2025年1月29日水曜日

【読書感想文】高橋 ユキ『つけびの村 噂が5人を殺したのか?』 / 煙喜ぶ田舎者が書いた本

つけびの村

噂が5人を殺したのか?

高橋 ユキ

内容(e-honより)
2013年の夏、わずか12人が暮らす山口県の集落で、一夜にして5人の村人が殺害された。犯人の家に貼られた川柳は“戦慄の犯行予告”として世間を騒がせたが…それらはすべて“うわさ話”に過ぎなかった。気鋭のノンフィクションライターが、ネットとマスコミによって拡散された“うわさ話”を一歩ずつ、ひとつずつ地道に足でつぶし、閉ざされた村をゆく。“山口連続殺人放火事件”の真相解明に挑んだ新世代“調査ノンフィクション”に、震えが止まらない!


 2013年に起きた、山口連続殺人放火事件という殺人事件がある。

 住民わずか14人という限界集落で、村人5人が殺害され、さらに被害者宅に連続して火を放たれたという事件だ。

 連続殺人であることも注目を集めたが、この事件がさらに大きく扱われるようになったのは、一句の川柳だ。

 被害者宅の隣家の男が姿を消し、男の家には外から見えるように「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」という川柳が貼ってあったのだ。

 男は逮捕されたが「周囲の人間から嫌がらせをされていた」「悪いうわさを立てられた」などと供述したことから、「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」とは、気に入らない住民の悪い噂を広めて村八分をする陰湿な村人たちを皮肉りつつ犯行予告をした川柳なのではないかという憶測が飛び交うようになった……という事件だ。


 ぼくもこの事件のことはおぼえている。というより、事件の詳細はほとんどおぼえていなくて、「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」の川柳だけが強く印象に残っている。詩の力ってすごい。

 多くの人が「村八分に遭っていた男が、復讐のために村人たちを殺した事件」だと認識していたことだろう。ぼくもそのひとりだ。はっきりと「田舎者の陰湿さが引き起こした事件だ。これだから田舎者は」なんてことをネット上に書く人もいた。



 だが。

『つけびの村』を読むかぎり、どうもそんな単純に「村八分に遭っていた男が、復讐のために村人たちを殺した事件」と言える話ではないようだ。


 以前にも村で放火騒ぎがあった、過去に容疑者が怪我を負わされる刃傷沙汰があった、被害者たちは容疑者宅の前で集まって噂話をしていた……。

 話を聞くといろんな話が出てくる。

 しかし、読めば読むほど話がこんがらがってくる。なにしろ、14人しか住民のいなかった村で、5人が殺され、1人が逮捕されているのだ。生き残ったのは8人だけ。元々高齢者ばかりの村だったので、事件後に亡くなった人もいる。全員が関係者。当然、事件について語りたがらない人も多い。語ったところで、関係者なので、客観的・中立ない件とは言いがたい。

 芥川龍之介の『藪の中』のようだ。登場人物たちの語る内容がみんな微妙に食い違い、真相はまったくわからない。おそらく当人たちにだってわからないのだろう。

 いちばん真相を知っていたはずの容疑者は妄想性障害を患っていて、語ることは支離滅裂(そのため裁判では責任能力が争われたが、最高裁で死刑が確定)。

 もはや何が何だかわからない。


 読んでいるうちに、ふと気づいた。

「真相」なんて関係あるのか?

 容疑者は「他の住人から噂話の対象にされたり、村八分にされたりしていた」と主張しているが、それがどうしたというのだ?

 それが本当かどうかはわからない。だが仮に本当だったとしても、それが何なのだ? 村八分にされていたら、五人を殺害して家に火をつけていい理由になるのか?

 村の人たちが噂話をしていたかとか、田舎の人間付き合いが陰湿かとか、そんなことはどうでもいい。どっちにしろ人を殺して火をつけたらだめなのだ。

 だから「事件の背景をさぐる」なんて行為は、まったく意味がないのだ。




 そうおもって読むと、著者の“取材”と“執筆”こそがひどく陰湿なものにおもえてくる。

 容疑者だけならまだしも、被害者の遺族や隣村に行き、事件前の村の様子を探る。証言は集まるが、裏付けなどはまるでない。どれだけ証言を集めたって噂話の域を出ない。

 そして裏付けの取れていない“証言”をブログに書き、SNSに書き、本にして出版する。

 これって、定かでないうわさを広めているだけだよな……。著者こそが「煙り喜ぶ 田舎者」だ

 取材をするのはともかく、真偽の定かでない噂をそのまま書いちゃいかんだろ。しかも実名付きで。

 読めば読むほど、「誰がえらそうに語ってるんだ」と著者に対して憤りを感じる。


 極めつきはこれ。容疑者の親戚をわざわざ探して訪ねた話(××は原文では容疑者の名前が入っているがぼくが伏字にした。容疑者は死刑確定後も冤罪を主張しているらしいので)。

「お話を聞きた……」
 入り口からすぐの壁沿いに置かれた冷蔵庫の前に立っている。白地に小花柄のジャージー生地のネグリジェを着た長女は、痩せた身体に白髪頭で、××より世代が相当上の老婆だった。
 ここまで言うと、それを遮るようにきっぱりと長女は言った。
「いえ、私話すことないです、いま寝とるんじゃから。いま寝とるから、何にもできんから。もう、何にも話すことないです。いま自分の身体が一生懸命じゃから。心臓が悪いんですよ、寝とるんじゃから。だからお話しすることは、できんのですよね。はい」
 何を聞いても「いま寝とるんじゃから」しか返ってこなかった。平穏な日常生活を脅かされることになった元凶である××には、怒りしか持っていないようだった。
 田舎で起こった大きな事件。近所のものも皆、彼女たちが××の姉であることを知っている。姉たちは何も悪いことをしていないのに、多くの記者から事件について繰り返し聞かれ、いつまでも平穏な生活を送ることができない。私も取材に出向いている身なのでこんなことは言えた立場ではないが、弟が起こした事件に死ぬまで苦しめられるという意味では、彼女たちも被害者なのである。

 なにが「彼女たちも被害者なのである」だよ。おまえが加害者なんだよ。「こんなことは言えた立場ではないが」って、何を末端みたいな顔してんだよ。おまえは事件と無関係の親戚に多大な迷惑をかけてる主犯じゃねえか。「元凶である××には、怒りしか持っていないようだった」じゃねえよ。おまえのあつかましさに怒ってるんだよ。

 よく他人事の顔をできるな。




 読めば読むほど、著者の目的が野次馬根性としかおもえない。

「容疑者の無実を証明するため」とかならまだわかるよ。でもそんなことはない。たしかに容疑者は無実を主張しているが、著者はその言い分をまったく信じていない。

 事件にいたった背景をさぐるためというそれっぽい理由を用意しているが、そんなものいくら調べたったわかるわけがない(実際、わかったことといえば容疑者が妄想性障害を持っていたことぐらい)。犯人が心の中で何を考えていたかなんて本人以外にわかるわけない。いや本人にすらわからないだろう。


 野次馬根性のために嫌がる人に取材してまわり、不確かな噂を聞きだし、それを不確かなまま広める。やってることはSNSでデマを拡散する人と一緒。

 ルポルタージュとしてまったく意義を感じない本だった。

 まあそんなゲスい本があってもいいけど、私はゲスじゃありませんよという顔をして書くやつはいちばん嫌いだ。


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いちぶんがく その23

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



さっそく「アザラシ回収装置」を見せてもらった。

 (渡辺佑基『ペンギンが教えてくれた物理のはなし』より)




「やまうど今うめがら送るがらたべてくなんしょ」

 (小泉 武夫『猟師の肉は腐らない』より)




経済学者が数学を使うから科学者だと言い張るのは、星占い師がコンピュータや複雑な表を使うから天文学者と同じくらい科学的だと言うのと変わらない。

 (ヤニス・バルファキス(著) 関美和(訳)『父が娘に語る美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』より)




村に着くと、そこに地獄があった。

 (逢坂 冬馬『同志少女よ、敵を撃て』より)




懐かしさは、味のなくならないガムだ。

 (浅倉秋成『九度目の十八歳を迎えた君と』より)




さぁ、イタリアの田舎町の茶色い水に一緒に飛び込んでいただこう。

 (山舩 晃太郎『沈没船博士、海の底で歴史の謎を追う』より)




一人ひとりが生地のままの男、女、子どもとなって、持てるものならなんでも持ち去った。

 (アントニー・ビーヴァー (著) 川上洸(訳)『ベルリン陥落1945』より)




「きみだってまんまと、ぼくの〝不幸な生い立ち〟に同情したじゃないか」

 (櫛木 理宇『死刑にいたる病』より)




こちらに向いているカメラのレンズは、選ばれた人しか通り抜けられない狭くて暗いトンネルに見えた。

 (朝井 リョウ『武道館』より)




自分は正しくてエライというナベツネオーラが行間から伝わってくる。

 (プチ鹿島『芸人式 新聞の読み方』より)



 その他のいちぶんがく


2025年1月27日月曜日

小ネタ29(全盲ランナー / GM / 世界海賊口調日)

全盲ランナー

 以前、ニュースで「パラリンピックで全盲ランナーが金メダルを獲得しました」と伝えていた。

 それ、わざわざ報道する必要ある?

 オリンピックならわかる。オリンピックで全盲ランナーがメダルを獲得したら特筆すべきニュースだろう。

 でもパラリンピックで障害者がメダルを獲るのはあたりまえだ。障害者じゃない人がメダルを獲ったらそっちのほうがニュースだ。

「パラリンピックで全盲ランナーが金メダル」と伝えるのは、「女子サッカーの大会で女子チームが優勝」とやるようなものだ。


GM

 ガムとゴムとグミはたぶん語源が一緒なのだろう。全部「G」+「M」の音だ。

 そのせいで我々は「G」+「M」を聞くとぶにぶにした感じを思い浮かべる。

 今後、ああいう食感のお菓子を開発したときは、食感をイメージしやすいように「G」+「M」の命名をするといい。ギモとかゲマとか。あとゴマとか。あとゴミとか。


世界海賊口調日

 毎年9月21日は世界海賊口調日(International Talk Like a Pirate Day)だそうだ。海賊のような口調で話す日とのこと。よくわからない。詳しく調べれば由来とかがわかるのだろうが、わかってしまうとつまらない気がするのであえて調べないことにする。

 ハロウィンとかより気軽に参加できそうなのがいい。相手やその場の雰囲気によって「海賊口調で話すかどうか」を決められるのもいい。仮装だとこうはいかない。ハロウィンよりもこっちが流行ってほしい。でも日本だと「海賊口調」のイメージがあまりないので、「侍口調」のほうが良さそうだ。



2025年1月24日金曜日

【読書感想文】高田 かや『カルト村で生まれました。』 『さよなら、カルト村。 思春期から村を出るまで』 / 宗教は人権と対立する

『カルト村で生まれました。』

『さよなら、カルト村。 思春期から村を出るまで』

高田 かや

内容(e-honより)
「平成の話とは思えない!」「こんな村があるなんて!」と、WEB連載時から大反響!! 衝撃的な初投稿作品が単行本に! 「所有のない社会」を目指す「カルト村」で生まれ、19歳のときに自分の意志で村を出た著者が、両親と離され、労働、空腹、体罰が当たり前の暮らしを送っていた少女時代を回想して描いた「実録コミックエッセイ」。

 集団生活をしていた“カルト村”で生まれ育った著者が、当時の思い出をふりかえったコミックエッセイ。

 作中でははっきり書かれていないが、明らかにヤマギシ村のことだとわかる。

 ヤマギシというのは、詳しくはWikipediaでも見てもらえばいいが、私有財産を否定し、農業や養鶏を通して、幸福な世界の実現を目指すという団体のことだ。集団生活をして、そこでは貨幣を使わず、農業などの労働に取り組んでいるそうだ。

 そういえば最近聞かなくなった。ぼくが子どもの頃は、ときどき近所までヤマギシの車が農作物や卵を売りにきていた。ぼくの母が「ヤマギシは、まあちょっとアレだけど、売ってるものはいいからね」と言葉を濁しながら買っていたのを思いだす。きっとその頃にはもう悪い評判が流れていたのだろう。

 そう、ヤマギシ会自体は1950年代から活動していたものの、1990年代からはオウム真理教のニュースもあって「カルト的なもの」に対する風当たりが強くなったことや、子どもに対する体罰などの問題や脱税が明るみに出たことで批判の声が強まったのだ(この本にもそのあたりの変化が描かれている)。



 この本には、ヤマギシ村での子どもたちの生活が赤裸々に描かれている(著者は十代後半で村を出ているので大人の生活はあまり詳しくない)。

 著者自身は、あっけらかんと「まあいろいろ問題もあったけど私にとってはそんなに悪くない村だったよ」というスタンスで描いているのだが……。


 いやあ、これはダメだろ……。

 まあ大人たちはいい。自分自身、ヤマギシ会の理念に共感し、自らの意思で私財を投げうって入村した人たちは、好きにしたらいい。

 ただ、子どもたちの扱いはさすがにかわいそうだ。

  • 親とは別の村で暮らし、会えるのは年に一、二回
  • 朝食はなし
  • 指導係に叱られたら食事なし
  • 指導係による体罰や数時間にわたる説教
  • 学校に行かせてもらえないこともある
  • 子どもも毎日労働。原則、休みはなし
  • ほとんどの子は高校や大学に行かせてもらえない

 これはどう考えたって虐待だよね(今は変わったところもあるようだが)。


 著者はヤマギシ村で生まれてヤマギシ村で育った人なのでそこの生活しか知らず、「今となってはいい思い出」みたいになっているみたいだけど、それは本人の性分と、結果的に今は大きな不満のない生活をできているからであって。

 子どもは自分の意思で外の世界に出ていくことはできないし、仮に出たとしても、高校にも行かず村で貨幣のない生活をしていた子がうまくやっていくことはむずかしいだろう(著者はいろんな事情が重なって両親と一緒に村を出て、たまたまいい経営者に雇われたという幸運が重なった)。


 どんなカルトでも(外の世界に危害を加えないかぎりは)好きにやったらいいんだけど、子どもが巻き添えにされるのは気の毒だ。

 以前、米本 和広『カルトの子 心を盗まれた家族』という本を読んだ。オウム真理教、エホバの証人、統一教会、ヤマギシ会といった“カルト”と呼ばれる団体内で育った子どもについて取材した本だ。

 カルトがカルトと呼ばれるのは世間一般の常識と衝突するからで、大人同士であれば「あの人はああいう人だから関わらないでおこう」とできるけれど、子どもは学校を通していやおうなく“世間”と関わらないといけない。そこに軋轢が生じる。

 たとえばエホバの証人であれば、親からは「遊んだりテレビを見たりスポーツをしたりするのはサタンの行いだ。学校の選挙やクリスマス会は参加禁止。参加しないことをみんなの前で宣言しろ」と言われる。しかし学校ではまったく違う論理が生きている。遊び、スポーツをし、テレビの話をし、クリスマス会などの行事が開かれる。成長すればするほど「うちの家庭は他と違う。うちの家庭のほうが少数派だ」ということがわかってくる。

 対立するふたつの“常識”の板挟みになる子は気の毒だ。どちらにあわせても待っているのは苦難の道だ。




 新興宗教はいろいろあり、その中には急速に信者数を増やしたものもある(正確にはヤマギシ会は宗教ではないのだろうが、思想や行動を縛る教えを信じているという点ではほとんど宗教と同じだとぼくには見える)。

 だが、二十世紀以降に誕生した宗教で、三十年以上にわたって信者数を増やしつづけた宗教はないんじゃないだろうか。

 どの宗教もだんだん衰退してゆく。最初は熱心な信者たちが集まってくるが、二世世代が増えると、どうしても「外の世界」との衝突が起こる。必然、悪い話も外に出るようになり、イメージが悪くなる。ぼくの友人にも創価学会二世がいたが、彼はすごく嫌そうに活動していた。そんな姿を見て、自分もやりたいなとおもう人は少ないだろう。

 そもそもの話、宗教の教義って人権って衝突することが多い。「必ず○○しなさい」「○○してはいけません」ってのが教義で、「人にはやる自由もあるしやらない自由もある」ってのが人権なのだから、対立するのが当然だ。

 だから人権が保障された近代社会において、宗教が拡大するのは無理なのかもしれない。自分の意思で入信した一世信者と違い、二世三世は人権を奪ってまで信者でいつづけさせることはできないのだから。

 昔からある宗教は、人権意識の低い時代だったからこそ拡大できて、拡大しきって「外の世界」との摩擦が小さくなったからこそ現在でも残れている。これから新興宗教が長期にわたって拡大しつづけることは無理なんじゃないかな。


【関連記事】

【読書感想文】米本 和広『カルトの子 心を盗まれた家族』 / オウム真理教・エホバの証人・統一教会・ヤマギシ会

【読書感想エッセイ】中野潤 『創価学会・公明党の研究』



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2025年1月21日火曜日

【読書感想文】今尾 恵介『地図帳の深読み』 / 川と言語の密接なつながり

地図帳の深読み

今尾 恵介

内容(e-honより)
学生時代に誰もが手にした懐かしの学校地図帳には、こんな楽しみ方があった!100年以上に渡り地図帳を出版し続けてきた帝国書院と地図研究家の今尾恵介氏がタッグを組み、海面下の土地、中央分水界、飛び地、地名や国名、経緯度や主題図など「地図帳」ならではの情報を、スマホ地図ではできない「深読み」をする!家の奥に眠るあの地図帳、今もう一度繙いてみませんか。

 地図マニアである著者が、学校でおなじみの地図帳をもとに、あれこれと洞察をくわえた本。

 これを読んでいて思いだしたんだけど、社会の授業中、ずっと地図帳を見ていた子がいたなあ。クラスに一人はいたんじゃないかとおもう。何がそんなに楽しくて地図帳を見てるんだろうとおもってたけど、たぶんこういうことを考えてたんだな。

 ぼくは地図好きな子ではなかったけど、歳をとってから、地図って単なる場所を示すものではなくて、歴史だとか、経済だとか、人々の生活までが見えるものだとわかるようになり、ちょっとおもしろさを感じるようになってきた。

 まだひとりで地図を見てにやにやするほどではないけどね。でも地図に詳しい人の解説を読むのは楽しい。



 地図帳には、単なる地図だけでなく、いろんな図や表が載っていた。人口、土地面積、雨温図、名産品など。その中に言語分布地図もあった。どの地域がどの言語を使っているのかを示した図だ。

 さて、ある時にスイスの言語分布地図を見た。どこかの大きな図書館に置いてあったナショナルアトラスを閲覧した時のことかもしれない(今なら高校生用の地図帳でも載っている)。これが以前に自分でなぞった四つの河川の流域図にずいぶん似ていると感じたのである。つまりライン川流域にはドイツ語話者が多く、ローヌ川流域はフランス語、ポー川流域がイタリア語、そしてドナウ川流域がロマンシュ語という具合に流域と言語分布が重なっていた。
 スイスは日本に似て山が深いから実感できると思うが、商圏、婚姻圏といった文化圏は人の往来の多寡で決まってくる。たとえば関東と新潟県を区切る三国山脈は雪国の冬と晴れ続きの冬の境界であるが、文化圏や方言の境界でもある。考えてみればトンネルも通じていない大昔に好んでわざわざ険しい峠越えをする人は少なかっただろうし、移動にあたっても川沿いが楽なのは間違いない。そんなわけで言語、方言の違いが流域ごとに決まってくるのは普遍的な現象である。

 河川の流域図(どの川の水を利用しているかを地域ごとに区切った図)と言語分布地図が似ているのだ。

 現代日本ではどこにいってもほぼ同じ言葉を使っているのでわかりづらいけど、かつては、山ひとつ越えたら使っている言葉もぜんぜん違ったのだろう。人の往来がほとんどないので、言葉も文化も独立していたのだ。一方、同じ川沿いの集落であれば、行き来も楽だったはず。交流が盛んであれば言語も近いものになるだろう。

 川と言語に密接なつながりがあるなんて考えたこともなかったなあ。




 過去の地図帳との読み比べ。

 昭和48年(1973)の「中学校社会科地図」では、九州地方のページに有明海と島原湾の干拓を示す図が掲載されていた。凡例には干拓年代として「1767年以前」「1768~1867「1868~1967」「1967年以後」と時代ごとに4色に塗り分けられ、これに加えて「干拓工事中」「干拓予定地」が青色で大きく描かれている。その面積は明記されていないが、ざっと見たところ有明海の半分近くを陸にするような大規模な計画だったようだ。
 この計画図は出典に記されているように「有明海総合開発計画」によるものだ。干拓だけでなく、有明海の西に位置する島原半島の貝崎(現南島原市。島原市役所の約12㎞南)から熊本県側の宇土(三角)半島先端近くの狭い部分に「しめきり計画線,三角線」という赤い破線がまっすぐ描かれているように、これによって有明海を締め切って淡水化する計画であった。
 この大事業の当初の目的は食糧大増産で、八郎潟の干拓と同様に可能な限り農地を拡大して国民を飢餓から守るというものである。コメ余りで減反政策に転じた後の時代から見れば実感が湧きにくいが、国民を飢えに直面させるかもしれないという深刻な問題意識は国政を担う人たちにとって相当にリアルだったようだ。「飽食の時代」に育った世代にはなかなか想像できないけれど。ついでながら、現在では人口問題といえば言うまでもなく「少子化」だが、当時は爆発的に増えつつある人口をいかに抑えるかが急務とされた。
 (中略)
 この面積を足せば550㎢という途方もないもので、現在の琵琶湖の面積の82%にあたる。この締切堤防から奥側の有明海の面積を「地理院地図」でざっと測ってみると約1300㎢だから、4割以上を干拓するつもりだったようだ。この計画の一部にあたる諫早湾の干拓事業は当初計画では110㎢であったが、平成元年(1989)に着工された時には予算や農地の需要の関係もあって35㎢に縮小された。
 この事業に対しては地元をはじめ全国で賛否の意見が対立し、行政訴訟も行われている。農地は全国的に余り気味であったため、目的を公害や高潮などの水害防止にシフトさせたのも「現代風」だ。その後は海苔やタイラギ漁などの不振などもあり、また公共事業見直しの気運もあって干拓への逆風は続いている。締め切りが水質悪化に影響を及ぼしているかの議論は今も続いているが、それでも有明海の大規模な干拓事業は全体のわずか1割の干拓にとどまったことを思えば、当初の干拓計画がいかに壮大であったかがわかる。
 賛否はともかくとして、確実なのはいったん始動した大規模事業の見直しがきわめて難しいことだ。数十年の間に国の産業構造や国民の生活実態が激変しても身動きがとれない。どう頑張っても数十年間は大幅な人口減少が避けられない将来が約束された今、社会の「減築」―ダウンサイジングに向けた世界初の取り組みが、日本国民には求められている。

 今から50年前には、有明海の大部分を埋め立てて淡水化するという途方もない計画が立てられていた。人口がどんどん増えて、このままじゃ農地が足りないと心配されていた時代。海を埋め立てて農地を増やそうとしていたのだ。

 しかし地元漁師の反対や環境問題への懸念もあり、計画は難航。その間に日本の状況は大きく変わり、人口は減少へとシフトし、農地は足りないどころか余る状況になった。

 それでも計画は止まらない。農地拡大だった目的が、いつのまにか防災目的にすりかわっている。

 このへん、実に“らしい”話だ。大きな組織が動くと、いつのまにか手段が目的になってしまう。ひとつの「手段」だった干拓事業が「目的」になってしまい、とりまく状況が変わっても計画を止めることができず、後付けで理由をつけては無理やり続行する。

 オリンピックや万博と同じだ。経済振興とかの理由をつけて招致するのに、経済にプラスどころか大幅マイナスだとわかっても「開催」自体が目的になってしまっているので火の車となっても止められない。

 大規模プロジェクトって始めるよりもやめるほうがずっと難しいし知恵を要するよね。


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昭和18年の地図帳ってこんなんでした

【読書感想文】平面の地図からここまでわかる / 今和泉 隆行 『「地図感覚」から都市を読み解く』



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2025年1月15日水曜日

【読書感想文】プチ鹿島『芸人式 新聞の読み方』 / 偏向報道を楽しむ人が大人

芸人式 新聞の読み方

プチ鹿島

内容(e-honより)
新聞には芸風がある。だから下世話に楽しんだほうがいい!おじさんに擬人化することで親しみが湧く朝刊紙。見出しの書き方でわかる政権との距離。世論調査の質問に表れる各紙の立場。朝刊スポーツ紙と芸能事務所の癒着から見える真実etc.…。人気時事芸人が実践する毎日のニュースとの付き合い方。ジャーナリスト青木理氏との対談も収録。

 東京ポッド許可局で(一部界隈では)おなじみのプチ鹿島さん。新聞を13紙も購読している、新聞好きでもある。

 そんな新聞好き芸人が「新聞の楽しみ方」を解説した本。これを読むと、自分も新聞の読み比べをしたくなってくる。とはいえ実際にはやらないのだが……。



 ぼくの実家では朝日新聞と日本経済新聞をとっていた(一時朝日から読売にかえたがまた朝日に戻した)ので、朝日新聞を読んでいた。大学生になって一人暮らしをしたときも、就活もあるから新聞を読んでおいたほうがいいだろうなとおもって購読していた。あれだけの情報量のあるものを毎日百円ちょっとで届けてくれるのは破格だ。

 仮に何も印刷されていない真っ白な紙だったとしても、「月に数千円で毎朝あなたの自宅まで届けます」と聞いたら「それでほんとに利益出るの?」と心配になるサービスだよね。ま、いらんけど。

 ぼくは新聞を読むのは好きなほうだとおもう。活字は好きだし、なんだかんだいっても新聞の情報はかなり信頼がおけるし、政治や社会情勢にもそこそこ関心を持っている。

 だが。現在、うちでは新聞を購読していない。

 いろいろ事情があってしばらく購読しない期間があり、それはそれで大して困らない、むしろ余計なニュースに心乱されることがなくて平穏だし、なによりあの「重い古新聞を束ねて捨てに行く」という作業から解放されるのは大きい!

 というわけで、そのまま新聞の購読しないままもう十年以上。特に困らない。掃除のときとか、雨で靴が濡れたときに「新聞紙が欲しい」とおもうことはあるが、メディアとしての新聞はなくても平気だ。

 しかし新聞を嫌いになったわけではない。「ニュースなんてネットメディアで十分」とはおもわない。ネットメディアもたいてい一時ソースは新聞社発信だし。実家に帰ったときはちゃんと新聞に目を通す。もしも「24時間たつと気化して消滅してくれる新聞紙」が発明されて“古新聞捨てるのめんどくさい問題”が解消されたら、また購読するかもしれない。



 プチ鹿島さんによる新聞評が実におもしろい。

 この人は新聞全般は好きだが特定の新聞だけを贔屓にしているわけではないので、それぞれの新聞の立ち位置をうまくとらえている。

 朝日は高級背広のプライド高めおじさん、産経は小言ばかり言ってる和服のおじさん、東京新聞は問題意識が高い下町のおじさん、読売新聞はナベツネそのもの、など、「キャラ付け」をしながら読むとわかりやすいという主張はまさにその通り。

 まだ新聞が紙だけだった時代は、基本的に一世帯一紙だった(日経とか地方紙とかを併せて購読している家庭はあったが)ので、その立ち位置の差はわかりにくかった。

 だが新聞記事がネット配信されるようになって誰でも手軽に「読み比べ」ができるようになり、その差は明確になった。新聞社としても、他社との差別化を図らないといけない、読者の反応がダイレクトにわかる、などの理由でよりエッジの利いたスタンスをとるようになったとおもう。朝日や毎日はより左に、読売は産経はますます右に傾いていったようにぼくには見える。


 新聞は偏っている! だからダメだ!

 と言う人が多いが、それは子どもの意見だ。この世に完全に公正中立のものなんてありえない。

 新聞は偏っている? その通り。だったらその偏りを味わえばいい、というのがプチ鹿島さんのスタンスだ。うーん、大人!

 たとえば朝日や毎日が「政権がこんなことをしました!」大きく報じている。一方、親政権である読売や産経はそのことにほとんど触れていない。ということは「これは政権にとって都合の悪いニュースなのだな」とわかる。偏っているからこそ見えてくることもあるのだ。


 インターネットの活用が当然となった今、新聞のことを「旧メディアの偏向報道」「腐ったマスゴミ」と馬鹿にする人たちもいる。だが、切り捨てるのはもったいないと思うのだ。旧メディアには旧メディアの役割や論理がある。今まで培われてきた伝統の作法がある。
 たとえば一般紙であれば、載せるからには誰かに裏を取っている。そのうえで新聞の思惑が反映されていることもある。だったら、「正しいか正しくないか」ではなく、「誰が何を伝えようとしたのか」を読み解くために、あるもの(新聞)は利用したほうがおもしろいではないか。「また朝日と産経が全然違うこと言ってるぞ」と覗き見するくらいの下世話な気持ちで、マスコミを「信用する」のではなく「利用する」という気構えでいればいい。新聞にも観客論が必要だと思うのだ。

 たしかに新聞には様々な問題がある。組織として大きくなりすぎたがゆえにいろんなしがらみが生まれたり、市井の人々の価値観とのずれが大きくなったり、とても公正中立とはいえない報道スタンスがあったり。

 とはいえ、「だから新聞は読まない」という人より、「その歪みをわかった上で新聞を読む」人のほうがはるかに知的だ。情報強者というのはこういう人のことを言うのだ。常に遅れている時計と常に進んでいる時計の両方を見れば、現在の時刻がなんとなくはわかるものだ。


 この本に書かれている例だと、政策に反対するデモが行われたが、主催者発表の参加者数と警察発表の参加者数が大幅に異なる。

「これだけ多くの人が関心を寄せています」と言いたい朝日、毎日、東京新聞などは主催者発表の参加者数を大きく取り上げる。読売や産経は、多くの人が反対していることになると(政権が)困るので警察発表のほうを大きく取り上げて少なく見せようとする。

 同じデモを伝えているはずなのに、伝え方によってずいぶん違う景色が見えてくる。同じ富士山でも、山梨側から見るか静岡側から見るかで姿が違うように。

 それを「おまえの見方は偏っている!」と糾弾して切り捨てる人よりも、山梨の人と静岡の人の両方から話を聞く人のほうが、物事を立体的に見ることができるはずだ。

(ちなみに先のデモの件は、近くの鉄道の利用者数から判断するかぎりでは、主催者発表のほうが実情に近かったそうだ。主催者発表は水増ししてるし警察は少なく発表してるんだけどね)


 また、「来日したオバマ大統領が寿司を残した」というどうでもいいニュースから、複数メディアの記事を読み比べることにより「安倍首相と寿司業界の結びつきによる寿司利権」にまでたどりついた(とおもわれる)章はものすごく読みごたえがあった。

 取材をしなくても、新聞や雑誌を読み比べているだけで、プロの記者でもなかなかわからないような情報にたどりつくことができるのだ。アームチェア・ディテクティブ(安楽椅子探偵)のようでかっこいい。



 スポーツ新聞について。

 そんな「オヤジジャーナル」の中でも、とりわけ下世話なのが「夕刊紙・タブロイド」といわれるメディアだ。『東京スポーツ』『日刊ゲンダイ』『夕刊フジ』が代表選手でその最大の特徴は、「玉石混淆」であることに尽きる。
 朝刊紙(スポーツ紙含む)の場合、憶測や噂を報道することは許されないが、夕刊紙ではそれをどう扱うかが腕の見せどころになっている。
 ホントのことはズバリ書けないとか、まだ裏付けが取れないからぼかして書くしかないとか、いろいろな理由によって、わざと思わせぶりな書き方をするときがある。断定はできなくても、「匂わせる」ことで書けることは積極的に書いてしまうのだ。読者には、「行間を読む」という受け身の取り方が求められる。
 もちろん、ただの憶測であったり、バッシングだったりする記事もあるが、その中に、あとから振り返ってみるととんでもない「真実の宝」が落ちていたりするからおもしろい。ああ、ぼんやり「匂わせて」いたあの記事は、このことを言っていたのか、とわかることも多いのだ。たとえば有名人の覚せい剤疑惑の記事がそうだ。イニシャルでぼかしたり、わかる人にはわかる書き方をして「いいところまで」見せてくれる。

 正直、ぼくもスポーツ新聞のことはだいぶ低く見ていた。プチ鹿島さんは「スポーツ新聞をまともに読んでない人にかぎってスポーツ新聞を軽視している」と書いているが、まさにその通りだ。

 スポーツ新聞は、一般紙に比べると信憑性の低い情報の割合が高いのは事実だろう。だが、プチ鹿島さんのような新聞上級者になると、信憑性が低いことをわかった上で情報収集先として利用できるのだ。

 たとえば「X氏が覚醒剤をやっている」という情報があったとする。X氏に近い人物、それも複数が「あいつは覚醒剤をやってるよ」と語っている。十中八九、ほんとだろう。

 だが一般紙やテレビのニュースでは「X氏が覚醒剤をやっている」と報じることはできない。どれだけ怪しくても逮捕されるまでは一般人だからだ(ほんとを言うと起訴されて刑が確定するまでは推定無罪で一般人なのだがそれはまた別問題なのでこれ以上は触れない)。

 その「かなり確度が高いけど100%ではないので一般紙では書けない」ところを、スポーツ誌なら書くことができる。もちろん、訴えられないように「読む人が読めばわかる」レベルにぼかしたりはするけど。

 また「下世話すぎるから一般紙が書かないこと」を書けるのもスポーツ誌の強みだ。案外、その下世話なニュースがまじめな話につながることもあるのだ(上に書いた、大統領が寿司を残した話から業界の利権が見えてくるように)。

 とはいえ、このへんの「確実でないからまだ書けないこと」や「下世話な話」についてはSNSやYouTubeなどのほうが向いている気もするので、今後スポーツ紙は一般紙より厳しいかもしれないね。



 青木理さんとの対談より。

青木 同感。本当にマズい。一方で新聞も妙な方向に変わりつつあって、各社ともネット展開を盛んにやるようになったけど、やっぱりネットで一番アクセス数の多い記事は芸能関係なんだそうです。だからどんどん芸能記事も作るようになっていく。でも、新聞がそれでいいのか。僕がフリーになって痛感したのは、雑誌や書籍は売り上げ、テレビは視聴率という指標に良かれ悪しかれ右往左往させられているけど、新聞には基本的にそれがないんですよ。少なくとも現場の記者として取材しているとき、「記事を書けば売れる」とか、「この記事を一面トップにしたから売り上げが伸びた」なんて誰も考えていない。これは旧来型の新聞の美点でしょう。日本の新聞は問題だらけだけど、宅配に支えられて何百万部も売れているお化けメディアだったがゆえ一方でそういう美点も当たり前に存在したんです。

 データを可視化しやすいってのはネットメディアの利点だけど、欠点でもあるよね。インプレッション数、ページビュー数、直帰率なんかを調べていったら、芸能ニュース、ゴシップニュース、テレビ番組の文字起こしがいちばん成果が良いです、ってわかっちゃうのは決していいことではない。

 もしも新聞が「ページビュー数最優先!」に舵を切ってしまったら、そのときこそ本当に新聞が終わるときだろうね。


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2025年1月9日木曜日

どうしてテーマパークは変に凝ったメニューを作るのか

 テーマパークや動物園のレストランが嫌いだ。

 たぶんたいていみんな嫌いだろう。めちゃくちゃ高くて、買うのに時間がかかって、こんでいるからなかなか席がとれなくて、それでいてそんなにおいしくない。


 何がイヤって、「時間がかかって高くてうまくない」の三拍子そろっているところだ。「早い・安い・うまい」の逆だ。

 このうち二つなら許せる。個人的には「時間がかかる」がいちばんイヤだ。

 なぜならテーマパークや動物園には飯を食いに行ってるわけではないから。飯を食うのはトイレと同じで「生存のために必要だからやるがなるべく時間をかけたくない行為」だ。

 そこで儲けたい会場側の思惑もわかる。だから値段に関してはしかたないと諦める。まずくてもいい。ただ、「高くてまずくていい」と割り切ってしまえば、時間のほうはなんとかできるだろ、とおもうのだ。

 コンビニで売ってるようなおにぎりとかサンドイッチを仕入れて、市価の二倍で売る。こっちはそれでいいのだ。歩きながら食べられるし。

 会場側としても、施設や人を割かずに稼げる。悪くない話だとおもうのだが。


 なのに。

 どうして変に凝ったメニューを出すんだ。

 そのテーマパークのキャラクターをイメージしたハンバーグランチとか、動物園の人気のペンギンをあしらったプレートランチとか、余計なことをするんだ。

こんなのとか

こういうの


 その変に凝ったメニューを、調理に慣れてない学生バイトが一生懸命用意するのだ。時間がかからないわけがない。

 いや、そういうメニューがあってもいい。求めている人だっているだろう。

 ただ、それとは別窓口で(ここ重要)、市販のパンやおにぎりを売ってくれ。同じ売場にすると結局全部混むからやめてくれ。


 なに? 客単価? いっぱいお金を落とさせたい?

 わかった。じゃあ二倍と言わずもっととっていい。市販のおにぎり二個と市販の魚肉ソーセージのセットにして2,000円にしていい。その代わりすぐ提供してくれ!



2025年1月7日火曜日

名物・豚汁がうまい店(ただし氷点下)

 昼時に慣れない道を歩いていたら「名物・豚汁がうまい店」と書かれた看板を見つけたので店に入った。

 うん、こんな寒いときに食べる豚汁はたまらない。


 15人も入ればいっぱいのそう大きくない店。店員は四十代ぐらいの男性と四十代ぐらいの女性。一人客のぼくはカウンターに座った。さっそく塩さば・豚汁定食を注文する。

 店内には豚汁のいい香り。これは期待できそうだ。

 定食の到着を楽しみにしていながらカウンター内の様子をうかがっていたのだが……。


 どうも店員の男女の仲が悪いのだ。

 静かに喧嘩をしている。断片しか聞こえてこないのだが、


女「あ、それごはん大盛りです」

男「大盛りにしたつもりですけど?」

女「……」


というやりとりがあったり、


女「~って言いましたよね?」

男「主語がなかったのでわかりません。はっきり言ってもらわないと」

女「……」


と、丁寧語で喧嘩をしている。


 すごく感じが悪い。

 ふたりともいい大人なのでさすがに声を荒らげたりはしないが、ずっと押し殺した声で喧嘩している。


 そりゃあ、まあさ。店員だって人間だから腹の立つこともあるさ。働いていたらいろいろ言いたくなることもあるだろう。ぼくだって同僚相手に文句や嫌味を言ったこともある。

 でもさあ。


 豚汁のうまい店で険悪な空気出さないでよ!

 コンビニとか、国道沿いのチェーンのラーメン屋とかなら、まだいい。そういう店にあったかい接客なんて期待してないから。金髪ピアスのにいちゃんが気だるげにラーメン持ってくるみたいな接客でもいい。

 でも「名物・豚汁がうまい店」はちがうじゃない。にこにこした小太りのおばさんかおじさんが「はい、豚汁おまたせ! 寒いからこれ食べて元気つけてね!」と言いながら豚汁よそってくれるみたいな雰囲気を期待しちゃうじゃない。

 喧嘩するんなら豚汁の看板をはずしてくれ!



2025年1月6日月曜日

おこたとおバズ

「おこた」って言葉、いいよね。「こたつ」よりもあったかい。

 おばあちゃんが言ってるイメージ。実際、ぼくの母親(70歳近い)は「おこた」と言う。とはいえ実家は床暖房が完備されてもうこたつはないので母が「おこた」と口にする機会は二度とないかもしれないが。


「おこた」は「こたつ」に丁寧語の「お」をつけて、後ろの「つ」を省略した言葉だ。

 調べてみたら、女房言葉というそうだ。おかみさんではなく、宮中の女房が使っていた言葉。

 他にも、「おさつ(お+さつまいも)」「おでん(お+田楽)」「おにぎり(お+にぎりめし)」などがこの形だ。ほう、けっこうある。

 食べ物ばかりではない。「おでき(お+できもの)」「おなら(お+鳴らす)」などもそうだ。

 汚いものを指す言葉だからこそあえて上品に言い換えたのだろう。今ではあたりまえの「おなら」もかつては隠語だったんだな。

 名詞だけでなく、「鳴らす」のような動詞にまで「お」をつけて名詞化してしまうのはおもしろい。

「お」の力はなかなかすごくて、いろんな言葉をむりやり丁寧化してしまう。

 おニュー、おセンチのように英語につくこともあるし、おばか、おデブのように悪口にくっついて侮蔑的な意味を若干やわらげ、その代わりに皮肉っぽい意味を持たせたりもする。


 外来語を力技で丁寧化してしまう「お」、個人的にはけっこう好きなのだが残念ながらおニューもおセンチもほぼ死語だ。

 もっと流行ってほしい。

「ごインスタでおバズのおエモなおインフルエンサー」とか言いたい。


2025年1月2日木曜日

M-1グランプリにおいて個人的に重要だとおもうネタ10選

 M-1グランプリでこれまで披露されたネタは、決勝だけでも200本以上。

 その中で、個人的に重要だとおもうネタ10選。おもしろいかどうかというより、後のコンビに影響を与えたかどうかで選出。なので昔のネタが多めです。また、記憶をたどって書いているので細かいところで間違っているかも。



1.第1回(2001年)大会
  麒麟「小説の要素」

 M-1グランプリという大会においてこのネタが重要なのは、ネタの内容そのものよりも、この漫才に対して“松本人志が与えた評価”による。

 まったくの無名だった麒麟(超若手が集まるような関西ローカルの番組にすら出ていなかった)が全国ネットのゴールデンタイムで漫才を披露し、それに対して天下の松本人志が「ぼくは今まででいちばんおもしろかったですね」と評価を与える。当時を知らない人にはイメージしにくいだろうが、2001年の松本人志という存在は「唯一無二の天才」であり「自分以外の芸人は認めない傲慢な天才」であった(そしてそれが許される存在でもあった)。

 その松本人志審査員による「今まででいちばんおもしろかったですね」は最上級の褒め言葉であった。

 これは多くの若手芸人に「M-1グランプリに出場すれば松本人志から評価される」という夢を与えた。ある意味当時破格だった1000万円という賞金よりも価値のあるものだったかもしれない。


2.第2回(2002年)大会
  フットボールアワー「ファミレス」

 ポーカーフェイス&ローテンションで淡々とくりひろげられるボケに感情を乗せた強めのツッコミ、という典型的なダウンタウンフォロワースタイルのコント漫才。今でこそ多種多様な漫才スタイルがあるが、90年代~2000年代初頭はこのスタイルが本当に多かった。

 その中でも群を抜いて完成度の高い漫才を披露したのがフットボールアワー。このスタイルの完成形であり、かつオリジナリティもあった。フットボールアワーが優勝したのは2003年だが、凄みを見せつけたのは2002年のほうだった。

 これにより他のコンビは新たの道を探るしかなくなり、これ以降さまざまなスタイルが花開くことになる。


3.第3回(2003年)大会
  笑い飯「奈良県立歴史民俗博物館」

 M-1デビュー作である2002年の『パン』、究極バカスタイル『ハッピーバースデー』(2005年)、そして空前絶後の100点をたたき出した2009年『鳥人』など数多くの衝撃を生みだした笑い飯のネタの中でも、特に衝撃的だったのがこのネタ。テレビで観ていても会場が揺れるのが伝わるほどのビッグインパクトだった。

 歴史博物館というテーマの斬新さ(漫才史上、後にも先にもこれだけだろう)、見た目・音楽・動き・ナレーションすべてがおもしろかった最初の「ぱーぱーぱーぱぱーぱぱー」のシーン、くだらないのに何度見ても笑ってしまう「ええ土」の応酬、鮮やかなオチ、すべてが完璧だった。

 これ以降M-1予選には大量のWボケスタイルの笑い飯フォロワーが生まれたそうだが、他にも、間を詰めてボケ数を増やす漫才が評価されるようになるきっかけを作ったのもこの漫才だったかもしれない。


4.第5回(2005年)大会
 変ホ長調「芸能界」

 大会初(であり現時点で唯一)のアマチュア決勝進出者。

 正直ネタの内容については特に言うことはないが、(たとえ話題作りの要素が多分にあったとしても)プロでないコンビでも決勝に進めるという功績を作ったことは大きい。

 結果、多くのプロアマが予選にエントリーすることになり、大会の盛り上がりに貢献した。このコンビがいなければおいでやすこがのようなユニットコンビが生まれていなかった可能性がある。


5.第5回(2005年)大会
 ブラックマヨネーズ「ボーリング」

 発想力重視のコント漫才が主流だった前期M-1に王道しゃべくり漫才で登場して、そのしゃべりのうまさとパワー、そして人間味で優勝をかっさらったブラックマヨネーズ。奇をてらったことをしなくても会話だけでこんなにおもしろくなるんだと、漫才という話芸の底力を改めて突きつけた漫才。

 細かいネタの羅列ではなく会話を組み立てて笑いを積み上げていく漫才として、その後のオズワルドやさや香に影響を与えたのではないだろうか。


6.第10回(2010年)大会
スリムクラブ「塔」

 2007年~2009年頃のM-1は、キングコング、トータルテンボス、ナイツ、NON STYLE、オードリー、パンクブーブーのようにテンポを上げて細かいボケを詰めこむタイプの漫才が好成績を収めた。M-1グランプリで勝つにはフリを短くしてボケを詰めこんで笑いの量を増やす、後半にいくにしたがってテンポを上げて盛り上がり所で終わらせる……という必勝法ができかけていた。大会が最も競技化していたのがこの時代だった。

 もしかすると漫才にはこれ以上大きく発展する可能性はないんじゃないだろうか。なんとなくそんな諦めに近い空気が漂っていた。M-1グランプリという大会が2010年で終了することになったのも、もしかするとそれが一因だったかもしれない。

 そんな時代に風穴をあけたのがスリムクラブだった。信じられないほど長いフリ、脈略のないボケ、ツッコミを入れずに困惑するだけの相方……。すべてがセオリーの真逆だった。なのに爆発的にウケた。無言でも笑いをとれる。衝撃的な漫才だった。

 それ以前のM-1にも、おぎやはぎ、千鳥、東京ダイナマイト、POISON GIRL BANDのようなローテンション、スローテンポなシュール系漫才はあったが、軒並み点数につながらなかった。M-1でこういう系統はダメなんだと誰もが諦めかけていた時代にスリムクラブが定石を破った功績は大きい。

 2015年に復活後のM-1で多種多様な漫才スタイルが花開いたのには、スリムクラブの影響も見逃せない。


7.14回(2018年)大会
  トム・ブラウン(ナカジマックス)

 中島くんを五人集めてナカジマックスを作りたいという奇天烈な導入、徐々に加速してゆく異常な展開、どこまでもズレたツッコミ。無茶苦茶なのに、なぜだか論理を感じる。作り物ではない、本物の狂気を感じさせる漫才だった。

 その後もランジャタイやヨネダ2000のような奇天烈漫才が決勝に登場するが、その先鞭をつけたのがトム・ブラウンだった。ここでトム・ブラウンがある程度受け入れられなければ、その後の決勝の顔ぶれも変わっていたかもしれない。



8.14回(2018年)大会
  和牛「オレオレ詐欺」

 本来なら楽しいだけの漫才に「嫌な感情」を持ちこんで成功させたのが和牛。その集大成ともいえるのが「オレオレ詐欺」だった。

 嘘をついて老親を騙して、あげく騙された母親に向かってネチネチと説教する。ふつうならただただ嫌な気持ちになるはずなのに、なぜか笑える漫才にしてしまう和牛の技術はすごい。漫才におけるコントは「これは漫才中のお芝居ですよ」とあえてわざとらしい芝居をするものだが、和牛は声のトーンや表情など、全力で芝居に没入してみせた。

 極めつきがラストの「無言でにらみ合うシーン」。漫才は言葉に頼らずとも表現できることを示し、その枠組みを大きく広げてくれたネタだった。



9.15回(2019年)大会
 ミルクボーイ「コーンフレーク」

 強固なシステムを作り上げ、何年にもわたって研ぎ澄ませ、老若男女を笑わせることに成功したミルクボーイ。あのシステム自体はその数年前から完成されていたが、ひとつのシステムをつきつめるとここまで到達できると見せてくれたのは大きい。

 同じシステムを続けていたら飽きられそうなものだが、M-1優勝後もさらに同じシステムを進化させてウケ続けているのを見ると、本物はそんなにやわなものではないことを教えてくれる。

 漫才の中にはまだまだ金鉱脈が眠っていることを示したネタ。



10.16回(2020年)大会
  マヂカルラブリー「吊り革」

 このネタははたして漫才か否かという論争を巻き起こした問題作。冒頭とラストをのぞいて野田さんがほとんど言葉を発しない奇抜な設定ながら、ばかばかしさと身体性のみで爆笑を巻き起こした。

 細かいテクニックも構成も話術も吹き飛ばすようなダイナミックな動き。実際はしっかり考えられた漫才なのだが、尿をまきちらしながら転がる動きで計算だと感じさせないばかばかしさ。

 この18年前にテツandトモが決勝に進んだときには「おまえらここに出てくるやつじゃない」とまで言われたが、マヂカルラブリーは審査員にも観客にも受け入れられた。M-1グランプリという大会が大きく成長したことを体現したネタだった。おそらく今後はさらに誰も見たことのない形の漫才が出てくることだろう。



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【読書感想文】ビル・パーキンス『DIE WITH ZERO 人生が豊かになりすぎる究極のルール』 / 前よりちょっとだけ現在を大事にするようになった

DIE WITH ZERO

人生が豊かになりすぎる究極のルール

ビル・パーキンス(著)  児島 修(訳)

内容(e-honより)
全米注目のミリオネアが教える、究極のカネ・人生戦略。「今しかできないことに投資する」「タイムバケットにやりたいことを詰め込む」「若いときにはガレージから飛び降りる」……など、人生を豊かにするために、私たちが心に刻むべき9つのルールを紹介。若ければ若いほど、人生の景色をガラリと変えられる一冊。

『DIE WITH ZERO』のメッセージはいたってシンプル。

 死ぬときに財産をほぼゼロにしよう。お金は生きているうち、元気なうちに使おう。


 たしかにその通りだ。みんなわかっている。墓場にお金は持っていけない。

 でも、生前にお金を使い切るのはむずかしい。なぜなら、自分がいつ死ぬかわからないから。

 おもっていたより長く生きるかもしれない。自分が年老いたときにちゃんと年金がもらえるのかわからない。歳をとったら医療費が高くつくんじゃないの。急な出費とか、物価高とかあるし、老後にいくらか必要なのかわからない。

 ぼくもそのタイプ。あんまり物欲がないしセコいし妻も浪費するタイプではないので、貯金額は増えていく。といって欲しいものはあまりない。いちばんお金を使っているのが生命保険。それも掛け捨てではないので貯蓄みたいなものだ。


 昔から貯めこむタイプだった。おこづかいをもらっていたときから、ある程度の貯金がないと不安になる。子どものいる今ならともかく、「どうしようもなくなったら親に泣きつけばいい」状況だった若い頃なんか、あるだけ使ってしまってもよかったとおもう。でもできなかった。小さい頃から「後先気にせずどんどん使ってたらなくなって困るよ」と言われて育ったからだろう。



 必要以上に貯めこんでしまうタイプはけっこう多いようだ。

「いつか必要になったときのために」と貯めこんで、その「いつか」が来ることなく死んでしまう人が。

 ・資産額が多い人々(退職前に50万ドル以上)は、20年後または死亡するまでにその金額の11.8%しか使っておらず、88%以上を残して亡くなっている。つまり、66歳に引退したときに50万ドルだった資産は、66歳の時点でまだ44万ドル以上残っている
 ・資産額が少ない人々(退職前に20万ドル未満)は、老後に資産を使う割合が高い同額の支出でも、資産が多い人に比べて支出の割合が大きくなるためだろう)。だがこのグループでも、退職後の18年間で資産の4分の1しか減っていない
 ・全退職者の3分の1が、なんと退職後に資産を増やしている。資産を取り崩すのではなく、反対に富を増やし続けていた
 ・退職後も安定した収入源が保証されている年金受給者の場合、退職後の18年間で使った資産はわずか4%と、非年金受給者の35%に比べてはるかに少なかった
 
 つまり、現役時代に「老後のために貯蓄する」と言っていた人いざ退職したらその金を十分に使っていない。
 「ゼロで死ぬ」どころか、そもそも生きているうちにできるだけ金を使おうとすらしていないように見える。
 これは年金をもらっている人の場合、より明白になる。年金受給者は老後も安定した収入が保証されている。だから、年金をもらっていない人に比べて貯金を取り崩しやすいように思える。だが、調査結果の通り、年金受給者が老後に資産を減らす割合はとても低い。

 理想は、40代、50代ぐらいで財産額がピークを迎え、そこから少しずつ使って減らしていき、死ぬときにゼロに近くなっていることだ。

 でもほとんどの人がそうではない。歳をとってからも資産が増え続ける。といってそのお金を使ってやりたいことがそうあるわけではない。

「子や孫に遺産を残せるならそれでいいじゃないか」という人もあるだろうが、相続させるにしても早く財産を渡してあげるほうがいいと著者は書く。たしかにその通りだ。60歳になって親が死んで遺産をもらうよりも、30歳のときに生前贈与されるほうがいい。若いときのほうが使い道が多いのだから。

 それに生きているうちにちょっとずつ渡すほうが、税金も少なくて済むし、無用な相続トラブルも避けられる。



 

 そもそも、同じお金の価値が、年代によって異なると著者は語る。

 経験から価値を引き出しやすい年代に、貯蓄をおさえて金を多めに使う。この原則に基づいて、支出と貯蓄のバランスを人生全体の視点で調整していくべきである。
 私たちはずっと、老後のために勤勉なアリのように金を貯めるべきだと言われてきた。だが皮肉にも、健康と富があり、経験を最大限に楽しめる真の黄金期は、一般的な定年の年齢よりもっと前に来る。
 この真の黄金期に、私たちは喜びを先送りせず、積極的に金を使うべきだ。老後のために金を貯め込む人は多いが、「人生を最大限に充実させる」という観点からすれば、これは非効率的な投資だ。
 単にまわりがそうしているからという主体性のない理由で貯めている人も多いが、金は将来のために取っておいたほうが良い場合もあれば、今使ったほうが良い場合もある。その都度、最適な判断をしていくべきなのである。

 たしかにそうだ。80歳になって使う100万円よりも20歳で使う100万円のほうがずっと楽しいに決まっている。

 一般に、歳をとるほど同じ額のお金から得られる喜びは小さくなる。財産が増えることもあるし、感受性が鈍ることもある。

 ぼくは小学生のとき、お年玉を銀行に預けていた。そのお金は結局大人になるまで引き出すことはなかった。何万円かにはなったはずだ。

 すごくもったいないことだ。今なら一日か二日で稼げる額だ。数万円好きに使っていいよ、と言われたら、じゃあちょっといい食事をして、服でも買って、それで終わりだ。でも学生のときに自由に使える数万円があったらどれだけ楽しめただろう。

 どうせ使うなら若いときのほうがいい。同じ二泊三日の旅行でも、得られるものがぜんぜんちがう。




 お金はいつまでも貯めとける。それがお金のいいところでもあり悪いところでもある。

 有給休暇は二年使わなかったら消滅するじゃない? お金も同じような仕組みならいいのにね。手にしてから二年使わなかったお金は消滅する。だったらいやおうなしに使うもの。まあでも不動産とか株とか金(きん)とかに流れるだけか。

 お金は貯めとけるので、必要以上に稼いでしまう。食物だったら「これ以上収穫しても腐らせてしまうだけだからこのへんでやめとこう」となるけど、金を稼ぐのはやめどきがわからない。

 実際、ウェアが患者から聞いた後悔のなかで2番目に多かったのは(男性の患者では1位だった)は、「働きすぎなかったらよかった」だ。これは、まさに私が本書で主張していることの核心だとも言える。
 「私が看取った男性はみな、仕事優先の人生を生きてきたことを深く後悔していた」とウェアはつづっている(女性にも仕事をしすぎたことを後悔する人はいたが、患者の多くは高齢者であり、まだ女性が外で働くのが珍しい時代を生きてきた人たちだ)。
 さらに、働きすぎは後悔しても、一生懸命に子育てしたことを後悔する人はいなかった。多くの人は、働きすぎた結果、子どもやパートナーと一緒に時間を過ごせなかったことを後悔していたのだ。

 ぼくの友人に自分で事業をしている男がいて、そいつはけっこう稼いでいるらしいのだが、家族で食事をしているときでも、友人たちと遊んでいるときでも、仕事の電話がかかってきたらすぐに出て対応している。

 大金を稼ぐためにはそれぐらいしないといけないのかもしれないが、プライベートの時間を切り売りして稼ぐことにそんなに意味があるの? とぼくはおもってしまう。

 じっさい、そいつと遊ぶことは減ったし。仕事のほうを優先する人は遊びに誘いにくいんだよね。




 人間にはずっと未来のことを想像する力がある(だからこそ貨幣というものが価値を持つ)。

 しかしそのせいで、未来を心配するあまり、現在の価値が低く扱われてしまう。


 ぼくはこの本を読んで、考え方ががらっと変わった……とはならなかった。でも、ちょっとだけ変わった。もっと今を大事にしたほうがいいな、と。

 とりあえず、どっちを買うか迷ったときに値段を理由に選ぶのはやめよう、とおもった。今までは「ほんとはこっちのほうがいいけどちょっと高いんだよな……」と躊躇していた場面で、ほんとにいいものを選ぶようにしようとおもう。

 まずは清水の舞台から飛び降りた気持ちで1500円のランチや!


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2025年1月1日水曜日

M-1グランプリ2024の感想


 M-1グランプリ2024の感想。

 いつもは早めに書くんだけど、今年はあまり書く気がおきなかった。つまらなかったわけではなく、むしろ逆で、「いいものを観たー!」と満足してしまって、何かをつけたしたいという気にならなかったんだよね。

 それぐらいいい大会でした。


敗者復活戦

 個人的におもしろかったのは、

・顔だけで蝶の羽化を表現したダンビラムーチョ(深夜だったら優勝だったかも)

・強いフレーズで舞妓の世界を描いたマユリカ

・人の性と理性というテーマで漫才をした男性ブランコ

・大したことを言ってないのになぜだかずっとおもしろかったシシガシラの浜中クイズ

 ドンデコルテはまだまだ良くなりそうな気がした。いいフォーマットを見つけたね。二年後ぐらいに決勝行くかもねえ。

 敗者復活戦ではしっかり作りこまれたネタよりもばかばかしい漫才の方が映えるね。



■1st Round


令和ロマン (理想の苗字)

 「どんな苗字がいい?」という導入ではなく、「子どもにどんな名前をつけるか」という話から広げていく構成がうまい。令和ロマンの漫才って、唐突なところがまったくないんだよね。すべてが流れるように進んでいく。相当練りこまれているのを感じる。

 全体の流れがスムーズだから、ちょっと難しめのボケでもパワーで押し切ってしまう。ふつうさ、ビャンビャン麵、幼卒、刀Yなんて文字にしないと伝わらないじゃない。それで笑わせる力がすごい。

ビャンビャン麺のビャン

 令和ロマンのうまいところは、難解なボケとわかりやすいあるあるを混ぜてくるところだよね。ほけんだよりの風船とかね。テレビで観てたら「保護者会で漫才したいだろ」でなんで拍手笑いが起こるのかわからないんだけど(本来ならジャブ程度だよね)、そこにいたるまでの雰囲気や口調でねじ伏せてしまう。きっと生で観たらもっとおもしろいんだろうな。


ヤーレンズ (おにぎり屋さん)

 なんかちょっと間が悪かったな。本人たちも感じていたのか、ちょっと言葉に詰まっていた箇所が。ヤーレンズのようなテンポが命のコンビがリズムをくずされたら致命的だよなあ。

 テンポとネタがあってないように感じた。石川啄木、石川さゆり、KAT-TUNなどのこみいったボケはもうちょっと時間をかけてくれないと処理しきれない。

 緩急を少なくしてボケを詰めこんだことが去年の躍進の原因だったが、今年はそれが裏目に出てしまったなあ。疲れてきた時間帯に出てきたらもっとよかったんだろうけどね。


真空ジェシカ (商店街ロケ)

 毎度感心するのが導入の鮮やかさ。「子育て支援だろ、おまえがちゃんと否定しろこういうときは」と、導入でもきっちり強いパンチを叩きつけてくる。

 一個一個ボケの強度もすごいんだけど、真空ジェシカのすごいところはそれを単発にしないところ。

 ジャンプみたいな商店街→「ジャンプは最後までおもしろいんですけど」→「出口が近そうだな」の鮮やかさ(「迷走してる店が増えた!」と明言しないところがオシャレ)。

 武田よく寝た→もらい画像→ゆうじという人、「偏った政党のポスター」偏った政党大喜利→「今年の都知事選みたい」のように二つ三つ追撃を入れてくるのがすごい。

 都知事選もそうだが、「TVer?」や薬指を立てるボケのようなあぶなっかしさも魅力。いやあ、真空ジェシカってずっとクオリティ高いんだけどそれがさらにレベル上げてくるんだからすごいねえ。

 ネタもすごかったけど、ネタ後の「優勝するかもしれませんからね」に対する即座の「それみんなそうですから」も見事だった。天才だ。


マユリカ (同窓会)

 令和ロマンや真空ジェシカの緻密で隙の無いネタを観た後だったので、いろいろ粗さが目立ってしまった。同窓会という設定なのに女の子が校歌をはじめて聞いた設定とか。

 あとツッコミのセリフもいろいろ間違えてなかった?「どんな顔して明石海峡大橋渡ったん?」とか、最後の「なんでゆで卵担当せなあかんの」に「あんたらモーニングセットの」をつけたしたところとか。それがベストではないのでは、という気がした。

 ネタのうまさで魅せるコンビではなく、関西の漫才師に多いしゃべりのうまさで勝負するタイプなので、その分パワーのあるネタを持ってきてほしかった(その点敗者復活戦ではこの二人が舞妓を演じているだけでおもしろかったのでよかった)。

 去年もネタ後のトークがおもしろかったけど、今年も「大急ぎで負けに来たんですか?」「うんこサンドイッチの顔」などしっかり強い印象を残してくれた。


ダイタク (ヒーローインタビュー)

 ずっとストロングなしゃべくり双子漫才をやってきたダイタクが、ラストイヤーでM-1グランプリに合わせたこじんまりした枠に収める漫才をしているのを見てちょっと寂しくなってしまった。枠がある分笑いやすいけど、広がりを感じなかった。

 でも地元のショッピングモールに営業に来ていちばん笑うのはダイタクなんだろうな。とにかくわかりやすいし、どこを切り取ってもおもしろい。

 M-1の場にはちょっと合わなかったけど、THE SECONDにはあってるとおもうので、来年以降のダイタクが楽しみ。


ジョックロック (医療ドラマ)

 最初の「やっぱりちょっとカードつくるの怖いなー」がめちゃくちゃ良くて、次の「あんまぴんとこない人は健康な人生で良かったですねー」も良かっただけに、後半がしりすぼみになってしまった。あれだけたっぷり間をとってツッコむんなら、相当パワーがないとね。

 間が長いので、野外ステージとかでやったらすごくウケそう。

 とはいえ、システムが明るみになったここからは大変だろうね。余計な心配かもしれないが、南海キャンディーズが最初のインパクトを超えられなかったのを思い出してしまう。


バッテリィズ (偉人の名言)

 アホ漫才と言われていたが、とんでもない。すごく精密に練られた漫才だった。「悩んだことない」「名前書き忘れて落ちた」「毎日楽しいぞ」でしっかりエースのアホさを伝えておいて、徐々に名言に対するピュアなツッコミを聞かせてゆく。

 ただのアホにならないよう、楽しませたるわ、謝れるのはえらい、生きるのに意味なんかいらんねんなどポジティブな言葉でエースの魅力を伝えていく。たぶんほとんどのお客さんはバッテリィズは初見だったとおもうのだが、この数分間でみんなエースを好きになったんじゃないだろうか(だからこそ最後に頭を叩くツッコミをしたのは余計だったかな)。

 コントラストを利かすために寺家さんが落ち着いた口調で引き立て役に徹していたのも見事。こういうコンビで、相方が目立った時に負けじと前に出てくるツッコミも多いのだが、ネタ中もネタ後も寺家さんは後ろに引いていてすばらしい立ち居振る舞いだった。名捕手だなあ。


ママタルト (銭湯)

 ママタルトの漫才の魅力は檜原さんの長ツッコミにあるとおもうんだけど、初めて見る人はやっぱり大鶴肥満さんの巨躯に目を奪われてしまうのでこんな感じになっちゃうよなあ。もっとわかりやすいネタがあったとおもうんだけど。

 みんなの桶が、とか、子どもが車道に、とかは絵が浮かんできておもしろかったんだけどね。あんな感じのファンシーなネタを期待しちゃったな。「こんなにシャンプー丁寧やのに」とか、長々と待ったわりには伝わりにくかったな。

 審査員の点数が出るたびに顔を作っていたのがおもしろかったよ。


エバース (桜の樹の下で待ち合わせ)

 ツカミもなく、丁寧にフってからのボソッと「さすがに末締めだろ」はしびれる。声を張りたくなるとこだとおもうけど。勇気あるなあ。

 強靭なストーリーもさることながら「土地開発か」「女の子って空間把握能力ほとんどないもんね」「女町田」など、フレーズも言い方もおもしろい。強面のツッコミなのに優しさがにじみ出ていてどんどん引き込まれている。

 エバースはどのネタもすばらしいし二人の魅力も優れているし、完璧なコンビだよね。

 ぼくはエバースを大好きなんだけど、今回負けたことでちょっと安心した。ああよかった、これで来年以降もエバースの漫才をM-1で観られる。まだまだいいネタいっぱいあるし、キャラクターが知れ渡っても不利になるタイプじゃないし。一回で優勝しちゃうのはもったいない。それぐらいいいコンビ。


トム・ブラウン (ホストクラブに通う女の子の肝臓を守りたい)

 ふはははは。客にぜんぜんハマってないのが余計におもしろかった。ずっと何やってんのかわかんねえんだもん。

 二発撃つことにまったくツッコまないとか、「『Night of Fire』アラームにすんなよ!」のツッコむところそこじゃねえだろ感とか。コンテストの場じゃなくて、みんなで「何やってんだよ!」とか言いながら見るのにふさわしいネタだよなあ。

 いやあ、トム・ブラウンが世に認められる世界でよかったなあ。


■最終決戦


真空ジェシカ (ピアノがでかすぎるアンジェラ・アキのコンサート)

 いやあ、すばらしかった。これまでにM-1で観た二百本以上のネタの中でもトップクラスのおもしろさだった。

 ピアノがでかすぎることや歌詞がめちゃくちゃであることやぶちぎれるアンジェラ・アキが怖すぎることの説明が一切ないのがいい。わからないのにわかる。震えているガクさんの姿だけでも似合いすぎてずっとおもしろい。

 むちゃくちゃな設定なのに「信じる神によるけど」や「静かすぎて隣の長渕がうっすら聞こえてくる」といった深いボケが真空ジェシカらしい。ボケのためのボケじゃなくて、ちゃんとその世界に入りこんでいるからこそ出てくる発想だよね。

 トム・ブラウンのばかばかしさと、令和ロマンの緻密さの両方を兼ね備えたすばらしいネタだった。


令和ロマン (タイムスリップ)

 あの短時間で一人何役もこなしているのにスムーズに見られる表現力がすごい。

 一本目の席替えのネタとはうってかわって、なぜか固い、無言の乗馬、じじいの知ったか、泣く子には勝てないなど重めのボケが連なる。そして2.5次元、バトルシーン、歌で後半に盛り上がり所をつくる。憎らしいほど隙のない構成。

 所作のひとつひとつまでじっくり計算されているんだろうなあ、と感じた。


バッテリィズ(世界遺産)

 うーん、構成がしっかりしすぎてるな。お墓の畳みかけとか、芝居がかった言い回しとか。客がバッテリィズに求めていたのはこういうんじゃなかったんじゃないかなあ。もっとシンプルなつくりでエースの魅力が全面に出てくるような。

 まず最初に「世界遺産ってのがあるらしいねんけど」とエースが振るのがちがうんじゃない?

 とはいえ、お餅焼いてるとこが楽しいとか、公園や鍵穴にわくわくするとことか、エースのピュアさを伝えるのには十分すぎるネタ。



 いやあ、すばらしい大会だったね。

 2009年大会もそうだったけど、優勝候補とされているコンビが前半に出てくると、お客さんが後のことを気にせずめいっぱい笑える感じがある。後半のコンビへの期待が高まりすぎないのもいいしね。


 どのコンビもおもしろかったけど、やっぱり令和ロマンと真空ジェシカが頭ひとつ抜けていたように感じる。1本目の1位はバッテリィズだったけど、そこは出番順次第で変わってただろう。でも令和ロマンと真空ジェシカはどの出番順でも高確率で最終決戦に進めたんじゃないだろうか。それぐらい完成度が図抜けてた。

 もう来年の大会が楽しみ。真空ジェシカやエバースはまだまだいいネタあるだろうしなあ。


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