2025年10月15日水曜日

キングオブコント2025の感想

 




ロングコートダディ

 地底人モグドンと少年の交流。


 いいねえ。メルヘンな設定に、中盤からロングコートダディらしい底意地の悪さがふんだんにちりばめられている。ロングコートダディのコントって堂前さんの「どうやったら兎さんを悪く見せられるか」という熱い思いが根底にあるよね。

 前半部分をたっぷりとフリにつかう贅沢な構成にうならされる。そしてその長いフリに耐えられるパワフルなボケ。観客にじんわりと浸透させていたモグドンへの違和感を、心地よく浮き彫りにしてくれる。

 モグドンへ痛切な言葉をぶつけながらも、モグドンとの友情は持ち続けている少年のスタンスが絶妙。「モグドンかわいそう」という意識が薄れて笑いやすくなるし、同時に悪気がないからこその残酷さが際立つ。

 実際、いじめってこんな感じなんだよね。フィクションのいじめは「何もしてないのに悪意あるやつに標的にされる」描かれ方をすることが多いけど、現実には「みんなとうまくやっていける人間が、みんなから嫌われる人間を排除する」パターンが多い。大人になるほど。「あいつは会話に否定から入る不愉快なやつだから排除してもいい」という理屈をつけて。誰しも人を不愉快にさせる存在を受け入れたくないので、きっぱりとモグドンを拒絶する少年の姿に溜飲を下げる。これは正当な理由のある排除であっていじめではない、と自分に言い聞かせて。

 ロングコートダディのラジオを聴いていると兎さんは否定から入ることが多くて、これは堂前さんの日頃の不満をぶつけたコントだったのかなー。

 品位を保ちながらも風刺性も隠しもった上質なコントだった。



や団

 中華料理屋での駆け引き。


 餃子の値段交渉で場を支配する男の鮮やかな駆け引きを見せておいて、後半は落ちた餃子を食べたり服に吸わせたラーメンをすすったり、だんだんとイカれた展開へ。計算高さとバカバカしさのバランスがいい。綿密な構成なのにそう感じさせないのがや団の魅力。

 どんな展開になっても力技で笑いに変える本間キッドさんの剛腕がすごい。

 惜しむらくは中嶋さんがただのエキストラになってしまったことで、これまでのや団コントにあった「伊藤さんとは別方向のヤバさ」を見せてほしかったところ。


ファイヤーサンダー

 不祥事芸人の復帰明けバラエティ番組。


 ファイアーサンダーらしい細かい切り口のコント。「復帰明けのバラエティでの立ち振る舞い」という、誰もがうっすらと居心地の悪さを感じるシチュエーションを題材にするセンスがすばらしい。

 殺人はアウト、自動車事故はセーフ、じゃあどこからがアウトなのか、過失致死ならどうなのか……、そこには明確な基準などなくて「空気」がルールを決めているのではないかという社会への問題提起にも感じられる(ウソ)。

 ただ殺人犯であったことが明らかになるところが最大のピークになってしまったのが残念。一昨年の「日本代表」、昨年の「毒舌散歩」のネタでは種明かし後にもさらなる裏切りが用意されていただけに、過去のファイアーサンダーと比べて見劣りしてしまったのも事実。常連の苦しさ。

「もしものときのためにプロレスラーが配置されている」のセリフは、終盤まで取っておいたほうがよかったんじゃないのかなあ。


青色1号

 会社の休憩室でのゴシップ話。


 いやあ、よかった。トリオで噂話のネタをしたら「当事者に聞かれている」というわかりやすい展開に持っていきそうなものだけど、そうせずに「聞き手のリアクション」にスポットを当てるのがすごい。

 きっちり芝居で魅せてくれた。3人とも現実にいるぐらいのリアリティ(審査員が「あのネタをやるには若すぎる」って言ってたけど、ああいうゴシップで盛り上がるのは若い社員だよ!)。誰も変なことはしていない。なのにコントとして成立している。

 水やふるふるジュースなど小道具の使い方も絶妙。「こんなの買うやついるのかよ」みたいなどうでもいい会話がすごくリアリティがあっていい。

 オチも上品。このコントを東京03がカバーしたバージョンも観たいなあ!


レインボー

 女芸人とのコンパ。


 単独ライブだとウケそうなネタ。レインボーのファンにはめちゃくちゃウケるんだろうなあ。

 もちろん女芸人の形態模写はうまいけど(モデルは少し前にコンビ名を変えたあの人だよね?)、どこまでいってもモノマネであって、個人的にはあまり見所を感じなかった。まあこれは好みの問題であって、ぼくが人物の描き方よりもストーリー展開に重きをおいているだけなんだけど。

 こういう人間観察系の芸ってわりと女芸人が得意とするところだよね。友近、柳原可奈子、横澤夏子などの系譜。女装コントをやり続けた結果として着眼点までもが女芸人に近づいたのか、それとももともとそっちのセンスの持ち主だから女装がしっくりくるのか。

 たぶん各コンビのネタから10秒間だけ切り取ってSNSに上げたらこのコントがいちばんバズるとおもう。前後の文脈無しでも笑えるはず。この人たちの主戦場はショート動画なんだろうな。



元祖いちごちゃん

 スーパーの試飲。


 バイオレンスなボケで一気に引きこみ、そこからたっぷりと間をとったやりとりで味わい深い世界を表現してくれた。あの間のとり方、スリムクラブを思い出したのはぼくだけではあるまい。

 センスは抜群だったが、技術には課題。単純にセリフが聴きとりづらいとか、ツッコミの植村さんが芝居に入りこんでいないとか(ああいうコントをするなら「わかりやすく客席に届けようとする」姿勢はいらないのでは)。その粗さこそが魅力でもあるのだが。ところで「ブリーチ」って言われてみんなすぐわかるもん? うちの家では「漂白剤」って呼んでるんだけど。そしてブリーチじゃなくてハイター派だし。

 時間で解決させようとするくだりはかなり好き。ただ店員のクレイジーさが強烈なインパクトを与えていただけに、組織的な犯行という着地はかえってスケールが縮んでしまったような印象を受けた。



うるとらブギーズ

 医者にさせたい父親とミュージシャンになりたい息子。


 緊張してセリフを言い間違えている……と心配させる導入から、それを逆手に取った言い間違えコント。まんまと騙された。

 技術はナンバーワンだね。ものすごくむずかしいことをしている(指摘されていたように八木さんの痛恨のミスがなければなあ)。それでいてやってることは実にくだらないので考えずに笑える。うちの12歳と7歳の娘はこのコントでいちばん笑ってました。

 ベタベタな設定も生きている。ストーリーを聞かせたいわけじゃないから、とにかくわかりやすければそれでいいもんね。よく考えられている。

 とんでもなく高度なことをしているからこそ、後半がわざとらしく聞こえてしまったのが残念。笑いの量をとりにいったんだろうけど、英文和訳みたいな話し方になったり白衣を着たりするのはもう間違えじゃくて明確にボケてるもんなあ。

 個人的には言い間違えのまま突っ走ってほしかったけど、笑いを取りにいくことを考えるとそれもむずかしいかなあ……。



しずる

 LOVE PHANTOM。


 若手がワンアイデア勝負で挑むのはよくあるけど、しずるがいろんなパターンのコントをちゃんと20年以上続けてきた結果たどりついたのがこのコントという背景がまずおもしろい。

 ただ、別の番組でこのコントを観たことあったんだよなあ(ここまで長い尺ではなかったが)。インパクト勝負のアホらしいネタなので、やっぱり初見のおもしろさにはかなわない。

 どっちみち大会で優勝しそうなタイプのネタではないので(DVDに音源収録できないしね)、このネタ(曲?)を一本丸々観られただけで満足。



トム・ブラウン

 コント・エリザベスカラー


 最初の「コント・エリザベスカラー」のどなりで一気に心をつかまれた。あれを言うのが古いだけじゃなくて、言い方もいいんだよね。「言い方でウケてやるぞ」って感じの声の出し方。最もセンスのない笑いの取り方。そしてそれが逆にかっこいい。

 ビジュアル的なインパクトもさることながら、ヒデキというネーミングや犬とおできの主導権争いなど見た目だけに頼らないディティールにも工夫が感じられる。や団と同じく計算を計算と感じさせないバカさがいい。

 ふたりのキャラクターが十分強烈なのでVTRを使わなくてもよかった(回想シーンを舞台上で演じるとか)でもよかったんじゃないかな、ともおもう。

 オチの「はぁ?」は大好き。おもわず「こっちがはぁ?だよ!」とテレビに向かって言ってしまった。



ベルナルド

 カメラ男(マン)。


 まず気になるのが、「写真撮影前は客とカメラマンはどう接していたのか?」ってこと。カメラマンが暗幕から出てこないことに引っかかるのは、撮影後じゃなくて絶対に撮影前のはず。芝居なんだからこういうところをうやむやにせずにちゃんと処理してほしい。

 そのへんの「コントで描かれていないところ」がおろそかになっているので、奥行きを感じない。カメラ男のこれまでの人生だとか今後の展開に興味がいかない。小道具を見せたくて、そのためにコントを作った、そのためにキャラクターを作ったって感じがする。それならR-1グランプリでやっていたような「小道具を見せるためだけの最小限の設定」のほうがいっそ潔くて良かったな。

 小道具のおもしろさはさすがで、写真を吹きだすところは見ていて楽しいし、二重三重の仕掛けも鮮やか。

 トム・ブラウンの直後だったのでビジュアルのインパクトも狂気性も見劣りしてしまったのはかわいそうだったな。



 以下、最終決戦の感想。


レインボー

 六本木の何やってるかわからない社長と何やってるかわからないタレントの女。


 キャラクターのおもしろさ重視だった1本目よりも、ストーリーで引っ張っていくこちらのほうが個人的には好み。

 腕時計と金歯の値段、女がギャンブラーであることなどを前半でうまく明かし、きっちり後半の展開へつなげる。よくできた脚本だ。女の自信たっぷりの態度がブラフだったことが明らかになる裏切りも見事。笑いどころが社長のキャラから女のキャラにシフトしたのはちょっと引っかかった。

 気になったのは、「勝てないギャンブラー」という人間像と、序盤で見せていた「嫌々社長との飲み会に参加させられる」姿がどうもしっくりこないところ。こういう女性だったら、嫌いなタイプの社長なんてむしろ絶好のターゲットなんじゃないだろうか。



や団

 口の悪い居酒屋店主。


 導入の「口が悪いけど愛のあるタイプっぽいな」的なセリフのせいで、もうその先の展開が読めてしまう。とはいえ予想通りの展開をたどりながらも、毒をエスカレートさせていき、しょぼいマジックなどのアクセントも効かせて飽きさせない話運びはさすが。

 ただ個人的には薬物を扱うボケは好きじゃない。お手軽に異常性を出せる上に、どんな異常行動も「薬のせい」にできてしまうオールマイティカードので。薬物というわかりやすい材料に頼らずに異常な空間を表現してほしかったな。



ロングコートダディ

 泣いている警察官とシゴデキ女。


 正直さほど笑えたわけではないが、計算高さに感心した。優勝を獲りにいくためのコントって感じだ。

 毎年のことなんだけど、終盤ってちょっとダレるんだよね。ほとんどのコンビは1本目に強いネタを持ってくるし、観客も疲れてくる。それに会話で世界を組み立てていく漫才と違って、はじめから設定がしっかりできているコントでは序盤の「種明かし」がピークになることも多い(今回でいうとファイヤーサンダーとかベルナルドとか)。

 キングオブコントは採点式だが、最終決戦では点数以上に「どこを優勝させたいか」を考えるはず。だとしたら平均的に笑いをとるコントよりも、前半が弱くても終盤に強いインパクトを残すコントのほうが強い印象に残るだろう。

 ……そんな計算があったかどうかは知らないが、とにかく前半を抑えた構成にすることで後半の爆発力は大きくなり、見事に優勝をかっさらった。シソンヌじろうさんが高得点をつけていたが、そういえばシソンヌが優勝したときもこんな感じだったなあ。

 それはさておき、ちょっと塩梅をまちがえたら顰蹙を買いそうなコントなのに、そう見せないロングコートダディの味付けは見事。だってさ、男の警察官が、何の罪もない女性を撃つんだよ(下着は公然わいせつ罪にならないだろう)。ふつうならひかれるところだ。なのにあのシーンで笑いを起こさせるのがすごい。たっぷり時間を使って言語化女の鼻につく感じを浸透させたことと、兎さんのふてぶてしいキャラクターのおかげで、かわいそうな感じを与えない。丁寧に作りこまれたコントだ。



 ということで、実力、経験、人気すべてをかねそなえた円熟ロングコートダディが念願の優勝。順当に見えるけど、きっちり大会にあわせたネタを持ってきて、それでいて自分たちの持ち味も存分に発揮した納得の優勝でした。おめでとう!


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2025年10月10日金曜日

『THE Wakey Show』の地方ソングを考える

 Eテレで朝7時から放送している子ども向け番組『THE Wakey Show』で『地方ソング』という歌が流れている。

 都道府県の位置関係を語呂合わせでおぼえるための歌だ(位置をおぼえるのが目的だからだろう、北海道と沖縄だけない)。



 とりあえず一個だけ貼っておく。他の動画も公式チャンネルに上がっているので興味ある人は自分で調べて。

(数十年前の動画っぽい画質と横幅だが、この番組のために作られたものだそうだ。なんで古く見せかけているのかは知らない)


 どれもなかなかよくできている。歌詞だけここに書く。

(東北)

青岩でメヤギが吹くよ 山の秋

※ 青(青森)岩(岩手)でメヤギ(宮城)が吹く(福島)よ 山(山形)の秋(秋田)

(関東)

 土地いばら 一番かなとサイの群れ

※ 土地(栃木)いばら(茨城) 一番(千葉)かな(神奈川)と(東京)サイ(埼玉)の群れ(群馬)

(中部1)

福、医師と山に

※ 福(福井)、医師(石川)と山(富山)に

(中部2)

長梨静かに 愛ギフト

※ 長(長野)梨(山梨)静か(静岡)に 愛(愛知)ギフト(岐阜)

(近畿)

教師が見えたなら 和歌を評価

※ 教(京都)師が(滋賀)見え(三重県)たなら(奈良) 和歌(和歌山)を(大阪)評価(兵庫)

(中国)

山はねっとり 広い丘

※ 山(山口)はねっ(島根)とり(鳥取) 広い(広島)丘(岡山)

(四国)

姫香る こっちが徳

※ 姫(愛媛)香る(香川) こっち(高知)が徳(徳島)

(九州)

長さで服分ける お宮さんの鹿と熊

※ 長さ(長崎)で服(福岡)分ける(大分) お宮(宮崎)さんの鹿(鹿児島)と熊(熊本)

 よくできている。東京、大阪がどちらも助詞の「と」「を」の1文字で処理されているのは気になるけど、まあ東京や大阪の場所をまちがえる人はそんなに多くないだろうから目をつぶろう。

 だが改善すべき点はある。


 まずは順番。ほとんどのエリアで、時計回りに都道府県名を歌っている。おかげで位置をおぼえやすい。

 が、中国と四国だけは時計回りじゃない。

「山はねっとり 広い丘」を「山はねっとり 丘広い」に、
「姫香る こっちが徳」を「姫香る 徳はこっち」に変えれば、時計回りで歌える。メロディーもくずさなくて済む。

 なんでここだけ時計回りにしなかったんだろう。


 そしてもうひとつ。省略するのはそっちじゃない、というところがある。

 たとえば中国地方の「山はねっとり 広い丘」の「山」は山口県のことだが、「山」がつく都道府県は、他にも山形県、山梨県、富山県、和歌山県がある。同じ中国地方の岡山県にも「山」は入っている。

 だったら「山はねっとり」じゃなくて「口はねっとり」にしたほうがいい。「口」がつく都道府県は山口県だけなのだから。

「口はねっとり」だと気持ち悪いから、歌詞の美しさを優先させたのかなあ。でも「口はねっとり」のほうがインパクトあって忘れないけどなあ。

口はねっとり 丘広い



2025年10月8日水曜日

【読書感想文】藤原 てい『流れる星は生きている』 / 身勝手だから生きられた

流れる星は生きている

藤原 てい

内容(e-honより)
一九四五年、終戦。そのときを満州(現中国東北部)でむかえた著者は、三人の子をかかえ、日本までのはるかな道のりを歩みだす。かつて百万人が体験した満州引き揚げをひとりの女性の目からえがいた戦後の大ベストセラー。新装版にて待望の復刊!

 満洲で終戦を迎えた著者。夫はシベリアでの強制労働に連れていかれ、乳児を含む三人の子を連れて日本への帰国をめざす。その険しい道のりをつづった体験記(一部に創作も含まれるそうだ)。

 ちなみに夫は作家の新田次郎氏で、連れて帰った次男の正彦は数学者の藤原正彦氏だそうだ。



 ほとんどただの日記なので、そこが欠点(文章がうまくなくて読みづらい、説明不足、記憶に基づいて書いているのであやふや)でもあり、長所(生々しい、赤裸々)でもある。

 ほんと、ぜんぜんわからないんだよね。著者は今何をしているのか、どこに向かっているのか、なんでこんなことをしているのか、突然出てきたこの人は誰なのか。「自分にだけわかればいい」という文章だ。

 でもまあなまじっか技巧を凝らした文章を書かれるよりは、日記のような文章のほうが真に迫って感じられていいかもしれない。




 満洲からソ連統治下の北朝鮮に入り、そこから南下し、38度線を越えてアメリカ統治下の南部朝鮮へと逃れる。ひたすら歩き、靴をなくしても歩き、山を越え、橋のない川を渡る。それだけでもたいへんなのに、7歳から0歳までの3人の子を連れて、である。

 道が坂になった。二歩のぼっては、一歩すべる。正彦が、「ひいっ! ひいっ!」と泣く声が風にちぎれて飛んでゆく。わたしは正彦のしりを力いっぱいたたきながら、よろける正広をどなりつけて、のぼっていった。
 やっと、坂をのぼりきったころ、ほのかに明るさがさしてきて、夜は明けてきた。わたしののぼってきた道は、一間ぐらいのはばの道で、両がわは見わたすかぎりのはげ山であった。はげ山といっても木がないだけで、草は道の両がわにおいしげっていた。わたしが道をまちがえずにここまできたのは、いくらか道がひくくなっていたからだった。わたしは、じぶんのすがたを見てびっくりした。それよりふたりの子どものすがたは、ひどかった。赤土のどろを頭からかぶって、上着もズボンもひと晩のうちに赤土の壁のようによごれていた。かろうじて、目だけが光って、もう泣く涙はないのか、つんのめり、つんのめりして前へ進んでいった。正彦はひと晩の難行のために両方のくつをなくしていた。そして赤土の手で目をこするから前が見えなくなる。
「おかあちゃん、見えないよう。」
 と泣く。
「ばか!」
 わたしは思いきって前に突きとばしてやると、まだ起きあがる元気はあった。よろよろと赤土のどろの中から立ちあがって、あきらめたように一歩二歩前に進んでついにたおれてしまう。起きられないと見て、わたしは正彦の左手を引っぱりあげて、引きずって前へ前へと前進した。ズボンの膝から下をずるずるどろの中に引きずりながら。それでもまだ立とう、立とうとする意志があるらしく、いくらか引きずる手がかるくなるときがあった。
 正広はわたしの悲壮な努力を見て、そう泣かなかった。だまってついてきた。おくれそうになるとわたしに、
「ばか、そこで死んでしまいたいか。」
 と、どなられて、苦しそうな目を、わたしにむけていた。

 ばたばたと人が死んでいく中で(約100万人の引き揚げ者のうち約24万人以上が命を落としたそうだ)、4人とも日本に生きて還ってこられたのは奇跡に近いだろう。はっきりいって「0歳児を置いていく」選択をしても誰も責められない状況だとおもう。それでも3人とも連れていったのだからとんでもない根性だ。




 興味深いのは、生きるか死ぬかの状況における人間関係だ。

「極限状態では他人のことなんかかまっていられない」でも「極限状態では助け合う」でもない。

 自分もギリギリなのに他人を助ける人もいれば、余裕があっても他人を見捨てる人間もいる。別の日本人からものを盗む日本人もいる。

「わたしたちの貧乏な団は、とても高い金をだして、案内人をやとえないから、どこかの団といっしょに行動したほうが、よいだろうと思います。」
 みな賛成した。そして宮本団に申しこんでみようということにして、さらに引き揚げの道中のことも相談した。病人は新田さんひとり、足手まといになる幼児はだれとだれをだれとだれが責任もってつれて逃げるということも、とりきめた。わたしは正彦をせおい、咲子は東田さんがせおい、荷物は佐藤さんがたすけてくれる。正広はひとりで歩かせるといったように、話はすっかりまとまった。
 宮本団の副団長のかっぱおやじは、わたしの申し出に対して明らかにいやな顔をした。
「あなた方のような貧乏団といっしょじゃ、こっちがめいわくしますよ。」
 わたしはくやしさをこらえて、
「ただ、あなたたちのあとを、犬のようについていくだけだから、かまわないでしょう。」
「それはかってですよ。」
「じゃ、あなたの団の出発するとき、知らせてくれませんか。」
 かっぱおやじはこれに返事をしなかった。

 この後、“かっぱおやじ”たちは著者の団には教えずにこっそり出発する。その後も“かっぱおやじ”は何度も著者と遭遇してそのたびに著者に悪態をついたりするのだが、“かっぱおやじ”が悪人かというとそうでもなく同じ団のメンバーに対しては面倒見のいいおやじとして描かれている。

 あたりまえのことなのかもしれないが、生きるか死ぬかの極限状態であっても人間の本質なんてそんなに変わらないのだろう。いい人もいれば悪い人もいる。ある人には冷酷な人が別の人には親切だったりもする。根っからの善人も生まれもっての悪人もいない。

 それに著者自身、なかなか身勝手だしね。500円しか持っていない人に300円貸してくれとせがんで、断られたらあんたはひどい人だとなじるんだぜ。そういう人だから“かっぱおやじ”に冷たくされたんじゃねえの、という気もする。生きるのに必死だからというのもわかるけど、周囲だってみんな余裕ないわけだし。

 まあでも、これぐらい身勝手じゃないと子ども三人抱えて生きて日本に帰ってくることはできなかっただろうね。


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2025年10月7日火曜日

【読書感想文】片野 ゆか『ゼロ! 熊本市動物愛護センター10年の闘い』 / 人間のすばらしい部分とクズな部分

ゼロ!

熊本市動物愛護センター10年の闘い

片野 ゆか

内容(e-honより)
飼い主に見捨てられ、行き場をなくした犬や猫が、保健所で悲惨な死をむかえる―。ペットブームにひそむ現状を「しかたがない」で終わらせず、「殺処分ゼロ」を目標に立ち上がった熊本市動物愛護センター。無責任な飼い主に対する職員たちの奮闘が始まった。決して夢物語ではないことを十年がかりで証明した、彼ら独自の取り組みとは?“闘う公務員”たちを追う、リアルストーリー。

 熊本市動物管理センター(後に熊本市動物愛護センターに名称変更)が動物の殺処分ゼロを目指して取り組んだ活動を記載したルポ。

 同センターでは、2000年には1002頭の犬を保護・引き取りし、そのうち693頭が殺処分されていた。2009年には保護・引き取りが453頭、殺処分は1頭。「殺処分ゼロ」でこそないが、以前の数字と比べれば飛躍的な成果だ。

 そこには、職員、ボランティア、協力団体による絶え間ない努力があった。




 保健所では保護犬や保護猫を殺処分するわけだが、当然ながら職員だって殺したくて殺しているわけではない。それが職務だから、そして処分しないといけない理由があるからこそやむなく処分している。

 そんなあたりまえのことすら想像ができない人がいる。

「所長、お電話が入っとるのですが」
 職員のひとりがデスク越しに声をかけてきた。市民からの問い合わせで、どうしても所長に話したいことがあるという。淵邉が電話をひきついだとたん、ヒステリックな声が耳をつらぬいた。 「殺処分を今すぐやめなさい!」
 声の主は名乗ることもなく怒鳴り続けた。
 あまりの剣幕に口を挟む暇もない。淵邉は受話器を握りながら、センターの仕事のほとんどは苦情処理だと、異動前に耳にしたことを思い出した。気持ちを落ち着けて応対を試みるものの、何が苦情の原因になっているのか、いっこうに見えてこない。相手は「今すぐやめろ」を連呼するばかりだった。
 それでも役所としては、何かしら説明をしなければならない。行政でやっていることは法律で定められていることで、そしてこの施設が抱える現状をあわせて説明した。だがそれはかえって火に油を注ぐ結果になってしまった。 「努力が足りんのよ。ドイツは絶対に動物を殺さんの知っとっと? 行政はもう少し勉強したらよか!」
 相手はしゃべればしゃべるほどヒートアップした。日本の動物愛護のお粗末さには我慢がならない。もっと欧米を見習え。話はいつのまにか熊本市のことだけではおさまらなくなっていた。
 殺処分をやめろと言われて、「はい、わかりました」と返事ができればどんなにいいか。そう思いながら淵邉は、相手が話し疲れるまで三十分以上も受話器を手ばなすことができないのだった。
 こうした電話は多いのだろうか。とりついだ職員に訊ねると、声の主は県内で動物愛護団体を主宰する女性で、数か月ごとに電話をかけてくる常連だという。ほかにも名乗らないが、あきらかにリピーターと思われる者が数名いるようだ。やれやれ、こんな電話がこれからも度々あるのか。そう考えると淵邉は、もはやため息しか出てこなかった。

 ただでさえ精神的負担の大きい仕事なのに、こんなアホの相手もしなくちゃならないなんて大変だ……。

 人里に下りてきたクマを銃殺した役所に文句を言う連中と同程度のアホだ。自分で全野良犬とクマを飼えばいいのに。

 こういう犬以下の知能の市民がひとりふたりではなく、野良犬を保護していると「犬殺し」などという言葉をぶつけられることも少なくないという。

 こんなクレームの相手をすればするほど、職員が犬や猫のために使える時間が減ることがわからないのだろうか。わからないんだろうな。




 殺処分ゼロを目指し、職員や協力団体の人たちはあらゆる手を尽くす。

 譲渡会の開催、不妊手術の実施、市民への啓蒙活動、飼育環境の整備(保護している動物が健康できれいになるほど引き取られる率も高まる)。

 そして、安易に引き取りを求めてくる市民に対する説得。これは骨が折れるだろうなあ……。なにしろ「もう飼えなくなったから保健所で引き取ってくれ」って言ってくるやつなんだもん。そんな人間に比べたら、犬や猫のほうがずっと意思疎通ができるとおもうわ。


 ぼくの実家でも犬を飼っていた。一匹は野良犬だったのを保護。もう一匹は動物保護団体からもらってきたものだ。もちろん毎日散歩に連れていき、遊んでやり、毎年予防接種をし、具合が悪ければ病院にも連れていき、最期は歩けなくなっても家族みんなで世話をした。

 そういう家で育ったから「もう飼えないから引き取ってほしい」と保健所にペットを連れていく神経が理解できない。家族内の大人が全員突然死した、ぐらいの事情でもないかぎりは「もう飼えない」なんてことにはならないだろうとおもう。転勤とかで連れていけないような人は飼っちゃいけない。

 もっといえばペットショップで犬を買うやつは動物好きじゃないとおもっている。動物が好きなら保健所の犬猫がゼロになってから買えよ。「他の動物が殺されてもいいから見た目がいいやつを買いたい」という意思があるんならべつにいいけど。

 ほんとにもう飼えないとおもうのならせめて自分で殺せよな。その覚悟もないやつの「もう飼えない」なんて嘘だろ。


 失礼を承知で言うけど、ぼくは保健所では働きたくない。誰かがやらなくちゃいけない仕事だということはわかってる上で言うけど。すごく身勝手だけど。

 もちろん犬や猫を殺処分するのもイヤだが、それ以上に嫌なのが「アホのしりぬぐいをする仕事」だということだ。最期まで面倒を見る覚悟も想像力もないようなアホのしりぬぐいを押しつけられる仕事だとおもうと、とてもがんばる気にならない。やればやるほどアホがよりアホになるだけじゃないか、とおもってしまう。




 自分がぜったいにやりたくないとおもう仕事だからこそ、そこに従事していて、かつ状況を改善している人たちをすごいとおもう。

 こんなこと言うとあれだけど、愛護センターの職員は公務員なんだから、殺処分件数を減らしたところで給与がすごく増えるわけじゃないとおもうんだよね。だったら前例を踏襲して任期をまっとうすればいいか、って考えるのが多数派だとおもう。そりゃあ殺処分を減らせるなら減らしたいけど、そのために(給与すえおきで)自分の負担が増えてもいいかって言われると、うーん、二の足を踏んでしまう。

 それでも熊本市動物愛護センターの職員やその協力者たちは、負担が増えることもわかった上で、殺処分を減らすために改革をおこなう険しい道を選んだ。すごいなあ。


 高野 誠鮮『ローマ法王に米を食べさせた男』を読んだときにもおもったんだけど、地方自治体の職員って「とにかく前例踏襲主義で与えられた仕事をやる」ってイメージだけど(実際そういう人も多いけど)、行動力のある人にとってはかなり自由に改革をおこなうことのできる仕事なんだろう。もちろん公務員といってもいろんな種類があるわけだけど。

「さほど採算を気にしなくていい」という公務員の特権を、私腹を肥やすことに使う政治家や公務員もいれば、世のため人のために使う人もいる。




 さて、職員やボランティアのたゆまぬ努力によって殺処分を減らした熊本市だったが、2009年を境にまた殺処分が増加に転じる。

 その理由がなんともやるせない。

 新年度になってから、不自然な捨て犬や捨て猫が増えていた。この道路を挟んでこちら側は熊本市、反対側の緑地帯は隣接市の管轄だ。確信は持てないが、捨てた人間の作意が感じられた。
 熊本市内で遺棄された動物が見つかれば、かならずこの動物愛護センターに保護される。ここなら殺処分される心配はないし、さらに新しい飼い主を見つけてもらうこともできる。つまり飼い主としては罪の意識に苦しむこともないし、自分の手をわずらわせることもなく面倒事から解放される。職員にとって腹立たしいのは、そんな飼い主の意図が透けて見えることだった。無責任な人間は、どこまでも無責任なのだ。
 どんな業界も有名になるほどメリットとデメリットが生じるが、それは動物愛護の世界も例外ではない。
 日本には団体やグループ、個人で、動物愛護活動を続ける多くの人がいる。インターネットを通じて保護や譲渡情報の発信、活動報告をおこなっていて、地道な活動を長く続けるうちに名前が知られるようになり、多くの賛同者を集めるケースも多い。しかし、いずれも簡単に所在地がわからないよう注意を払っている。活動場所が広く知られると、心ない飼い主の格好のターゲットになってしまうからだ。

 愛護センターなどの取り組みが広く知られるようになったことは、活動の協力者や引き取りたいという人を増やす一方、「熊本市になら捨ててもなんとかしてくれる」と考える心ない人間をも生むこととなる。

 うーん……。クズってやつはとことんクズだなあ……。殺処分の多い市ではなく殺処分の少ない市に犬猫を捨てることで、良心の呵責から逃れようとするなんて。捨てるなら捨てるで、「自分は犬猫の命を捨てたひどい人間だ」という意識を背負って生きろよな!


 いいルポルタージュだったが、人間のすばらしい部分と人間のどうしようもないクズさの両方を存分に見せつけられて、その両極端の間でなんだか船酔いしたような気分になってしまった。


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2025年10月3日金曜日

【読書感想文】荻原 浩『神様からひと言』 / すべてがほどよい

神様からひと言

荻原 浩

内容(e-honより)
大手広告代理店を辞め、「珠川食品」に再就職した佐倉凉平。入社早々、販売会議でトラブルを起こし、リストラ要員収容所と恐れられる「お客様相談室」へ異動となった。クレーム処理に奔走する凉平。実は、プライベートでも半年前に女に逃げられていた。ハードな日々を生きる彼の奮闘を、神様は見てくれているやいなや…。サラリーマンに元気をくれる傑作長編小説。

 2002年刊行。

 社内政治に明け暮れる会社のやり方になじめずトラブルを起こしたことがきっかけで閑職にまわされた主人公。そこは社内の問題児だらけのひどい部署だったが、徐々に仕事のおもしろさを感じられるようになり、仕事に励んでいたら周囲からも認められるようになり、最後は不正をしていたやつらを成敗してめでたしめでたし……とサラリーマン小説のお手本のようなお話。

 正直、似たような話を何度も読んだことがある。古くは源氏鶏太(昭和のサラリーマン小説の第一人者)から連綿と続く王道パターンだ。

 最近は女性作家、女性主人公が多いよね。この手の“ザ・お仕事小説”。ほどほどに業界知識も散りばめられていて、適度なユーモアがあって、それなりの爽快感もあって、すべてが“ほどよい”。

 豚の生姜焼き定食みたいなもの。どこで食べてもいつ食べてもそこそこおいしい。安心感がある。


 ただやっぱり感覚が古いというか、いや20年以上前の小説を今読んで古いというのもおかしいんだけど、でも今の感覚で読むと「会社に属しすぎ」とおもってしまう。嫌な職場なら辞めればいいじゃん、とおもっちゃうんだよねえ。当時の会社員の大半は「会社を辞めてはいけない」がまず前提にあって、そこから考えてるんだよなあ。




 ぼくも大人なので、納得いかないとおもいながら謝罪をしたことも幾度かあるけど、何度やっても慣れない。ついつい顔に出ちゃうんだよね、「なんで俺が」感が。

 そこで謝罪のプロのセリフ。

「まぁ、そうだな、他人がやったことで自分には無関係なんて顔で謝ると反感を買うし。といって全部自分の責任って顔するのもしらじらしいし。先方と一緒になって悪口を言ったりするのはもってのほか。身内をかばうのも禁物。適度な距離感が大切だな。そう、俺はね、こうしてるのよ」
 篠崎はひとさし指を突き立て、それをひたいに押し当てた。
「誰かを頭の中で思い浮かべるといいんだ。代わりに謝らなくちゃしょうがない人間。腹は立つけど自分が謝ってやらなくちゃならない人間。そういうやつが何かやらかした時のことを想像して、代わりにドロをかぶるつもりになってみる。たとえそれがどろどろの泥でもさ。たとえば自分の親父が酔って物を壊した店に謝りに行くとか、喧嘩して怪我させた相手に詫びを入れるとか、借金こさえて雲隠れしてるのを取り立て屋にいい訳するとか。謝罪の言葉のあとに、心の中だけでそういう人間の名前をつけくわえると、案外、すんなり謝れるんだよ。本当にすいません――うちの馬鹿親父が――てな感じでさ」
 ずいぶんリアルな譬え話だった。

 なるほどね。ぼくだったら自分の子どもかな。子どもがよその人に迷惑をかけたとおもえば、自分が悪くなくてもすんなり謝れる。これは使えるテクニックかもしれない。

 ただ問題は、自分が部下の代わりに頭下げるような状況ならともかく、上司の代わりに謝らなくちゃいけないような場面で「子どもの代わりに謝ってるんだ」とおもえるかってことだよな……。


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令和に読むアラレちゃん

 小学6年生の長女が1年生の次女に「誕生日何がほしい?」と訊いた。次女は少し考えてから「『アラレちゃん』のマンガ」と答えた。

 なんでアラレちゃん知ってるの? と訊くと、学童保育に1冊だけ単行本があるのだという。

 なるほど。『アラレちゃん』はぼくも子どもの頃にテレビアニメの再放送を観ていた。低学年でも楽しめそうなギャグマンガだ。


 数日後、長女が本屋に『アラレちゃん』を買いに行った。

「買えた?」

「ううん、なかった」

「えっ、○○書店でしょ? あそこは漫画がかなり充実してるけどなあ。店員さんに訊いてみた?」

「店員さんには訊いてないけど、検索機があったから調べてみた。でもヒットしなかった」

「そうかー。前に行ったときにあったような気がしたけどな」


 その翌週。ぼくと長女がその書店に行ったときに探してみると、『ドラゴンボール』の隣にちゃんと『アラレちゃん』が全巻置いてある。

 なんだ置いてあるじゃないか、検索にヒットしなかったとか言ってたのに。

 だがすぐに長女が『アラレちゃん』を見つけられなかった理由がわかった。


 そうだった。『アラレちゃん』のタイトルは『アラレちゃん』じゃなかった! 『Dr.スランプ』だった。テレビアニメ版では『Dr.スランプ アラレちゃん』だが、漫画版のタイトルは『Dr.スランプ』だけだ。

 そりゃあ検索で引っかからないわけだ。これはむずかしい。入手難度G(グリードアイランドと同等)レベルだ。


 というわけで、長女は無事に『Dr.スランプ』を買うことができ、次女にプレゼントした。1巻から5巻まで。

 次女はむさぼるように読んで、2日で5巻を読んでしまった。おもしろかったらしく、さっそく「んちゃ!」などと言っている。


 ぼくも読んでみた。

 なるほど、これは子どもにとってはおもしろいだろうな。

 奥付を見ると1巻が刊行されたのは1980年だった。今から45年前。でもぜんぜん古くない(今では通用しなくなったネタも多いが)。絵が古びていないし、デフォルメがうまいので読みやすい。テンポもいい。今のギャグマンガよりもテンポがいいぐらいだ。

 残念なのはフォント。すべてのセリフが細めのフォントで書かれている。ボケセリフとか強めのツッコミとかも全部細めのフォント。なんかすごく白々しい。今のマンガだったら太字にしたり手書きにしたりするところだ。フォントって大事なんだなあ。

 あと驚いたのは、ほとんどルビがないこと。ふりがながふってあるのは、中学以上で習うであろう漢字ぐらい。

 ということは小学高学年ぐらいが想定読者だったのだろうか。でも内容的にはウンコとかパンツとかそんなレベルだしなあ。

 でも1年生の次女もふつうに読んでいる。たぶん読めない漢字もいっぱいあるだろうけど、だいたいで読んでいる。そういえばぼくも子どもの頃、習っていない漢字を読めることで大人から驚かれた。あれもマンガから得られたものだった。

 漢字は表意文字だが表音文字の要素も持つ(たとえば「鉱」という字を知らなくても「広」を「コウ」と読むことを知っていれば「コウ」と読める)ので、初歩的な知識があればそこそこ読めてしまうのだ。読めなくても文脈から推測してだいたいの意味を察することはできる。小説だと文章しか手掛かりがないがマンガだと前後の文章+絵がヒントになっているのでより読解しやすい。ダイナマイトを手にしている絵の横で「やめろー爆発するぞー」と書いてあれば、「爆発」の漢字を知らなくても「ばくはつ」にたどりつくのは難しくない。

 最近の子ども向けマンガはほぼすべての漢字にルビが振ってあるが、もうちょっとルビが少ないほうが勉強になっていいのかもしれないな。


『Dr.スランプ』を読んでいちばんおもしろかったのが、本編ではなく、間に挟まれていたおまけマンガ。

 鳥山明氏がどんな感じで仕事をしていたのかが描かれているのだが、愛知県の実家に住んでいたため

「まずラフ原稿を描き、コピーを取って空港に行く。航空便でコピーを編集部に郵送。するとその夜編集者(あの有名なマシリト氏)から電話がかかってきて、修正の指示がある。それを踏まえて修正し、アシスタントに手伝ってもらってペン入れをし、再び空港に行って航空便で送る」

というやり方をとっていたそうだ。

 そうかー。メールはおろかFAXもなかった時代、遠方の人に急いで絵を見てもらおうとおもったら空港に行かないといけなかったのか……。これを毎週やっていたなんてたいへんだ。


 しかしこのやり方だと、修正は一回しかできないだろう。それ以上だと週刊誌連載には間に合わない。たった一回の修正(それも電話での指示)だけであの完成度の高い漫画を毎週仕上げていたのがすごい。

 とはいえ漫画家の立場だったら何度も修正を命じられるよりも、一回だけの修正と決まってるほうがやりやすいかもしれない。あらゆることに言えるけど、チェックが増えるとミスは増える。

 修正が少ないと自由に描けるし。極端なことをいえば、編集部からの修正の指示をまったく無視して原稿を完成させたとしても、よほどのことがない限り編集部としてはその原稿を掲載するしかなかっただろう。

『Dr.スランプ』や『ドラゴンボール』のあのいきあたりばったりなおもしろさ(読者には先の展開が読めない。なぜなら作者にもわかっていないから)は、鳥山明氏が愛知県に住んでいたからこそ生まれたものなのかもしれない。