2018年9月13日木曜日

敬遠の語


小学生のときは友だちの親にも学校の先生にも敬語を使っていなくて(せいぜい丁寧語ぐらい)中学校に入ったら先輩に対して敬語。
だいたいの人はそんな感じで敬語を身につけていく。

だからだろうか、敬語を使う間柄=上下関係だと思っている人がいる。学校で教わる「敬語とは相手を敬う言葉です」を鵜呑みにしている。
だから、敬語を使われたら自分は敬われている、偉そうにしないといけないと誤解してしまうのかもしれない。

だが敬語は「敬意の語」だけでなく「敬遠の語」でもある。特に丁寧語に関しては後者の意味が強い。

ぼくはあまり人付き合いが好きではないので「敬遠の語」としての敬語を使っているときは居心地がいい。
仕事の付き合いの人、近所の人、娘の保育園の先生、保護者同士の付き合い。こちらも敬語、向こうも敬語。
あんたに対して敵意はないが心を許したわけでもないぜ、この線からこっちに入ってくんじゃねえぞ。
武士と武士がすれちがうときに相手の間合いに入らないようにするような緊張感。これが安全な距離だ。

ところがこのメッセージを正しく汲みとることができない輩が急にため口で話しかけてくる。
これいわば侍の刀に触れてくるようなもの。刀をチャキっと鳴らすように「あぁ」と露骨に不機嫌な声を出せば相手も斬られまいと離れてゆく。それでも間合いの中から出ようとしない不届き者に対してはいたしかたあるまい、刀を振り上げてばっさり。
斬られた無礼者は傷口を押さえながら「な、なんで……」とよろよろ。
「なんでですか、ですよ」
ぼくはそう言い残して、後ろを振り返らずに歩きさる。


2018年9月12日水曜日

【読書感想文】これまで言語化してこなかった感情/岸本 佐知子『なんらかの事情』

なんらかの事情

岸本 佐知子

内容(e-honより)
これはエッセイ?ショート・ショート?それとも妄想という名の暴走?翻訳家岸本佐知子の頭の中を覗いているかのような「エッセイ」と呼ぶにはあまりに奇妙で可笑しな物語たちは、毎日の変わらない日常を一瞬で、見たことのない不思議な場所に変えてしまいます。人気連載、待望の文庫化第二弾。今回も単行本未収録回を微妙に増量しました。イラストはクラフト・エヴィング商會。

おもしろい本ない? と訊かれたら、ぼくはまっさきに岸本佐知子氏の名前を挙げる。
本業は翻訳家だが、エッセイが最高。
いやエッセイにくくってしまっていいのだろうか。だって書いてあることの一割~九割ぐらいが嘘なんだもの。一割~九割とずいぶん幅があるのは、どこまでほんとでどこから嘘かわからないからだ。気づいたら空想の世界に連れていかれている。

ダース・ベイダーが寝るときに考えること、耳の中に住んだらどんな気持ちか、江戸時代のカーナビは今何を語るのか、地球で捕獲された宇宙人は何を思うのか。

着想もすごいが、そこからの飛躍もすごい。
たったひとつのもの、たった一言をきっかけに岸本氏の想像は異世界へと羽ばたく。
 エリツィンが死んだ、という記事を新聞で見る。プーチンが追悼演説をすると書いてある。
 いったいどんな演説をするのだろう。と思うそばから、もうプーチンの代わりに草稿を考えてあげている自分がいる。
「同志ボリス・エリツィンに私は非常な親愛の情を感じておりました。何となれば、エリツィンの”ツィン”に、プーチンの”チン”。”ツィン”と”チン”。二つの間にはなんと響きあうものがあることでしょう!」
 頭の中で、プーチンが私の差し出した草稿をびりびりに破いて捨てる。
この短い文章にドラマが詰まっている。プーチンと秘書の姿がはっきりと立ちあがってくる。びりびりに破いているときのプーチンの冷徹な眼まではっきり浮かぶ。秘書であるキシモト同志が粛清されるのではないかと心配になる。そんな秘書いないのに。

プーチンがエリツィンの追悼演説をするという短いニュースから、たったの数行でこんなに遠くまで連れていってくれるのだ。
この距離、この速さ、この具体性。想像力というものの持つ力を知らしめてくれる。

小説家でも、これだけ想像力豊かな人いないでしょ。




また「これまで言語化してこなかった感情」を目覚めさせてくれる能力もすごい。
「ない場合は」も、聞くと変な気持ちになる言葉だ。
 料理番組で、おいしそうなものを作っている。唾をわかせながら見ていると、材料に「花椒」とか「XO醤」とか、普通の家庭になさそうなものが出てくる。がっかりしかけると、「もしない場合は入れなくても結構です」などと言ったりする。それを聞いた時に胸にわきあがる気持ちは、一言でうまく説明できない。まず、え、入れなくてもいいの、という拍子抜けの気持ち。それから、本来なら入れるべき材料を「なくてもいい」とする英断へのそこはかとない尊敬。それと、「どうせ入れても入れなくてもお前ら素人には変わるまい」と甘く見られたような、子供向けにやさしくアレンジされたシェイクスピア劇を見せられたような、淡い屈辱感。そういうものがないまぜになって、なんだかひどくモヤモヤする。
ああ、わかる。
この文章を読むと「ぼくもそう思ってたんだ!」と言いたくなってしまう。そんなこと一度も考えたことないのに
でも、この気持ちの一パーセントぐらいはぼくの心にもあった。ぼくはそれを見逃していた。だが岸本氏はそのひとしずくのひっかかりを丁寧にすくいあげて、こうやって文章にしてくれる。おかげでぼくは気づく。そうか、ぼくはこう思ってたのか。屈辱感を味わっていたのか。

これを知ってしまったらもう知らなかった頃には戻れない。今後「ない場合は」と聞くたびに、甘く見られたような気持ちになる。
自分でも気づいてなかった感情を強制的に引き出させる文章。
ああ、こんな文章書きてえなあ。


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2018年9月10日月曜日

【DVD鑑賞】『勝手にふるえてろ』

『勝手にふるえてろ』

(2017年)

内容(Amazon Prime Videoより)
24歳のOLヨシカは中学の同級生"イチ"へ10年間片思い中!過去のイチとの思い出を召喚したり、趣味である絶滅した動物について夜通し調べたり、博物館からアンモナイトを払い下げてもらったりと、1人忙しい毎日。そんなヨシカの前へ会社の同期で熱烈に愛してくれる"リアル恋愛"の彼氏"ニ"が突如現れた!!「人生初告られた!」とテンションがあがるも、いまいちニとの関係に乗り切れないヨシカ。"脳内片思い"と"リアル恋愛"の2人の彼氏、理想と現実、どちらも欲しいし、どっちも欲しくない…恋愛に臆病で、片思い経験しかないヨシカが、もがき、苦しみながら本当の自分を解き放つ!!

友人から勧められての鑑賞。
綿矢りさの同名小説の映画化。

おもしろかった。全員ヘンな登場人物、クレイジーな疾走感、ばかばかしいセリフまわし、なにより主役の松岡茉優の演技が光っている(ただちょっとかわいすぎる。このキャラクターならもっとダサい恰好、ダサいメイクをしててほしい)。
偏執的、オタク、人見知り、攻撃的、ナイーブ、メルヘンチック。困った部分を寄せ集めたようなキャラクターをうまく演じている。
突然のミュージカルパートも最高(歌がすごくうまいわけでもないのがまたリアルでいい)。

主人公は、周囲の人間に勝手なあだ名をつけていたり、ずっと片思いをしている男に接近するために興味ない男から言い寄られたときの手口をまんま使ったり、SNSで他人になりすましたり、好きじゃない男から告白されて舞いあがったり、なんつうか「賢い人がバカやってる」感がたまらない。

かと思ったらちょっとしたことで傷つく中学生のような繊細さを持っている。他人のことは平気で攻撃するくせに自分がちょっと傷ついたら大げさに騒ぎたてる。他人に対して成熟したコミュニケーションがとれない、ほんとにめんどくさい女だ。

でもそういうところがすごく魅力的だ。誰の心にもあるガキンチョな部分を具現化したような存在。こんなふうに生きられたらいいだろうな、いややっぱり嫌だな。
ぼくも昔、こういうタイプの女性と仲良くしていたことがあるが、やはり付きあいきれずに離れてしまった。遠目に見ている分には魅力的なんだけどね。でもその身勝手さを受け入れられるだけの度量の大きさはぼくにはなかった。



映像自体にトリックが仕掛けてあって、これまでのあれやこれが実は××だったということが明らかになるのだが(ネタバレのため伏字)、この種明かしをラストに持ってこないところがいい。
「ラストのどんでん返し!」みたいな安易な展開はいらない。そういうのつまらないから。さりげなくやるのがいいんだよね。「驚愕のラストがあなたを待ち受ける!」みたいに書かれたらぜったいに驚愕しない。

テンポの良さもあって序盤から最後までまったく退屈しなかったのだが、ラストで想定内の場所に着地してしまったのは少し残念。ここまでぶっとんだ話をつくるんならもっと思いきったラストでもよかったんじゃないかと思う。まあそれは原作の問題か。

安野モヨコ『ハッピー・マニア』を思いだした。『ハッピー・マニア』のカヨコを内向的にしたらこんな感じだろうな。
どこまでも自分のためにつっぱしる姿って、女性作者とよく合う。男が描いたらもっと周囲を気にしてかっこつけちゃうだろうなあ。

煩悩のままにつっぱしる女性はただただまぶしい。自分ができないからこそ。やりたくないからこそ。


2018年9月9日日曜日

「自分はよくわかっている」時代


「自分はよくわかっている」時代になった。

昔は情報に触れるにはそれなりのコストを要した。
選択的にある分野の知識を入手しようと思うと、ほとんど本を買うか新聞を購読するかしかなかった。テレビやラジオでは、与えられる情報を受け取ることしかできなかった。
「本も新聞も読まない」ということは「身のまわりのこととテレビやラジオから得られる情報しか身につけていない」のとほぼ同じだった。

ひるがえって現代、インターネットのおかげで、どんな分野の知識でも浅い範囲であれば(場合によっては深い範囲まで)ほとんどゼロに近いコストで入手できるようになった。
すばらしいことだ。

だが、それによってぼくらは「よくわかった気になる」ことがすごく上手になった。
三権分立の仕組みすら知らないような人でも政治の情報にかんたんにアクセスできる。誰かの書いたことをそのまま口にすれば、ひとかどの人物っぽく見える。

素人に毛が生えたぐらいの人が(毛も生えてない人も多い)、「世界の真実の情報」を誰にでもわかる言葉で提示してくれている。
昔だってトンデモ本の類はあったが、「わざわざ金を出して本を買って活字の本を読む」ことをできる程度の教養と知的好奇心のある人しか読まなかったから、デマに引っかかる人はそう多くなかった。
でも、タダでかんたんに拡散できるようになった今、デマは「デマに引っかかりやすい人」のところにかんたんに届くようになった。



「将棋のプロ棋士ふたりと対戦して、少なくとも一勝する方法」がある。
Aとは先手指し、Bとは後手指しで対局する。Bが差した手を、そのままAに指す。次にAが打った手を今度はBに指す……ということをくりかえしていけば、一勝一敗になるはずだ(もしくは両方引き分けになるか)。
AとBが対局しているのと同じだからだ。

インターネットでは、これと同じようなことをやっている人がいる。A氏に対してB氏の意見をぶつける。C氏がしていた批判をD氏にする。
とてもお手軽に、賢くなった気になれる。
これをずっとやっていれば、たぶん「他人の意見をそのまま言っている」意識すらなくなるだろう。自分が考えた意見だと信じこむようになる。

まともに議論をすればすぐにボロは出るが、インターネット上の議論には「自分の言いたいことだけ言いやすい」「どんなめちゃくちゃな意見でも支持してくれる人が世の中には一定数いる」「形勢不利になったら逃げやすい」という特徴があるので、ボロが出にくい。というかボロが出ていることに自分では気づきにくい。



ぼくは大学生のとき、ゼミがすごく嫌だった。
ぼくは田舎の市内でいちばんの進学校に通っていて、そこでずっとトップの成績だった。相当天狗になっていて「自分は頭がいい」と思っていた。
大学に入ってゼミに出て、自分よりずっと頭が良くて、ずっとたくさんのことを知っていて、ずっと理路整然に議論を戦わす人たちを見て、すっかり自信を失った。ここに参加していくのが怖い、と思った。否定される、ばかにされる、笑われる、訂正される、論理の粗を突かれる。怖くてたまらなかった。

じっさい学部レベルのゼミなんて大した議論はしていないし、少々稚拙な意見を述べたところで厳しく突っ込んでくる人もそんなにいなかったのだが、それでも教授や院生とも対等に議論をしないといけないのが怖かった。自分の無知、不勉強、浅薄さを理解できる程度にはぼくは頭がいいつもりだったから。

やがてゼミの空気にも慣れてところどころ議論に参加できるようになったが、それでも「いつか衆人環視の中で叩きのめされるんじゃないか」という緊張感はずっとあった。



その経験に比べれば、インターネット上での議論なんて楽すぎる(あんまり参加しないようにしてるけど)。
何の準備もいらない。わからなければ黙っていればいい。突然意見を求められることもない。いいことを言った人の意見に乗っかっていればいい。形勢不利だと思ったらブラウザのタブを閉じればいい。
議論に勝った気になることはあっても負けることはない。負ける前に逃げだせるから。

ふと気づくと、「ぼくはものを知らないなあ」と思うことが少なくなった。
ぼくが歳をとったせいもあるだろうし、じっさいに昔より知識が増えたこともちょっとはあるんだろうけど、それ以上に「知識で叩きのめされる」ことがほとんどなくなったせいもあるのだろう。

自分がバカだと自覚しにく世の中になっちまったな。


2018年9月7日金曜日

【読書感想文】原発維持という往生際の悪さ/山本 義隆『近代日本一五〇年』


『近代日本一五〇年
―科学技術総力戦体制の破綻』

山本 義隆

内容(e-honより)
黒船がもたらしたエネルギー革命で始まる近代日本は、国主導の科学技術振興による「殖産興業・富国強兵」「高度国防国家建設」「経済成長・国際競争」と国民一丸となった総力戦体制として一五〇年続いた。近代科学史の名著と、全共闘運動、福島の事故を考える著作の間をつなぐ初の新書。日本近代化の歩みに再考を迫る。
近代化以後、日本の科学がどのように発展してきたかを追う書籍。
科学の中身のほうではなく、どちらかというと科学が政治や経済や軍事とどのように関わってきたかという点が主題。

これを読むと、日本の科学ってつくづく戦争とともに歩んできたんだなと思う。
 軍は幕府や西南雄藩が設立した兵器工場や造船所を接収し、官営の軍事工場としての大阪砲兵工、東京砲兵工、海軍造兵、横須賀海軍工に改変した。軍工の最大の目的は、もちろん兵器の自給化にある。日本の近代化の軸は、産業の近代化・工業化であると同時に軍の近代化・西欧化であった。通常、産業の近代化がすなわち日本の資本主義化と見られているが、軍の近代化が日本の資本主義化にはたした役割は、きわめて大きい。「当時の日本の技術全体の前進にあたって、政府の軍事工場は、部分的に指導的な役割をはたす立場にあった」(星野、一九五六)。実際、軍による兵器自給化の欲求、およびもともとは軍事から始まった造船業こそが、明治期日本の重工業・機械工業・化学工業への大きな推進力であった。軍と産業の近代化が同時並行で上から進められたことが、日本の資本主義化を特徴づけている。そして軍によるこの兵器自給の欲求が、やがて、そのための資源を求めてアジア侵略へと日本を駆り立ててゆく。
初期からしてこうだった。
学者や職人の間から勃興した科学を戦争に活用した西欧と違い、日本の場合ははじめから「他国に勝つ」という目的のために科学研究を国策として推進してきた。

兵器を作るために近代化し、兵器を作るための資源を求めてアジアへ侵出する。
「兵器を作るために戦争をする」なんて目的と手段が逆転しててばかみたいな話だけど、でも当時の日本人はそうでもしないと列強に食い物にされるという危機感を抱いていたのだろう。



戦争に巻きこまれたことで日本の科学は大きく発展した。
第一次世界大戦以降、戦争は総力戦となり、科学者も無関係ではいられなくなった。
戦場では化学兵器が用いられ、兵や軍備の輸送のために車や飛行機や船が使われ、それらは人力や馬力ではないエネルギーを必要とした。兵士の救護には医療知識が必要で、船や潜水艦を航海させるためには海洋知識が必要。戦闘機を飛ばすには航空物理学や気象学を知らなくてはいけない。
数学、化学、機械工学、地学、物理学、地学、気象学などありとあらゆる学問が戦争に駆りだされた。

そして日本が本格的に科学を学びはじめたのが、ちょうどその時代だった。
まだ黎明期だった科学界に国から多くの研究資金が支給されたのは、研究結果が戦争に役立ったからだ。学者たちは喜んで軍に協力した。

軍への貢献がすなわち悪だとは思わない。
結果的に日本の科学は大きく発展して、それが戦後の復興につながった部分も大きい。
ただし戦後の復興もまた戦争とともにあった。朝鮮戦争やベトナム戦争が勃発したおかげで、アメリカの日本統治はずいぶんゆるくなり、一度は禁止された科学研究も許された。戦争のおかげで大量の金が入りこんできて、工業製品を作るのに役立った。「ものづくり大国ニッポン」は、「戦争に使えるものづくり大国」だった。
高度経済成長という平和な発展の裏には、他国の戦争という犠牲があったということを知っておかなくてはならない。決して平和に発展してきたわけではないのだ。



こうした歴史的経緯が、基礎研究や文系の学問に対する軽視につながっているのかもしれない。
日本はもう七十年も直接的な戦争をしていないが、「戦争に勝つために研究しろ」が「経済競争に勝つために研究しろ」になっただけで、やっていることはたいして変わっていないように見える。
戦時は戦争に役立たない学問がないがしろにされていたように、戦後は経済競争に役立たない学問もまたないがしろにされつづけている。

「科学、学問は国家が統制して発展させていくもの」という考えは今も日本に深く根を張っている。
それがときには、公害病のような「経済成長のために科学を暴走させる」事態も引き起こす。科学が政治や経済に対して中立であったならば、公害の原因はずっと早く明らかになっていただろう。
こうした姿勢は今も変わっていない。原発は日本経済のためになるんだからイチャモンつけんじゃねえよ、の理屈がいまだ幅を利かせている。

こうなってしまったのは、科学者を必要以上に研究にストイックな存在として持ちあげてきたことがあるのかもしれない。
科学者も人間である以上、世俗にまみれた存在だから金や地位や名声を欲しがるし、そのために嘘をついてしまうことや権力者に都合の良い解釈をしてしまうこともあるだろう。
……という認識を持っておけば、大学教授という肩書に騙されることも減るだろう。

科学は善でも悪でもない。
工事の道具として発明されたダイナマイトが武器として多用されたように、使い方によって科学は善にも悪にもなる。
原子力は原爆にもなるしエネルギーにもなる。そしてそのエネルギーには周辺一帯を人の住めない土地に変えてしまうほどの力がある。



この本では、最後の一章を割いて原子力について書いている。
この章だけでも多くの人に読んでほしい。
そもそも原発は、軽水炉にかぎらず、燃料としてのウラン採掘の過程から定期点検にいたるまで労働者の被曝が避けられないという問題、運転過程での熱汚染と放射線汚染という地球環境への重大な影響、そして使用後にはリサイクルはおろか人の立ち入りをも拒む巨大な廃炉が残され、さらには数十万年にわたって危険な放射線を出し続ける使用済み核燃料の処分方法が未解決であるという、およそ民生用の商品としては致命的ともみられる重要な欠陥をいくつも有している。通常の商品では、このどれひとつがあっても、市場には出しえない。
軍事研究と原子力研究に共通するのは「市場を通さずに国から金が下りてくる」という点だ。
税金で賄うから市場競争がはたらかず、どんなに高くても言い値で買ってくれる。電機メーカーからすると兵器と原子力は金のなる木なのだ。

メーカーからするとそんなおいしいものを手放すわけがないし、この利権を守るためならどれだけでも金をばらまく。どれだけ高くついたってかまわない。その分を兵器と原発関連の代金に上乗せすれば国が払ってくれるのだから。また電力会社は総括原価方式によって決してマイナスにならないように電気料金を設定できるから経費なんか気にしなくていい。
かくして巨大な利権が生まれ、あり余る金で政治家も報道機関も研究室も抱きこめる。

SNSなんかを見ていても、ちょっと原発に批判的なコメントをすると、とたんに「原子力堅持主義者」「武力強化主義者」が湧いてくる。
ことあるごとに「地震で停電になった! 原発があればよかったのに!」「北朝鮮がミサイルを撃ってくるぞ! 防衛費を上げろ!」と危機感をあおる。はたまた「福島の人を傷つける気か!」という感情論に持ちこもうとする。

金のなる木があればそれを守りたくなる気持ちはわからんでもないが、大学の研究者や報道機関までがそれに加担しているのを見ると悲しくなる。
研究資金ほしさに軍に協力していた時代、国や大企業を守るために公害病のでたらめな原因を上げていた時代から何も変わっていない。

過去に国のお抱え研究者がどんな嘘をついてきたかを知ればとても「原発は絶対に安全だ」なんて話を信じられる気になれないと思うが、それでも人は悲惨な現実からは目をそむけたくなってしまう。

専門知識がなくたって絶対安全なものなんてないことぐらいはわかるし、だったら「もしも事故が起こったら広範囲に数十年以上も回復不能なダメージを与えるもの」なんてやめようとなるのがふつうの感覚だろう。
「このボタンを押せば100万円あげます。でも1%の確率であなたは死にます。押しますか?」って訊かれたら、よっぽどお金に困っている人以外は押さない。
しかし原発に関しては目先の金欲しさにハイリスクな道を選びつづけている。日本という国はそこまでお金に困ってるのだろうか。

こんなリスキーダイス、いつまで振りつづけるつもりなんだろう。



また著者は、日本が頑なに原発を放棄しようとしないのは、軍事転用するためではないかと指摘している。
 一九九二年一月二九日の『朝日新聞』には「日本の外交力の裏付けとして、核武装選択の可能性を捨ててしまわないほうがいい。[核兵器の]保有能力は持つが、当面、政策として持たないという形でいく。そのためにもプルトニウムの蓄積と、ミサイルに転用できるロケット技術は開発しておかなければならない」という外務省幹部のまことに正直というか、あからさまな談話が記されている。核燃料サイクルにたいする日本の「異常なまでの執着心」の根っ子に潜在的核武装路線があるという想定は、けっして無理なこじつけではない。すくなくとも、外国からそのように受け取られても不思議はない。自覚していないのは、日本人だけである。
じっさいに転用可能な資源も技術も十分にあるし、核兵器禁止条約に署名しないのも将来的に核兵器を持つ可能性を考えてのことではないかと。
言われてみればそうかもしれない。
国民が「日本には非核三原則があるから」なんてのんきに構えているうちに、とっくに核武装の準備を整えているのだ。これが杞憂ならいいんだけどね。


原発をめぐる状況は第二次世界大戦末期とよく似ている。

こっぴどい敗戦を喫した理由としては、物資不足だとか科学力が劣っていたとか精神論重視だったとかいろいろあるけど、ぼくは「負けを認められなかった」ことに尽きると思う。
負けを認めないから正しい情報が共有されず、負けを認めないから過去の失敗から学ばず、負けを認めないから国土を焼き尽くされた。

原発も同じだ。とっくに「負け」フェーズに入っている。
安全神話が嘘だったことは福島第一原発事故ではっきりと露呈したし、いまだ廃炉の道は見えない。すでにヨーロッパ諸国は原発を放棄しつつあるが、負けを認められない日本はボロボロになった神話に必死にしがみついている。

電力消費量は減少しつつあり、代替エネルギーも増えている。もはや原発にこだわる理由はなくなっているのだが、それでも日本が原発を捨てられない理由は「ここで負けを認めたら今までやってきたことが無駄になる」という一点のみだ。
一言でいうなら往生際の悪さということになる。かくして戦況はどんどん悪化してゆく。

今のぼくらが大日本帝国軍の軍部を愚かだったとあざ笑うように、百年先の日本人も今のぼくらをあざ笑うだろうか。それともその頃の日本は人が住めない土地になっているだろうか。



科学技術は資本主義とともに成長してきた。
だが、人口減少社会に突入した今、資本主義は破綻をきたそうとしている。
「いいものをたくさん作ってたくさん売れば人々の暮らしも良くなって経済も成長する」というハッピーな時代はとっくに終わった。
経済成長をするためには、今の政権が力をやろうとしているように武器やカジノで「いかに他人から奪うか」または原発のように「いかに未来から奪うか」というやり方しかなさそうだ。

この先、科学の発展は人々の幸福に寄与してくれるのだろうか。
それとも一部の人がその他多数から富を搾取するために科学は使われるのだろうか。

残念ながら後者である可能性が高いような気がする。

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