2019年1月31日木曜日

【読書感想文】"無限"を感じさせる密室もの / 矢部 嵩〔少女庭国〕

〔少女庭国〕

矢部 嵩

内容(e-honより)
卒業式会場の講堂へと続く狭い通路を歩いていた中3の仁科羊歯子は、気づくと暗い部屋に寝ていた。隣に続くドアには、こんな貼り紙が。卒業生各位。下記の通り卒業試験を実施する。“ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n‐m=1とせよ。時間は無制限とする”羊歯子がドアを開けると、同じく寝ていた中3女子が目覚める。またたく間に人数は13人に。脱出条件“卒業条件”に対して彼女たちがとった行動は…。扉を開けるたび、中3女子が目覚める。扉を開けるたび、中3女子が無限に増えてゆく。果てることのない少女たちの“長く短い脱出の物語”。

(ネタバレ含みます)

女子中学生が意識を失い、気づいたときには閉ざされた部屋の中にいた。ドアには貼り紙。
“ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n‐m=1とせよ”

……と、コンビニに置いてある安っぽいマンガみたいな手垢にまみれた導入だなと思っていたが、さすがは奇才・矢部嵩。安易なデスゲームにはさせない。

米澤穂信『インシテミル』を読んだときにも感じたんだけど、そんなに都合よくサバイバルゲームはじまらねえだろっておもうんだよね。
ふつうの人にとって「人を殺す」って相当なハードルの高さだよ。極限まで追い詰められないと殺し合いなんてはじまらねえよ。「(文字通り)死んでも人は殺さない」って人も相当するいるとおもうよ。「殺られる前に殺るのよ!」なんて発想にいたるのはむしろ少数派なんじゃねえの?
なのにフィクションの世界だと、変なマスクかぶった人が「さあゲーム(殺し合い)の始まりです!」と言うだけで、あっさりその無理めな設定が通用してしまう。

こういうところに常々不満を抱いていたので、〔少女庭国〕の展開には感心した。
“ドアの開けられた部屋の数をnとし死んだ卒業生の人数をmとする時、n‐m=1とせよ”
の貼り紙に気づいた女生徒たちは、けれどいっこうに殺し合いをはじめない。
いつ始まるんだと思っていると、ついに殺しがはじまるが詳細な描写はなくたったの数行であっさり説明されるだけで、そのまま話は終わってしまう。
ん? なんだこりゃ? 幽遊白書の魔界統一トーナメントか?

……と思っていたらはじまる第二章。
そこにはまた別の部屋に閉じこめられた女子中学生がおり、壁にはやはり貼り紙が。

これが延々続く。
この世界では部屋は無限にあり、閉じこめられた女子中学生も無限に存在する。
となると、女子中学生がとる行動も無限にあるわけで、〔少女庭国〕はその ”無限” を書いてみせる。

二人で殺しあう世界もあれば、十人で殺しあう世界もある。殺しあわずにそれぞれ死んでゆく世界もあれば、どんどん人や土地が増えてゆく世界もある。
中にはこんな一大文明が発達する世界も。
 フィクションの他では語り部が芸能として親しまれた。現世の景色を忘れかけるほど長くこの地で過ごしてしまったものに対し目に浮かぶように在りし日の自分たちを思い出させる語り部の存在は貴重だった。聞けば思い出すしかし自分からは掘り起こせないような些細な日常や学校や町の記憶を引き出すことの出来る饒舌なべしゃりと豊富なあるあるネタの持ち主はとりわけ希少で、歌、絵などのトップレベルのものと並んで人気を集めた。いずれも初めは労働階級のガス抜きとしての意味合いが大きかったが、やがて暇を飽かすようになった支配者層が芸の上手を囲い込み独占したり、特に気に入った芸者のパトロンとなって庇護したり、抱える芸人の質や量で権威を示したり、それらの女子を集め社交を行うようになっていった。奴隷階級から一芸を示しランクアップを果たす例もあり、そうした一連の風潮から娯楽の作り手を志願するものが大量に生まれ、最終的には需要を供給が上回る様相を呈し、花形の裏で人気のない作り手から順に食われていく生存競争を生んだ。研究班も娯楽係も後室の卒業生が奴隷身分から抜け出すようなシステムを生み出す契機となったが、そのことは次第に社会基盤の弱体化を招いていった。

もちろん本のページは有限なので実際には有限なのだが、ありとあらゆる行動パターンが書かれることで、まるで無限の選択肢をすべて提示されたかのような気になる。

「クローズドな世界」を描いていたはずなのに、気づいたら時間も場所もシチュエーションもどんどん拡大して、いつのまにか無限を目の当たりにしているのだ。
なんともすごい小説だ。よくこんな奇天烈な話を書こうと思ったし、出版しようと思ったものだ。

とはいえ、「すごい」と「おもしろい」はまたちがうわけで、物語としておもしろかったかというとそれは微妙なところでして……。

2019年1月30日水曜日

【読書感想文】部活によって不幸になる教師たち / 内田 良『ブラック部活動』

ブラック部活動

子どもと先生の苦しみに向き合う

内田 良

内容(Amazonより)
「自主的、自発的な参加」に基づく、教育課程外の制度である部活動。しかし、生徒の全員加入が強制され、土日も行うケースは珍しくない。教師も全員顧問制が敷かれ、サービス残業で従事する学校は多い。エビデンスで見る部活動のリアルとは?強制と過熱化から脱却するためには?部活動問題の第一人者、渾身の一冊!週に3日2時間!土日は禁止!「ゆとり部活動」のすすめ。

ぼく自身、「熱心な部活動」とはあまり縁のない学生生活を送っていた。

中学校では陸上部。
陸上部というのは基本的に個人競技なので、運動部のわりに「やりたいやつはやればいい」という雰囲気が強い。リレーや駅伝を除けば、サボっても自分の成績が悪くなるだけだから。
顧問があまり熱心でなかったこともあって、ほどほどに手を抜きながらやっていた。

高校では「ちょっとおもしろそう」ぐらいの軽い気持ちでバドミントン部に入ったものの、コーチ(顧問とはべつにコーチなる存在がいた)が怒鳴りまくっている部だったのでこりゃたまらんと思って二週間で退部した。こっちはべつに全国大会に行きたいわけじゃなく羽根つきを楽しみたいだけだったのだ。
で、野外観察同好会という部(同好会という名だが一応部扱いだった)に入会。ここは居心地が良かった。なにしろ三年間で活動日が四日しかなかったのだ。最高。

かくして高校時代は友だちの家でだべったり、勝手に弓道部にまぎれこんで気楽に弓をひいたり、本屋に足しげく通ったり、陸上部にまぎれて走りたいときだけ走ったり、公園でサッカーや野球やテニスやバドミントンをしたり、学校近くの川でパンツ一丁になって泳いだり、最高の放課後生活を送っていた。
あんな充実した時間はもう味わえないだろう。部活をやらなくて心底よかったと思っている。



というわけで個人的には部活反対派だが、他人に「やめなよ」とは言わない。やりたい人は好きにしたらいいと思う。
中学生のときは「部活をやらないと内申点が……」みたいな脅し文句を聞いて真に受けていたが、今思うとくだらないと思う。内申点なんて「同じ点数だったら部活を真面目にやってたほうを合格させる」ぐらいの話だろう。受験のために部活をやるんだったらその時間に勉強するほうがずっと効率的だ。

しかし「部活はやりたい人だけやればいい」というのは生徒の話であって、教師にとって部活はそう言えるものではない。

仲の良い友人がいた。月に一、二度は遊ぶ間柄だった。酒の席が好きで、飲み会に誘えばよほどのことがないかぎりは来てくれた。
だが彼が公立高校の教師になってからはほとんど会っていない。年に一度も会わない関係になってしまった。
なにしろまったく時間がないのだから。
平日は遅くまで仕事、土日も部活。平均すると週に6.5日ぐらいは仕事をしないといけないと言っていた。これでは遊ぶ時間などとれるはずがない。

彼はろくにやったこともないバスケットボール部の顧問にさせられ、土日も部活に参加。
もらえるのは交通費と昼食代で消えてしまう程度の手当だけ。
「そりゃひどいな」とぼくは言ったが、彼は「若手は断れないからなー」とむなしそうにつぶやくだけだった。
彼は部活によって不幸になっているように見えた。

彼だけが特殊なのではない。ごくごく平均的な教師の姿だ。
 想像してほしい。もし職場の上司からあなたに突然、「明日から近所のA中学校で、バレー部の生徒を指導してほしい」とお願いがあったら、あなたはどう返すだろう?
 「私には、そんな余裕ありません」とあなたが答えれば、「いや、もうやることになってるから」と返される。「バレーなんて、ボールをさわったことくらいしかないです」と抵抗したところで、「それで十分!」と説得される。
 そして条件はこうだ──「平日は毎日夕方に所定の勤務時間を終えてから2~3時間ほど無報酬で、できれば早朝も所定の勤務が始まる前に30分ほど。土日のうち少なくとも一日は指導日で、できれば両日ともに指導してほしい。土日は、4時間以上指導してくれれば、交通費や昼食代込みだけど一律に3600円もらえるから」と。
こんなむちゃなことが日本中の学校でまかりとおっている。



部活と教師をめぐる問題については、大きくふたつある。

ひとつは「やりたくなくてもやらないといけない」という問題であり、
もうひとつは「やりたい人がどこまでもやってしまう」という問題だ。

いやいややらされるのもよくないが、どこまでもやってしまうのもよくない。必ずどこかにひずみが出る。

『ブラック部活動』には、教師のこんな言葉が紹介されている。
だって、あれだけ生徒がついてくることって、中学校の学級経営でそれをやろうとしても難しいんですよ。でも、部活動だと、ちょっとした王様のような気持ちです。生徒は「はいっ!」って言って、自分についてくるし。そして、指導すればそれなりに勝ちますから、そうするとさらに力を入れたくなる。それで勝ち出すと、今度は保護者が私のことを崇拝してくるんですよ。「先生、飲み物どうですか~?」「お弁当どうですか~?」って。飲み会もタダ。「先生、いつもありがとうございます」って。快楽なんですよ、ホントに。土日つぶしてもいいかな、みたいな。麻薬、いや合法ドラッグですよ。
これはたしかに気持ちがいいだろう。だから他のことを投げ捨ててでものめりこんでしまう。

なぜ歯止めがきかないのか。それは部活が「グレーな存在」だからだ。
授業に関しては教育方針が細かく定められている。週に何時間、年間に何時間、どういった教科書を使ってどこまでやるのか。日本全国の公立中学校でほぼ同じ教育が受けられるようになっている。

だが部活に関しては明確な規定がない。形式としては「放課後の時間を利用して教師と生徒が勝手にやっている」という扱いだ。
規定がないということは限度がないということだ。朝五時から夜の十時までやったとしても、生徒・顧問・保護者がそれぞれ納得しているのであればそれを規制する決まりはない。
どんなに熱心な教師が訴えても「数学の授業時間を週三十時間にしてください!」という要望は通らないが、野球部の練習を週三十時間やれば熱心な先生だと褒めたたえられる。

ぼくの中学生時代、前日の部活や朝練で疲れはてて、授業中に寝ている生徒が多かった。
学生の本分は学業なのだから、勉強に支障の出るような部活はするべきではない。
教師だって部活に割く時間があるのなら休息するなり授業をより良くすることに使うほうがいいはずだ。
こんなあたりまえのことが守られていないのが現状だ。

明らかに狂っているのだが、あまりにも長く続きすぎていて、深く関わっている人ほど狂っていることに気づけなくなっている。



最近、あちこちの学校で教師が不足しているという話を聞く。
そりゃそうだろう。ぼくにとって教師なんてぜったいにやりたくない職業のひとつだ。子どもに何かを教えることは好きだが、そのために自分の時間や命を削りたくない。
 勤務時間が週60時間というのは、おおよそ月80時間の残業に換算できる((60時間-40時間)×4週間)。そして週65時間の勤務つまり月100時間の残業を超えるのは、小学校で17.1%、中学校で40.7%にのぼる(図1の②よりも下方に位置する教員)。多くの教員がいわゆる「過労死ライン」の「月80時間」「月100時間」を超えていることになる。
 基本的に小中ともに厳しい勤務状況である。そのなかでもとりわけ、中学校教員の6割が「月80時間」の残業というのは、まったくの異常事態である。
半数以上が過労死ラインを超えている職場。
誰がどう見ても異常だ。制度に欠陥があるとしか考えられない。
しかし外から見たらどれだけ異常であっても、渦中にいる教師たちにとってはこれが日常なんだよね。

もちろん月80時間の残業のすべてが部活のせいではないが、半分以上は部活が原因だろう。
一刻も早く教師から部活指導の義務をひっぺがしてやらないと、教師が疲弊し、人員は不足し、学校教育は劣化してゆく。誰も得をしない。

こうして部活指導に警鐘を鳴らす本も出て、少しずつ世の中は変わりつつあるように見える。
ぼくは、部活を断る教師を応援したい。

学校は勉強をするところなんだから、教師も生徒も、部活ではなく勉強で評価される"あたりまえ"の学校になってほしいなあ。

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2019年1月29日火曜日

【読書感想文】そう、"まだ"なだけ / 『吾輩は童貞(まだ)である』

吾輩は童貞(まだ)である

童貞について作家の語ること

筒井康隆 平山夢明 中島らも 原田宗典 武者小路実篤 谷川俊太郎 森鴎外 小谷野敦 室生犀星 中谷孝雄 結城昌治 開高健 車谷長吉 穂村弘 しんくわ 寺井龍哉 みうらじゅん 横尾忠則 澁澤龍彦 三島由紀夫 川端康成 バカリズムのオールナイトニッポンGOLD

収録作品
・筒井康隆 「現代語裏辞典」
・平山夢明 「どんな女のオッパイでも、好きな時に好きなだけ自由に揉む方法」
・中島らも 「性の地動説」
・原田宗典 「夜を走るエッチ約一名」
・武者小路実篤 「お目出たき人(抄)」
・谷川俊太郎 「なんでもおまんこ」
・森鴎外 「青年(抄)」
・小谷野敦 「童貞放浪記」
・室生犀星 「童貞」
・中谷孝雄 「学生騒動」
・結城昌治 「童貞」
・開高健 「耳の物語(抄)」
・車谷長吉 「贋世捨人(抄)」
・穂村弘 「運命の分岐点」
・しんくわ 短歌
・寺井龍哉 短歌
・みうらじゅん 「東京アパートメントブルース」
・横尾忠則 「コブナ少年(抄)」
・澁澤龍彦 「体験嫌い」
・三島由紀夫 「童貞は一刻も早く捨てろ」
・川端康成 「月」
・バカリズムのオールナイトニッポンGOLD 「エロリズム論」

武者小路実篤、森鴎外、三島由紀夫、川端康成などの文豪から童貞界の大家であるみうらじゅんまで、さまざまな人たちが「童貞の思い」について書いた文章を集めたアンソロジー。
なかなか読みごたえがあった。どんな文豪においても「童貞卒業」というのは男の一生において避けては通れないメインイベントなのだ。
いいアンソロジーだ(しかし編者の名前がないのはなぜ?)。



まずこのタイトル『吾輩は童貞(まだ)である』についてだが、実にいいタイトルだ。童貞と書いて"まだ"と読ませるのはすごく優しい。
そう、「まだ」なだけなんだよね。だけど童貞にとっては童貞と非童貞の間にはマリワナ海溝より深い断絶がある。童貞にとっては、「一線」を超えた先にはめくるめく夢の世界が広がっているような気がするのだ。

このごろは聞かなくなったがぼくが子どものころは、知的障害児のことを「知恵遅れ」と言っていた。
今だと差別用語なのかもしれないが、「知恵遅れ」には「差はあるが決定的な断絶があるわけではない」というような寛容さを感じる。乳歯が抜けるのが遅い子や声変りが遅い子がいるように、違いはあれど彼我は地続きになってるというニュアンスを感じる。
「健常者」「障害者」と分けてしまうと、もうまったくべつの人間、という感じがしてしまう。当事者がどう思うかは知らないけど。

「童貞(まだ)」にも同じような寛容さを感じる。



中島らも『性の地動説』より。
そして、そこには今まで僕たちが見聞きしていた「肉体関係を結ぶ」だの「体を合わせる」だの「抱く」だの「寝る」だのの文学的抽象的表現はなくて、「陰茎を膣に挿入する」ということがはっきりと書かれていた。子供たちはみんな一様にショックを受けたようだった。一瞬の沈黙が通り過ぎたあとに、けんけんごうどうの大論議が始まった。まず最初に出た意見は、「これは嘘だ」というものだった。たとえば小説や映画の中では忍術や魔法やSFなどに超常的現象がたくさん出てくるが、現実にはそんなことは起こらない。それと同じで、この石原慎太郎の書いていることは、想像力が生みだした小説上のフィクションだという説である。なぜならば、そんなえげつないことを人間がするわけがない。おしっこをするところにそんなものがはいるわけがない。そんなことをしたら相手の女の人は血が出て死んでしまうにちがいない、というのである。この意見には多くの子がうなずいた。一人、中世の地動説に近いような説を持ち込んだ松野君はたいへんな苦況に立たされたのである。必死になって論厳しようとするのだが、いかんせん松野君が握っている証拠はこの石原慎太郎の本一冊だけである。自説を証明するには決定的にデータが欠けているのだった。
ぼくも小学四年生のときに同じような論争をしたことがある。
なぜか男女数人で話しているときに「セックスって知ってるか?」という話になったのだ。その場にいた誰もが、セックスに関する正確な知識を持ちあわせていなかった(知らないふりをしていただけかもしれないが)。

そこで我々が出した知識は
「男と女が重なるらしい」「すっぽんぽんでやることらしい」「エックスの字に交わるそうだ」
というものだった。
”エックスの字” に関しては完全なるデマだが、たぶん ”セックス” という音に引っ張られたガセネタなのだろう。

そして、「そんなことして何がおもしろいんだ?」と口々に言いつつ、ぼくの内心には「何がおもしろいのかはわからんがやってみたい」という思いが湧いてきていたのだった。
その気持ちはそれ以後もずっとぼくの中にある。父親となった今でも、何がおもしろいのかわからない。でもやってみたい。



三島由紀夫は『童貞は一刻も早く捨てろ』の中でこう書いている。
 そもそも男の人生にとって大きな悲劇は、女性というものを誤解することである。童貞を早く捨てれば捨てるほど、女性というものに関する誤解から、それだけ早く目ざめることができる。男にとってはこれが人生観の確立の第一歩であって、これをなおざりにして作られた人生観は、後年まで大きなユガミを残すのであります。
この意見にはぼくは反対だ。
たしかに童貞は女性というものを誤解している。だが童貞を卒業したからといって女性が理解できるようにはならない。

はじめてセックスをした男は「この程度のもんか」と思う。
しかし、そこから「この程度のものに人生の多くを費やすのはもったいない」と思う男はそう多くない。
「この程度のものならもったいをつけずにどんどんやればいい」と思う。または「今回はこの程度だったがどこかにもっとすばらしいセックスが待っているのではないか」と夢見る。
童貞の誤解から解けても、男は一生勘違いをしつづける生き物なのだ。

だから、いろんな作家が童貞について語るこの本を読んで「あーそうそう。こんな気持ちなんだよね」と思うけれども、「ほんと童貞のときってバカだったよなあ」と笑い飛ばすことができない。だって今も同じような気持ちを持ちつづけてるんだもん。

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2019年1月28日月曜日

【DVD鑑賞】『悪の教典』

『悪の教典』

(2012年)

内容(Amazon Prime Videoより)
「2010年ミステリーベスト10」、「このミステリーがすごい!2011」でともに第1位を獲得した貴志祐介原作『悪の教典』を、鬼才・三池崇史監督が映画化。高校教師・蓮実聖司は、自らの目的のためには、たとえ殺人でも厭わない。そして、いつしか周囲の人間を自由に操り、学校中を支配しつつあった。全てが順調に進んでいた矢先、小さな綻びから自らの失敗が露呈してしまう。それを隠滅するために考えた解決策は、クラスの生徒全員を惨殺することだった…。 『海猿』で人命救助の海上保安官を演じた伊藤英明が、他人への共感能力を全く持ち合わせていないサイコパスの人格を持つ高校教師・蓮実聖司を演じる。生徒役には『ヒミズ』で、ヴェネチア国際映画祭で日本人初となる新人俳優賞をW受賞した二階堂ふみと染谷将太。 

小説がおもしろかったので鑑賞。
やはり上下巻あるボリュームの小説を二時間の映画にするのは相当無理がある。数十人の登場人物がいる話だし。
ぼくは原作を読んでいたのでかろうじてついていけたが、そうでない人には何がなにやらわからないだろうな。
少なくともアメリカのエピソードなんかはカットでよかった。
また「屋上に避難するように」というアナウンスは入れながら、それが罠だという説明をしないのはあまりに不親切だ。表面だけ映像化しているからこういうことになる。


なにより残念なのが、後半の学校での大量殺戮シーン。
三文オペラの軽快な音楽に乗せて蓮見教師が生徒たちを次々に殺していくところはこの映画の最大の見どころだと思うし、じっさいよくできている。殺戮シーンにこういう表現が適当かどうかはわからないが、痛快で楽しかった。生徒たちが誰ひとり立ち向かおうとせずに逃げまどうだけなのはリアリティに欠けるが。

だがこのシーンだけを切り取れば名シーンといえなくもないが、残念ながらこの作品の中ではとんでもなく浮いてしまっている。
なぜなら、蓮見教師が「楽しんで」殺戮をくりかえしているように見えてしまうから。

原作小説を読んだ人ならわかると思うが、蓮見教師は快楽殺人者ではない。ただ単に他人に対する共感能力をまったくもたない人間(サイコパス)であり、彼にとって殺人は単なる手段であって快楽でもなければ苦役でもない。
我々が「客が来るから家を掃除しなきゃ。めんどくさいけど、でもどうせ掃除するなら好きな音楽でもかけながらやろう」と思うぐらいの感覚で、蓮見教師は殺人をする。

そこが彼のおそろしさであり魅力なのだから、ここは何がなんでも丁寧に描かなければならない。
楽しそうに見えてしまったら凡庸な快楽殺人者にしかならない。
他の些事には目をつむるが、この点のみが大いに残念。
主役・伊藤英明の演技は「共感能力からっぽのイケメン好青年」にぴったりですばらしかったけどね。

あっ、あとエンディングのEXILEはひどすぎて笑うしかなかった。いやEXILEが悪いわけじゃなくて、この映画に合わなさすぎて。
だって学校で数十人の生徒が惨殺されるという事件が起こった直後に流れる歌が
「もっとポジティヴになってLive your life♪」だよ? 笑わせようとしてるとしか思えない。

サイコパス・蓮見よりもこの映画の主題歌をEXILEにしようと思ったやつの考えのほうが怖いわ。

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2019年1月27日日曜日

トイレに間に合わなかったときの辞世の句


誰しも辞世の句を詠みたいと考えているけど、なかなかむずかしい。

人はいつ死ぬかわからないし、どんな死に方をするかわからない。
「暴漢に刺されて徐々に遠のいてゆく意識の中で一句」みたいなのが辞世の句を詠むシチュエーションとしては理想だけど、こんな死に方はむずかしい。

死ぬ間際だったらうまくしゃべれないだろうし、頭もはたらかない。
そもそも転落死や溺死や轢死だったら句を詠む時間すらないだろう(転落死ならぎりぎり時間はあるかもしれないけどたぶん誰も聞いてくれない)。

だからぼくらが辞世の句を詠むとしたら、それは「トイレに間に合わなかったとき」をおいて他にない。



便意を催したのにトイレに間に合わないというのは、社会的な死といってもいいぐらいの出来事だ。

おまけに死はいつどんな形で訪れるかわからないが、「トイレに間に合わない」は数十分前には予感として持っているし、間に合わなかったときに起こる悲劇もだいたい同じだ。

辞世の句を詠むのにふさわしいシチュエーションといっていいだろう。

だが、トイレをさがして焦っているときは、辞世の句を考えている余裕などない。
だから平常時から考えておかねばならない。



正直にいってしまうと、辞世の句の内容はなんでもいい。
どんな言葉であろうと絶望的な表情を浮かべながら悲しく口にすれば様になる。

むずかしく考える必要はない。
シンプルに「すまない……」とか「ありがとう……」というだけでも十分辞世の句だ。
マンガの台詞を使って「燃え尽きたぜ……真っ白にな……」とか「きれいな顔してんだろ」なんてのもなかなかいい。
さわやかに微笑んで「悪くない人生だったぜ……」というのも美しい。トイレに間に合わなかったということを一瞬忘れさせてくれる。

やはりシンプルなのがいちばんいい。
あまり凝った俳句調のものだと、「こいつ前々から考えてたな」と思われてかえって白々しくなる。おまけに「そんなの考える暇があるなら早めにトイレに行っておけよ」と思われて同情してもらえない。
「板垣死すとも自由は死せず」なんてちょっとかっこつけすぎだもんね。板垣は刺されたとき死んでないし。

ちなみにトイレに間に合わなかったときにもっともふさわしいとぼくが思うのは、ベートーヴェンの最期の言葉である「諸君。喝采を。喜劇は終った」だ。