2019年9月24日火曜日

【読書感想文】役に立たないからおもしろい / 郡司 芽久『キリン解剖記』

キリン解剖記

郡司 芽久

内容(ナツメ社ホームページより)
長い首を器用に操るキリンの不思議に、解剖学で迫る!「キリンの首の骨や筋肉ってどうなっているの?」「他の動物との違いや共通点は?」「そもそも、解剖ってどうやるの?」「何のために研究を続けるの?」etc. 10年で約30頭のキリンを解剖してきた研究者による、出会い、学び、発見の物語。

世界で一番多くキリンを解剖したんじゃないか、と自負する若きキリン研究者(1989年生まれだそうだ)が、「キリンの8番目の首の骨」を発見するまでの話。

 これまでの研究では、肋骨が接しておらず動きの自由度が高い頸椎だけが、首の運動に関係していると考えられてきた。しかしキリンでは、筋肉や骨格の構造が変化することで、本来ほとんど動かないはずの第一胸椎が高い可動性を獲得したのだ。
 キリンの第一胸椎は、決して頸椎ではない。肋骨があるので、定義上はあくまで胸椎だ。けれども高い可動性をもち、首の運動の支点として機能している。キリンの第一胸椎は、胸椎ではあるが、機能的には「8番目の“首の骨”」なのだ。

哺乳類の首の骨は基本的に7本だ。
キリンのように首の長い動物でもそれは例外でない。子どもの頃、本で「キリンもブタも骨の数は一緒」と読んで「へえ」とおもいつつも「ほんまかいな」とちょっと疑わしくおもったのをおぼえている。
だってあんなに首が長いのに7本で足りるの?

この本の著者である郡司芽久さんはキリンの解剖を重ねるうちに、胸骨のひとつが首の骨のはたらきをしていることに気づいたのだそうだ。
なので「首の骨は7本」というのは間違いではないのだけれど、首の骨じゃないところが首の骨の代わりをしているから「分類的には7本だけど機能的には8本」ということらしい。

しかしキリンの解剖をした人は古今東西たくさんいる。
どうして誰もそのことに気が付かなかったのか。
 第一胸椎が動くかを確認するには、実際に遺体の首を人力で動かして骨の動きを確認してみるのが一番だ。けれども、大人のキリンの首は強力な項靭帯で引っ張られているため、私1人の力で動かすのは不可能だ。おそらく2、3人がかりでも難しいだろう。とはいえ、筋肉や靭帯を全て取り外してしまったら、本来の可動性からはかけ離れてしまう。
 そこで目をつけたのが、キリンの赤ちゃんだ。赤ちゃんならば、項靱帯はあまり発達していないだろうし、私でも首を動かしてみることができるに違いない。
 しかも、キリンの赤ちゃんの遺体には当てがあった。

キリンは首が長いので、解剖室へ運ぶ前に身体をばらばらにする。
長すぎてトラックに積みこめないから。
で、ふつうは首と胴体をばらして運ぶ。だから「胸の骨が首を動かすはたらきをしている」ことに誰も気づかなかったのだ。

きっと、小型動物であればもっと早く誰かが気づいたのだろう。
身体を切り離さずに解剖できるし、生きたままレントゲンやCTスキャンを撮ることもできたかもしれない(よう知らんけど)。

でもキリンは首が長いからこそ、誰も気が付かなかった。
なるほどー。このへんの謎解きはミステリ小説を読んでいるようでおもしろかった。

郡司さんがそこに気づいて「次にキリンが死んだら首と胴体を切り離さずに運んできてください」と動物園にお願いしたり「キリンの赤ちゃんを解剖する」という発想にいたったのは、やっぱり誰よりも多くキリンを解剖してきたからなんだろうね。さすがだなー。


「で、それがわかったところで何の役に立つの?」と訊かれたら困ってしまうけど(たぶん何の役にも立たないんだろう)、でも何の役にも立たたないからこそのおもしろさ、ってのはあるんだよな。わかんない人には永遠にわかんないだろうけど。


ということで、読んだところでたぶん人生において役立つことはないであろう本だけど、内容はおもしろかった。
ただ、文章はちょっと遊びがないというか、無駄がない気がして、なんだか窮屈な感じがしたな。若いからこそなんだろう。
きっとこの人は歳を重ねてきたら、川上和人さんの『鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』みたいに学術的にも文章的にもめっぽうおもしろいものを書く人になるような気がする。

そうなるよう、今後もキリンの本をたくさん書いてほしいな。


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2019年9月20日金曜日

【読書感想文】暦をつくる! / 冲方 丁『天地明察』

天地明察

冲方 丁

内容(e-honより)
徳川四代将軍家綱の治世、ある「プロジェクト」が立ちあがる。即ち、日本独自の暦を作り上げること。当時使われていた暦・宣明暦は正確さを失い、ずれが生じ始めていた。改暦の実行者として選ばれたのは渋川春海。碁打ちの名門に生まれた春海は己の境遇に飽き、算術に生き甲斐を見出していた。彼と「天」との壮絶な勝負が今、幕開く―。日本文化を変えた大計画をみずみずしくも重厚に描いた傑作時代小説。第7回本屋大賞受賞作。

いやあ、すごいなあ。
「算術」「天体観測」「改暦」といった、小説としては地味なテーマを描いているのに、こんなにおもしろくなるんだから。

冲方丁さんはSF作家で、時代小説はこれがはじめての作品だそうだ。
以前に「時代小説はファンタジーだ」という持論を書いたけど(【読書感想文】時代小説=ラノベ? / 山本 周五郎『あんちゃん』)、この主張を裏づけてくれるかのようなSF作家の時代小説。
「星はときに人を惑わせるものとされますが、それは、人が天の定石を誤って受け取るからです。正しく天の定石をつかめば、天理暦法いずれも誤謬無く人の手の内となり、ひいては、天地明察となりましょう」
 自然と、いつか聞いたその言葉が口をついて出た。あの北極出地の事業で、子供のように星空を見上げる建部と伊藤の背が思い出され、我知らず、目頭が熱くなった。
「天地明察か。良い言葉だ」
 正之が微笑んだ。先ほどの殺伐とした枯淡さはなく、穏やかで、ひどく嬉しげだった。そしてその微笑みのまま呟くように言った。
「人が正しき術理をもって、天を知り、天意を知り、もって天下の御政道となす……武家の手で、それが叶えられぬものか。そんなことを考えておってな」
 半ば盲いた正之の目が、そのとき真っ直ぐに春海を見据え、
「どうかな、算哲、そなた、その授時暦を作りし三人の才人に肩を並べ、この国に正しき天理をもたらしてはくれぬか」
 それが三度目の、そして正真正銘の落雷となって、春海の心身を痺れる思いで満たした。
「改暦の儀......でございますか」
 すなわち八百年にわたる伝統に、死罪を申し渡せということだった。

「新しい暦を作る」と言われても現代人にはぴんとこない。ぼくらは生まれたときからずっと同じ暦(グレゴリオ暦)を使いつづけているのだから。
「暦を変えたらカレンダー屋さんや手帳を作っている出版社はたいへんだろうな」とおもうぐらいだ。
しかしこれがとんでもないことなのだ。

当時の日本では八百年にもわたって宣明暦という暦が使われていた。
しかし当初の計算が正確ではなかったため、八百年も使いつづけているうちに実際の天体の動きとの間に二日間のずれが生じてしまったのだ(九世紀に作られた暦が八百年で二日しかずれなかったってのもすごいけど)。

そこで、主人公である渋川春海がより正確な暦をつくることを命じられ、数学や天文学などを駆使して新暦を作りつつも朝廷らとの政治争いにも巻き込まれ……。

と、ストーリーを説明してもこれがスリリングな展開になるということがなかなか伝わらないだろうなあ。
うーん、申し訳ないけど一度読んでみてというほかない。



しかし暦をつくるのってたいへんなんだなあ。
あたりまえのように使っている暦だけど、天体の動きを表したものであり、人々の生活の土台であり、統治者の威光を示すものであり、未来を予測するためのものなんだもんなあ。
 膨大な数の天測の数値を手に入れ、何百年という期間にわたる暦註を検証した結果、太陽と月の動きが判明したのである。
 太陽と惑星は互いに規則的に動き続けている。そのこと自体は天文家にとって自明の理である。
 だがその動き方が、実は一定ではないということを、春海は、おびただしい天測結果から導き出したのだった。
 太陽は、地球に最も近づくとき、最も速く動く。逆に最も遠ざかるときには、最も遅く動いているのである。これは、厳密に秋分から春分までを数えるとおよそ百七十九日弱なのに対し、春分から秋分までは、およそ百八十六日余であることから、明らかになっていた。
 後世、″ケプラーの法則″と呼ばれるものに近い認識である。このいわば近地点通過、遠地点通過の地点もまた、徐々に移動していく。となると、その運航はどんな形になるか。
 楕円である。
「……そんな馬鹿な」
 思わず呟きが零れた。だがそれが真実だった。今の世の誰もが、星々の運行を想像するとき、揃って円を思い描く。真円である。それが、神道、仏教、儒教を問わず、ありとあらゆる常識の基礎となっている。そのはずではなかったのか。星々の運行、日の巡り、月の満ち欠けにおいて、いったい誰が、こんな、奇妙にはみ出したような湾曲した軌道を想像するというのか。
今のように優れた観測器具やコンピュータもない江戸時代に、観察と計算だけでこんなことまで明らかにしていた人がいたなんて。
ただただ感心するばかり。


そういえば、地理人(今和泉隆行)さんという人のトークイベントを聴きにいったときのこと。
地理人さんは「存在しない街の地図を精密に描く」という趣味を持っているのだが、最近はよりリアルな街の地図を描くためにプレートテクトニクスを学んでいる、と語っていた。
なぜこんな街並みなのか。それはここに川があるから。
なぜここに川があるのか。それはあそこに山があるから。
なぜあそこに山があるのか。それはプレートとプレートがぶつかって……。
ということで、地図を知るためには地球そのものについて学ぶ必要があるのだ、と。

もちろんプレートテクトニクスだけではいけない。
街がその形になったのには、いろんな原因がある。それをつかむためには歴史、文化、経済、法律、軍事、宗教、さまざまなことを知らなくてはならない。
精密な地図を書こうとおもったら、森羅万象を知らなくてはならないのだそうだ。

暦も同じなのだろう。
あらゆる方面に深い造詣を持ちながらも謙虚さを崩さない渋川春海の姿に、同性ながら惚れ惚れする。

『天地明察』には主人公の渋川春海と並んで、和算を興した関孝和という天才も出てくる。
登場シーンは少ないのだが(話題にはよくのぼる)、この天才の姿もまたかっこいい。

いやあ、江戸時代にもとんでもない天才がいたんだねえ。
なめてたよ、江戸を。すんませんでした。


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2019年9月19日木曜日

21世紀の健康診断


健康診断に行くたびにおもう。


血液を採取されて、レントゲン検査で被曝して、バリウムを排出させるために下剤を飲む。
身体にいいわけがない。

健康のために不健康なことをしている。
なにやってるんだろうという気になる。

特に診断結果が出て「異状なし」だと、余計にその思いが強くなる。
だったらやらなくてよかったじゃん。
これがもし「ガンが見つかりました。でも早期発見なので今から治療すれば治ります」だったら「健診受けといてよかったー!」とおもうはず。
健康だったらがっかりして深刻な問題があれば喜ぶ。ずいぶんおかしな話だ。

昔は瀉血といって、病気になった人の血を抜いていたらしい。
悪い血が病気の原因になっているから血を抜けば病気が治る、という考えにもとづいて。
もちろん血を抜くことは身体にダメージを与えるから具合は悪くなる。瀉血によって死ぬ人も多かったそうだ。

今われわれは病気の原因が細菌やウイルスだと知っているから、病気になっても血を抜いたりしない。
健康のために不健康なことをしていたなんて、昔の人はばかだなあ。


きっと未来人も、同じことを我々にたいしておもうのだろう。
21世紀の人は健康のために血を抜いたり食事を抜いたりバリウムを飲んだり下剤を飲んだりしてたんだって。
まじで? 越死ばかじゃん。(「越死」は「すごく」の意味の未来の言葉)

令和人って長生きしたいって言いながら塩食ってたらしいよー。千万ー。(「千万」は「ウケるー」みたいな意味の未来の言葉)

令和人って健康のためにジョギングしてたんだって。越死アホだよね。

令和人って必死こいて勉強してたんだけどね、それが21世紀物理学なんだって§§(「§§」は笑っている様子を表す記号)。


そんなふうに未来人にばかにされるんだろうな。

でもな、未来人。
これだけは言っておく。

健康診断で血を抜かれるのって、痛いし怖いし不健康だけど、でもちょっとだけ快感もあるんだぜ。
蚊に刺されたときにおもいっきりかきむしったときや自分の足のにおいをかいだときに感じるのと同じような、不快なのになぜかちょっと気持ちいい感じもほんのちょっとあるんだぜ。

自分でも越死千万だけど。


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レトロニム


2019年9月18日水曜日

【読書感想文】チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』

82年生まれ、キム・ジヨン

チョ・ナムジュ (著) 斎藤真理子 (訳)

内容(e-honより)
ある日突然、自分の母親や友人の人格が憑依したかのようなキム・ジヨン。誕生から学生時代、受験、就職、結婚、育児…彼女の人生を克明に振り返る中で、女性の人生に立ちはだかるものが浮かびあがる。女性が人生で出会う困難、差別を描き、絶大な共感から社会現象を巻き起こした話題作!韓国で100万部突破!異例の大ベストセラー小説、ついに邦訳刊行。

キム・ジヨンという人物の半生を通して女の生きづらさを描いた小説。

フェミニズム小説、というジャンルでくくられているらしいが、これは男こそ読むべき小説だね。
そうか、女であるというだけでこれほどまでに人生が変わってくるのか。

逆に女性にとっては「なにをいまさら」「女が生きづらいのなんてあたりまえじゃない」と感じるかもしれない。


この本で描かれるキム・ジヨン氏は、ごくごく平凡な人生を歩んでいる(ちなみにぼくは1983年生まれなのでほぼ同い年)。
ごくふつうの家庭に生まれ、ふつうの学校に行き、ふつうの会社に就職し、ふつうの男性と恋愛をして結婚して、ふつうの家庭を築く。
もちろんその間にはそれなりの苦難はあるのだが、クラスメイトから意地悪されるとか、教師から理不尽に怒られるとか、進路に迷うとか、就職先が決まらないとか、恋人とすれちがうとか、当事者にとっては深刻でも、言ってみればどうってことのない悩みだ。

ふつうの人がふつうの人生を送ってふつうの苦難をふつうに乗り越えるだけなので、とても小説の題材になるような話ではないのだが、このふつうさこそが「女の生きづらさ」を鮮やかに浮かびあがらせている。
「でも就職説明会のときに来てた先輩たち、見たでしょ。うちの学校からでも、いい会社にいっぱい行ってるよ」
「それ、みんな男じゃない。あんた、女の先輩を何人見た?」
 ハッとした。目がもう一つ、バッと開いたような気分だった。言われてみればほんとにそうだ。四年生になってから、それなりの就職説明会や先輩の話を聞く会などには欠かさず出席してきたが、少なくともキム・ジヨン氏が行った行事に女性の先輩はいなかった。キム・ジヨン氏が卒業した二〇〇五年、ある就職情報サイトで百あまりの企業を対象に調査をした結果、女性採用比率は二九.六パーセントだった。たったそれだけの数値で、女性が追い風だと報道していたのである。同じ年、大企業五十社の人事担当者に行ったアンケートでは、「同じ条件なら男性の志願者を選ぶ」と答えた人が四四パーセントであり、残り五六パーセントは「男女を問わない」と答えたが、「女性を選ぶ」と答えた人は一人もいなかった。
きっと、韓国だけじゃなく日本でも、そして他の多くの国でも、進路に悩む女性が味わっている気持ちだろう。

昔ほどあからさまな女性差別は少なくなった(東京医科大学のようにいまだに露骨な差別をしているところもあるけど)。
男女雇用機会均等法により、求人票に「男子のみ」なんて書いたらいけないことになった。
けれども見えづらくなっただけで、意識としてはそれほど大きく変わっていない。

若い女性に求められるのは、令和の時代になっても「職場の華」「かわいげ」だったりする。
能力のない女性は求められず、かといって能力の高すぎる女性も敬遠される。
おとなしくてかわいくて気が利いて、多少のセクハラは笑って受けながしてくれる女性(もちろん表立ってこんなことを口にする企業はないが、この条件に当てはまらない女性は就職に苦労する可能性が高いだろう)。
「会社の将来を背負って立つ人材」は、男に対しては求められても女はほとんど求められていない。

ぼくだって、いざ自分が採用する立場になったら「長く働いてくれる人をとるんだったら、能力が同じなら男を選ぶかな」とおもってしまう。
「だって現実問題として女のほうが結婚や出産で職場を離れる可能性が多いし……」と言い訳をして。「属性の可能性」で個人を判断することこそが差別なんだけどね。



 遅刻常習犯だった五人の反省文メンバーは、翌日からまっ先に登校するようになり、午前中はずっと机に突っ伏して寝ていた。何かたくらんでいるようだったが、大きな校則違反などをしたわけでもないので先生たちも何も言えない。そしてついに事件は起きた。ある朝早く、不良娘が路地で露出狂を取り押さえたのである。一本橋の上で仇に出くわしたようなものだ。彼女が露出狂とにらみ合うと、後ろに隠れていた四人がいっせいにとびかかり、準備しておいた物干しロープとベルトで露出狂を縛り上げて近所の派出所に引っぱっていった。その後派出所で何があったのか、露出狂がどうなったかを知る人はいない。ともあれその後露出狂が現れることはなかったが、五人は謹慎処分を受けた。一週間というもの授業を受けられず、教務室の隣の生徒指導室で反省文を書き、グラウンドとトイレの清掃をして帰ってきた彼女たちは、固く口をつぐんでいた。先生たちはときどき、その生徒たちとすれ違うと頭をトンと小突いたりした。
「女の子が恥ずかしげもなく。学校の恥だぞ、恥」
 不良娘は先生が通り過ぎたあと、低い声で「畜生」と言い、窓の外につばを吐いた。
露出狂を捕まえたのに謹慎処分を受ける女子中学生。
もし捕まえたのが男子学生だったらどうだろう。きっと「お手柄中学生!」という扱いだっただろう。

ひどい話だ、とおもう。
けれどもしも自分の娘が露出狂を捕まえたらどうおもうだろう。手放しで「よくやった!」とは言えない気がする。
「悪いやつを捕まえたのはえらいけど、でもあんまりあぶないことはしないほうがいいよ。どんなやつかわからないから」
と、苦言のひとつも呈してしまうだろう(息子でも言うだろうけど、娘に対するほどではないだろう)。

黙っていればセクハラをされ、性犯罪の被害者になればおまえにも落ち度があったと言われ、反撃すれば生意気だの恥ずかしいだのと言われる。どないしたらええねん。



たいていの男は、自分が下駄を履かされている(というか女が下駄を脱がされているのかも)ことに無自覚だ。ぼくも含めて。

「女はたいへん」と聞くと、おもわず「でも男には男の苦しさがあるんだよ」と言い返したくなる。

ぼくが「男の生きづらさ」をもっとも感じたのは、無職だったときと、フリーターをやっていたときだった。
いろんな人から「いい歳した男がいつまでふらふらしているんだ」「フリーターでは将来妻子を養っていかなくちゃいけないのに」と言われた。
もちろん女でも言われていたかもしれないけど、定職についていない人に対する風当たりは、男のほうが女よりずっときつい。たぶん。

ただしそれは「男のほうが正社員雇用されやすい」からこそ、と言えるかもしれない。正社員になりやすいからこそ、そうでない人の居場所がなくなるのだ。
「男なのにずっとパート/派遣ってわけにはいかんだろう」と言われることはあっても、「女なのに」と言われることはほとんどないだろうからね。

やっぱりトータルで考えると、女のほうが生きづらいとおもう。
月経・出産という身体的な障壁もあるし(というかこれが「障壁」になっていることが本来おかしいんだよね。ほとんどの女性が体験することなのだから。せいぜい「近眼」ぐらいのハンデであるべきだよね)、たびたび性的な目を向けられるというのも大きなストレスだろうし。
美人すぎて苦労する、ってのは女ならではだろうね。男のイケメンはいいことしかないだろう(イケメンになったことないから想像だけど)。


ぼくは三十年以上「男」として生きてきたので、「女の苦しみ」を我がことのように感じることはなかった。
しかし娘を持つ身になって、その生きづらさを想像して気が滅入るようになった。
この人も将来、男から容姿をあけすけに審査されるのだろう、性的な目で見られるのだろう、気が弱ければ身勝手な男に屈服させられそうになるのだろう、気が強ければ女のくせに生意気だとおもわれるのだろう、就職で差別されるのだろう。
……と、娘がこれから味わう苦労を想像してため息をつく。

しかしその苦労を味わわせるのは、かつてのぼく(もしくはこれからのぼくかも)なのだ。
我ながら、ずいぶん身勝手な話ですわ。

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2019年9月17日火曜日

【読書感想文】構想が大きすぎてはみ出ている / 藤子・F・不二雄『のび太の海底鬼岩城』

のび太の海底鬼岩城

藤子・F・不二雄

内容(e-honより)
今回の舞台は海底。海底へ遊びにきたドラえもんたち仲よし五人組は、チョモランマと富士山を足した長さの海溝を下ったり、口の悪い水中バギーに乗って、海底ドライブを楽しんだりと、大満足のキャンプになるはずだったのに、とつぜん、現れた海底人によって、ドラえもんたちは一瞬にして囚われの身に!!なんと海底には高い文明を持つ海底人の国、ムー連邦があったのだ!海底人のやさしい少年、エルからくわしい話を聞いたドラえもんたちは、ただただ驚くばかり。ムー連邦の首相は、この国の存在を陸上人からかくそうと、ドラえもんたちを一生国内に閉じこめようと考える。そして、国境を無断で越えれば死刑になると知りながらも、脱出を試みるドラえもんたち。はたして、無事国境を越え、再び陸上にもどることができるのか!?海底人の追っ手が猛スピードでやってくる!!にげきれるのか、ドラえもん!?大長編ドラえもん激動の第4作!!
六歳の娘が「『ドラえもん』の長い話が読みたい」というので書店に連れていき、大長編ドラえもんの棚の前で「どれにする?」と訊いて、娘が選んだのがこれ。

正直、なぜこれを選んだのかわからない。
ほとんど漢字を知らない娘にはまずタイトルが読めないだろうし、表紙は不気味。もっと子どもウケしそうな作品もあるのになぜ『海底鬼岩城』なんだろう……とおもいつつも購入。

で、読んでみておもった。
大正解だ。
すごいぞ娘。
傑作じゃないか。

『のび太の海底鬼岩城』は大長編ドラえもんの四作目。
子どもの頃、一作目『恐竜』、二作目『宇宙開拓史』、三作目『大魔境』、五作目『魔界大冒険』、六作目『宇宙大戦争』は持っていてボロボロになるまで読んだのに、なぜか『海底鬼岩城』だけはすっぽり抜けていた。
やはり子ども心に表紙が怖かったからだろうか。
友人の家で読んだことはあったので「バギーちゃんが最後に活躍するやつだよね」ぐらいの記憶はあったのだが、大人になって読んでみて、その構想の大きさに度肝を抜かれた。



『のび太の海底鬼岩城』の舞台は海底。
夏休みに山に行くか海に行くかでもめたのび太・しずか・ジャイアン・スネ夫とドラえもんは、「だったら山も海も両方楽しめるところに行こう」というドラえもんの提案で海底山脈に行くことに。
海底でも生活できるようになる[テキオー灯]や海中で走れる[水中バギー]などの道具を使い、海中キャンプを楽しむ五人。
ところがジャイアンとスネ夫が、行方不明になった沈没船を探すために勝手に探検に出たために生命の危機に陥る。
海底人によってジャイアンとスネ夫の命は助けられたものの、囚われの身に。死刑を宣告された五人だったが、地球滅亡の危機が迫ったことで地底人たちと手を組んでポセイドンと戦うことを決意する……。

というストーリー。


前半はやたらとのんびり進む。まだ冒険が始まらないのかとやや退屈だが、大人になってみるとこれはこれでノスタルジーを掻きたてられていい。特にのび太がめずらしくドラえもんの力を借りずに宿題をやりとげるところは、前半のヤマ場といってもいい。

中盤ではたっぷり時間をかけて深海の様子が描かれる。
深海の生態系や、日本海溝、マリアナ海溝、バミューダトライアングルなどの解説など蘊蓄が語られる。
正直、子どもにとってこのへんはつまらないだろう。しかし大きくなって地理の授業で習ったときに「あっこれ『海底鬼岩城』で読んだやつだ!」となって理解を助けてくれるはず。こういう啓蒙は時間差で効いてくるんだよねえ。

もちろん蘊蓄だけではなく、キャンプの描写もいい。楽しそうだ。
海中でトイレをどうするのか、プランクトンを使った料理など細部までこだわった海底キャンプ生活は、読んでいてわくわくする。
こういう「本筋には関係ない細かい設定」が藤子プロ制作になってからは失われてしまったようにおもう。

さらに序盤から[消えた沈没船]の謎がくりかえし語られることで、楽しいキャンプにミステリアスな雰囲気が漂う。
中盤最大のヤマ場が「ジャイアンとスネ夫が死に瀕する」シーン。ここは何度読んでもスリリング。バギーの無慈悲な台詞もあいまってめちゃくちゃ恐ろしい。
徐々に[テキオー灯]の効き目が切れてくるあたりは読み手まで息苦しさを感じるほどだ(呼吸に関してはテキオー灯の効き目が切れたからといって即死することはないだろうが、水圧には一瞬でも耐えられないだろうからあれでジャイアンたちが死なないのはちょっと無理があるけどね)。

このくだりは、死の恐怖を感じるジャイアンとスネ夫だけではなく、残されたドラえもんたちの心中表現も見事だ。
「間に合わないことは承知で追いかける」「手遅れになってからいい方法を思いつく」といった行動のおかげでドラえもんたちの味わったパニック感が強調されている。

圧巻は後半で明らかになる設定。
かつて海底にはムー、アトランティスという二つの大国が存在していたが、アトランティスは軍事事件の失敗により滅んでしまう。しかしアトランティスの設置した自動迎撃システムだけは今も生き残っており、近づくものを自動で攻撃する(バミューダトライアングルで船や飛行機が消息を絶つのはこのため)。
そして海底火山の噴火を敵からの攻撃だと認識してしまったアトランティスが自動迎撃ミサイルを発射することにより世界が滅亡の危機を迎える……。

いやあすごい。正確な科学知識と大胆なほらの融合。SFはこうでなくっちゃ。
ムー大陸、アトランティス大陸、バミューダトライアングルに東西冷戦やキューバ危機の要素をからませたストーリー。こんな壮大なストーリーをまさかドラえもんでやっていたなんて……。

『のび太の海底鬼岩城』の映画公開は1983年(ちなみにぼくが生まれた年)。
まだまだ米ソ冷戦まっただなかだったので、今よりずっとリアリティのある舞台設定だったはずだ。

すごいよね。
ただ、残念ながら子どもたちにはちっとも伝わらなかっただろうなあ……。
もちろんぼくも子どもの頃に読んでいたけど、このへんの設定はまったくおぼえていない。



壮大な構想にはただただ感心させられるが、お話としてみると窮屈な感じは否めない。
後半にあわただしく「ムーとアトランティスの歴史」や「アトランティスの自動迎撃システム」の説明がなされるため、読んでいるほうとしては展開についていけず、ラスボスであるポセイドンは突然現れたような印象を受ける。

また、アクションシーンも消化不良で爽快感がない。なにしろドラえもん以下全員やられてしまうのだから。
「カメレオン帽子を使ってバリアーを突破する」のくだりも、コマ数が割かれているわりに絵的に地味すぎてどうも緊迫感に欠ける。命を賭けた決死の行進なんだけど、絵で見るとただ歩いてるだけだからね。

最後の「バギーちゃん!」の活躍も、今読むとずいぶん淡泊だなあ、もっとコマ数を割いてもいいのにとおもう。でもあまりくどくどしくないのもかえって読者に想像させる余地を与えてくれていいのかも。
これが『ONE PIECE』だったら涙涙のさよならバギーちゃんで二十ページは使っただろうね。

細かい点を言いだせばきりがないが、藤子・F・不二雄先生の壮大すぎる構想が、子ども向け映画の枠に収まりきらずにはみだしてしまったからなんだろうなあ、という印象。
大人としてはものたりないところもあるけど、でも『ドラえもん』は子どものためのものなのだからこれはこれでいい。
なにしろ、『海底鬼岩城』を読んだ娘が「おもしろかったー!」と言っていたのだから。

三十数年後の子どもも、そして大人も同じように楽しめるなんて、すごい作品ですよ。改めて。

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