2019年12月2日月曜日

かわいそうおばさん


妻が言う。
「二人目の育児になってから、“かわいそうおばさん”が寄ってこなくなった」

 「かわいそうおばさん? なにそれ?」

「赤ちゃんを連れて歩いていると、やたらとかわいそうかわいそうっていうおばさん。ひとりじゃなくて複数いる。『寒いのに外に連れだされてかわいそうねー』とか『あらー。泣いてるの。かわいそうねー』とか言ってくるの」

 「えっ、なにそれ。子どもは寒くたってお出かけが好きだし、赤ちゃんが泣くなんてごくごくふつうのことなのに」

「そう。今ならそうおもえるんだけどね。でもこっちははじめての子育てでいろいろ神経質になってるから、いちいち気にしちゃうのよねえ。自分の子育ては良くないのかもしれない、って」

 「その人たちは何が目的なんだろう」

「さあ。おまえの子育てはなってないって言って優越感にひたりたいんじゃない? だっこして歩いてたら『あらー。おんぶじゃなくてかわいそうねー』って言われたこともあるからね」

 「えええ。だっこがかわいそうなんだ。そういう人は、おんぶしてたらしてたで『だっこじゃなくてかわいそうねー』って言うんだろうね」

「だろうね。でも、そういうオバハンは気にする必要ないっておもうようになったら、向こうから寄ってこなくなった。はじめての育児で不安になってる母親ばっかり狙うんだろうね、かわいそうおばさんは。きっと弱ってるにおいをかぎわけるのよ。サメがケガした獲物の血のにおいに集まってくるように」

 「こえー。でもぼくもよく赤ちゃん連れて歩いてたけど、そんなおばさんには会ったことないなー」

「あいつらは弱い獲物しか狙わないからね。男の人のところには行かないのよ」

 「こえー。でもそうやって弱っているお母さんを狙って攻撃せずにはいられないなんて、きっとそういうおばさんたちは子育てでいろんなイヤな思いをしたんだろうね。だから後輩をいたぶらずにはいられない」

「先輩からしごかれつづけたから、自分が三年生になったときに後輩を殴るみたいな」

 「“かわいそうおばさん”が本当に『かわいそう』と言いたいのは過去の自分なのかも」

「そう考えると“かわいそうおばさん”こそがかわいそうな存在……とはならないからね! 自分がイヤな目に遭ったからって若い母親をいじめていいことにはならんわ! ×××××(書くのもはばかられる悪口)!」


ということで、幼い子どもを持つおかあさん。
“かわいそうおばさん”はほうっておくのがいちばんです。
もしくは「泣いてるの。かわいそうねー」と言われたら

そうなのよ、今日はあいにくいつも面倒を見てくれてる召し使いがお休みをとっちゃって。ばあやがいなくてほんとにかわいそうだわオホホホホ!

ぐらいのことを言って撃退するのがいいんじゃないっすかね。


2019年11月29日金曜日

【読書感想文】人はヤギにはなれない / トーマス・トウェイツ『人間をお休みしてヤギになってみた結果』

人間をお休みしてヤギになってみた結果

トーマス・トウェイツ(著)  村井 理子(訳)

内容(e-honより)
仕事はパッとしないし、彼女に怒られるしで、ダメダメな日々を送る僕。いっそヤギにでもなって人間に特有の「悩む」ことから解放されることはできないだろうか…というわけで本気でやってみました。四足歩行の研究のためにヤギを解剖し、草から栄養をとる装置を開発。医者に止められても脳の刺激実験を繰り返し―。イグノーベル賞を受賞した抱腹絶倒のサイエンス・ドキュメント。

トーマス・トウェイツ氏の『ゼロからトースターを作ってみた結果』がめったらやたらとおもしろかったので(感想はこちら)、同じ著者の別プロジェクトであるこちらも購入。

『ゼロからトースターを作ってみた結果』もそうだったけど、このまとめサイトみたいなタイトルはどうにかならんかったのか(原題は『GoatMan: How I Took a Holiday from Being Human』)。
いや興味を惹かせるという点では悪くないんだけど、「結果」はないだろう「結果」は。トースター・プロジェクトもそうだけど、結果じゃなくて過程を楽しむプロジェクトなんだからさ。


誰しも「人間以外の動物に生まれ変わったら楽だろうな」なんて考えたことがあるだろう。
ぼくも一時間に一回考えている(すぐ精神科行ったほうがいい)。

セミとかはいやだけど、来世も人間がいいですか、それともちゃんと世話をしてもらえる家の飼い猫にジョブチェンジしてみます? と訊かれたら本気で悩んでしまう。



『人間をお休みしてヤギになってみた結果』は、トーマス氏がヤギとして生きる(四つ足で丘を越えて草を食べる)ためのチャレンジを書いた本だ。

これもおもしろそう! とおもったのだが……。

うーん……。
『ゼロからトースターを』はその行動力に感心したものだが、『ヤギになってみた』はなかなか動きださないんだよね。
シャーマンを訪れて話を聞いたり、ヤギと人間を分けるのは何かと思索をくりかえしたり、ヤギを育てている人に話を聞きに行ったり……。
ぜんぜんヤギにならないんだよね。

ヤギになるのは終盤も終盤。
ヤギに囲まれて義足みたいなのをつけた人間が四つ足で歩いている写真はおもしろいけど、肝心の心境の変化はほとんどつづられていない。
痛いとか疲れたとかばかりで、そりゃそうだろうな、そんなのやってみなくてもだいたい想像つくよ。
結局「ヤギになってみた結果」ではなく「人間が四本足で歩いて草を食べてみた結果」だった。がっかり。



とまあプロジェクト自体はあまり実りのあるものではなかったけど、ヤギとヒトを分けるものについてあれこれ考えていく中にはおもしろいところもあった。
それに加えて、これはすべての種に見られることだが、家畜化は脳の萎縮をまねく。犬の脳は狼の脳より小さく、一般的な家畜のヤギは野生のヤギよりも小さな脳を持つし、豚の脳はイノシシの脳より小さい。そして興味深いことに、過去三万年間において、人間の脳も萎縮しているのだ。実際のところ、ホーレンシュタイン・シュターデル洞窟のライオンマンを彫った人間は、我々と比較して、テニスボール一個分大きい脳を持っていたのだ。彼らはまた、我々よりも体格がよく、大きな歯と、よりしっかりとしたあごを持っていた。
 この進化のパターンは、人間も家畜化のプロセスを辿っており、凶暴さをそぎ落とされる方向に淘汰されつつあるという、興味深い考えに行きつく。ただし、人間を家畜化したのは、人間自身なのだ。この自己家畜化プロセスは、どのように行われたのだろう? ハーバード大学の生物人類学教授のリチャード・ランガム氏によれば、それは以下のようになされた可能性があるという。誰か(怒っている若い男性の場合が多い)が、その暴力的な気質で集団を混乱させ続ける場合、集団の残りのメンバーは団結して、その若い男に対処しようと決める。そして不穏なことが起こる。集団の残りのメンバーたちは結託して彼の頭に岩を打ちつけたり、崖から突き落としたり、槍で突き刺したりするというわけだ。手荒いやり方ではあるが、問題は解決する。

現代人の脳は、ネアンデルタール人よりも小さいのだそうだ。
そういや島 泰三『はだかの起原』にも同じことを書いていた。

ふうむ。多くの人は現代人が地球史上いちばん賢いとおもっているけど、じつはそうではないのかもしれない(賢さの定義をどう決めるかによるだろうけど)。
自分でエサをとらなくてもいい環境がそうさせるのか、賢すぎる個体は社会で生きづらいのか、ただ単に経年劣化しているだけなのか……。

ということは今後どんどん脳は縮小していくんだろうか。有史以来ずっとくりかえされてきた「最近の若いやつは……」は意外と正しかったのかもしれない。



ヤギの生活をするためにはただよつんばいになればいいとおもってたんだけど、そもそも人間はよつんばいで生きていくことはできないのだそうだ。
「その通り。僕らはものごとを快適にして痛みを軽減することはできるけれど、体の各部位にかかる圧力を減らすことはできない。その圧力が君を破壊するってわけだ」
 破壊なんて強い言葉だけれど、でも彼らはゆずらなかった。それじゃあ、義足をつけてマラソンを走った男性は?
「それは素晴らしいことだな」とジェフは言った。「でも、臨床的観点で言うと、狂気の沙汰だ。マラソンが終わった後の足の状態を見てみたい。フニャフニャになるまで叩いたハムみたいになっているはずだ。しかしそうだったとしても、そのランナーは二本足で立っていたわけだ。君の場合は問題が山積みだよ。例えばどうやって頭を上げておく? めちゃくちゃ辛いはずだ。ヤギには人間よりも強い項靱帯というものがある。それは、ピンと張ったロープのようなもので、首の後ろ側にあって、それがあるおかげで頭を上げておくことができるんだ。でも君にはそれがない。それから、たとえ項靱帯のような装具を作ることができても、君はそれを作るべきじゃないと思う。だって快適過ぎてしまうから。君には疲れてもらわなくちゃならない。疲れることで、止まることができるからね。長期間頭を上げ続けて、神経や頭への血流に影響を与えることを避けないと」
ヒトも大昔は四足歩行する動物だったんだろうけど、それは遠い昔。今さら四足歩行には戻れないのだ。

そういや昔から「オオカミに育てられた子」という言い伝えがある。ローマ神話のロームルスとレムスだったり、有名な例だとアマラとカマラだったり、フィクション作品にも数多く出てくる(ぼくがすぐ思いうかべたのは手塚治虫『ブッダ』のダイバダッタ)。
でもどれも信憑性に乏しいらしい。少しだけ行動を共にするぐらいはあっても、人間はオオカミの行動ペースについていけないのだそうだ。


ということで、人間はヤギにもオオカミにもなれない。残念ながら人間として生きていくしかなさそうだ。
とりあえず現世は。

【関連記事】

【読書感想文】最高! / トーマス・トウェイツ『ゼロからトースターを作ってみた結果』

【読書感想文】悪口を存分に味わえる本 / 島 泰三『はだかの起原』



 その他の読書感想文はこちら


2019年11月28日木曜日

【読書感想文】たのむぜ名投手 / 藤子・F・不二雄『のび太の魔界大冒険』

のび太の魔界大冒険

藤子・F・不二雄

内容(e-honより)
「もしも……魔法の世界になったら!!」。魔法が使えることを夢見るのび太が、もしもボックスでそう願うと、次の日の朝には、街の空は空飛ぶじゅうたんでいっぱい!!ママは指先から光を出して朝食を作り、小学校では物体をうかす授業をしている。そう、本当の魔法世界になったのだ!!そんななか、のび太とドラえもんは魔界博士の満月先生とその娘の美夜子に出会い、博士の魔界接近説を聞いた。魔界が接近して地球をほろぼすというのだ。にわかに信じがたいのび太たち。だが、次の日、再び満月博士の家を訪ねると、博士の家が跡形もなく消えていた!!すべてが謎のまま夜を迎えると、昼間からのび太たちのそばにいた不思議なネコが、月の光を浴びて、美夜子になった!!彼女は博士が魔物にさらわれたと言い、いっしょに魔界に乗りこんでほしいと哀願する。さあ、どうする!?のび太、ドラえもん!!仰天摩訶不思議の大長編シリーズ第5弾!!
小学生のときに買ってもらって、何度もくりかえし読んだ本。
娘がドラえもんを読むようになったので、娘といっしょに読んだ。二十数年ぶりに。

いやあ、やっぱりおもしろい。
これは大長編ドラえもんの中でも最高傑作だ。

まずなにがいいってドラえもんがふつうに道具を使えること。
大長編ドラえもんって、たいていドラえもんの道具が使えなくなるんだよね。
いろんな事情で使える道具に制約がかかる話が多いんだけど、魔界大冒険はもしもボックス以外は使える(もしもボックスも終盤でドラミちゃんが持ってくるので使えるようになる)。道具を使えるのに倒せない敵、ってのがいい。敵の強大さがはっきりわかる。

やっとの思いで大魔王のところにたどりついたのに、あえなく一蹴されるとことか。
タイムマシンやもしもボックスといった反則級の能力を持つ道具を使ってもどうにもならなくなる絶望的な展開とか。
石ころ帽子をかぶっての緊張感ある潜入シーンとか。
ハッピーエンドかと思わせておいてもう一度ひっくりかえす裏切りとか。
とにかくハード。何度も絶望させられる。だからこそ、最後の最後で大魔王を倒したときのカタルシスはすごい。
「たのむぜ名投手」このセリフもしびれるし、期待に見事応えてみせるジャイアンはほんとにかっこいい。

誰もが空想したであろう「もしも魔法が使えたら」という導入の自然さから、楽して魔法が使えるわけではないというせちがらさを経て、徐々にのび太が魔法を使えるようになってゆく王道冒険ストーリーもいい。
この展開で心躍らない子どもはいないでしょ。

のび太とドラえもんが喧嘩して仲直りするシーン、美夜子さんがのび太を信じて後を託すところなど、些細な心の動きを丁寧に描いているのも名作たるゆえん。

石像、帽子の星、最後のオチなど、伏線の張り方も自然で、SFとしても完成度が高い。
ちょっと絶賛しすぎかなと自分でもおもうが、褒めるところしかないのだ。

あと悪役が魅力的なのもいい。大魔王はちょっと印象に残らないけど、星の数で張り合う魔界の連中は妙に人間くさくていい。

そしてなんといってもメジューサ。
ドラえもん映画史上もっともおっかない敵じゃない?


子どものときはトラウマになるぐらいこわかった。今読んでもやっぱりこわい。
最恐にして最強。
だって
・空を飛べる(しかも速い)
・時空の流れに逆らって飛べるのでタイムマシンで逃げても追いつかれる
・人間を石にする
・石にされた人間は動けなくなるが意識だけは残る
と、とんでもない凶暴性。弱点もない。

なによりおそろしいのは、こいつはドラえもんとのび太を石に変えた後、どこへともなく姿を消して二度と現れないってことだ。大魔王は倒されたことがはっきりと描かれるが、メジューサの行方は最後までわからない。パラレルワールドではまだ生きているにちがいないとぼくはおもっている。

今も時空のはざまでうなり声を上げながら人々を石に変えるために飛びまわってるのかもしれない……。


【関連記事】

【読書感想文】構想が大きすぎてはみ出ている / 藤子・F・不二雄『のび太の海底鬼岩城』



 その他の読書感想文はこちら


2019年11月27日水曜日

【映画感想】『アナと雪の女王 2』

『アナと雪の女王 2』

内容(ディズニー公式より)
命がけの妹アナによって、閉ざした心を開き、“触れるものすべてを凍らせてしまう力”をコントロールできるようになったエルサは、雪と氷に覆われたアレンデール王国に温かな陽光を取り戻した。そして再び城門を閉じることはないと約束した。それから3年――。
深い絆で結ばれたアナとエルサの姉妹は、王国を治めながら、失われた少女時代を取り戻すかのように、気の置けない仲間たちと平穏で幸せな日々を送っていた。しかしある日、エルサだけが“不思議な歌声”を聴く。その歌声に導かれ、仲間のクリストフやオラフと共に旅に出たアナとエルサは、エルサの持つ“力”の秘密を解き明かすため、数々の試練に立ち向かう。果たしてなぜ力はエルサだけに与えられたのか。そして姉妹の知られざる過去の“謎”とは? 旅の終わりに、待ち受けるすべての答えとは――。

そうそう、こういうのでいいんだよ。続編って。
ちゃんとエルサはエルサ、アナはアナのままでいてくれてる。

最近ディズニーの続編といえば『シュガー・ラッシュ:オンライン』『トイ・ストーリー 4』と、立て続けに「前作の世界観をぶっ壊す」作品が続いていたので、こういう「ちゃんと前作までのキャラクター造形を尊重する」作品を観てほっとした。

『シュガー・ラッシュ:オンライン』も『トイ・ストーリー 4』も、「この作品さえおもしろけりゃいいだろ」って感じで作ってんだよね(その狙いすら成功してるかどうか怪しいけど)。
でもこっちは「ディズニー作品」を楽しみに来てるわけ。映画一本だけを楽しめればそれでいいわけじゃない。過去の作品もあわせて楽しむために新作映画を観にいってるの。そういう心情を理解してねえんだろうなあ、『シュガー・ラッシュ:オンライン』『トイ・ストーリー 4』の制作陣は。

あ、いかんいかん。また愚痴が長くなる。

愚痴を読みたい奇特な人は以下からどうぞ。
【映画感想】『トイ・ストーリー 4』
【映画感想】『シュガー・ラッシュ:オンライン』



前作『アナと雪の女王』、ぼくは数年前にDVDで観た。
そのときおもったのは
「たしかにおもしろい。よくできている。でも、社会現象になるぐらいヒットするほどかなあ。他のディズニー作品もこれに負けず劣らずだとおもうけど。どうしてこれだけがそこまでヒットしたんだろう」

『2』を観てその謎が解けた。
映像、そして音楽に圧倒されたのだ。
なるほど。前作が大ヒットしたのもこれが理由か。
これは劇場で観なきゃだめだ。

はっきりいって『2』のストーリーは難解だ。
過去と現在が交錯するし、エルサが何のために行動しているのかもわかりづらい。

行動目的がシンプルだった前作とは対照的だ。
「追われたから山へ逃げて一人で生きていくエルサ」「エルサを追いかけるアナ」「アナの具合が悪くなったのでお城に向かうクリストフたち」「捕らえられたので逃げるエルサ」「氷漬けになったアナを助けようとするエルサ」
と、前作の行動はすごくわかりやすい。
人物の善悪もはっきりしている。

『2』でははっきりと悪人として描かれるのは××××××(ネタバレのため伏字)ぐらい。しかし××××××はもう死んでいる。あとの登場人物はわけもわからず右往左往としているだけだ。
観ているこちらも戸惑う。誰に感情移入していいのやら、何を期待すればいいのやらさっぱりわからない。

だが。
CGによる壮大な映像と迫力ある音楽がそんな疑問をふっとばしてくれる。
観終わった後は「なんだかわからんがすごいものを観た!」と感じる。そう、感じるのだ。

『アナと雪の女王2』がDVD化されたときの評価はあまり高くないのではないかとおもう。
なぜならストーリーが前作に比べて不明瞭だから。こういうのが好きな人もいるだろうけど万人受けはしづらいから。
映像や音楽の迫力はDVDで観ても伝わらないだろうから。
音楽ライブをYouTubeで観るようなもので、富士山を写真で観るようなもので、形は伝わるんだけどその匂いや手触りや温度は伝わらない。

だから興味のある人はDVD化を待たずに劇場に行くことをおすすめします。
そして小難しいことを考えずに迫力に浸ってほしい。

いやーすごかった。映像と音楽が。
ぼくはピクサースタジオを好きなんだけど、ピクサーの映像技術はディズニースタジオに完全に抜かれてしまったな。


【関連記事】

氷漬けになったまま終わる物語


2019年11月26日火曜日

ツイートまとめ 2017年5月


路上睡眠

年齢詐称

幽霊城

図書館

業界用語

餅餅食感

関西人

小熊猫

卓球部

大熊猫小麦餅

五輪問題

交友能力

案内人

磯野家

死亡実験