2018年9月22日土曜日

なぜ「死ぬ」を「死む」といってしまうのか


五歳の娘は「死ぬ」のことを「死む」と言う。
知人の子ども(六歳)も、やはり「死む」と言っていた。

おや、同じ間違いだ。
と思って調べてみたら、これは幼児によくある間違いらしい。

間違いやすい原因のひとつは、
「死ぬ」が変則的な活用をすることだ。

「死ぬ」はナ行五段活用をする動詞だ。
ナ行五段活用をする動詞は「死ぬ」と「往ぬ」しかない。「往ぬ」は絶滅寸前なので(関西のおじいちゃんとかは使ったりするけど)、「死ぬ」はほぼ唯一無二のナ行五段活用動詞なのだ。

一方、マ行五段活用の動詞は多い。
「噛む」「飲む」「頼む」「せがむ」「しゃがむ」など。
また、「染む」「惜しむ」「軋(きし)む」「楽しむ」「怪しむ」「訝(いぶか)しむ」など、「-しむ」を含む動詞も多い。

そこで圧倒的多数であるマ行五段活用チームに釣られて、「死んだ」の終止形を「死む」だと思ってしまうわけだ。
「"噛んだ"は"噛む"、"飲んだ"は"飲む"、じゃあ"死んだ"は"死む"だろう」と推測するんだね。



また、多くの親は幼児に対して「死ぬ」にまつわる話題を積極的には口にしない。

幼児に対して
「さあ死のう」(未然形)とか
「死ぬときは一緒だよ」(連体形)とか
「死ねばいいのに」(仮定形)とか
「死ね」(命令形)とか
の活用形は、(ふつうの家庭)ではあまり使わない。

「そんなの食べたら死んじゃうよ」とか「この虫死んでるね」のような使い方が多い。
「死んじゃう」「死んで」は連用形で撥音便化している(「死にて」→「死んで」になる)ため、元の形が分かりにくい。

このことも「死む」を発生させる要因になっているのかもしれない。



ちなみにうちの娘は、「居る(いる)」の否定形を「いらない」という。
これもよく考えたら納得のいく間違いだ。

同じ「いる」という音でも「要る」は五段活用、「居る」は上一段活用なのでごっちゃになってしまうのだろう。
(ちなみに「入る」「煎る」は五段活用、「射る」「鋳る」は上一段活用だ。ぼくらは無意識に使い分けてるけど、改めて考えるとすごくややこしい)

だからこないだ電話で祖母から「おとうさんはいますか?」と訊かれた娘が「いりません!」と答えてしまったのだ。
決しておとうさんが嫌われているからではないのだ。


2018年9月21日金曜日

娘語


五歳の娘語。

「えんとつ」は屋根のこと

「はっぱ」は野菜のこと、または植物全般のこと

「ちいさいおふとん」は枕のこと

カラスやウグイスも「はと」

りんごの芯も魚のしっぽも「かわ」

口にあわないものはすべて「からい」

飲食店のメニューは「りょうりのかみ」

力士が履くまわしは「パンツ」
まわしについてるヒモ(さがり)は「パンツのりぼん」

最上級の悪口は「ばばあ」(相手が父親であっても)

言わんとすることはわかる。

2018年9月20日木曜日

片付けの非合理性


一番きらいなのが「片付け」。家事の中で。

畳んだ服をたんすに入れる、使ったボールペンをペン立てに刺す、乾いた食器を食器棚にしまう。
イヤだ。すごく苦手だ。できることなら一生やりたくない。ごみ屋敷の住人の気持ちがよくわかる。

何がイヤって「また使うのに」片付けないといけないのがイヤだ。
服をたんすに入れたって数日したら出してきて着る。食器棚にしまった皿もすぐまた出してきて使う。
だったら出したままにしとけばいいじゃない。

めったに使わないものなら苦にならない。
喪服を着終わったらちゃんと衣装ケースに入れて吊るしておく。客用ティーカップも使ったら食器棚にしまう。めったに使わないから。

でも一日か二日したらまた使うものは片付けたくない。なんて非合理的なんだろう。

じっさい、ひとり暮らしのときは片付けなかった。
包丁もどんぶりもコップもタオルも出しっぱなしだった。洗いはするが、すぐ使えるところに置いておく。だってまたすぐ使うもの。

でも家族と暮らしているとそうもいかない。つづきを読む本や今晩使うコップや気が向いたときに回したいハンドスピナーであっても、片付けることを求められる。
合理的に生きたいというぼくの崇高な願いは、きれいな部屋で暮らしたいという妻の俗世間的な願いの前に一掃されてしまう。

いいじゃない、片付けなくたって。どうせまた使うんだし。どうせいつか朽ちるんだし。どうせみんな死ぬんだし。

2018年9月19日水曜日

【読書感想文】ここに描かれていることが現実になる/青木 俊『潔白』


『潔白』

青木 俊

内容(e-honより)
札幌地検に激震が走った。30年前に小樽で発生した母娘惨殺事件に前代未聞の再審請求が起こされたのである。すでに執行済みの死刑が、もし誤判だったら、国家は無実の人間を殺めたことになってしまう。「何としても握り潰せ!」担当に指名されたのは、曰く付きの検事。司法の威信を賭けた攻防の行方は…。

再審請求がされたのは死刑判決が出た事件、しかもよりによって刑は執行済み。はたして新たな証拠とは、そして裁判所は誤りを認めるのか……。
というショッキングなストーリーの小説。ショッキングだが決して荒唐無稽な物語ではない。

現実に検察や裁判制度は完璧なものではない。にもかかわらず死刑という「とりかえしのつかない」制度を導入している時点で、近い将来こういうことは起こる。
もしかしたらもう起こっているのかもしれない。これまでに死刑執行された中には、冤罪を主張していた人もいた。後から見れば不確かな証拠で有罪にされた人もいた。
彼らが無罪だった可能性は否定できない。

たいていの人は、「死刑判決なんてよほど確かな証拠がないかぎりは下されない」と思っている。ぼくもそう思っていた。極悪非道で反省しないやつは死刑にするしかないよね、と。
でも清水潔氏の『殺人犯はそこにいる』や瀬木比呂志氏・清水潔氏の『裁判所の正体』を読んで、明確な証拠がなくても起訴されることもあるし、怪しい証拠と強要された自白だけで死刑判決が下されることもありうるのだと知った。自分が冤罪に巻きこまれる可能性もないとはいえないのだと。

無実の罪を着せられて死刑にされるかもしれない、真実を述べているのに誰にも信用してもらえない、その恐怖と絶望を『潔白』は描いている。
今の制度のままだと、近い将来ここに描かれていることが現実に起こるだろう。そのとき死刑を言い渡されるのは無実のあなたかもしれない。

そして無実の人を死刑にしたと判明したとき、検察や裁判所が過ちを認めるかというと……。残念ながら意地でも認めようとしないだろう。
「99%こいつが犯人だから死刑!」という判決を下した裁判所は、「99%その判決は誤りだった」ということが明らかになったとしても頑として過去の誤審を認めようとしないにちがいない。
真実よりも人の命よりも組織を守ることを優先するだろう。




司法制度の穴を指摘したという点ではたいへん意義のある小説だが、残念ながら小説としてはあまりうまくない。
文章はヘンだし(「~です」と「~だ」が混在するのは校正が指摘しなかったのか?)、ストーリーは都合が良すぎる。みんな初対面の人間にデリケートな話をべらべらしゃべりすぎだ。真犯人が明らかになるあたりは安いドラマを観ているようだった。せっかくリアリティを持たせて作りあげてきた物語があれでいっぺんに嘘っぽくなってしまった。
中盤で判決の行方が二転三転するあたりは非常におもしろかったけどね。

残念ながら、参考文献として挙げている『殺人犯はそこにいる』のほうが、ノンフィクションとしても、物語としてもずっと上だった。まああの本に勝てる小説はめったにないだろうけど。

題材がすごくよかったんだから、変にどんでん返しを入れてミステリとしての味付けをしなくても十分読みごたえのある話になったと思うんだけどなあ。


【関連記事】

【読書感想文】 清水潔 『殺人犯はそこにいる』

【読書感想文】 瀬木 比呂志・清水 潔『裁判所の正体』

冤罪は必ず起こる/曽根 圭介『図地反転』【読者感想】



 その他の読書感想文はこちら



2018年9月18日火曜日

黒門市場


黒門市場に行ってきた。

先日の台風で関西国際空港が使えなくなった影響などにより、外国人観光客が激減しているという。
それは困っているだろうから助けてやらねばという義侠心半分、今なら混雑していないから狙い目という気持ち半分で黒門市場を訪れた。
自宅からは電車で十五分ほどだが一度も来たことはなかった。


日本橋(大阪のは「にっぽんばし」と読む)の駅を降りると保育園の広告が目に留まった。


なんだろう、この漫画喫茶感……。
色使い、フォント、まず第一に「駅からの距離」をもってくるところなど、すべてが漫画喫茶っぽい。
「五歳児ですね。ナイトパックでよろしいでしょうか。託児スペースはフラットタイプとリクライニングタイプをお選びいただけます」
なんて訊かれそうだ。



ここは外国人向け観光地だということがよくわかる。
三つの言語で「いらっしゃいませ」と書いているが、日本語では書いてくれていない。


マツモトキヨシも漢字。
漢字で書くと八百屋っぽい感じになって、商店街の雰囲気によく合う。
人が少ないなあと思ったけど、ここはメインの通りではなかった。


こっちがメイン。
なんだよ、にぎわってるじゃないか。外国人観光客も多い。
大阪だけど神戸牛の店がある。

こういう「ザ★観光客向け」の店と、地元の人向けの店が混在しているのがおもしろい。


こういう鮮魚とかは観光客にはあまり売れないだろうね。
漁港の近くじゃないからそこまで新鮮なわけでもないだろうし。


トロづくしの寿司。これはテレビで観たことある。
これだけのお金をとるんならもうちょっと容器を選んでほしいなあ。スーパーの五百円寿司のパッケージだもんなあ。


大阪人のほとんどが知らない謎の大阪名物、大坂巻。
そういや、大阪出身の友人が長野県のお祭りに行ったら「大阪焼き」という得体の知れない食べ物を売っていたといって怒っていた。「地元離れたらむちゃくちゃしよるな」と。
「大阪焼き」は一銭洋食のようなものだったらしい(「一銭洋食」が関西以外の人には伝わりにくいか)。


またまた謎の食べ物、「帝王蟹」。
「帝王蟹」で検索したら中国語のサイトばかりが出てくる。
日本でもここぐらいしかない食べ物なんだから、そりゃ日本一だろう。


神戸牛。高え。
超高級肉を扱う店には不似合いなビールのポスターや電子レンジ。


とんでもない値段のカニ。
小樽や金沢の市場にも行ったことがあるが、この半値以下だったような……。やはり帝王蟹は違う!(これが帝王蟹かどうかは知らん)



じつは黒門市場に行く前に、知人から黒門市場の悪評を聞いていた。

すべてが外国人向けのぼったくり価格になっているので日本人が行っても楽しめない、外国人観光客が来なくなって経営の危機に陥っているのはあこぎな商売をしてきたせいで自業自得だ、と……。

まあだいたい当たっていた。
ひどい値段の商品も多かった。外国人が何もわからないと思ってむちゃくちゃしよるな、という印象も持った。

でも楽しかった。
ぼくは海外の土産物屋を冷やかすのが好きだ。ときにはぼったくられることもあったが、ぼったくられるのも楽しい。「こんなくだらねえものに二十元も出しちゃったよー」なんていうのが旅先での買い物の醍醐味だ。

黒門市場も同じようなものだった。
写真は撮っていないが、一口サイズのパイナップルに割り箸を刺したものが五百円で売られていた。ぜったいに買わないけど、でも外国だったら買ってしまうかもと思わされれる非日常感があった。
バカなものにバカな金を払うのも旅の楽しみのひとつだ。

ま、ぼくが買ったのは柿とぶどうだけだったけど(近所のスーパーより安かった)。
市場では何も食べず、駅前のセルフうどん屋で昼食を済ませたけど。



黒門市場を歩いていて、なんだか居心地の悪さを感じた。
といっても、観光客向けに高すぎる価格で売っているからではない。金儲けに走ることはぜんぜん悪いとは思わない。むしろ楽しい。
むしろ、そうではない店があるからこその心地悪さだった。

市場全体が「よっしゃ、観光客から少しでも高い金をとったるでー!」的な雰囲気に包まれているかというと、そうではない。
さっきも書いたようにスーパーよりも安い値段で果物や魚介類を売っている良心的な店もある。きっと外国人観光客が増える前からここで商売をしている店なんだろう。

「何も知らない客に高い値段で売りつけるなんてまともな商売人のやることやないわ」という店主の声が聞こえてくるようだ。
その美学、かっこいい。

しかし帝王蟹や神戸牛を高額で売る店と、昔ながらのお客さんを大事にしている店はまちがいなくソリがあわないだろう。
どちらが正しいわけでもない。だからこそそのひずみは決して埋まることはない。

「汚い商売しよってからに。おかげで古くからのお客さんが遠ざかってしもたやないか。そんなやりかたがうまくいくのは今だけやで。商売人はお客さんを儲けさせてなんぼや」
という声と
「せっかく儲けるチャンスやのに昔のビジネスモデルをまだ引きずっとる。見てみい、ぜんぜん客が入ってへんやないか。商売がへたなやつやで」
という声の両方が聞こえてくるようだ。
ギクシャクギクシャク、という音まではっきりと聞こえてくる。
この場にいることがいたたまれない。

ぼくは心の中で喧嘩の仲裁に入る。
「まあまあまあ。値段は高くても、市場が活気づくのはいいことじゃありませんか。それにこうして良心的な価格でやってこられているお店があるからこそ地元の人もやってくるわけですし。高い店と安い店、両方のお店があるから黒門市場はおもしろいんですよ」

すると店主たちは言う。
「うっさい、何が地元の人もやってくるじゃ。おまえなんか大阪に住んどるくせに今までいっぺんも来たことなかったやないか」
「来たと思ったら柿とぶどうで五百円しか使ってへんやないか、そんなもん買うために電車賃使ってくな!」

ご、ごめんなさい……。