2019年4月22日月曜日

女装おじさんは何色か


街中でたまに女装しているおじさんいるんじゃないですか。

あれ、たいてい派手な赤やピンクのスカート穿いてるんだよね。なんでなんだろうね。

派手な赤やピンクのスカートなんて女の人でもほとんど穿いていない。
穿くのは幼い女の子か、女装おじさんだけだ。

幼い女の子と女装おじさんに共通するのは、どちらもまだ「女の恰好」に慣れていないこと。



娘が三~四歳のとき、もう恥ずかしいぐらいにピンクの服を着ていた。
「女の子はピンクを着なきゃ!」という意識に憑りつかれていたんだと思う。ピンクのシャツにピンクのスカート、ピンクの靴下。

「ピンクでかためるより、ワンポイントぐらいでピンクをとりいれたほうがより強調されてかわいいよ」とアドバイスしたこともあるが、幼児にわかるはずもなく。
ずっと林家パー子みたいなファッションをしていた。

そんな娘も五歳になってようやくピンクの波状攻撃から卒業して、黒の上下に靴下だけピンク、のようなまともなコーディネートをしてくれるようになった。

ようやく「女の子でいること」に慣れてきたのかもしれない。
慣れたことで「ザ・女の子らしい恰好」から脱却できたのかな。



慣れていないからこそ形にこだわる、という現象はよく見られる。

二十歳ぐらいの人のほうが「社会人たるもの、スーツのときはいちばん下のボタンをはずして、靴とベルトの色はそろえて、財布は……」と細かく気にしている。
スーツ生活の長いおじさんはそんなことは言わない。靴なんか歩きやすければなんでもいいやとか色の組み合わせなんかどうでもいいやとか思うようになる。よほど変じゃなければいいじゃないか。
それこそが板についてきたということなのだろう。自分のものにしたからこそ型をくずすことができる。
古い例えになるが、王貞治の一本足打法や野茂英雄のトルネード投法やイチローの一本足打法は基本をきっちりものにしたからこそたどりついた境地で、野球をはじめたばかりの人がそのスタイルだけを真似してもうまくいかない。初心者は型をきっちり身につけるののが上達へのいちばんの近道だ。

女装おじさんが「女らしい恰好」という型をくずすことができないのは、まだ「女であること」に慣れていないからだろう。



では、女装に慣れた女装おじさんはどうだろう。
もう三十年女装やっています、というおじさん。
たぶん派手なピンクはとっくに卒業して、ブラックとかグレーとかシックな恰好をしているんだろう。
フリルのついた服やスカートにこだわらず、Tシャツとかジーンズとかパンツスーツとかを上手に着こなしているはずだ。

その結果、傍目にはもうほとんど「女装おじさん」と認識できなくなる。

女装おじさんがみんなピンク色の服を着ているのではなく、ぼくらが「女装おじさん」と認識できるのは女装おじさんの中でもピンク色の服を着ている初心者だけなのだ。

もしかしたらそこにいるTシャツにジーンズのおじさんや黒のスーツのおじさんも、じつは女装おじさんなのかもしれない。

2019年4月19日金曜日

【コント】ケルベロスが現れました


「至急応援願います!」

 「まずは状況を報告せよ」

「寺町交差点にケルベロスが現れました!」


 「ケルベロス……? なんだそれは」

「神話に出てくる生物であります!」

 「なんだと! あれか、上半身が人で下半身が馬の……」

「お言葉ですが、それはケンタウロスであります! ケルベロスは頭が三つの犬であります!」

 「なるほど。キングギドラみたいなやつか……」

「キングギドラ……。それはなんでありますか!?」

 「ほら、ゴジラ映画に出てくるやつだよ。有名だろ」

「お言葉ですが、自分はゴジラ世代でないであります!」

 「いやおれだって世代じゃないけどそれぐらい知ってるだろふつう……」

「勉強しておきます!」

 「まあいいや、で、キングギドラがどうしたって?」

「キングギドラではなくケルベロスであります!」

 「ああそうか、ケルベロスだったな。何頭いる?」

「三頭であります!」

 「三頭もか。三頭とも寺町交差点にいるのか?」

「お言葉ですが隊長、ケルベロスの頭はつながっております。ですから当然ながら三頭とも同じ場所にいます」

 「待て待て待て。なに? 三頭って頭の数の話か?」

「そうであります!」

 「つまり身体は一つ?」

「そうであります!」

 「だったらおまえ、三頭ってのはおかしいだろ。それは一頭だろ」

「お言葉ですが、自分は頭基準で数えるべきだとおもいます! なぜなら一頭二頭の"頭"は"あたま"という字だからです!」

 「そうだけどさ。じゃあおまえ寿司はどう数えるの? 寿司一貫っていったら何個のこと?」

「一個であります!」

 「えーまじで? 一貫イコール二個でしょ」

「一個であります!」

 「ほんとに? おれは二個だとおもってたけど」

「自分、回転寿司でバイトしてたんですが、そのへんの解釈は人によってちがったであります! だから自分がいた店では"一個"や"一皿"と呼んで、"一貫"は使わないようにしていたであります! そもそも寿司を"一貫、二貫"と数えるようになったのは1990年頃の話で、それまでは"一個、二個"でありました!」

 「おまえくわしいな。寿司の例えはまずかったな。でもケンタウロスの場合は……」

「お言葉ですがケンタウロスではなくケルベロスであります!」

 「そうか。ケルベロスの場合は胴体基準で数えるもんじゃない? 頭三つでひとつの個体でしょ? たとえばさ、ヤツメウナギっているじゃん。あれ眼が八つあるからって四匹っていわないでしょ」

「ヤツメウナギはエラが眼のように見えるからヤツメウナギと呼ばれていますが、実際の眼は二つであります!」

 「えっ、そうなの。知らなかった。おまえウナギのことやたらと知ってんな」

「ヤツメウナギは生物学上はウナギではないであります!」

 「へーそうなんだ、知らなかった……」

「では頭の数基準で三頭ということでよろしいでしょうか!」

 「いや待て待て。まだ納得いってないぞ。……じゃああれはどうだ、鳥。鳥は一羽二羽って数えるだろ。でも羽根一枚につき一羽じゃないよな。つまり羽根が一枚でもあれば一羽」

「……」

 「な? だから頭がいくつあっても胴体がひとつなら一頭なんだよ」

「お言葉ですが隊長、ではウサギはどうなるのでしょう?」

 「ウサギ?」

「羽根が一枚でもあれば一羽とおっしゃいましたが、ウサギには羽根がありません。ですが一羽二羽と数えます。この点についてはどうお考えでしょう!」

 「いやおまえ、ウサギ持ってくるのはずるいだろ……。あれは例外中の例外というか……」

「もしも胴体がふつうのウサギで頭が三つあるケルベロウサギが現れたら、どう数えたらよいのでしょうか! 一頭か、三頭か、一羽か、三羽か……」

 「それ今決めなきゃだめ? 一体なんの話してんだよ……」

「あっ、隊長、それです!」

 「それ?」

「一体、ですよ。一頭二頭と数えるからややこしいのであります。一体、二体と数えれば解決であります。ケルベロスが一体現れました!」

 「あーよかった」

「お言葉ですが隊長、解決した気になるのはまだ早いであります!」

2019年4月18日木曜日

天才はいいぞ


ばかみたいに思われるから人には言わないけど、
ぼくは自分が天才だとおもって生きている

根拠はない。
だって既存のものさしで測れないから天才なんだもん

事実かどうかはどうでもいい。
大事なのは、自分で自分のことを天才だと信じること。


天才はいいぞ。

天才はいちいち腹を立てない。
仕事ができないやつを見ても、無駄に話が長いやつに出くわしても、出入口に立ち止まるやつを見ても、傘をふりまわしながら歩くやつを見ても、
「あいつは天才じゃないからしょうがないな」
とおもうだけだ。

ぼくとちがう。ただそれだけ。
赤ちゃんが上手にしゃべれなくても腹が立たないのと同じ。
後輩がミスをしても、同じ質問を何回もしても、腹を立てたりしない。
天才じゃない人は大変だなあと同情するだけ。

「なんでこんなかんたんなことができないの」とは思わない。だってぼくが特別天才なだけなんだもの。
ぼくにとってかんたんなことでも、天才じゃない人にとってはむずかしいんだろう。
ま、せいぜいがんばれよ。


今日は疲れたな。
まあ天才は人の何倍も頭を使ってるからな。疲れるのもしょうがない。

甘いもの食べたいな。
脳は糖分を大量に消費するからな。天才には糖分が必要だ。

天才は自分を大事にする。
だってぼくの脳は人類の貴重な財産なんだから。
たっぷり寝て休ませてあげるし、甘いものも食べる。お酒は脳に悪いので控えめに。


天才は本を読む。
いくら天才だからって知らないことはわからない。
たくさんの情報を仕入れないと天才が天才的発想をできないからね。


天才は失敗をおそれない。
だって天才だから。なんとかなるはずだ。で、たいていなんとかなる。天才が天才たるゆえん。

天才は失敗したって落ちこまない。
天才だからこの程度の失敗で済んだのだ。天才じゃなかったらどうなってたかわからない。天才でよかったー!


天才はいいぞ。
みんな天才になるといい。
ま、そうかんたんになれないから天才なんだけどね。


2019年4月17日水曜日

【読書感想文】ルール違反すれすれのトリック / 柳 広司『キング&クイーン』

キング&クイーン

柳 広司

内容(e-honより)
「巨大な敵に狙われている」。元警視庁SPの冬木安奈は、チェスの世界王者アンディ・ウォーカーの護衛依頼を受けた。謎めいた任務に就いた安奈を次々と奇妙な「事故」が襲う。アンディを狙うのは一体誰なのか。盤上さながらのスリリングな攻防戦―そして真の敵が姿を現した瞬間、見えていたはずのものが全て裏返る。

(少しネタバレ含みます)

警察を辞めた元SPが来日中のチェス世界王者アンディ・ウォーカーの警護を依頼される。
どうやらチェスの世界王者は本国アメリカ大統領府と日本のヤクザから、それぞれ別々に追われているらしい。いったい裏には誰のどんな思惑が……?

というハードボイルドな感じで話が進んでいき、同時にチェスの天才アンディの生い立ちも語られる。
そして明かされる意外な真相……。

まあ意外といえば意外なんだけど、「おもってたよりスケールのちっちゃな話だった」という点で意外だった。
大統領から追われているというからどんな壮大な裏があるのかとおもいきや。

叙述トリックもしかけてあって、これも軽め。
内容紹介文には「真の敵が姿を現した瞬間、見えていたはずのものが全て裏返る」とあるけど、ぜんぜんそんなことない。
「あーそうか」ぐらいのもの。

しかし「同名の別人」って、トリックとしてはルール違反すれすれじゃないか?
それで「やーい騙されてやんのー」っていわれてもねえ。
同じ名前が出てきたらそりゃあ読者は同一人物として読むでしょ。そこをいちいち疑ってたら小説が成立しない。
「あれ? 同じ人物のはずなのに前の記述と矛盾してない?」と思わせるような伏線をしっかり張ってくれていたらいいんだけど。



トリックや種明かしはともかく、ハードボイルド小説としてはおもしろかった。

舞台がめまぐるしく変わるのに今誰が何をやっているのかがすごくわかりやすい。
説明くさくない文章で、状況をさりげなく示してくれる。

すごくうまい小説だ。修辞的な文章が並んでいるわけではないが、読みやすい。こういう文章、好きだなあ。

文章がいいから、あっと驚くトリックや意外な真相がなくてもしっかりと楽しめた。
スリリングなチェスの対局を見ているような読書体験だった。チェスの対局見たことないけど。


あとこの小説を読むとチェスをしたくなるね。

小川洋子氏の『猫を抱いて象と泳ぐ』を読んだときもおもったけど。

でもチェスってやりたくなるけど、やってみると「将棋のほうがおもしろいな」っておもっちゃうんだよなあ。
将棋を先に知っちゃったからかなあ。


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スパイの追求するとことん合理的な思考/柳 広司『ジョーカー・ゲーム』【読書感想】

「品がいい」スパイ小説/柳 広司『ダブル・ジョーカー』【読書感想】



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2019年4月16日火曜日

【読書感想文】痛々しいユーモア/ ツチヤ タカユキ『オカンといっしょ』

オカンといっしょ

ツチヤ タカユキ

内容(Amazonより)
『笑いのカイブツ』で大ブレイクの“型破りな新人”最新作!!
「人間関係不得意」で、さみしさも、情熱も、性欲も、すべてを笑いにぶつけて生きてきた伝説のハガキ職人ツチヤタカユキ。
彼は父の顔を知らない。気がついたら、オカンとふたり。とんでもなく美人で、すぐ新しい男を連れてくる、オカン。「別に、二人のままで、ええやんけ!」切なさを振り切るように、子どもの頃からひたすら「笑い」を摂取し、ネタにして、投稿してきた半生。
本書は、いまなお抜けられない暗路を行くツチヤタカユキの赤裸々な記録であり、母と息子、不器用でイカれたふたりの泣き笑い、そのすべてが詰まった、世界一ぶかっこうな青春爆走ストーリーです。

『笑いのカイブツ』でほとばしる狂気を存分に見せてくれたツチヤタカユキ氏の私小説。

ほのぼのしたタイトルだが、中身は終始殺伐としている。

すぐに新しい男を連れてくる"オカン"と、人付き合いができない"僕"。
「最悪の組み合わせ」だというふたりの歩みを中心に、社会に溶けこめずにもがく"僕"の姿がひたすら描かれている。

読んでいると苦しくなってくる。
「生きづらさ」「社会と溶けこまないといけない苦しさ」は誰しも感じたことはあるだろう。
ぼくもある。特に十代から二十代前半までは。
その苦しさを百倍に濃縮したような気持ちを、ツチヤ氏は味わっていたのだろう。
 ここに飛び込んだら、向こう側に行く事ができる。向こう側の世界では空は白色で、雲は黒色をしている。
 つまりは、乳牛の体と同じ模様が空一面に浮かんでいる。向こう側の世界には太陽がふたつあって、一方は東から昇り、もう一方は西側から昇る。ちょうどふたつが真上に来ると衝突して、毎日、ビッグバンが起こる。
 そのビッグバンによって、世界中にあるすべての花火に一気に火がつき、爆発したみたいな空色になる。そのカラフルな色彩が爆発しまくっている空から、僕がさっき捨てたナイフが降ってくる。
 向こう側の世界では僕の両親は離婚していなくて、向こう側にいる僕の頭はエンターテイメントに冒されておかしくなんてなっていないし、血液が緑色になんかなるはずもなく、そんな、何もかも順調で完璧な世界にナイフが降ってくる。
 向こう側の世界の僕らは、それに見向きもせずに、通り過ぎて行く。

高校のとき、学年に一人か二人、誰ともしゃべらないやつがいた。
誰とも話そうとしない。話しかけてもうっとうしそうにする。そのうち誰も話しかけなくなる。
そういうやつだとおもって彼らのことを気にしたこともなかったが、そうか、こういうことを考えてたのか。つらかっただろうなあ。
だからといってどうすることもできなかったんだろうけど。

ぼくはそこそこ友だちもいて楽しい学生生活を送っていたので、ツチヤ氏からしたら「向こう側の世界」にいるように見えただろう。

でも、そんなにきっぱりと分けられるものでもないよ、とおもう。
「向こう側」にいるように見える人間だって、やっぱりそれぞれもがきくるしんでいるんだよ。



ツチヤタカユキ氏の文章には、痛々しいユーモアがあふれている。
 ガキの頃、父親の事を教えてくれとせがんでも教えてくれなかった理由は、その時に明らかになった。父の話は、子どもには聞かせられないような童話の数々だった。
「あの頃、駐車場借りるお金なかったから、アンタのお父さん、いつも路上に車停めててんやん? その定位置にの人が車を停めてるのを見るたびにキレて、車の後ろから突っ込んで、無理矢理押し出しとってん」
 R15指定の過激な童話は、歳を取るごとに話のレイティングが上がり、ついにはR18指定に。
「アンタのお父さん、ベランダでマリファナ栽培しとってんけど、隣の人が飼ってはる猫がこっちのベランダに侵入してきて、育てとったマリファナ、全部食べられてん」
 その腹いせに父は、火を点けた花火で隣人の家のインターホンをドロドロに溶かしたらしい。
 その家の猫はマリファナなんか食って、大丈夫やったんやろうか?
(中略)
 オカンは、ガンで入院している。もしいなくなったら、生活ができなくなる。
 いままでずっと、モグラのように地下にいた。その間に、地上では道路が出来ていき、地上に出ようとしてもコンクリートに頭がぶつかって、土の中から出てこられなくなった。
 いくら面接を受けても受からないバイトの線は完全に消した。ここから先は、お笑い一本で生きて行く。
 父がマリファナを栽培したように、僕はネタを設定案から栽培しまくった。その双方には、共通点がある。最後に引き起こす作用は、人の笑顔だ。

前作もそうだったけど、この本も読んでいて息苦しくなるしちっとも楽しくない。
だけど、なぜか気になってしかたがない。
自分の心の中にある嫌な部分を暴かれているような気になる。ずっと見ないようにふたをしていたのに。

ツチヤさんは今後どうなっていくんだろう。作家としてやっていくのかな。
個人的には、笑いの世界に戻ってくれたらいいなと勝手におもっている。

明るく楽しい人じゃなくても笑いはつくれるんだということを証明してほしい。

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