2024年に読んだ本の中からベスト10を選出。
去年までは12冊ずつ選んでいたけど、今年は10冊にしました。
なるべくいろんなジャンルから。
順位はつけずに、読んだ順に紹介。
来年もおもしろい本に出会えますように……。
2024年に読んだ本の中からベスト10を選出。
去年までは12冊ずつ選んでいたけど、今年は10冊にしました。
なるべくいろんなジャンルから。
順位はつけずに、読んだ順に紹介。
来年もおもしろい本に出会えますように……。
かけだしのアイドルとして生きる少女を主人公にした小説。
炎上やSNSでの批判を乗り越え、武道館ライブを目指すアイドルグループ。しかし主人公が幼なじみの男の子と恋仲になってしまい……。
ぼくの話をすると、アイドルというものにはまるで興味がない。どっちかっていうと嫌いだ。
特にぼくが音楽というものに興味を持ちだした90年代中盤は、アイドルなんてくそくらえという時代で、アイドルが好きとかいうより、そもそも女性アイドルがいなかった。
ちょっと前はおニャン子とかがいて、90年代後半からはモーニング娘。が台頭してくるんだけど、ちょうどその間ってほんとに女性アイドルがいなかった。女性グループはあったけどSPEEDとかPUFFYとか「かっこいい女性」をめざしているような感じで、少女性を売りにしたようなアイドルグループは(少なくともメジャーには)存在していなかった。
だから高校生になってはじめて、モーニング娘。という“いわゆるアイドル”を目にしたとき、とっさに嫌悪感をおぼえた。意識的に避けていたのをおぼえている。
その理由が当時はわからなかったんだけど、今にしておもうと、その商品性が気持ち悪かったんじゃないかな。
アイドルって「商品」感が強いじゃない。アーティストではなく、商品。その背後で糸を引いている大人の存在が強く感じられてしまう。
もちろんロックシンガーだってシンガーソングライターだってその周囲にはたくさんの大人が商売として関わっているわけだけど、そこまで不自由な感じがしない。表現者としての意思を感じる。
アイドルは、当人たちの意思よりもその後ろにいる“大人たち”の意思が強く感じられる。あと子役も。だから気持ち悪い。
『武道館』は小説なのでもちろんフィクションなのだが、ある程度は事実に即している部分もあるのだろう。
読んで、あらためてアイドルはグロテスクな稼業だな、とおもう。
他にある? 恋愛禁止なんて決められる職業?
それってつまり、アイドルは365日24時間アイドルでいなきゃいけないってことだよね。
テレビでは明るく振るまっている芸人が私生活では物静かだったり、怖い役ばかりしている俳優が実は優しい人だったりしてもいいわけじゃない。「イメージとちがう」ぐらいはおもわれるだろうけど、それで所属事務所から怒られるということはないだろう。
でも、アイドルに関しては私生活にまで干渉することがまかりとおっている。
まあ実際は「恋愛するな」ではなく「恋愛するならばれないようにやれ」なのかもしれないけど、今みたいに誰もが写真や動画を撮って広めることのできる時代だとそれも厳しいだろう。
そのアイドルを嫌いな人たちが、彼女たちが不幸になることを願うならば、まだわかる。だがもっとひどいことに、アイドルのファンたちが、彼女たちが恋愛をし、ステップアップし、歳をとることを拒絶する。応援している人たちが足をひっぱる。なんともグロテスク。もちろんそんなファンだけではないんだろうけど。
『武道館』はアイドル業界の暗部を描きながらも、最終的には希望をもたせたエンディングを見せている。
でも、特にアイドルに思い入れがない、どっちかっていうと懐疑的に見ている人間からすると、ずいぶんとってつけたハッピーエンドに見えてしまう。まあ、アイドルファンはそうおもいたいよね。なんだかんだあっても最終的にアイドルが幸せになっているとおもいたいよね。自分たちが若い女性の人生をつぶしたとはおもいたくないよね。そんな願望を都合よく叶えるラストにおもえてしまう。
アイドル好きが読んだらまたちがった感想になるんだろうけど、まったく興味のない人間が読むと「やっぱりアイドル業界って狂ってんな」という感想しか出てこないや。
空想地図作家(存在しない街の地図を空想で描いてる人)である今和泉隆行さんが子ども向けに地図のおもしろさを伝える本。
問題(ただひとつの正解があるとは限らない)と解説がセットになっているので読みやすい。
地図に関する幅広い内容を扱っているのでちょっと地図に興味がある、ぐらいの子どもにはちょうどいい内容かもしれない。
今和泉さんのファンでありこれまでに何冊か著作を読んでトークショーを聴きにいったぼくにとってはほとんどが既知の内容だったけど……。
地図は魅力的だ。ぼくは地図好きとは到底言えないレベルだが、それでも地図は楽しい。
誰しも、近所の地図を描いて遊んだり、オリエンテーリングで地図を見ながら宝探しをすることに喜びをおぼえた経験があるだろう。
地図がおもしろいのは、ありとあらゆることが地図につながっているからだ。
『考えると楽しい地図』では、地図のおもしろさを伝える問題をバランスよくとりそろえている。
地図を見て、ラーメン屋を開くならどこがいいか、図書館を作るならどこが向いてるか、ここから見える景色はどんなのか、川や火口の近くにはどんな施設があるか、自分が江戸時代の藩主だとしてらどこに築城するのがいいか……。
経済、歴史、行政、地学、軍事、法律、あらゆることが地図と密接に関係している。
城下町は敵に攻めこまれにくくするために曲がり角が多いとか、江戸時代は家の間口が広いほど税が高かったので古い町は今でも細長い敷地が多いとか、地図を見ると昔の生活が浮かびあがってくる。
以前、あるラジオで「おじさんは道の話が好きだよね」という話をしていた。
車で□□に行く、という話をしているとすぐにおじさんが寄ってきて、それだったらどの道を通るのがいい、ここで高速を降りて下道を通ったほうが早い、と言いだす、という話だった。
たしかに。世のおじさんには道好きが多い。今まで生きてきた中で蓄えてきたあれやこれやがみんな道につながるから、歳をとると道を好きになるのかもしれない。
今和泉さんのトークショーの中で「より正確な地図を書くためには地形の成り立ちを知る必要があるからプレートテクトニクスを勉強している」という話があった。
そうやってどんどん興味の幅が広がっていくのはすごく幸せなことだ。知に対する興味が衰えない人は一生楽しめる。
日本三大「市のくせに県よりでかい顔をしている市」といえば、神戸市、横浜市、金沢市であることは全国民が知っているところだ(次点で仙台市)。
奇しくも、神戸市には兵庫区があり、横浜市には神奈川区がある。「兵庫(神奈川)の中に神戸(横浜)があるんじゃない、神戸(横浜)の中に兵庫(神奈川)があるんだ」というために兵庫区(神奈川区)をつくったのだろう。あいつらならそれぐらいのことはやる。
だが石川区はない。そもそも金沢市は政令指定都市ではない。
金沢区はあるが、石川県ではなく、神奈川県横浜市の中にある。横浜はどこまでも貪欲だ。
童謡『おばけなんてないさ』の一番の歌詞はみんなよく知っているように
「ねぼけたひとが みまちがえたのさ」だ。
あまり知られていないが、あの歌は五番まであり、二番以降はAメロを二回くりかえす。
二番は「ほんとにおばけが でてきたらどうしよう れいぞうこにいれてかちかちにちちゃおう」
三番は「だけどこどもなら ともだちになろう あくしゅをしてから おやつをたべよう」
四番は「おばけのともだち つれてあるいたら そこらじゅうのひとが びっくりするだろう」
五番は「おばけのくにでは おばけだらけだってさ そんなはなしきいて おふろにはいろう」
いい歌詞だ。世界の広がりがある。
一番はただ今の心情を歌っているが、二番では「でてきたらどうしよう」と心配から空想になる。
三番、四番はその空想を発展。「ほんとにおばけがでてきたら」「こどもなら」「つれてあるいたら」と想像の上に想像を重ね、ともだちになったおばけと歩く空想までしている。
五番では「そんなはなしきいて おふろにはいろう」と一気に現実に引き戻される。夢オチみたいなものだ。ここだけ、前の章とのつながりが途切れているように感じる。
だが、“おばけだらけだってさ” “そんなはなしきいて”を読むと、歌い手におばけの話をしてくれた者がいることがわかる。それは誰か。おとうさんやおかあさんとも考えられるが、ぼくは“おばけのともだち”じゃないかとおもう。おばけのくにの話を聴かせてくれるのはおばけだろう。
つまり五番は現実に引き戻されたわけではなく、まだ空想の中にいるのだ。空想の中で空想のおばけから空想の話を聴いて、空想の中でおふろに入ろうとしているのだ。
どこまでも広がってゆく空想。空想に終わりなんてないさ。
人を指導する立場にある人がつい使ってしまう「叱る」。だが、指導される側を成長させるのにはほとんど役立たないことがわかっている。だがいまだに指導の現場では「叱る」は広く使われている。なぜなら「叱る」ことには(悪影響もあるとはいえ)効果があるとおもわれているから。
著者は、「叱られることでがんばれる」「叱られることに慣れていないと社会に出てから苦労する」といった通念が誤っていると指摘する。
叱った相手が頭を下げて「ごめんなさい」と言った。こちらは「ああ、理解してもらえた」とおもう。だが相手は深く反省などしていない。「なんかこの人は怒っているからこれ以上刺激しないように頭を下げて嵐が通りすぎるのを待とう」とおもっているだけだ。
これはよくわかる。ぼくはこれまでの人生で何千回と叱られてきたが、叱られている最中に深く反省していたことなんてほとんどない。反省したとしても「今度は叱られないようにしよう」とおもうだけで、行為自体を反省することはほとんどない。
以前勤めていた会社でのこと。ぼくが最終退出者だったのだが、オフィスの電灯を消すのを忘れて帰ってしまった。
翌朝、上司から怒られた。「昨日電灯つきっぱなしだったぞ」と。ぼくが悪いので「すみませんでした。気を付けます」と頭を下げた。だが上司の説教は止まらない。ミスがないように注意しなきゃだめじゃないかとか、電気代がもったいないとか、ねちねちと続けてきた。
聞いている間、ぼくは反省などしていない。「今さらどうしようと消し忘れてしまった事実は取り消せないし、対策としては気を付けますとしか言いようがない。タイマーを導入してシステム的に消し忘れを防ぐことはできるかもしれないが、得られるものとコストを比較したら現実的じゃないしな」とおもうだけだ。
ぼくが反省していない(いや最初は反省してたんだけど)ことが伝わったのか、上司の説教はさらにヒートアップしてきて、しまいには「火事になったらどうするんだ」なんてわけのわからないことまで言いだした。ぼくは「何言ってんだこいつ」とおもう。それが伝わり、上司はますます感情的になる……。
いやー、実に不毛な時間だった。
こういう不毛な時間を回避するには「深く反省しているふりをする」が最善の方法となる。いろんな組織に「怒りっぽい人」がいるが、その周りの人は「反省しているふり」ばかりがうまくなる。お説教を早くやりすごすために反省しているふりをする。叱っているほうは気分が「指導できた」と勘違いして気分が良くなり、味をしめてますます叱るようになる……。
「叱る」ことは意味がないどころか、指導という点では逆にマイナスの効果があると著者は指摘する。
「冒険モード」とは学習意欲が高まった状態のこと。叱られることで学習意欲は低下し、やる気もなくなる。当然結果は悪くなるので叱る側はますます腹を立てて叱るようになり……という悪循環が生まれる。
叱ることで得られるものは「相手を思考停止にさせる」ことだけ。
だから「赤信号で飛び出そうとする子どもを叱る」のは効果がある。何も考えずに足を止めさせることができるので。
ただしそこから「赤信号で飛び出そうとしたら車に轢かれるかもしれない。これからは交通安全に気を付けて行動しよう」という学びを得させることはできない。
また、悪いやつが「いいからとにかくハンコを押せ!」というときも叱ることは効果的だ。思考停止にさせたほうがいいので。
指導・教育をする上では効果がない(それどころか妨げになる)にもかかわらず叱る指導をしてしまうのは、叱られる側ではなく叱る側にあると著者は語る。
他人を叱ることが快楽をもたらすのだ。ネットの“炎上”もこういうケースが多い。やらかしてしまった人たちに無関係の人たちが群がり、非難の声を上げる。
あれも「叱る」行為の一種だろう。自分とは関係のない出来事でも、叱ることが気持ちいいから叱ってしまうのだ。
よく叱る人は、たいてい自分に問題があるとは考えない。「自分だってほんとは叱りたくない。叱られるようなことをするこいつが悪いんだ」という思考になる。
だがそれは正しくない。あくまで原因は“叱る側”にあるのだ。酒自体が悪いのではなく酒を飲む側に問題があるのと同じく。
「何度言わせるんだ!」と叱りつづける人がいるが、問題は叱る側にあるのだから、自分が変わらないかぎり、叱る原因がなくなることはない。
著者の書いてあることはよくわかる。
ただなあ。現実的に、子どもを育てたり、多くの人を指導したりする上で、まったく叱らないというのは難しいんじゃないかな。
進学校の高校教師が「叱らずに生徒指導をする」のはそんなに難しくないかもしれない。でも、いわゆる荒れてる学校、学習障害すれすれぐらいの子だらけの学校で「叱らない指導」はできないとおもう。
「叱らずに指導をする」ってのはある一定の知性や常識や意欲を持ちあわせている相手には有効でも、そうじゃない相手もいるわけで。野生のクマ相手に「話せばわかる!」と言ってもしかたないのと同じく、ある程度言葉が通じないと「叱らない指導」はできない。
これもなあ。ときどきほんとに「叱る」からこそ、抑止として使えるとおもうんだけど。原爆の怖さを知っているから核が抑止力になるわけで。
著者は、人は叱られると「防御モード」になって思考停止・逃避・反撃に向かい、うまく褒められると「冒険モード」になって学習意欲が高まると書いてある。
一般的な傾向はそうかもしれないが、例外も多い。
たとえば叱らずに普通に話をしただけで「防御モード」になる人は大人でも子どもでもけっこういるんだよね。「なんでこれをしたの?」と(怒らずに)聞いても、攻撃されたと感じて言い訳や反撃をしはじめる人が。
うちの長女がまさにそうで、こないだ風呂に入らずに寝ようとしていたので「お風呂入って」と言ったところ、「入ったし!」と怒りだした。一応確認したが、髪の毛も脱衣所もまったく濡れていない。そのことを指摘しても「乾かしたのっ!」とキレる。娘が洗面所に行ったのは5分ぐらいなのでその時間で髪と身体を洗って髪(肩を超える長さ)を乾かすことなんてぜったい不可能なのだが、それでも「入った!」と嘘をつく。
さんざん話してもらちがあかないので、こっちも「おまえの嘘や言い訳なんかどうでもいいからさっさと風呂に行け!」と怒鳴って、半ば引きずるようにして風呂に行かせた。
自分でも大人げない対応だったとはおもうが、この場合、他に方法ある?
風呂に行かず、嘘をつき、嘘を指摘されたら逆ギレしてくる相手に対して「叱る」以外の対応ある?
自分から風呂に行きたくなるまで何日でも何ヶ月でも待てばいいの?
子育てしてたらこの類いの「子どもがすぐばれる嘘をつく」とか日常茶飯事だし、なんなら大人でもけっこういる。
アドバイスされただけで「防御モード」になって牙を剥いて食ってかかってきたり、嘘に嘘を重ねて逃げようとする人間が。ぼく自身もそういう子どもだったのでよくわかる。
無限の時間と忍耐力があれば辛抱強くつきあって心を開かせることができるのかもしれないが、現実的にそいつだけに向き合ってもいられない。
ベストな方法ではないかもしれないけど、叱るしかないときってあるんだよね。
叱らずに指導しましょうっていうのは「すべての国が武器を捨てればいいのに」っていうのと同じで、理想ではあるけど、現実的にはまずムリ。
きっと著者の周りには、攻撃的な人や信じられないような嘘つきがいないのだろう。幸せなことだ。
この本で書かれていることは理想論すぎるけど、「叱ることは快楽をもたらす」と知っておくことは大事だね。
叱る前に「これは場をうまく収めるために必要な説教か、それとも自分が気持ち良くなるための説教か」と考えるようにしたい。できるかなあ。
制汗スプレーの説明に「汗を抑えてすっきり! クールミントでひんやり! 熱中症対策に効果的」みたいなことが書いてあった。
いやいや「汗を抑えて放熱を妨げる」「クールミントで冷えた気分になるけど実際の体温は下がっていない」って、熱中症対策としては完全に逆効果じゃないか。
無知ゆえなんだろうけど、さすがに厚労省が叱ったほうがいいぜ。
童謡『おばけなんてないさ』の2番の歌詞に
れいぞうこにいれて カチカチにしちゃおう
とある。
おばけは冷蔵庫でカチカチになるんだ。
ということは5℃ぐらいで固体になるわけだ。
液体のおばけというのは聞いたことがないから、気体からいきなり固体になるのだろう。
……おばけってほぼ二酸化炭素(冷やすとドライアイスになる)なんだな。
ちがうのは、おばけは肝を冷やすのに対し、二酸化炭素は地球を温暖化させる点だけだ。
「これでわかった!? 今度のコンクールでクラリネットを吹くのはア・タ・シ! あんたはオーディションで負けたんだから別の木管楽器でも吹いてなさい!!」
負け犬のオーボエ。
娘(小学五年生)と、その友だち(女の子二人)といっしょにファミレスで食事をする機会があった。
女の子たちは「ピザをとってみんなで分けよう」と言い、一枚のピザを頼んだ。
興味深かったのが、ピザの分け方。
三人いたので、まずピザカッターでピザを六つに分ける。とはいえもちろん均等に分けることなんてできないから、大きさはばらばら。
「けっこう大きさちがうね」「どうするー」と話していた彼女たちは、驚いたことに、なんと大きなピザの押し付けあいをはじめた。
「わたしこの小さいのでいいから大きいのどうぞ」
「いやいや、〇〇ちゃんが大きいの食べなよ」
「いいって。△△ちゃんが食べて」
遠慮かなとおもっていたら、いつまでたっても押し付け合いが終わらない。どうやら彼女たちは本気で大きなピザをとることを嫌がっているようだ。
結局、大きなピザをさらに分割してなるべく公平に近づくようにして、さらにじゃんけんをして、じゃんけんで負けた子がいちばん大きなピザを食べることになった。
その様子を見ていて、女子だなあと感心した。
これが男子ならどうだろう。よほどの満腹とかでないかぎりは、「おれが大きいのを食べたい!」で揉め、じゃんけんをした場合は「勝った人がいちばん大きいものを取る」になるだろう。もしかすると、話し合うより先に誰かが「早い者勝ち!」といちばん大きいピザをつかんでしまうかもしれない。
男子はこうだ女子はどうだと言うのもアレだけど、やっぱり傾向として違いはある。
たとえ軋轢や争いが生じても己の欲を優先する男子と、争いを避けることが最優先でとにかく妬みや恨みを買いたくない女子。
「ピザの分配」にはっきりと違いが表れていると感じた。
かつては優等生で自信に満ちあふれていたが、自信を失い卑屈になっていった大学生の主人公。彼のもとに、連続殺人犯として収監されている死刑囚・榛村大和から手紙が届く。
刑務所に面会に行くと、榛村大和は語る。たしかに自分は罪のない少年少女八人を己の快楽のために殺した。それは認める。だが裁判で自分がやったとされた九件目の罪だけは冤罪だ。やってもいない罪で裁かれたくはない。真犯人は他にいる。君に見つけてほしい――。
はたして榛村大和が語っている内容はどこまで本当なのか。九人目を殺した真犯人がいるとしたら誰なのか。そして榛村はなぜ、さほど接点のあったわけでもない自分を指名して手紙を送ってきたのか――。
よくできたミステリだった。というより、ミステリだとおもって読んでいたらサスペンスというかホラーというか。
冤罪をテーマにしたミステリでいうと高野 和明『13階段』が有名だ。とある死刑囚の冤罪を晴らすために調査をする話。
冤罪ということになれば、「犯人とおもわれていた人物が犯人でない」と同時に「真犯人が別にいる」という真相があることになる。両面からドラマを作れるので、気の抜けない展開になる。
『死刑にいたる病』も中盤までは『13階段』と似ている。ああこういうパターンね、ということはきっと主人公は少しずつ真相に迫り、真相に迫ったところで真犯人に……という展開になるんだろうな、とおもいながら読んでいた。
が、ぼくの予想はまんまと裏切られた。なるほどね。ミステリとしてのおもしろさよりもシリアルキラーの不気味さを掘るほうに持っていったわけか。
これはこれでありだね。ミステリとしてはこうなるだろう、という予想を裏切るのが逆説的にミステリっぽい。
きれいに謎が解けてすっきり終わる話じゃないからこそ、いい意味でもやもや感が残る。個人的には鮮やかな謎解きよりも「なんかしっくりこないものが残る」この展開のほうが好きだな。
笑い飯の足跡を中心に、M-1グランプリの歴史(笑い飯が主軸なので主に2001~2010年)をふりかえるノンフィクション。
ひとつひとつのエピソードはテレビやWebメディアのインタビューなどで語られたものも多いのだが、これだけ多くの証言をもとに網羅的に書かれたものはめずらしい。
ひとつには、「お笑いを語るのはダサい」という風潮のせいだろう。お笑いにかぎらず、サブカルには「言語化されないからこそおもしろい部分」というのが存在している。深く携わっている人の間ではうっすらと共有しているけどあえて語らない。語らずして共有することで共犯関係が築かれる。わざわざ語る人は「野暮」「無粋」「つまんねえやつ」とみなされる。
だからこの本に載っているインタビューを集めるのに著者はすごく苦労しただろうな、と想像する。「ぼくたちこんな苦労をしてきたんですよ。あの大会のときはこんな算段で漫才を作りました」なんて語っても芸人からしたら損しかないもんな。
特に漫才は「即興っぽさ」が大事な芸だ。台本があっても、さも今おもいついたかのように語る芸。余計に裏話は求められない。
こういう考えが、四半世紀前の芸人の多数意見だっただろう。だが今では少数派かもしれない。
変わった要因はいくつかあるだろうが、そのひとつが、M-1グランプリという大会だ。M-1グランプリはただの演芸番組ではなく、ドキュメンタリーでもあった。舞台裏を映し、予選を映し、負けて悔しがる漫才師を映し、大会に向けて努力する漫才師を映した。今ではめずらしくないが、大会が始まった2001年にはこれは画期的なことだった。『熱闘甲子園』をお笑い番組に持ちこんだのがM-1グランプリだった。
ふざけたことをやらないといけないのに、真剣にやっているところを見せないといけない。相反する難題をつきつけるからこそM-1は難しい。多くの芸人がそのせいで道を踏みあやまった。
だが、難しいことをやっているからこそおもしろいのもまた事実だ。
九年連続決勝進出という空前絶後の大記録を打ち立てた笑い飯のネタ作りについて。
ばかなことを言い合いながら作っているように見える笑い飯の漫才だが、実際は沈黙の中で作られているという。何時間もじっと座ってひたすら考える。会話もなく、おもしろいやりとりを。小説家みたいなネタの作り方をしているんだな。それであの漫才が生まれるのは、ほんとふしぎ。
が、どれもM-1グランプリには及ばない。
大きな理由として、在阪局であるABC放送が番組を手掛けていることがある。
ABC放送の漫才への愛情の深さは、番組作りのいたるところから感じられる。漫才番組は通常、客が笑っている様子を頻繁に映す。それによって、ついてこられていない視聴者も「おもしろいんだ」という安心感を得られるからだ。
そういや関西ではいろんなお笑い賞があるが(NHK上方漫才コンテスト、上方漫才大賞新人賞、ytv漫才新人賞、かつてやっていたMBS漫才アワード)、ぼくはABCお笑い新人グランプリがいちばん好きだ。
単純に番組としておもしろいし(M-1グランプリよりおもしろいときもある)、何よりネタが聞きやすい。他の賞は漫才に不向きな大きなホールでやるから聞きにくいんだよね。
客の笑い声を足さない、余計なものを映さない、ヤラセをしない、芸人じゃない人に審査させない。あたりまえだけど、それをちゃんとやっている番組は少なかった(今でもそんなに多くない)。あたりまえのことを継続的にやることでM-1グランプリは他の追随を許さない大会になった。
あとは「スタジオに呼ばれたM-1大好き芸能人」と「くじを引くために呼ばれた旬のアスリート」さえなくしてくれれば完璧なんだけどな!