2026年6月15日月曜日

【読書感想文】鈴木 俊貴『僕には鳥の言葉がわかる』 / 情熱的で醒めた視点を持つ研究者

僕には鳥の言葉がわかる

鈴木 俊貴

内容(e-honより)
古代ギリシャ時代から現代まで、言葉を持つのは人間だけだと決めつけられてきた。しかし、シジュウカラたちは、それが間違いであることを教えてくれた。人間には人間の言葉があるように、鳥には鳥の言葉がある。シジュウカラは言葉を使って文を作る。世界を驚かせた研究者が綴る、大発見に至るまでの鳥愛あふれる研究の日々。


 少し前に、アリク・カーシェンバウム『まじめに動物の言語を考えてみた』という本を読んだ(→ 感想)。

 動物が音声を使って様々なコミュニケーションをとっていることを認めた上で、「とはいえ他の動物たちは人間の言葉に翻訳できるような言葉は持っていなさそうだ」といった論調だった(誤解を招きそうなので補足しておくと、人間が他の動物たちに比べて優れているとは書いていない。ただ異なると書いているだけだ)。


 それを読んだ後だったので、この『僕には鳥の言葉がわかる』というタイトルを見たときは「正確性を欠くタイトルだな。研究者としての知的誠実さが足りないのでは」と思っていた。

 そして読んでみた。

 いや、「鳥の言葉がわかる」という言葉は決して大げさじゃないな! もちろん「鳥の言葉を一対一で人間の言葉に翻訳できる」という意味ではないが、鳥の言葉を“わかる”ことは可能かもしれない。この場合の“わかる”とは、“理解する”というよりは“感じる”に近いけど……。



 シジュウカラのヒナが、親鳥の鳴き声によって異なる反応を見せることについて。

 夢中で観察しているといろいろなことに気がつくが、もっとも印象に残ったことはヒナの聞く耳の発達だ。この時期のヒナは、巣箱の外から聞こえてくる親鳥の声にも敏感に耳を傾けて、応じているようだった。
 たとえば、父親が近くで「ツツピーツツピー」とさえずると、「はやく餌を持ってきて」と言わんばかりに「ビビビ!」と激しく声を出す。すると、親も急いで巣箱の中に餌を運び入れるのだ。周囲から聞こえる様々な鳥の声のうち、自分の父親の声を覚えて、それにだけ餌を求めて鳴くのかもしれない。一体どうやって覚えたんだろうと不思議に思う。
 ある日、いつものようにカメラをつけて巣箱を観察していると、ハシブトガラスが近くの木までやってきた。ヒナは相変わらず「ビビビ!」と鳴いて、親に餌を求めている。「このままではマズいかも」と思った瞬間、「ピーツピ!」という親鳥の声が森に響いた。
 カラスに警戒して鳴いているのは明らかだ。この声は、人間やネコなど、他の動物が巣箱に近づいた時にもよく出すので、「警戒しろ!」という意味だろう。
 それと同時に、あることにも気がついた。先ほどまで騒がしかったヒナの声が聞こえないのだ。モニターで巣箱の中を確認すると、ヒナたちはググッとうずくまって静まり返っている。「そうか! ヒナは親鳥の声に対して静まることで、カラスに巣の場所を特定されないようにしてるんだ。それだけではない。もし、カラスが巣箱に気づいて嘴を突っ込んできたとしても、うずくまってさえいれば、つまみ出されずに済むだろう! なんて賢い方法なんだ」と僕は思った。
 親鳥はカラスがその場を去るまで警戒の声を出し続けた。そして、ヒナたちもずっとうずくまったまま、ひと声も発さず静かにしていた。

 ヒナたちは親鳥が近づくと餌をねだる声を出すが、親鳥が警戒音を出すと、鳴くのを辞めて巣の中でうずくまるという。

「じっとしろ!」というメッセージを伝えることに成功しているので、これは言語といってもいいのではないだろうか。最も人間が使う「じっとしろ!」とはまったく同じではないけれど。

 人間の「じっとしろ!」は敵に見つかりそうなときも、逆に獲物に気づかれないようにするときにも、朝礼で落ち着きのない生徒を叱るときにも使えるが、おそらくシジュウカラの「ピーツピ!」にそこまでの汎用性はない(どっちが優れているということはない)。



 カラスが巣に接近したときには「ピーツピ!」と鳴くシジュウカラは、ヘビが接近したときには「ジャージャー」という声で鳴く。

 そして「ピーツピ!」を聞いたヒナは、カラスから身を守るために巣の中でじっとするのに対し、「ジャージャー」を聞くと親鳥は地面を見下ろす。さらにヒナは巣箱から飛び立つ。

「ピーツピ!」のときは対カラスの行動(カラスが巣箱にクチバシを突っ込んでもつつかれないようにうずくまる)を取るのに対し、「ジャージャー」のときは対ヘビの行動(飛んで逃げる)をおこなう。異なる刺激に対して異なる音を出し、異なる音に対して異なる行動をアウトプットする。これは……言語だ。

 さらに著者は、枝に紐をつけて動かす実験をすることで、「ジャージャー」を聞いた後ではシジュウカラが枝をヘビと見間違うのに対し、音がない場合は見間違えないことを確かめる。

 そして二〇一七年五月、ようやく僕はすべての実験を終えた。気がつくと、実験を始めてから四年の月日が流れていた。結果はとてもクリアなものだった。八十四羽のシジュウカラからデータを得たが、本当予想通りの結果が得られた。
 ここまできて、ようやくシジュウカラの鳴き声にも“言葉”があると証明できた。「ジャージャー」という声を聞いたシジュウカラは、頭にヘビのイメージを思い描き、それを用いて視界の中からヘビのようなものを探す。だから、ヘビのような動きをする枝を、ヘビと見間違えて確認してしまうのだ。つまり、「ジャージャー」はヘビを示す"名詞"のようなものだといえる。
 これはすごい発見である! それまでにも、多くの動物学者がベルベットモンキーやミーアキャット、プレーリードッグ、ハンドウイルカなどの鳴き声を調べてきた。しかし、ある鳴き声が内的な感情ではなく、外的な対象物を指示し、聞き手にそのイメージを想起させることを明らかにした例は一つもなかった。僕の研究が、初めてそれを証明したのである。

 このあたりの実験の設計がすごくうまくて、実験の詳細を見ているだけでわくわくする。


 もしぼくが研究者だったら「カラスとヘビが近づいた時では異なる声を出して、異なる反応を見せる」と気づいた時点で「シジュウカラは敵によって言語を使い分けてる! まちがいない! やったぜ、オレすげー!」と発表しちゃうとおもうんだけど、鈴木俊貴さんはそこから数々の反論を想定して、その反論に負けないための実験をデザインしている。これがプロの研究者かー。

 研究者というと好きなことに対してまっしぐらな人、というイメージだけど、一流の研究者は情熱だけでなく醒めた視点も併せ持っているんだな。



 シジュウカラの“言語”はシジュウカラだけでなく、他の鳥も理解できるらしい。

 シジュウカラの鳴き声を聞いて他種の鳥が逃げたり、逆に他種の鳥の鳴き声を聞いてシジュウカラが警戒を強めたり。多種多様な鳥が協力して警戒に当たったほうが天敵から逃れる確率は上がるからだ。

 さらにそれを逆手にとって他の鳥を騙すことさえするというから驚きだ。

 たとえば、シジュウカラがタカを見つけて「ヒヒヒ」と鳴けば周りにいるコガラやヤマガラは一斉に藪に逃げ入るし、餌を見つけて「ヂヂヂヂ」と鳴けば、次から次へと集まってくる。反対に、シジュウカラもコガラやヤマガラの言葉を理解できる。森の中の小鳥たちは、周りに棲んでいるいくつもの鳥の言葉の意味を学習し、天敵から身を守ったり、食べ物を見つけるために役立てているのである。バイリンガルどころではない。“鳥リンガル”だ。
 たまに嘘をつくことだってある。たとえば、シジュウカラは、自分より体の大きなヤマガラやゴジュウカラが餌場を独占していると、「ヒヒヒ」とタカが来た時の声で警報を出すことがある。実は空にタカなんていないのに、そう鳴くのだ。すると、大きな鳥はまんまと騙され、藪に逃げ入る。その隙にシジュウカラは餌をゲットできるというわけだ。僕もしょっちゅう騙されるが、騙し騙される関係も、他種の言葉がわかるからこそ成り立つものだ。

 人間のように「嘘の情報を流して追い払ってやろう」と考えているわけではないだろうが、結果的には誤情報によって他個体の行動を操作しているわけでから、“嘘をつく”といっても大きな間違いではあるまい。


「鳥の言葉」と言ってしまうと誤解を招くかもしれないけれど、シジュウカラなどの鳥が部分的には人間と同等、あるいはそれ以上に高度なコミュニケーションをとっていることは間違いなさそうだ。

 研究内容もおもしろいし、文章も親しみやすいし、選んでいるトピックスもほどよく初心者向け、ほどよく専門的で、すごくよくできた本でした。


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小ネタ51(かけ算の順序 / コンビ名 / 効率)

かけ算の順序

「かけ算は(かけられる数)×(かける数)の順序でなければならない」という順番気にしいや派(シーヤ派、転じてシーア派)と「いや順番が逆でも数学的に問題はない」の順番気にすんな派(スンナ派、転じてスンニ派)の抗争は収まることがなく、すでに争いは泥沼化している。

 問題文にいちいち「※ただし、かけられる数を先に書くこと」と注釈をつければ一応両方の顔は立つが、それでも「何をかけられる数とするか」という抗争が生まれるだけだろう(4人にりんごを3個ずつ配る場合、3個/人×4人としてもいいし、4個/周×3周と考えることもできる)。

 戦争は始めるよりも終わらせるほうがはるかにむずかしい。


コンビ名

 個人的に好きなコンビ名のひとつが“メイプル超合金”だ。

 ただ単語を並べただけのように見えるが、コンビのそれぞれを見てみると、ちゃんとメイプル(シロップ)を好きそうな人と超合金を好きそうな人だ。どっちがメイプルでどっちが超合金だとおもう? と訊いたら、99%の人の答えは一致するだろう。


効率

「ダイエットしようとウォーキングをすることにした。数ヶ月やったけどぜんぜん痩せない。ウォーキングは効率が悪い」と書いている人がいた。

 それって効率が悪いんじゃなくて「エネルギー効率がいい」じゃないかと思った。時間あたりのエネルギー消費量が少ないのだから燃費がいい。

 ダイエットとしては効率が悪いけど、エネルギーの観点では効率がいい。

 お金がありあまっていてなんとかして使い果たしたい人からすると「読書は(浪費する上で)不経済だ。ギャンブルは短い時間でたくさん使うことができるから(浪費する上で)経済的だ」ということになる。



2026年6月12日金曜日

【読書感想文】岸本 佐知子『あれは何だったんだろう』 / 私の中に住んでいるホームレスのおじさん

あれは何だったんだろう

岸本 佐知子

内容(e-honより)
日常は不思議、不思議が日常。虚実のへだてを乗り越えてどこにも行かずにどこまでも行く。翻訳家のささやかな大冒険はつづく。お待ちかね、『ねにもつタイプ』第四弾!

 ぼくがいちばんおもしろいと思っているエッセイの書き手(本業は翻訳家)による待望の新作。


 第四弾だが岸本さんのエッセイのおもしろさはちっとも鈍っていない。むしろ円熟味を増している。

 ○月○日
 AさんからのメールをBさんに転送しようとして、間違ってAさんに返信してしまうというヘマをする。しかも「こんなの来たけど、どうする?」というコメントつきで。「穴があったら入りたいです」とAさんに詫びのメールをしてしばらくしてから、だんだんとその穴のことが気になりだす。
 それってどんな穴だろう。人ひとりが中でうずくまれるぐらいとなると、やはり直径七十センチ、深さ一メートルぐらいは必要だろうか。
 蓋もあったほうがいい気がする。外光を遮断したほうが反省の機運が高まるし、人が落ちたりしたら危険だ。
 内部の材質とかも気になる。冬はフリース素材にしてあたたかく、夏は通気性よくさらりとした麻素材。
 そうなってくると、意外と居心地がいいんじゃないか、この穴。
 ましてや穴を出れば、そこは自分がしでかしたヘマの恥が待ち受ける元の世界なのだ。自分だったらそのまま穴に住みつくだろう。
 そう考える人は他にもいて、穴人口はどんどん増えていく。だんだん穴と穴がつながって人の行き来がはじまり、経済が生まれ、地下に巨大な穴帝国ができあがり、ついには穴世界の人口が外の世界のそれを凌駕する日がやってくる。そのとき世界は。
 などと考えているうちに年が明ける。

 これぞ岸本佐知子氏エッセイ(エッセイか?)の真骨頂。

 身辺雑記からいつの間にか空想の世界に連れていかれ、空想が空想を呼び、空想世界に秩序が生まれる。あんなに狭い入口だったのにこんなに広い世界につながっているなんて。

 岸本さんのエッセイを読むたびに、エッセイってこんなに自由なものだったのかと感心する。



 めずらしく(?)翻訳家ならではの話も。

 May you grow like an Onion with your head in the ground ! (お前が頭を地面にめりこませて、タマネギみたいに逆さに生えますように!)
 調べてみたら、これはイディッシュ語の有名なののしり文句で、一言でいえば「くたばれ」となるところを、わざわざこういう回りくどい、ちょっと笑える言い方をしているところがいかにもユダヤ流だ。
 さらにもっと調べてみると、イディッシュ語はどうやらこの手のののしりフレーズの宝庫であるらしく、
――お前の歯が一本だけ残して全部抜けますように、そしてその一本が虫歯になりますように!
――お前がうんと金持ちになって、お前の寡婦の新しい夫が一日も働かなくて済みますように!
――お前が百軒の家を持ち、その一軒ごとに百の部屋があり、その部屋ごとに二十の寝台があり、お前が高熱に苦しんでその寝台を転々としますように!
――お前が百足になって、全部の足が巻き爪になりますように!
――お前が悠々自適の身分になって毎日昼寝をしているあいだに、お前のシャツのシラミとマットレスのトコジラミが結婚して、子々孫々がお前のパンツの中で繁栄しますように!
などの古典から、新しいところでは
――お前が億万長者になること間違いなしの素晴らしい企画書を書きあげた瞬間にパソコンがクラッシュしますように!
 みたいなのまで、枚挙に暇がない。
 英語にも、たとえば May you step on a Lego bare foot ! (お前が裸足でレゴ踏んづけますように!)のようなのがあるが、じゃあ日本語はどうなんだろう。「タンスの角に小指ぶつけろ」ぐらいか。でも足りない。「死ね」とか「くたばれ」とか「ぶっ殺す」みたいな直截的で殺伐としたのじゃない、皮肉で辛辣なんだけれどどこか可愛くて、それゆえに決定的な殺し合いは回避できる、そんな今の日本に何より必要なはずのののしりフレーズが、圧倒的に足りない。
 私か。私が考えるしかないのか。

 ただの罵り言葉ではなく、一度祝福の言葉をかけてから呪ったりするのがウィットに富んでいておもしろい。

「お前がうんと金持ちになって、お前の寡婦の新しい夫が一日も働かなくて済みますように!」なんて、一瞬悪口を言われたと気づかないもんな。そのときは「ああどうも」なんて言って、後から「よくよく考えたらめちゃくちゃひどい言葉ぶつけられてるじゃねえか」と気づくやつだ。

 日本語の定番の言い回しだと「豆腐の角に頭をぶつけて死んじまえ」が近いかな。でも「死ね」って言っちゃってるしなー。



 わりと共感できる話。

 今年もまた冬が来た。
 冬は嫌いだ。寒いからだ。
 冬は寒いというその事実を、何年たっても受け入れることができない。
 ときおり、冷え込みのきびしい日にやむを得ず外に出なければならないことがある。地面からしんしんと冷気が上がってきて、頭皮、顔、手、外気に触れているすべてが冷たい。そんなとき、体のどこかから声がする。
〈ああ、これではこの冬はとても越せん〉
 私の声ではない。初老の、しわがれた、男の声。私の中に住んでいるホームレスのおじさんの声だ。
 いつごろから住み着いたのかはわからない。もうかれこれ二十年にはなると思う。この人のせいで、私はつねにホームレス目線で世界を見てしまう。
 街を歩いていても、植え込みや、ビルとビルの隙間や、駅構内のちょっと奥まったスペースなどに自然と目が行く。
〈あそこなんか、風が防げて暖かそうだな〉
〈おっ、あの段ボール、いい具合に厚みがあるぞ〉
 寒い外から家の中に入ると、
〈ああ、ありがてえありがてえ、屋根があるってのはいいもんだ〉
 このおじさんは極度の寒がりであるらしく、現れるのはもっぱら冬だ。温かくなるとぱったり声が聞こえなくなり、そうするとちょっと寂しい。

 これはぼくもけっこう考える。街を歩きながら、自分がホームレスだったら、野宿をするなら、どこに寝るだろうかと考える。地下街とかにちょっとした隙間を見つけると「おお、ここなら安心して寝られそうだな。あとはどうやって警備員の巡回をやりすごすかだよな……」とか考えてしまう。

 他にもこんなこと考えてる人いたのかー。もしかしてわりとポピュラーな妄想なのかな。



 アピヨンポンポンについて。

 年とともにだんだんと、「アピヨンポンポン」は私ひとりが知らない、そしてそのためにいろんな場面で人生に不具合を起こさせるものの象徴のようになっていった。親しい友人たちの会合に一人だけ呼ばれなくなったのはアピヨンポンポン。私が気に入った商品が必ず廃番になるのはアピヨンポンポン。いくら考えてもわからない、この英文もアピヨンポンポン。
 自分には永遠に謎の、それゆえに美しいものの代名詞のようにそれを使うことさえある。あの映画はアピヨンポンポンみたいに良かったな、とか、この料理はアピヨンポンポンの味がする、とか。

 アピヨンポンポンが何なのか、それはぜひこの本でお確かめください。


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【読書感想文】山本 健人『すばらしい人体 あなたの体をめぐる知的冒険』 / 血液型は知っていてもしょうがない

すばらしい人体

あなたの体をめぐる知的冒険

山本 健人

内容(e-honより)
外科医が語る驚くべき人体のしくみ。唾液はどこから出ているのか?、目の動きをコントロールする不思議な力、人が死ぬ最大の要因、おならは何でできているか?、「深部感覚」はすごい…ブログ累計1000万PV超、Twitterフォロワー8万人超著者による人体&医学入門。

 医師による医学入門書。

 第1章は人体の雑学、第2章は病気になる理由、第3章は医学の歴史でこのへんはちょっと教科書っぽい。第4章は医療雑学で、第5章は現代医学の紹介。

 冒頭におもしろ雑学を持ってきてツカみ、中盤はちょっと堅めの話で、飽きてきたころに血液型や食中毒など身近な話。 で、最後はまた雑学的な話。構成がうまい。


 語り口も見事で、
「肛門はやってきた物体が固体か液体か気体かを判断して気体のときのみ通すというすごい判断をやっている」
なんてちょっとビロウな話で、とっつきにくさを感じさせない。さすがネットで人気になっている(ぼくは知らなかったけど)人だね。



 食物アレルギーについて。

 なぜ、経口免疫寛容がうまく働かなくなるのだろうか? 何がきっかけで、本来無害な相手を敵と見なすようになるのだろうか?
 その原因として、近年は「経皮感作」という現象が明らかになっている。
 昔から、アトピー性皮膚炎のある子どもは食物アレルギーを起こしやすい、という事実はよく知られていた。以前は、いわゆる「アレルギー体質(素因)」によるものと考えられていた。だが近年は、バリア機能が破綻した皮膚で、経皮感作が起こりやすいことが原因だと考えられるようになった。
 つまり、私たちの免疫は、どうやら「口から入ったもの」には寛容になり、「皮膚のバリアを突破して侵入したもの」は異物と見なすようなのだ。そして食物アレルギーは、周囲の環境にある食べものが、皮膚を通して「異物」という記憶を植えつけてしまうことで起こると考えられている。
 まだ謎の多い食物アレルギーだが、研究が進むにつれ、その一端が徐々に明らかにされつつあるのだ。

 へえ。口からではなく皮膚から身体に入ってきたものに対してアレルギー反応を起こしやすいのか(それが原因のすべてではないらしいが)。

 たしかに「皮膚から異物が入ってくるものは基本的に悪いものなので追い出す」「口から入ってきたものは基本的にはいいものなので許す」ってのは確率的にはいいやりかただよね(たまには有害なものも口から入ってくるけど)。


 職業性アレルギーというのを聞いたことがある。たとえばパン職人が、長年パンを作っているうちに小麦アレルギーになってしまう、といったケースだ。これも経皮感作によるものなのかもしれない。

 逆に、漆塗りの職人は漆をなめることによって漆にかぶれないよう耐性をつけていたのだとか(今はあんまりやらないらしい)。

 


 日本人の大好きな血液型について。

 では、私たちが記載する血液型情報は、一体何に使われるのだろうか?
 もしかすると、怪我などをして輸血が必要になった際に役立つ、と思ったかもしれないが、それは誤りだ。
 輸血前には、必ず血液検査で血液型を確認するからである。病院によって異なるが、一般に血液型の検査結果は数十分で得られる。さらに、患者の血液と血液製剤の一部を混ぜてみて有害な反応が起こらないかを見る「クロスマッチ試験(交差適合試験)」も輸血前に必ず行う。
 これは、もし本人が「私はA型です」と主張しても決して省略しない。同じ病院で以前血液検査を受けたことがある人で、血液型が確実にわかっている場合でも、クロスマッチ試験は必ず行う(術前検査など一部の例外は除く)。

(中略)

 では、血液型がわからない患者に大出血が起き、血液型検査をする余裕もないくらいの緊急事態だったらどうするだろうか?このときばかりは仕方なく本人の自己申告を信じるだろうか?
 もちろん、それもありえない。この場合は、やむを得ずO型の血液製剤を用いる。相手が何型でも重篤な反応が起こらない可能性が高いからだ。たとえ緊急事態であっても、やはり自己申告の血液型情報を利用することはないのである。
 近年は、こうした事情から出生時に血液型検査をしない医療機関も多い。これを読んでいるあなたも自分の子の血液型を知らないかもしれないが、心配ご無用である。

 へえ。自分の血液型を知っていても何の役にも立たないんだ。緊急の場合であっても自己申告に基づいて輸血をすることはないのか。

 そういや最近は病院の問診票とかでも書かないかも。うちの子が生まれたときも病院から血液型を教えてもらえなかったな(だから今も知らない)。


 あと何十年かしたら自分の血液型を知らない日本人が大半になって、血液型占いは完全になくなるかもね(今でもだいぶ廃れているけど)。

 ええこっちゃ。



 医師の技術について。

 かつてはすべて人間が手で縫っていたのだが、近年は多くを器械に任せられるようになった。たとえるなら、裁縫道具を使って手で布を縫うことと、ミシンを使うことの差に相当するだろう。手術用の自動縫合器を使うと、ホチキスの針のような金属製のステープルが細かい間隔で走り、あっという間に縫うことができるのだ。
 もちろん今でも手縫いが必要な場面はある。だが、便利なデバイスの導入によって、時代とともに、より安全かつ均質な治療が提供できるようになってきたのだ。
 医療ドラマなどのエンタメで手術が扱われるときは、たいていカリスマ的な一人の天才にスポットが当たる。確かに、誰も真似できない技術を持つゴッドハンドは、人間ドラマを大いに盛り上げてくれるものだ。
 だが、手術を受ける身になってみれば話は別である。全国どこでも同じ水準の手術が受けられるほうが、よほどありがたいはずだ。「誰にも真似できない技術」よりは、「誰でも真似できる技術」が普及するほうが、多くの人に利益をもたらす。利便性の高いデバイスは、こうした技術の普及に大いに役立っているのである。

 医療器具はどんどん進歩していて、個人の技術による差は昔ほど重要ではなくなっているそうだ。だいたいどの分野でもそうだね。職人を育成するよりも、道具やシステムによって「誰でも一定の水準の成果を出せる」方向に進んでいる。


 そういや『天久鷹央の推理カルテ』という小説がいま人気なんだけど、この小説に出てくる天才医師・天久鷹央は、症状や患者の様子やデータから診断を下すプロで、自分自身では一切治療をおこなわない(不器用なので手術などはできないという設定)。

 時代を映している「天才医師」と言えるかもしれない。

 フィクションにおける天才医師といえばブラック・ジャックだが(無免許なので厳密には医師でないのかもしれないけど)、ブラック・ジャックはどちらかといえば執刀のプロだ。一匹狼なので診断も自分でおこなうが、診断はけっこうまちがえたり迷ったりしている。

 器具や治療環境が充実していない時代ではブラック・ジャックのような手先の器用な人が天才医師とされたけど、現代の総合病院においてはブラック・ジャックよりも適切な診断を下せる天久鷹央のような人のほうが求められるのかもしれない。

 現代建築では、凄腕大工よりも全体を見るのに長けている現場監督のほうが重宝されるように。


 ただし「データから診断を下す」という行為はAIが最も得意とする分野なので、今後は天久鷹央のような「診断のプロ」もあまり必要とされなくなって、結局「親身になって話を聞いてくれる、人あたりの良さ」みたいなものが最も医師に求められる資質になってくるかもしれない(ちなみにブラック・ジャックも天久鷹央も真逆のタイプだ)。


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2026年6月11日木曜日

【芸能鑑賞】『シークレットNGハウス シーズン2』



 シークレットNGハウス
シーズン2

(AmazonPrime)

 大まかなルールは前作と同じ。

 8人のプレイヤーが集められる。「○○してはいけない」「××と言ってはいけない」といったNGルールが課せられるが、プレイヤーはそれが何なのかは知らされない。

 NGが多かったプレイヤーから徐々に脱落していく。NGが発生したときに鳴るブザーを頼りにNGを回避し、同時に他プレイヤーをNG行動へ誘導する。最後まで残ったプレイヤーが見事賞金を獲得する……というルール。


 シーズン1よりルールは洗練されていたものの、パワーダウンした印象。特に終盤がひどかった。

 やっぱりルールの細かいところが甘いのと、MC陣の出番が減ったことが最大の敗因だろうね。


良かった点

 まずシーズン1に続きメンバーのバランスが良かった。妙に察しのいい人、逆にひとりだけNGに気づかない人、天真爛漫な人、テンパってわけのわからないことを口走る人、攻めるのが下手すぎて他のメンバーにヒントを与えてしまう人……。タイプの異なる人たちがバランスよく配置されていて、様々なドラマを生んでいた。賢い人ばかりでは息苦しいし、バカばっかりでもつまらないしね。

 あと「最初のステージでは誰も脱落しない(与えられたNGは第2ステージへとくりこし)」としたのもいい。前回はなにがなんだかわからない状態でほとんど見せ場のないまま脱落しちゃった人がいたからね。


お題が良くない

 シーズン1では、序盤は「とにかくしゃべらない」が最善の策だった。

 なので、だんまり対策だろう、シーズン2では、クイズ番組、ゲームセンター、記者会見といった舞台を用意して、しゃべらざるをえない状況にしていた。

 それは良かったのだが、今作はお題が良くなかった。舞台にあっていない。たとえばゲームセンターでは「店員に文句を言う」がNGだったが、だったらあの店員じゃだめでしょ。ウザキャラだったり横暴だったり抜けてたりして、文句を言いたくなる人じゃないと。そもそも「ツッコミを入れる」ってバラエティでは場を盛り上げる行為だからね。それをNGにしたら、盛り上げてくれる人から先にいなくなっちゃうじゃん。

 案の定、番組を盛り上げることに貢献してくれた人から退場してしまい、後半は楽しい雰囲気が減ってしまった。


 シーズン1ではMCが状況を見てNGを決めていたけど、ぜったいにそっちのほうがいい(NG判定するスタッフは大変だろうけど)。

「カタカナ語禁止」も無茶苦茶だった。擬態語もNGにされてたし。うちの子の小学校の国語の教科書には「音をあらわす言葉(擬音語)は通常カタカナ、様子や心理を表す言葉(擬態語)は通常ひらがなで表記します」って書いてあったよ。

「わくわく」がカタカナ語とされてNGになったのは納得いかない。「湧く」に由来する生粋の日本語でしょ。その一方で「タラバガニ」はセーフってどういうことよ。スタッフ全員「たらばがに」って聞いて「鱈場蟹」を思い浮かべるのかよ。

「外来語(通常漢字表記しないもの)禁止」ぐらいにしとけばよかったのに。


「MCに対する敬語禁止」もひどかったなあ。「よろしくお願いします」がNGにされてたけど、あれはその場にいるすべての人への挨拶だしなあ。

 だいたいふだんから若林さんに敬語を使わない人(春日さん)に有利すぎるし。


 記者会見は、先に質問に答える人が圧倒的に不利になってしまう(後の人はそれを観ながらNGを推測できるので)。

 それ自体がダメなわけではなく、「現在のNG数が少ない人から順に指名する」とすればゲームバランスをとる有効な手段になったのに、「NG数が多い人が狙い撃ちにされる」というやりかたをしていた。逆だろー。


新ルールが機能していない

 シーズン1の感想でぼくは「一切の会話を拒否して、ときどき意味不明な奇声を発する」が最強の戦略になってしまう、と書いた。

 そうした行動への対策だろう、シーズン2ではイエローカードおよびレッドカードという新ルールが追加された(結局イエローカードは一度も発動しなかったが)。消極的な言動に対してはMC判断でペナルティが追加される、というルールだ。

 おお、ちゃんと改善してるじゃないか! とおもったのだが……。

 これがひどかった。

 レッドカードが激甘。レッドカードというからには退場かそれに近い処分を期待したのに、レッドカード=NG1つ加算、ってなんじゃそりゃ。一人がダンマリを決めこんでいる間に他のプレイヤーのNGが5個も6個も加算されてるのに、黙っていることの罰則がNG1個ってそれペナルティになってないじゃん。だったらレッドカードもらったほうがいい。最低でも「その時点でのNG最多数に並ぶ」ぐらいの罰じゃなきゃ意味がない。


ファイナルステージがつまんなかった

 ファイナルステージだけルールが異なり、「3名のプレイヤーはそれぞれ1つずつ(場合によっては2つ)NGを知っている。他のプレイヤーにそのNGを踏ませることができれば+1ポイント。自分自身がNGを踏んだときや、(導かれたのではなく)偶然NGを踏んだときはノーカウント」だった。また、NGは数分ごとに入れ替わる。

 これが良くなかった。

 推理の楽しみがまったくない。どうせ数分でNGが失効するんだから、自分だけが知っているNGがバレてもいいから強引に他のプレイヤーをNGに導けばいい。

 実際、終盤はどのプレイヤーもかなり強引な手段でポイントを稼いでいた。「追いかける」というNGカードを引いた人が、「ちょっとこっちへ」と他プレイヤーを歩かせて1ポイント、とか。それは「追いかける」じゃなくて「ついていく」または「連れだって歩く」だろう。判定がむちゃくちゃ。


「NG行為をしたとしても誘導されて発動したものでなければノーカウント」というルールも悪い方に出ていた。だってそれだと「他人の言動にリアクションをとらずにひたすらしゃべりつづける」をやれば無敵じゃん。他人のNGワードを言ってしまったとしても、自分が勝手に言っただけだからノーカウントなんだし。消極的じゃないからレッドカードも食らわないし。コミュニケーションをとらない人が有利になるルール。

 ラストは推理も心理戦もへったくれもなく「たまたまNGを踏んでしまったプレイヤーが負ける」という運ゲーになってしまった。

 シリーズ通していちばんつまらなかったのが今作のファイナルステージ。MCが仕切っていればもうちょっとマシだったんだろうけど。


総括

 シーズン1に比べればルールの改善の跡は見られた。でも跡が見えただけで改善はしていなかった。

 シーズン1は今作以上にルールに欠陥が多かったけどおもしろかった。それは幸運に助けられた部分もあるし、なにより出演者たちの「よくわからないゲームだからおもしろくなるかどうかは自分たちのがんばり次第。みんなで協力して盛り上げよう」という意思があったようにおもう。

 シーズン2では、明らかに番組の盛り上がりよりも自分の勝利を優先している人がいて、しかもその人が勝ち進んでしまったから後半に行くほどつまらなくなってしまった(その人が悪いのではなくそれを許してしまうルールが悪いんだけど)。

 つまんない人を残したらちゃんとつまんなくなる、ということがわかったことがシーズン2の最大の収穫かもね。次回作では改善してくれー。


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2026年6月9日火曜日

【読書感想文】朝日新聞「志布志事件」取材班『虚罪 ドキュメント志布志事件』 / 鹿児島県警によって捏造された事件

虚罪

ドキュメント志布志事件

朝日新聞「志布志事件」取材班

内容(e-honより)
前代未聞の捜査権力による「でっち上げ事件」はなぜ起こったのか。捜査内部の「情報提供者」の協力を得て、朝日新聞鹿児島総局の報道が捜査当局を追いつめる過程を詳細に報告し、元被告たちの苦悩の日々を追う。裁判員制度が始まろうとする今、まさに必読の書。

 2009年刊行。

 2003年の鹿児島県議会選挙で、自民党所属の現職議員3名の間に割って入るような形で新人が立候補し、見事当選。ところがその陣営が住民に現金や物品などを配ったとして、15名が逮捕・起訴され、厳しい取り調べを受けた。

 ところがこの容疑自体が県警の捏造であり、真っ赤な嘘だった。裁判においては全被告人の無罪が言い渡された。

 ここのところ全国で冤罪事件が相次いでいるが、この志布志事件は、その中でも極めて異常といえる。多くの冤罪事件は、事件そのものは存在し、警察が間違って容疑者を捕まえたケースだ。もちろんそれも許されないことである。だが、今回は、事件そのものを警察がでっち上げ、一三人の無実の人を容疑者に仕立て上げ、起訴したものだ。「冤罪」というより、いわば「警察の犯罪」と言える。
 起訴事実となった買収会合そのものが存在しなかったのである。誤って無実の人を逮捕、起訴したのではない。捜査権力がなかったことをあったとして無実の人の「罪」を問うたのだ。このようなことが、二一世紀になった現代でも実際にあるということに、驚くとともに、恐ろしさを感じずにはいられなかった。

 とんでもない事件だ。

 たとえば「他殺死体が見つかった。捜査を進めた結果、有力な容疑者が浮かびあがったので逮捕して起訴した。だが裁判の結果、無罪になった」というケース。冤罪事件だ。決して許されることではないが、これを100%防ぐことはできないだろう。人間誰しもミスは犯す(100%防ぐためには、ちょっとでも疑いが残る場合はすべて放免するしかない)。

 だが志布志事件は、このような冤罪とはちがう。鹿児島県警による事件の捏造である。本来なら存在しない事件だったのだ。間違えたのではなく、でっちあげられた事件だったのだ。まさに“虚罪”だ。

 警察が事件をでっちあげるのなら、もうなんでもありだ。どんなに品行方正な人だって、警察が気に食わなければ逮捕することができてしまうのだ。

「まちがって真犯人でない人を逮捕した」なら真犯人を見つければ無実が証明されるが、そもそも存在しなかった事件で逮捕された場合、身の潔白を証明するのは至難の業だろう。



 なぜこのような事件が起きたのか。

 警察が調べていないのではっきりした事情は判明していないが(そもそも調べないことがおかしな話なのだが鹿児島県警はそういう組織なのだ)、かぎりなく疑わしいのは、この事件によってくりあげ当選したP県議と県警の関係だ。

 実はP県議とX警部は、県警関係者の間では「親子同然の仲」と呼ばれていた。県警の内部関係者によると、二人の関係の親密度は県警も認知していた。かつて、県議会の正副議長選をめぐる贈収賄容疑でP県議が逮捕されたときには、二課の捜査員だったX警部を、県警は事件の捜査から外したという。ある県議会関係者は言う。「無投票だったらP県議は引退し、息子に地盤を譲るつもりだった。中山の立候補で計算が狂った」。P県議周辺で、中山さんの出馬に対する不満がくすぶり始めたのではとみる。

 県警の警部と県議が親密な仲だった。県議が選挙で落選した。あいつが立候補しなければ当選してたのに。で、その県議と応援者たちを逮捕。誰が見たってそういう構図だろう。だが県警はそれを認めない。とんでもなく異常な組織だ。



 事件自体も異常なのだが、もっと異常なのだが志布志事件が鹿児島県警の捏造だと判明した後の県警や地検の対応。

 久我本部長が会見すべきではないかと問われると、岩井田刑事部長は紅潮した表情で「執務時間なので本部長室で執務をしている」などと答えた。
 捜査を指揮した当時のQ志布志署長の責任については「(責任は)負っているが、二月末で退職したのでもう身分がない」と述べた。
 この日、警察庁は、当時の県警本部長だった稲葉一次・関東管区警察局総務部長に対し、長官が文書で厳重注意した。ただし、国家公務員法上の懲戒処分ではなく、業務上の指導。だが、長官自らが文書で行うのは異例という。漆間巌警察庁長官は同日の記者会見で「全体を見渡して指揮するのが本部長の役割。事件を見極めて引くなら引く、更に詰めが必要なら詰めるよう言える資質がないと失格だ」と語った。
 二〇〇七年六月二九日の久我本部長の定例会見では、志布志事件の処分についてのやりとりがあった。一二人全員が無罪となったこの事件の捜査をめぐる内部調査(後述)で、「(処分済みの「踏み字」事件をのぞけば)現時点で懲戒処分として取り上げるべき事由は把握していない」と述べた。三日前にあった接見交通権をめぐる国家賠償請求訴訟の口頭弁論で、当時の捜査幹部が、事件を指揮したX警部が捜査報告書を改ざんしたことを証言したが、X警部の行為も懲戒事由にあたらないとの見方を示した。清水警務部長は捜査報告書の改ざんについて、「係争中の裁判の具体的な証言内容についてのコメントは控える」とした。
 また、一二人の被告全員の無罪が確定したことを受けての責任の取り方を問われ、本部長ら幹部にボーナスを返上する考えがないことも示した。岩井田刑事部長は「判決は重く受け止めている」と断った上で、「法律違反があったというような判決内容ではない」と説明。ほかの県警での事例を踏まえて判断したとした。
 結局、この事件の処分は、捜査をした当時の本部長の稲葉一次関東管区警察局総務部長が警察庁長官名の文書での厳重注意。捜査の指揮をとったX警部と当時の志布志署生活安全刑事課長の二人が県警による口頭での厳重注意だった。しかし、X警部とともに捜査を指揮したQ志布志署長に対しては、二〇〇七年二月二六日付で退職したことを理由に県警は責任を問わず、退職金は規程通り払われた。しかも、X警部らへの口頭での厳重注意は、「職務上の注意」で、正式な処分ではない。

 当時の署長は注意を受けただけ。退職金を満額受け取って退職している。さらに警部や捜査主任は訓戒。要するに口頭注意で、「気を付けてね」で済まされている。

 担当警部補は3ヶ月の減給を受け、後に特別公務員暴行凌辱罪で執行猶予付きの有罪判決が下っているが、これは「取り調べの手段が適切でなかった」という理由の処分であり、「そもそも事件が捏造だった」ことの責任は誰もとっていないのだ(そしていちばん悪いのは取り調べにあたった警部補ではなくもっと上の人間だろう)。

 なんちゅう組織だ。



 事件の捏造が起きたのはもちろん悪いことだが、それが捏造だと判明した後も保身と組織の擁護に終始し、反省・改善を見せない鹿児島県警。

 反省がないのだからまた同じようなことをくりかえす。

 案の定、その後も鹿児島県警では不祥事が相次いでいる。個々の警察官による不祥事を隠蔽しようとしただけでなく、内部告発した勇気ある警察官を国家公務員法(守秘義務)違反で逮捕するなど、組織的なひどい動きは続いている。

Wikipedia:鹿児島県警内部告発事件

 こちらはまだ公判が始まってもいない。

 はたして骨の髄まで腐敗しきった鹿児島県警や鹿児島地検がまともになる日は来るのか。残念ながらあまり期待できない。


 ところで……。

 志布志事件の無罪判決が出たのが2007年の2ケ月。そのわずか4ヶ月後の6月に、くりあげ当選した県議が真夜中の交通事故で急死したそうだ。

 えっ、なにそれ。めちゃくちゃ怖いんだけど……。消された……?


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2026年6月4日木曜日

【読書感想文】乙一『暗いところで待ち合わせ』 / 視覚にも聴覚にもよらないコミュニケーション

暗いところで待ち合わせ

乙一

内容(e-honより)
視力をなくし、独り静かに暮らすミチル。職場の人間関係に悩むアキヒロ。駅のホームで起きた殺人事件が、寂しい二人を引き合わせた。犯人として追われるアキヒロは、ミチルの家へ逃げ込み、居間の隅にうずくまる。他人の気配に怯えるミチルは、身を守るため、知らない振りをしようと決める。奇妙な同棲生活が始まった―。書き下ろし小説。

 全盲の女がひとりで暮らす家に、殺人犯として追われる男が忍びこむ。見えない女と、見つかりたくない男。女は男の存在に気づくが、気づかぬふりをしたまま静かな同棲生活を続ける……。



(以下、少しネタバレを含みます)


 いくら全盲だからって、同じ家、それも同じ部屋に何日も別人がいて気づかないのは無理があるだろう。

 完全に音を出さないのは不可能だし、温度とかにおいとか空気の流れとかも伝わる。視覚以外の情報に関しては全盲で他の感覚が鋭敏になっている人のほうが気づきやすいかもしれない。

 書いてないけどトイレどうしてたのよ。仮に夜中に行くとしても、トイレを流す音は相当でかいよ。流さなければそれはそれでばれるし。

「使ってない部屋に住みつく」とか「屋根裏に居つく」ならまだしも(昔屋根裏に住んでいた人がいたというニュースを見たことがある)、「住人に気付かれずに同じ部屋に居続ける」は相当無理がある。


 というわけで、前半は「さすがにこれはないわ」と冷めた目で読んでいた。

 でも中盤、男がいることを女が確信するようになってからはわりと入りこめた。

 男の存在に女が気づき、女が気づいたことに男が気づく。それでもふたりは言葉を交わさない。だが無言のまま一緒に食事をとるようになる。

 昨夜の夕食は、向かい側の席でいっしょにシチューを味わっている他人がいるという以外に、何も変わっていない。静かだったし、何かが見えるわけでもない。それでも心の深いところに、不思議な安らぎを感じた。
 お互いの関係が微妙な均衡の上で成り立っているだけで、偶然、いっしょに食事をしているだけだということはわかっていた。
 言葉をかけることはできなかった。声を発しただけで崩れて消えてしまうような、危ういつながりしかないように思えていた。

 聴覚にも視覚にも頼らないコミュニケーション。ただ「ここに存在する」ことによるコミュニケーション。最も根源的で、シンプルだからこそ強力なコミュニケーション。


  いい友だちの条件って「話してて楽しい」とか「趣味が合う」とかいろいろあるけど、親友の条件は「何もしなくてもいい」だとおもうんだよね。

 なんとなく部屋に遊びに来る。だからといって何もしない。それぞれ漫画を読んだりギターを弾いたり、好き勝手なことをしている。でも間が持つ。「なんかあるかな。UNOあるけどやる?」とか気を遣う必要がない。

 何もしない、会話もない、それが苦にならない間柄こそが親友だとぼくはおもう。夫婦もやがてそうなる(そうでなかったらやってられない)。


『暗いところで待ち合わせ』で描かれる関係は、緊張感もあるのだけれど、同時に気の置けない親友同士のような居心地の良さも感じられる関係だった。



 言葉にしにくいけど、なんとなく心地の良さを漂わせている小説だった。

 終盤は種明かしのような展開があって物語としてのおもしろさもあるのだけれど、どっちかっていうとストーリーよりも雰囲気が印象に残る小説だった。


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2026年6月2日火曜日

【読書感想文】アリク・カーシェンバウム『まじめに動物の言語を考えてみた』 / 「遊んでほしいワン」とは言わない

まじめに動物の言語を考えてみた

アリク・カーシェンバウム(著)  的場 知之(訳)

内容(e-honより)
動物にはヒトと同様に言語はあるのだろうか。では、何のために動物はしゃべるのだろうか。ヒトはどうして言語を使うようになったのか。


 ヒト以外の動物は言語(この本での言語とは、ボディランゲージなどは除く音声による言語)を持つのか。あるとしたらどのようなものなのか。言語を持つために必要な条件は何なのか。そもそも言語とは何なのか。

 オオカミ、イルカ、ヨウム(オウム)、ハイラックス、テナガザル、チンパンジーなどの動物の言語コミュニケーションを通して、まじめに動物の言語を考えた本。


 タイトルにあるように、ほんとにまじめ。

 ほとんどの人は「動物にも言語があってほしい」と思っているはず。動物語翻訳機みたいなものが発明されてペットの犬や猫と会話をすることができたらいいな、と。

 しかし著者の立場はあくまで冷静。「動物と会話したい」人たちに冷や水を浴びせるように、動物の言語は人間語に翻訳できるようなものではないと言いつづける。

「動物たちは鳴き声を使ってこんなことを言ってるんですよ!」とした方が話としてはおもしろいが、おもしろさよりも正確さのほうを優先している。少々堅苦しすぎるほどに。



 イルカは「自分自身の名前」を持っていて音声として発する、という話。

 イルカのホイッスルについて、確実にわかっていることが少なくともひとつある。イルカの各個体は、自分自身の名前を表すひとつの特別なホイッスルを発するのだ。
 この事実だけでも圧倒的な衝撃だ。これまでにわかっているかぎり、ヒトとイルカのほかに、自然状態で通常のコミュニケーションの一環として、自分に名前をつける動物はいない。イヌに自分の名前を覚えさせることはできる。他個体の声からその主が誰かを認識できる動物はたくさんいて、かれらは声を個体の「シグネチャー」として利用する。だが、自分自身を表すものとして独自の音の配列をつくりだすというのは、これらとは深層の部分で、本質的に異なる行動だ。しかもこの配列は、他個体にも認知され、使用される。かれらは本当に、自分自身をほかのイルカとは異なる「個」として理解していて、こうした理解をどの個体も等しくもっているのだろうか?どんなに疑り深い人でも、こうした可能性を考えずにはいられないはずだ。
 
 (中略)
 
 なぜ動物のなかで唯一イルカだけが自分に名前をつけるのかを説明するのは難しい。だが、答えは間違いなくかれらの社会構造にあるはずだ。世界にはたくさんの種のイルカがいるが、もっとも研究が進んでいるハンドウイルカとタイセイヨウマダライルカは、いずれも「離合集散型」と呼ばれる社会のなかで生きている。これは、ある個体と顔見知りの個体すべてからなる関係の輪の大きさはある程度固定的だが、関係の輪そのものは流動的である、という意味だ。食料や配偶相手など、そのときどきでどれだけ資源が手に入るかによって、大きな集団は分裂し、融合し、また分裂する。このような場合、ラジャに最後に会ってからずいぶんたつとしても、もし前回彼と協力してうまくことを運べたなら、ラジャのことを覚えておくほうが賢明だ。逆に、心底嫌いな相手のことも忘れないほうがいい。いずれにせよ、誰が誰かを知っていて損はない。

 自分自身の名前を持つということは、自分が他者からどう認知されるかをある程度わかっているということだろう。

「相手はおれのことをわからないかもしれない。でもおれと会ったことのあるやつならこの名前を聞けば思いだすよね!」という認知があるからこそ(もちろん明確に意図しているわけではないだろうが)自分の名前を発するわけだ。

「他のイルカは自分とは異なる認知を持つ個体である」と理解していないと、名前を名乗る必要がないもんね。その理解がなければ、仮に人間の持つような言語があったとしても「腹減った! 疲れた! 休もう!」みたいな感じになるだろう(主語は常に自分なので)。


 自分自身の名前を使うなんてやっぱりイルカって賢いね、とおもうが、話はそう単純ではない。

また、かれらにとってコミュニケーションをとる際に個体のアイデンティティがなぜそこまで重要なのかも、おおむね明らかになっている。広大な海のなかで、イルカは小グループをつくって生活しているが、グループのメンバーは顔見知りの個体リスト全体のごく一部でしかない。今週はこのメンバーで移動したり魚を獲ったりするけれど、来月、あるいは来年になれば、グループ構成はまったく違うだろう。かれらは付き合う相手を常に流動的に変える。したがって、他者の個体情報敵か味方か、家族か赤の他人かを認識することは決定的に重要だ。これはけっして簡単なことではなく、洗練されたコミュニケーションに加えて、たくさんの(おそらくは数十頭以上の)仲間のことを何年も何十年も覚えていられる、高度に発達した脳が必要だ。

 グループの構成員がたびたび変わるからこそ、名前が必要になるのだ。タコも知能が高いとされているが、タコはイルカのようにグループを作らないので名前を持つ必要がない。またオオカミのようにいつも決まったメンバーで群れをつくる動物も「ほら、おれだよ! 以前会った○○だよ!」と名乗る必要がない。

 言語を使うために必要なのは「知能」「発声器官」だけでなく、「そもそも言語を必要とするような生活をしているか」も重要なのだ。



 ヒトと動物が言語によってコミュニケーションをとるというのは夢のような話だが、実際にそれをおこなっている動物がいる。しかも、ヒトによって訓練されたわけでもないのに。

 ここで、ヒトと動物のコミュニケーションにおける例外中の例外を紹介しよう。ノドグロミツオシエはサハラ以南アフリカに広く分布する小さな鳥だ。外見こそ地味だが、この鳥は野生で自由生活を送りながら、ヒトとの驚異の協力関係を築きあげた。家畜化されたわけでも、飼育されたわけでも、訓練されたわけでもないのに、かれらはヒトがもつ、ハチの巣を壊してこじ開けるという便利な能力に気づき、さらにはヒトが蜂蜜を目当てにハチの巣を見つけて壊したがっていることを学習した。だが、僕たちヒトは広大なサバンナでハチの巣を見つけるのがあまり上手くない。一方、毎日木々の間を飛び回っているミツオシエには、おいしい幼虫がひしめく魅惑の食料庫に出くわすチャンスが豊富にある。そんなわけで、ミツオシエは名前のとおり、ヒトを蜂蜜のありかに導く。東アフリカの多くの部族は、ミツオシエとの間で互恵的な協力関係を保ち、導く側と導かれる側で双方が理解できる語彙を形成した。各部族はそれぞれに異なる口笛やその他の音声レパートリーを生み出し、その意味はヒトと鳥の間で共有されている。ミツオシエには、「ついてこい! ハチの巣を見つけたぞ!」を意味する決まった音声があり、現地部族にもまた蜂蜜採集に出かけたいときにミツオシエを呼ぶための、トリルとグラントを組み合わせた特別な音声がある。

 ミツオシエはヒトに蜂の巣のありかを教え、ヒトは蜂の巣を壊すことでミツオシエが蜂の幼虫を食べる機会を与える。見事な共生関係だ。その関係が言語によって支えられているのが興味深い。

 ヒトが利用している動物はいろいろいるけど、いちばん巧みに言語を使ってコミュニケーションをとっているのが、家畜でもペットでも類人猿でもなく野鳥だというのは意外。

 しかも対等な関係なのがすごい。ほとんどの家畜やペットって、人間からしたら「いたら便利だけどいなくてもなんとかなる」だが、動物側からしたら「ヒトに見捨てられたら生きていけない」場合が多い(その最たるものがカイコガ)。でもミツオシエはヒトがいたほうが便利だが、ヒトなしでも生きていける。ミツオシエこそが唯一のヒトの友だちと呼ぶにふさわしい動物かもしれない。



 動物の“言語”を理解する上で重要なのは、動物はヒトとはちがうし、ヒトになりたいわけでもないということを理解することだという。

 コミュニケーションでも同じことだ。動物が僕たちと同じ装備で同じ耳、同じ眼、同じ脳で――コミュニケーションをとっていると想像しつづけているかぎり、かれらの世界に踏み込むことはできず、かれらが言っていることを理解できない。けれども、僕たちの外へ、現代の人間社会の外へ踏み出して、動物たちのように物事を見て、聞いて、考えるのは、じつはそれほど難しくない。(中略)僕たちが苦戦する理由は、何よりもまず、僕たちがかれらの世界に住んでいないからだ。ものの見え方や聞こえ方がかれらと違うというのもあるが、それ以上に、僕たちはかれらのありのままの姿に目を凝らし、耳を傾けようとしていない。かれらと違って、僕たちの心配事は、食料を見つけ、捕食者を避け、配偶相手を惹きつけることではない。動物が探し求めているものに注目しなければ、かれらが何を話しているかは理解できない。動物たちを理解できないもうひとつの理由は、かれらに僕たちのようにふるまうことを期待しているせいだ。僕たちは、動物に人間らしさを求めがちだ。ペッのイヌやネコに語りかけるとき、僕たちはかれらに本気で自分のことをわかってほしいと願っている。かれらはある程度はわかってくれるが、このようなケースは例外だ。数千、数万年にわたる家畜化の過程で、動物とヒトの両方が、コミュニケーションの共通基盤を築くのに尽力してきたおかげなのだ。
 動物のありのままの姿に目を向け、かれらが暮らす世界のなかで、かれらの生活に密着して初めて、僕たちはかれらを理解できる。そうすればきっと、動物たちの現実が目に入り、かれらに言ってほしいことではなく、かれらが本当に言っていることが聞こえてくるはずだ。地球の生命の豊かな多様性を実感できる、じつに有意義なやり方だ。

 ぼくもいくつかの生き物を買ってきたからわかるけど、ついつい動物の中に「人間っぽい感情」を見いだしてしまうんだよね。愛情をもって観察するほど。

 イヌの動作を見て「しょんぼりしている」とか、ネコのしぐさから「放っておいてくれと言いたげだ」とか、ヒトの心理・行動を重ねあわせてしまう。

 だがヒト以外の動物は、「ヒトになれなかった動物」ではない。ヒトとはまったく異なる論理で動いているし、仮に彼らが言語のようなものを持つとしても、ヒトの言語とはまったく異なるものになるはずだ。少なくとも「遊んでほしいワン」とか「退屈だニャー」のような言語は持っていない(持てないのではなく、持つ必要がない)。


『まじめに動物の言語を考えてみた』でくりかえし語られるのは、動物の言語は(それがあるとして)人間の言葉のように単語に分解できるものではないということ。

 どっちかっていうと歌のほうが近いのかもしれない。より身体性を伴うし。


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2026年5月26日火曜日

【読書感想文】下川 裕治 仲村 清司『新書 沖縄読本』 / 諦観からくる明るさ

新書 沖縄読本

下川 裕治(編・著)  仲村 清司(編・著)

内容(Amazonより)
「癒し」イメージが先行するなか、長寿伝説の崩壊、格差の拡大、迷走する基地問題、サンゴを巡る島と本土のねじれなど、島は多くの問題で揺れている。 その一方でなぜ近年沖縄野球は強くなったのか、次々とメジャーの歌手を輩出する沖縄音楽の魅力の源泉とは。 沖縄ブームにも深く関わった著者たちが紡ぐ、沖縄の歴史といまを照らす21の物語。

 かつて沖縄を「心温かい人たちのいる南の楽園」として紹介する雑誌や本の出版に携わり、“沖縄ブーム”に一役買った著者たち。

 だがあたりまえだが実際の沖縄は楽園ではない。良いところと同じぐらい、あるいはそれ以上に、悪い部分もある。

 そんな沖縄の様々な面(主にネガティブな面)について、沖縄事情に明るいライターたちがつづった本。


 正直、いろんな人がいろんなテーマで書いているので散漫な印象だ。「あまり語られない沖縄の抱える問題」について書いてあるのかとおもいきや、沖縄の老舗ホテルがつぶれたとか、沖縄は野球熱が高いとか、琉球人を象った像がタイにあるとか、それがどうしたと言いたくなるような章もある。

「沖縄には鉄器が足りなかったから大規模農業ができず近くの人と助け合わなければならないので沖縄の人たちは温和な人柄になった」なんて話(司馬遼太郎が唱えた説)はおもしろかったが、ちょっと根拠があやふやすぎる。酒の場の話としてはいいんだけど。

 もうちょっとテーマを絞ってくれたほうが読みやすかったな。



 かつて「日本一長寿な都道府県」だった沖縄だが、県民の健康状況はどんどん悪くなっているそうだ。都道府県別肥満率はワースト1位に。

 原因のひとつが食文化のアメリカ化。かつては海藻などを豊富にとっていたことが健康につながっていたが、ファストフードやスパムなどを多く食べるようになり、健康状況は悪化の一途をたどっている。背景にはもちろん米軍基地の存在がある。

 それだけではない、経済的要因も大きい。

 大変ショッキングなことを述べるが、沖縄は男性の自殺率が全国平均をはるかに上回っていて、一九九五年の統計では全国二位。世代も二〇歳代から六〇歳代まで幅広い。厚生労働省の統計(二〇〇〇年度調査)で、男性の平均寿命が全国四位から二六位に転落したととは前述したが、当時、県が試算したところによると、自殺がなくなると平均寿命が〇・七七歳延びるとされた。沖縄は「癒しの島」「楽園の島」などとイメージされているが、実態はまるで違っていたことになる。もはや深刻というレベルを超えて、社会問題として認識すべきところにきているのではないか。
 そのように言い切ってしまうのには理由がある。警察庁が公表した二〇〇九年の沖縄の自殺者は四〇六人に上り、〇六年の四〇〇人を超え、過去最悪となっているからである。しかも、前年比で六九人も増加、その増加幅はなんと全国三位の水準である。その自殺者の多くが鬱病を発症していたわけだが、病気の原因としてあげられているのが失業による生活苦や多重債務なのである。

 沖縄県民は心身ともに不健康になっているわけだ。

 沖縄と本土の経済格差は拡大しているので、今後もこの傾向は続くのだろう。肥満率はともかく、自殺が多いのは「楽園」とは真逆だよなあ。

 このあたりの話は興味深かったので「沖縄のたどってきた歴史と健康度、幸福度」といったテーマで一冊にした本のほうが読みたかったな。



 宮古島の近くにあるため「離島の離島」とも呼ばれる伊良部島の話。

 2015年に宮古島と伊良部島を結ぶ伊良部大橋が完成し、島民はそれまでより便利な生活を送れるようになった。

 伊良部島の青年に橋の建設現場を案内してもらった。彼自身、この工事で仕事を得ていた。これといった産業がない島では、公共工事がもたらす経済効果は計り知れない。橋の建設は、完成後の便利さ以前に、島を潤してくれる有効な手段だった。
 しかし青年の表情は冴えなかった。
「素直には喜べないさー」
 彼が口にするのは、島の現実だった。
「橋ができると伊良部島の土地の値段は確実に上がります。いや、すでに上がってきている。沖縄本島や本土の業者が入ってきているって噂さー。すると、島の物価がじりじり上がってくる。島での商売が難しくなるってことになる。宮古島の大型店に行けば、安いものがいくらもあるからね。これまで伊良部で商店を経営してきた人のなかには、島を出ていく人も出るかもしれない。最終的には、島の人口が減っていく……」
 それは離島に限らない過疎地の現実だった。交通が不便だった村に立派な道路が完成する。道路建設という公共工事で村に金が落ちる。政治家は、さも自分の力で道路をつくったかのような持論を展開する。
「近くの町への通勤も可能になります。町から人が移り住み、村の活性化に結びつくわけです」
 しかしふたを開けてみると、現実という針は逆方向に振れてしまう。過疎の村から、人々は完成した道路を使って出ていってしまうのだ。道路建設はすぐに効力が消えるカンフル剤だったことを教えられるのだ。日本各地で起きた現象は、当然、島にも届いている。その流れに伊良部島も呑み込まれていってしまう不安に、島の若者は苛まれていた。

 ストロー効果ってやつだね。

 高速道路や橋ができて都市に行きやすくなることで地方の生活が便利になるかとおもったら、若者や働き手が都市に出ていってしまい、かえって地方の過疎化が進む現象。隔絶されているからこそ守られる生活もあるんだけど、失うまでなかなか気づけないよね。

 昔より交通網が発達したり情報伝達速度が上がったから「日本中どこに住んでも似たような生活を送れるようになった」はずなのに、現実には昔よりも東京一極集中が進んでいる。

 かんたんに帰ってこられるとおもうと出ていきやすくなってしまうんだね。




 戦前、人口過剰や土地不足を背景に、沖縄からブラジルなどへの移民が相次いだ。その傾向は戦後になっても変わらず、1954年からは南米・ボリビアへ集団移住する人たちがいた。

 たいていの移民がそうであるように、ボリビア開拓団は大きな苦労を強いられたようだ。政府から「海外に行ってがんばって働けばいい暮らしができる」と言われていったのに、裏切られた気になった人も多かったという。

 しかし、本土からの南米移民地に比べると、ボリビアの沖縄村は、そこに流れる空気が違っていたという。ボリビアのサンタクルス周辺には、九州の炭鉱で働いていた人が多く占める移民地もあった。上原はそこにも関わっていたから、雰囲気の違いがよくわかった。「沖縄の移民地には暗さがないんですよ。本土からの移民地と同じように貧しいのにね。沖縄の人は楽天的。現地に溶け込んでいくのも早かったな。それに比べると本土の移民地は重苦しかった。彼らはよく棄民という言葉を口にしました。つまり、われわれは、日本から棄てられたんだ……と。なにかのトラブルが生まれると、すぐに日本政府への要求を口にする。それがかなわないとわかっていても、日本にすがろうとする。でも、沖縄の人たちは違ったね。自立心があるんです」
 実際、沖縄村はその後、ボリビアの農牧大臣から「小麦の里」と激賞されてもいる。
 だが、それを移民の成功譚として書き留める前に筆が止まる。ボリビアに渡った沖縄の人々は、アメリカ占領下の琉球政府に頼ることを、はじめから諦めていたようなところがある。棄島した人たちに、棄民もなにもなかった。その背後には、戦争を通して日本から棄てられたような沖縄の現実が横たわっている。そのなかでは、琉球政府もまた犠牲者だった。それが当時の沖縄の人たちの共通認識だったような気がしないでもない。それを嗤って開墾に励む。沖縄村のエネルギーだった。

 ボリビアに渡った沖縄移民たちは明るかった。だがその明るさは本来の気質によるものだけでなく、「そもそも日本という国に期待をしていなかった」という背景によるものなのかもしれない。

 琉球処分によって琉球が日本のものになり沖縄県ができたのが1879年。1950年代の沖縄の人にとっては「我々は日本人だ」という意識は薄かったのかもしれない。アメリカ占領下だし。


 沖縄移民の明るさは、楽観から来るものではなく、むしろ諦観だったのかもしれない。そしてその感覚は現代では完全になくなったものなんだろうか。


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2026年5月25日月曜日

なんでおれのわかる話をしないんだ

 とあるテレビ番組でおじさんたちが「最近のアイドルの名前がわからない」といった話に興じていた。「若い人の出す話題がわからないことが増えた」と。

 古来よりさんざん語られてきた話なのでぼんやり聞いていたのだが、その中のひとりが口にした言葉にはっとさせられた。

「若い人たちが口にする話題がわからないときに『なんでおれのわかる話をしないんだ』と思う自分がいる」


 ぞっとしてしまった。

 ぼくも四十代なので、とっくに最近のアイドルはわからない(というか昔からあんまりわからない)。会社でも、若い人同士の話を聞いていると「それの何がおもしろいんだ」と思うことが増えた。

 ただそれでいいと思っている。若い人たちの話題に詳しいおじさんなんてかえって気持ちが悪い。自分が若いときのことを思いだすと「若い人の話題にがんばって入ってこようとする中高年」がいちばん不愉快だった。


 中年が若い人の流行についていけないことはかまわない。むしろ健全なことだ。

 ただ「なんでおれのわかる話をしないんだ」と考えだしたら、それはもう100%“老害”というやつだろう。自分が流行についていけないことを棚に上げて、世間を自分にあわせようとしているのだから。

 幸いにしてぼくはまだ「なんでおれのわかる話をしないんだ」と思ったことはない。でもそのうち思うかもしれない。そのときは首を掻っ切ってくれ。


「なんでおれのわかる話をしないんだ」と考える中高年の末路が新語・流行語大賞の審査員(平均年齢50歳以上)だが、ああはなりたくないものだ。


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2026年5月22日金曜日

【読書感想文】ブライアン・クラース『なぜ悪人が上に立つのか 人間社会の不都合な権力構造』 / えらいやつを逮捕する「トリクルダウン」を!

なぜ悪人が上に立つのか

人間社会の不都合な権力構造

ブライアン・クラース(著)  柴田 裕之(訳)

内容(e-honより)
私たちは「背の高い自信過剰な男性」をトップに据えがち?政治家が堕落し、職場にサイコパスがはびこる理由を、進化論や人類学、心理学によって読み解き、権力を腐敗させない方策を示す。

 権力が腐敗するのはみなさんご存知の通り。

 特に政治家はルール違反ばっかりしてるし、おまけに責任はとらない。なんのかんのと理由をつけて意地でも議員の席にしがみつく。「ルール違反をした議員はその軽重に関わらずいったん資格剥奪」という法があればいいのだが(そんな無茶なこと言ってないとおもうが)、その法をつくるのが当の国会議員なのでとても期待できない。

 ということで政治家は悪人だらけである。だいたいいつの時代もどの国でも同じ。ここまでは誰もが知る常識だ。


 この本の議題はここから。

  • もともと悪質な人が権力を掌握するのか? それとも権力が人間性を腐らせるのか?
  • 我々はなぜふさわしくない人に権力を与えてしまうのか
  • どうすれば腐敗しにくい人を権力の座につけることができるのか?

 これを突き止めれば、権力者の腐敗を防ぎやすいシステムをつくれるかもしれない。

 といってもそのシステムを作るのが権力者なのでもう手遅れかもしれないけど。
「世の中を良くするけど自分の立場を危うくするルール」を政治家は導入しないだろうから。



 まず前提として、選挙では優秀な政治家は選ばるわけではない。

 2008年にスイスの研究者たちが、実験を行ってこの仮説を検証した彼らは、5~13歳の地元の子どもを681人集めた。そして、コンピューターのシミュレーションをするように求めた。そのシミュレーションでは、これから航海に旅立つ船について、決定を下さなければならなかった。子どもたちはそれぞれ、画面に表示された2つの顔に基づいて、自分のデジタルの船の船長を選ぶ必要があった。他には何の情報も与えられなかった。こうして、子どもたちがやむをえず選ばなければならない設定になっていた。どんな顔の人が、良い船長に見えるか?想像上の船にとって、誰が有能な指導者になりそうに見えるだろうか?
 子どもたちは知らなかったが、船長候補の2人は、ただランダムに選んだわけではなかった。じつは、フランスの国民議会選挙で争ったばかりの政治家たちだった。顔の組み合わせは、ランダムに子どもたちに割り当てたが、どれも1人は当選者、もう1人は次点の候補となっていた。研究の結果は、驚くべきものだった。全体の71%で子どもたちは選挙に当選した候補者を船長に選んだのだ。同じ実験を大人を相手にやってみると、ほぼそっくりの結果が出たので、研究者たちは再び仰天する羽目になった。

 なんと、子どもが顔だけを見て「良い船長だと思うかどうか」を判断した結果を見るだけで、71%の確率で「国会議員選挙の当選者か落選者か」を当てることができるのだ。そしてそれは大人でも同じだという。

 つまりぼくらは「頼れる顔かどうか」で政治家を選んでいるのだ。うーん、なんてバカなんだ有権者。

 でもまあ有権者がバカなのはしょうがない。問題は顔の力で当選した議員たちが、調子に乗って「自分という存在は多くの人に支持されている」という誤った考えに陥ってしまうことだ。ちがうぜ、おまえは「良い船長っぽい顔」をしているだけで、えらくもなんともないんだぜ。「民意を得た」とか言って野党の意見を抹殺していい理由なんてひとつもない。



 先ほどの「もともと悪質な人が権力を掌握するのか? それとも権力が人間性を腐らせるのか?」という問いだが、著者はその両方が事実であると述べる。


 インドでおこなわれた実験。学生たちに「サイコロを4回振って出た目に応じて報酬がもらえる」と伝え、サイコロの目を自己申告させる(つまりやろうとおもえばかんたんに不正ができる)。

 その結果、多くの学生が不正をはたらいた。興味深い結果が出たのはそこからだ。

実験で不正を働いた学生と、結果を正直に報告した学生とでは、志望するキャリアに違いがあった。大きい目が出たという虚偽の自己申告をしていた学生は、平均的な学生よりも、インドの腐敗した行政職に就くことを志望する割合がはるかに高かったのだ。
 行政職が清廉で透明なデンマークで別の研究者のチームが同様の実験をすると、結果は逆だった。出た目を正直に自己申告した学生のほうが、公務員を志望する割合がはるかに高く、嘘をついたのは、とんでもない大金持ちになれそうな他の職種を志望する学生たちだった。腐敗した制度が腐敗した学生を引き寄せ、公正な制度は公正な学生を引きつけたのだった。ひょっとすると、権力が人を変えるのではなく、これは環境の問題なのかもしれない。善良な制度は、倫理的な人が権力を求めるという好循環を生み出しうるのに対して、劣悪な制度は、平気で嘘をつき、不正を働き、盗みをし、ついには頂点に立つような人間の悪循環を生み出す可能性がある。もしそうであれば、私たちは権力のある人に注目するのではなく、破綻した制度の修復に的を絞るべきだ。

 公務員が不正によって甘い汁を吸うことができる社会ほど、不正をはたらきやすい人間が公務員職に応募する。


 また別の実験。

 カリフォルニア大学バークリー校のダッチャー・ケルトナーが
「自動車が近づいたタイミングで横断歩道に出ることで、どのような車に乗っているドライバーが停車するか」
を調べたところ、高級車ほど歩行者を無視して走り抜ける割合が高かったそうだ。

 権力についてのケルトナーの研究は、明確な作用を浮き彫りにする。権力のある人は、自分を抑制する力を失う傾向にある、というのがそれだ。「権力に酔う」というのは、まさに打ってつけの描写だ。権力があるという感覚を強められた人は、他者にどう思われるかは、あまり気にしなくなる。他者の心をうまく読めなくなる。他者に共感する必要を、それほど感じなくなるからだ。彼らは、規則は自分には当てはまらない、と感じはじめる。ケルトナーは、こう説明した。「より大きな権力を享受する人々は、衝動的に食べたり、性的な関係を持ったり、交通規則を破ったり、嘘をついたり、騙したり、万引きをしたり、子どもからキャンディを取り上げたり、失礼な口や、下品な口や、無作法な口を利いたりする可能性が高い」。


 つまり、悪いやつほど権力に吸い寄せられ、権力が与えられた人間は悪事をはたらきやすくなる。

 これにより負のスパイラルが生じる。悪人ほど権力者を目指し、権力者が悪事をはたらく(そしてそれが見逃されることで)ことでよりいっそう悪人が権力を目指すようになるわけだ。

 なるほど、年々議員の質が悪くなっていってる気がしてたけど、気のせいじゃなくてちゃんと裏付けがあったわけね。



 一応書いておくと、権力者を糾弾するばかりではなく、第7章の『権力が腐敗するように見える理由』では、権力者の肩を持つ論調も見せている。

 つまり、「権力があるせいで結果の重大性が高まり、より悪質になったように見えるだけ」である(一般人が100万人を殺すことはまず不可能だが国家元首ならそれができる)とか、「権力者のほうが詮索、監視の目にさらされやすいので悪事が見つかりやすい」とか。

 たしかに。権力者の悪事は凡人の悪事よりも目立ちやすい。


 だが。

 それを差し引いても、やはり権力を持つと、より利己的になり、他者への共感が薄れ、権力の濫用をしやすくなるそうだ。まちがいなく権力は腐敗するのだ。



 なぜ権力は腐敗するのか。

 その理由のひとつが、選民意識によるものだ。

 最近のある調査が、この取り組み方を支持する具体的な裏づけを提供してくれる。スイスのチューリッヒで864人を対象として行われた実験では、ランダムに獲得した権力と、競争を通して獲得した権力とを比較した。すると、偶然に権力を握った人のほうが、傲慢な行動をしないことがわかった。ランダムに選ばれると謙虚になる一方、競争(たとえば、選挙)に勝つと、そうはならない。これは、たった1つの調査にすぎないが、その結果には勇気づけられる。権力を望まない人こそ、その権力を振るうにあたって最も高潔なのかもしれない。

 先ほどの「高級車に乗っている人ほど交通ルールを守らない」のも同じだろう。

 たぶん「懸賞であたった高級車」よりも「稼いで買った高級車」を運転する人のほうがマナーが悪いのだろう。自分は選ばれた人間だ、という意識が人を不正に走らせる。


 だがこの選民意識はたいていの場合まちがいだ。バカほど勘違いする。

 たとえば有名なミュージシャンが稼いだ金で高級車を買う。彼は「音楽の才能がある人」であって「交通ルールを守らなくていい人」ではない。なのに「俺は時間あたりの稼ぎが人より多いから人よりスピードを出してもいい」と勘違いする。

 議員にいたってはもっとひどい。民主主義国家における議員というのは、PTAの役員やクラスの掃除当番といっしょだ。「その集団を代表して面倒な仕事をやることになった人」である。

 掃除当番が「おれは掃除当番だから人より多く給食のプリンを食べる権利がある」と言ったら嗤われるだけだが、議員にはこういうマインドの人間が多い。選ばれたから不正には目をつぶってもらえる、と。いやいやあんたは掃除当番と同じ立場なんだよ。掃除をしてくれてありがとうとはおもうが、それだけだよ。



 さてここからが重要な話。

「自分は選ばれたのだから人より優遇してもらって当然」と勘違いするバカを一掃するにはどうしたらいいか。

 腐敗した高官たちを標的にしたアナスの調査が重要だったのは、不正を働く大物たちを倒すというのが、いわゆる「トリクルダウン」の原理が実際に効果を上げるように見える、数少ない事例の1つだからだ。私の教え子の1人であるアダム・ソールズベリーは、オックスフォード大学で西アフリカにおける腐敗の研究を行った。すると、ブルキナファソで関税同盟を主導していた悪徳役人が権力の座を追われると、彼がそれまで支配していた人々が、たちまち行いを改めたことがわかった。
 腐敗した上司という手本がなくなると、部下たちは自らを改革した。首を切り落とすとうまくいくようだ(ジェレミー・ベンサムには朗報だろう)。ソールズベリーの発見は、人を精査するときには権力を握っている人にレンズの焦点を合わせるべきだという見方に、さらなる裏づけを与えた。彼らによる権力濫用のほうがはるかに深刻な結果をもたらすので、最上層の人間の行動を改めさせれば、下層ではより多くの人に行動を改めさせることにつながりやすい。一方、その逆は想像しづらい。下層の事務員や秘書が前よりも善良に振る舞ったとしても、腐敗した判事やCEOまでもが突然、非の打ち所のないほど清廉にはならないだろう。

 権力のない人間の不正を厳しく取り締まっても、権力者が改めることはない。

 だが権力者の不正を取り締まれば、下の人も行動を改める。だからえらいやつの身辺をどんどん調査して不正を暴くべきだ。

 これを「トリクルダウン」と表現したのは実にいい。そうなんだよ。「まず上が儲かれば下も儲かる」じゃないんだよ(そんなことは起こらなかったし)。「まず上の不正を糾せば下も襟を正す」なんだよ。

 検察は国会議員をどんどん捕まえろよな!


 今の日本(に限らずほとんどの国)ではこれの逆をやっている。上の不正には目をつぶる。選挙が終わったら毎回選挙違反で捕まる候補者が出てくるが、そのほとんどが落選者だ。

 ちがうんだよ! 国民がほんとに捕まえてほしいのは選挙違反をして当選したやつなんだよ!


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2026年5月20日水曜日

【読書感想文】奥田 英朗『リバー』 / 現実の殺人事件を小説で書いても

リバー

奥田 英朗

内容(e-honより)
群馬県桐生市と栃木県足利市を流れる渡良瀬川の河川敷で相次いで女性の死体が発見!十年前の未解決連続殺人事件と酷似した手口が、街を凍らせていく。かつて容疑者だった男。取り調べをした元刑事。娘を殺され、執念深く犯人捜しを続ける父親。若手新聞記者。一風変わった犯罪心理学者。新たな容疑者たち。十年分の苦悩と悔恨は、真実を暴き出せるのか―。

 渡良瀬川の河川敷で相次いで女性の死体が見つかった。この付近では十年前にも同種の事件があり、真犯人不明となっている。はたして十年前の事件と今回の関連は。

 容疑者として浮かび上がったのは、十年前に逮捕されたが不起訴となった常習犯罪者、解離性同一性障害(多重人格)の青年、死体遺棄現場で目撃情報のあった期間工の男。それぞれが異なるタイプの暴力性を持っている。

 真相解明に向けて、群馬県警、栃木県警、新聞記者、被害者遺族がそれぞれの立場で犯人を追う――。



 群像劇なので登場人物が多く目まぐるしく視点が切り替わるが、あまりごちゃごちゃしないのはさすが奥田英朗。へたな作家がこれを書いたら誰が誰だかわからなくなるだろう。

 事件発生、三人それぞれに怪しい容疑者たち、徐々に示される手掛かり、新たな事件……と、徐々に真相に迫っていくのでどんどん引き込まれる。

 そして終盤でいよいよ真相解明。


 んー。まあ、悪くはない。決して悪くはない。

 でも、ここまでたっぷりページを使って引っ張ってきたのだから、もっともっと驚く展開を見たかったかなあ。高望みしすぎかもしれないけど。

 終盤はずいぶんバタバタっと物語を畳んだ感じがした。


 容疑者は三人に絞られているので真犯人がわかったところで意外性はないし、だったらその分意外な動機があるのかとおもいきや、それもない。というより動機についてはほとんど語られない。犯人の内面については最後まで闇の中だ。

 現実の殺人事件なんてそんなもんといってしまえばそれまでだけど、だったら小説で書く必然性があるのだろうか、という気もする。


 奥田英朗氏は『ナオミとカナコ』『オリンピックの身代金』などで犯罪に手を染める人の抱える闇を見事に描いてきただけに、この作品はちょっと期待に届かなかったな。犯人側の視点で書いてくれたらもっとおもしろかったかも。


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2026年5月13日水曜日

小ネタ50(浦島太郎 / 坂本 / エウレカ)

浦島太郎

 そういや浦島太郎って漁師だよね。絵本のイラストでも、釣り竿と魚籠を持っている姿で描かれる。

 浦島太郎や乙姫様の感覚では、魚を獲って食うのはよくて、亀をいじめるのはダメなのだろうか。

1.  食うのはいいがいじめるのは許さん

2.  亀だけは特別な存在である

3.  乙姫様は浦島太郎が漁師だとは知らなかった。浦島太郎は自分が殺生するのはいいが他人の殺生は許さないヤバいやつだった


坂本

 共同通信のニュース速報。

 どこの坂本かさっぱりわからない。「五郎丸」や「中曽根」のようなめずらしい名前ならほとんどの日本人が同じ人を思い浮かべるだろうが、坂本はかなり割れそうだ。

 ラーメンズのコント『高橋』を思いだした。


エウレカ

 昔のバイト先での出来事。

 更衣室で着替えていたおじさんが、着替えの途中で何か大事な仕事を思いだしたらしく下着姿で出てきた。

 アルキメデスか。


【読書感想文】麻耶 雄嵩『貴族探偵』 / 短篇で探偵の強すぎるキャラは邪魔

貴族探偵

麻耶 雄嵩

内容(e-honより)
信州の山荘で、鍵の掛かった密室状態の部屋から会社社長の遺体が発見された。自殺か、他殺か?捜査に乗り出した警察の前に、突如あらわれた男がいた。その名も「貴族探偵」。警察上部への強力なコネと、執事やメイドら使用人を駆使して、数々の難事件を解決してゆく。斬新かつ精緻なトリックと強烈なキャラクターが融合した、かつてないディテクティブ・ミステリ、ここに誕生!傑作5編を収録。


「貴族探偵」を名乗る男が事件現場に現れ、召使を使って謎を解いていく……というミステリ。

 一風変わった設定だが、完全な出オチ。ただ貴族探偵というキャラクターがあるだけで、ミステリとしては平凡(というより標準以下では)。ミステリ部分が弱いからキャラでごまかしただけに見える。

 こういう個性的な探偵役というとどうしても筒井康隆の『富豪刑事』を思いだしてしまうが(今から50年以上前の作品)、『富豪刑事』のほうは富豪である必然性があった。金に糸目をつけずに謎解きをする、事件による被害額よりも捜査費用のほうがはるかに高いというおもしろさ。

 だが貴族探偵はべつに貴族である必然性がない。貴族の特権として「警察上層部とのコネクションがあるので事件現場に自由に出入りできる」だけで、謎解き自体はいたってふつうだ。というか古い。貴族ならではの捜査方法とか、平民には決してできない推理とかがあるわけではない。

 趣向を凝らしているようでひねりがない。ただ奇をてらっただけ、という感じ。



 本格ミステリにありがちなのだが、とにかくわかりづらい。

 ややこしい館でややこしい死に方をしている、みたいな事件なのでまず全貌がつかみづらい。容疑者が何人か出てくるが、全員貴族探偵にキャラ負けしているので、誰が誰だかわからなくなる(謎解き前に探偵が自己主張しすぎなんだよね。短篇で探偵の強すぎるキャラは邪魔)。

 がんばってややこしい謎を考えたんだね、ということは伝わるが、読者がそのややこしさに付き合ってあげるほどの魅力がある設定じゃない。


 途中で嫌になったのだが、最後に大きな仕掛けがあるかもしれないとおもって(ミステリはたまに最後まで読むとがらっと印象が変わる作品がある)がんばって読んだのだが、とうとう最後までその印象は変わらないかった。というかラストの『春の声』がいちばんとんでもミステリだった。「自分が刺されてることに気づかずそのまま他の人間を殺しにいき、犯行後に絶命する」とかひどすぎるだろ。

 


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2026年5月8日金曜日

待ち合わせのお作法


 中1の娘が、中学校で新しくできた友だち3人と日曜日に電車に乗って映画を観にいくことになった。

 中学生ともなると、人によって最寄り駅が異なる。そこで「9時に〇〇駅で待ち合わせ」という約束をしたそうだ。


 そして日曜日の朝8時40分。

 娘が「ちょっと電話するね」と言ってリビングで電話をはじめた。

 その電話を聞いていて驚いた。

「どうする? どこで待ち合わせる?」
「9時でいい? 9時半にする?」
「(お金をいくらぐらい持っていったらいいかという話で)3,000円ぐらいでいいんじゃない?」
「××ちゃんにも連絡したけどもう電車乗ってるみたいで電話できないって」

 いやいや君たち。9時に待ち合わせっていう話だったんだよね。なんで8時40分にそんな相談してるの。ていうか電話している間に9時になってるし(結局待ち合わせは9時半になった)。

 4人が朝に駅で待ち合わせするんだったら、遅くとも前の日の晩までには待ち合わせ場所と時刻と持ち物は決めておかなきゃだめじゃない。

 しょっちゅう出かけてる友だちならまだしも、はじめて一緒に出掛ける友だちなんだろ。なんで待ち合わせの数十分前に相談してるの。ほら、もう電車に乗ってる子もいるじゃない。


「そういうことはもっと早めに相談しなきゃだめでしょ」
と言って娘を送り出した。

 あれでうまくいくとはおもえないけど、まあ失敗するのも勉強だろう。


 夕方、帰ってきた娘に「みんなと会えた?」と訊くと、
「そりゃ会えたよ」とあっさり返された。

 えー、会えたの? あんないいかげんな待ち合わせで……。

 これがスマホネイティブ世代か。ぼくが学生の頃は、スマホどころか携帯電話もなかったから、待ち合わせに失敗したらもう会えない覚悟で時刻と場所をちゃんと決めてたのに、そんなやりかたしてたらいつか必ず困るぞ……と言いかけて、これ完全に迷惑な年寄りの言動だよなと思いなおして口をつぐんだ。



2026年4月30日木曜日

【読書感想文】高橋 哲哉『沖縄について私たちが知っておきたいこと』 / 沖縄は「戦争特区」

沖縄について私たちが知っておきたいこと

高橋 哲哉

内容(e-honより)
沖縄になぜ基地が集中しているのか?基地問題を理解し、その解消を目指していくためには、沖縄が日本に併合された経緯や、その後何度も本土の犠牲になった歴史を知らなければならない。琉球処分、人類館事件、沖縄戦、アメリカによる統治、基地問題…。本土と沖縄の関係を読み解くための大事な一冊。

 沖縄の近代史と現在抱えている問題(主に基地問題)についての本。

 自分が沖縄の問題についていかに知らないかを思い知らされた。



 琉球王国が「琉球処分」を経て日本になった、という経緯すらぼくは知らなかった。歴史の教科書にも載ってなかったよ。日本の歴史においてかなり重要なトピックスだとおもうのに。沖縄の学生は教えられるのかな。

 吉田松陰が「琉球処分」の構想を示していたそうだ。

 その松陰が獄中で記したという「幽囚録』に、次のような趣旨の記述があります。
「日本はいま武力を整え、軍艦大砲を備えれば、外に向かって大きく飛躍することができる。蝦夷地、琉球、さらに朝鮮、満州、そして支那、ルソンなどを日本の支配下に収めることができる」。
 松陰はここで、日本の周辺地域を軍事力で奪取していく際に、琉球を他の諸藩の藩主と同じように幕府に従わせるのだ、という言い方をしています。のちに明治政府が行なう「琉球処分」は、まるでこの松陰の計画を実行するかのように進められたのです。「琉球処分」とは、一八七二年から七九年にかけて、明治政府が琉球王国を廃して沖縄県を設置した一連の措置をいいます。その際、明治政府は、全国で実施した廃藩置県と同じ形を取るために、まず琉球国王の尚泰を琉球藩主として封じて華族とし、東京に藩邸を与えます。そのうえで、清との朝貢関係を続けようとする琉球側の抵抗を押し切り、尚泰を強制的に東京に連行して沖縄県を設置し、琉球王国を滅亡させたのです。

 琉球王国は独立国家であり、文化圏としては日本より中国に近かったそうだ。だが江戸時代に島津氏に侵攻されて領土(奄美群島)を奪われ、さらに明治政府によって強引に日本に組み込まれた。その際琉球王国は中国(清)に助けを求めたが、日清戦争で清が破れたことにより日本のものになってしまったのだそうだ。

 知らなかった……。沖縄の人からしたら「そんなことも知らないのか」とおもうレベルの話なのかもしれないが。


 こういう経緯を知ると、単純に「沖縄も日本だ!」とはとても言えない。むりやり植民地にしたようなもんだもんな。

 さらに日本政府が沖縄にしてきた仕打ちはそれだけではない。

 太平洋戦争で日本軍が沖縄を“盾”にしたのは周知の事実だし、戦争の最中にも「沖縄を差し出すことで国体の護持(要するに天皇制の維持)を図っていた。戦後は沖縄はアメリカ統治下におかれた。さらに返還後も昭和天皇からアメリカに対して「米軍が沖縄に駐留を続けてくれることが望ましい」なんて秘密の要請があったそうだ(天皇が政治に口出ししている時点で完全に違憲行為だが)。

 ずっと日本政府は沖縄を「いざとなったら切って捨てるトカゲのしっぽ」という扱いをし続けてきたのだ。植民地扱いと変わらない。



 そしてそれは今も変わらない。

 返還後、日本全体の米軍基地面積に占める沖縄県の割合は、減るどころか年々増えている。

 かつては日本全体の米軍基地の11%ほどが沖縄にあったのだが(それでも面積を考えると十分多い)、今では75%を超えているそうだ。沖縄と本土の待遇の差は開くばかりだ(ちなみに「基地のおかげで沖縄経済は潤っている」というよくある言説はこの本の中で明確に否定されている。基地があることで経済効果はマイナスになるそうだ)。

 このように見てくれば、現在の日米安保体制下での在日米軍基地のあり方に根本的な矛盾が横たわっていることに気づくでしょう。日本の人口の九九%(有権者数でもほぼ同じ)を占める本土の人びとの政治的意思で選択され、その八割を超える圧倒的多数で支持され、今後も維持されていくだろう安保体制のもとで、人口・面積ともわずか一%程度の小さな沖縄に、全体の七割を超える米軍基地(米軍専用施設)が置かれているという矛盾です。


 これを見ると「多数決が民主主義とかけ離れたシステム」であることがよくわかる。よく多数決=民主主義だと勘違いしている人がいるけど。

 多数派が「嫌なことは少数派に押しつけてしまえ」とすれば、今のシステムだとかんたんにそれができてしまうんだよね。実際「医療費も介護費も年金も負担は下の世代に押しつけよう」という制度になってるし。

「選挙で多くの議席をとった」ってのは民意でもなんでもないのに、それをもって「民意を得た」と勘違いする(または勘違いしたふりをする)バカが政治家にもたくさんいるんだから、嫌になっちゃうよ。



 巻末に高橋哲哉氏と知念ウシ氏の対談が載っているのだが、知念氏の言葉が強く印象に残った。

 琉球諸島を中心に今ある米軍に加えて、自衛隊の軍事施設が増強されるのは、私たちの地域がまるで「戦争特区」にされているように感じます。「戦争はこちらへどうぞ」と日本政府のほうが、誘致しているような感じ。それが怖いんです。
 現実が怖いから、とにかくこの現実を正面から見ないで、生き延びるために少しごまかしながら、それでも気になってチラチラ見ているみたいな、そんなところもあるんです。ところがネットのニュースでヤマトゥの報道を見ると、まの報道を見ると、まったく危機感がないですね。
 それにコロナ禍がやや落ち着いたといって観光客がまたドッと増えました。南の島のパラダイス沖縄、観光客が夢見るリゾート・アイランドみたいな沖縄のイメージがふりまかれて、軍事基地化の恐怖感とのギャップがすごい。違う国の話みたいだし、私たちとは違う沖縄の現実を生きている観光客がいる。分裂している感じ。自分がバラバラにされるような感じです。

 軍事費を増やしたり米軍基地を増やしたりして沖縄を「戦争特区」にすればするほど、沖縄は危険になる。軍備を増強するほど危険になるのはあたりまえの話だ。戦争になったら軍事拠点がまっさきに狙われるのだから。

 軍備に関する負担だけは沖縄に押しつけておいて、さらにはそれを忘れさせようと「南国リゾート」のイメージだけを喧伝する。

 本土の人が思い描く「本土と沖縄」の関係と、沖縄の人のイメージはどんどん乖離してゆくばかりだ。



 ぼくが沖縄に関する政治ニュースを見ていていちばん気持ち悪いと感じるのは、「外部の人が口を出しすぎる」ことだ。

 もちろん沖縄の人といっても考え方は人によって違うから、政治について意見が割れるのは当然だ。でも、こと沖縄政治に関してはやたらと外部の人間が口を出す。

 あいつは間違っている、あの考えはおかしい、こっちが正しい。そういうのを沖縄の人が言うならわかるが、他県の人間が言うのはおかしくないか?

 だって鹿児島県政とか宮崎県政についてはああだこうだ言わないじゃない。なのに沖縄問題にはやたらと口を出す。まるで「沖縄の人間は沖縄のことをわかっていないからおれたちが正しい方向に導いてやる」と言わんばかりに。そんなわけないのに。

 そうやって県民の意見を封じ込めるほうが政府にとっては都合がいいんだろうけど。


 沖縄県人の本土への不満ってのは生半可なものじゃないだろうなとおもう(人によるだろうけど)。この本の中には独立の話も出てくるけど、今は「そんな話も出てきかねない」ぐらいでも、今の状況が続くようだとほんとに大規模な独立運動が起こってもおかしくないとおもえてくる。


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2026年4月27日月曜日

【読書感想文】宮口 幸治『ケーキの切れない非行少年たち』 / 「ふつうでいてほしい」が子どもを苦しめる

ケーキの切れない非行少年たち

宮口 幸治

内容(e-honより)
児童精神科医である筆者は、多くの非行少年たちと出会う中で、「反省以前の子ども」が沢山いるという事実に気づく。少年院には、認知力が弱く、「ケーキを等分に切る」ことすら出来ない非行少年が大勢いたが、問題の根深さは普通の学校でも同じなのだ。人口の十数%いるとされる「境界知能」の人々に焦点を当て、困っている彼らを学校・社会生活で困らないように導く超実践的なメソッドを公開する。

 新書としては異例の120万部を突破した本。かなり話題になっていたのであちこちで噂を聞いた。いい評判も悪い評判も。

 タイトルが良すぎたんだろうね。すごくキャッチ―だもん。「ケーキの切れない〇〇」といったパロディを言いたくなるぐらい切れ味のいいタイトル。『ルポ 非行少年』だったら1割も売れなかっただろうな。まともに読んでいない人でもこのタイトルだけで何かを言いたくなる。

「境界知能」に関心を抱くきっかけにするにはすごくいい本だとおもう。入門書としては。

 著者の体験談が中心で裏付けとなるデータは多くないので、この本だけを元に何か方針を立てたりするのは危険だとおもうが。



 少年院などで多くの“非行少年(少女も含む)”と出会ってきた児童精神科医の著者は、彼らの多くが生きることに問題を抱えていることに気づく。

 これまで多くの非行少年たちと面接してきました。凶悪犯罪を行った少年に、何故そんなことを行ったのかと尋ねても、難し過ぎてその理由を答えられないという子がかなりいたのです。更生のためには、自分のやった非行としっかりと向き合うこと、被害者のことも考えて内省すること、自己洞察などが必要ですが、そもそもその力がないのです。つまり、「反省以前の問題」なのです。これでは被害者も浮かばれません。
 こういった少年たちの中で、幼い時から病院を受診している子はほとんどいません。彼らの保護者・養育環境はお世辞にもいいとは言えず、そういった保護者が子どもの発達上の問題(絵を写すのが苦手、勉強が苦手、対人関係が苦手など)に気づいて病院に連れていくことはないからです。病院に連れてこられる児童は家庭環境もそこそこ安定しており、その親も「少しでも早く病院に連れて行って子どもを診てもらいたい」といったモチベーションを持っています。
 非行化した少年たちに医療的な見立てがされるのは、非行を犯し、警察に逮捕され、司法の手に委ねられた後なのです。一般の精神科病院に、こういった非行少年たちはまず来ません。

 彼らの多くは単純な作業ができない。「かんたんな図形を描き写せない」「短い文章すら復唱できない」といったレベルだ。

「目で見たものを脳で処理する」「脳で記憶した図形を描く」といったプロセスに問題があるわけだ。これでは「さあ黒板に書かれた漢字をノートに書いてみましょう」と言われてもできるわけがない。


 もちろん知的能力が著しく劣っている場合は知的障害者とされて特別な教育を受けるわけだが、問題は「知的能力」なるものが(たとえばIQのような)単一の尺度でかんたんに測れるようなものではないことだ。

 こうやってこうやったらこうなる、といった論理的思考は、「思索の深さ」とも呼ばれています。何ステップ先まで読めるかを予想する力といってもいいでしょう。知的にハンディのある人はこの思索が浅いと言われていて、先のことを見通す力が弱かったりするのです。
 しかし、ここで大きな誤解があります。もし知的障害を持っていたのなら、それまでに周囲に気付かれて、何らかの支援を受けられていたのではないか、と。
 しかし、軽度の知的障害者は、日常生活をする上では概して一般の人たちと何ら変わった特徴が見られないのです。軽度の知的障害者でも陸上自衛隊に入隊したり、大型一種免許、特殊車両免許を取ったりすることは可能です。特に軽度の知的障害や境界知能の人たちは、周囲にほとんど気づかれることなく生活していて、何か問題が起こったりすると、「どうしてそんなことをするのか理解できない人々」に映ってしまうこともあるのです。

 たとえば、運転免許をとれるぐらいの記憶力はあるけど、お金の計算ができなくてあればあるだけ使ってしまう、といった人もいるわけだ。

 そういえばぼくも中学生のときに学校で全員知力テストみたいなのを受けさせられて、「情報処理能力や論理的思考力は問題ないが他人の感情を推し量るのが苦手」みたいな結果をつきつけられたことがあった。

 もしも学校が国語や算数ではなく他人とのコミュニケーションを教えることを最優先する場であったら、ぼくも知的障害者として扱われていたかもしれない。



 学校教育というのは、みんながある程度の能力を持っているという前提で、一斉に物事を教えるようにできている。それだとどうしても指導からこぼれおちてしまう子が生まれる。

 しかし、ここで考えてみてください。小学校なら国語、算数、理科、社会といった学科教育でびっしりと時間割が埋められ、週にわずか1時間、道徳の時間があるだけです。では、道徳の時間で社会面の支援をしているか? これも否です。また、「トラブルがあった時、その都度指導している」だけでは、社会面の支援は偶然に必要性があって生じた程度に過ぎません。つまり、今の学校教育には系統だった社会面への教育というものが全くないのです。これは大きな問題です。
 社会面の支援とは、対人スキルの方法、感情コントロール、対人マナー、問題解決力といった、社会で生きていく上でどれも欠かせない能力を身につけさせることです。これらのどれ一つでも出来ていなければ、社会ではうまく生活していけないでしょう。
 そういった最も大切な社会面の支援が、学校教育で系統立ててほとんど何もなされていないということが、私にはどうしても理解できません。学校教育で何もなされていないので、少年院に入ってきた少年には、一から社会面について支援していかないといけないのです。
 すぐにカッとなってしまう少年には感情コントロールの方法を、人にものを尋ねたり、挨拶したり、お礼を言ったりしない少年たちには一からその方法を、教えていかなければならないのです。これら社会面は、集団生活を通して自然に身につけられる子どもも多いですが、発達障害や知的障害をもった子どもが自然に身につけるのはなかなか難しく、やはり学校で系統的に学ぶしか方法がないのです。それが学べないと、多くの問題行動につながりやすく、非行化していくリスクも高まるのです。

「現行基準では知的障害とは言えないけど授業についていけない子」は一定数存在する。著者の推定では15%ぐらいはそんな子なのでは、と。

 15%というとぜんぜんめずらしくない。クラスに何人もいることになる。

 でも、そうした子らを切り捨てているのが現状だ。人的・物的・金銭的リソースの都合でそうせざるをえないのもわかるが、年齢別のクラスではなくもうちょっと柔軟にクラス分けをできたらいいんだろうな。この子は二年生の勉強を教える前に「描き写す」「言われたことを覚えてくりかえす」トレーニングをしたほうがいい、とか。

(『ケーキの切れない非行少年たち』では、そうした子どもたちの能力を伸ばすトレーニング方法を紹介している)



 とはいえ、教育現場での平等神話は根深いものがあるので、「子どもの発達状況別クラス」ってのはなかなか受け入れられないだろうな。特に親には。

 たとえば「おたくのお子さんは三年生ですけど、発達状況に遅れが見られるので一年生クラスでじっくり教えていきましょう」と言われて、すんなり受け入れられるとはおもえない。


 以前、あるドキュメンタリーで、障害を持つ子(言葉が話せない、ひとりで立つことができない子)のお母さんが「我が子を特別支援学校には行かせず、地元の公立小学校に進ませる決断をした。障害があるからって差別されないように、普通の子と同じように、普通の教育を受けさせたかったので」と語っていた。

 これこそが差別発言(彼女は特別支援学校に行く子は普通じゃないと見なしている)なのだがそのことにはまったく無自覚で、番組もまるでそれが美談であるかのように扱っていた。

 特別支援校でその道のプロがサポートするのと、三十数人のクラスに入って専門知識のない教師が教えるのとどっちがその子の健全な発達に有効かは明らかだとおもうのだが、その母親は「我が子にあった教育」よりも「“ふつう”の教育」を選択した。

 でもこれはめずらしいことではない。他人事だから「絶対その子にあったサポートをできる学校のほうがいいですよ」とおもうけど、同じ立場にあったらすごく悩むだろう。

 ぼくだってできることなら我が子は特別支援学校に通う子ではなく、みんなと一緒の学校に通う子であってほしいと思う。差別と言われようが。

 でもその「ふつうでいてほしい」という親の思いが、子どもを苦しめるのもまた事実。

 非行少年として少年院に入ることになった子らの中には、特別支援学校や支援学級に通っていたらもっと良い道を進めていた子もたくさんいるはず。

「ふつう」なんてないとわかっているのに、みんな我が子が「ふつう」に育つことを望んでしまうのよねえ。


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【読書感想文】闘争なくして差別はなくせない / 荒井 裕樹『障害者差別を問いなおす』



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2026年4月24日金曜日

【読書感想文】益川 敏英『科学者は戦争で何をしたか』 / 軍事費を上げれば社会不安は増す

科学者は戦争で何をしたか

益川 敏英

内容(e-honより)
ノーベル賞科学者・益川敏英が、自身の戦争体験とその後の反戦活動を振り返りながら、科学者が過去の戦争で果たした役割を詳細に分析する。科学の進歩は何の批判もなく歓迎されてきたが、本来、科学は「中性」であり、使う人間によって平和利用も軍事利用も可能となる。そのことを科学者はもちろん市民も認識しなければならないと説く。解釈改憲で「戦争する国」へと突き進む政治状況に危機感を抱く著者が、科学者ならではの本質を見抜く洞察力と、人類の歴史を踏まえた長期的視野で、世界から戦争をなくすための方策を提言する。

 物理学者である益川敏英氏が、人類の平和のために科学者はどうすべきかを語った本。

 益川氏は1940年生まれなので、終戦時は5歳。アメリカ軍の投下した焼夷弾が家の屋根を突き破ってきたという経験を持つそうだ(不発だったので命拾いしたそう)。

 実体験として戦争を語れる最後の世代だ。


 温度差の違いはあれど、戦争を経験している世代はほぼ例外なく「あんな思いはもうごめんだ」と語るよね。自身が悲惨な目に遭っているし、近い人を亡くしたり、戦争によって傷ついた経験を持つ人の話をくりかえし聞かされたりしているから。

 でも戦後に生まれた人の中には勇ましいことを言う人もいる。我が事として考えられないからこそなんだろうな。本当の貧乏を味わったことのない人が「貧しい暮らしもいいもんだ」と言うようなもので。

 残念ながら、そんな想像力の欠如に起因する“勇ましさ”が「現実的な意見」として幅を利かせるようになってきている。



 科学者と戦争は切っても切れない関係にある。

 戦争の規模拡大、軍拡競争に貢献してきたのはまちがいなく科学者だ。

 科学者自身は「人々の暮らしを良くするため」や「祖国を守るための最後の手段だから」という理由で軍事研究に協力するのかもしれないが、ひとたび成果が上がると科学者の手を離れて為政者の都合の良いように使われるようになってしまう。


「世界がナチスの手に落ちるのを防ぐため」に原爆開発をおこなったレオ・シラード。だが、ドイツは降伏した後もアメリカは原爆を手放そうとはしなかった。

 戦況が連合軍に傾く中、アメリカは最後まで抵抗しようとする日本に原子爆弾投下を決定しました。シラードはもともと戦争廃絶の理想を掲げる平和主義者でしたから、この決定に異を唱え、それに賛同する何人かの物理学者とともに、無警告での日本への原子爆弾投下に反対する請願書を書きました。少なくとも自分が進言し、開発に関わった兵器の使い道に発言する権利は残されていると考えていたからです。けれど、彼らの発言も請願書結局何の効力も持ちませんでした。政府は彼らの進言など聞く耳を持たず、日本に二発の原子爆弾を落としました。
 戦時下における科学者の立場というのは、戦争に協力を惜しまないうちは重用されるものの、その役目が終われば一切の政策決定から遠ざけられ、蚊帳の外に置かれます。国策で動員されるということはそういうことです。「便利なものをつくってくれてありがとう」で終わり。どんな軍事兵器もそれが完成した時点で研究者、開発者の手から離れ、一〇〇パーセント政府のものとなります。そして、それがどんな危険な使い方をされようと、発した当事者は手を出せなくなるのです。

 戦況を考えると、原爆を落とさなくても日本の敗戦は時間の問題だった。当初の目的であった「ナチスを倒すため」「戦争に勝利するため」という大義名分はなくなったが、それでもアメリカは原爆投下を決めた。核兵器の威力を見せつけることで戦後の世界情勢で優位に立ちたい、そんな思惑によるものだろうか。



 フリッツ・ハーバー(ハーバー・ボッシュ法でおなじみの)の話も教訓を与えてくれる。愛国者であったハーバーは第一次世界大戦中、祖国・ドイツのために毒ガス開発をおこなった。

 戦後、ナチスが政権を握ると、ユダヤ人を迫害した。ハーバーはユダヤ人であった。皮肉なことに、ハーバーが開発した毒ガスは同胞を虐殺するために使われたのだ。


 御用学者と呼ばれる人たちがいる。ときには事実や正義をゆがめてでも政府や大企業にとって都合のいい研究結果を出してくれる学者だ。公害が問題になったときに、大企業にとって都合のいいデータを出した研究者がたくさんいた。それなりの待遇を与えてもらえるから、学者にとっても政府や大企業の言いなりになることにはメリットがある。

 だが彼らはいつまでも守ってもらえるのだろうか。都合が悪くなればいつでも切られる、トカゲのしっぽのような存在ではないだろうか。すべての責任を押しつけられてはいさようなら、となる可能性だってある。

 時の権力者を都合よく利用してやる、ぐらいのスタンスならいいが、良心を捨てて強きに与するのは研究者自身にとっても危険だとおもうな。




 軍事費拡大について。
 国際情勢を見てみると、中東やヨーロッパなど、あちこちでテロや紛争が勃発し、いつ自分の国に火の粉が降りかかるか分からない状況です。こういう状況が軍需産業にとっては一番都合がいいのです。各国の危機感さえ煽っておけば、いくらでも武器や防衛のための装備が売れるからです。
「危ないですよ」「あの国が攻めてきますよ」とささやいて、そのためには「これぐらいの装備を持っていないと安心できませんよ」とビジネスに持っていく。
 軍需産業の関係者が日本の危機感を煽るのに一番効果的なのが、東アジア情勢の不安でしょう。北朝鮮の脅威や、尖閣諸島を巡る中国との攻防、南シナ海南沙諸島を巡る各国の領有権問題など、日本政府に危機感を煽る材料はいくらでもあります。彼らはロビー活動で、日本の首脳陣にそうした不安材料を巧妙に吹き込むわけです。そんなビジネスに乗せられて国家予算の中の防衛費がどんどん膨らみつつある、という側面もあるのです。

 まさに今の状況だよね。どんどん不安を煽って軍事費を上げようとする。なぜならそれで儲かる人がいるから。

「そんなこと言って悪い国に攻め込まれたら生命も財産も奪われるんだぞ!」という極論をぶつけられたら真正面から反論するのはむずかしい。都合の悪いときは「仮定の質問にはお答えできません」で逃げる政治家や官僚が、“仮定の話”を根拠に軍事費を上げようとする。

 不安を打ち消すための軍事費増強が悪いのは、天井がないこと。軍事費を増やして軍備を増強すれば周辺諸国との緊張は高まり(こっちが軍事費を増やしたら隣国のほうも「日本に攻め込まれたらどうする!」となるのは目に見えている)、ますます不安は強まる

 ちょっと考えればわかりそうなものだが、不安にさいなまれた人を冷静な意見でたしなめるのはむずかしい。怒りや不安は人間から冷静な思考を奪うからね。

「軍事費は国家予算の1%」とか決めておかないと、天井知らずで上がっていくよ(じっさいここ数年でぐんぐん上がっている)。得をするのは一部の人間だけ。



 原発の話。

 益川氏は、原発の必要性を認めたうえで、こう述べている。

 坂田先生が五〇年前に鋭く指摘したように、「設置者側と審査する側とのけじめが、ともすると不明確」どころか、その両者が結託して馴れ合いの審査で、設置のゴーサインを出してしまうことなどは日常茶飯事だったようです。そうしたでたらめの大きなツが原発事故を引き起こしたのです。
 原子力発電の技術は、現代の科学においてもまだこなれた技術ではないということを、私は以前から申し上げています。だから、この技術は危険でリスクも高いのだということを、言い続けながら使わなければいけなかったのです。リスクがあると表明すると同時に、安全面へのコストも十分にかける必要があった。ところが電力会社側は、つくる時だけお金をばらまいて、安全面にはお金をかけようとしませんでした。事故は起こるべくして起こったと私は見ています。

 ぼくもこの立場に近い。

 原発はすべて悪! みたいに語る人もいるけど、それは言いすぎだ。メリットも多い。

 が、同時にデメリットも大きい。問題は、デメリットを隠して原発稼働を推し進めてきたことだ。

「原発にはこういうリスクがあります。事故も一定確率で起こります。事故が起きたらこんなことになります。事故が起きたらこんな対処・保障をします」と説明した上で稼働してきたのならよかったのだが、現実には「原発は絶対安全! 絶対安全だから事故が起きたときのことなんて考えなくていい!」というちょっと知識のある人なら誰でも嘘だとわかる“神話”を元に設置・稼働を進めてきた。その結果が福島第一原発の事故であり、そして事故が起きた後も「安全です」という嘘のスタンスはくずさずに再稼働を進めようとしている。

 そりゃあかんたんに再稼働に賛同はできない。リスクもデメリットも正直に開陳することが安全性を高めることになるのにな。最初から嘘でスタートしちゃったから今さら「あれは嘘でした。ほんとはリスクあります」と言えなくなっちゃったんだろうな。

 過ちを認めるって政府がいちばん苦手なことだもんな。



 2015年刊行の本だけど、大国が戦争を引き起こし、様々な科学技術が人の命を奪っている今だからこそ改めて言葉が響いてくる本。

 反戦色が強くて青くさく感じられるところもあるけど、こういうことを言う人が減ってきたからねえ。前の戦争が遠ざかったからか、次の戦争が近づいているからか。


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【読書感想文】原発事故が起こるのは必然 / 堀江 邦夫『原発労働記』

【読書感想文】原発の善悪を議論しても意味がない / 『原発 決めるのは誰か』



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2026年4月22日水曜日

何歳の壁?

 「〇〇の壁」で調べてみた。


3歳の壁

4歳の壁

6歳の壁

小1の壁


小2の壁

小3の壁

小4の壁

小5の壁

12歳の壁

中1の壁

中2の壁

 これだけ壁が続いてたら逆に平坦じゃないか?

 これもう「5歳の谷」といったほうがいいだろ。



2026年4月20日月曜日

【読書感想文】山里 亮太『天才はあきらめた』 / 努力の天才

天才はあきらめた

山里 亮太

内容(e-honより)
「自分は天才にはなれない」。そう悟った日から、地獄のような努力がはじまった。 嫉妬の化け物・南海キャンディーズ山里は、どんなに悔しいことがあっても、それをガソリンにして今日も爆走する。 コンビ不仲という暗黒時代を乗り越え再挑戦したM-1グランプリ。そして単独ライブ。 その舞台でようやく見つけた景色とは――。 2006年に発売された『天才になりたい』を本人が全ページにわたり徹底的に大改稿、新しいエピソードを加筆して、まさかの文庫化! 格好悪いこと、情けないことも全て書いた、芸人の魂の記録。

 漫才コンビ・南海キャンディーズの山里亮太さんによる自叙伝的エッセイ。

 文章はちょっと読みにくいが(半端に技巧を凝らしてるせいで文章が上滑りしている。こういう自叙伝みたいなのは飾らない文章でいいんだけどな)、内容はおもしろかった。

 己の醜い部分、思い悩んだこと、芸人としてかっこよくない面もつまびらかにしている。後からふりかえって書いているので当時の本心とはちがう部分もあるかもしれないけど。



 山里さんはかなり早い段階で「自分は天才じゃない」と悟ったらしい。

 ここでの天才とは、「打算や戦略などとは無縁で、自分がやりたいことをやっているだけで周囲から高く評価されるような芸人」だ(はたしてそんな人がほんとにいるのかわからないが)。

 ここが、天才の方々と凡才の僕の大きな違い。天才は、計算などせずに自然とやったこと・言ったことを、周りが勝手に「特別だ」とか「変わっている」と思う。そういうものだ。
 それに対して僕は、周りに「特別だ」と意識させるように仕向けて、自分をそこに追い込んでいく。
 芸人は数々のエピソードを持っている、それは普通だったら出会えないようなことしないようなことばかり。その中にも天才と凡人の違いがある。だけどそれはエピソードのすごさ……ではなく、意識の有無だと僕は思っている。
 僕は奇抜なことをしようと思ってする。一方、天才は、したことが奇抜ととらえられる。ここは埋められない大きな差である。しかしこの二つとも、見ている人には同じ「奇抜なことをしている人」になる。
 そこで僕の中で重要になってくることが一つあった。それは、「凡人が奇抜なことをしようとしている」と見せないように努力をすることだった。
 こういうことは言うと恥ずかしいことかもしれない。でも努力することによって得るものは相当大きい。得るものとは「おもしろい」「何者かである」と思われるということ。
 僕は見せない努力をすることと同時に、偽りの天才としての士気の上げ方を覚えた。例えば頑張って何か奇抜なことをしたときに、自分があたかもそれを無意識にやったかのように自分で自分を褒めるのだ。「いやぁ、よくこんなことやったね! 普通はこんなことやらないよ! すごいね俺」といった感じで、自分が特殊だと思い込ませた。
 人からその奇抜さを言われたときは「え?」みたいな顔をして、僕は当然だと思うけどみんなは違うの? って感じを出した。本当は全然当然だと思っていないし、頑張っただけなのに。

 この気持ち、痛いほどよくわかる。ぼくも学生の頃はなんとかして「特殊な自分」を演出しようとしていた。あえて人がやらないことをする。「やっぱおまえ変わってるな」と言われるたびに(それって褒められているわけじゃなくて呆れられたりばかにされたりしていたんだろうけど)気を良くし、ますます「変わり者」であろうとする。

 そうやって「人とはちがう特別な自分」を築こうと必死になっていた。

 ぼくはなんだかんだで三十歳ぐらいまで「自分が天才である可能性」を捨てきれなかったけど、山里さんはもっと早めに自分が天才でないことに気づき、天才でないからこその戦い方に舵を切った。そのおかげで芸人として成功することができた。



 成功する芸人はほとんどみんなそれぞれ才能を持っている人だけど、見ていると
「芸人という職業があってよかったな。他の道に進んでいたらどうしようもない人生を送っていたかもしれないな」
とおもわせる人と、
「この人はどの道に進んでもある程度成功していただろうな」
とおもわせる人がいる。

 山里さんは後者だ。もちろん芸人としても大成功している人だけど、ひょっとしたら別の道ならさらに大きな成功を手に入れていたかもしれない。なぜなら、表舞台に立つ芸人でありながら、しっかりと裏方の視点を持っているから。


 ドキュメンタリー風のテレビ番組のオーディションを受けることになったときの話。

 僕は決めた。「ぶつかろう」と。富男君を呼び出し、こう伝えた。
「富男君はお笑いをなめている人になって」
 対する僕は「お客さんあってのお笑い芸人」という、完全に良い人の役割をとると宣言した。
 そしてオーディション用のコメントの返答例を書いたものを渡した。その紙の内容は、
(あなたにとってお笑いとは?的な質問に対して)簡単です。喋ってるだけで金がもらえる
(相方について聞かれたら?)まじめすぎる。お笑いなんて一生懸命やったら笑えない
※ 全体的に巻き舌な感じ
というよくわからない注釈もついていた。
 これを使って練習をし、オーディション対策用の台本も書いた。

「どう振る舞ったら制作者は使いたくなるか」を分析して、適切な対策を立て、制作者が求めている通りに振る舞う。

 なるほど、これは制作者としては使いたくなるだろう。やらせを命じなくても、忖度して勝手に要望に応えてくれるのだから。これならやらせじゃない。でもやらせと同じ結果が得られる。


 よく政治家が汚職なんかをしたときに「秘書が勝手にやった」と弁明するけど、あれは言い訳じゃなくてほんとに秘書が勝手にやっていることもあるという。

 ほんとに優秀な秘書というのは「お金を出してくれる人がいるんですけどもらっておきましょうか」なんて確認したりしない。確認した上でお金を受け取ったら政治家も共犯になってしまうから。だから有能な秘書は許可をとらずに勝手に動く。政治家のほうもほんとはわかっているけど、これなら「知らなかった。秘書が勝手にやった」という言い訳がぎりぎり成立する。かぎりなくクロに近くても検察は起訴できない。

 山里さんは政治家秘書になっていたとしても優秀だっただろうね。



 この本を読んでいておもうのは、山里さんはつくづく策略家だということだ。視野が広く、先を読む力があり、リサーチ力も高く、行動力もすごい。会社員や経営者としても成功していた可能性が高い。

「お客さんの反応を見ながら1本の漫才を何百回もマイナーチェンジさせてブラッシュアップしていった」なんて話が出てくるが、まあこれをやっている漫才師は他にもいるだろう。

 山里さんがすごいのは、それが舞台の上だけにとどまらないこと。


 たとえば、しずちゃんを相方にしようと考えたときのこと。周囲から情報を集めてしずちゃんの好きなものを徹底的に調べあげ、それについて学習し、さも自分も前から好きだったかのように話すことで「ほら俺たちってこんなに価値観が合うんだよね」と思わせようとした、なんて話が出てくる。

 すごい。一歩まちがえばストーカーだ。でもここまでやるからこそ成功するのだろう。漫才師としてネタがおもしろいのはあたりまえ、それにプラスして舞台を降りてからも売れるための最短距離を見据えている。

 はじめてM-1グランプリに出たときの回想。

 正直に言うと、僕らはもともと優勝なんて大それたことは考えていなかった。見てる人の記憶に残したいというのが一番の目標だった。
 見てる人とは、もちろん視聴者の方や審査員の方々というのもあるが、正直それと同くらい見て欲しかったのは、テレビを作っている人たちだった。南海キャンディーズという名前をテレビの企画会議で出したくなるようなネタを、という思い、それが2本目のネタを決めた。
 2本目のネタは、しずちゃんがMCの女性タレントに喧嘩を売るというネタだった。賞がかかった大会でこういうネタは嫌われるのはわかっていた。でもあの時点で一番自分たちをわかってもらえ、そして優勝より売れることに直結するのはあのネタだと僕は考えていた。

 M-1グランプリといえば、若手漫才師にとっては最高峰の大会。ほとんどの芸人がそこで優勝することを目標に戦っている中、山里さんはその先を見ている。

 たしかにあの大会(2004年)はアンタッチャブルが圧倒的な力で優勝をしたので、南海キャンディーズが他のネタをやっていたとしても優勝できなかっただろう。だったら1本目よりスケールダウンしたネタを披露するより、審査員からは評価されなくてもテレビマンが「バラエティで使いやすそうだ」と感じるネタを披露したほうがいい。理論的にはたしかにその通りなんだけど、現場にいるとなかなかそう思えないよなあ。

 甲子園で、チームの勝利よりもスカウトの目に留まることを優先してプレーするようなもの。良くも悪くもプロフェッショナルな思考をしている。



 読んでいておもうのは、山里さんは努力の天才だということ。

 目標に向かって戦略を立て、試行錯誤しながら努力の方法を修正し、負の感情を自らを奮い立たせるエネルギーに変換し、褒め言葉はそのまま栄養に変え、自らをおだて、自分を戒め、あの手この手で努力を継続する。自分にも厳しいし、他人にも厳しい。

 これを天才と呼ばずしてなんと呼ぼうか。


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【読書感想エッセイ】 ユウキロック 『芸人迷子』



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2026年4月15日水曜日

【読書感想文】松原 始『もしも世界からカラスが消えたら』 / じゃあ申し訳ないけど絶滅で

もしも世界からカラスが消えたら

松原 始

内容(e-honより)
不本意ながら、嫌われ者のカラスをこの世から消してみました。カラスがいないと人間社会や生態系はどうなる?カラス学者が占うSFな未来。カラスを愛しすぎている鳥類学者がカラス寄りの目線で挑んだ新境地…はたして結末は!?

 カラスの研究者である著者が、「もしカラスがいなかったらどんな世界になってるか?」について書いた本。カラスが果たしていた役割(ゴミ掃除、果実の種子散布など)はどの鳥が埋めるのか、カラスの代わりに我々の身近にいるであろう鳥は何か、などについて考察している。

 正直言って、あまりおもしろくない。同著者の『カラスの教科書』『カラスはずる賢い、ハトは頭が悪い、サメは狂暴、イルカは温厚って本当か?』がおもしろかっただけに期待しすぎていたのかもしれないが。

 カラス好き、鳥好きからしたら「カラスの代わりにハゲワシの仲間が活躍する」とか「カラスが担っていた役割をオウムやインコの種類が担うかもしれない」って大問題なのかもしれないが、そこまでカラスに思い入れのない者からすると「ふーん」としかおもわないんだよね。

 そもそも生活していてカラスを意識することがほとんどないので(自治会のごみ当番になったら意識するかも)、もしある日突然カラスが消滅したとしてもしばらく気づかないんじゃないだろうか。

 以前ミノムシが絶滅寸前だと聞いたときに「ふーん、そっか。そういや最近見てなかったな。でも大人になったらどっちみち虫をじっくり見る機会なんてほとんどないしな」としかおもわなかった。

 カラスもぼくにとってはその程度の存在だ。そりゃあカラスがいないよりはいたほうがいいけど「カラスが絶滅しそうですがあなたが一万円出してくれたら絶滅を防げます」と言われてもちょっと迷ったあげく「じゃあ申し訳ないけど……絶滅で……」と言ってしまいそうだ。



 そもそも「もしも世界からカラスが消えたら」というテーマ選びが失敗している気がする。

 著者が『カラスの教科書』でこう書いていた。

  カラスの特徴は、特殊化していないことだと思う。絵に描いてみるとわかるが、カラス類のシルエットは、くちばしがやや大きいことを除けば非常に基本的なトリの形をしていて、明快な特徴がない。だから、ものすごく得意という分野はないのだろうが、逆に言えば、何でも一応はできる。シギのような長いくちばしも、猛禽のような鋭い爪も、アホウドリのような長い翼も持ってはいないが、それでもカラスはちゃんと餌を食っているわけだ。包丁で言えば「これ一本でだいたい間に合う」という万能包丁で、刺身や菜切りに特化したつくりではない。
 何でも一応はできるということは、潰しが効くということである。これはどんな場所でも、何を餌とする場合でも、ソコソコの成功を収めることができそうな戦略である。

 カラスは「真っ黒」という強烈な特徴を持っているから印象に残るだけで、色以外は無個性、凡庸な鳥なのだ。なんでも器用にこなせる代わりに「これだけは他の誰にも負けない」という武器は持っていない。

 だから「もしも世界からカラスが消えた」としても、他の鳥がその隙間を埋めるだけで、大きな影響はないんだよね。

 この本ではネタに困ったのか、小説とか漫画とかに出てくるカラスがどうなるとか、名前に「鴉(からす)」が入っているキャラがどうなるとか、かなりどうでもいい記述にページを割いている。このあたりは文章がおもしろいわけでもなく、完全に蛇足だったなあ……。



 カラスは世界中の広範囲にわたって生息しているが、南米にはカラス族がいないそうだ。

 興味深いのは、南米でカラスのニッチを占めているのがコンドル類だということだ。かつ、コンドルは南米、中米・北米南部までしか分布しない。コンドルの化石は更新世(約260万年から1万年前)の南北アメリカから発見されており、どうやら他の地域にいたことはないようだ。となると、地球の各地に分布を拡大していったカラス属が南米に入ろうとしたとき、そこにはすでにスカベンジャーとして確立されたコンドルがおり、そのニッチを商売でいうならばシェアを奪うことができなかった、と考えられないか。実際、カラス科の中でもスカベンジャーに特化していない、森林性の中型鳥類であるサンジャク類は南米にも分布するのだ。彼らは果実や小動物が主食である。
 もっとも、北米にはコンドルとカラスが同居しているので、この仮説には弱点もあることは認める。

「南米にはカラスより前にコンドルがいたからカラスが定着できなかった」という仮説だ。

 大企業が海外に進出したものの、その国にはすでに競合する企業があったため(そして元々の企業のほうが競争に優位なため)事業不振により撤退を強いられるようなものだね。カラスとコンドルって見た目はだいぶちがうけど(でもコンドルも黒っぽい)、実は近い業種なのかもね。



 鳥とは関係ないけど、おもしろかった話。

 また、とある人がツイッターに投稿したダニの写真に専門家が反応し、連絡を取って場所を聞いて確かめにいったら新種だった、という例もある。チョウシハマベダニという和名になったこのダニ、学名は Ameronothrus twitter である。さらにこれが話題になると、「噂のダニってこれ?」というツイートが出た。ところがくだんの専門家が見ると、どうも別種、しかも新種くさい。ということで調べたらやはり新種で、こちらはイワドハマベダニ、学名は Ameronothrus retweetとなった。ツイッターとRTである。

 twitterはイーロン・マスク氏に買収されてXになりtwitterの名前は消滅したが、意外にも学名に「twitter」「retweet」という名が残っていたとは。


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【読書感想文】カラスはジェネラリスト / 松原 始『カラスの教科書』

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2026年4月13日月曜日

小ネタ49 (なぞなぞ / 笛 / 三大有名落語)


なぞなぞ

 飛行機に乗っている人のなかで、いちばんおしゃれに気を遣っている人は誰でしょう?

(答えはこの記事の最後)


 笛の定義とはなんだろう。「息を吹くことで音が鳴るもの」といったところだろうか。単純なものでいえばホイッスルや指笛、指を使って音階を変えられるリコーダー、フルート、オカリナ、ハーモニカ(ハーモニカは指を使わなくても音階を変えられるけど)などももちろん笛だ。ここまで異論はあるまい。

 サックスはどうだろう。でかいけど、あれも笛と呼んでいいんだろうか。笛と呼んでいる人を見たことはないが。

 調べたところ、トランペットやトロンボーンは唇を震わすことで音を鳴らすので金管楽器、サックスは息を吹きつけることで音を鳴らすので笛の一種、フルートは金属でできていても金管楽器ではない、という解説が見つかった。

 ……ぜんぜんわかんない。金管楽器を演奏したことがないのでちっともわからない。トランペットも吹くんじゃないの? 唇を震わせてフルートを奏でたらその瞬間に笛から金管楽器に変わるのだろうか?

 鍵盤ハーモニカはどうだろう。あれも人が吹くことで音が鳴るが、笛と言っていいのだうか。アコーディオンはどうだろう。風の力で音を奏でているから笛だろうか。


三大有名落語

 三大・落語好き以外にも知られている有名な落語といったら『寿限無』『饅頭こわい』『時そば(上方落語では時うどん)』だろう。

 筋がわかりやすいしインパクトがある。日常会話で「寿限無か!」「饅頭こわいみたいなことね」と言ってもほとんどの人に伝わるだろう。

 他の古典芸能では「タイトルは広く知られている」はあっても「興味のない人にもストーリーまで知られている」まではあまりないんじゃないかな。ぼくは『義経千本桜』とか『白鳥の湖』とか『オペラ座の怪人』とか『キャッツ』とかはタイトルは知っていてもストーリーはぜんぜん知らない。




なぞなぞの答え:副操縦士(服装重視)


2026年4月8日水曜日

【読書感想文】ニコリ『パズル×謎 謎解きクラブからの挑戦状』/ 老舗パズル誌ならではの高品質謎解き

パズル×謎

謎解きクラブからの挑戦状

ニコリ

内容(Amazonより)
パズルの老舗ニコリが贈る、「ひらめき」と「論理」の謎解き問題集です。さくっと楽しめる問題から頭を悩ませる難問まで40問以上を掲載。段階的なヒント付きで、謎解きが初めての方も安心です。さらに隙間時間に解けるミニパズルや、一筋縄ではいかない仕掛けが隠された本格的な最終問題など、「解く快感」が詰まっていますよ。一人で集中して挑むのはもちろん、家族や友人と一緒に考えるのにもぴったり。遊び心満載の「挑戦状」をぜひお楽しみください。

 謎解き問題集。信頼と実績のニコリ社の刊行だけあって、質が高い。

 メインの問題に加え、欄外にミニパズル。章末にはそれまでの謎解きの答えを使ったもう一段階上の謎解き。さらにラストは集大成のような問題が用意され、それを解いた後にもQRコードを読むとWeb上で謎解きが……とボリュームたっぷり。

 難易度もちょうどよく、あっさり解ける問題は最初の数問だけで、ちょっと考えて解けるもの、ヒント1を見て解けるもの、ヒント2を解けるもの……など(ヒントは各問題3つまである)、「とうとう最後まで解けなかった」という問題がひとつもなかった。


 謎解きが好きなのでいろんな問題を解いてきたけど、けっこうひどい問題も多い。「またこのパターンか。ある程度やってきた人なら一瞬で解けるやつじゃん」という問題だったり、逆に「こんなの謎を解くというより作者の頭の中を読めっていう無茶クイズじゃん」という問題だったり。


 ニコリは数十年もパズルを作ってきた会社だけあって、難易度の塩梅が絶妙。特別な知識がなくても解けて、知識があってもひらめきがないと解けない。小学生でもけっこう解けるんじゃないかな。


 謎解き入門者にもベテランにもおすすめの一冊。

 公式サイトにおためし問題もあるよ(おためし問題はこの本の中では易しめ)。


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