ないしそれ以上いることがある。仲良くお手伝いしてあげている、なんてことはもちろんない。2羽はペアで、もう1羽は割り込んできたよそ者だ。営巣場所、ないし巣そのものを乗っ取ろうとしているか、メスを奪おうとしているか、である。このストーカー野郎の攻撃はさらに続くことがあり、ひどい時はペアが産んだ卵や雛を捨てしまう(営巣場所を狙っている場合、ペアでやる場合もある)。この時に攻撃しているツバメが何かを計算している、というわけではないと思うのだが、結果として、ペアがその巣を使うことを諦めたり、ペアを解消したり、ということはあり得る。そうなれば巣、あるいはメスを分捕れる可能性が出て来るわけだ。

 軒下にツバメが巣を作って春が来たなあ、なんて人間がのんきなことを考えている間に、ツバメたちは子孫を残すために子どもを殺すか守るかの攻防をくりひろげているのだ。

 これをもって「ツバメは残酷」と考えるのもそれはそれで単純な見方で、「他人の子を殺すのは重罪」というのはあくまで人間の価値観だからね。



 有名なすりこみ(鳥のヒナなどがはじめて見たものを親とおもう習性)について。

 それはともかく、カモの雛たちは親鳥の後ろをついて歩く。ところが、子連れの親同士が、ばったり出合ってしまうこともある。彼らは別に縄張りを持っているわけではない(というのも、餌である草は十分にあり、喧嘩してまでその場を独占する意味がないからだ)ので、お互い特に干渉しないで餌を食べ、また別れる。
 ところが、この時に雛がちゃんと自分の親について行くかというと、どうもそうとは限らない。ガンカモ類の多くの種で、雛がごちゃ混ぜになってしまうのである(雛がうんと小さい間は、親鳥が鳴き声で我が子を区別し、他の雛を入れない例もある)。
 (中略)
 さらに言うと、種内托卵の盛んな種の方が、雛混ぜが多いという意見もある。種内托卵というのは、さっきのダチョウのように、同種の巣に自分の卵を産んでくる、という行動だ。他人に世話を押し付けて自分だけ楽しようという考えにも見えるが、どいつもこいつもこの行動をやる場合、自分の巣にも誰かが卵を産み込んでいるはずなので、かかる手間は結局一緒である。
 種内托卵が常態化しているなら、「自分の巣にいるから自分の血を分けた子ども」ということにはならない。赤の他人の子どもが混じっているのだ。そういう雛を引き連れて歩き、雛混ぜが起こったところで、他人の子どもが別の他人の子どもに入れ替わるだけで、特に違いはない。
 それどころか、お隣さんが連れていた雛の1羽か2羽こそが、自分が托卵してきた我が子かもしれないのである!こうなるともう「自分の子ども」という概念が崩壊し、何がなんだかわからない集団子育て化してしまうのも仕方ないだろう。
 ということで、カモが他人の子どもまで機嫌よく面倒を見るのは、やさしいからというよりズボラだからと言った方が正しいような気さえしてくる。まあ、こういう大らかさは、それはそれで人間も見習うべきところがあるような気はするが。

 なんと最初に見たものを親とおもうどころか、ある程度成長してからも、近くにいる大きな鳥を親とおもってしまうのだ。親のほうも気にせず、数十羽の雛を連れて歩いている親ガモもいるという(カモが一度に卵の数は十個ぐらい)。おおらかというかいいかげんというか……。

 こういうことができるのは、雛のために親が餌を運んできてやらないといけないツバメのような種と違い、カモの雛は自分で餌場まで歩いて餌をとれるからなんだけど。

 なんとなく「おや、やけに子どもの数が多いね。よく見たらうちの子じゃないのもいるね。まあいいや、腹へってるなら食っておいき!」という肝っ玉かあちゃんを想像してしまう。人間の勝手なイメージだけど。



 ドングリでおなじみのブナの生存戦略について。

 この、「大量に産めば誰か残るよ」作戦は生物には普遍的なものである。例えば、毎年毎年、大量の実を落とすブナ。だからって雑木林がブナの若木で埋め尽くされているのは見たことがないはずだ。というのも、ブナが発芽するには、いくつものハードルがあるからである。
 まず、地面に落ちたブナの実は片っ端から動物に食われる。だいたいはネズミ、あとはイノシシなどだ。いや、落ちる前からゾウムシが産卵していて、殻の中で食べられていることも少なくない。あるいは腐ってしまう。その結果、多くの場合はその全てが食われるか腐るかしてしまい、発芽することさえできない。
 だが、数年に一度、大豊作がある。こういう時はネズミも食べ尽くすことができず、実が生き残って発芽するチャンスがある。というより、数年に一度ドカンと豊作にすることで、チャンスを作り出している、と言ったほうがいい。
 平常の結実数を低く抑えておくと、ネズミはそのレベルで食っていける数までしか増えられない。そうやってネズミの個体数を抑えておき、たまにネズミの食べる量を大きく上回る数の実を落とせば、間欠的にだが、ブナは発芽のチャンスを得られるのだ。こういう周期的な大豊作を「マスティング」といい、様々な植物に見られる。
 もっともブナの場合、発芽したとしても林床はササで覆われて光が届かない。光を浴びて大きく成長するチャンスは、ササが一斉開花して一斉枯死し、林床が明るくなる時だけだ。だが、光が不足したままヒョロヒョロの苗木として生き延びられるのはせいぜい数年。一方、ササが一斉枯死するチャンスは、数十年に一度しかない。
 つまり、マスティングの年に実り、かつそれから数年以内にササが枯れてくれた場合だけ、その実はブナの大樹に育つ可能性がある。そんな気長な、と思うが、ブナの寿命は400年くらいあるので、その間に何度か「子孫が残る年」があればいいのだろう。
 これは、少数の子どもを産んで大事に育てる霊長類には理解しがたい戦略である。だが、我々の子育てとは対極にある、「子育ての手間を最小限にし、代わりにとにかく大量に産む」戦略も有効であることは間違いない。

 なるほどー。400年も寿命があれば、「数十年に一回子孫を残せればいっか」ぐらいの戦略をとることもできるのか。人間の思考スケールではとても考えつけないやりかただ。




 どこをとってもおもしろい本だった。語り口もおもしろいし、エピソードや動物知識も興味深い。

 そして何より、カラス研究者である著者のカラス愛が存分に伝わってくる本だった。いろんな動物のことを書いているのに、すぐにカラスの擁護になるんだもん。ホントカラスが好きなんだなあ。


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2025年11月25日火曜日

【読書感想文】朱川 湊人『花まんま』 / 霊は全智全能の神といっしょ

花まんま

朱川 湊人

内容(e-honより)
母と二人で大切にしてきた幼い妹が、ある日突然、大人びた言動を取り始める。それには、信じられないような理由があった…(表題作)。昭和30~40年代の大阪の下町を舞台に、当時子どもだった主人公が体験した不思議な出来事を、ノスタルジックな空気感で情感豊かに描いた全6篇。直木賞受賞の傑作短篇集。

 昭和中期の大阪の下町を舞台にした短篇集。どの作品も超常現象の要素が含まれている。

 近所の人たちから距離を置かれていた朝鮮人の少年が死んだ後に幽霊となって現れる『トカビの夜』、謎のおじさんから買った奇妙な生物を飼う『妖精生物』、幼い妹が自分の前世を事細かに語りだす『花まんま』、部落差別に苦しむ少年が墓地で出会った女性と奇妙な体験をする『凍蝶』など、どれも霊や超常現象が扱われている。

 オカルト系の作品って好きじゃないんだよなあ。中でも後半に霊が出てくるやつ。「ふしぎなことが起こったのは霊が原因でしたー!」って言われても「はあそうですか」としかおもわない。だって霊の仕業ってことにしたら何でもアリじゃない。どんな無茶でもつじつまの合わないことでも「霊だからです」って言われたらこっちはそれを受け入れるしかない。ルール無用になっちゃう。

 子どものとき、おにごっことかボール投げとかで遊んでいたらすぐ「バリアー!」とか「今は無敵!」とか言いだすやつがいて、それを言われたら急速に醒めたのを思いだす。「無敵」を導入したらルールが破綻しちゃうからつまらんのよね。

 霊ってそれと同じ。言ってみれば全智全能の神と同義。



 というわけで上記の作品はあまり好きじゃなかったのだが、『摩訶不思議』『送りん婆』はおもしろかった。


『摩訶不思議』は死んだ叔父さんの葬式中、霊柩車が火葬場に着く直前でぴくりとも動かなくなってしまう……という話。

 叔父さんの未練のせいでふしぎなことが起こっているらしい、というオカルト話ではあるのだが、この話の主軸はオカルト部分ではなく残された人間たちの心模様にある。

 叔父さんには内縁の妻がいて葬列にも参加していたのだが、どうやら叔父さんの霊は浮気相手の女性が葬列にいないことを不満におもって霊柩車を止めているらしい。それを察した甥の主人公が浮気相手を連れてくるのだが、そうするとおもしろくないのは内縁の妻。死んだ叔父さんをめぐって女たちの修羅場がくりひろげられる……というコメディタッチの作品だ。うん、ばかばかしくて楽しい。新喜劇のようだ。


 そして『送りん婆』。こちらはうってかわってぞくぞくするような味わいの小説。

 先祖代々「送りん婆」という役目を果たす一族に生まれ、後継者に指名された主人公。「送りん婆」の役割は、死を前にした病人の枕元である呪文をささやくこと。その呪文を聞いた病人は嘘のように身体が楽になるがほどなくして死んでしまう。心と身体をつなぐものを切る呪文なのだ。

 行く先短い者を苦しみから救う仕事でありながら、ときには人殺しと忌み嫌われることもある「送りん婆」の悩みが描かれる。

「実は霊の仕業でしたー!」タイプの小説は嫌いだが、こんなふうに最初に設定を明かしてその中での行動や葛藤を書く小説は嫌いじゃない。オカルトを謎の答えとして使うのは許せないが、設定に使うのはアリだ。

「送りん婆」が使うのは呪文だが、やっていることは『ブラック・ジャック』のドクター・キリコと同じである。ここを考えることは尊厳死をめぐる議論にも通じる。

 個人的には尊厳死に対して概ね賛成の立場だが、反対派の言うことも理解はできる。だが理解できないのは「尊厳死について議論をするなんて不謹慎だ!」というやつらだ。残念ながら現状この手の議論を避けようとするやつらが非常に多い。耳をふさいで「あーあーあー聞こえなーい!」というやつらだ。

 現代日本においてすでに破綻している年金制度や医療費・介護費の問題をいくらか解決してくれるのが尊厳死制度の導入なのだが、現在その議論すらタブーになってしまっているのは残念だ。反対するにしても国会で議論して堂々と反対意見を述べればいいのに、「そんな話するなんて命の冒涜だ!」みたいなことを言う連中が多くてお話にならない。

 議論から逃げたい人は、せめてフィクションを通して考えをめぐらせてもらいたいものだぜ。


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2025年11月18日火曜日

【読書感想文】逢坂 冬馬『歌われなかった海賊へ』 / あの頃憎んだ大人になった自分へ

歌われなかった海賊へ

逢坂 冬馬

内容(e-honより)
一九四四年、ヒトラーによるナチ体制下のドイツ。密告により父を処刑され、居場所をなくしていた少年ヴェルナーは、エーデルヴァイス海賊団を名乗るエルフリーデとレオンハルトに出会う。彼らは、愛国心を煽り自由を奪う体制に反抗し、ヒトラー・ユーゲントにたびたび戦いを挑んでいた少年少女だった。ヴェルナーらはやがて、市内に敷設されたレールに不審を抱き、線路を辿る。その果てで「究極の悪」を目撃した彼らのとった行動とは。差別や分断が渦巻く世界での生き方を問う、歴史青春小説。

 ナチス政権下のドイツで活動していた“エーデルヴァイス海賊団”を題材にした歴史小説。

 この本を読むまでぼくも知らなかったんだけど、“エーデルヴァイス海賊団”という組織があったらしい。組織といってもきちんと体系化された組織ではなく、あちこちで自然発生的に生まれたものらしい(海賊団を名乗ってはいるが海賊ではない)。

 ナチスが青少年育成組織としてヒトラーユーゲントを作り、それ以外の青少年団体の組織化を許さなかった。ヒトラーユーゲントでは男は強く勇敢な軍人に、女は家庭的な良き母となることを強制された。これに対する反発として、あちこちで誕生したのが“エーデルヴァイス海賊団”なのだそうだ。(禁止されていた)旅行をしたり、ときには過激化して軍の建物を襲撃したり物品を盗んだりすることもあったという。


 ヴァルディはラジオを慎重にチューニングして、拾いかけた電波を探った。ナチスの退屈なプロパガンダ放送と違い、イギリスを始めとする外国の放送局のドイツ人向けラジオ放送を聴くことは、体制に従順ではない人たちにとって特別な行為だった。彼らの報じる番組には、現実の戦況、ナチスが覆い隠す蛮行、さらには禁制文化もあった。ジャズを始めとする禁じられた音楽。それらを聴取することは当然ながら重罪であったが、最大の刺激だった。そしてこれら外国の放送電波は、昼よりも夜間の方が受信しやすく、毎夜各家庭ではラジオの電波を拾い、ヘッドホンを付けたまま毛布を被る人たちがいた。
 その夜が来た。やがてヴァルディの手が止まり、朗々としたドイツ語が聞こえた。
『……エーデルヴァイス海賊団、大胆不敵にもヒトラー・ユーゲントに戦いを挑み、レジスタンスとして戦う彼らは今や、ドイツにおける唯一の民主化勢力といっても過言ではありません。ナチス独裁体制を打倒すべく、自由と民主主義の理想に向けて戦う彼らの徽章は、その名の通りエーデルヴァイス。彼ら若き自由の戦士の存在は、ナチスの独裁者にとっては忌々しいものでありますが、ドイツ人にとっては希望であります。そして彼らは、戦後ドイツの礎を築いていくことでしょう!』
 明朗闊達なドイツ語がそこで終わり、ジャズの音楽が聞こえた。若者たちはニュースが続くのを待っていたが、これでエーデルヴァイス海賊団についての話は終わりらしく、音楽が終わると、ドイツの各地に連合国陸軍が進軍しており、戦況はドイツにとって絶望的であるという、その場の誰もが知る事実を伝え始めた。
 十一人の若者たちは、しばらく呆然としていた。彼らは互いに視線を走らせた。
 皆が、放送のうちに、どうやら自分たちに浴びせられたらしい賛辞を反芻していた。
 ドイツ唯一の民主化勢力。自由と民主主義。若き自由の戦士。
 ……そうだっけ?
 唐突に、リアが吹き出し、そのまま声を上げて笑い始めた。ヴァルディが続き、それを見ていたヴェルナーも笑い出した。やがてその場の全員が笑い出し、口々に先ほどの放送で聞き取った語句を反復した。
「俺たちがレジスタンスだって」
「違う」
「私たちは民主化勢力だっけ」
「まったく違う」
「戦後ドイツの礎になるの?」
「なるわけない」
 口々に笑うことで、彼らが安心していることが、ヴェルナーには分かった。
 俺たちは、そんなものじゃない。
 ひとしきり笑ったあと、リアはヴァルディにラジオ放送を消させた。
 笑い声も途絶えると、また元の静けさに包まれた。
 ベティが、ぽつりと呟いた。
「私たちはそんなんじゃないのに、どうしてみんな、自分の都合で分かろうとするんだろうね」
 うん、とエルフリーデが頷いた。

 ナチスに抵抗した“エーデルヴァイス海賊団”は正義のために戦うヒーローのような扱いを受けることもある。だがそれは「ナチスは良くないもの」とされている社会における都合のいい物の見方だ。彼らの大半は決して社会正義のために戦っていたわけではない。もしかすると「やりたくないことをやらされるなんてかったりーぜ」的な感覚が強かったのかもしれない。いってみれば暴走族とか愚連隊みたいなものか。

 たまたまドイツが戦争で負けてその後ナチスが悪の権化のような扱いを受けたから持ち上げられているけど、もしもドイツが勝っていたら単なる悪ガキの反社会的結社として片付けられていただろう。


「ゲッベルスやリーフェンシュタール、ナチスの連中がつくるプロパガンダの映画って、よくできてるよな」
 沈黙を破ったのは、リアだった。再びギターを鳴らして、彼女は語る。
「まるで、編隊を組んで次々と急降下に入る攻撃機や、装甲師団の戦車連隊のように、一斉に行進するヒトラー・ユーゲント。旗を振ってそれを歓迎する大人たち。彼らが作る映像には、彼らが映したくないものが映ることはない。そして多分、このあとドイツが戦争で負けても、ずっとああいう映像が残るんだ。一国を単一の思想によって統一させることは難しいけれど、それが成功していると見せかけることはとても簡単なんだろう。まるでヒトラーやナチスが目指したドイツが、完成したようなその映像を見て、人々は思う。ナチスは、ヒトラーは、ドイツを思うがままに操った。皆はヒトラーを熱狂的に歓迎したし、ナチスは国民に支えられて戦争を戦った。ラジオが、映画が人々に噓をついた。この国はペンキで塗りつぶされたように、ただひとつの思想に乗っ取られていた。だからあのときは皆が騙されて、誰も逆らえなかったし、逆らわなかった」
「だけど、私たちはここにいる」
 リアの言葉を継いだのはエルフリーデだった。
「私たちは、ドイツを単色のペンキで塗りつぶそうとする連中にそれをさせない。黒も、赤も、紫も黄色も、もちろんピンクの色もぶちまける。私たちは、単色を成立させない、色とりどりの汚れだよ。あいつらが若者に均質な理想像を押しつけるなら、私たちがそこにいることで、そしてそれが組織として成立していること、ただそのことによってあいつらの理想像を阻止することができるんだ。私たちは、バラバラでいることを目指して集団でいる。だから内部が単色になることもなければ、なってはいけないし、調和する必要もないんだ」

 歴史の教科書では「ドイツは戦争に向かって突き進んだ」とあっさり記述されるけど、あたりまえだけどドイツ国民にはいろんな考えの人がいた。ユダヤ人にもいろんな人がいて、たとえばナチス側についた要領のいいユダヤ人だっていただろう。けれど後世の歴史ではそういった人たちは削ぎ落されて、「ドイツ人がユダヤ人を迫害した」と単純化されてしまう。

 人間は物語を作るのが得意で、ストーリーを語ることによって見ず知らずの人とも協力できるわけだけど、物語化することで物事を見誤ることも多々あるんだよね。「気に食わないあいつと敵対しているから、この人は自分の味方だ!」と思っちゃったり。強い言葉で語る政治家ほど(一部の人に)受けがいいのもそういうことなんだろう。



 ナチスドイツ統治下、それも敗戦直前という特殊な状況を舞台にした小説だが、なぜかここで書かれる少年少女たちの不安や怒りはよくわかる。もちろんぼくが育った平和な日本とはまったく違う世界を生きているのだが、それでも彼らの抱える悩みはどの時代、どの社会にも通じる普遍的なものだ。

 生き方を強制されたくない、社会の悪や矛盾が許せない、悪事を働いているやつら以上にそれを知りながら目をつぶっている善良な連中がもっと許せない。

 おもえばぼくもやっぱりそういう気持ちを持っていた。なんで大人たちはもっと闘わないのだと。

 そして中年になった今、ぼくはすっかり闘わない大人になっている。悪いことをしているやつらがのさばっていることも知っている。悪を憎む気持ちは持っているが、それ以上に保身を優先してしまう。闘うことよりも身を守ることを選んでしまう。ひとりの力なんてたかが知れてるよとか、家族を守るためにはしかたないよとか言い訳をして、悪から目を背けてしまう。

 もし今日本がナチスドイツのような世の中になったとして。きっとぼくは政府や軍には立ち向かえないとおもう。心の中では「こんなのおかしいよ」とおもいながら、「命令されたからしかたなかった」「生きるためにはしかたなかった」「知らなかったからしかたなかった」と自分に言い聞かせて力に屈してしまうとおもう。

『歌われなかった海賊へ』には、戦争中はナチスに都合の良いプロパガンダを流すことに協力し、戦後は平和の尊さを説く“優しくて子ども想いの善良な教師”が出てくる。彼女は今のぼくの姿だ。子どもの頃に憎んだ大人の姿だ。


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2025年11月17日月曜日

【読書感想文】エヴァ・ファン・デン・ブルック ティム・デン・ハイヤー『勘違いが人を動かす ~教養としての行動経済学入門~』 / 我々はこんなにアホなのだ

勘違いが人を動かす

教養としての行動経済学入門

エヴァ・ファン・デン・ブルック(著)
ティム・デン・ハイヤー(著) 児島 修(訳)

内容(e-honより)
「論理」よりも「情熱」よりも「認知バイアス」が人を動かす。罰も報酬も、知識も議論も、感動も約束もないのに、なぜ人間の行動は「意識できない些細な仕掛け」に自然と誘導されてしまうのか?

 行動経済学の本を何冊か読んだけど、ほとんどどれも実験結果やエピソードがおもしろい(引用の引用だらけの質の低い本もあるけど)。人間ってこんなバカなことをしちゃうんですよ、という話はどうしてこんなにおもしろいのか。

 古典経済学では、常に合理的な選択をする存在として人間を想定していた。1円でも得なことをするほうを選ぶに決まっている、と。

 だが実際の人間はそうではない。明らかに損をすること、自分でも良くないとわかっていることにお金や時間を使ってしまう。

 その愚かな人間の話を読むのが楽しい。自分の中にも愚かな部分だからこそおもしろい。落語の粗忽物を笑うような感覚だ。



 人は己の能力を高く見積もってしまう。ある分野に知識がない人ほど、自分はわかっていると思いこんでしまう。

「もし自分が金融業界の管理職だったら、もっといい仕事ができる」と信じている建設作業員が、気後れすることなくその考えをソーシャルメディアに投稿する。
 自力で自宅のリノベーションができると思い込んでいる企業幹部が、テレビ番組に出演して下手なDIYを披露してしまう。
 ファッションモデルが、たった数時間の調べものをしただけで、現代の医学の大きな問題点がわかったと確信する。
 この効果が面白いのは、そのテーマを学ぶにしたがって、過信の度合いが下がっていくことだ。知識が増えるにつれ、自分がまだ何も知らなかったことに気づくからだ。その結果、「これは常に当てはまることではないかも」「もっと調べないといけないかな」「そこまで断言はできないだろう」と躊躇し始める。
 以前のような自信に満ちた態度は減り、小さな違いが気になって思考が止まったり、葉に詰まって反論できなくなったりしてしまう。そして、知識を持っている人のほうが、たいした知識もないのに自信満々の人たちに道を譲ってしまうことになる。
 だから、トーク番組に出演したテレビドラマの俳優が、付け焼刃の知識で持続可能エスルギーの問題について突然熱く持論を展開することになるのだ。

 たしかになあ。ちゃんとした政治学者や経済学者のほうが慎重な物言いをしていて、ろくに本も読んでいなさそうな芸人や俳優が強い口調で政治について断言している、なんてのをよく見る。まああれは「自分に自信があるバカのほうが言ってることがわかりやすいと思われるから」ってのもあるけど。

 浅い知識しかなければ「与党はこうだ! 野党はああだ!」って言えるけど、しっかり勉強をして与野党それぞれにいろんな人がいてそれぞれいろんなことをやってきてそのそれぞれに功罪両方あって……ということを知っている人はうかつに「あの政党は○○だ!」って断言できないもんな。

 賢い人ほど不明瞭な物言いをする。でもそれはウケない。人は単純な話が好きだ。




 そう、人は単純な話が好きだ。

「ハラヘッタ、ピンポーン、ピザ(Man hungry ding-dong pizza)」というドミノ・ピザのコマーシャルは、ピザの宅配サービスがどういうものなのかを最低限の言葉で表している。筆者(ティム)は広告業に携わっているので、この見事なキャッチフレーズに嫉妬を覚える。
 しかし、ドミノ・ピザ側には歯がゆい部分もあったはずだ。〝できたて、サクサクの生地、ベジタリアンメニューも取り揃えた豊富な品揃え〟といった同社の売りをアピールできなかったのだから。
 ファストフードに当てはまることは、環境問題や経済政策、医学研究の分野にも当てはまる。これらの分野の人たちは、メッセージを(過度に)単純化することに強く抵抗することが多い。その結果、メッセージは長くて回りくどいものになり、単純なキャッチフレーズを用いるライバルに大きく水をあけられることになってしまう。

 正確だけど長いメッセージは伝わらない。伝わるのは不正確だけど短い文章だ。〝できたて、サクサクの生地、ベジタリアンメニューも取り揃えた豊富な品揃え〟ですら長すぎる。みんな1秒たりとも頭を使いたくないのだ。

 だからSNSで流れてくる情報の真偽を確かめようとしないのはもちろん、「嘘かもしれない」とすら考えない。そう思う1秒の労力すら惜しい。自分の考えに近ければ「これは真実」、反対の意見であれば「これは嘘に決まってる」。ゼロコンマ数秒しか思考しないSNSでまともな議論などできるはずがない。




「(勘違いによって)人を動かすテクニック」もふんだんに紹介されている。

 20年前に友人(と筆者のエヴァ自身)が学資ローンに申し込む際に入力したフォームは、次のように設定されていた。

借入を希望する額は
[✅]上限額まで
[  ]その他希望額(   )

 あなたならどうするだろうか?
 実に、68%の学生が上限額まで借りた。デフォルトの設定を変えなかったのだ。
 筆者と友人がこの効果に引っかかった少し後、政府が運営する学資ローンの申請サイトはこの小さなチェックマークを外した。これで、デフォルトで「上限額まで」が選択されないようになった。
「この程度のわずかな改善では、大した変化は起こらないだろう」と思うかもしれない。
 だが、この小さなチェックマークが外された後、上限額まで借りた学生の割合は11%に激減したのだ。

「上限額まで」という選択肢にデフォルトでチェックを入れるだけで、上限額いっぱいまでローンを組む人が11%から68%まで増えるのだ。

 いくら借金するかなんてその後十年以上にわたって人生に影響する重大事項なのに、それでもチェックマークひとつでかんたんに選択を曲げられてしまう。重大事項でなければなおさらだ。

 これは学生に限った話ではない。専門家ですら重大な判断をする際に直前に目にした数字に影響されてしまう。

「参照効果は、無意識のうちに素早く判断してもいいような、あまり重要ではない状況でのみ有効なのではないか」とあなたは思ったかもしれない。だが、そうではない。次のケースは、実際の実験に基づいている。
 
 法廷で、検察官が判事に事件の説明をする。
 運転手が人をはねた。被害者は一生車椅子の生活を余儀なくされ、賠償金を請求している。運転手は車の点検を怠っており、ブレーキには不具合があった。
 あなたなら、いくらの損害賠償金を認めますか?
 
 2番目のグループの判事も、まったく同じ説明を受けるが、被告側から「上訴の最低額は1750ユーロです」という追加の情報が1つあった。
 このグループにも「あなたなら、いくらの損害賠償金を認めますか?」と同じ質問をした。
 
 最初のケースの場合、あなたの答えはおそらく100万ユーロを超えるだろう。実際、最初のケースの説明を受けた100人の判事は平均130万ユーロと答えている。だが、上訴の最低額に関する意味のない情報を聞いた100人の判事は、平均で90万ユーロと答えた。
 
 人の人生を左右する決断を下すために高度な訓練を受けた専門家にさえ、参照効果は影響を与えるのだ。

 プロの裁判官の判断ですら動かされてしまうのだから、素人の判断なんかたやすく操作されてしまうだろう。


 選挙なんて、どんなポスターを貼っていたかとか、投票用紙の何番目に政党名が書かれているかとか、直前にSNSで目にした投稿とかでけっこう決まってるんだろうな。選挙慣れしている人たちもそれをわかっているから、目立つポスターにするとか、名前をひらがな表記にするとか、選挙カーでとにかく名前を連呼するとかのアクションを起こすのだろう。「そんなのよりちゃんと政策を訴えろよ」と思ってしまうけど、残念ながら有権者はそんなに賢くないのだ。


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2025年11月14日金曜日

いちぶんがく その24

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



幼児が石川県に触って怪我しないようにというメーカー側の配慮であろう。

 柞刈湯葉『SF作家の地球旅行記』より)




「俺にはやはり恋人がいた!」

(森見 登美彦『四畳半王国見聞録』より)




戻った正気の世界になど、もう何一つ良い事はない。

(吉田 修一『逃亡小説集』より)




いったい誰にあたたかな春の日だまりを批評することができるだろう?

(村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』より)




なんと、ここの空気はハエでできていたのだ!

(川上 和人『無人島、研究と冒険、半分半分。』より)




自殺の方法を一度も調べたことのない人の人生は、どんな季節で溢れているのだろう。

(朝井 リョウ『正欲』より)




改革の推進者は善良ではあるけれど、無知で無能だっただけだろう。

(松岡 亮二『教育格差 ──階層・地域・学歴──より)




ほしいのは自由ではなく、自分で決めているという実感だけだ。

(中野 信子『脳の闇』より)




ゆるキャラやB級グルメやご当地ナンバーが解決策ではない。

高橋 克英『なぜニセコだけが世界リゾートになったのか』より)




戦争の方はいろいろあってまあ、ネタバレをすると神々が勝った。

(小川 哲『ゲームの王国』より)




 その他のいちぶんがく


2025年11月11日火曜日

孫引きの功罪

 引用の引用をすることを「孫引き」といい、原則としてしないほうがよいとされる。

 内容が誤って伝わったり、著作権の侵害とみなされたりするからだ。

 孫引きとはつまり「知り合いの知り合いから聞いたんだけど……」みたいな話だ。そりゃ信憑性は低い。



 が、現実的に孫引きは多くおこなわれている。

 たとえばスタンフォード監獄実験と呼ばれる有名な実験がある。被験者を看守役と囚人役に分けて行動させていると、次第に看守役は看守らしく、囚人役は囚人らしくふるまうようになり、さらには看守役は囚人役に対して暴力をふるうようになった……みたいな実験だ(ただし実験の信憑性にはいろいろ疑いが持たれている)。

 

 有名な実験なので、いろんな本でお目にかかることができる。お手軽心理学とか安っぽいビジネス書にもよく出てくる。

 だがそれらの本の著者のうち、いったいどれだけの人がオリジナルの文献を読んでいるだろう。きっと1%もいないだろう。

「こんな実験があるらしいよ」と書いてある本を読み、「へーそうなんだ」と引用して、それをまた別の人が引用して……と、孫引きどころか曾孫引き、玄孫(孫の孫)引き、来孫(孫の孫の子)引き、昆孫(孫の孫の孫)引き……という感じだろう。

 もちろんぼくだって原典にあたったことはないので、上で紹介したスタンフォード監獄実験の説明も孫引きだ(めんどくさいので孫引き以下の引用はすべて孫引きと呼ぶことにする)。えらそうに語ってごめんなさい。


 ただ、ちゃんとした論文や著作ならともかく、日常会話なら「テレビで言ってたんだけど……」「友だちから聞いたんだけど……」「新聞に書いてあったんだけど……」で十分だ。

 孫引きは決して悪いものではない。むしろ「知り合いの知り合いの話」を信じる能力があるからこそ人類は進歩してきたといえるだろう。

 三平方の定理の証明方法を知らなくたって「教科書にそう書いてあるから正しいものとして扱う」として定理を使ってもかまわない。ありがとうピタゴラス。

 あらゆるものの原典にあたるなんて不可能だし、そんなことをしてたら原典を読むだけで一生が過ぎてしまい新しいものを生み出すことはできない。



 なので個人的には孫引きには寛容な立場だ。

 ただ「孫引きをするときはちゃんと孫引きであることを記せ」とはおもう。孫のくせに子のふりをするな、ってこと。


 具体的にどういうことかというと、White Berryがジッタリンジンの『夏祭り』をカバーして、それを聴いたまたべつのアーティストが歌うときに「White Berryの『夏祭り』をあのアーティストがカバー!」っていう歌番組は許せない、って話。



2025年11月10日月曜日

【読書感想文】江崎 貴裕『数理モデル思考で紐解くRULE DESIGN ~組織と人の行動を科学する~』 / 「集合知」はみんなで話し合うことじゃない

数理モデル思考で紐解くRULE DESIGN

組織と人の行動を科学する

江崎 貴裕

内容(e-honより)
なぜ、人は想定通りに動かないのか。経営戦略/ビジネスモデル=ルールデザイン?AIで社会のルールはどう変わる?人を活かすルールデザインとは?経営科学、行動経済学、複雑系科学、機械学習・AI、etc.分野横断で「ルール」をとらえる。

 こないだ読んだ松岡 亮二『教育格差 階層・地域・学歴』 に、2000年頃に実施されたゆとり教育の話が載っていた。

 詰め込み教育からの脱却を目指し、子どもたちが自ら考える力を養おうということでスタートしたゆとり教育。

 ゆとり教育では学校での授業時間が減らされた。その結果何が起こったかというと、教育熱心で経済的余裕のある親は、子どもを塾に通わせるようになった。授業時間の短い公立校が避けられ、私立校受験の競争が高まった。

「ゆとり」を目指した結果、余計に受験競争は白熱し、成績上位層はよりゆとりがなくなった。その一方で、元々勉強していなかった下位層はさらに勉強しなくなった。

ゆとり教育は大失敗に終わった(少なくとも「勉強しすぎな子どもたちにゆとりを与える」という目的の達成においては)。失敗に終わったのは、データではなくえらい人(ただし賢くはない)の思いつきで実施された結果、ルールの設定を誤ったからである。


 世の中には、そんな「賢くないけど権力だけはある人」のいいかげんな思いつきでまともに機能していないルールがたくさんある。機能しないだけならまだしも、ゆとり教育のように逆の効果を生んでしまったり、適切でないルールのせいでとりかえしのつかない重大な事故を引き起こすこともある。

 ルールの失敗はなぜ起こるのか、防ぐにはどうしたらいいかを数々の事例から説明した本。理論よりも実践向けです。



 たとえば人に何かをさせるためにインセンティブ(動機づけ)ルールを設定することがある。

 企業における成果報酬型給与なんかがわかりやすい例だ。「鼻先にニンジンちらつかせればやる気出すだろ」とはバカでもおもいつく発想だ。バカでもおもいつく発想なので、当然ながらうまくいかないことが多い。

 報酬は、成果に見合った形で与えられないと逆効果になってしまうということが知られています。社員の成果に応じた給与を支払おうと思っても、業務の内容が多岐にわたる場合、その人の貢献を正しく測定することができずに、逆に不満につながったり、内発的動機づけによる頑張りをやめさせてしまう恐れもあります。したがって、納得感のある成果報酬を与えられる状況であることが重要となります。
 報酬はうまく与えられれば、その人のパフォーマンスを大きく上げることができますが、一方で安易に設定してしまうと意外な落とし穴にはまり、全くの逆効果になってしまうことを是非覚えておいてください。

 そうなんだよねえ。ぼくが前いた会社でもインセンティブ制が導入されていたが、その査定基準が不透明で、身も蓋もない言い方をしてしまえば「上司に気に入られたら高い評価を受けて給与が上がる」というシステムだった。

 これでやる気が上がるわけがない。かえって逆効果だ。みんながまったく同じ仕事をしていれば「こいつは同じ時間で平均より高い成果を上げたから高評価」と判断できるが、たいていの会社では人によってやる仕事がちがう。同じ仕事でも条件がちがう(担当エリアが違うなど)。誰もが納得する公平なジャッジなど不可能だ。

 では査定基準を明確にすればいいのかというとそうともかぎらず、ルールが明確だとそれをハックするやつが現れる。たとえば「1ヶ月に500万円の売上を上げたら給与アップ」というルールがあれば、500万円の売上を達成した人はそれ以上売上を伸ばそうとせず、超過分は翌月に回したりする。

 数十年前に「日本企業は年功序列制だからダメなんだ! 成果報酬型にすればうまくいく!」という言説が流行った。さすがに最近ではそんなことを言う人も減ってきた。成果報酬型給与はよほどうまく運用しないと機能しないということがわかってきたのだろう。失敗から学ぶのはいいことだが、その失敗が与えた傷は大きい。



 ルールの作成手順について。

 次に、集団のルールをその構成員で決めることについて考えてみましょう。選挙で投票を行なったり、組織の構成員の待遇を決めたりすることもこれにあたります。こうした状況では、一見「全員にとってフェアな決め方」でも、実際にはそうなっていないケースがよくあります。
 少子高齢化の進行で、日本を始めとする先進諸国では選挙における世代間格差が問題となっています。高齢者が有権者の人口に占める割合が大きいと、高齢者向けの政策が優先される「シルバー民主主義」と呼ばれる状態になります。こうなると、特に子育て世代への福祉が手薄になり、さらに少子化に拍車をかけます。
 実はこの問題は、「もっと若者が選挙に行けば解決する」といった単純な話ではないのです。2020年の統計によると、日本で選挙権を持つ人口は約1億400万人です。この中で、18歳から29歳までを合わせた人口は約1400万人と、全体の約15%にすぎません。一方、5歳以上の高齢者は約3600万人と全体の34%を占めています。さらに、有権者の平均年齢(中位年齢と言われ、選挙公約で重要なターゲットになります)はなんと約52歳です(なお、若い世代の投票率の低さを考慮すると、実際に投票を行なった人の平均はさらに上昇し、50代後半となります。)。つまり、若者の投票率が100%だったとしても、全体に占める割合は小さく、その意味では「若者を優遇する政策」が優先されることはないのです。
 
 さて、高齢者が優遇されても、人口の年齢割合がずっと変化しないのであれば、さほど問題ではないということもありうるでしょう(「若い世代に負担がかかっても、やがその世代が高齢者となったときには恩恵を受けられる社会」を目指すという形も選択肢としてはありえます)。しかし、実際に起きているのは強烈な少子化です。人間は残念ながら若返ることができないので、自分よりも上の世代が優遇されることには寛容(いつか自分もその世代を経験する)ですが、自分より下の世代が優遇されることには反発しがちです(自分が恩恵を受けることができない)。さらに、若い有権者世代より下の年齢(17歳以下)の国民には選挙権が無いので、政治家には彼らが18歳になったときに得をする政策を提示するメリットが少ないのです。その結果、若い世代の低所得化婚化・未婚化が進み、出生率が低下する事態となっています。
 
 こうなってしまうと、将来の世代の人数が減り、さらにこの傾向に拍車がかかるという悪循環に陥ります。ここでは、「将来の世代を代表する人がルール決めに参加できていない」ということが、1つの問題となっています。
 諸外国では、これを是正するためにさまざまな対策が検討されています。例えば、ドイツやハンガリーで検討された「デメーニ投票」という投票方法があります。これは、18歳未満の子供にも選挙権を付与し、その選挙権を親が行使できるようにするというものです。これによって、若者世代にとって有利になる政策を推進することができるのではないかというアイディアでした。ちなみに、同様の制度は日本でも「ゼロ歳選挙権」として注目を集めたことがあります。
 また、投票の世代間格差を是正するための別のアイディアとして、平均余命に応じて投票を重みづけするというものもあります「余命投票」)。余命の期待値が長い若者は多数の票を、短い高齢者は少数の票を投じることができるという制度です。
 いずれの方法も世代間格差を縮小するためのアイディアとして有望ですが、「一人一票の原則が保たれない」、「高齢者という理由だけで選挙権を制限することが許されるのか」といった議論があり、未だ実現していません。

 そう。今の中年以下って高齢者から搾取されてるわけだけど、そのルールって自分たちで決めたものじゃないんだよね。知らない間に決められたルールで知らない間に給与のうちのかなりの部分を高齢者へと回されている。

 これを「ルールなんだから守れ」ってのはかなり横暴な話だよな。今の話を決めるのなら多数決で決めるのもまだ納得できる(多数決はぜんぜん公平な制度ではないが現実的には採用せざるをえない)が、数十年後の話を決めるのに「今いるメンバーでやりましょう」ってのはまったくもってフェアじゃない。

「投票の結果、あなたはクラスの学級委員に選ばれました」

  「えっ、そんな投票いつやったの」

「始業時刻の十五分ぐらい前です」

  「そんなの聞いてないよ」

「はい、あなたはまだ登校してきてませんでしたからね」

  「そんなの仕方ないじゃん。うちは家が遠いんだから始発に乗ってもぎりぎりになっちゃうんだよ」

「とにかくこれはみんなで決めたルールですから守ってくださいね」

  「その“みんな”の中に俺は入ってないんだけど。それなのに負担だけ押しつけられるのかよ……」

「嫌なら学級会で提案してもう一回投票するしかないですね。ただ早く来ていたおかげで面倒な委員から逃れられた過半数の生徒が賛同するとはおもえないですけど」

 年金とか社会保険制度ってこれと同じぐらい無茶なルールだよね。




「話し合って決める」ことの弊害について。

 集合知効果は、ある意味「3人寄れば文殊の知恵」とも言えそうですが、実は少し違っています。このことわざは、「愚かな者でも3人集まって相談すれば、素晴らしいアイディアが浮かぶものである」という意味ですが、「限られた範囲の中で正しい答えを出す」という課題においては、実は「集まって相談してはいけない」のです。既に説明した通り、「回答する人に多様性があることによって、間違った方向の意見が打ち消されて平均として正しい答えが浮き出てくること」がポイントとなるため、(前節で紹介したように)相談によって意見を集約してしまうと間違った意見に流されてしまう危険性が生じるのです。

 学校で「みんなで話し合って決めましょう」と言われるせいで勘違いしている人が多いが、話し合いは往々にして間違える。個々人がそれぞれ考えるよりも劣った結論に至ることも多い。

「三人が別々に(お互いの意見を知ることなく)意見を出す」は一人で考えるよりも優れた結論を出せるが、「三人がお互いの意見を聞いて話し合う」だと、誤った考えに引っ張られてやすくなる。

 後者を“集合知”だと勘違いしている人が多い。すぐに「その件は会議で話し合いましょう」と言ってみんなの時間を食いつぶすタイプの人だ。みんなで話し合えば正しい結論を導きだせる、なんてSNSでの議論を見ていたらどれだけアホな考えかすぐわかる

 必要なのは「会議で話し合いましょう」ではなく「各自の意見を出しあった後、会議で検討しましょう」だ。




 ほとんどが失敗する会議。そんな会議で成果を出す方法。

 さて、会議における集団思考を防ぐために、次のような対策が提案されています。
(1)メンバー各々に「評価する側」の役割を与え、反対意見や質問を言いやすくする
(2)リーダーが最初に自分の考える正解を示さない、また議論に影響を与えないように、会議に出すぎないようにする
(3)計画を策定するグループと評価するグループを分ける
(4)検討するグループを複数のサブグループに分ける
(5)同じ組織でグループ外の仲間や外部の専門家の意見を仰ぐ
(6)多数派の意見に反対や疑問を呈する役割(「悪魔の代弁者」)のメンバーを用意する
(7)まとまった時間を取って、ライバルや敵対する組織の分析を行なう
(8)一度議論がまとまったら第2ラウンドの会議を行ない、残された懸念事項についてチェックする
 例えば、ジョン・F・ケネディ大統領はキューバ危機の際に集団思考を避けるため、実際にこれらを実践し、外部の専門家を招いて見解を聴いたり、メンバーが所属する別々の部門でも解決策について議論することを奨励、またグループをさまざまなサブグループに分けて議論させたり、自ら意図的に会議に欠席するなどし、柔軟な意思決定を目指しました。

 ぼくはかつて裁判員をやったことがある(一生のうちに裁判員に選ばれるのは60人に1人だそうだ。強運の持ち主!)。

 裁判官と裁判員が討議をするのだが、その討議の方法がまさにここに書かれているようなやり方だった。

  •  裁判長がうまく司会をして、発言の少ない人に意見を求める。
  •  素人である裁判員が先に意見を述べ、本職の裁判官は後に意見を述べる。その中でも裁判長は最後。
  •  裁判長はあえて少数派の立場に立って議論を活発にする。
  •  一度話し合った議題について、日を改めて見落としがないか検討する。

 おかげですごく話しやすかった。議論も深まった。裁判員制度ってよくできてるよ。



 後半はAI時代におけるルールのありかたについて。

 スコア化による差別や偏見の問題は、我々の身近にも存在します。
 2014年、アマゾン(Amazon)社が自社の採用活動に利用するために開発した採用AIツールが男女差別をしていたことが話題になりました。このツールは応募者の履歴書から、その人の職業適性をスコア化するものです。利用された機械学習モデルを詳しく調べると、履歴書に女性を想起させる単語が含まれているだけで、その候補者の評価が下げられていることが判明したのです。
 このAIは同社の社員のデータを元に作られましたが、その際「男性社員が多く、女性社員が少ない」という現実のパターンを学習し、「男性は多く、女性は少なく採用するようにスコアを調整する」ことが行なわれてしまったのです。
 計算機科学の世界では、"Garbagein,Garbageout.という言葉があります。これは、直訳すると「ゴミを入れると、ゴミが出てくる」という意味ですが、システムの入力として欠陥のあるデータを入れてしまうと、その出力は使い物にならないということを端的に表すフレーズです。
 AIを構成する機械学習のモデルにも同じことが言えます。機械学習モデルは「現実のあるべき姿」を出力するのではなく、あくまで「データとして与えられたパターン」を出力します。現実のデータには、既にさまざまな偏見や差別による偏りが含まれていることが多いため、それをそのまま学習させたAIを利用すると、そういった偏見や差別が維持・強化されてしまうリスクがあるのです。

 そうなのよね。ぼくも仕事でAIを利用しているけど、AIって過去から学習することは得意だけど、未来の変化を予測することはすごく苦手なんだよね。「これまでの傾向が今後も続くもの」として予測することしかできない。

 たとえば人材採用をしようとしてWeb広告を出稿する。最近のWeb広告は機械学習が進んでいるので、AIがターゲットを設定して予算を配分してくれる。

 でもそれだと、

高齢者が多く応募してくる(高齢者は採用されにくいので若い人より応募率が高い)
 ↓
AIが「高齢者は応募率が高い」と学習する
 ↓
高齢者に対して多く広告が出稿される
 ↓
ますます高齢者の応募が増え、AIがさらに「若い人より高齢者を狙ったほうがいい」と学習する


みたいなことが起こっちゃうんだよね。「応募しやすい人は採用されにくい人」ということが表面的な数字からはわからない。

 応募後の採用率も学習させればいいんだけど、あらゆるパラメータを入力するのは不可能だし、人間なら「若い人を集めたい」の一言で済む話なのに、AIに対してそのニュアンスを伝えるのはかなり手間がかかる。


 AIが犯罪捜査をすることもできるだろうが、それを進めると

ある属性(居住地や階層や家族構成)の人たちが犯罪率が高いことがわかる
 ↓
AIが、その属性に対して特に厳しくアラートを出すようになる
 ↓
その属性の検挙率が上がり、より犯罪率が上がる
 ↓
その属性の人たちが差別され、社会の中で不遇の扱いを受ける。そのため犯罪に手を染めやすくなる

……というループに陥ってしまう。犯罪率が高いことで差別され、差別されることでますます犯罪に近づいてしまうのだ。

「過去からの学習」を進めると、差別や格差がますます拡大してしまう。

 このへんはまだまだこれから考えていかなくちゃならない問題なので興味深い。「AI時代のルール設計」についてはそれだけで一冊の本にしたほうがいいぐらいのテーマだな。


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2025年11月7日金曜日

エジソンが一度も泳がなかったプール

 フロリダ州フォートマイヤーズには「Edison and Ford Winter Estates(エジソン&フォード冬の別荘)」という観光地がある。

 ここはエジソンと自動車王ヘンリー・フォードが冬を過ごした邸宅と庭園が保存されている。

 ここには「エジソンが一度も泳がなかったプール」として有名なプールがある。


 エジソンはこのプールを設計して作らせたものの、自分は水に入ることを好まず、一度も泳がなかったのだそうだ。 

 このエピソードのおかげで「エジソンが泳がなかったプール」として観光案内やガイドツアーで紹介されているらしい。


 すごい話だ。

「○○が××した」で有名な場所は世界中に山ほどある。○○が生まれた家、○○が撃たれた場所、○○が俳句を詠んだ土地……。

 だが「しなかった」ことで有名なのはここぐらいじゃないだろうか。


 「しなかった」ならなんとでも言える。

 日本中にあるすべてのプールは「エジソンが泳がなかったプール」だ。同時に「ジョン・レノンがこの場所で作曲しなかったプール」でもあるし「ジョン・F・ケネディが暗殺されなかったプール」でもある。

 「エジソンが一度も泳がなかったプール」はなんてことのないことをすごいことと思わせるのがすごい。


 ぼくも「あの織田信長に一度も叱られなかった男」を名乗って生きていくことにしよう。


2025年11月6日木曜日

新語・流行語大賞の選考委員の先生方のご年齢

 今年も、場つなぎのためにあたりさわりのない話題を探している日本中の人たちが待ちに待った新語・流行語大賞のノミネート作品が発表された。


 ノミネートされた言葉のことは書かない。自分で調べてくれ。

 ぼくが調べたのは、選考委員の年齢(2025年11月6日現在)だ。


  • 神田伯山(講談師)42
  • 辛酸なめ子(漫画家・コラムニスト)51
  • パトリック・ハーラン(パックンマックン、お笑い芸人)54
  • 室井滋(女優・エッセイスト・富山県立高志の国文学館館長)67
  • やくみつる(漫画家)66
  • 大塚陽子(『現代用語の基礎知識』編集長)

 うーん、すばらしい。シルバー民主主義国家・日本の流行語を決めるのにふさわしい年齢構成だ。大塚陽子さんがおいくつか知らないが、歴史ある本の編集長をやっているので20代30代ではないんじゃなかろうか。

 大塚さんを除いた5名の平均年齢は56.0歳。昭和なら停年退職(昭和時代は定年のことを停年と書いていた)している年齢だ。ちなみに伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任したのは44歳だ。

 せめて一人か二人は若い人を入れたほうがいいんじゃないかとも思うが、今の50代は昔の50代よりもぜんぜん元気だ。なにより気持ちが若い。なんたって自分たちが世の中の流行について選考できる立場にあると思っているのだ。すばらしい。なんて若いんだ。気持ちは。


 ぼくはこの5名の中の最年少である神田伯山さんと同い年だが、とてもとても世間の流行語について物申せる立場にあるとはおもえない。娘たちが学校で仕入れてきた「エッホ、エッホ」とか「チョコミントよりもあ・な・た」とか言っているのを聞いて「なんじゃそりゃ。それのどこがおもしろいんだ」と思っている人間なので、とっくに流行にはついていけていない。それでも小学生の娘がいるだけかろうじて世間一般のおじさんよりはマシなほうかもしれない。

「新語」のほうはニュースを見ていたらなんとなく耳に入ってくるけど、「流行語」のほうはむずかしい。テレビなどで取り上げられるのはとっくに流行のピークを過ぎて収束に向かってからの場合がほとんどだからだ。新奇な言葉は若い人、特に学生のような狭いコミュニティに属している人たちが仲間意識を高めるために使いたがることが多いので(ぼくも学生時分は仲間内だけで通じる符丁のような言葉をよく使っていた)、若い人同士の言葉をよく耳にする人じゃないとなかなか耳に入ってこない。

 教師や塾講師のように日常的に学生と接する職業の人であれば何が流行しているか知りやすいだろうが、それでも学生が仲間内で使う言葉と大人に対して使う言葉はちがう。若者向けのSNSやYouTube動画にどっぷり浸かっているような“大人としてはちょっとアレな人”でないと流行りにはついていけなさそうだ。


 そんな中、50代60代になってもまだ自分が流行語をジャッジする資格があると思える人は、くりかえしになるがほんとにすごい。多くの人が20代半ばぐらいで「ちょっと学生のノリがわからないことが増えてきたな。自分ももう時代の最先端にはいないな」と気づくものだけど、そんなことは感じずに「大人だけど若い人の感性にもついていけるぜ」と思えるなんて、なんという自信だろう。自分の感覚がずれているのではとか、いい歳して若者の流行についていこうとするのは恥ずかしいとか、そんなことは考えないのだろう。そのみなぎる自信、見習いたいものだ。


 新語流行語選考委員の先生方の姿勢を見習いたいがとうてい真似できないので、ぼくは「年寄りの冷や水」という旧語を噛みしめて生きていくことにする。




2025年11月5日水曜日

【読書感想文】阿部 朋美・伊藤 和行『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』 / なんとなく書かれたぼんやりした本

ギフテッドの光と影

知能が高すぎて生きづらい人たち

阿部 朋美  伊藤 和行

内容(e-honより)
没頭しやすい、情報処理が速い、関係づくりが苦手…高IQが「生きづらい」のはなぜ?特異な才能の一方で、繊細さや強いこだわりを併せ持つ彼ら。時代、社会、環境に翻弄されてきた実情に迫るノンフィクション!

 ギフテッドとは、生まれつき(または幼い頃から)卓越した能力を持った人のことを指すらしい。知能の高い人を指す場合が多いが、知能に限らず芸術的才能などに秀でた人にも使われるのだそうだ。


 そんなギフテッドたちに取材してその生きづらさを紹介する本……なのだそうだが、あまりに内容がひどかった

 まず、“ギフテッド”をきちんと定義していない。医学界でも教育界でも正式に認められた言葉ではないのであたりまえなのだが、誰がギフテッドなのか、誰がギフテッドじゃないのかの明確な基準がない。「ギフテッドたちに取材」というこの本の前提からしてあやふやだ。

 結局この本では「誰かに『ギフテッドです』と言われたことのある人」を“ギフテッド”としている。なんじゃそりゃ。

 それって「生まれてから一度は『天才』って言われたことのある人」と同じくらい信頼性の低い基準じゃない? たぶんほとんどの人が該当するだろう(そしてそのほとんどは天才ではない)。

 せめて「世界的に多く用いられている○○という知能テストでIQ120以上と診断された人をこの本の中ではギフテッドとして扱います」みたいな定義があればまだ信頼できるんだけど。


 定義がないから「自称ギフテッドさんたちに話を聞いてみた」でしかないんだよね。



 前提があいまいなので、もちろん内容もぼんやりしている。

 同時に、IQを検査してくれた医師から、IQに差がある子どもたちと過ごすということは、学年が異なるクラスで過ごすようなものだと教えてもらった。「学年が違うクラスで過ごすような感覚が日常なのは、それは息子にとって苦痛だなと、やっと息子のつらさがわかりました。IQが高いのは、いいことだと思ったこともあるのですが、話が合わない、関心事が合わない集団に日常的にずっといるっていう息子のつらさを初めて知った気がします」(純子さん)
 そして、IQが高い人は、ほかの人よりもセンサーが敏感で、相手が何をしてほしいかを察知することに優れ、それに応えようとして疲れてしまうとも聞いた。
 授業の内容は、都央さんにとって学びが多いとは言いがたいものだったという。「授業は淡々と受けて、教室にいればいいので楽だなと思う一方で、楽しい時間ではないのでつらい場所でもある」とこぼす。

 こんな話が並ぶんだけど……。

 もちろん「IQが高い人は、ほかの人よりもセンサーが敏感で、相手が何をしてほしいかを察知することに優れ、それに応えようとして疲れてしまうとも聞いた」を裏付ける根拠はまったくない。IQが高い人たちを対象にした大規模な調査結果、みたいなものはまったくない。ただのうわさ話。


 だいたいさあ。「IQが高い人が生きづらさを抱えている」自体がかなり怪しいんだよね。

 日本においては全児童に共通でIQテストを受けさせたりしていない。IQテストを受けるのは、(学校になじめないなどの)問題があって専門医を受診する子ぐらいだろう。

 であれば、IQが高いと診断された子が生きづらさを抱えている率が高いのはあたりまえだろう。だって周囲とうまくやっていける子は精神科に行ってIQテストを受けたりしないんだもの。


「精神科に連れていかれた結果IQが高いと診断された人」ばかり取材している。そりゃ「ずっと生きづらさを抱えていました」っていうエピソードが出てくるのはあたりまえだろう。

 IQが高くて社会でうまくやっていける人はわざわざ病院に行って知能テストを受けたりしないし、テストを受けたとしても己のIQの高さを大っぴらに発信したりしない。自慢話は嫌われるだけだから。



 この本で紹介されている「ギフテッドがもつ才能」もかなりいいかげんなんだよね。

「8歳で量子力学や相対性理論を理解」なんてのは(ほんとだとしたら)たしかに常人離れしたエピソードだけど、「4歳で九九を暗記、6歳で周期表を暗記」「2歳で歌を作り、4歳で絵本を作った。小5の現在はアプリを作成中」なんてのはぜんぜんふつうの子だ。 著者は子育てしたことないのかな。

 電車の名前に詳しい子どもとか恐竜の名前をおぼえまくってる子なんてそのへんにごろごろいるよ。子どもは、親に褒められたら周期表ぐらいすぐおぼえるよ。「6歳にして一からほぼ正確な周期表をつくる」ぐらいじゃないと天才的なエピソードとは言えないだろ……。



 ずっと進学校に通って苦労しなくても勉強ができたけど社会人になってから大変な思いをした人の話。

 自分のアイデアや課題を解決するための踏み込んだ思考をもとに主体的に動くと、上司や先輩たちの考えと合わなくなり、低評価を受ける。「人の気持ちが理解できない」「思考能力がない」「自分の頭が悪いことを受け入れろ」とののしられることもあり、体調が悪化。休職した。経緯を聞いた重役と他の上司からは「あなたのような人材が会社に必要だ」と言ってもらえた。嬉しい半面、「だったら、なぜ守ってもらえないのか」という悔しさも入り交じった。
 上司と吉沢さんの間には、見えている視点や仕事のやり方に大きな違いがあった。吉沢さんには、保身のためにやり方を変えようとしない上司の思考が見て取れた。一方で、上司や周囲の人には、会社やグループ企業全体のことを考えて提案する吉沢さんの考え方は理解できなかったのかもしれない。
 吉沢さん自身は、上司や同僚と衝突するたびに悩んだ。「自分は正しいことをしているはずという思いと、自分ができないから悪いんだという葛藤をずっと続けてきた」という。
 自分の能力を発揮できたと感じた時ほど「頭が悪い」「使えない」と批判された。既存の方法にとらわれずに効率の良い方法を考えようとすると、受け入れてもらえない。そんな思いがずっと頭をめぐった。

 いやあ、こんなの誰もが経験する話でしょ……。百年前からサラリーマン小説のテーマになっていることだよ。

 たぶんほとんどのサラリーマンは「おれは頭が良くて効率のいいやりかたができるのに周囲がバカばっかりで理解されない」と感じたことあるよ。




 著者が第2章で書いている。

「小学校に入る前に外国語が話せるようになる、相対性理論を完全に理解する、など超人的な才能を見せる子どもがギフテッドだと誤解されているように感じます」
 メディアで取り上げられるのも、若くして英語や数学の検定に合格した子どもや飛び級で大学に入学した子どもなどで、やかで実年齢と大きく乖離した結果を残した子どもがフォーカスされやすい。珍しいがゆえに、ニュースとして取り上げられてしまうのだ。私自身も、当初ギフテッドに抱いた印象はそうした「超人」だった。
 このような情報を見聞きするうちに、「ギフテッドー人並み外れた超人的な才能を持った天才」といったイメージが先行しているのかもしれない。しかし、そうした超人的な才能があるのはギフテッドの中でもごく一部で、極めてまれな存在なのだという。
「学校の先生が『教師人生でそんな才能の子どもを見たことがない」とつぶやいたと聞いたことがあります。この先生の感覚は決して間違っておらず、ギフテッドのイメージが超人的なものに限定されてしまったことに誤解の原因があると思います」角谷教授。
 つまり、超天才がギフテッドだと誤解をしてしまうと、学校の先生たちは自分たちの教え子の中にギフテッドがいるにもかかわらず、気づかない可能性があるということになる。
 角谷教授によると、ギフテッドとされる子どもは様々な才能において3~10%程度いるとされている。35人がいる教室では、1~3人のギフテッドがいることになる。「教師人生で見たことがない」どころか、今の教え子の中にもギフテッドがいるかもしれないのだ。ギフテッドのうち、9割を占めるのがIQ120~130の人で、「人並み外れた超人的な才能を持った天才」とイメージされるIQ160を超えるような人は、ギフテッドの中でもごくごくわずかだという。
 「学校の先生であれば、毎年ギフテッドに出会っている可能性が高い。想像よりも多くの子どもたちが『学校の勉強は知っていることばかりでつまらない」という悩みや自分の特性を理解されずに困っている可能性があります」

 3~10%の子をギフテッドとしちゃうんだ。それだけいたら生きづらさを抱えている子もいっぱいいるだろう。そしてそれよりずっと多くの「さほど生きづらさを感じていないギフテッド」も。


 この本のサブタイトルは「知能が高すぎて生きづらい人たち」だけど、ずいぶんな暴論だ。正しくは「知能が高くて、生きづらい人たち」だ。

 似ているようでぜんぜんちがう。「絵がうまくて生きづらい人たち」がたくさんいるからと言って「絵がうますぎて生きづらい」とは言えませんよ。


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2025年10月31日金曜日

小ネタ41(しばしば / ハードルが高い / 110m障害)


しばしば

「しばしば」という日本語は、oftenを和訳するときにしか使わない。


ハードルが高い

「ハードルが高い」という言葉がある。完全に想像だが、元々「~するにはハードルがある(障害がある)」という用法だったのだが「敷居が高い」という言葉と混ざって「ハードルが高い」になったのではないだろうか。

 だって「ハードルが高い」は変だから。陸上競技で用いるハードルは、高さが決まっている。男子と女子、110m障害と400m障害で高さは違うが、競技場によって高さがちがうなんてことはない(その点敷居は高さが異なる場合がある)。

 陸上の障害走は「一定の高さのハードルを跳び越えながら速く走る」のが目的であって、「より高いハードルを乗り越える」ことが目的ではない。

 障害が大きいことを表すなら「ハードルが高い」よりも「高跳びのバーが高い」とか「バーベルが重い」とかのほうが適切だ。


110m障害

 110m障害が110mと半端なのは「ハードルを跳び越える距離の分、100m走よりも10m長くした」かとおもっていたが、どうやらそうではないらしい。

 イギリスで「120ヤード・ハードル走」という競技をやっていて、120ヤードが約110mなので110m走になったんだそうだ。ハードルの高さもフィート・インチ基準なのでセンチに直すと半端な数字になるんだそうだ。

 へーそうなんだーとおもったが、それはそれで「そもそもなんで100ヤードじゃなくて120ヤードだったんだ」とか「じゃあなんで400m障害のほうは440mじゃないんだ」とか「なんで女子はキリよく100mにしてるんだ」とか「短距離走は男子も女子も同じ距離なのになんで障害だけ男女で距離がちがうんだ」とかいろいろ疑問が出てくる。



2025年10月30日木曜日

韓国旅行記(写真ゼロ)

 韓国に旅行に行った。仁川国際空港付近を少しとソウルをぶらぶら。

 以下かんたんな感想。めんどうなので写真は載せない。見たかったら自分で韓国まで見に行ってくれ。

  • 明洞はなんばのような街だった。要するに外国人観光客向けのぼったくり店ばかりということ。好きな街じゃない。
  • 細い路地のはやってなさそうな店でも日本語が通じた。便利だがおもしろくない。だったら国内旅行でええやん、となってしまう。
  • 焼肉屋で生レバーがあった。韓国では合法なのだろう。でもこわかったので食べなかった。というよりべつに生レバー好きじゃないし。なんか禁止されてからみんな生レバーを必要以上にありがたがりすぎじゃない?
  • 戦争記念館へ行く。ほとんどが朝鮮戦争に関する展示(あとは高句麗時代の戦が少し)で、日本に関する展示は皆無。まあ戦争じゃないしな。軍がやっているプロパガンダ施設っぽいので、勝利したわけではない日本統治下の話はあまり触れられたくない話なのかもしれない。こういうのは「何を展示しているか」よりも「何を展示していないか」に注目してみると面白い。
  • 戦争記念館の前に大きな施設があったので地図アプリで調べたところ、地図上では公園になっていた。後で調べると、軍関連の施設で、軍事上の理由で地図には載せていないんだとか。
  • 大統領府の近くには政権批判の垂れ幕があった。このへんはどの国もいっしょだよね。
  • 屋台でおでんを食う。はんぺんを串にさしたやつ。うまい。
  • 屋台でトッポッキを食べていると、隣にいたおじいさんに話しかけられた(話したところドイツ人だった)。それは何かと訊かれたのでトッポッキだと答える。多かったのでひとつどうだと勧める。おじいさんは喰って顔をしかめて「辛いのはダメだ」と(英語で)言った。
  • 住宅街の中をうろうろ。首輪をしていない野良犬がいてうれしくなる。
  • 室外機を屋根(ななめ)に乗せている犬があった。いいねえ。
  • 住宅街の電柱には非常ボタンがついていた。
  • チャンジャうまかった。
  • デパ地下が楽しかった。つくりは日本とほぼ同じ。その土地の食べ物を見ているのは楽しい。
  • ロッテ百貨店の生鮮食品売場はやたら豪華だった。肉とか魚とかキノコとか貝とかのセット(日本円で3万円ぐらいする)がたくさん売られていた。アワビをよく見た。韓国ではよくとれるのだろう。でもべつに安いわけではない(日本よりは安いが)。
  • 野菜売場で霧が吹きでていたり、鮮魚コーナーに小さい滝があったり、食材を新鮮に見せようとする工夫がすごい。
  • 路上でマツタケを売っていた。
  • 繁華街で、日本語で「この腐敗した世界を救うため神はイエスをつかわしたのです」みたいな演説をしている人がいた。あいつら、韓国まで出張してきてんのか!
  • コンビニで「ジュースの原液」「濃いコーヒー」を売っている。これと氷の入ったカップ(日本でもあるコンビニコーヒーを注ぐやつ)をセットで買って、入れて飲むらしい。
  • 甘い牛乳が人気。買って飲んでみる。うまい。
  • スーパーのお菓子売場を見たが、半分以上は日本でもよく見かけるお菓子だった。日本のお菓子がパッケージそのままで売ってる。当然ロッテのお菓子も多い。なんじゃこりゃ、みたいなお菓子はぜんぜんない。
  • 暑い日もあったが、大通りに日傘をさしている人がひとりもいない。韓国人は日傘をささないらしい。
  • 地下鉄の中のモニターで「非常時には車内のガスマスクをつけて避難せよ。姿勢を低くして煙を吸わないように……」みたいな映像が流れている。これはやはり北朝鮮からの攻撃を想定してのことだろうか。ソウルは北朝鮮から近いしな。
  • 駅にもガラスケースに入った水が置いてある。緊急時には地下鉄の駅に立てこもることも想定しているのだろう。
  • 急に携帯電話に非常アラート通知が来たので、すわ北からの攻撃かとびっくりする。韓国語でアラート。おびえながら翻訳したところ「男の子が○○付近で行方不明。身長120cmぐらい、体重20kgぐらい……」みたいな通知だった。そんなの非常アラートで通知するの? いやまあ重要事項だけど。
  • 大型ショッピングモールのフードコートに行く。注文すると、「料理ができたらカカオトークで知らせるから友だち追加してくれ」と書いてある。脇に小さく「今どきカカオトークがつかえない時代遅れちゃんはこちら」みたいなことが書いてあるので、そちらから注文。おじいちゃんになったらたびたびこういう気持ちを味わうんだろうなあ。でもアワピ釜飯がめっぽううまかったので許す。フードコート最高。
  • 九月半ばだったが韓国は涼しくて日本より過ごしやすかった。半袖で歩き回っていたらちょっと汗ばむ、ぐらい。
  • 仁川にて。気候が良くて気持ちいいので外でぼんやり過ごす。影を見ていて気付いたのだが、12時30分ぐらいに影の長さが最小になる。仁川は東経126度ぐらい。日本と韓国の間に時差はないので、設定上の経度(東経135度)と実際の経度の間に9度のズレがあるわけだ。15度で1時間の時差なので、9度は36分。なるほど、だから南中時間が12時30分ぐらいなのか! 思わぬところで地球の丸さを感じる。とはいえ、たとえば釧路市は東経144度でやはり明石市(東経135度)との間に9度のちがいがあるので、日本国内でも感じられるものなんだけど。


2025年10月27日月曜日

【読書感想文】永 六輔『大語録 天の声地の声』 / 正しくないからこそ貴重な意見

大語録

天の声地の声

永 六輔

内容(e-honより)
愛について、老いについて、死について。そして、政治、芸術、ゲイについて。生涯旅人生の著者が日本ばかりか外国でも〈盗み聴き〉して集めた日本人のホンネの言葉辞典。「これは!!」「ウーム!?」「こわ~い」の名語録が続々。権威もタテマエも関係ない〈無名人〉は強し!!『大往生』も実はこの本がモトなのだ!!

 永六輔さんがライフワークのようにしていた、「そのへんの人たちが発した言葉」を集めた本。

 このシリーズはほんとおもしろい。



 これは演出家の発した言葉だろうか。

「お前の役は医学博士なんだぞ、だからセリフも衣裳も、ちゃんと医学博士になってるんだよ。
 お前が医学博士らしく見せようと芝居するから不自然なことになるんだ。
 お前は何もしなくてもいいんだよ、お前は医学博士なんだから」

 そうそう。俳優とか声優っていらない芝居をするよね。演じる人が悪いのか演出が悪いのか知らないけど。

 医者を演じる役者は医者っぽく演じる。でも現実の医者は医者っぽくない。“医者っぽい”しゃべりかたもしないし“医者っぽい”動きもしない。

 ふつうの挙動でいいのにね。



「人に金品を施すというのは、施しているほうの功徳ですから、もらうほうはもらっといてあげればいいんです」

 わかる!

 そうだよね。寄附とかおごるとかって、やる側の愉しみなんだよね。ぼくは毎月UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)に寄附をしているけど、あれは自分のためだ。「いいことをしているぼくってえらい!」とおもうためだ。

 あたりまえだけど、ぼくが寄附した金を受け取った難民はぼくにお礼を言ってこない。それでいい。だってぼくのためにやっていることなんだもん。

 上司が部下に食事をおごる、みたいなのも、あれは上司のためにやっていることだもんね。「部下におごってやる俺すごい」という気持ちを金出して買ってるんだよ。部下は、おごらせてやることで上司の自尊心を満たしてあげているのだ。



「私、身近に不幸な人がいないと幸福になれないんです」

 あけすけだー。でもまあ本音だよね。

 幸福って相対的なもんだもんね。現代日本で所得下位10%の人だって、100年前の上位10%の人よりもいい暮らししてるはず。100年前の金持ちよりも便利なものを所持していて、いいもの食って、いいもの着ている。でも金持ちにはなれない。自分の年収が2倍になったって、周囲の年収が3倍になっていたら不幸だ。

 みんなおもっているけど大きな声では言えない。そんな言葉を書き残すことには意義がある。



 いちばん印象に残ったのはこの言葉。

「いやあ、東京ってとこは世界で一番おもしろい街ですよ!
 いやおもしろい!
 世界一です。
 ……八戸と東京しか知りませんけどね。
 世界一です」

 いやー。これは真実だよね。この人にとってはまぎれもない真実なんだろう。

 でも世間一般的にはまちがっているということになってしまう。

「自分にとっては正しいけど他の人にとっては正しくない言葉」って、影響力のある人は口にできない。またSNSのような誰が見るかわからない場でも発しにくい。

 友人同士で飲み屋でしゃべっているときは「こいつはどういうやつで今はどういう場でどんな文脈で何を伝えたくて言ったのか」がお互いわかっているから誤ったことや不謹慎なことや乱暴なことを言っても大丈夫。でもマスコミやSNSだと文脈を理解できないバカに見られることもあるから、“正しいこと”しか言えない。「東京ってとこは世界で一番おもしろい街ですよ!」なんてことを言ったらバカが「世界中の街を知っているわけでもないくせにいいかげんなことを言うな!」と言いに来る。

 誰でも発信できて誰でもリアクションがとれる今だからこそ、こういう正しくない意見はすごく貴重だ!


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2025年10月23日木曜日

【読書感想文】室橋 裕和『カレー移民の謎 日本を制覇する「インネパ」』

カレー移民の謎

日本を制覇する「インネパ」

室橋 裕和

内容(e-honより)
いまや日本のいたるところで見かけるようになった、格安インドカレー店。そのほとんどがネパール人経営なのはなぜか?どの店もバターチキンカレー、ナン、タンドリーチキンといったメニューがコピペのように並ぶのはどうしてか?「インネパ」とも呼ばれるこれらの店は、どんな経緯で日本全国に増殖していったのか…その謎を追ううちに見えてきたのは、日本の外国人行政の盲点を突く移民たちのしたたかさと、海外出稼ぎが主要産業になっている国ならではの悲哀だった。おいしさのなかの真実に迫るノンフィクション。

 最近(といっても十年以上前から)急激に増えたインドカレー屋。インドカレー屋とはいいつつも、経営者や従業員の多くがネパール人だという。

 そのインネパ(インド・ネパール料理店)を切り口に、インドカレー屋の特徴・歴史から、日本の移民政策の変化、ネパール人労働者増加に伴う問題、働き手が流出しているネパールの現状までを探るノンフィクション。


 前半はカレー店の歴史などにページが割かれていて退屈だったが、中盤以降は様々な社会問題にスポットを当てていておもしろい。

 ひとつの視点であれこれ調べていくうちに芋づる式にいろんな問題が見えてくる本。これぞ学問! という感じがする。佐藤 大介『13億人のトイレ 下から見た経済大国インド』もそんな感じの本だった。調べれば調べるほどわからないことが増えていく。それが楽しい。勉強や読書を課題解決の手段としかおもっていない人には理解できない姿勢だろう。



 日本にやってくるネパール人が増えたのは、今世紀のはじめに法改正があったことが大きいようだ。

 で、2000年に駐日韓国大使館からの提言を受ける形で、日本の「上陸審査基準」なるものが見直された。それまで外国人が日本で法人をつくって「投資・経営」ビザを取得するには「2人以上の常勤職員」(日本に住居していて在留資格保持者は除くとあるので、日本人のことだろう)の雇用が必要だったのだが、韓国やアメリカの基準を参考に「500万円以上の投資で良し」と改められたのだ。
 (中略)
 2人の日本人を正社員として雇用するのは外国人にとってかなりたいへんだが、500万円を用意するならなんとかなる……そう考えて起業にトライする外国人の小規模な会社が、21世紀に入ってから増えていったのだ。
 とくに積極的に動いたのがネパール人だった。「500万円」はけっこうな額ではあるが、仮に5人でワリカンすれば1人100万円だ。家族親族みんなでかき集め、ネパールにいる人も中東やマレーシアで働いている人も力を合わせて出資した。そして代表者が「投資・経営」の在留資格を取って社長となり、あとは家族の中で調理経験のある者を呼び(インドをはじめ各国の飲食店で働いているネパール人は多い)、「技能」の在留資格を取ってコックとして雇う......。そんな一家がどんどん増えたのだ。そして新しくやってきたコックも、いずれ「投資・経営」を取って、独立していく。このムーブメントが起きたのは2005年前後のことではないかと多くの在日ネパール人が言う。

 500万円出せば日本に会社を作れる。日本に会社を作れば「投資・経営」ビザをとれるし親戚を雇って「技能」ビザで働いてもらうこともしやすくなる。そして「家族滞在」で妻や子どもを日本に呼び寄せて……という形でどんどん増えていったのだそうだ。


 そうして日本で働く外国人が増えたが、その中でもネパール人の伸びは大きかった。

 国の平均所得が少ない上に、国内に観光以外の産業も少ない。まとまったお金を稼ごうとおもったら国外に出るしかない状況なのだそうだ。なんとネパールの労働人口の4分の1ほどが国外に働きに出ているのだという。出稼ぎ国家なのだ。

 そして日本に来るネパール人は高い教育を受けていないことも多い(高学歴だったり貴重な技能があったりしたら他の国を選ぶほうがいいだろうしね)。じゃあカレー屋やるしかないな、となるわけだ。

 かつてはインド料理店で働くのはもちろんインド人が多かったが、インド人にとってもネパール人のほうが雇うのに都合がよかったのだそうだ。なぜならインド人はカースト制度のせいで決まった仕事しかしようとしない人がいる(コックならコックの仕事だけ。掃除や接客は別のカーストの仕事)のに対し、ネパール人はなんでもしてくれる。またネパール人のほうが宗教の戒律が厳しくないので日本で生活しやすい。そんな事情もあって、人口の多いインド人よりも、ネパール人の方がずっと多く日本にやってきているのだそうだ。


 そして日本が身近な国になったことでネパールからの留学生も増大。彼らもまた「インネパ」へと流れこんでいった。

 そのためか30万人計画は目標より1年早く2019年に達成されたが、ネパール人留学生のうちけっこうな人数が卒業後、カレー業界に参入したといわれる。というのも、日本の一般企業に就職するのはなかなかたいへんだからだ。ビジネスレベルの日本語をマスターして、日本人と同じ土俵で会社員として勝負するのはやっぱり難しい。かといって、先の見えない母国ではなく日本に留まりたい。そこで、自分で開業しようということになる。日本はいまやどこでも、コックから経営者になったネパール人のカレー屋が大増殖している。それなら自分もやってみっか……そんな発想だ。
 そしてこの留学生たちに「ハコ」を用意したのもまた、先達のネパール人だった。前出のBさんが言う。
 「日本語学校や大学の卒業が近づいているのに就職できない、でもネパールには帰りたくないそんな子たちがたくさんいたんです。彼らに会社設立とビザ取得のノウハウを教え、店舗を用意して、譲渡する。そういう仕事をする人もいましたね」
 それだけではない。ビザ取得に必要な500万円のほか、店舗の確保や内装工事などにかかる費用を貸しつける業者もいたそうだ。返済にはもちろん利子がかかってくるが、それでも帰国せずに日本でのカレー屋を選ぶ留学生もまた多かった。母国ではヒマラヤ観光と農業以外の産業が育たず、国外に希望を見出すしかない若者たちが、借金を背負いながら「インネパ」に流れ込んでくる……。

 こうして日本で働くネパール人が増えるにつれ、在日ネパール人を相手に商売をするネパール人もいる。同郷の人を助けたい気持ちでやっている人もいるだろうが、日本のことをよく知らないネパール人をカモにして儲けようと考えるやつも出てくる。

 やがて、カレー屋ではなく人を呼ぶほうが本業になってしまう経営者も現れた。多店舗展開し、そこで働くコックをたくさん集めてきて、もはや会社設立の500万円とは関係なく、1人100万円、200万円といった代金を徴収する。
「なんで自分の店でこれから働く人にお金を払わせるのか。おかしな話なんですよ」
 それでも海外で稼げると思った人たちは、どうにかお金を算段して志願する。彼らを呼べば呼ぶほど儲かるわけだから、誰だっていいとばかりに調理経験のない人もコックに仕立て上げた。本来、調理の分野で「技能」の在留資格を取得するには10年以上の実務経験が必要となる。しかし一部のカレー屋オーナーは日本の入管に提出する在職証明などの書類を偽造し、新しくやってくるコックのビザを取得していたのだ。カレーとナンのつくり方なんか自分が教えればそれでOKという経営者たちが、次から次へと母国から人を呼んだ。
 だから現場にはスパイスのこともよく知らなければ玉ねぎの皮も剥けないコックがあふれてしまった。「インネパ」の中にはぜんぜんおいしくない店もちらほらあるのはそのあたりに理由がある。

 法律すれすれの手段でネパールから人を呼ぶ。本来在留資格がないような人まで呼ぶのだから、追い返されるネパール人もいる。だが呼んだ方は困らない。もう金はもらっているのだから。だまされたほうとしては、在留資格がない弱みもあるし、日本社会のことも日本語もよくわからないのだから法的な手段に訴えられない。泣き寝入りするしかない。

 ビザ申請が下りなければ不法滞在する人も増える。不法滞在ではまともな仕事に就けないから犯罪に走りやすくなる……。

 と、様々な問題が起こるわけだ。厳しく取り締まろうにも、一件一件はチンケな詐欺だし、国をまたいだ犯罪だし、被害者はなかなか名乗り出てくれないだろうし、日本語ができない人も多いだろうし……ということで、出稼ぎ斡旋ビジネスをきちんと取り締まるのはむずかしそうだ。

 さらに、日本で働く親にネパールから連れてこられた子どもも、日本語がわからず学校の勉強についていけず、日本のコミュニティにも入れず、ネパール人同士が徒党を組んで非行に走る……なんてこともあるという。

 これらはネパール人移民にかぎらず、海外からの移住者が増える今後どんどん増えていく問題だろう。

 だからといって移民を受け入れなければ労働力不足でもっと大きな問題が起こることも目に見えている。摩擦なく移住できるようになるほうが日本人にとっても外国人移住者にとってもいいに決まっている。ネパール移民が引き起こした問題から学ぶことは多い。




 移民が引き起こす問題は日本国内の話だけではない。当のネパールでも出稼ぎ者(日本だけではない)の増大は深刻な問題を引き起こしているらしい。

「留学生だけじゃないんです。工場や、それにカレー屋で働くために、バグルンからたくさんの人たちが日本に行っています。だから小さな村はもう、働き手がいなくなって、年寄りばかりなんです。おじいちゃんおばあちゃんたちが、日本に行った子供の代わりに孫の面倒を見ている。親の愛情を知らずに育つ子供がどんどん増えている」
 村の若者が丸ごと日本に行ってしまったような集落まであるのだという。だから畑は荒れ、打ち捨てられた家屋が残され、老人ばかりでは不便な山間部で暮らせなくなってしまったため、ここバグルン・バザールに降りてくるケースが増えている。
「村では野菜や米くらいは自分たちで育てられたから、お金があまりなくても生活ができたんです。でもバザールでは違います。なんでもお金を出して買わなきゃならない。現金が必要です。だからまた若者たちが出稼ぎに行く」
 海外出稼ぎがあまりに増えすぎたため、伝統的な自給自足の社会が崩壊しつつあるのだ。そして取り残された子供たちがなにより心配なのだとクリシュナさんは言う。
 「年寄りだけではケアしきれません。親の愛をもらえていないんです。だから悪いほうに行ってしまう子が増えている。ドラッグとか、アルコール依存症とか。地域で大きな問題になっているんです」
 

 働き手、親世代がいなくなり、老人や子どもだけが取り残される。出稼ぎにより収入は増えるが、それが必ずしも豊かさには結びついていない。

 これは……。ネパールの問題でもあるけど、日本の地方の問題でもあるよな。都会に労働人口を吸い取られて地方では働き手が減っているわけで。ここ数年の話ではなく、百年前から都市部に出稼ぎに行く労働者はたくさんいた。


 都市への人口集中は古今東西変わらず起こっている問題で、これを個人の意識や行動で変えるのは不可能だろう。政府が省庁をごっそり移動させるとかやれば多少は緩和するだろうが、それでも抜本的な解決にはならない(たとえば首都ではないニューヨークや上海にあれだけ人口集中しているのを見れば明らかだ)。

 人口集中を防ごうとおもったら、ポル・ポト政権のように人権を制限して強制的に郊外へ移住させる、みたいな乱暴な方法しかないんだろうな。




 ということで、日本に来てカレー屋で働いているネパール人の本かとおもいきや、移民が生み出す様々な社会問題、都市への人口集中問題など、広く深い問題へと切り込む壮大な本だった。

 いいルポルタージュでした。


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カレーにふさわしいナン



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2025年10月20日月曜日

【読書感想文】橘 玲『DD論 「解決できない問題」には理由がある』 / あえて水をぶっかけるような本

DD(どっちもどっち)論

「解決できない問題」には理由がある

橘 玲

内容(e-honより)
世界を善と悪に分ける「正義」の誘惑から距離をとれ。「善悪二元論」が世界を見る目を曇らせる。ゆたかで幸福な社会と「下級国民」のテロ。女性が活躍する未来は「残酷な世界」?インフルエンサーと「集団の狂気」。日本の「リベラル」は民族主義の変種?国際社会の「正義」と泥沼化する戦争。

 週刊誌に連載しているコラムをまとめた内容ということで、一篇あたりの内容は薄く、おまけに時事ネタを多く扱っているのでわかりづらいところもある。

 おもしろかったのがPart0の『DDと善悪二元論 ウクライナ、ガザ、ヒロシマ』の章。Part0とあるから序文的な扱いかとおもったら、これがいちばん読みごたえがあるじゃないか。


 日本の報道だと「ウクライナに対して一方的に武力行使をしたロシアが悪で、それに立ち向かうウクライナがんばれ!」という論調がほとんどだ。

 ところがそう単純な話でもないと著者は書く。例えばクリミア半島がウクライナ領になったのは1954年のこと。

 ロシア系住民が多数派を占めるクリミアでは、マイダン革命の翌3月に住民投票が行なわれ、96.8%が「ロシアに連邦構成主体として参加」を支持し、それを受けてプーチンがクリミアをロシアに併合しました。

 住民の96.8%がロシアに入りたいと望んでいるんだったら、もうロシアのものになったほうがいいんじゃないの、と思ってしまう。こういう事情を知ったらロシアのクリミア併合も悪とは言い切れない部分がある。

 おまけにウクライナも平和で暮らしやすい国だったわけではなく、ロシア系住民の自治を求める市民たちが銃撃されるなど、ロシア系住民たちにとっては生きづらい国だったようだ。


 ふーむ。ぼくも多くの日本人と同じように報道を見て「ロシアは悪い国だ。プーチンは悪いやつだ」とおもっていたけど、そんな単純な話でもないんだなあ。

 また、日本人やヨーロッパの人々はウクライナの勝利(ロシアの撤退)を望んでいるが、それもむずかしいと著者は書く。

 DD的状況だったウクライナ問題はプーチンの失態によって善悪二元論の原理主義的状況に変わりましたが、戦況が膠着したことでふたたびDD化しはじめています。それには先に挙げたような理由があるわけですが、もうひとつ、欧米の望みどおりウクライナが勝利し、ドンバスやクリミアを奪還したとしても、戦後処理の方途がないという問題があります。
 これほど血みどろの殺し合いをしたあとで、ウクライナがロシア語系住民を「包摂」し、ともにひとつの国をつくっていくために信頼し合うのはほぼ不可能でしょう(松里さんも「十年戦争とおびただしい流血で独特の政治空間となった両人民共和国を、どうやって同化するのか、ちょっと想像がつかない」と書いています)。
 さらに国際社会(リベラル)が求めるように、「加害国」であるロシアが「被害国」であるウクライナに謝罪し、民間人の生命やインフラ・生産設備に与えた莫大な損害を賠償するとなると、その見込みは絶望的というしかありません。仮にプーチンが死んだとしても、ロシアに「悪」のレッテルを貼り、戦争責任と巨額の賠償を求めるかぎり、代わりに登場するのはより民族主義的な極右政治家でしょう。そうなれば、ウクライナに平和が訪れるのではなく、新たな戦争のリスクが高まってしまいます。
 だとしたら、ドンバス地方についてもクリミアと同じく、ロシアの実効支配を事実上容認するかたちで休戦にもちこむしかなさそうです。いわば朝鮮戦争方式で、両国が名目上は戦争を継続したまま、現状を国境として棲み分けるのです。
(ここに出てくる松里さんとは政治学者の松里公孝さん)

 仮にウクライナが勝ったとしても、めでたしめでたし、これからは仲良くやっていきましょう、となるはずがない。両国に怨念は残り、そうすると「ウクライナ国内のロシア系住民」は安心して暮らせない。

 結局、誰もが納得のいく結末なんてない。遠く離れた日本に住んでいる者からすると「あっちが悪でこっちが正義。がんばれ正義!」と単純に旗を振っていればいいだけなのだが。

 そして、こんな泥沼的状況になった原因が、そんな部外者の正義感にあると著者は厳しく指摘する。

 なぜこんなことになってしまったのか。これについて松里さんは、「国境線を変えられては困る欧米や国際機関が、援助を梃子にウクライナを「励まして」、強硬姿勢に戻したと思う」と書いています。世界には紛争を抱えている地域が数多くあり、武力によって国境を変える前例をひとつでもつくれば、国際秩序が崩壊すると恐れているというのです。国際社会の「正義」によって、戦争は終わりの見えない泥沼にはまりこんでしまったのです。

 両者が100%満足する決着などない。「だったらお互い60%ぐらい納得できるところで手を打ちましょうか」と現実的な幕引きを図ることもできたはず。

 だが、部外国の正義感がそれを許さない。「悪いのは100%ロシアなんだからウクライナ100%納得のいく形になるまで戦うべきだ!」と争いを煽る。


 個人の喧嘩でもこういうのあるよね。喧嘩しているうちに部外者がどんどん争いに加わって勝手にセコンドにつき、当事者たちが「もういいや」とおもっても周りが許さない。

 今年の高校野球である学校の生徒がいじめにあっていたという報道が出たが、あれも本来なら当事者だけの話でいいはず。生徒、保護者、学校で話せばいい。納得できないなら警察か裁判所に行けばいい。なのに関係のない野次馬がどんどん群がってきて、デマが飛び交い、個人情報がさらされ、無駄に大事になってしまった。野次馬たちは自分たちが被害者にも迷惑をかけたなんて少しもおもっちゃいない(というかもうそんな事件があったことも忘れているだろう)。

 正義はおそろしい。



 世代間格差について。

 日本社会のさらなる大きな格差は、高齢者/現役世代の「世代間差別」です。人口推計では、2040年には国民の3分の1が年金受給者(65歳以上)になり、社会保障費の支出は約200兆円で、現役世代を5000万人とするならば、その負担は1人1年当たり400万円です。
「世代会計」は国民の受益と負担を世代ごとに算出しますが、2023年度の内閣府「経済財政白書」では、年金などの受益と、税・保険料などの負担の差額は、21年末時点で80歳以上の世代がプラス6499万円、40歳未満がマイナス5223万円で、その差は約1億2000万円とされました。――この数字があまりに不都合だったからか、その後、政府による試算は行なわれていません。
 人類史上未曽有の超高齢社会が到来したことで、いまの若者たちは「高齢者に押しつぶされてしまう」という恐怖感を抱えています。その結果、政治家がネットで「あなたたちのために政治に何ができますか?」と訊くと、「安心して自殺できるようにしてほしい」と〝自殺の権利〟を求める声が殺到する国になってしまいました。

 社会保障費を、80歳以上は払った分より平均して6499万円多くもらっており、40歳未満は逆にもらう分より平均5223万円多く払うことになる。

 少なくともこういう数字はちゃんと出すべきだよね。政府も報道機関も。

 数字を出した上で、「このまま若者の生活よりも老人の生活を優先させていくべきか」「老人の生活が今より苦しくなったとしても現役世代、将来世代に金をまわすべきか」という議論をするのが正しい政治だとおもうんだけど、今はその議論すらしちゃいけない空気になっている。新聞もテレビも「老人の権利をちょっとでも減らすなんてとんでもない! 若者が苦しんでいるらしいけど、まあそれはそれ」みたいな論調だ。


 橘玲さんって極端な意見が多いので(たぶん意識的に過激なことを言っている)賛同できないことも多いんだけど、少なくともこういう「耳に痛いからみんなが言わないこと」をちゃんと書いてくれる点に関してはすごく信用できる人だとおもっている。

 ある物事について「こうに決まっている」という先入観を捨てて冷静に判断するのってしんどいことだから、みんなやりたくないんだよね。「ロシアが悪いに決まってる」「高齢者福祉を削るなんてとんでもない」と思っていたらそれ以上何も考えなくてよくて楽だからね。

 だからこそ、あえて水をぶっかけるようなことを書いてくれる橘玲さんのような人は貴重だ。


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2025年10月15日水曜日

キングオブコント2025の感想

 




ロングコートダディ

 地底人モグドンと少年の交流。


 いいねえ。メルヘンな設定に、中盤からロングコートダディらしい底意地の悪さがふんだんにちりばめられている。ロングコートダディのコントって堂前さんの「どうやったら兎さんを悪く見せられるか」という熱い思いが根底にあるよね。

 前半部分をたっぷりとフリにつかう贅沢な構成にうならされる。そしてその長いフリに耐えられるパワフルなボケ。観客にじんわりと浸透させていたモグドンへの違和感を、心地よく浮き彫りにしてくれる。

 モグドンへ痛切な言葉をぶつけながらも、モグドンとの友情は持ち続けている少年のスタンスが絶妙。「モグドンかわいそう」という意識が薄れて笑いやすくなるし、同時に悪気がないからこその残酷さが際立つ。

 実際、いじめってこんな感じなんだよね。フィクションのいじめは「何もしてないのに悪意あるやつに標的にされる」描かれ方をすることが多いけど、現実には「みんなとうまくやっていける人間が、みんなから嫌われる人間を排除する」パターンが多い。大人になるほど。「あいつは会話に否定から入る不愉快なやつだから排除してもいい」という理屈をつけて。誰しも人を不愉快にさせる存在を受け入れたくないので、きっぱりとモグドンを拒絶する少年の姿に溜飲を下げる。これは正当な理由のある排除であっていじめではない、と自分に言い聞かせて。

 ロングコートダディのラジオを聴いていると兎さんは否定から入ることが多くて、これは堂前さんの日頃の不満をぶつけたコントだったのかなー。

 品位を保ちながらも風刺性も隠しもった上質なコントだった。



や団

 中華料理屋での駆け引き。


 餃子の値段交渉で場を支配する男の鮮やかな駆け引きを見せておいて、後半は落ちた餃子を食べたり服に吸わせたラーメンをすすったり、だんだんとイカれた展開へ。計算高さとバカバカしさのバランスがいい。綿密な構成なのにそう感じさせないのがや団の魅力。

 どんな展開になっても力技で笑いに変える本間キッドさんの剛腕がすごい。

 惜しむらくは中嶋さんがただのエキストラになってしまったことで、これまでのや団コントにあった「伊藤さんとは別方向のヤバさ」を見せてほしかったところ。


ファイヤーサンダー

 不祥事芸人の復帰明けバラエティ番組。


 ファイアーサンダーらしい細かい切り口のコント。「復帰明けのバラエティでの立ち振る舞い」という、誰もがうっすらと居心地の悪さを感じるシチュエーションを題材にするセンスがすばらしい。

 殺人はアウト、自動車事故はセーフ、じゃあどこからがアウトなのか、過失致死ならどうなのか……、そこには明確な基準などなくて「空気」がルールを決めているのではないかという社会への問題提起にも感じられる(ウソ)。

 ただ殺人犯であったことが明らかになるところが最大のピークになってしまったのが残念。一昨年の「日本代表」、昨年の「毒舌散歩」のネタでは種明かし後にもさらなる裏切りが用意されていただけに、過去のファイアーサンダーと比べて見劣りしてしまったのも事実。常連の苦しさ。

「もしものときのためにプロレスラーが配置されている」のセリフは、終盤まで取っておいたほうがよかったんじゃないのかなあ。


青色1号

 会社の休憩室でのゴシップ話。


 いやあ、よかった。トリオで噂話のネタをしたら「当事者に聞かれている」というわかりやすい展開に持っていきそうなものだけど、そうせずに「聞き手のリアクション」にスポットを当てるのがすごい。

 きっちり芝居で魅せてくれた。3人とも現実にいるぐらいのリアリティ(審査員が「あのネタをやるには若すぎる」って言ってたけど、ああいうゴシップで盛り上がるのは若い社員だよ!)。誰も変なことはしていない。なのにコントとして成立している。

 水やふるふるジュースなど小道具の使い方も絶妙。「こんなの買うやついるのかよ」みたいなどうでもいい会話がすごくリアリティがあっていい。

 オチも上品。このコントを東京03がカバーしたバージョンも観たいなあ!


レインボー

 女芸人とのコンパ。


 単独ライブだとウケそうなネタ。レインボーのファンにはめちゃくちゃウケるんだろうなあ。

 もちろん女芸人の形態模写はうまいけど(モデルは少し前にコンビ名を変えたあの人だよね?)、どこまでいってもモノマネであって、個人的にはあまり見所を感じなかった。まあこれは好みの問題であって、ぼくが人物の描き方よりもストーリー展開に重きをおいているだけなんだけど。

 こういう人間観察系の芸ってわりと女芸人が得意とするところだよね。友近、柳原可奈子、横澤夏子などの系譜。女装コントをやり続けた結果として着眼点までもが女芸人に近づいたのか、それとももともとそっちのセンスの持ち主だから女装がしっくりくるのか。

 たぶん各コンビのネタから10秒間だけ切り取ってSNSに上げたらこのコントがいちばんバズるとおもう。前後の文脈無しでも笑えるはず。この人たちの主戦場はショート動画なんだろうな。



元祖いちごちゃん

 スーパーの試飲。


 バイオレンスなボケで一気に引きこみ、そこからたっぷりと間をとったやりとりで味わい深い世界を表現してくれた。あの間のとり方、スリムクラブを思い出したのはぼくだけではあるまい。

 センスは抜群だったが、技術には課題。単純にセリフが聴きとりづらいとか、ツッコミの植村さんが芝居に入りこんでいないとか(ああいうコントをするなら「わかりやすく客席に届けようとする」姿勢はいらないのでは)。その粗さこそが魅力でもあるのだが。ところで「ブリーチ」って言われてみんなすぐわかるもん? うちの家では「漂白剤」って呼んでるんだけど。そしてブリーチじゃなくてハイター派だし。

 時間で解決させようとするくだりはかなり好き。ただ店員のクレイジーさが強烈なインパクトを与えていただけに、組織的な犯行という着地はかえってスケールが縮んでしまったような印象を受けた。



うるとらブギーズ

 医者にさせたい父親とミュージシャンになりたい息子。


 緊張してセリフを言い間違えている……と心配させる導入から、それを逆手に取った言い間違えコント。まんまと騙された。

 技術はナンバーワンだね。ものすごくむずかしいことをしている(指摘されていたように八木さんの痛恨のミスがなければなあ)。それでいてやってることは実にくだらないので考えずに笑える。うちの12歳と7歳の娘はこのコントでいちばん笑ってました。

 ベタベタな設定も生きている。ストーリーを聞かせたいわけじゃないから、とにかくわかりやすければそれでいいもんね。よく考えられている。

 とんでもなく高度なことをしているからこそ、後半がわざとらしく聞こえてしまったのが残念。笑いの量をとりにいったんだろうけど、英文和訳みたいな話し方になったり白衣を着たりするのはもう間違えじゃくて明確にボケてるもんなあ。

 個人的には言い間違えのまま突っ走ってほしかったけど、笑いを取りにいくことを考えるとそれもむずかしいかなあ……。



しずる

 LOVE PHANTOM。


 若手がワンアイデア勝負で挑むのはよくあるけど、しずるがいろんなパターンのコントをちゃんと20年以上続けてきた結果たどりついたのがこのコントという背景がまずおもしろい。

 ただ、別の番組でこのコントを観たことあったんだよなあ(ここまで長い尺ではなかったが)。インパクト勝負のアホらしいネタなので、やっぱり初見のおもしろさにはかなわない。

 どっちみち大会で優勝しそうなタイプのネタではないので(DVDに音源収録できないしね)、このネタ(曲?)を一本丸々観られただけで満足。



トム・ブラウン

 コント・エリザベスカラー


 最初の「コント・エリザベスカラー」のどなりで一気に心をつかまれた。あれを言うのが古いだけじゃなくて、言い方もいいんだよね。「言い方でウケてやるぞ」って感じの声の出し方。最もセンスのない笑いの取り方。そしてそれが逆にかっこいい。

 ビジュアル的なインパクトもさることながら、ヒデキというネーミングや犬とおできの主導権争いなど見た目だけに頼らないディティールにも工夫が感じられる。や団と同じく計算を計算と感じさせないバカさがいい。

 ふたりのキャラクターが十分強烈なのでVTRを使わなくてもよかった(回想シーンを舞台上で演じるとか)でもよかったんじゃないかな、ともおもう。

 オチの「はぁ?」は大好き。おもわず「こっちがはぁ?だよ!」とテレビに向かって言ってしまった。



ベルナルド

 カメラ男(マン)。


 まず気になるのが、「写真撮影前は客とカメラマンはどう接していたのか?」ってこと。カメラマンが暗幕から出てこないことに引っかかるのは、撮影後じゃなくて絶対に撮影前のはず。芝居なんだからこういうところをうやむやにせずにちゃんと処理してほしい。

 そのへんの「コントで描かれていないところ」がおろそかになっているので、奥行きを感じない。カメラ男のこれまでの人生だとか今後の展開に興味がいかない。小道具を見せたくて、そのためにコントを作った、そのためにキャラクターを作ったって感じがする。それならR-1グランプリでやっていたような「小道具を見せるためだけの最小限の設定」のほうがいっそ潔くて良かったな。

 小道具のおもしろさはさすがで、写真を吹きだすところは見ていて楽しいし、二重三重の仕掛けも鮮やか。

 トム・ブラウンの直後だったのでビジュアルのインパクトも狂気性も見劣りしてしまったのはかわいそうだったな。



 以下、最終決戦の感想。


レインボー

 六本木の何やってるかわからない社長と何やってるかわからないタレントの女。


 キャラクターのおもしろさ重視だった1本目よりも、ストーリーで引っ張っていくこちらのほうが個人的には好み。

 腕時計と金歯の値段、女がギャンブラーであることなどを前半でうまく明かし、きっちり後半の展開へつなげる。よくできた脚本だ。女の自信たっぷりの態度がブラフだったことが明らかになる裏切りも見事。笑いどころが社長のキャラから女のキャラにシフトしたのはちょっと引っかかった。

 気になったのは、「勝てないギャンブラー」という人間像と、序盤で見せていた「嫌々社長との飲み会に参加させられる」姿がどうもしっくりこないところ。こういう女性だったら、嫌いなタイプの社長なんてむしろ絶好のターゲットなんじゃないだろうか。



や団

 口の悪い居酒屋店主。


 導入の「口が悪いけど愛のあるタイプっぽいな」的なセリフのせいで、もうその先の展開が読めてしまう。とはいえ予想通りの展開をたどりながらも、毒をエスカレートさせていき、しょぼいマジックなどのアクセントも効かせて飽きさせない話運びはさすが。

 ただ個人的には薬物を扱うボケは好きじゃない。お手軽に異常性を出せる上に、どんな異常行動も「薬のせい」にできてしまうオールマイティカードなので。薬物というわかりやすい材料に頼らずに異常な空間を表現してほしかったな。



ロングコートダディ

 泣いている警察官とシゴデキ女。


 正直さほど笑えたわけではないが、計算高さに感心した。優勝を獲りにいくためのコントって感じだ。

 毎年のことなんだけど、終盤ってちょっとダレるんだよね。ほとんどのコンビは1本目に強いネタを持ってくるし、観客も疲れてくる。それに会話で世界を組み立てていく漫才と違って、はじめから設定がしっかりできているコントでは序盤の「種明かし」がピークになることも多い(今回でいうとファイヤーサンダーとかベルナルドとか)。

 キングオブコントは採点式だが、最終決戦では点数以上に「どこを優勝させたいか」を考えるはず。だとしたら平均的に笑いをとるコントよりも、前半が弱くても終盤に強いインパクトを残すコントのほうが強い印象に残るだろう。

 ……そんな計算があったかどうかは知らないが、とにかく前半を抑えた構成にすることで後半の爆発力は大きくなり、見事に優勝をかっさらった。シソンヌじろうさんが高得点をつけていたが、そういえばシソンヌが優勝したときもこんな感じだったなあ。

 それはさておき、ちょっと塩梅をまちがえたら顰蹙を買いそうなコントなのに、そう見せないロングコートダディの味付けは見事。だってさ、男の警察官が、何の罪もない女性を撃つんだよ(下着は公然わいせつ罪にならないだろう)。ふつうならひかれるところだ。なのにあのシーンで笑いを起こさせるのがすごい。たっぷり時間を使って言語化女の鼻につく感じを浸透させたことと、兎さんのふてぶてしいキャラクターのおかげで、かわいそうな感じを与えない。丁寧に作りこまれたコントだ。



 ということで、実力、経験、人気すべてをかねそなえた円熟ロングコートダディが念願の優勝。順当に見えるけど、きっちり大会にあわせたネタを持ってきて、それでいて自分たちの持ち味も存分に発揮した納得の優勝でした。おめでとう!


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2025年10月10日金曜日

『THE Wakey Show』の地方ソングを考える

 Eテレで朝7時から放送している子ども向け番組『THE Wakey Show』で『地方ソング』という歌が流れている。

 都道府県の位置関係を語呂合わせでおぼえるための歌だ(位置をおぼえるのが目的だからだろう、北海道と沖縄だけない)。



 とりあえず一個だけ貼っておく。他の動画も公式チャンネルに上がっているので興味ある人は自分で調べて。

(数十年前の動画っぽい画質と横幅だが、この番組のために作られたものだそうだ。なんで古く見せかけているのかは知らない)


 どれもなかなかよくできている。歌詞だけここに書く。

(東北)

青岩でメヤギが吹くよ 山の秋

※ 青(青森)岩(岩手)でメヤギ(宮城)が吹く(福島)よ 山(山形)の秋(秋田)

(関東)

 土地いばら 一番かなとサイの群れ

※ 土地(栃木)いばら(茨城) 一番(千葉)かな(神奈川)と(東京)サイ(埼玉)の群れ(群馬)

(中部1)

福、医師と山に

※ 福(福井)、医師(石川)と山(富山)に

(中部2)

長梨静かに 愛ギフト

※ 長(長野)梨(山梨)静か(静岡)に 愛(愛知)ギフト(岐阜)

(近畿)

教師が見えたなら 和歌を評価

※ 教(京都)師が(滋賀)見え(三重県)たなら(奈良) 和歌(和歌山)を(大阪)評価(兵庫)

(中国)

山はねっとり 広い丘

※ 山(山口)はねっ(島根)とり(鳥取) 広い(広島)丘(岡山)

(四国)

姫香る こっちが徳

※ 姫(愛媛)香る(香川) こっち(高知)が徳(徳島)

(九州)

長さで服分ける お宮さんの鹿と熊

※ 長さ(長崎)で服(福岡)分ける(大分) お宮(宮崎)さんの鹿(鹿児島)と熊(熊本)

 よくできている。東京、大阪がどちらも助詞の「と」「を」の1文字で処理されているのは気になるけど、まあ東京や大阪の場所をまちがえる人はそんなに多くないだろうから目をつぶろう。

 だが改善すべき点はある。


 まずは順番。ほとんどのエリアで、時計回りに都道府県名を歌っている。おかげで位置をおぼえやすい。

 が、中国と四国だけは時計回りじゃない。

「山はねっとり 広い丘」を「山はねっとり 丘広い」に、
「姫香る こっちが徳」を「姫香る 徳はこっち」に変えれば、時計回りで歌える。メロディーもくずさなくて済む。

 なんでここだけ時計回りにしなかったんだろう。


 そしてもうひとつ。省略するのはそっちじゃない、というところがある。

 たとえば中国地方の「山はねっとり 広い丘」の「山」は山口県のことだが、「山」がつく都道府県は、他にも山形県、山梨県、富山県、和歌山県がある。同じ中国地方の岡山県にも「山」は入っている。

 だったら「山はねっとり」じゃなくて「口はねっとり」にしたほうがいい。「口」がつく都道府県は山口県だけなのだから。

「口はねっとり」だと気持ち悪いから、歌詞の美しさを優先させたのかなあ。でも「口はねっとり」のほうがインパクトあって忘れないけどなあ。

口はねっとり 丘広い



2025年10月8日水曜日

【読書感想文】藤原 てい『流れる星は生きている』 / 身勝手だから生きられた

流れる星は生きている

藤原 てい

内容(e-honより)
一九四五年、終戦。そのときを満州(現中国東北部)でむかえた著者は、三人の子をかかえ、日本までのはるかな道のりを歩みだす。かつて百万人が体験した満州引き揚げをひとりの女性の目からえがいた戦後の大ベストセラー。新装版にて待望の復刊!

 満洲で終戦を迎えた著者。夫はシベリアでの強制労働に連れていかれ、乳児を含む三人の子を連れて日本への帰国をめざす。その険しい道のりをつづった体験記(一部に創作も含まれるそうだ)。

 ちなみに夫は作家の新田次郎氏で、連れて帰った次男の正彦は数学者の藤原正彦氏だそうだ。



 ほとんどただの日記なので、そこが欠点(文章がうまくなくて読みづらい、説明不足、記憶に基づいて書いているのであやふや)でもあり、長所(生々しい、赤裸々)でもある。

 ほんと、ぜんぜんわからないんだよね。著者は今何をしているのか、どこに向かっているのか、なんでこんなことをしているのか、突然出てきたこの人は誰なのか。「自分にだけわかればいい」という文章だ。

 でもまあなまじっか技巧を凝らした文章を書かれるよりは、日記のような文章のほうが真に迫って感じられていいかもしれない。




 満洲からソ連統治下の北朝鮮に入り、そこから南下し、38度線を越えてアメリカ統治下の南部朝鮮へと逃れる。ひたすら歩き、靴をなくしても歩き、山を越え、橋のない川を渡る。それだけでもたいへんなのに、7歳から0歳までの3人の子を連れて、である。

 道が坂になった。二歩のぼっては、一歩すべる。正彦が、「ひいっ! ひいっ!」と泣く声が風にちぎれて飛んでゆく。わたしは正彦のしりを力いっぱいたたきながら、よろける正広をどなりつけて、のぼっていった。
 やっと、坂をのぼりきったころ、ほのかに明るさがさしてきて、夜は明けてきた。わたしののぼってきた道は、一間ぐらいのはばの道で、両がわは見わたすかぎりのはげ山であった。はげ山といっても木がないだけで、草は道の両がわにおいしげっていた。わたしが道をまちがえずにここまできたのは、いくらか道がひくくなっていたからだった。わたしは、じぶんのすがたを見てびっくりした。それよりふたりの子どものすがたは、ひどかった。赤土のどろを頭からかぶって、上着もズボンもひと晩のうちに赤土の壁のようによごれていた。かろうじて、目だけが光って、もう泣く涙はないのか、つんのめり、つんのめりして前へ進んでいった。正彦はひと晩の難行のために両方のくつをなくしていた。そして赤土の手で目をこするから前が見えなくなる。
「おかあちゃん、見えないよう。」
 と泣く。
「ばか!」
 わたしは思いきって前に突きとばしてやると、まだ起きあがる元気はあった。よろよろと赤土のどろの中から立ちあがって、あきらめたように一歩二歩前に進んでついにたおれてしまう。起きられないと見て、わたしは正彦の左手を引っぱりあげて、引きずって前へ前へと前進した。ズボンの膝から下をずるずるどろの中に引きずりながら。それでもまだ立とう、立とうとする意志があるらしく、いくらか引きずる手がかるくなるときがあった。
 正広はわたしの悲壮な努力を見て、そう泣かなかった。だまってついてきた。おくれそうになるとわたしに、
「ばか、そこで死んでしまいたいか。」
 と、どなられて、苦しそうな目を、わたしにむけていた。

 ばたばたと人が死んでいく中で(約100万人の引き揚げ者のうち約24万人以上が命を落としたそうだ)、4人とも日本に生きて還ってこられたのは奇跡に近いだろう。はっきりいって「0歳児を置いていく」選択をしても誰も責められない状況だとおもう。それでも3人とも連れていったのだからとんでもない根性だ。




 興味深いのは、生きるか死ぬかの状況における人間関係だ。

「極限状態では他人のことなんかかまっていられない」でも「極限状態では助け合う」でもない。

 自分もギリギリなのに他人を助ける人もいれば、余裕があっても他人を見捨てる人間もいる。別の日本人からものを盗む日本人もいる。

「わたしたちの貧乏な団は、とても高い金をだして、案内人をやとえないから、どこかの団といっしょに行動したほうが、よいだろうと思います。」
 みな賛成した。そして宮本団に申しこんでみようということにして、さらに引き揚げの道中のことも相談した。病人は新田さんひとり、足手まといになる幼児はだれとだれをだれとだれが責任もってつれて逃げるということも、とりきめた。わたしは正彦をせおい、咲子は東田さんがせおい、荷物は佐藤さんがたすけてくれる。正広はひとりで歩かせるといったように、話はすっかりまとまった。
 宮本団の副団長のかっぱおやじは、わたしの申し出に対して明らかにいやな顔をした。
「あなた方のような貧乏団といっしょじゃ、こっちがめいわくしますよ。」
 わたしはくやしさをこらえて、
「ただ、あなたたちのあとを、犬のようについていくだけだから、かまわないでしょう。」
「それはかってですよ。」
「じゃ、あなたの団の出発するとき、知らせてくれませんか。」
 かっぱおやじはこれに返事をしなかった。

 この後、“かっぱおやじ”たちは著者の団には教えずにこっそり出発する。その後も“かっぱおやじ”は何度も著者と遭遇してそのたびに著者に悪態をついたりするのだが、“かっぱおやじ”が悪人かというとそうでもなく同じ団のメンバーに対しては面倒見のいいおやじとして描かれている。

 あたりまえのことなのかもしれないが、生きるか死ぬかの極限状態であっても人間の本質なんてそんなに変わらないのだろう。いい人もいれば悪い人もいる。ある人には冷酷な人が別の人には親切だったりもする。根っからの善人も生まれもっての悪人もいない。

 それに著者自身、なかなか身勝手だしね。500円しか持っていない人に300円貸してくれとせがんで、断られたらあんたはひどい人だとなじるんだぜ。そういう人だから“かっぱおやじ”に冷たくされたんじゃねえの、という気もする。生きるのに必死だからというのもわかるけど、周囲だってみんな余裕ないわけだし。

 まあでも、これぐらい身勝手じゃないと子ども三人抱えて生きて日本に帰ってくることはできなかっただろうね。


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