2018年12月17日月曜日

地下鉄がこわれた


地下鉄が止まった。
「信号故障のため停止しています」とのアナウンス。

信号故障とはめずらしいな、と思いながら文庫の続きを読む。


しばらくしても動かない。
地下鉄の駅と駅の間で停車しているので、どうすることもできない。職場に「少し遅れます」との連絡だけ入れ、また読書に戻る。

電車は動かない。
「信号故障のため停止しています」のアナウンスだけがくりかえし流れる。
うるせえなあ、進捗ないんだったらアナウンスしなくていいよ。ずっと同じメンバーが乗ってるんだからみんなわかってるんだよ。

時計を見るともう十五分も停まっている。
少し疲れてきた。
気づくと、本を読みながらずっと吊り革を握っている。電車が走っていないのだから吊り革につかまる必要などないのに、いつもの習慣で、目の前に吊り革があるとついつい握ってしまう。
こんなことならさっき座っておけばよかった。
さっき目の前の席が空いたのだが、隣にくたびれたおっちゃんが立っていたので座らなかったのだ。
ぼくが座らなかった席に座っているおっちゃんは、ずっとスマホでゲームをしている。おい、ちょっとはぼくに感謝しろよ。こっちはずっと立ってるんだぞ。そこは本来ぼくの席だぞ。譲ってもらった席でゲームやってんじゃねえよ、自己研鑽に励め。
おっちゃんは悪くないのに、憎らしくなってくる。

窓の外に目をやる。真っ暗だ。地下鉄なのであたりまえだけど。
なんでこんなところで止まるんだろう。
ブレーキの故障とかならしょうがないけどさ。
信号機の故障なら、そろそろっと徐行してせめて次の駅まで行くとかできないもんかね。電車のことは知らないけど、徐行運転とかできないんだろうか。

地下通路で停まるのと駅で停まるのではぜんぜん気分がちがう。
地下通路に停車するのはこわい。閉塞感がすごい。
気分が悪くなったらどうしよう。火が出たら。変な人が暴れだしたら。便意をもよおしたら。

どうせ停まるなら駅に停まってくれればいいのに。
トイレにも行けるし他の路線に乗り換えることもできるし一駅ぐらいなら歩けるし。

たぶん次の駅までは百メートルぐらい。
徐行で走ったって一分かからないだろう。だのにどうしてそこまで行かないんだ。こんな真っ暗の地下道で停車しているんだ。

ひょっとして何者かの意図がはたらいているのか。
わざわざぼくらをここに閉じこめたのか。いったい誰が。何のために。どうやって。いつまで。いま何問目。

こわいこわい。
大声でさけびたくなる。わああ。
ぼくがさけんだらみんなどうするだろう。逃げるかな。でも駅じゃないから逃げるとこなんてどこにもない。
案外みんな同じような心境かも。誰かがさけぶのを待っているのかも。
わああとさけぶ。となりのにいちゃんもさけぶ。本来ぼくの席だったところに座っているおっちゃんもさけぶ。おねえさんもじいさんもみんなさけぶ。

ぼくらのさけび声はどんどん反響して地下通路内に鳴りひびく。通勤電車の声の力はものすごい。その力は止まっていた地下鉄を動かす。さらに声は枕木を吹っ飛ばし、ホームに立っている人たちをなぎ倒し、時空も超えて、さけび声はぐんぐんぐんぐん飛んでいって信号を破壊する。

地下鉄が止まった。
「信号故障のため停止しています」とのアナウンス。

2018年12月14日金曜日

【読書感想文】岸本佐知子・三浦しをん・吉田篤弘・吉田 浩美「『罪と罰』を読まない」


『罪と罰』を読まない

岸本 佐知子 三浦 しをん 吉田 篤弘 吉田 浩美

内容(e-honより)
「読む」とは、どういうことか。何をもって、「読んだ」と言えるのか。ドストエフスキーの『罪と罰』を読んだことがない四人が、果敢かつ無謀に挑んだ「読まない」読書会。

誰もが名前は知っているが、その分量の多さから「読んだことありそうでない本」であるドストエフスキー『罪と罰』。
その『罪と罰』を読んだことのない四人が、無謀にも読まずに『罪と罰』について語りあうという座談会。

序文で吉田篤弘氏がこう書いている。
 こうしてわれわれは、本当に『罪と罰』を読まずに読書会をしたのだが、「読む」という言葉には、「文字を読む」という使い方の他に、「先を読む」という未知への推測の意味をこめた使い方がある。
 このふたつを組み合わせれば、「読まずに読む」という、一見、矛盾しているようなフレーズが可能になる。「本を読まずに、本の内容を推しはかる」という意味である。他愛ない「言葉遊び」と断じられるかもしれないが、言葉遊びの醍醐味は、遊びの中に思いがけない本質を垣間見るところにある。
この試みはすごくおもしろい。
ぼくも「読んだことはないけどなんとなく知っている」作品をいくつも知っている。
シェイクスピアの『ヴェニスの商人』といわれれば「あー強欲なユダヤ人の金貸しが血を出さずに肉をとれと言われるやつでしょ」といえるし、カミュの『異邦人』といわれれば「人を殺して太陽がまぶしかったからと答えるやつだよね」といえる。

ガンダムもエヴァンゲリオンもスターウォーズも観たことないけど、「黒い三連星が出てくるんだよね」とか「シンジ君がエヴァンゲリオンに乗せられて惨敗するんでしょ」とか「フォースの力を使って親子喧嘩をするんだって?」とか断片的な知識は持っている。

そういった「断片的に知っている」作品について、やはり知らない人同士で憶測をまじえながらああだこうだと話すのは楽しいだろうな、と思う。

だが。
企画自体はおもしろかったが内容は期待はずれだった。
まずメンツがイマイチ。
岸本佐知子氏、三浦しをん氏はよかった。両氏とも想像力ゆたかだし、どんどん思いきった推理をくりひろげてくれる。
篤弘 トータルで千ページ近い――。どうだろう? もしかして、第一部で早くも殺人が起きますかね。もし、しをんさんが、六部構成の長編小説で二人殺される話を書くとしたら、いきなり第一部で殺りますか?
三浦 いえ、殺りませんね。
岸本 どのくらいで殺る?
三浦 ドストエフスキーの霊を降ろして考えると――そうだなあ、これ、単純計算で一部あたり百六十ページくらいありますよね。捕まるまでにどれぐらいの時間が経つのかによるけれど、私だったら第二部の始めあたりで一人目を殺しますね。
岸本 それまでは何をさせとくの?
三浦 金策をしてみたり、人間関係をさりげなく説明したり。
岸本 そう簡単には殺さず、いろいろとね。
三浦 主人公をじらすわけですよ。大家がたびたび厭味なことを言ってきて、カッとなっては、「いやいやいや」と自分をなだめたり。
三浦しをん氏の「自分が書くとしたら」なんて、まさに作家ならではの視点で、なるほどと思わされた。

しかし吉田篤弘氏、吉田浩美氏は正直つまらなかった(この二人は夫婦らしい)。
わりとマトモなことを云う進行役みたいな立ち位置をとっているが、そのポジションに二人もいらない。
おまけに吉田浩美氏はNHKの番組で『罪と罰』を影絵劇で観たことがあるらしく、大まかなストーリーをはじめから知っている。はっきりいってこの企画には邪魔だ。他の三人の空想の飛躍を妨げている。おまけに「私は知ってますから」みたいな口調で語るストーリーがけっこうまちがってる。ほんとこいつは邪魔しかしてない。
おまえ何しにきたんだよ。ていうかおまえ誰なんだよ(経歴を見るかぎりデザイナーっぽい)。

読んでいて椎名誠、木村晋介、沢野ひとし、目黒考二の四氏がやってた『発作的座談会』を思いだしたのだが、発作的座談会のほうがずっとおもしろかった。
よくわかっていないことを適当にいう「酒場の会話」が自由気ままでよかったし、メンバーも行動派の作家、常識人の弁護士、世間知らずのイラストレーター、活字中毒の編集者とキャラが立っていた。あの四人で「〇〇を読まない」をやったらおもしろいだろうなあ。



あとちょっと冗長なんだよね。
『罪と罰』がボリューム重厚なわりにそれほどストーリー展開があるわけではないので、はじめは四人の謎解きを楽しんでいたが、だんだん飽きてきた。

分量を四分の一ぐらいにして、いろんなジャンルの本を四冊ぐらい扱ってほしかったな。「『東海道中膝栗毛』を読まない」とかさ。

ぼくも『罪と罰』を読んだことがないけど、この本を読んで、ますます読みたくなくなった。
ロシア人の長ったらしい名前も疲れるし。
あらすじで読むだけでも飽きるんだから、つくづく読むのがしんどい小説なんだろうなあ。



篤弘 もしかして、ソーニャって探偵役でもあるのかな。
三浦 「『リザヴェータおばさんを殺したのは誰なの!』。ソーニャは悲憤し、ついに安楽椅子から立ち上がった。」
篤弘 名探偵ソーニャ。
岸本 やがて憤りが愛に変わっていく。
浩美 捕まえたら、わりにイケメンだった。
三浦 「犯人はあの栗毛の青年に違いない。ああ、だけど彼って、なんてかっこいいのかしら。憎まなければいけない相手なのに、神よ、なんという残酷な試練をわたくしにお与えになるのですか!」
岸本 濃いめのキャラ(笑)。
三浦 「彼は敵。いけないわ」――第二部はこのようにハーレクイン的に攻めて、第三部で神の残酷さを本格的に問う宗教論争になだれこむ。

こういう、妄想がどんどん飛躍していくノリはすごくおもしろかったんだけどなあ。だけどこのノリが続かないんだよな。
三浦しをん氏、岸本佐知子氏の二人は残して、メンバー変えてべつの本でやってほしいなあ。


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2018年12月13日木曜日

【読書感想文】見えるけど見ていなかったものに名前を与える/エラ・フランシス・サンダース『翻訳できない世界のことば』


『翻訳できない世界のことば』

エラ・フランシス・サンダース(著)
前田 まゆみ(訳)

内容(e-honより)
FORELSKET フォレルスケット/ノルウェー語―語れないほど幸福な恋におちている。COMMUOVERE コンムオーベレ/イタリア語―涙ぐむような物語にふれたとき、感動して胸が熱くなる。JAYUS ジャユス/インドネシア語―逆に笑うしかないくらい、じつは笑えないひどいジョーク。IKUTSUARPOK イクトゥアルポク/イヌイット語―だれか来ているのではないかと期待して、何度も何度も外に出て見てみること。…他の国のことばではそのニュアンスをうまく表現できない「翻訳できないことば」たち。

翻訳できない言葉、つまりある言語だけにしかないユニークな概念の言葉を集めた本。
日本語からも「こもれび」「積ん読」などが紹介されている。
「こもれび」なんて、なくても特にこまらない。日常会話でつかうことまずない。詩や歌詞ぐらいでしかつかわない。
でもこういう「なくてもいい言葉」をどれだけ持っているかが言語の豊かさを決める。なくてもいいからこそ、あるといいんだよね。

「積ん読」もすばらしい言葉だ。ダジャレ感も含めて。かゆいところに手が届く感じ。
積ん読も読書の一形態なんだよね。読まない読書。読んでないけど「いつか読もうとおもってそこに置いておく」ことが大事なんだよね。読書好きならわかるとおもうけど。
その感覚を「積ん読」という一語は見事に言いあらわしている。



『翻訳できない世界のことば』で紹介されている中でぼくのお気に入りは、トゥル語の「KARERU」。
これは「肌についた、締めつけるもののあと」という意味だそうだ。

言われてみれば、たしかに存在する。
パンツのゴムの痕やベルトの痕など。
だれもが見たことある。毎日のように見ている。
でもこれを総称して表現する言葉は日本語にはない。「肌についた、締めつけるもののあと」としか言いようがない。

この言葉を知るまえと知ったあとでは、目に見える世界が少し変わる。
これまではなんとも思わなかったパンツの痕が「KARERU」として意識されるようになる。ほんの数ミリだけ世界が広がる。

ドイツ語の「KABEL SALAT」もいい。
「めちゃめちゃにもつれたケーブル」という意味だそうだ(直訳すると「ケーブルのサラダ」)。
かなり最近の言葉だろう。ふだん意識しない。けれども確実に存在する。今ぼくの足元にも「KABEL SALAT」がある。イヤホンのケーブルもよく「KABEL SALAT」になっている。見えるけど見ていなかったものが、名前を与えられることではっきりと立ちあがってくる。


あとになって思いうかんだ、当意即妙な言葉の返し方」なんてのも「あるある」という現象だ。
だれもが経験しているはず。
「あのときああ返していればウケたはずなのに」と、後になってから気づく。言いたい。でももう完全にタイミングを逃しているから今さら言ってもウケない。あと二秒はやく思いついていれば。あのときあいつが話題をそらさらなければ。くやしい。



いちばん笑ったのはドイツ語の「DRACHENFUTTER」。


龍のえさ!
「こないだワイフが怒ってたからDRACHENFUTTERを与えたんだけど高くついたよ」みたいに使うんだろうな。
まるっきり反省していないのが伝わってきていいな。ぼくもつかおうっと。


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2018年12月10日月曜日

たからさがし


五歳の娘と、その友だちが公園で「なんかおもしろいことしてー」と言ってきたので、
「じゃあ宝さがししよっか」と云った。

よくわからないままに「するー!」と手を挙げる五歳児たち。
「じゃあちょっと待ってて」と鉄棒をさせて、その間にぼくは宝を隠す準備をする。

ノートの切れ端を使い、メモを書く。
「いちばんたかいてつぼうのしたをみろ」と。
で、鉄棒の下に「すべりだいのうえをみろ」と書いた紙をわかりやすく埋めておく。
すべりだいの上には「せがさをんだか  ヒント:はんたいからよむこと」を挟んでおく。
十回ぐらいあちこちいったりきたりさせてあげくに、最後には「おっちゃんのぼうしのなか」として、ぼくの帽子の中にどんぐりを入れておいた。

これを五歳児にやらせたところ、とても楽しんでいた。
ずいぶんやさしいヒントにしたつもりだが、それでもときどき迷いながらああでもないこうでもないと宝をさがしていた。

「たのしかったー!」「またやってー!」
とお褒めの言葉をいただき、その後、何度も宝さがしをした。



これはぼくが子どものときに好きだった遊びだ。
『きょうはなんのひ?』という絵本で知って、真似をして何度もやった。


『きょうはなんのひ?』は、女の子が家中に散りばめた謎を、おかあさんが解いてゆくという話だ。
絵本にはめずらしく子どもよりおかあさんの登場シーンが多いが、それでもこの絵本の主人公はあまり姿を見せない"まみこ"だ。姿は現さなくても、いたずら好きで頭のいいチャーミングな女の子を感じることができる。
この本を読んだ子は、ぜったいに"まみこ"のように宝さがし(の仕掛人)がやりたくなる。

少し前に脱出ゲームなるものが流行っていたが、それを思いついた人もきっとこの絵本を読んだことのある人なんじゃないかな。



何度か宝さがしゲームをやっているうちに、娘たちも仕掛人をやりたくなった。
「今度は子どもたちがつくるからおっちゃんがやって!」

そう。
この遊びは、仕掛ける側のほうが楽しいのだ。

しかし五歳児たちがつくった宝さがしはめちゃくちゃだった。

「いしのした」とか(どの石やねん!)
「すなのなか」とか(どこやねん!)
「したをみろ(うそ)」とか(じゃあどこ見たらええねん!)。
とても解けない。

そもそも五歳児の書いた文字が読めないし。

2018年12月7日金曜日

カンタのおばあちゃん


何度も観た『となりのトトロ』だけど、ひさしぶりに観てみたら新たな発見だらけだった。

ぼくは現在、ふたりの娘の父。
かつてはサツキやメイの立場で観ていた『となりのトトロ』も、今ではおとうさんの視点で観てしまう(たぶんサツキとメイのおとうさんはぼくより若い)。

いちいち感動して泣いてしまう。
それも、なんでもないシーンで。

たとえば病院におかあさんのお見舞いに行った帰りに
サツキが「メイは大きくなったからひとりで寝るんじゃなかったの!?」と言い、
メイが「おかあさんはいいの」と返すシーン。

ああ。
メイもがんばってるんだよなあ。おかあさんが入院した当初は、毎晩寝る前に泣いていたんだろうなあ。サツキは自分も寂しいのに「メイのそばにいてあげる」という役割を自らに課すことで寂しさをまぎらわせていたんだろうなあ。
そんな日々を乗りこえて「大きくなったからひとりで寝るんじゃなかったの?」という冗談を言いあえるようになったんだねえ。ふたりともよくがんばったねえ。

おとうさんが大学に行く日だからおばあちゃんにメイを預けたのに、メイが寂しくなって小学校に来ちゃうシーン。
我慢しなくちゃいけない、いい子にしていなくちゃいけないと思いながらも、やはり耐えきれなくておねえちゃんに会いにいってしまう。だけどわがままを言ってはいけないとも思っているから、おねえちゃんを前にすると何も言えない。
しょうがないよ、まだ四歳だもん。メイちゃんはよくがんばったよ。

病院に行ってサツキがおかあさんに髪を結ってもらうときの表情。
サツキはおかあさんと話しながらはにかんでいる。メイに対するときの「姉の顔」とはまったくちがう。おとうさんにも見せない顔。おかあさんだけに見せる、こどもの顔。

おかあさんの退院が延びたと聞かされたときのサツキとメイの喧嘩。
ずっと我慢して退院の日を心待ちにしていたのにそれが先になると聞かされたメイの悲しみ。
おかあさんの病気が重いのではという不安に押しつぶされそうになりながらも、懸命に「しっかり者の姉」という役割を果たそうとする、けれど折れてしまいそうになるサツキの心細さ。
ついでに、好きな子が困っているからなんとかしてあげたいけど自分の立場では何もできないカンタのもどかしさ。

子どもの頃に読んだときには気づかなかった心の動きに胸がしめつけられる。



しかし、ぼくがいちばん感情移入をしてしまったのはカンタのおばあちゃんだった。

メイが行方不明になったときのおばあちゃんの心境を思って、ぼくも心がつぶされそうになった。

「ばあちゃんの畑のもんを食べりゃ、すぐ元気になっちゃうよ」
と言ってしまったせいで、メイがトウモロコシを持って病院に行ってしまった。

「メイちゃんはここにいな」
と言ったにもかかわらずメイは駆けだしてしまった。

そして今、メイがいなくなった。
池からは女の子のサンダルが見つかった……。

幼い子どもを持つ親として、おばあちゃんの心境が痛いほどよくわかる。
子どものときはなんとも思わなかったが、四歳の子が行方不明になるというのはとんでもないことだ。まっさきに命の心配をする。

あのとき「すぐ元気になっちゃうよ」なんて言わなければよかった。励ますために言ったつもりだったが、おかあさんの退院を心待ちにしている四歳の子に言うには無責任すぎる言葉だった。
あのとき、むりやりにでもメイの手をつかんで止めていれば……。
もしものことがあったら一生悔やんでも悔やみきれない。

ばあちゃんは自分のことをずっと責めていただろう。
自分のせいで小さい子が死ぬなんて、自分が死ぬことよりもおそろしい。
サツキの到着を持っているときのばあちゃんの「ナンマンダブナンマンダブ」には魂の祈りが込められている。

だからばあちゃんはサツキの「メイんじゃない」にどれだけ救われただろう。
池の中をさがしていた男の人(おそらくばあちゃんの息子)からは「なんだぁ。ばあちゃんの早とちりか」と"人騒がせなばあさん"扱いされたが、その言葉にどれだけ安堵しただろう。自分が人騒がせなばあさんになっただけで良かったと心から思っただろう。

最終的にメイと再会したおばあちゃんはめちゃくちゃ泣いただろうなあ。メイが生きていたことに心から感謝しただろうなあ。
そして、メイはもちろん、サツキも、おかあさんもおとうさんも、おばあちゃんがどれだけ祈っていたかを知らないんだろうなあ。

でもぼくはわかっているからね、おばあちゃん。ぐすっ。