2021年6月21日月曜日

君はよその子

 娘(小二)の友だちについておもうこと。


 Sちゃん

 娘のいちばんの親友。保育園のときからなので、一歳からの付き合い。
 小学校はちがうが、今も毎週のように遊ぶ。
「誰か誘う?」と訊いたらまっさきに「S!」と言う。
 家も近いし、両親も気さくな人なので誘いやすい。

 昨年、不登校になった(このブログにも書いた)。でも二学期ぐらいからふつうに学校に行くようになった。ただ慣れるのに時間がかかってただけらしい。

 よそのおっさんから見ても「頭いいなー」とおもう。頭良すぎて憎らしいぐらいのときもある。
 勉強ができるのもそうだけど、それ以上に場の空気を読むことや、さらには周囲の意見を操作するのがうまい。
 公園で遊ぶとき、自分の好きでない遊びになりそうになったときに、表立って反対するわけでなく「ん-。でもそれだと××だから○○のほうがよくない?」みたいな感じでうまいこと自分のやりたいことに誘導する。
 Sちゃんとその妹がおもちゃをもらうと、「こっちほしい!」とは言わずに、わざと欲しくないほうを「あっ、これ(妹)ちゃんが好きそう!」とか「(妹)ちゃん、これおもしろいよ!」とかそそのかして、巧みに妹にいらないものを選ばせる。メンタリストか。

 そんな子だから、遊ぶときはたいていSちゃんが中心になる。走るのも速いし頭を使ったゲームも強い。
 当分はクラスでも中心人物だろうなあ。


 三兄弟

 こちらも一歳からの付き合い。なんと三つ子(女二人、男一人)。三卵性三つ子。
 娘とは小学校はちがうが毎週遊ぶ。

 三つ子なのに、引っ込み思案、お調子者、しっかり者と性格がまったくちがうのがおもしろい。お調子者がふざけて引っ込み思案と喧嘩になり、しっかり者は我関せずといった様子で冷ややかに見ている……なんてことがよくある。

 うち二人は運動神経がいいのだが、一人はふつう。決して運動が苦手なわけではなく平均ぐらいにはできるのだが、残り二人がよくできるのでどうしても見劣りしてしまう。気の毒だ。

 遺伝子もよく似ていて、育った環境もまったく一緒なのに、ぜんぜん違う三人(顔は似ているが)。
 この三人を見ていると、子どもがどう育つかなんて遺伝子でも育て方でもなく、運で決まるんだなあとおもう。


 Tくん

 娘の保育園のときの友だち。これまた小学校はちがう。
 妙に気になる子。というのも、ぼくの子どものときに似ているから。

 人の話を聞かない、落ち着きがなくてひとところにじっとしていられない、怒ると手が付けられなくなる、好きなことには集中するが興味のないことはまるでだめ、身のまわりのことはだらしない、どんくさい、プライドが高い……。
 子どもの頃のぼくといっしょだ(今もあまり変わっていない)。
 でもTくんの親には言ったことがない。悪口としか受け取られないだろうから。

 昔のぼくを見ているようで、すごく気になる。ちょっとだけ育てたいとおもうぐらい。

 Tくんと会ったときは追いかけまわす。「おーい、Kー! 遊ぼうぜー! おまえの大好きなおっちゃんが来たでー!」と。Kは嫌がって逃げる。だけどぼくにはわかっている。本気で嫌がっているわけではないと。

 このTくん、発達障害と診断されたらしい。
 じゃあぼくもきっと発達障害だったんだろうな。当時はそういう言葉がなかったからばれなかっただけで。
 だからTくん、大丈夫やで。このおっさんもそこそこまっとうに生きてるから。


 Nちゃん

 娘のライバル。
 同じ保育園、同じ学校、一年生のときも二年生のときも同じクラス。家も近い。
 だけどあまり仲良くはない。しょっちゅう喧嘩をしている。

 性格がとにかく娘と合わないのだ。よくいえばおおらか、悪くいえば無神経なNちゃんと、神経質な娘。
 娘が怒ってばかりいる。そしてNちゃんは娘が怒るのが楽しいらしく、わざと怒らせるようなことばかりする。いたずらをしたり真似をしたり。怒られてもへらへらしている。
 娘が悪さをしてぼくに叱られると、すかさずNちゃんが近づいてきて「なあなあ、なんでさっき怒られてたん?」とうれしそうに訊いてくる。人の不幸が大好きなのだ。

 あまりに喧嘩ばかりしているので、だったら近づかなきゃいいじゃんとおもうのだが、小学生の世界は狭いのでなんだかんだで付き合っている。他に誰もいないときは娘からNちゃんを誘ったりもする。そして喧嘩になる。好きにせえ。


 Mちゃん

 娘の小学校の友だち。
 今までずっと保育園の友だちと遊んできたが、この子は小学校からの友だち。

 父親として感じるのは、やっぱり遠慮というか壁があるなってこと。
 保育園からの友だちはとにかく遠慮がない。そりゃそうだ。なんせ向こうが一歳のときからの付き合いだ。ぼくは毎日保育園に行くので、向こうから物心ついたときから近くにいるおっさんだ。当然遠慮がない。容赦なくぶんなぐってきたりする。
 だが小学校からの知り合いであるMちゃんはそうではない。突然ぼくの背中に飛びのってきたり、いきなりぼくのケツを叩いてきたり、ぼくをブタ呼ばわりしてきたりしない(ぼくにSM趣味があるわけではないよ)。
 せいぜいボールを強めに投げつけてくるぐらいだ。

 おっさんはもっと粗雑に扱ってほしいんだけどなあ。さびしいぜ。


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2021年6月17日木曜日

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2021年6月15日火曜日

【読書感想文】求められるのは真相ではない / 奥田 英朗『沈黙の町で』

沈黙の町で

奥田 英朗

内容(e-honより)
北関東のある町で、中学二年生の名倉祐一が転落死した。事故か、自殺か、それとも…?やがて祐一が同級生からいじめを受けていたことが明らかになり、家族、学校、警察を巻き込んださざ波が町を包む…。地方都市の精神風土に迫る衝撃の問題作。


 中学生の学校内での転落死、その中学生は同級生からのいじめに遭っていたらしい……というショッキングな事件をきっかけに、地方都市の中学生、保護者、教師、警察のそれぞれの思惑を描いた群像劇。

 自分の中学生時代を思いだした。それぐらい、中学生の生態をうまく描いていた。


 少し前に重松 清『十字架』という小説を読んだ。中学生がいじめを苦に自殺した後に残された者たちを書いた小説なので、テーマとしては『沈黙の町で』よく似ている。だが『十字架』は教科書のようだった。ありていにいえば現実感に欠けていた。

『十字架』のいじめは、一般的にイメージされるいじめだ。
 たちの悪い不良が、気の弱い同級生をいじめる。暴力で脅して金銭を要求する。周りは気づいているけど見て見ぬふり。
 いじめ自殺のニュースを見たときに多くの人が想像するのはこういういじめだろう。つまり、大人が「こうであってほしい」とおもういじめである。

「どこかにすごく悪いやつがいる」「そいつは自分とはまったく別の人種だ」と考えるのは楽だ。それ以上問題について考える必要がないから。
「ヒトラーがいたから大虐殺が起こった」「政治家が強欲だから政治が悪い」「公務員が怠けてるから財政が厳しい」と、一部の誰かを諸悪の根源と見なして善悪の間にはっきりと線を引いてしまえば、複雑に入り組んだ現実に目を向けなくて済む。

 でも、多くの問題と同じようにいじめもそんなに単純な問題じゃない。
 強いやつが弱いやつにいじめられることもある。いじめられっ子が悪人である場合もある。いじめっ子にやむにやまれぬ事情がある場合もある。またいじめる/いじめられるの関係も容易に逆転する。

『沈黙の町で』は、その複雑な構造を丁寧に書いている。




 小説の序盤で見えてくるのは、「よくある中学生のいじめ」だ。身体が小さくて喧嘩の弱い子が、同級生からいじめられていた。背中をつねられたり、ジュースをたかられたり。
 こういっちゃなんだが、「よくある話」だ。本人にとってはただごとでなくても。

 だが、小説を読み進めるにつれて徐々に真相が浮かびあがる。
 いじめの被害者は「気が弱くて立ち向かえないかわいそうな少年」ではなかったらしい。小ずるく、自分より弱いものに対しては攻撃的で、平気で他人を傷つける言葉を口にし、他人を裏切る卑怯者で、すぐに嘘をつく少年だったことが明らかになってくる。またいじめっ子グループにつきまとわれていたのではなく、むしろ逆に自分からいじめっ子グループについてまわっていた。

 一方のいじめっ子の首謀者とされた少年たちにも別の顔が見えてくる。いじめられっ子が不良にからまれているのを助けたり、いじめられっ子の罪をかばってやったり。
 彼らは積極的にいじめをはたらいていたのではなく、むしろいじめに引きずり込まれたのだ。

 だが、いじめられっ子の少年が死ねばそんな事情はすべてなかったことになる。
「いじめられていたかわいそうな少年」と「いじめていたひどい少年」という単純な図式の中に置かれてしまう。

「AがBの背中をつねったことがある」と「Bが校舎の屋上から転落死した」というまったく別の出来事が、いともたやすくわかりやすい因果関係で結ばれてしまう。




 ぼくが中学生のとき、休み時間に金を賭けてトランプをするのが流行っていた。といっても中学生なので賭け金は一回百円とかそういうレベルだ。
 男子中学生の、大人ぶりたいとかスリルを味わいたいとかの気持ちを満たしてくれる遊びだ。ぼくも何度かやったことがある。やっていたのは不良グループではなく、ちょっと背伸びしたいだけのふつうの生徒だった。

 あるとき何人かがトランプをしていると、Tという男が「おれも入れて」と言ってきたそうだ(ぼくはその場にいなかった)。Tはクラスでいちばん背が低く、運動も勉強も下の上といったところでみんなから軽んじられていた。
 Tも加わり何ゲームかした。勝負に弱かったのか運が悪かったのか、Tは負けが続いて五百円か千円ほど負けた。
 金を払うように言われたTは「今は持ってない」と言った。翌日、勝った生徒が「払えよ」と言うと「明日持ってくる」とTは言う。そんなことが何日か続いた。勝った生徒も、そうでない生徒も「早く払えよ」とTに言った。
 するとTは担任教師に報告した。金を要求されているが払えなくて困っている、と。
 もちろんゲームに参加していた生徒は全員怒られた。当然Tの借金はチャラ。

 Tの告げ口によって叱られた生徒たちはおもしろくない。Tに参加を強制したわけでもない。Tが自分からやりたいと言ったのだ。イカサマをしてTだけを負けさせたわけでもない。
 学校にトランプを持ってくるのは校則違反だし、金を賭けるのはもちろんダメだ。でもそんなことはみんなわかった上でやっている。もちろんTも。
 もし自分が勝ったらだまって金をもらっていただろうに、負けたときだけ教師に告げ口するTは卑怯だ。
 それ以来、クラスの男子はしばらくTと口を聞かなくなった。トランプに参加していなかったメンバーも含めて。ぼくも、その話を聞いて「Tはなんてずるいやつだ」と感じた。
 また教師に告げ口されたら困るから殴ったり蹴ったりといった直接的な行動はなかったが、みんなでTを無視していたのだからこれもいじめといえばいじめだろう。
 もしもこれでTが自殺でもしていたら、「中学生の陰湿ないじめ」と報道されていただろう。Tのずるさはまったく語られることがないまま。




 いろんなケースがあるからいじめは一概に語ることはできない。
 中には同情の余地もないぐらい一方的な加害がおこなわれるケースもあるだろう。

 でも、たいていの場合、いじめる側も無作為に相手を選んでいるわけではない。
 周囲に迷惑をかけたとか、嘘をついたとか、約束を破ったとか、過失があるものだ。

 ぼくが中学生のとき、ちょっとヤンチャなやつらに囲まれてこづかれたことがある。きっかけは、「ぼくが友人の教科書だとおもって油性ペンで落書きをしたら、ヤンチャグループの一員の教科書だった」だ。完全にぼくが悪い。
 まあそのときは長期的ないじめには発展しなかったが、人やタイミングによってはそこからいじめが続いていたかもしれない。

 もちろん「いじめはあかん」は大前提として、きっかけとなった出来事自体は「いじめられる側が悪い」ことも多い。

 ネットでの中傷なんかを見てもわかるけど、暴走しやすいのは悪意じゃなくて正義なんだよね。
 誰かを集中攻撃する原因は、往々にして「あいつは悪いやつだ」だ。

 悪意はそこまで暴走しない。たいていの人には良心があるから悪意にはブレーキがかかる。でも正義にはブレーキがかからない。制裁を下すとか正義の鉄槌を下すとかの大義名分があると、人はどこまでも攻撃的になる。
「外国を侵略しよう」で虐殺はできなくても、「愛する祖国を守るため」であれば見ず知らずの人たちを虐殺できるのが人間だ。

 皮肉なことに「弱い者いじめをするな」が、いちばんいじめにつながりやすいのだ。


 いじめ自殺事件があると、新聞やテレビの報道は「いじめられた子は純粋無垢で全面的にかわいそうな子」というスタンスになる。
 死者に鞭打つわけにはいかないのもわかるが、「イノセントないじめられっ子」「悪いいじめっ子」という単純な構図に落としこむのも危険だとおもう。

 「いじめはあかん」と伝えることが大前提だし、いじめ自殺した子に鞭打つ必要はないけど、いじめた子を「同情の余地のない極悪非道な生徒」と扱うことは事実を覆い隠すことにつながる。

 悪意だけでなく正義感のほうがいじめにつながりやすいんだよ、悪を悪ということがいじめになることもあるんだよ、と教えることもまた大事なんじゃないだろうか。

「どっかの悪人が悪いことをした」だけだったら「自分とは関係のないこと」になってしまう。そうじゃなくて「わたしやあなたと同じぐらいの優しさを持った子が、優しさのために行動してもいじめの加害者になる状況がある」と教えることのほうが大事だとおもうな。

 とはいえ、それを自分が中学生のときに教えられて理解できたかというと……。




 『沈黙の町で』では、死亡した中学生の遺族が「真相を知りたいだけ」という言葉をくりかえす。この気持ちは理解できる。

 だが、調査する中で明るみに出るのは遺族にとって都合の悪い真実だ。
 死亡した中学生は他の生徒から嫌われていた、女子には攻撃的にふるまうタイプだった、当初いじめの首謀者とおもわれていた生徒はむしろかばう側だった……。

 結果、遺族は知りたかったはずの「真相」から顔をそむけてしまう。都合の悪い真相には耐えられない。
 このあたりの心境、すごくよくわかる。
 そうなんだよね。人間、真実なんて知りたくないんだよ。
 知りたいのは「自分が望む真相」だけ。
「死んだ息子がかわいそうないじめられっ子だった」は受け入れられても、「死んだ息子はときに加害者であり嫌われ者だった」には耐えられない。


 ぼくはこの遺族の愚かさを嗤うことができない。
 たぶん自分も同じ状況に置かれたら目をそむけてしまう。信じたいことだけ信じてしまう。子どもを亡くしてつらいときならなおさらそう。現実なんて受け入れられない。

 ミステリ小説は「真実を明らかにすること」が主目的だけど、現実はそうじゃないんだよね。
 求められるのは真実ではなく、「こうあってほしい」ストーリーなのだ。




 いじめの関係だけでなく、親同士の微妙な敵対関係、大人には意味不明な男子中学生の行動原理、教師の派閥争い、記者や検察や弁護士の見栄や欲、地方都市の人々の関心事など、細部にわたってリアリティがすごい小説だった。
 まるで、ほんとうにあったことをそのまま書いたんじゃないかとおもうぐらいに。

 奥田英朗さんの書いたものって、ユーモア小説や軽いエッセイしかほとんど読んだことがなかったけど、こんな重厚な小説も書けるのか……。


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2021年6月10日木曜日

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初対面

関西弁

上方浸水大賞

泣いて馬謖を斬る

GoToキャンペーンのおかげ

言い逃れ

ウイルス側

指の名前

ピスタチオ

DV

2021年6月8日火曜日

オリジナルの公園あそび

 子どもたち(小学校低学年)と遊んでいるときに思いついた、オリジナルのあそび。


スパイおにごっこ

(5人~)

1. まず鬼を決める。
 くじ引き、または鬼が選ぶことで、スパイをひとり決める。
 みんなが目をつぶって後ろを向き、鬼がこっそりスパイの背中をタッチする。鬼とスパイにだけは、誰がスパイかわかる。他の子には誰がスパイかわからない。

2. 全員ばらばらに離れた状態になってからおにごっこスタート。
 鬼は他の子を追いかける。スパイは鬼から逃げるふりをしながら他の子に近づいてタッチする。
 タッチしているところを他の子に見られると鬼だとばれるので、なるべくこっそりと。

3. タッチをしても鬼は鬼のまま。タッチされた子はスパイになる。
 どんどんスパイが増える。

4. スパイはうそをついてもいい。

5. 最後のひとりが捕まったら終わり。


 子どもは嘘や芝居が上手でないので、たいていすぐにばれて中盤からはふつうのおにごっこ(増え鬼)になる。
 鬼とスパイが会話をしているところを見られたりして、すぐにばれる。




全員おにごっこ

(4人~)

1. 全員が鬼であり、鬼から逃げなければならない

2. 他の子の背中をタッチすれば1点。背中以外はタッチしても無効。
 腕などをつかむのは禁止。

3. 同じ子をタッチできるのは1回まで。
 また、協力してお互いにタッチしあうのは禁止。

4. 最初に3点稼いだ子の勝ち。


 タッチをされてもマイナスにはならないので、積極的に攻めたほうがいい。ずっと背後を守っていると点が稼げない。




じゃんけんおにごっこ

(基本的に3の倍数。6人がベスト)

1. グーチーム、チョキチーム、パーチームに分かれる。

2. グーチームはチョキチームをタッチする。チョキチームはパーチームをタッチする。パーチームはグーチームをタッチする。

3. 標的となるチーム全員をタッチしたチームの勝ち。


 ずっと逃げていると勝てないのでこれまた積極的に攻めたほうがいい。
 足が遅い子でもうまく立ちまわれば捕まらずに済む(グーチームの子はチョキチームの近くにいるかぎりパーチームは近寄りづらい)。

 四チームでもできる。AがBを狙う、BがCを狙う、CがDを狙う、DがAを狙う。こっちのほうがより戦略が重要になる。AとCはお互い標的ではないので、いっしょにいることで「B・Dに襲われにくい」というメリットがある。そうなるともちろんB・Dも手を組むことになる。




ボールあてサバイバル

(3人~)

1. あまり広すぎないスペースでおこなう。ボールがふたつ以上あるといい。

2. 他の子にボールを当てる。先に三回当てた子の勝ち。


 すごくシンプルだが非常に熱くなる。いちばん無防備なのはボールを投げようとしているときなので、積極的に攻めすぎても狙われやすくなる。
 同盟を結んだり、裏切りが発生したりといった展開もある。
 たいへんアグレッシブな遊びなので、男の子は大好きだが女の子は敬遠しがち。




ワニのいる川を渡る

(3人~)

1. ワニチームと人間チームに分かれる。ワニチームは1~3人。川の幅などによって調整する。

2. 10メートルほどの間隔をあけて2本の線を引く。その線の間が川、線の外側が陸地。

3. ワニチームは川の中しか移動できない。

4. 人間チームは片方の陸地からもう片方の陸地に移動する。途中でワニにタッチされたら、元の陸地に戻る。

5. ワニ以外チームは、制限時間(3分ぐらい)の間に2人(ここも人数によって調整)が川を渡れば勝ち。制限時間内に渡れなければワニチームの勝ち。


 個人戦ではなく「何人かは捕まってもいい」というのがポイント。
 誰かがおとりになっている間に他の子が川を渡れば勝てる。
 何度捕まっても再スタートできるので、小さい子もいっしょに遊べる。

 今回紹介した遊びの中では、これがいちばん誰もが楽しめる遊び。