2021年3月12日金曜日

【読書感想文】川の水をすべて凍らせるには / ランドール・マンロー『ハウ・トゥー バカバカしくて役に立たない暮らしの科学』

ハウ・トゥー

バカバカしくて役に立たない暮らしの科学

ランドール・マンロー(著) 吉田 三知世(訳)

内容(e-honより)
発売後、即ニューヨークタイムズ・ベストセラーリスト1位!引っ越しの手間を減らすには?スマホの自撮りがうまくなるには?明日の天気を知りたい。友だちをつくるにはどうしたら…?約束の時間が守れなくて困っています。私たちの日々の困りごとには、正しい解決法と間違った解決法があります。しかしじつは画期的な、「第3の暮らしの知恵」というのがありました。バカバカしくて楽しげだけれど、役には立たない解決法が。本書では『ホワット・イフ?』の世界的ベストセラー作家、ランドール・マンローが、それを具体的な問題に即して、わかりやすいマンガを駆使して惜しげもなく披露してくれます。身近な科学やテクノロジーを楽しく理解できるという、思わぬ余禄ももれなくついてきますよ。


 以前紹介した『ホワット・イフ?:野球のボールを光速で投げたらどうなるか』の続編のような本。
 タイトルは『ハウ・トゥー』で、「○○するには」という問いに対する答えが並ぶのだが、どの答えも現実的でない。
「スマホを充電するためにエスカレーターを利用した発電機を作る方法」みたいなのがひたすら並ぶ。


 たとえば、『川を渡るには』の章。
 川を渡るためにはどうしたらいいか。ぼくらがおもいつくのは、濡れるのを覚悟で歩いて渡る、泳ぐ、ボートに乗る、といったところだろう。

 ところがこの本では

  • 川を飛び越えるために必要な速度はどれだけか
  • 水面を滑るにはどんな道具とどんな乗り物を用意すればいいか
  • 川を凍らせるにはどれだけの電力が必要か
  • 川の水をすべて沸騰させるにはどれだけのエネルギーがいるか
  • 凧を使って川を渡ることは可能か

といった、まったくもって役に立たない答えが披露されている。

 カンザス川を凍らせるには87ギガワット(重量物運搬ロケットの打ち上げ時の出力と同じぐらい)が必要、ということを知っても何の役にも立たない。

 だがユーモアと知性たっぷりにつづられた文章は、役に立たなくても読んでいて楽しい。

『プールパーティーを開くには』の章。

 あなたのプールの底が海水面より高いところにあれば、海につなげても水は入ってこない。水はひたすら低いほうへ、海に向かって流れるだけだ。しかし、海をあなたのところまで持ち上げられるとしたら、どうだろう?
 あなたは運がいい。それは望むと望まざるとにかかわらず、実際に起こっている。温室効果ガスによって地球に熱が蓄積しているおかげで、海水位はもう数十年にわたって上昇しつづけている。海水位の上昇は、氷が溶け、水が熱膨張している相乗効果で引き起こされる。プールを水で満たしたいなら、海水位の上昇を加速させてみるといい。もちろん、気候変動が環境と人間に及ぼす測り知れない損害は一層ひどくなるだろうが、その一方で、あなたは楽しいプールパーティを開けるのだ。

 ただ「常識的に達成可能か」「意味があるか」「効率がいいか」「コストに見合う手段か」という意識から離れれば、課題に対する答えは意外とたくさんあるということに気づかされる。

 プールを水で満たすために地球温暖化を加速させる。すごい発想だなあ。




 へえそうなんだとうならされた記述。

 棒高跳びの物理は面白いもので、意外かもしれないが、ポールはあまり重要ではない。棒高跳びの要は、ポールのしなやかさではなく、選手が走る速さだ。ポールは単に、その速さの向きを効率的に上へと変える手段でしかない。理論的には、選手は何か他の方法を利用して、方向を前から上へと変えることもできる。ポールを地面に押しつける代わりに、スケートボードに飛び乗り、なめらかな曲線でできた斜面をのぼっても、棒高跳びとほぼ同じ高さに到達することができる。

 へえ。棒高跳びに必要なのは跳躍力じゃなくて速度なんだ。
 あれは跳んでるんじゃなくて「走ったままの速さで上に行く」競技なんだね。棒高跳びで高く跳ぶために必要なのは「速く走ること」と「重心が高いこと」なんだね(競技としてはうまくバーを越えるテクニックも必要だが、高く跳ぶためにはこのふたつが必要)。


 氷が滑りやすい理由は、じつのところ、ちょっと謎なのだ。長いあいだ、スケートの刃が加える圧力が氷の表面を溶かし、薄い水の層ができて、それが滑りやすいのだと考えられてきた。19世紀末の科学者や技術者たちは、アイススケートの刃が氷の融点を0℃から-3.5℃へと下げることを示した。「氷は圧力下では溶けやすくなる」という説は何十年にもわたり、アイススケートがなぜ可能かの標準的な説明として受け入れられていた。スケートは-3.5℃より低い温度でも可能だということを、どういうわけか誰も指摘しなかったのである。圧力下融解説ではそんなことは不可能なはずだが、アイススケートをする人は、常にそれを実際にやっているのだ。
 なぜ氷は滑りやすいかを実際どう説明するかは、驚くべきことに、今なお物理学で進行中の研究課題である。

「氷の上は滑る」ということは小学生でも知っているのに、いまだに物理学では「なぜ氷の上は滑るのか」を完全には説明できないのだそうだ。

 宇宙の果てとか深海とかを除けば科学はこの世のほとんどを解き明かしているようにおもってしまうけど、身近なことでも案外わかってなかったりするんだね。




 おもしろかったんだけど、全部で28章もあるので後半は飽きてしまった。ばかばかしいのはおもしろいけど、ずっとばかばかしいとうんざりしてくるね。
 この半分ぐらいの分量でもよかったかも。

 あと訳文はもうちょっとなんとかならんかったのかね。

 そして、あなたがここに載っているすべてのことを行なう正しい方法をすでに知っていたとしても、知らない人の目を通して改めてそれを見てみることは、きっと役に立つ。

 序文の一部だけど、ほんとひどい。中学校の英文和訳だったらこれで正解だけど、全単語を訳してるので読みづらいったらありゃしない。

 まあ本文はここまでひどくなかったけど。


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【読書感想文】ランドール・マンロー『ホワット・イフ?:野球のボールを光速で投げたらどうなるか』



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2021年3月11日木曜日

質問できない子

 小学一年生の子どもたち数人とボードゲームスペースで遊んだ。

 いくつかのピースを組み合わせて所定の形を作るパズルゲームや、モノポリーのようなボードゲーム、UNOのようなカードゲーム。

 どの子もそれぞれ得意・不得意がある。図形パズルに強い子、数字や確率を使ったゲームに強い子。

 中にひとり、全部が苦手な子がいた。Aちゃんとする。

 Aちゃんはゲームが全般的に苦手だった。運頼みのゲーム以外は負けてばかり。いや、それ以前の問題だ。ルールが理解できていない。「まだそのカードは使えないよ」「ここにこれを置いたら損しかしないよ」ということばかりする。




 新しいゲームをやるときの流れは、だいたいこんな感じ。


 ボードゲームスペースの店員が軽くルールの説明をする
  ↓
 疑問に感じたことを大人や子どもが質問して、店員が答える
  ↓
「じゃあまずは練習でやってみようか」ということになり、ゲームスタート。ここで新たに疑問が生じたら都度質問をする。


 こうしてみんなルールをつかんでいくのだが、Aちゃんはまったく質問をしない。

 他の子はがんがん質問する。一年生は積極的だ。
 まあたいていは「それさっき説明したじゃん」「○○できるのは××のときだけ、って言われたんだから△△のときはダメに決まってるじゃん」と言いたくなるような、愚にもつかない質問なんだけど。

 しかしAちゃんは質問しない。「わからないところある?」と訊いても言わない。笑顔で「大丈夫!」と云う。

 だがゲームを進めると、とんちんかんなプレーを連発する。明らかにルールを理解していない。

「もう一回説明しよっか」と云うと、「さっき聞いたからいい!」とめんどくさそうにする。さもわかっているかのように。

 Aちゃんは全部のゲームが苦手で、唯一得意なのは「わかっているふりをすること」だった。




 ……ううむ。

 子どもにもいろいろいて、理解力はさまざまだ。
 やっぱり小学校受験の塾に通ってた子は呑み込みが早い。トレーニングを積んで「新しいルールを理解しなくてはいけない状況」をたくさん経験したのだろう。
 それ以外の子も、最初は理解できなくても、どんどん質問をして、やってるうちにゲームの全体像をつかむようになる。
 Aちゃんだけがずっと理解できないままだ。

 こんなこと言うのは申し訳ないが、この子は勉強できないだろうな。この先もずっと。

 持って生まれた頭が悪いわけではない。既にルールを知ってるゲームであれば他の子と同じようにできるので。

 ただAちゃんは「わからないことは恥」だと考えてるのだ。たぶん。

「質問ある?」と訊かれても無言で愛想笑い。「もう一回説明しよっか」と云われると「もういい!」と怒る。

 これは……ほんとにどうしようもないのでは……。
 わからない子は教えることができるけど、「わかっているふり」をする子に対してはどうすることもできない。本人がもういいと言っているのにむりやり教えるほど他人はひまじゃない。

 きっとAちゃんはこの先もずっと「わかっているふり」をしてやりすごしていくのだろう。とりかえしのつかない状況になるまで。

 ちなみにAちゃんには二歳違いのきょうだいがいて、そっちは他の子と同じように質問をしてくるので家庭環境(だけ)が原因ではないとおもう。

 まちがうことをおそれる性格。半端にプライドが高いというか。小学一年生なんて知らないことだらけ、わからないことだらけであたりまえなのに、「わからない」の一言がいえない。
 こういう性格の子が成功することはまあないだろう。ものすごく損な性格だ。
 よそのおっちゃんながらなんとかしてやりたいとおもうが、どうすることもできん。だって差しだされた手を拒む子なんだから。
「しなくていい苦労をするだろうなあ」とため息をつくばかりだ。


2021年3月10日水曜日

【読書感想文】戦前に戻すのが保守じゃない / 中島 岳志『「リベラル保守」宣言』

「リベラル保守」宣言

中島 岳志

内容(e-honより)
リベラルと保守は対抗関係とみなされてきた。だが私は真の保守思想家こそ自由を擁護すべきだと考えている―。メディアでも積極的に発言してきた研究者が、自らの軸である保守思想をもとに、様々な社会問題に切り込んでゆく。脱原発主張の根源、政治家橋下徹氏への疑義、貧困問題への取り組み方、東日本大震災の教訓。わが国が選択すべき道とは何か。共生の新たな礎がここにある。

 中島岳志氏の『保守と立憲』も、『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆』に寄せられた中島氏の文章もすばらしかった。

 だからこの本を手に取ったのだが、書かれていることは上記二冊と似たような内容で、ただし書かれているテーマにはまとまりがなく、時代性の強い文章もあったりして今読むと伝わりにくい箇所もある(特に橋下徹氏への批評はあの時代の空気の中で読まないとわかりづらい)。

 ということで、『保守と立憲』や『100分 de 名著 オルテガ 大衆の反逆』を読んでいる人はこっちはべつに読まなくていいかな。




 以前から政治的立場を表す「保守」という言葉に違和感があった。
「保守」と言いながら、憲法だったり政治制度だったり経済体制だったりをドラスティックに改革しようとしている。それのどこが保守なんだ? 戦前のやりかたに戻すのが保守なのか? 今ある制度や暮らしは保守しようとしないのか?

 中島岳志氏の著作を読んで、その疑問が氷解した気がした。
 そうか、保守を自称している連中(の大半)は保守ではないのだ。むしろリベラルこそが保守の立場に近いし、保守の精神を持つべきなのだ。

「選挙で勝ったんだから、どんなにラディカルな改革をおこなうのも自由だ」なんて考えは、保守の精神からもっとも遠いものなのだ、と。

 自由は、節度という「足枷」に制約されています。だからこそ、節度の拘束力が強くなればなるほど、自由の度合いは拡大してゆくのです。
 バークは、革新主義者たちの主張する反歴史的・抽象的自由に、寛大さが欠落していることを見抜きました。革命家が志向する「規制から解放された自由」は、人間の粗暴で冷酷な性格とたやすく結びつき、他者に対する不寛容な暴力となって現れることを見通していたのです。革命家たちは、様々な制約の破壊によってこそ、自由を獲得することができると考えました。彼らは歴史的に構築された制度を抜本的に覆し、長年にわたって共有されてきた固定観念を解体していきます。制約なき自由は、必ず他者の自由と衝突します。価値やモラルの基準を失った自由は暴走し、自己の自由を阻害する他者への剥き出しの暴力となって現れます。制約を失った自由こそが、人々から真の自由を奪い、世の中の秩序を破壊するのです。

 フランス革命によって寛大で誰もが生きやすい世の中が実現したかというとまったくの逆で、その後にやってきたのはナポレオンによる独裁専制時代だった。

 革命、改革、刷新、維新、ぶっ壊す、取り戻す……。
 耳あたりのいい言葉を並べて「私に任せてくれれば一気に事態をよくすることができます」と言う連中が弱者の声に耳を傾けたことが歴史上一度でもあっただろうか。

「自由」はウケのいい言葉だが、誰かの自由は必ず別の誰かの自由と衝突する。
「夜中にバイクで爆音を鳴らしながら走る自由」は「静かな環境で安眠する自由」と衝突する。

 規制緩和や自由化を訴える人がいる。自由化によって利益を得る人もいるけど、同時に別の誰かが不利益を被る。そしてそれはたいてい弱者だ。強者はうまく立ちまわって、誰かの首を差しだすことで逃げるからね。
「改革」「維新」といった言葉の目指す意味は結局、「弱者が持っている財産をおれたちによこせ!」なんだよね。




 中島さんが目指す「リベラル保守」はドラスティックな改変を好まない。かといって百年一日の停滞も良しとしない。時代の変化によって制度も変わる必要があるからだ。

 なぜ劇的な改革がだめなのかというと、不完全な存在である人間は必ずまちがえるからだ。

 保守は、このような左翼思想の根本の部分を疑っています。つまり「人間の理性によって理想社会を作ることなど不可能である」と保守思想家は考えるのです。
 保守の立場に立つものは人間の完成可能性というものを根源的に疑います。
 人間は、どうしても人を妬んだり僻んだりしてしまう生き物です。時に軽率な行動をとり、エゴイズムを捨てることができず、横暴な要素を持っています。
 保守は、このような人間の不完全性や能力の限界から目をそらすことなく、これを直視します。そして、不完全な人間が構成する社会は、不完全なまま推移せざるを得ないという諦念を共有します。
 保守は特定の人間によって構想された政治イデオロギーよりも、歴史の風雪に耐えた制度や良識に依拠し、理性を超えた宗教的価値を重視します。前者は人間の「知的不完全性」の認識に依拠し、後者は人間の「道徳的不完全性」に依拠していると言えるでしょう。

 フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』によると、多くの人の未来予測を検証した結果、「自分が間違っているかもしれない」という前提に立って絶えず再検証をくりかえす人ほど予測の的中率が高いのだそうだ。
 逆に「おれは正しい! まちがってるはずがない!」という思想の人間はまちがえる。現実をありのままに見ることができず、己の思想信条に合致した意見だけしか見えなくなる。

 つまり、政策立案者に適しているのは
「わたしは〇〇がいいとおもうが誤っているかもしれない。くりかえし検証・反省をして〇〇が本当に正しいのか考え、必要に応じて軌道修正していくことが必要だ」
という人だ。
 こういう人が「改革」「維新」なんて叫ぶはずがない。まちがえたらとりかえしがつかなくなるからだ。
「民意が○○だから」という理由で改革もしない。なぜなら民衆も当然まちがえるから。ヒトラーを選んだのも民意なのだ。

 民衆も政策立案者は必ずまちがえるという立場に立てば、完全に信用できるものは何もない。何もないが、昔から脈々と受け継がれているものは「そこそこうまくいく可能性が高い」と言える。特に教育や医療や政治などの制度は、一度壊されると取り返しがつかなくなることがあるので、慎重に扱う必要がある。とりあえずゆとり教育やってみたけどだめでした、というわけにはいかないのだ(そうなってしまったけど)。
 古いものにパッチワークをあてて使いこなしてゆく。これが理想的な保守のありかただ。

 

「保守」の名を騙っていろんなものをぶっこわしてきた連中のせいで、「保守」はすっかり悪い響きの言葉になってしまった。
 もはや「極右」とか「排他的」とほとんど同義だ。

「リベラル保守」もいいんだけど、伝わりやすさを考えるならまったく別の言葉を持ってきたほうがいいかもしれないな。


【関連記事】

【読書感想文】チンパンジーより賢くなる方法 / フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』

【読書感想文】リベラル保守におれはなる! / 中島 岳志『保守と立憲』



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2021年3月9日火曜日

迷子と酔っ払いとミルクボーイ

 以前、会社の人たちとバーベキューをした。バーベキュースペースのある大きめの公園で。

 何人かは子どもを連れてきていたのだが、子どもたちは早々にバーベキューに飽きて「公園で遊びたい!」と言いだした。

 ぼくは付き合いで参加したもののこういう集まりはあまり好きではないので、これ幸いと「ぼくが子どもを見ときますよ」と言い、子ども七~八人を連れてその場を離れた。
 付き合いのバーベキューより子どもと遊ぶほうが楽しい。親たちはビールを飲み、肉を食っていた。

 しばらく公園で遊んでいると、テレビ収録のスタッフと、当時M-1グランプリ優勝直後だったミルクボーイが現れた。ロケをしていたのだ。
 ロケスタッフがぼくらのもとに寄ってきた。ミルクボーイがカメラの前で子どもたちにいくつかのインタビューをした。子どもたちは元気よく答える。

 その後、スタッフから「今の映像をテレビで放送するかもしれません。お子さんの顔が映ってもよろしいでしょうか。よければこちらの用紙にサインお願いします」と訊かれた。
 だがぼくはこの子たちの親ではない。勝手に判断するわけにいかないので、親に電話をして事情を説明した。電話の向こうが色めき立ったのがわかった。

「えっ!? テレビ? 行く行く!」

 野次馬根性丸出しだ。酔っぱらった親たちがあわてて駆けつけたが、残念ながらテレビクルーは別の場所へ行ってしまった後だった。

 どんな番組か、番組はいつ放送されるのか、などと質問されて、答えているうちにふと気がついた。子どもが一人いない。三歳の子の姿が見当たらない。
 さっきインタビューに答えているときにはいた。その後、出演の許諾がどうとかやっているうちに一人でどこかに行ってしまったらしい。

 真っ青になった。三歳というと、けっこう遠くまで行けるし、おまけに「困ったら誰かに訊く」「訊かれたことに答える」なんてことはできない。迷子になるといちばんややこしい時期だ。

 大人たち総出で迷子をさがした。もちろんぼくも責任を感じて必死にさがす。

 だが、さっきまでさんざんビールを飲んでいたHという男は泥酔していてまったく使い物にならない。座りこんで「テレビ出たかったな〜」などと言っている。

 ぼくはちょっとキレて「子どもが迷子なんですよ。さがしてください!」とHを叱りつけた。ちなみにHも人の親だ。三歳の子が広い公園で迷子になるのがどれだけ危険なことかわからないはずはないだろうに。

 あちこちさがしまわった。公園の警備員のおじいちゃんを見つけて、園内放送をしてもらえないか訊いたが、彼はあからさまにめんどくさそうな顔をしている。
「私ではそういうことを判断できないんですよね……」
「だったら誰かに訊いてもらえないでしょうか。お願いします、事故に遭ったりしたら大変なので」
と頼んでいると、泥酔していたHが駆けよってきた。「いました! いました!」と叫びながら。

 えっ! いた!? でかした!

「すみません、もう大丈夫です、お騒がせしました」
と警備員に言いかけたそのとき、Hが言った。

「いました! 今トイレに行ったらミルクボーイがいました!」


……そっちかい!

「いやー。ミルクボーイいたんでうれしくて握手してもらいました!」
と語るH。

 いやみんな迷子さがしてるんだけど……。しかもトイレで握手求められるってミルクボーイも気の毒に……。


という出来事でした(迷子は無事に見つかりました)。


2021年3月8日月曜日

いちぶんがくその4

ルール


■ 本の中から一文だけを抜き出す

■ 一文だけでも味わい深い文を選出。



「化物といえば、お食事はどうなすっておいでですの」


(山本 周五郎『人情裏長屋』より)




「もしかして日本って、でたらめに運営されてんじゃねえのか」


(奥田 英朗『無理』より)




「めげない援交おじさんを見習って!」と。


(仁藤 夢乃『女子高生の裏社会~「関係性の貧困」に生きる少女たち~』より)




昔は文学部の建物って二階建てだったんですけど、その中になぜか四階建ての図書館があったんです。


(『もっと! 京大変人講座』より)




千佐都は一瞬、キリスト像と餓鬼とを同時に思い浮かべた。


(東野 圭吾『ラプラスの魔女』より)




その研究の中で興味深かったことのひとつは、検索窓に最も多く打ち込まれるのは、食材名でも調理法でもなく、「簡単」という言葉であったことです。


(石川 伸一『「食べること」の進化史 』より)




空気がストップしてその場で死んじゃうのと、放射能を吸ってでも、少しでも長く生きてんのと、どっちがいい。


(堀江 邦夫『原発労働記』より)




「まあ、単身赴任でニートしてるようなものです」


(石井 あらた『「山奥ニート」やってます。』より)




古代の物が、どれだけミミズによって保存されたかわからない。


(河合 雅雄『望猿鏡から見た世界』より)




「本当はインドの、毒を吸い取る黒い石があればいいのだが」


(前野ウルド浩太郎『バッタを倒しにアフリカへ』より)




 その他のいちぶんがく