2020年3月31日火曜日

【読書感想文】ザ・SF / 伴名 練『なめらかな世界と、その敵』

なめらかな世界と、その敵

伴名 練 (著)

内容(e-honより)
いくつもの並行世界を行き来する少女たちの1度きりの青春を描いた表題作のほか、脳科学を題材として伊藤計劃『ハーモニー』にトリビュートを捧げる「美亜羽へ贈る拳銃」、ソ連とアメリカの超高度人工知能がせめぎあう改変歴史ドラマ「シンギュラリティ・ソヴィエト」、未曾有の災害に巻き込まれた新幹線の乗客たちをめぐる書き下ろし「ひかりより速く、ゆるやかに」など、卓抜した筆致と想像力で綴られる全6篇。SFへの限りない憧憬が生んだ奇跡の才能、初の傑作集が満を持して登場。

星新一が好きだったので学生時代に筒井康隆、小松左京、かんべむさしといったあたりのSFを読んではいたのだが何十冊か読んだところでSFが性に合わないことに気づき(気づくの遅いな)、久しく遠ざかっていた。
海外の有名作品をちょろちょろと読んでいたけど、日本SFはなんとなく敬遠していた。伊藤計劃ですら読んでいない。

で、久しぶりに手に取った国内SFが『なめらかな世界と、その敵』。
本格的なSF短篇集だ。
六篇が収録されているが、どれも文体やテーマがぜんぜん異なる。そしてそれぞれちがうおもしろさがある。これだけでも大した才能だと感心させられる。
SF界の将来を担う新進気鋭の新星、みたいな評価を先に知っていたので少し身構えていたのだが、なるほど前評判にたがわぬ短篇集だった。

とはいえ「ザ・SF」という感じなので、SF初心者におすすめはしにくいかな。



なめらかな世界と、その敵


人々が[乗覚]なる能力を身につけた世界が舞台。
[乗覚]というのはパラレルワールドをいったりきたりできる能力というか。教師からお説教を食らったからその間は[お説教を食らわない別の世界]に行ってやり過ごす、とか。交通事故に遭ったから[交通事故に遭っていない世界]に行くとか。
そういうことができる能力。

RPGでセーブデータを切り替えるようなものだろうか。
失敗したからリセットボタンを押して他のセーブデータに切り替える。

パラレルワールドへの移動自体はSFによくあるテーマだが、この作品の設定のすごいのはパラレルワールドが無数にあってその中から好きな世界を選択できること。
たとえば[水の上を走ることができた世界]なんかにも行けちゃう。こうなるともう何でもありだ。しかも世界中の人がこの能力を持っている。
もう収集がつかなくなりそうだが、それでもこの小説の登場人物たちは他の世界に行ったり来たりしながらそれなりの秩序を持って生きている。わけがわからない。

なのにちゃんと小説として起承転結の中に落としこんでいるのは高い筆力のたまものだ。
[乗覚障害]という乗覚を失った人物を出すことでさりげなく[乗覚]を説明するとことか、ほんとうにうまい。
こないだ読んだ某小説がそのへんほんとへたで不自然かつ冗長な説明をくどくど並べていたので、それと比べて余計に巧みさに感心した。



ゼロ年代の臨界点


日本のSF小説は1900年代の女性作家たちによってつくられた、という真っ赤な嘘をさも史実であるかのような語り口で説明。小説というか嘘ノンフィクションというか。

おもしろかったが、日本SFの黎明期を支えた星新一のファンとしてはちょっと複雑。フィクションとはいえ、星新一の功績がなかったことにされてるんだもの。

しかし現実には女性SF作家って少ないよなあ。ぼくが知らないだけかな。
ぼくが知っているのは栗本薫、新井素子ぐらい。漫画だと萩尾望都。古いなあ。
SFは特に女性が少ない分野だとおもう。だからこそこの作品が小説として成立する。ほんとに女性SF作家が増えたら『ゼロ年代の臨界点』のおもしろみが消えちゃうだろうな。



美亜羽へ贈る拳銃


伊藤計劃の『ハーモニー』や『虐殺器官』に対するトリビュート作品として発表されたものだそうだ。
ぼくは伊藤計劃作品を読んでいないので正しく評価できないとおもうのだが、それでもおもしろかった。
登場人物の造形がみんなつくりものじみている。リアリティのかけらもない。ふつうなら欠点でしかなさそうなものだけど、この人の小説に関してはそれがかえってしっくりくる。
ハードな設定のSFになまぐさい人間味はいらないのかもしれない。



ホーリーアイアンメイデン

自殺した妹が、生前に姉に宛てて書いていた手紙からなる短篇。
ううむ。書簡文学って嫌いなんだよなあ。不自然きわまりないから。相手も知っていることをそんなにことこまかに説明するわけがないだろ。
ストーリーにも意外性はなく、これは凡作かな。



シンギュラリティ・ソヴィエト

ソヴィエト連邦が西側諸国より先にシンギュラリティ(技術的特異点。人工知能が人間を超える瞬間)を迎えた世界が舞台。
ヴォジャノーイという人工知能が世界を統治し、人間は脳をヴォジャノーイに演算装置として貸しているという発想がおもしろい。
「あなた方は我々に勝つためにヴォジャノーイを作り、我々はあなた方に追い付き追い越すためにリンカーンを作った。しかしいつの間にやら、競っているのは我々とあなた方ではなく、リンカーンとヴォジャノーイそのものになった。ヴォジャノーイは勝利のためにあなた方やその他の生命を演算資源にしようとするし、リンカーンは勝利のために我々を眠らせようとする。チェスを指しているうちに、駒と指し手が入れ替わってしまったようなものだ。今この時も、ヴォジャノーイとリンカーンはそれぞれの国民を駒に見立てて、チェックをかけるため互いに戦略をぶつけ合っているが、盤上の駒に過ぎない我々には、戦略や戦局どころか、どこに動かされているのかさえ分からないし、自分が既に盤面から下ろされたのかどうかも分からない。……こちらがどうやって『これ』を見せているか、お尋ねにならないのですか?」
今は我々がコンピュータを外部の記憶・演算装置として使っているわけだけど、それと逆のことが起こるのだ。ふうむ。たしかに人間の脳ってすばらしくよくできているから、それを人間に使わせるのはもったいない。優秀な人工知能が使ったほうがよりよく効率的に活用できるかもしれない……。

ソヴィエトに敗れたアメリカ人たちは次々に現実逃避して電脳の世界ですばらしい世界(に見えるもの)を享受する。
人工知能に支配されているソヴィエト人と、人工現実の世界に救いを求めるアメリカ人。これぞ人類の終わり。でもどっちもそんなに不幸ではなさそう。
家畜がさほど不幸に見えないのと同じだな。

すごく精密な設定のわりに妙にばかばかしいオチはあまり好きじゃないが、設定はおもしろかった。



ひかりより速く、ゆるやかに


多くの修学旅行生を乗せた新幹線のぞみ号が突如動きを止めた。乗客も含め完全に停止した。……かに見えたが、よく調べてみると新幹線とその中だけ時間の流れがきわめてゆっくりになっているのだ。外の世界の二千六百万分の一の速度。このままだと、この新幹線が名古屋駅に停車するのは西暦四七〇〇年……。

意味不明の現象が起きたという導入はいいのだが、その後の展開がちぐはぐな気がする。
「名古屋駅に停車したら再び動きだす」という前提で主人公たちは行動しているのだが、それがまったくもって意味不明。元に戻る保証なんかまったくない。それどころか戻らないと考えるほうが自然じゃない?

その後も、きわめて少ないサンプルをもとに根拠の薄い憶測に従ってどんどん行動していく。
それも「1%でも可能性があるなら賭けてみる!」みたいな感じではなく、「前はこうだったからまた同じになるでしょ?(サンプル数1)」というぐあい。要するにバカ。
主人公たちがバカだから(バカの勘がたまたま当たったけど)共感できない。
設定はおもしろかったけどなあ。



ということでちょっと尻すぼみ。
全体的に「設定はものすごくおもしろいんだけどその後の話の転がり方に無理がある、不自然だ」という作品が多く、良くも悪くもハードSFらしい短篇集だったな。


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2020年3月30日月曜日

評価基準が外部にある人


評価基準が外部にある人はたいへんだろうな。

極力そういう界隈とか関わらないようにしているのだが、幼なじみにひとりだけいる。
しょっちゅうパーティーとかやって、Facebookに「今日は〇〇さんと会いました! 明日は△△でお食事です! 来月はロンドンに行きます!」みたいな報告をしているやつが。

なんだか見ているだけでこっちが疲れる。
「自分をよく見せる」ことに全身全霊を傾けていて、しかもそれがわかっちゃうものだから痛々しい。
本人はハッピーそうに見せているのだから他人がとやかく言うことではない。
彼の投稿を見るたびにうげえとつぶやいてそっとブラウザを閉じる。見なきゃいいじゃないかと言われるとそのとおりなのだが、でもときどき怖いもの見たさで見にいっちゃうんだよね。そしてそのたびにげんなりする。

ことわっておくが、そいつはいいやつなのだ。
そいつのことはぜんぜん嫌いじゃない。
まあいいやつに決まってる。周囲からよく見られたいという行動原理で動いてるのだから、当然明るく社交的で親切なのだ。嫌いになる要素がない。

だからこそ、しんどい。
いいやつが、勝ち目のないレースに参加しているのを見るのがつらい。

そう。勝ち目がないのだ。
「他人からよく思われるレース」に勝者はいない。全員が敗者だ。

だって、自己評価を他人の評価が上回ることなんてないんだもの。ぜったいに。
自分に対する自己評価が10としたら、他者が自分に下す評価なんてせいぜい2とか3とかだ。
5あったらいいほう。もしかしたら0とか-5とかかもしれない。

思春期のときなんかはそのギャップに悩む。ぼくも悩んだ。
でもだんだんわかってくる。この差はぜったいに埋まらないものなんだと。自分以上に自分を評価してくれる人なんておかあさんだけなんだと。

もちろんちょっとでも埋めようと努力するのはすばらしいことだけど、残念ながら努力しても差は縮まらない。それどころか開く一方。だって自分の努力をいちばんわかってくれるのは自分なんだもの。

だから他人の目なんか気にしなくたっていい。まったく気にしないのも問題だけど、それより自分がどう感じるかが百倍大事だ。
……とまあ、多くの人は二十代三十代ぐらいでこういうことをちょっとずつ悟るんじゃないかな。


しかしFacebookには「他人からよく思われるレース」出走者がたくさんいる(Instagramにもいるんだろうけどぼくはやってないので知らない)。

おれってこんないい暮らししてるぜ、オレっちはこんなに有名な人と付き合いあるんだぜ、ボクチンはこんな楽しい日々を送ってるんだぜ。

見るたびに心が痛む。
もうやめようぜ。そんな不毛な戦いは。
その先に幸せはないんだから。

やめてくれ。そんな必死に自己顕示をしなくたっていいじゃないか。
大丈夫だ、ぼくはわかっている。
そんなアピールをしなくたって、おまえが十分すごいやつだってことを。
ぼくは評価しているから大丈夫だ。おまえ自身の評価の二割ぐらいは評価してあげてるから。


2020年3月29日日曜日

六歳児とのあそび

六歳の娘と最近よくやる遊び。

◆ おぼえてしりとり

しりとりをしながら、これまでに言ったものをおぼえるという遊び。
「りんご」
「りんご、ごりら」
「りんご、ごりら、らっぱ」
「りんご、ごりら、らっぱ、ぱんつ」
「りんご、ごりら、らっぱ、ぱんつ、つみき」
……とだんだん長くなっていくしりとり。記憶力が試される。

高校時代、友人たちとの間でこの遊びが流行ったのだが、当時のぼくは無類の強さを誇っていた。ほとんど無敗。短期記憶が強いのだ。三十ぐらいまでならほとんど苦労せずに覚えられる。

さらに「かもしか」「いか → かい」のように同じ文字のワードを近接させると飛ばしてしまいがちになるとか、「なかよし」「げんき」のような抽象的なワードを言うことでイメージしにくくさせるとか、容赦ないテクニックを使って六歳児相手に連勝している。

ちなみにこれ、三人以上でやると格段にむずかしくなる。
自分の言ったワードより他人が言ったワードのほうが思いだしにくいからだ。

これの別バージョンとして「おぼえて古今東西」もやる。
赤いもの、というお題で
「りんご」
「りんご、ポスト」
「りんご、ポスト、トマト」

「りんご、ポスト、トマト、赤信号」

……とやっていくのだ。こっちは単語同士の間につながりがないためさらにむずかしい。

◆ キャラクターあてクイズ

「はい」か「いいえ」で答えられる質問をくりかえして、相手が思いうかべたキャラクターをあげるゲーム。
アキネイター の人力版だ。

選ぶのはぼくと娘の両方が知っている人でないといけないので、アニメのキャラクターや、親戚、保育園の友人など。

娘は慣れないころは序盤に「青いですか?」と質問したりしていたが(ドラえもんしかおらんやないか)、「人間ですか?」「女ですか?」「大人ですか?」のようにおおざっぱな質問をして徐々に狭めていくのがコツだよ、と教えると徐々に上達してたいてい十以下の質問であてられるようになってきた。

キャラクターだけでなく「場所」「動物」「食べ物」などでもやる。
ただし娘の知識が乏しいため、「卵を産みますか?」「いいえ」だったのにカメだったとか、「緑ですか?」「いいえ」なのにトウモロコシだったりとか(緑の皮に覆われていることを知らなかった)、意図せぬ嘘が混じって難問になることがある。

◆ めいろ、あみだくじ

娘は昔から迷路が好きだったのだが、最近は自分でそこそこ骨のある迷路をつくれるようになってきた。
以前は娘が作る迷路は分かれ道がなかったり、すべてが行き止まりだったりしたのに……。成長したなあ……うう……。

なので娘が作った迷路をぼくが解くことになる。らくちんで助かる。
昔は「めいろつくってー」と言われて十分ぐらいかけて大作をつくっても一分で解かれて「べつのつくってー!」と言われていたなあ……。あれはつらかった……うう……。

めいろもあみだくじも、ぼくも子どものころ好きだった。あとサイコロと。
単純な遊びなんだけど、おかげで高校数学の順列組み合わせとか確率とかを難なく理解できたので、何が役に立つのかわからない。

◆ めいたんていゲーム

1から7までの数字の中から、重複しない三つを紙に書いて相手に見せないようにする(2,4,7など)。
相手は、数字を予想して「1,2,5」と言い、それに対し出題側は「1つあたり」と答える(順番はどうでもいい)。
これをくりかえし、三つとも的中させるまでの質問数が少ないほうが勝ち。当然論理的思考力が必要になるが運の要素もあるので、三回に一回ぐらいは娘が勝つ。

ヒットアンドブローというゲームの簡易版。



娘には賢い人になってほしいとはおもうが、いかにも教育的なことはしたくない。

娘の友人たちは塾や英会話教室に通ったりしているが、ぼくはまだいいんじゃないかとおもっている。
足し算引き算を一、二年早くおぼえたところで十年たったらいっしょだし、それよりは学ぶことのおもしろさを今のうちに知ってほしい。

考える、知る、調べるっておもしろいんだよ、ということを伝えたい。

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四歳児とのあそび



2020年3月27日金曜日

ユニバーシティのキャパシティ


最近、大学の講義はチャットで質疑応答をしたりするところがあるらしい。

講義に対して質問や意見があれば、受講者はスマホを使いチャットで質問をする。
講師はそれを見ながら、回答・解説を講義に織りまぜてゆくのだという。

なるほど。
いい仕組みだとおもう。
手を挙げて質問をするよりぐっとハードルが下がる。文章でまとめて質問するほうが論理的な内容になるだろう。
講師にとっても、受講者の理解度がつかみやすいし、質問が文字として記録に残るので次回以降の講義にも活かしやすい。

しかし。
それだったら、もう一箇所に集まって講義をする必要もないのではないだろうか。
講義をネットで生配信して、受講者は自宅で視聴すればいい。どうせ質問はチャットなのだ。
どうせ大学の授業の出席なんてさして重要でないのだ。
そうすると講師は東京にいて、受講者は全国各地にいるなんてことも可能になる。
もしかすると大きな大学だともうやっているかもしれない。

待てよ。
この考えを突きつめていくと、そもそも大学の定員自体が必要なくなるんじゃないか?
入学試験という選抜制度をあたりまえのように認識しているけど、本来は物理的な制約から生まれた制度なんじゃないだろうか。
理想をいえば意欲と能力のある人なら誰でも勉強できるようにしたほうがいい。だけど教室に収容できる人数は物理的な制約がある。だから入学試験をおこなって選抜する。
ネットであれば制約はないに等しい。何万人が視聴しようが、せいぜいサーバーを増強するだけで済む。
だったら「ネット環境さえあれば誰でも受講できるよ! 日本中、いや世界中どこにいたってオーケー。年齢も職業も問いません。八十歳でもいいし、理解できるなら十歳でもいい。勉強したい人は誰でもウエルカム!」とできるし、少なくとも国立大学はそうするのが本来の在り方じゃないだろうか。

まあさすがに試験やレポートは採点の労力があるので人数無制限ってわけにはいかないが、講義に関しては一般無料公開でいいんじゃないだろうか。

もう希望者全員東大生でいいんじゃない?


2020年3月26日木曜日

【読書感想文】語らないことで語る / ティム・オブライエン『本当の戦争の話をしよう』

本当の戦争の話をしよう

ティム・オブライエン (著)  村上 春樹 (訳)

内容(e-honより)
日ざかりの小道で呆然と、「私が殺した男」を見つめる兵士、木陰から一歩踏み出したとたん、まるでセメント袋のように倒れた兵士、祭の午後、故郷の町をあてどなく車を走らせる帰還兵…。ヴェトナムの・本当の・戦争の・話とは?O・ヘンリー賞を受賞した「ゴースト・ソルジャーズ」をはじめ、心を揺さぶる、衝撃の短編小説集。胸の内に「戦争」を抱えたすべての人におくる22の物語。

じっさいに兵士としてベトナム戦争に行き、仲間を失い、敵(と呼べるのかどうか)を殺した著者による戦争小説集。
小説、創作とは書いているが、大部分はほんとうにあったことなんじゃないかな。フィクションとノンフィクションの境界をわざとあいまいに書いているけど。

タイトルのとおり「本当の戦争の話」という感じがする。
ぼくは戦争を経験したことないけどさ。
でもわかるんだよ。作者は本当のことを書こうとしているということが。

何も断定しようとしない。教訓を引きだそうとしない。わかりやすい因果関係を探さない。責任の所在を見つけようとしない。すごく誠実な態度だ。

フィリップ・E・テトロック&ダン・ガードナー『超予測力』によると、正確な未来予測ができるのは以下のようなタイプなんだそうだ。
  • 自分はまちがっているのでは? という疑いを常に持つ
  • 自らの思想信条に重きを置かない
  • あいまいなものはあいまいなままにしておく
  • 頻繁に検証を重ね、自らのまちがいを認める
要するにほとんどの政治家やコメンテーターとは真逆のタイプ。
ティム・オブライエン氏は、予測力の高いタイプの人間なんだろうなとおもう。
わからないものはわからないものとして扱う。決めつけを避ける。シンプルな法則を見いだそうとしない。
戦争の得体の知れなさをそのまま読者に提示している。



『本当の戦争の話をしよう』を読むと、戦争を一言で語るなら「一言では語れない」なんだろうとおもう。パラドックス。

ぼくは学校で、戦争は単純なものだと教わってきた。
いわく「戦争は悲劇だ」「戦争は残酷だ」「戦争は悪だ」「戦争は二度としてはいけない」。
スローガンとしてはそれでいいのかもしれない。でもそれは本当の戦争の姿を伝えていない。

『水木しげるのラバウル戦記』には、南方に出兵した水木しげる氏が、アンパンを食べられなかったことを何度も悔やんでいたという記述があった。
これもまた戦争の姿だ。
『本当の戦争の話をしよう』には、ガールフレンドのストッキングを首にまきつけている兵士や、意味なく仔牛を殺す兵士や、下品な冗談を言いあう兵士の姿が描かれている。これもまた戦争の本当の姿だ。

「戦争は残酷だ」の一言からは、そういった人間の姿がこぼれ落ちてしまう。笑い、おびえ、踊り、妬み、恥じらい、あきらめ、歌い、ふざける兵士たちの姿が見えなくなってしまう。

本当の戦争は語りつくせない。だからティム・オブライエン氏は語る。とりとめもない話をくりかえすことで。



有史以来人間はさまざまな戦争をしてきたが、ベトナム戦争ほど兵士たちが戦う意味を見いだせなかった戦争はなかなかないだろう(米軍の兵士にとっての話ね)。
祖国や家族を守るためでもない。敵に恨みがあるわけでもない。そもそも敵かどうかもよくわからない。だけど戦わなくちゃいけない。戦っても自国民から感謝されない、それどころか非難を受ける。終わりが見えない。誰と戦っているのかもわからない。

帰還兵のPTSD発症率も高かったという。そりゃそうだろう。
命を削って敵と戦い、味方だとおもっていた人間からも石を投げられるんだもん。

ティム・オブライエン氏は発狂はしなかったかもしれないけど、深く傷を負ったことはまちがいない。
それは「死に直面したから」「仲間の死を目の当たりにしたから」「人を殺したから」なんて単純な理由によるものではない。そうやって語れるようなものではないからこそ、小説を書くことで語らずにはいられないのだろう。

『本当の戦争の話をしよう』は、戦争の悲惨さを伝えるために書かれたような本ではない。
作者自身の魂の救済のために書かれたものだ。



最後に。
これは名文だとおもった文章。
 ノーマン・バウカーとヘンリー・ドビンズが毎日日没の前にチェッカーをやっていたことを覚えている。それは二人にとっては儀式みたいなものだった。二人はたこつぼを掘って、チェリッカー盤を取り出し、ピンクから紫にと変化していく夕空の下で黙りこくったまま延々とゲームに耽った。我々は時折足をとめてゲームを見物した。そこにはなにかしら心の休まるものがあった。秩序正しく、そして見ているだけでほっとできる何かがあった。それは赤い駒と黒い駒の戦いだった。完璧な碁盤目がその戦場だった。そこにはトンネルもなければ、山もジャングルもなかった。自分がどこにいるか、はっきりとわかる。得点だって把握できる。駒は全部盤の上に載っているし、敵の姿だってちゃんと見える。作戦がより大きな戦略へと展開していく様をこの目で見ることもできる。そこには勝者がいて、敗者がいる。そこにはルールというものがある。
この文章、すごくない?
この文章はチェッカー(テーブルゲーム)について語っているだけ。戦争については何も書いていない。なのに「戦争とはどういうものか」がひしひしと伝わってくる。

書かないことで語る。すげえなあ。

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