2018年8月19日日曜日

意地悪をしない男の子


四歳の娘は保育園でいろんな男の子と仲良くしている。
元気な子、おとなしい子、やかましい子、恥ずかしがりやな子、いろんなタイプがいるけれど、共通しているのは「優しい子」という性質だ。

優しいというより「意地悪をしない子」。

あたりまえなんだけど、意地悪をしてくる子は嫌い。


そのあたりまえのことに気づくのに、ぼくは二十年以上かかった。
子どもの頃、学生の頃。ずっと女の子に意地悪をしていた。好きな子にも、そうでない子にも。

もちろんモテなかった。バレンタインデーに母と姉以外からチョコレートをもらったことがない。

モテるためには「かっこいい」とか「おもしろい」とか「スポーツができる」とかいろんな要素があるけど、「意地悪をしない」はモテる条件というより、最低限クリアしないといけないハードルなのだと今にして気づく。


2018年8月18日土曜日

【映画感想】『インクレディブル・ファミリー』


『インクレディブル・ファミリー』

内容(Disney Movieより)
 悪と戦い、人々を守ってきたヒーローたち。だが、その驚異的なパワーに非難の声が高まり、彼らはその活動を禁じられていた……。
 そんなある日、かつてヒーロー界のスターだったボブとその家族のもとに、復活をかけたミッションが舞い込む。だがミッションを任されたのは――なんと妻のヘレンだった!留守を預かることになった伝説の元ヒーロー、ボブは、慣れない家事・育児に悪戦苦闘。しかも、赤ちゃんジャック・ジャックの驚きのスーパーパワーが覚醒し……。
 一方、ミッション遂行中のヘレンは“ある事件”と遭遇する。そこには、全世界を恐怖に陥れる陰謀が!ヘレンの身にも危険が迫る!果たして、ボブたちヒーロー家族と世界の運命は!?

(『インクレディブル・ファミリー』および『Mr.インクレディブル』のネタバレを含みます)

『インクレディブル・ファミリー』を劇場にて鑑賞。映画館に行くのは数年ぶり。娘が生まれてから遠ざかっていたのだけれど、娘も長めの映画を楽しめるようになってきたので一緒に鑑賞。五歳児も楽しんでいた。

ぼくはピクサーの作品はほとんど観たのだが、その中でも『Mr.インクレディブル』は『トイ・ストーリー』シリーズに次いで好きだ。
なにがいいって、わざとらしく感動を狙いにいってないのがいい。お涙ちょうだいだけが感動じゃないということをピクサーはよくわかっている。

そんな『Mr.インクレディブル』の続編、『インクレディブル・ファミリー』。
たいてい続編って一作目の数年後から物語からはじまるものだが、『インクレディブル・ファミリー』は『Mr.インクレディブル』の一秒後からはじまる。ほんとに続編。連続して見てもほとんど違和感がないだろう。

ただテイストは一作目とはけっこう異なる。エンタテインメントに大きく舵を切ったな、という印象。
『Mr.インクレディブル』は「スーパーヒーローの悲哀」というユニークなテーマを丁寧に描いているしストーリーもよくできているんだけど、ピクサーシリーズの中ではいまひとつ人気がない。かわいいキャラクターも出てこないし、主人公は腹の出た中年男だし(途中で腹をひっこめるけど)、子ども受けする要素が少ない。
子どもにはカーズとかニモのほうがウケがいいんだろうね。

そのへんが課題としてあったのか、『インクレディブル・ファミリー』はアクションシーン多め、暗いシーン少なめ、ギャグ多め、子どもが活躍、赤ちゃんも活躍、派手なキャラクター多め、かっちょいいバイクや車が登場……と、これでもかってぐらい子どもに照準を合わせにいっている。音楽は一作目に続いてかっこいい。
主人公であるボブの心情も描かれているが、『ファミリー』で描かれるそれは「育児が思うようにいかないお父さんの苦悩」と、子どもにも理解しやすい。
『Mr.』で描写されていたような「時代の変化についていけずにかつての栄光を忘れられない中年男の悲哀」のような重苦しく大人の観客の心にのしかかってくるようなものではない。


個人的な好みでいえば『Mr.』のほうが好きなテーマだが、観ていて爽快感があったのは『ファミリー』だった。
『Mr.』では、助けてあげた相手から訴訟を起こされたり、パワーを押さえないといけなかったり、まったく意義の見いだせない仕事で成果を出せなかったり、持って生まれた能力のせいで家族がぎくしゃくしたり、かつて自分を慕ってきた男に苦しめられたりと、なんとも気が滅入る展開が多かった。
その分後半の活劇ではカタルシスが得られるのだが、後半のスッキリ感に比べて前半の鬱屈した展開が長すぎたように思う。

主人公ボブは悪役シンドロームと戦うのだがそれ以上に「世間」と戦っていた。シンドロームには最終的に勝利するのだが、当然ながら世間には勝つことはできない。そのあたりが最後までいまいちスッキリしない理由だったように思う。

『ファミリー』の戦いは誰にも認められない戦いではなく、世の中を味方につける戦いだ。
悪は罪のない人々に危害を及ぼそうとするものであり、主人公一家の戦いは人々や家族を守るための戦いだ。こんなに善なるものがあるだろうか。観客は心から喝采を送ることができる。

続編が作られる作品の場合、一作目は設定を活かしたシンプルなストーリーで二作目はこみいったストーリーという作品が多い。『バック・トゥー・ザ・フューチャー』のように。
ところがインクレディブルシリーズは逆。社会との軋轢や内面の葛藤を描いた一作目から単純明快なアクションドラマに還ることで、一作目の分のモヤモヤまで吹き飛ばすような痛快作品になった。冒頭に「続けて観ても違和感がない」と書いたが、ほんとに『Mr.』と『ファミリー』ふたつでひとつの作品と考えてもいいかもしれない。『Mr.』だけだといまいちスッキリしないんだよね。



『ファミリー』は前作よりもアクションシーン多めの作品だが、ひとりだけアクションシーンが大幅に減っている人物がいる。主人公のMr.インクレディブルだ。

冒頭こそ奮闘するものの結局犯人を取り逃し、その後はほとんどスーパーヒーローとしての活躍の機会は与えられない。
状況打破の機会を与えられてその期待に応えるのは一家のママであるイラスティガールで、敵に囲まれた子どもたちを助けに向かうのは親友フロゾン。Mr.インクレディブルはママを助けに向かうものの何もできぬままあっさり捕まり、子どもたちに助けてもらう始末。最後に敵をぶちのめすのはやはりイラスティガールだ。
パパの役目は「ママが戦う間に家事や育児をする」「ママが戦っている間に市民の安全を守る」というサポート役。

このあたりにも時代性が感じられておもしろい。
Mr.インクレディブルは強いが、他のスーパーヒーローたちとは違いこれといった特殊能力は持っていない。ただ力が強くて打たれ強いという時代遅れのパワー型。
昨今の主人公にはふさわしくない。今どきの少年漫画で「ただ強いだけ」の主人公がどれだけいるだろう。彼らが主人公でいられた時代は『ドラゴンボール』の最終回とともに終わってしまったのだ。

ただ強いだけのヒーローであるがゆえにMr.インクレディブルが作中で世の中から受け入れられず、使いづらいキャラクターとして制作者からも隅に追いやられてしまった。それは「家族の主役でなくなった父親」という姿にぴったり重なる。
男たちは「女は家事、男は外で仕事」といって仕事がたいへんなふりをしてきたけれど、女性が社会進出するにしたがって「効率化すれば仕事はそうたいへんでもない」ということがバレてきた。少なくとも男のほうがうまくできるわけではないということにみんな気づいてしまった。
狩猟生活を送っているうちはでかい顔をできていたのに、社会が機械化されるにしたがって「ただ強いだけの男」は役立たずになった。『ドラゴンボール』の孫悟空が、地球の危機は救うが家庭においては金は稼げないし家事も育児もまるでだめというポンコツっぷりをさらしていたことも象徴的だ。
「勇猛果敢で強いやつ」は平和な世の中には必要ないのだ。

スーパーヒーローとしての華々しい活躍の場が失われただけでなく家庭内での居場所も懸命に模索するMr.インクレディブルの姿は、居場所を失いつつある男性全体を象徴しているようにも見える。
ついでに悪役・スクリーンスレイバーの正体もやはりまた、これまでの男性の社会的ロールを奪うものだ。



時代の変化をなかなか受け入れられないMr.インクレディブルとは対照的に、スーパーヒーロー時代からの旧友であるフロゾンは前作以上の活躍を見せる。彼は「もうヒーローは必要とされていない」という状況をあっさり受け入れているし、その状況の中で自らができることとやってはいけないことを冷静に判断している。
時代の変化と己の立ち位置を把握できる人間はいつだって強い。遺伝生物学の世界では「強い生物とは、力が強い生物でも身体が大きい生物でもなく、変化に適応できたもの」とされているが、スーパーヒーローの条件もまた同じかもしれない。

そんなクールかつクレバーなフロゾンが我が身の危険をかえりみずに友人の子どもたちを助けに行く姿にしびれる。
フロゾン、かっこいいぜ。氷をつくりだす能力、水分がなくなるとエネルギー切れを起こすという制約(前作で見せていた)、冷静さと熱さをあわせもった性格。彼こそが今の時代の主人公向きなんじゃないだろうか。フロゾンを主役に据えたスピンオフ作品も観てみたいなあ。
しかしシニカルな立ち位置といい、恐妻家なところといい、見た目といい、アナゴさんにちょっと似ているよね。



全体的にスカッとする話だったのだが、引っかかったところがひとつだけ。
『Mr.』のラストで街を襲い『ファミリー』の冒頭で銀行強盗に成功して逃げる悪役・アンダーマイナー(モグラみたいなやつ)。
最後にあいつが捕まるんだろうなーと思いながら観ていたら、とうとう最後まで捕まらずじまいだった。ううむ、モヤモヤする。これは伏線の回収忘れなのか、はたまた三作目へとつながる伏線なのか……。


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2018年8月17日金曜日

【読書感想文】いちゃつくカップルだらけの世界/『大人もおどろく「夏休み子ども科学電話相談」』


『大人もおどろく
「夏休み子ども科学電話相談」』

NHKラジオセンター「夏休み子ども科学電話相談」制作班

内容(e-honより)
常識にしばられない子どもの多様な質問、そして名だたる先生方の回答が飛び交う番組「夏休み子ども科学電話相談」。ときに身近な現象にひそむ事実にうなり、ときに意外なおもしろさに笑ってしまう、「お話」の数々を再現。楽しみながら科学的な思考法にも触れられる1冊。

NHKラジオで毎年やっている『夏休み子ども科学電話相談』。この番組は聴いたことがないけれど、Twitterなんかでよく話題になっている。
質問も回答もどっちもおもしろいなあと思っていたので、この本を読んでみた。

小学生の素朴な疑問を読むと、そういえばぼくもわかっていたつもりになっていたけど知らなかったことなあと気づかされる。

かき氷を食べたら頭が痛くなることとか、飛行機雲ができることとか、現象としては知っているけど「なぜ?」と訊かれると答えられない。

飛行機雲ができるには温度と湿度の条件がそろっていないといけないとか、言われてみれば納得なんだけど考えたこともなかった。
小学生よりある程度科学的知識を身につけた大人のほうが説明をすっと受け入れられて楽しめるかもしれない。

へえそうなんだと感心したのはこんな話。

  • かき氷を食べて頭が痛くなることを医学用語で「アイスクリーム頭痛」という
  • 地球で最初の生物は宇宙から来たという説も有力(隕石にくっついていたアミノ酸からできた)
  • 植物に優しい言葉をかけても元気にはならないが、植物にふれると強くなる




いちばんおもしろかったのは「好きなのに嫌いと言ってしまうのはどうして?」という質問。

ふうむ。たしかにそうだよねえ。動物はもっと好意を前面に出すのに、人間はなかなか素直になれないよね。
「私はあなたを好きです」をストレートに伝えたほうが恋愛関係も友人関係もうまくいく可能性が上がるだろうに、なかなかそれができない。言われてみればふしぎだ。
ぼくも好きな子に冷たくして何度も後悔した。素直に好きと言える人をうらやましいと思っていた。

この質問に対する答えは「好きという感情を隠しておいたほうが集団はうまくいくことが実験でわかっている」だった。
なるほど、それもわかる。「好き!」を前面に出す人って社会的にアレな人が多いもんね。街中でいちゃつくカップルって不愉快だし。
「〇〇さんが好き!」を全身全霊で表現するってことは、その他の人に「あなたは好きじゃない」って言うのと同じだから社会から疎外されちゃうのかもね。

でもコミュニティがぶっ壊れた破滅的状況においては、コミュニティの維持よりも自身の生殖のほうがずっと大事になるから、「好き!」を前面に出す人が繁栄するかもしれないね。
人目をはばからずにいちゃつくカップルばかりの世の中。いやだなあ……。


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2018年8月16日木曜日

【読書感想文】日本の農産物は安全だと思っていた/高野 誠鮮・木村 秋則『日本農業再生論 』


『日本農業再生論
「自然栽培」革命で日本は世界一になる!』

高野 誠鮮  木村 秋則

内容(e-honより)
東京オリンピックに自然栽培の食材を!農産物輸出大国の切り札、ここにあり!「奇跡のリンゴ」を作った男・木村秋則と、「ローマ法王に米を食べさせた男」・高野誠鮮の二人が、往復書簡のやりとりで日本の農業の未来を語り尽くした刺激的対論集!

木村秋則さんについて書かれた『奇跡のリンゴ』も高野誠鮮さんが書いた『ローマ法王に米を食べさせた男』もめちゃくちゃおもしろかった。どちらもぼくが2017年に読んだ本の中でトップ10に入るぐらい刺激的だった。
そんなふたりの対論(往復書簡のような感じで交互に自論を展開していく)なんだからおもしろくないわけがない。正直言って『奇跡のリンゴ』や『ローマ法王に~』の焼き直しの記述も多かったのでその二作を読んでいたぼくにとっては退屈だったけど、それ以外はおもしろかった。

日本の農業の置かれている状況とこれから進んでゆく道を、世界ではじめてリンゴの自然栽培に成功させた人と、限界集落を救ったスーパー公務員が指し示している。
ふたりともすごく前向きな人なので「なるほど、そのとおりにしたら日本の農業の将来は明るいな!」という気になる。
ぼくは素人なのでじっさいに農業をやっている人からすると「そんなかんたんにいくもんか」と言いたくなるんだろうけど、でも不可能といわれていることを可能にしたふたりが言うんだからふしぎな説得力がある。



日本の農産物は安全だと思っていた。
外国の農業は農薬たっぷりの大規模農業、日本は厳しい規制下で安全な野菜や果物を作っているのだと。
ところがどうもそうではないらしい。日本の農産物だからって安全ではない、むしろ諸外国に比べてはるかに安全性に劣るものが売られている状況もあるのだと。
 日本は、農薬の使用量がとりわけ高い。平成22(2010)年までのデータによると上から中国、日本、韓国、オランダ、イタリア、フランスの順で、単位面積あたりの農薬使用量は、アメリカの約7倍もあります。
 残留農薬のある野菜を食べ続けると体内に蓄積されていって、めまいや吐き気、皮膚のかぶれや発熱を引き起こすなど、人体に悪影響を及ぼすとされています。
 日本の食材は世界から見ると信頼度は非常に低く、下の下、問題外。
 もう日本人だけなの。日本の食材が安全だと思っているのは。
 ヨーロッパの知り合いから聞いた話ですが、日本に渡航する際、このようなパンフレットを渡されたそうです。「日本へ旅行する皆さんへ。日本は農薬の使用量が極めて多いので、旅行した際にはできるだけ野菜を食べないようにしてください。あなたの健康を害するおそれがあります」
日本が製造分野では没落したってことは最近ようやく受け入れられるようになってきたけど(まだ受け入れていない人もいるけど)、農業分野では世界最高峰だと思っている人も多いんじゃないだろうか。ぼくもそうだった。

そうか、日本の農産物っていいものではないのか。当然質の高いものはあるんだろうが、悪いものをはじく仕組みが整備されていないようだ。
それは個々の農家の責任というより、日本政府やJAのせいなんだろうけど。

知らなきゃよかった、とすら思う。国産野菜をありがたがって幸せに暮らせたのに。いやそれって幸せなんだろうか。



アメリカの種苗会社であるモンサント社の名前が出てくる。
堤未果『(株)貧困大国アメリカ』でも書かれていた。世界中の農業を牛耳ってるとも言われている会社だ。
ここが遺伝子改良によって作った、作物の形や大きさが均一になるF1種という種や、種子を作らない一代限りの種。それが世界中で使われている。世界中で均一のものが食べられているということは何かがあったときに一斉に問題が起こるということだし、一代限りで種をつけないということは農家は毎年モンサント社から種子を買わないといけないということだ。もしも買えなくなったら翌年からは作物を作れないわけだから言われるがままにせざるをえなくなる。

工業製品ならともかく、農産物は「急にすべて作れなくなりました」ってわけにはいかないものだから、たとえ高かったり不便だったりしてもリスク分散しておかないといけないと思うんだけどね。国の施策として。



今の農業は、ほとんど農薬と化学肥料の上に成り立っている。だけどそれはチャンスなんだと木村さんも高野さんも書いている。
日本が世界に先駆けて自然農法を確立して「日本の農産物は安全」というイメージを世界中に知らしめることができればTPPにも勝てるし経済にも大きな貢献ができると。

そのために高野さんは政治家にも働きかけをしている。ただ、そこに出てくる名前は地方創生担当大臣だった石破茂氏や首相夫人だった安倍昭恵氏。うーん、数年前なら良かったんだろうけど、今や石破さんは党内でも冷や飯を食わされて、安倍昭恵氏にいたっては交流があることがマイナスイメージにしかならない人になっちゃったしな……。つくづく高野さんも近づく政治家の引きが悪いな。

だけど、そうじゃなくても日本が国を挙げて自然農法に力を入れていくかっていったらむずかしいとぼくは思うなあ。
なぜなら「日本は工業化で成功した」という成功体験があるから。個人も国家も、半端な成功体験があるとそれを捨てて新しいことにチャレンジできなくなっちゃうんだよね。トップ企業がいつまでもトップでいられない理由がそこにある。
日本は時代遅れになったガソリン自動車産業を守ろうとして国家ごと没落してゆくような気がしてならない。アメリカもちょっとそうなってるし。
何も失うものがない状態だったら「よっしゃこれからは自然農法だ!」ってこともできるんだろうけどね。

でもこんな水を差すようなことばかり書いていたら、「可能性の無視は最大の悪策」とくりかえし書いている高野さんに怒られそうなのでやめとこう。なんとかなる、いや、なんとかできるでしょう。そう信じたい。



木村さんがこんな話を書いている。
 仲間を増やすと言えば、以前、少年院で農業指導をしたことがありました。12歳以上16歳未満の子どもたちがいる初等少年院です。
 少年院では子どもたちに革加工品などを作らせているけれど、今はあまり売れないそうです。少年院を出ると自動車の修理工場で働くことを希望する子どもたちが多いけれど、彼らを受け入れるところがあまりないし、工場に行ったら行ったで周囲の冷たい目で、1ヵ月もてばいいほうだって。
 けれど農業は基本的に個人経営です。ならば農業をやってみるのはどうかと院長さんが思いついて、私に声がかかったんですよ。
これ、すごくいいと思う。
ぼくは今のところ少年院にも刑務所にも入ったことないけど、刑務所での作業ってすごく時代遅れだと聞く。何十年も前のやり方で椅子や机を作っていたりとか。そんなもの外の世界に出て働くのに何の役にも立たない。せいぜい日曜大工ができるようになるぐらいだ。
かといって刑務所内でパソコンを教えるというのもむずかしいだろう。まず数学から教えないといけなかったりするし。
元受刑者がちゃんとした仕事につけなければ再犯に走る可能性が高まるわけで、それは受刑者当人にとっても社会にとっても良くない。

その点、農業、それも自然農法は刑務所内で習得するスキルとして適している。
自然農法だったら基本的に何十年たっても根幹は変わらないので知識や技術が古くなりにくい。土地さえあれば他人に雇ってもらわなくてもできる。土地は休耕地がたくさんある。
少年院や刑務所から出た人がこれから世界の農業を牽引する(かもしれない)自然農法をやるというのは、「成功体験がある人ほど新しいことにチャレンジしにくい」の真反対なのですごく相性がいいんじゃないだろうか。

あとは他の農家から村八分にされないかだけど、それがいちばんむずかしそうだな……。


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2018年8月15日水曜日

今どきの誕生日の内訳


娘の保育園のクラスには17人の園児がいる。
誕生日の内訳は以下の通りだ。

 4 ~  6月 …… 8人
 7 ~  9月 …… 4人
10 ~ 12月 …… 3人
 1 ~  3月 …… 2人

すごくバランスが悪い。
明らかに学年の前半に集中している。

みんな、いつ産んだらいいか考えながら産んでいるからだ。

生後2ヶ月たたないと保育園は預かってくれないので、2月以降に生まれた子は0歳児クラスに預けることができない。
また、1歳児クラスから預けるにしても、そのためには親が仕事復帰している必要がある。
4月生まれと3月生まれでは、職場復帰するときの負担がぜんぜん違う。生後1年の子と生後1年11ヶ月の子の能力は、5歳と20歳ぐらいの開きがある。
産んだ母親の身体だって、産後1年11ヶ月のほうがずっと快復しているだろう。

そういうわけで、みんな「いつ産むか」「そのためにはいつ頃仕込まないといけないか」を考えて子作りをしているのだろう。その結果、5~8月に誕生日が集中することになる(ちなみに4月生まれも少ない。少し計算とずれると3月生まれになってしまうからだ)。

交尾、妊娠、出産というきわめて動物的なおこないですら行政の事情にあわせてコントロールしなきゃいけないなんて、なんだかなあ。
しゃあないんだけど、1月生まれのぼくとしては寂しいかぎり。