2020年4月17日金曜日

【読書感想文】マジもんのヤバい人が書いた小説 / 今村 夏子『木になった亜沙』

木になった亜沙

今村 夏子

内容(e-honより)
誰かに食べさせたい。願いがかなって杉の木に転生した亜沙は、わりばしになって、若者と出会った―。奇妙で不穏でうつくしい、三つの愛の物語。

『木になった亜沙』『的になった七未』『ある夜の思い出』の三篇から成る短篇集。



木になった亜沙


亜沙が食べ物をあげようとすると、なぜか誰も受け取らない。小さい頃から。
どんなに優しい人でも、どんなに亜沙と親しくても、なぜか亜沙の差しだした食べ物だけは口に入れてくれない。
人だけでなく動物も……。
 気がつくと、立ち去ったと思っていたタヌキがいつのまにか仲間を連れて戻ってきていた。横たわる亜沙の横で、ぴちゃぴちゃぴちゃとおいしそうな音をたてながら、木から落ちた甘い実を食べていた。そのようすを横目に見ながら、亜沙はこんど生まれ変わったら木になりたい、と思った。柿の木、桃の木、りんごの木、みかんの木、いちじく、びわ、さくらんぼ。両方の腕にたくさんの甘い実をつけたわたしと、その実を食べにくる森の動物たち。木になりたい。木になろう、遠のいていく意識の中で、そう繰り返しながら、亜沙は人生を終えた。
 次に目が覚めた時、亜沙は自分の願いが叶ったことを知る。亜沙は木になっていた。
はっはっは。なんじゃこの展開。ギャグ漫画のスピード感じゃん。

ほら話もここまでいくとすがすがしい。あっぱれと手を叩くしかないね。

ここからまた話はどんどんおもわぬ方向に展開するのだが、なぜか引きこまれるんだよなあ。
めちゃくちゃなのに妙に理にかなっている。
悲劇なのに妙にユーモラス。
シュールなのに妙に現実的。
奇妙な味わいでおもしろかったなあ。どこがおもしろいのか説明しにくいけど。



的になった七未


他人が投げたどんぐりも、ドッジボールも、なぜだか七未には当たらない。なぜか「当たらない」という宿命を背負った七未。
……と『木になった亜沙』と同じような設定。なぜ同じような話をふたつ並べたんだ。

似た設定でありながら、こちらはよりはっきりと気の狂った女の姿が浮かんでくる。
ユーモラスなところもなく、ただただ気の毒で痛々しい。

今村夏子さんの短篇『こちらあみ子』は知的障碍児の一人称小説だったが、こちらも似ている。
こういう「自分とは別世界にいると我々がおもっている人」の一人称小説を書かせたらうまいなあ、この人は。

でも物語としてはちょっと退屈だったな。『木になった亜沙』のほうがキレがあってぶっとんでておもしろかった。



ある夜の思い出


起き上がるのがいやで、常に腹ばいのまま移動している主人公の女。ある夜、父親と喧嘩をして腹ばいのまま外に出たら同じように寝そべっている男と出会う。男に誘われて家に行く。どうやら男はその家の「おかあさん」に飼われているようだ。主人公は、頼まれるがまま男と結婚することになる……。

これまたふしぎな小説。
途中で「ははーん、じつは主人公が犬か猫かワニ、という仕掛けがあるんだな」とおもっていたら、どうもそうではない。ほんとに人間なのだ。人間が腹ばいになって移動しているのだ。

しかもわけのわからん世界に行った後は、なぜかごく平凡な日常に戻っている。
ううむ。腹ばいの生活というのは何かの暗喩なんだろうか。
とおもったが、ほんとに腹ばいで移動しているのだ。
わけがわからん。
なんなんだこの話は。



三篇とも意味のわからぬ小説だった。
なんだこれは。強いてカテゴライズするならマジックリアリズム小説か。
森見登美彦『太陽の塔』のような。

でももっとわけがわからんのだよな。
たとえば『太陽の塔』は、「現実から超現実に連れていこう」という作者の企図みたいなものを感じたのだけれど、『木になった亜沙』はもっと自然体だった。
常識の中で生きている人間にはわからないけど、わかる人にはこの世界がすごく納得できるんじゃないだろうかという気がする。

マジもんのヤバい人が書いた小説って感じがする。
ぼくは好きだぜ。あんまり大きな声で他人には勧めらんないけど。


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2020年4月16日木曜日

【読書感想文】吃音は「気の持ちよう」じゃない / 近藤 雄生『吃音 ~伝えられないもどかしさ~』

吃音

伝えられないもどかしさ

近藤 雄生

内容(e-honより)
国内に100万人―それぞれを孤独に追いやる「どもる」ことの軋轢とは。頭の中に伝えたい言葉ははっきりとあるのに、相手に伝える前に詰まってしまう―それが吃音だ。店での注文や電話の着信に怯え、コミュニケーションがうまくいかないことで、離職、家庭の危機、時に自殺にまで追い込まれることさえある。自らも悩んだ著者が、80人以上に丹念に話を聞き、当事者の現実に迫るノンフィクション!
自信も吃音に悩み、数多くの吃音者を取材した著者によるノンフィクション。

吃音。昔の言い方だと「どもり」(今でも言う人いるけど)。
当事者、または近親者に吃音の人がいる人でなければ、「そういうものがある」ということは知っていてもそれ以上のことはほとんど知らないだろう。
ぼくもそうだった。

ずっと後になって重松清『きよしこ』を読んだ。かつて吃音に悩まされた重松清さんが、幼少期の自分自身をモデルに書いた小説だ。
そして吃音という障害のことを知った。それまでは単なる「くせ」だとおもっていた。本人が気を付ければ治せるものだと。

その少し後に、ぼくが子どものころ「おまえのしゃべりかた変だよ」と言った女の子とたまたま再会した。彼女の話し方はもうそんなに問題がなさそうだった(完全に治ったのかどうかは知らない)。
ぼくは「子どものころしゃべりかたが変って言ってごめんな」と謝った。すると彼女は「そんなこといろんな人に言われすぎたからひとりひとりのことまでおぼえてへんで」と笑った。
それは「気にせんでええで」の意味だったのだろうか。それとも「いまさら謝られたところでなんにもならんで」の意味だったのだろうか。

ぼくはその言葉で彼女の負っている傷の深さを改めて知った気がした。



著者自身、かつて吃音に悩まされていたそうだ。
 特に自分の名前のように、他の語に言い換えることができない言葉を言おうとするとそうなった。だから電話や自己紹介がうまくできない。電話の鳴る音が怖くなり、初対面の人と会う状況が恐ろしくなった。病院や美容室の受付で口頭で名乗らなければならない場面では、たとえばバッグの中から何かを探すふりをして視線を下げて、「あれ……」などと言いつつタイミングを探り、焦りと息苦しさと格闘しながら、言えると思った瞬間を見計らって名前を告げた。また、ファストフード店に行って「てりやきバーガー」を買いたいと思うと、「て」が言えなくなるために、注文する段階になって「えっと、あの……」などと時間を稼ぎながら、ぱっと言えそうな言葉を探す。そして、たまたま音やタイミングが合い、言えそうだと思った語を、たとえば「チーズバーガー」という語を、それを食べたくなくとも発することになるのである。言い終わると常に全身が疲労感に襲われた。
 大学受験の直前には、その重圧のためか症状は悪化した。私は面接試験で名前や受験番号を言うことはできないだろうと自覚した。結局受けたのは面接のないところだけだったので、吃音が理由ではなく純粋に学力の問題ではあったけれど、全滅し、その後浪人生活が始まると、精神的にも不安定になり、駆け込むようにして心療内科のカウンセリングに通い出した。しかし何も変わらなかった。
自分の名前を名乗る、電話に出る、ファストフード店で「てりやきバーガー」と注文する。
他の人にとっては何の苦労もないことが大きな負担なしにはできない。
そんな状態で生きていくのはたいへんだろう。

また厄介なのは、こういうことが「誰にでも起こりうる」ことだ。
吃音を持たない人でも、緊張して人前で言葉が出てこなくなったり、人見知りから話しかけられなかったり、あわてて言葉がつっかえたりする。
そういう「誰しもたまには経験すること」とよく似た症状だからこそ、なかなか理解されない。
「落ちついて話せば大丈夫だよ」「最初はみんな緊張するけど、慣れれば平気だよ」と考えてしまう人も多いだろう。

車椅子に乗っている人に「落ちついて歩けばちゃんと歩けるって」「最初はうまく歩けなくても慣れたら大丈夫」なんて声をかける人はいないだろうが、吃音の場合は「気の持ちよう」ぐらいに考えられてしまうのだ。

ぼくが「吃音」のことを知ったのも大学生のときだ。
大人になってからも知らない人も多いにちがいない。

そのせいで、落ちつきのないやつ、愚鈍なやつ、コミュニケーション下手なやつとおもわれてしまう。
ここにこそ吃音の苦しみがあるんじゃないかとぼくはおもう。
 吃音には、二つの特徴的な点がある。
 その一つは、「曖昧さ」だ。
 これまで触れてきたように、原因も治療法もわからない、治るのか治らないのかもわからない。また、精神障害に入るのか身体障害に入るのかもはっきりせず、症状も出るときと出ないときがある。
 そうした曖昧さを抱えるゆえに、当事者は、吃音とどう向き合えばいいか、気持ちを固めるのが難しい。改善できるかもしれないという期待は希望を生むが、達成されない時には逆に大きな失望に変わる。また、常に症状があるわけではないことは、周囲の理解を得るのを難しくする。
この本の著者は今では吃音症状がなくなったそうだが、これといったきっかけがあったわけではないそうだ。
この治療があったとか、この出来事を境にとかではなく、気づいたら治っていたんだそうだ。
なんだかよくわからないけど治ることもあるし、逆にこれといった理由もなく症状が悪化することもある。大人になれば治る人もいるし、そうでない人もいる。

わからないって、苦しいだろうなあ。



この本には吃音を克服した人、吃音の子を持つ母親の苦悩、吃音を苦に自殺を選んだ人、吃音者のために奮闘する人など、さまざまなケースが紹介されている。

同時に、社会的な変化や医学的な見解についても書かれている。
これ一冊読めば吃音者のおかれた状況がおおよそわかる。バランスのいい本だ。
 現在、吃音の治療や改善のための方法としては、主に、
 ・流暢性形成法(吃音の症状が出にくい話し方を習得する)
 ・吃音緩和法(楽にどもる方法を身に付ける)
 ・認知行動療法(心理的・情緒的な側面から症状を緩和する)
 ・環境調整(職場や学校といった生活の場面での問題が軽減されるように、周囲に働きかけたりする)
 がある。その具体的な手法には様々あり、それらを組み合わせるなどして、その人に効果的な方法を探るというやり方が一般的だ。また、これらとは別に、頭の中で好ましい体験をイメージすることで吃音を改善に導く「メンタルリハーサル法」もよく知られている。ただ、どの方法を有用とみるかには、研究者・臨床家によって違いがある。訓練によって症状に直接働きかける流暢性形成法や吃音緩和法を重視する立場もあれば、心理的な側面や周囲の環境の整備に重きを置く立場もあり、見解は分かれる。一方、吃音の原因を解明するための脳や遺伝子に関する長期的な研究は、知る限り、日本では行われていない。
 若い研究者も少しずつ増え、活性化しつつはあるものの、日本の吃音研究はまだ手探りの段階にあると言える。というのも、日本の各地で研究が進められ、それらが互いに共有されるようになってからまだ日が浅いのだ。現在のような状況へと進みだしたのは、二〇〇〇年代に入ってからぐらいのことでしかない。その理由はやはり、前述の通り、吃音が長年単なる癖などとして捉えられてきた影響だろう。
つまり、全員にあてはまる根本的な治療法はないということだ。
吃音を気づかれにくくするとか、症状を軽くするとか、気にしないようにするとか、「吃音でありながらもなんとかうまくやっていく方法」はあっても、きれいさっぱり治す特効薬のような方法は(今のところは)ないらしい。

これから研究が進めば原因や治療法も確立されていくのかもしれないけど、とりあえず今すぐに効果があるのは「できるだけ多くの人が吃音という障害に対して正しい理解を持つこと」なんじゃないかな。

視力が悪いとかと同じように
「そういうものとして付き合っていくしかないよね」
という認識を、吃音者、非吃音者ともに持つようになれば吃音者もちょっとは生きやすくなるんじゃないかな。


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2020年4月14日火曜日

【読書感想文】良くも悪くもルポルタージュ風 / 塩田 武士『罪の声』

罪の声

塩田 武士

内容(e-honより)
京都でテーラーを営む曽根俊也。自宅で見つけた古いカセットテープを再生すると、幼いころの自分の声が。それは日本を震撼させた脅迫事件に使われた男児の声と、まったく同じものだった。一方、大日新聞の記者、阿久津英士も、この未解決事件を追い始め―。圧倒的リアリティで衝撃の「真実」を捉えた傑作。

昭和の未解決事件である「グリコ・森永事件」が題材。
作中ではいろんな配慮からだろう、「ギンガ・萬堂(ギン萬)事件」となっているが、社名や個人名以外はほとんどが「グリコ・森永事件」そのままだ。

グリコ・森永事件が起きたのは1984~85年。ぼくが乳児のころなのでもちろん記憶にはないが、昭和をふりかえるテレビ番組などで事件の概要だけは知っている。
もしかすると「グリコ・森永事件」という名前よりも「キツネ目の男」の似顔絵の方が有名かもしれない(ちなみにぼくの父は若いころはつり目だったので同僚から「おまえちゃうか」などと言われたらしい)。

『罪の声』は、「幼いころにギンガ・萬堂事件の犯人に協力したかもしれない」男性と、ギンガ・萬堂事件をふりかえる記事を書かされることになった文化部記者が、事件の真相を突きとめるという物語だ。
フィクションなのだが、ついルポルタージュを読んだような気になる。「こんな背景があったのかー」と。どこまでが史実でどこまでが作者の創作なのかわからない。それぐらい上手に嘘をついている。

ぼくは、小説のおもしろさの大部分は「いかにうまく嘘をつくか」にかかっているとおもっている。
もっともらしく細部を積み重ね、ときには大胆に読者を騙す。リアリティがなくてもいい(創作なんだからないのがあたりまえだ)。
ありそうな嘘のときはまことしやかに、なさそうな嘘のときは強気でほら話っぽく。

『罪の声』は嘘のつきかたがすごくうまかった。真実と嘘を巧みに織りまぜ、省略すべき点は省略し、読者が説明してほしいところは微細漏らさず。
まんまと嘘の世界に引きずりこまれた。


ただしルポルタージュっぽいということは、裏を返せば小説としてのケレン味に欠けるということでもある。
犯人グループを追う様子が丁寧に書かれているんだけど、正直にいって冗長だ。さして重要でもない登場人物も多いし派手な展開も意外な事実もない中盤は読むのがしんどかった。
元々グリコ・森永事件のことをよく知っている人が読んだらもうちょっとおもしろく読めるのかもしれないけど。

さっき「嘘のつきかたがすごくうまかった」と書いたけど、うますぎたのかもなあ。もっとハッタリを効かせてくれたほうが小説としてはおもしろかったとおもう。勝手な感想だけど。



ネタバレになるので詳しくは書かないが、『罪の声』では犯人が明らかになる。犯行動機も。
犯人を突きとめ、犯人が動機を語る。ふつうの推理小説ならここで終わる。

だが『罪の声』の読みどころはその先だ。
真相が明らかになっても、まきこまれた人たちの苦しみが消えるわけではない。
被害者側の人たちはまだ同情もしてもらえるし徐々に苦しみも癒えてくるかもしれない。だが加害者側は、事件が終わってからもずっと現在進行形で責められつづける。

加害者の家族になるのと被害者の家族になるの、どっちもイヤだけど、どっちかっていったら加害者側のほうがよりつらいんじゃないだろうか。
目に見えない「世間」から攻撃されつづけるのだ。誰を恨んだらいいのかわからなくなりそうだ。

『罪の声』には加害者の身内が二組出てくるが、一方は事件があったことすら知らずに平和に暮らし、もう一方は身内の起こした事件のせいで一生ずっと死ぬほどの苦しみを背負いつづける(じっさいに命を落とす者もいる)。
この対比がすごく効果的だ。おかげで、加害者家族の理不尽な苦しみがより深刻に迫ってくる。


薬丸 岳『Aではない君と』や東野 圭吾『手紙』など、加害者家族の人権をテーマに書かれた小説は多い。
こういうのを読むと「加害者の家族には何の罪もないのに!」と憤慨するのだけれど、でもいざ自分が被害者側にまわったときに、加害者の身内が幸せいっぱいに暮らしているのを許せるだろうかと考えると……。

われながら狭量で身勝手な人間だとおもうよ、つくづく。


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【読書感想文】まるで判例を読んでいるよう / 薬丸 岳『Aではない君と』



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2020年4月13日月曜日

ツイートまとめ 2019年7月



公約


文系理系

雑草魂

お前が打たなきゃ誰が打つ

服薬

メガ


金儲け

裏目

皮肉


現状維持

低評価

マナー

反逆

Made in Japan

形式

本好き

卑猥

トイ・ストーリー4

敗戦処理投手

オラは人気者

喜ぶ

作曲

ヒトラー

誤解

No.2

血液検査



倍率

投票所

デモ

勝馬投票券

バス

オン・アイス

生まれたところや皮膚や目の色で

最終回



漱石とパーミル

至近距離

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灼熱マラソン

2020年4月10日金曜日

ツイートまとめ 2019年6月


マシュマロテスト

パンダ

持ち場

格言




苦しんぼ


お好み焼き

試験

調理

匿名

謝罪

桁区切り

ドキえもん

老人


出費

地理人

昭和

cha-cha-chá

政治思想

常連客

日本一

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短すぎ

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ゴシップ

日本アカデミー賞

将来

死体遺棄

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