2020年2月21日金曜日
狂牛病フィーバー
2001年のこと。
BSEなる病気が世間をにぎわせていた。
BSE。正式名称は牛海綿状脳症。日本での通称は狂牛病。
なんともおそろしい病気だ。
牛の脳がスカスカの海綿状(スポンジ状)になるという病気で、当時原因はよくわかっていなかった。その後判明したのかどうかは知らない。
何がおそろしいって、その名前。
狂牛病。狂犬病もおそろしいが「狂牛」はもっとおそろしい。アメリカバイソンみたいなやつが怒り狂って角をふりかざして暴れまわりそう。ドラクエにあばれうしどりというモンスターが出てくるが、あのイメージ。
じっさい狂牛病になったからってそんなことにはならないんだろうけど、でもそれぐらいインパクトのある名前だった。
潜伏期間が長いというのもおそろしかった。感染しても発症するまでに十五年ほどかかるという話だった。
今から十五年後に世界中の人たちの脳がいっせいにスカスカになって狂牛化する……。そんなイメージは多くの人を震えあがらせた(だから狂牛化しないんだってば)。
当時、日本中が狂牛病に大騒ぎしていた。ほんとに。
「牛肉を食べるとヤバい」みたいな話が出回って(きちんと処理されている牛肉は大丈夫だったのだが)、焼肉屋やステーキ屋の経営があぶなくなったなんて話も聞いた。
そんな狂牛病騒動のさなか、当時十八歳だったぼくは高校卒業祝いとして友人たちと焼肉を食いに行った。
風評被害のせいで客の来ない焼肉屋が「食べ放題半額キャンペーン」をやっていた。
金はないけどたらふく肉と飯を食いたい高校生にとっては「いつか発症するかもしれないおそろしい病気」よりも「目の前にある大量の焼肉」のほうが重要だったのだ。
客はぼくたち以外にいなかった。
ぼくらは他の客に遠慮する必要もなく、「狂牛の肉うめー!」「ほっぺたが落ちて脳がスポンジ状になるぐらいうまい!」なんて不謹慎な冗談を言いながら肉を腹いっぱい食べた。
ほんとはぼくも「狂牛病に感染したらどうしよう」という不安を抱えていたが、そのおそろしさをふりはらうための強がりでわざと不謹慎ジョークを飛ばしていたのだった。
あれから二十年弱。
今のところぼくの頭は正常に動いている。たぶん。
多少物覚えは悪くなったが、経年劣化にともなう正常な範囲だとおもう。
あのとき食べた牛肉はぼくに狂牛病をもたらさなかったのだろう。
しかし今でも「赤ちゃんの脳はスポンジのように吸収力がすごい」なんて言葉を聞くとぼくの頭の中に暴れまわるアメリカバイソンが現れてどきっとする。
2020年2月20日木曜日
【読書感想文】破壊! / 筒井 康隆『原始人』
原始人
筒井 康隆
中学生のとき筒井康隆作品を読みあさった。
きっかけは、星新一が好きだったから。星作品をすべて読んで、なにか似た小説はないかとおもって星新一氏と親交のあったSF作家である筒井康隆作品を手に取った。
正直、それほどおもしろいとおもわなかった。おもしろいものもあったが理解不能なものが多かった。星新一のような鋭いオチのショートショートを期待していたので、剛腕でなぎ倒すような筒井康隆作品は性にあわなかった。
でも読んだ。なにしろ活字に飢えていたのだ。わからないままに読んだ。いつかはわかるはずと信じて。結局ほとんど理解できなかったが。
古本屋で五十冊以上は買ったはず。短編作品はほぼすべて買ったのでこの『原始人』もきっと読んだはず。でもまったくおぼえていない。
今読んでみておもう。ああ、これは中学生のぼくには理解できなかっただろうなあ。
この短篇集を一言で表すなら、「破壊」。
常識の破壊、既存の手法の破壊、文学の約束事の破壊。
(現代人が考えるような)理性のない主人公のただひたすら欲望にもとづく行動を書いた『原始人』、倫理や法の欠如した世界が舞台の『アノミー都市』、ショートショートの約束事の破壊を試みた『怒るな』、あっさりと現実が塗りかえられてゆく『他者と饒舌』など、とにかく常識をぶっ壊そうとする意欲的・実験的な作品が多い。
これはまともな小説を数多く読んで「小説とはこういうもの」という確固たる常識が己の中にできあがってから読むことでその破壊活動を楽しむための本。
だから、まさにこれから常識を構築しようとする中学生の時期に読んでもおもしろくないわなあ。
創造より先に破壊をやっちまったわけで、そりゃ理解できんわな。
ちなみに筒井康隆作品には『日本以外全部沈没』というパロディ短篇があるが、ぼくはこれも小松左京『日本沈没』より先に読んだ。
もっとも破壊的な作品ばかりでもなく、初期のドタバタコントのような『おれは裸だ』、わりとオーソドックスなショートショート『抑止力としての十二使徒』、文壇の面白語録である『書家寸話』、自伝風の『筒井康隆のつくり方』など、バラエティに富んだ内容。
中でもインパクトが大きかったのは『読者罵倒』。
こんな感じで読者に対する罵倒が延々続く。
そういう趣向だとわかっていてもやっぱり読んでいると不愉快になってくるんだからたいしたもんだよ。
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2020年2月19日水曜日
【読書感想文】思想弾圧の化石 / エレツ・エイデン ジャン=バティースト・ミシェル『カルチャロミクス』
カルチャロミクス
文化をビッグデータで計測する
エレツ・エイデン
ジャン=バティースト・ミシェル
阪本 芳久 (訳)
Google Ngram Viewer なるサイトがある。
過去100年以上に世界中で出版された大半の本に使われた言葉をデータ化し、その言葉がどれぐらい使われたかを年ごとにグラフ化できるサービスだ。無料。
(残念ながら2020年2月時点で日本語は非対応)
たとえばこれは、1800年以降に[America][USA][China][Japan]という言葉がどれだけ本に使われたかを示すグラフ。
ところが1900年頃から[China]と[Japan]に関する記述が増えはじめる。日清戦争(1894-1895)を経て、世界的に存在感を増してきたことが原因だろう。
その後、第一次世界大戦(1914-1918)と第二次世界大戦(1939-1945)の時期には三国とも記述が増える。おそらくこの時期は大戦に参加したすべての国が多く言及されたことだろう。
その後[China]は横ばい。
戦後になって急激に[USA]が増える。[USA]は戦後に使われるようになった言葉なんだね。[USA]にとって代わられた[America]は微減。
Japanは戦後一定を保つが、1980年頃から急上昇。ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代。この時期はじめて[China]を超える。
が、バブル崩壊とともに[Japan]は失速。急激に世界からの関心を失い、入れ替わるように存在感を増した[China]に大きく水をあけられている(ちなみにこのグラフの右端は2008年なので、現在はもっと大差をつけられているはず)。
こんなふうに、人名、俗語、一般名詞など、いろんな言葉の隆盛が手に取るようにわかる。
ふうむ、おもしろい。
早く日本語版をリリースしてくれー。
『カルチャロミクス』は、このNgram Viewerを開発したふたりの研究者による、開発の顛末とそこから導き出される知見についての本。
Ngram Viewerを生みだすまでには並々ならぬ苦労があったようだ。
まずこれまでに出版されたありとあらゆる本を電子データ化すること。これはGoogleが既にやっていたプロジェクトらしいが、何人ものスタッフが1ページずつ本をめくってスキャンしていったそうで、とんでもない労力だ。
金になるかわからないけど莫大な労力のかかるプロジェクトに金を出すなんて、さすがはGoogleだよなあ。でも金になるんだろうなあ。
国家がやらなきゃいけないことを私企業がやってるんだもんなあ。[Google]の影響力が[Japan]を上回るのも時間の問題かもしれない。
ちなみにGoogle Ngram Viewerにおける[Toyota][Sony][Google]の1950-2008年のグラフがこちら。
Googleの躍進ぶりがいかにすごいかがよくわかる(何度も言うけどグラフの右端は2008年だから今はもっと差があるからね!)。
Google Ngram Viewerが日本語に非対応なのは、スキャンデータを電子化するのが難しいからだろうね。アルファベットは形がシンプルだし種類も少ないから文字を自動判別するのが楽だろうけど、漢字は難しいんだろうな。
画数が多い字なんかはスキャンの仕方やフォントによって別の字とまちがえられてしまうだろうから(柿(かき)と杮(こけら)なんか見分けるのはほぼ不可能だろう)。
技術的な問題だけでなく、法的な問題も立ちはだかったらしい。
本には著作権があるから、万が一スキャンデータが流出したりしたらとんでもないことになる。一億冊以上の本のデータが流出したら、数百万件の訴訟を起こされるリスクがある。
そのため、新しい本の情報は扱いにくい、単語単位での分析はできるが文章単位での分析はできないなどいろんな制約がかかったらしい。
たいへんだあ。
いくらGoogleとはいえ数百万件の訴訟を起こされたらひとたまりもないだろう。
そりゃ扱いも慎重にもなるわな。
そんな幾多の試練を乗り越え、完成した Ngram Viewer。
著者たちは、まるで新しいおもちゃを与えられた子どものようにNgram Viewerでいろんなことを調べている。
たとえば不規則動詞について。
ふつうの動詞は[-ed]をつければ過去形、過去分詞形になるが、たとえば[go]は[go-goed-goed]ではなく[go-went-gone]という不規則な変化をする。
英語を勉強した人なら、きっと誰しもが「なんで不規則動詞があるんだよ」とおもったことだろう。ぼくもおもった。
すべてが規則動詞なら英語の勉強もぐっと楽になったのに。
ところが、不規則動詞が今も残っているのにはちゃあんとわけがあるのだ。
元々動詞の活用の仕方はばらばらだったらしい。
だがあるときから[-ed]をつければ過去形、過去分詞系になるという法則ができ、次第に動詞の活用は置き換わっていった。
まっさきに置き換わったのは、めったに使われない動詞だ。
めったに使われないので「これの過去形ってどうだったっけ? まあ[-ed]つけときゃいっか!」みたいな感じで、あっさり置き換わってしまうのだ。
その結果、現在生き残っている不規則動詞はよく使われるものばかり。
[be] [do] [go] [think] [have] [say] など、使用頻度の高い動詞ほど規則的な活用をしにくいのだ。
使用頻度が高いから、イレギュラーな活用をしても忘れられないからだ。
筆者たちは過去のデータを元に、今後も不規則動詞はどんどん減っていくと予想する。既にいくつかの不規則動詞が消滅(規則動詞化)に瀕しているらしい。
未来の中高生はちょっとだけ英語学習が楽になるね。
思想弾圧があると、ある種の単語の使用頻度が急激に減る。
一部の芸術家、思想家、ユダヤ人学者などはナチス政権下で弾圧されたため、その期間のドイツ語の本に登場する頻度ががくっと下がる。
「急に注目されるようになった人物・事象」は話題にのぼることが多いので目に付くが、「話題にならなくなった人物・事象」には気づきにくい。
死語といえば? と尋ねたら「ナウなヤング」といった答えが返ってくるだろうが、そういう言葉は意識されているのでほんとには死んでいない。ほんとの死語は死語として意識されることすらないのだ。
だが Ngram Viewerを見れば、特定の国・時代だけで不自然に使われなくなった言葉がわかる。それはつまり「抑圧された思想」なのだ。
弾圧が化石として残る。これは後世のためにもぜひ残しておかなければならないプロジェクトだ。国家を挙げてでも。
でも、権力者からすると弾圧の痕跡が残ってしまうのは避けたいだろうから無理かもしれない……。
Ngram Viewerで得られた考察を見ても「ふーん。おもしろいねー」とおもうだけで特に何の役に立つわけでもない。だが研究とはそういうものだ。それでいい。
著者たちが楽しんでいることだけは存分に伝わってくる。
Ngram Viewerみたいなおもちゃ、言語マニアにはたまらないだろうなあ。
国語辞典が好きな人なら一日中 Ngram Viewer で楽しめるはず。
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2020年2月18日火曜日
鉄道マエストロ
電車乗客の指揮者になりたい。
満員電車でタクトをふりまわして他の乗客たちの行動を指揮するのだ。
ほらそこ、もっと奥に詰められるだろ。おまえがそこでふんばってるせいでこっちがぎゅうぎゅう詰めなんだよ。
そこのおっさん、おまえが右か左に寄ればあと一人座れるんだぞ。寄らんかい。
そこのおばちゃん、リュックは胸の前で持つか網棚に上げるかせんかい。じゃまだよ。
スマホ見てる少年、目の前にマタニティつけた女性が立ってるぞ。ちゃんと見ろよ、ただのでぶじゃないぞ。
おねえちゃん、傘は自分の前で持たんかい。人に当たるから。
にいちゃん、壁にもたれて内側を向くんじゃない。他人の顔面と向き合わなきゃいけない人の気持ちも考えんかい。外側を向くのがルールなんだよ。鉄道乗客法で定められてるのを知らんのか。そんなのないけど。
ぼくの的確な指揮で、乗客たちに六方最密充填構造原子のように最適なフォーメーションをとらせるのだ。
マエストロのタクトは片時も休まない。
さあ。もうすぐ駅に着くぞ。降りるやつは準備しろよ。到着してからあわてるんじゃないぞ。
こらこらおっさん。だからといって今から出口に向かおうとするんじゃない。
扉が開いてないのに隙間をつくれるわけないだろ。
どうせ次はターミナル駅。いっぱい降りるんだからそれを待ってから向かっても十分間に合うぞ。
出口横のにいちゃん。そのポジションをキープするんだったらいったん降りんかい。
うわうわうわ。おばちゃん、並んでる人を押しのけて乗りこもうとするんじゃない。よしそこの大学生、そのおばちゃんを一発どついていいぞ。
おいそこの変なやつ、狭い電車内でタクトをふりまわすんじゃない! 周囲の迷惑だろ!
指揮者はぼくひとりで十分だ!
2020年2月17日月曜日
【読書感想文】雑誌で読むならいいかもしれないけど / 渋谷 直角『ゴリラはいつもオーバーオール』
ゴリラはいつもオーバーオール
渋谷 直角
渋谷直角氏の漫画『カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』も『奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール』もおもしろかったので(タイトルなげえな)エッセイも読んでみたのだが、読んだ後に残るものがなかった。
『ボサノヴァカバー』も『民生ボーイ』も底意地の悪い視点が随所にあふれかえっていたのだが、『ゴリラはいつもオーバーオール』はずいぶんライトでポップなエッセイで、「こんな変わったやつがいましたー!」「こんなおもしろ出来事があったんですよー!」ってな感じで、決してつまらないわけではないのだが突き刺さってくるものがなかった。
雑誌のコラムの寄せ集めらしいのだが、そのまま本にしたらこうなってしまうのもしょうがないのかな。
雑誌のコラムは主役じゃないから、アクが強すぎてはいけない。極端な主張や身勝手な思いこみはじゃまになる。
この本に収録されたエッセイはどれも収まりがいい。暴言も妄言もない。主張も弱い。「ぼくはこうおもうんですけど、ぼくだけですかね、アハハ……」みたいな感じで、雑談のトピックとしては合格だけど一冊の本にまとめられると退屈だ。
雑誌コラムの宿命かもしれない。
駆け出しライターだった頃の顛末も、せっかくのいい題材なのにただ事実を並べて書いてるだけだ。各方面に気を遣って書いた結果こんな毒にも薬にもならないお話になっちゃったのかな。
もっと人を小ばかにしたものを期待していたのになー。
おもうに、フィクションを書く才能ととエッセイを書く才能はまったくべつのものだ。
ほんとにごくごくまれにどちらもおもしろいものを書く人もいるが(今おもいつくのは遠藤周作と北杜夫ぐらい)、たいていの書き手はそのどちらかの才能しかない(両方ない人もいる)。
小説家がエッセイを書いても日記みたいな内容だったり、エッセイのおもしろい作家の小説を読んだらだらだら文章が並んでいるだけでヤマ場も落ちもなかったりする。
漫画家とか学者とか翻訳家とか歌人とか、小説家じゃない人の書くエッセイのほうがおもしろいことが多い(まあこれは「エッセイを書く小説家」と「とびきりおもしろいエッセイを書く他の職業の人」を比べてるから当然なんだけど。他の職業でエッセイがつまらない人にエッセイの仕事はまず来ないだろうから)。
フィクションとエッセイはまったく別の筋肉を要する作業なんだろう。
小説家だからといって安易にエッセイ執筆を依頼するのは、「マラソン速いんだから短距離走も速いでしょ」というぐらい乱暴なことなのだ。
で、渋谷直角さんはフィクション畑の人なのだとおもう。
自分でも雑誌ライター時代に「インタビューをとってそのまま書いてもつまらないから全部妄想で書いた」なんて話をしてるから、きっとそっちのほうが向いているんでしょうね。
ということで、今後は毒っ気の強いフィクション漫画を描いていってもらいたいものです。以上。
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