マンションの住民会というのに出席した。
役員紹介、昨年度の住民会の取り組みの報告、昨年度の収支報告。
一切波風の立たない退屈な進行。
ぼくは、もらった資料の余白に「ごんべんの漢字」を思いつくだけ書いて時間をつぶしていた。
問題が起こったのは、今年度の予算報告のときだ。
会計担当のじいさんが予算報告をすると、窓際に座っていたじいさんが異議を申し立てた。
親睦費に対してお金を使いすぎじゃないかという内容だ。
「毎年この金額でやっておりますので……」と会計じいさんが答えると、窓際じいさんが「毎年予算オーバーしてるんだから見直すべきでしょう」とつっこむ。
「ではこの点については検討します」と会計じいさんが逃げようとすると、窓際じいさんが「それを検討するのがこの場でしょう」と追い詰める。
なかなかスリリングな攻防だ。
他の出席者も「予算見直したほうがいいんじゃないでしょうか」などと言い、窓際じいさんが優勢だ。
ぼくはにやにやしながら眺めている。
親睦日の内訳を見ると「親睦旅行等」と書いてある。
要するに住民会の役員を中心とする老人たちが会費で旅行に行ってるんだろう。
あまり感心したことではないが、みんなやりたがらない役員をやってくれているのだからそれぐらいの役得があってもいいんじゃないか、ともおもう。
つまり「どっちでもいい」。
しかしジジイ同士の口論はなかなか見られるものではない。
こっそり机の下でスマホを取りだし、家にいる妻に「やべー。めっちゃ紛糾しとる」とLINEを送った。笑顔の絵文字入りで。
十分ほどの闘いは、窓際じいさんの勝利に終わった。
会計じいさんは来年度予算を修正することに合意し、後日訂正した資料を配布することを約束させられた。
だが窓際じいさんは満足しなかった。
再び手を挙げて「祭事費用についてなんですが、これについても予算をオーバーしておりますが……」と言いだした。
うへえ。
会計じいさんはもちろん、その場にいた全員が「もういいぜ」という気分になった。
さっきまでは窓際じいさんの見方についていたのに「まだやんのかよ」「ちょっとぐらいの超過はいいだろ」という空気になった。
露骨にためいきをついたり時計を見たりする人もいるが、窓際じいさんは気にも留めない。
やべえ、会計のごまかしを見抜くスーパー監査じいさんかとおもっていたら、単にケチをつけたいだけのクレーマーじいさんだった。
住民会の間、もうひとつ気になったことがある。
ばあさんたちがずっとおしゃべりをしているのだ。
びっくりした。
住民会がはじまるまでの間しゃべっていて、会長のじいさんが「ただいまより住民会をはじめます」と宣言している間もずっとしゃべっていて、活動報告や収支報告をしている間もずっとしゃべっている。
しかも一切ボリュームを落とさず。
「人が前に出てしゃべっているから静かにしよう」という意識が微塵もない。
一度しゃべりだしたら止まれないのかとおもうぐらいしゃべりつづけている。
ごんべんの漢字をおもいつくかぎり書いていたぼくですら、「人が前に出てしゃべっている間は静かにする」という最低限のルールは守っていた。
五歳の娘を連れていったのだが、五歳児ですら静かにえほんを読んでいた。ぼくに話しかけるときは声をひそめていた。
保育園児ですらできることなのに、このババアたちには「人が前に出てしゃべっている間は静かにする」ができないのだ。
呆れるのをとおりこして感心した。
すげえな。
このばあさんたち、義務教育受けてないのか? 人が話している間は静かにしようって尋常小学校で教わらなかった? それとも寺子屋?
加齢とともに体力と常識が落ちたのか、耳が遠いのか、声のボリューム調整機能がぶっこわれたのか、それともそのすべてなのかしらないけど、とにかくすげえな。
で、前に立って報告しているじいさんのほうもおかまいなしなのね。
自分が報告している間、ずっとボリューム大でババアが鳴っているのに、いっこうに気にしないの。
怒鳴るまではしなくても、にらみつけるとか静まるのを待つとか一切なく、ずっと話している。
加齢ってすごいな。何も気にならなくなるのかな。
そういえば、母が昔町内会の役員をやっていたのだが
「町内会のじいさまたちはなかなかのものよ」
と語っていた。
なんでも、町内会長などをやりたがるじいさんたちは権威欲も強いので、まず人の話を聞かないし、すぐにじいさん同士でぶつかるそうだ。
そして口論になると、最終的には
「私は〇〇社の経理部長をやっていたからわかるんだが……」とか
「〇〇さんは高卒だから」
とか言いだすのだという。七十歳を過ぎたじいさんたちが。
ひゃあ、それは相当な地獄絵図だなあ。
近くにいないと「お年寄りを大切に」なんて言えるけど、いざ関わってみるととてもそういう気分にはなれないなあ。
2019年5月9日木曜日
2019年5月8日水曜日
【読書感想文】原発の善悪を議論しても意味がない / 『原発 決めるのは誰か』
原発 決めるのは誰か
吉岡 斉 寿楽 浩太 宮台 真司 杉田 敦
原発稼働に関する議論を見ていると、うんざりする。
稼働賛成派は「政府、電力会社が安全だと言っているから」「原発を止めて電気が止まっていいのか」と主張し、反対派は「リスクがあるから」「原発はとにかく危険」と主張する。
傍から見ていると「どっちも感情的になっているだけで永遠にわかりあえる日はこないだろうな」としかおもえない。
「健康・環境面からの意見」VS「(短期的)経済的な意見」というまったく異なる土俵で闘ってたって、そりゃあわかりあえないだろう。
原発という金のなる木を守ろうとする人の「大丈夫だ」も、リスクがどの程度なのかを調べようともしない人の「危険だ」も、どっちももう聞きたくない。
落ちついた、両論併記の議論をぼくは読みたいんだ!
ということで『原発 決めるのは誰か』を読む。
原発の構造とか安全性とか事故があったときの影響などにはほとんど触れられていない。
テーマは、タイトルの通り「決めるのは誰か」だ。
民衆による多数決で正しい判断が下せるのか、少数の専門家に任せていいのか、任せるとしたらその少数は誰がどうやって選ぶのか。
「決定」について多くのページが割かれている。
これはいいスタンス。
たしかに原発の善悪を議論しても意味がない。
原発利権を享受している人からしたら原発は「いいもの、正しいもの」だし、リスクのほうが大きい人からしたら「悪いもの、誤ったもの」だ。
そこを議論しても、立場がちがう以上いつまでも平行線だ。
まず前提として、原発は(少なくとも今日本にある原発は)時代遅れのものだ。
その証拠に、諸外国はどんどん原発を捨てている。
原発には先がない、というのが世界の共通認識なのだ。
それでも日本が原発に依存しようとしている理由は
「ここでやめたら今までやってきたことが無駄になる」
「過去の失敗を認めたら誰が責任をとるのか」という二点のみ。
これは先の大戦で大敗につながったときとまったく同じ発想。
損切りができずにまごまごしているうちに撤退が遅れ、ますます損害が大きくなっているというのが今の状況だ。
もしも、もしもだよ。
シムシティみたいに国土を全部更地にできたとして。
「さあ、ゼロから国づくりをやりなおしましょう」
ということになったとき。
それでも原発建設を選ぶ人はひとりもいないだろう。
結局、原発を動かすかどうかを決める上で考えなければならないのは
「原発はいい選択か」ではなく(それはもう答えが出ている)、
「そうはいっても日本にはたくさん原発がある。これをどうするのか」なのだ。
シムシティとちがって、現実はリセットすることはできないのだから。
とはいえ。
原発がいい選択ではないからといって、
「原発は悪だ! 原発をゼロに!」
と叫んでもどうにもならない。
ガソリン車もパチンコもタバコも良くないものかもしれないが、現にその恩恵を受けている人、それで飯を食ってる人がいる以上、すぱっとなくせるものではない。原発も同じ。
それに「今だけ」を考えるのであれば、原発は悪くない選択肢だ。
原油価格に左右されにくいし、発電コストも比較的やすい。地球温暖化対策にもなる。
なにより、日本にはすでに多くの原発がある。
既存のものを使えるというのは大きい。
だから「段階的に廃止」「原発利権を享受している人には別のメリットを」というのが現実的な選択肢になる。
「原発なんて害悪しかないよ」といわれたら、深く関わっている専門家ほど「いや必ずしもデメリットだけではない」と反発したくなるだろう。
それよりも「五十年後になくすために知恵を貸してほしい」「原発よりももっと安全でもっと低コストな発電方法を考えてほしい」という言い方をすれば、話は前向きに進みやすくなる。
同じく、「原子力ムラが不当な利益を享受している!」と糾弾しても反発を招くだけ。
維持・開発に使っているのと同じお金を減炉・廃炉のために落としてやるようにすれば、少なくとも「今ある利益を失う」という理由での反発はなくなる。
利権というと悪いもののように言われるけど、利権があるからこそ原発や基地のような「みんなイヤだけどどこかが引き受けなければならないもの」を設置できるわけなのだから、なくすことは不可能だ。ある程度は目をつぶるしかない。
こういう道筋をつくるのが政治なんだとおもうけどねえ。
この姿勢、大いに学ばなくてはならない。
日本の議論は「カネ(それも今のカネ)」の発言力が強すぎるんだよなあ。
原発にかぎらず。
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2019年5月7日火曜日
駅のエレベーターに乗るやつは
子どもが生まれてから、駅のエレベーターに乗るようになりました。
それまでは駅のエレベーターに乗ったことなんて、ほとんどありませんでした。
海外旅行に行くときにスーツケースを持っていたから使ったかな? という程度。つまり人生で数回しか利用したことがない。
ベビーカーを押して出かけるようになってからは、駅のエレベーターをたびたび利用します。
ベビーカーだと階段やエスカレーターで移動できないからね(たまに子ども乗せたままエスカレーターで移動してる人いるけどあぶないからやめたほうがいい)。
そして気づいたことがあります。
大きな荷物もないのに、そして身体が悪いわけでもないのに駅のエレベーターを利用するやつは頭がアレ。
ふつう使わないでしょ。
ベビーカー? 当然エレベーター使うよね。
車椅子? 当然。
でかいスーツケース持ってる? わかる。
コントラバス持ってる? わかる。
松葉杖? わかる。
高齢者? わかる。
でも、健康で、大きな荷物もなく、若い人なら、まず駅のエレベーターを使わない。
だって不便だから。
エレベーターがある駅にはまずまちがいなくエスカレーターがありますし。
駅のエレベーターはあんまり大きくないですし。
だからエスカレーターや階段を使うほうがずっと早い。
百貨店とか高層ビルならまだわかりますけどね。
10階までエスカレーターで移動するのは時間かかるから。
でも、駅なんか1階分じゃないですか。深い地下鉄でも2階分ぐらいじゃないですか。
ぜったいエスカレーターのほうが早い。
それでもエレベーターを使う人がいるんです。
いやいいんですよ。誰が使ったって。
健康で荷物が少なくて若いやつは使うな、なんてどこにも書いてませんからね。
でも「健康で荷物が少なくて若いのに駅のエレベーターを使うやつ」は、ぼくが観測したかぎりではほぼ100%社会性がない。
具体的にいうと、車椅子の人がいようが、ベビーカーを押したおかあさんがいようが、ぜったいに譲らない。
「私が先に並んでたんだからとうぜん私が先よ」という顔でさっさとエレベーターに乗りこむ。
車椅子の人を押しのけるようにしてエレベーターに乗りこんでしまうやつさえいる。
あなたは、エレベーターが到着するのを待っています。荷物は鞄ひとつだけです。
待っているのは、あなた、その後ろに車椅子の人、赤ちゃんをベビーカーに乗せたお母さん。
エレベーターが到着しました。ぎりぎり全員は乗れそうにありません。
十メートル先には階段とエスカレーターがあります。
あなたはどうしますか?
そうですね。
いい大人は、車椅子とベビーカーに譲って、自分は階段かエスカレーターを利用しますよね。
べつに優しいとかじゃなくて、ふつうの感覚ですよね。
だって車椅子やベビーカーでは階段やエスカレーターを上がれないのですから。
でもね。
そういうふつうの感覚を持った人は、はじめから駅のエレベーターを利用しないんです。
いやほんと譲らないんですよ、あいつら。
びっくりするぐらい。
男もいるし女もいる。二十代もいるし五十代もいる。
でもぜったいに車椅子やベビーカーより自分が優先。
こういう人が世の中にいるということをぜんぜん知りませんでした。
ベビーカーを押して出かけるようになって、はじめて知った。
わかりませんけどね。
見た目ではわからないだけで、ペースメーカーつけてるのかもしれませんけどね。難病かかえてるのかもしれませんけどね。
にしたって、エスカレーター使えよとおもっちゃうんですよ、ぼくは。
わかりませんけどね。
難病をかかえていて、かつエスカレーター恐怖症なのかもしれませんけどね。
しかしなあ。
「エレベーターでは車椅子やベビーカーを優先させる」なんてのはモラルの話だから、他人が強制するようなことじゃあないんですが。
だから、車椅子より先にさっさとエレベーターに乗りこむ人を見てもぼくは何も言わないんですが。
心の中で「クズ野郎」と毒づくだけですが。
2019年5月2日木曜日
【読書感想文】三浦 綾子『氷点』
氷点
三浦 綾子
1965年刊行、何度も映像化されている古典的作品。
病院の院長である父親、美しく優しい母親、かわいい息子と娘。
絵に描いたような幸せな家庭の運命が、ある日娘が殺害されたことで大きく転換する。
父親は殺人犯ではなく男と逢引きをしていた妻を憎み、妻への復讐のために犯人の娘を養子として引き取る……。
「原罪」という重いテーマを扱った作品(著者の三浦綾子氏はクリスチャンだそうだ)。
家族それぞれが秘密を抱えて互いに欺きながら暮らしてゆくうちに、幸せいっぱいの家族が徐々に壊れてゆく描写はスリリングで読みごたえがあった。
日本での殺人事件の半数以上が家族間の殺人だそうだ。身近で関わりが深いからこそ、愛情が憎悪にかわったときの恨みも半端ではない。
幸いぼくは親や姉や妻や子に対して殺意を抱いたことはないけど、激しい憎しみを抱いたことはある。「あのときあんなことを言われた」と二十年たっても根に持っていることもある。逆に親や姉だってぼくに対してひとかたならぬ恨みを持っているかもしれない。
今は親族と良好な関係を築いているけれど、なにかのきっかけで相手の人生をぶっこわしてやりたいと望むほどの憎悪に変わらないともかぎらない。
……そんなことを『氷点』を読みながら考えて背筋が冷たくなった。
愛情と憎悪は紙一重なのだとつくづくおもう。
家族間の深い愛情と深い憎しみを描いた『氷点』、これがほぼデビュー作だというからすごい。
まあ文章はあまりうまくないんだけど……(というか同じ段落の中で視点がころころ変わるのって第三人称小説でぜったいにやってはいけないことだろ)。
でも、「船舶事故」「失踪した看護師」といった“特に回収されないエピソード” がちょこちょこあるのは好きだ。
こういう本筋に関係あるのかないのかわからないエピソードがあると、小説にぐっと深みが与えられるね。
しかしクリスマスにプレゼントをもらうということ以外ではキリスト教とは関わりのない人生を歩んできたぼくにとっては、「原罪」なるものはよくわからない。
人は生まれながらにして罪を負っているとか、親が殺人犯だったから子どもが罪を感じるとか、とうてい理解できないんだよなあ。
「人は罪を犯しうる存在である」と言われればそのとおりだとおもう。
ぼくだって環境によっては殺人犯になっていたかもしれない。逆に、ヒトラーやポル・ポトのような悪名高い人物だって、べつの時代や場所に生まれていたら平凡な人生を歩んでいたとおもう。
でも、だからこそ「罪を犯しうる存在であるにもかかわらず、大した悪事もはたらかずに生きている」ことを肯定的に評価すべきなんじゃないかとおもうんだけど。
生まれながらにして清いものではないからこそ、まあまあ清く生きているのってすばらしいことだといえるんじゃない?
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2019年5月1日水曜日
ノーヘルと警官
大学生のときのこと。
原付で駅まで行き、駅前の駐輪場に原付を止めて電車で出かけた。
駅まで帰ってきたのは23時頃。
「あれ? ヘルメットがない」
原付の座席下のヘルメット入れに荷物を入れていたので、ヘルメットはカゴの中に入れていた。
それがなくなっている。
周りを見まわしたが見つからない。
どうやら盗まれたらしい。
「ヘルメットなんか盗むやつがいるのか。しょうもないことするやつがいるなー」
ショックではあったが、そんなに高価なものではない。
すぐに気を取り直した。どうせ古いヘルメットだ。また買えばいい。
だが問題は今のことだ。
駅から自宅までは原付で二十分。
この距離を原付を押して歩くのはたいへんだ。
「しょうがない。ノーヘルで行くか」
田舎、それも深夜なので車通りは少ない。
ほとんど車ともすれちがわない。パトカーとも出くわさない。順調だ。
だが十五分ほど走ったところで、ぼくは原付を降りた。
この先に交番がある。
さすがに交番の前をノーヘルで通るのはまずいだろうとおもい、そこからは原付を押しながら歩いた。
交番の前を通ると、中にいた警官のおっちゃんが出てきて呼びとめられた。
「なんでバイク押してんねん」
夜中に原付を押しながら歩いているのだから警官が不審におもうのも無理はない。
ぼく「〇〇駅前に原付止めてたんですけど、ヘルメット盗まれたんですよ」
警官「そっか。でも一応調べさせてもらうで」
といって盗まれたものでないかの確認をはじめた。
もちろん盗難車でないことはすぐに判明した。
警官「それで〇〇駅からずっと押してきたんか。だいぶ遠かったやろ」
ぼく「でもノーヘルで乗るわけにはいかないですからね。しゃあないですわ」
警官「まあな」
ぼく「交番でヘルメット貸してもらえないですか」
警官「残念やけど貸せるヘルメットはないなー」
ぼく「そうですか。じゃあまた押していきますわー」
警官「そっか。がんばりやー」
よしっ、なんとか交番の前をやりすごした。
ここから家までは交番もないし車通りもほとんどない。
安堵して一息ついたぼくに、警官のおっちゃんがぼそりと言った。
「にいちゃん、原付のエンジンあったかかったで」
あっ、と声が出た。
最初からばれていたのだ。
警官のおっちゃんはわかっていて、騙されたふりをしてくれていたのだ。
あわててふりかえったが、おっちゃんはニヤリと笑って何も言わずに交番に帰っていった。
ぼくは心の中でおっちゃんに礼をいって、またバイクを押して歩いた。
そして交番から見えないところまで来ると、ノーヘルで走って帰った。
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