2018年6月12日火曜日
ストロベリーハンター
子どもを連れて狩りに出かけた。
まだ人類が定住生活をしていなかった時代から、子どもに狩りを教えるのは父親の役目だ。ただしぼくが教えるのはいちご狩りだが。
娘はいちごが大好きだ。
以前、義母が大粒の高級いちごを手土産に持ってきてくれたことがあった。娘は、子どもが唯一持っている武器である「いじらしさ」を存分に発揮し、その場にいた大人たち全員からいちごをせしめ、一パック十個のうち六個をひとりでせしめることに成功した。
大きくて甘いいちごだったのでほんとはぼくだってもっと食べたかったが、ほかの大人たちが高級いちごのように甘い笑顔で「もっと食べたいの? じゃあどうぞ」といちごを差しだしているのに、父親であるぼくだけが「食べたいなら自分で稼げるようになってから働いた金で買って食え」と言うわけにもいかない。泣く泣くいちごを献上した。
他人のいちごまで遠慮なく食うぐらいだからいちご食べ放題のいちご狩りに連れていったらさぞ喜ぶだろうと思い、いちご狩りができる場所を調べてみた。
わかったことは、世の中の人はいちご狩りが好きということだった。土日は予約がいっぱいで、二週先までいっぱいだった。いくつかの農園にあたってみたがどこも似たような状況だった。仮想通貨ブームが落ち着いた今、いちご狩りブームが来ているらしい。
いくつかあたった結果、予約可能な農園を見つけた。
あたりまえだがいちご農園は駅前直結ショッピングモールの中のような便利な場所にはない。車で行くべき場所なのだろう。だが都会人の悲しさ、我が家には車がない。電車で一時間、さらにバスで三十分という立地の農園を予約した。
いちご狩りは二十数年ぶりだ。幼稚園児のときに家族で出かけた記憶がある。ただしいちごを摘んだ記憶はない。ぼくがいちご狩りに行ったとき、ちょうどそこで市のイベントをやっていて、市長のおっちゃんが来ていた。そしてきれいなお姉さんがバスガイドのような恰好をして立っていた。「ミス〇〇」というたすきをかけている。まだミスコンテストが堂々とおこなわれている時代だったのだ。
そして市長がミス〇〇と握手をした。今になって思うと、農協だかいちご生産者協会だかの人が悪だくみをして「美人と握手をさせて市長の機嫌をとっておこう」みたいな企てがあったのかもしれない。幼稚園児のぼくはそこまで考えていなかったが、美人と握手をしている市長の顔が真っ赤になっていたことだけ記憶している。
以来ぼくにとって「いちご狩り」とは「美人と握手をした市長の顔が真っ赤になるイベント」だったのだが、ついにその記憶が上書きされる日がやってきた。
予約当日はあいにくの大雨だった。
いちごはビニールハウスで栽培するので狩りに天候は影響ないのだが、大雨の中電車とバスを乗り継いでいくのはおっくうなものだ。「交通費を考えれば百貨店に行って高級いちごを買ったほうが安くつくな」と不穏な考えも首をもたげてきたが、娘と「日曜日はいちご狩りにいくよ」と約束してしまっている。いちご狩りの愉しさを説いてしまった上に、この一週間は「歯みがきしないんだったらいちご狩りに行くのやめるよ」などとさんざん要求を呑ませるためのダシに使わせてもらった。今さらひっくり返すことはできない。しかたなく雨具を用意して出かけた。
いちご狩りはファミリーで楽しむものかと思っていたが、ヤンキーのカップルや大学サークルのイベントっぽい団体などもいて、若者にも人気のようだった。やはりブームが来ているらしい。
農園のおじさんから「5と6のエリア以外のイチゴは摘まないでください。他のエリアは入口に鎖がしているので入らないでください」と説明を受けたにもかかわらず、ヤンキーカップルの男は禁止エリアのいちごを摘んでいた。また彼は農園の入り口でたばこをポイ捨てしていた。
「ヤンキー」と「いちご狩り」はまるで似合わないように思うが、彼はちゃんとヤンキーらしく社会のルールを逸脱しながらいちご狩りを楽しんでいるのだ。その一貫する姿勢は清々しさすら感じられた。なんてまじめなヤンキーだ。「ヤンキー」と「いちご狩り」が両立することをぼくははじめて知った。
狩りはかんたんだった。赤く色づいたいちごを見つけ、茎をはさみでチョキンと切るだけ。熊狩り、潮干狩り、オヤジ狩り、魔女狩り、刀狩り、モンスターハント。世の中に狩りと名の付くものは数あれど、いちご狩りほど容易な狩りはないだろう。いや、紅葉狩りには負けるか。なにしろあれは見るだけだからな。
いちご狩りはかんたんだ。狙った獲物は逃がさない。誰でも百発百中の優秀なハンターになれる。四歳児ですら何の造作もなく赤いいちごを仕留めていた。
まずいちごを十個ほど狩って席についた。
いちごだけでなく、アイスクリームやケーキやプリンもあってそれがすべて食べ放題。ファミレスにあるようなドリンクバーも置いてあって、こちらも飲み放題。すばらしい。
「いちごの乗ってないショートケーキ」があって、そこに好きなだけいちごを乗せてオリジナルいちごのショートケーキを作れる。わくわくする。
なによりうれしいのが、業務用の練乳がどーんと置いてあることだ。
ぼくは甘いものと乳製品が好きだ。当然、練乳も大好きだ。
小学生のときは練乳を食べるためだけにかき氷をつくって食べていた。途中からかき氷をつくるのがめんどくさくなって練乳だけ飲んでいた。森永の練乳チューブに直接口をつけて吸いだすのだ。
おさな心にも「いけないことをしている」という背徳感があり、家族が誰もいないときを狙ってひそかに犯行に及んでいた。
松本大洋『ピンポン』で主人公のペコが練乳のチューブを吸っているのを見たとき、自分だけではなかったのだと知って少し気が楽になった。
皿に練乳を山盛りにして(さすがにいいおっさんになった今は公共の練乳チューブに直接口をつけて飲んだりしない)、いちごをつけて口に運ぶ。
うまい。だが結果からいうと、これは失敗だった。
練乳いちごが甘すぎて、それ以降いちごを食べても味気ないのだ。プリンに乗せてもものたりない。練乳いちごは甘さのチャンピオンだから、それに比べたら他のどんな食べかたも負けてしまう。
しかたなくまた練乳をつけたいちごを口に運ぶが、やはり甘いものというのはすぐに飽きる。十個も食べたら「もういちごはいいや」という気になってきた。
電車とバスで一時間半もかけて来たのに、ひとり二千円ぐらい払ったのに、いちご十個で飽きてしまう。ますます「百貨店で良かった」の思いが強くなるが、あっという間にいちごを食べ終えて新たな狩りに出かけた娘の後姿を見て、思いを改める。
いちご狩りにおいて、いちごを食べるためにお金を払うのではない。体験を買っているのだ。
娘のみずみずしい体験のためなら金銭も労力もたいしたものではない。こう考えられるようになったのは、ぼくが父親になったということなのだろう。
皿に残った練乳を指につけてなめながら、自分が大人になったことを実感していた。
2018年6月11日月曜日
【読書感想】陳 浩基『13・67』
『13・67』
陳 浩基(著) 天野 健太郎(訳)
香港の作家が書いたミステリ小説。重厚かつ繊細な物語でおもしろかった。
ミステリには「本格」「社会派」というジャンルがある。ざっくりいうと謎解き自体を楽しむのが本格派、事件が起こった社会的背景を描きだすのが社会派だが(すごく雑な説明です)、短篇集である『13・67』はひとつひとつの作品は謎解きメイン、しかし六篇すべてを読むことで香港警察という組織がどのように社会と向き合ってきたかという歴史が見えてくる。短篇としては本格派、短篇集としてみると社会派ミステリになっているという変わった趣向だ。
変わった趣向といえば、第一話で「主人公が死を前にして言葉も発することもできずにベッドに横たわっている」という設定から入るのもおもしろい。主人公がスタートした状態で幕を開ける落語『らくだ』のような導入だ。
ここからどう続けていくのだろうと思っていたら、時系列を逆にして(リバースクロノロジーというらしい)、徐々に主人公クワンが若い時代の話が語られてゆく。
物語の舞台は、第一話は2013年、第二話は2003年、第三話は1997年、第四話は1989年、第五話は1977年、そして最終第六話は1967年である。この間、租借地であった香港ではイギリスや香港警察に対して暴動が起こり、少しずつ民主化が進み、イギリスから中華人民共和国へと変換され、そして再び政府や警察に対する不満が募る時代へと変わってきている。
こうした時代の変化が、『13・67』ではさりげなく、しかし丁寧に描かれている。
ちょうどこないだ読んだ『週間ニューズウィーク日本版<2018年3月13日号>』の『香港の民主化を率いる若き闘士』という記事に、こんな記述があった。
返還当初は「香港は香港がこれまでやってきたやりかたを維持していいよ」と約束していた中国だったが、少しずつその約束は反故にされ、イギリス統治下の香港に根付いていた民主主義は奪われていった。それを指示したのは中国共産党だったが、手先となり実際に民衆を抑圧したのは香港警察だった。
民衆の味方ではなくイギリス(作中の言葉を借りるなら「白い豚」)の手先であった香港警察が徐々に市民から信頼されるようになり、そして今度は中国共産党の手先となってまた信頼を失ってゆく姿がミステリを通してありありと描かれている。
描かれている事件はフィクションだが(事実を下敷きにしているものもあるらしいが)、まるでルポルタージュを読んでいるような気分になる。
イギリス、中国共産党、犯罪者、警察組織、そして市民。それぞれの間で葛藤する香港警察官の苦悩が伝わってくるようだ。
なるほど、これはたしかに読みごたえ十分のミステリだ。
このような骨太のミステリが日本でもアメリカでもなく、香港で生まれたということに時代の移り変わりを感じる。
ミステリとしてはやや粗も目立つ(第一話『黒と白のあいだの真実』などは都合よく展開しすぎだし、第六話『借りた時間に』ではそれまでの短篇と語り口が変わってしまうのでラストのどんでん返しを察してしまう)。しかしエネルギーがみなぎっているため細かい粗は吹きとばしてしまう。それぐらいパワフルな筆力だ。
訳もいい。訳者はミステリの訳には慣れていないらしいが、香港に関する知識の乏しい読者でも抵抗なく読めるようよく工夫されている。
主人公クワンの大きな正義のために小さな悪には目をつぶるというハードボイルドさが痛快だ(平気でおとり捜査や不法侵入もしてしまう)。
これが日本警察を題材にしていたら「こんなめちゃくちゃな捜査する刑事いねえよ。完全に違法捜査じゃねえか」と思うけど、香港というなじみの薄い舞台のおかげで細かい点も気にならない。
そんなまさか、と思いつつも、いや香港ならひょっとしたらありうるかもしれないという気になる。なにしろジャッキー・チェンが『ポリス・ストーリー/香港国際警察』をやってた街だからね。その他の読書感想文はこちら
2018年6月10日日曜日
日本人は殺さなさすぎ
この国で生活してみていちばん驚いたのは、電車が時間通りに来ないことだ。
日本の電車は正確だって聞いていたから余計に驚いた。どこが正確なんだよ、しょっちゅう遅れるじゃないかって思った。
しばらくしてから知ったんだが、ジンシンジコっていうんだってな。要するに、人が電車に轢かれてるわけだ。
おいおい、日本ってのはずいぶん物騒な国だな。おれの国だってマフィアが裏切り者を殺した後に線路に置いて処分したりはしてたが、こんなに頻繁にはなかったぜ。
ところがどうやらそうじゃないらしい。ほとんどが自殺だっていうからもう一度びっくりだ。
おれの生まれ育った国じゃあ自殺は大罪だ。宗教とかそういうんじゃない。あたりまえのこととして誰もが持っている考えだ。殴られたらやりかえすとか、きょうだいでファックしちゃいけないとか、そういうレベルでの常識だ。誰も教えちゃいけないが誰でも知っている。
それでもたまに自殺をするやつはいる。家族は隠すが、あの家で自殺者が出たなんて知れわたったら、そりゃもうひどいもんだぜ。
家に石を投げられたり、火をつけられたり、とても同じ家には住めない。自殺みたいな悪いことをしたやつの家族だからな、ひどい目に遭うのもしょうがないけど、それにしたってかわいそうなもんだぜ。
おれの国じゃあ殺人より自殺のほうが悪だ。
だって殺人はしょうがない場合もあるだろ。このままじゃ自分が死んじまうとか、家族が危ない目に遭うとか。日本でも正当防衛ってのがあるんだろ。
殺人は「まあそんな状況に置かれたらしょうがねえよな。殺したくなる気持ちもわかるぜ」ってこともあるけどよ、自殺はねえだろ。「生きてたほうがいいに決まってる」としか思えねえよ。
だから日本人が働きすぎて自殺するなんて話を聞いたとき、こういっちゃなんだが、日本人ってのは頭いいようでばかなんだなって思ったぜ。
おれの国には働きすぎて自殺するようなやつはひとりもいない。死ぬほど働かされるぐらいなら、雇い主をぶっ殺す。そしたら問題は解決だ。そっちのほうが罪も軽いし、自分も死ななくて済むしな。
じっさい、そういう殺しもときどきあるぜ。金儲けに目がくらんだ資本家が、労働者にぶっ殺されることが。外国の会社の社長がほとんどだ。もちろん罪には問われるが、世間は労働者の味方よ。殺すほど働かせた資本家のほうが悪いに決まってる。
そうそう、日本人は「死ぬほど」っていうだろ。あれも違うな。おれたちの国じゃあ「殺すほど」っていうんだ。
だから日本人がいう「ブラック企業」なんてのも、おれの国にはほとんどない。
だって働かせすぎたら殺されるんだからな。いやでも労働環境は改善するってわけさ。どの社長も夕方になったら「おい、早く帰れよ」って言ってまわる。優しいんじゃない、殺されないためだ。
でかい会社の社長は殺されないためにボディーガードを雇うこともあるが、ボディーガードだって労働者だからな。へたすりゃそいつに殺されることもある。結局、恨みを買わないようにするのがいちばんってことだ。
おれに言わせりゃ、日本人は殺さなさすぎだ。
やみくもに殺せとは言わねえよ、でも自殺するぐらいなら殺せばいい。へたに恨みを買ったら殺されるかもしれないと思うようになれば、きっとパワハラもセクハラもいじめも劇的に減るぜ。
書店員の努力は無駄
書店員の努力、について。
あえて乱暴な言い方をするなら、その努力はほとんど無駄だ。
ぼくが書店員を辞めて六年になる。
働いているときから感じていたこともあるし、辞めてから気づいたこともある。働いている当時に経営者から言われて意味が分からなかったが今になってわかることもある。
ぼくが書店員としてやっていた努力は、ほとんど売上に貢献していなかった。
たとえば、よく「本を紹介するポップを書きましょう」と云われた。文庫の帯なんかについている紹介コメントだ。
ぼくもポップを一生懸命書いた。
たくさん書いて、どんなポップを書けばどんな売上になるか、調べてみた。
たくさん書いて、その結果を追って、わかったのは「意味がない」ということだった。
多くの経験を積んで、ある程度は「売れるポップの書き方」を理解した。
ポップを書けばその本の売れ行きはよくなった(もちろんある程度売れそうな本を選ぶ必要はあるが)。
そして気づいた。全体の売上は増えない、と。
たしかに本を売るために効果的なポップの書き方は存在する。
だが「その本を売る」ために効果的だが、その本が売れれば隣の本の売上は減る。結果として、店全体の売上には何も貢献しない。
そもそもポップに頼って本を買う人はたいした本好きではない。そういう人が本屋に来るときは「なんか一冊買おう」と決めてきている。目を惹くポップがあればその本を買うし、そうでなければべつの本を買う。
「気になる本がなければ一冊も買わないし、おもしろそうな本があれば十冊でも買う」ような本好きはポップなんかに頼って本を買わない。
ヴィレッジヴァンガードがあらゆる商品におもしろおかしいポップをつけて成功したが、あれは特定の本を宣伝するためではなく店全体のブランディングに役立っていたからうまくいったわけで、やるならあそこまでやらなくては意味がない(当然ながらヴィレヴァンの後に同じことをしても無駄だけど)。
ポップは一例で、書店員がしている努力というのは「売上を増やす努力」ではなく「好きな本を売る努力」がほとんどだ。
ポップを書くのも、おすすめ本フェアをするのも、村上春樹の新刊をタワー状に積みあげるのも、本屋大賞を選ぶのも、(0,1) を (1,0) にする努力だ。あっちの売上を削ってこっちの売上を増やしているだけ。総量は変わっていない。
出版社はそれでもいい。「他社の本の売上を削ってその分自社の売上が上がればいい」は正解だ。
だが書店がすべき努力は、ふだん本を買わない人に買ってもらう(0を1にする)か、使ってもらう額を増やす(1を2や3にする)かだ。
たとえば書店に足を運ばない人に買ってもらえるようべつの業種の店にも本を置かせてもらうとか、本を買った人にべつの本も勧めるとか。
それが有効かどうかはわかんないけど、少なくともAmazonはそれをやった。
それが有効かどうかはわかんないけど、少なくともAmazonはそれをやった。
しかしそういう施策は書店においてはまったくといっていいほどおこなわれない。
ぼくが働いているときは他の書店に出向したり業界関係者と話したりしていたが、こういう話はほとんどされなかった。
みんな (0,1) を (1,0) にするために奮闘していた。
書店の売上が伸びるためにいちばんいいのは「世の中の人が本をたくさん読むようになること」だ。でもそんなことは現実的に不可能だ。
だったら、「客の読む時間は一定である」という前提に立った上で、「より単価の高い本を買ってもらう」とか「より早く読める本を買ってもらう」とかの方向性を考えなければならない。
売上や利益のことを考えるなら、めちゃくちゃおもしろい五百円の小説よりも、千円の低俗なエロ本が売れたほうがいい。
でもほとんどの書店員は前者を売ろうとする。
早く読める漫画、内容の薄いビジネス書、手軽に読めて定期的に買ってくれる雑誌。利益に貢献するのはそういう商品だ。
[費用/時間]という点で見たとき、売上パフォーマンスがもっとも悪いのが文芸書だ。
たった五百円で何時間も楽しめる。いい本だと何度も読み返したくなる。読者にとってはすばらしい読書体験だが、書店にとっては「安い金で読書時間を奪う」悪い商品だ。
けれど書店員はおもしろい小説ばかり売ろうとしている。ぼくもそうだった。本が好きだから。
たった五百円で何時間も楽しめる。いい本だと何度も読み返したくなる。読者にとってはすばらしい読書体験だが、書店にとっては「安い金で読書時間を奪う」悪い商品だ。
けれど書店員はおもしろい小説ばかり売ろうとしている。ぼくもそうだった。本が好きだから。
文芸書をなくせとは思わない。利益率の低い商品で客を釣るのはよくある手法だ。だが売上を稼ぐのは文芸書ではない。
やはり本好きに書店員は向いていない。
日本の出版業界には再販制度というものがあり、一部の商品を除き、売れ残った本はそのままの金額で返品できる。
この制度が経営感覚を狂わせるのかもしれない。
仕入れた金額で返品できるとはいえ、本を入荷して開梱して棚に並べ、長期間売場をつぶして、しばらくしてまた箱に詰めて取次に送りかえすのは無駄なコストだ。
輸送費も人件費もかかるし、その本を置かなければ他の本が売れたかもしれないという機会損失も生んでいる。キャッシュフローも悪化させる。
であれば返品は極力減らさなくてはならないのだが、大半の書店員はそんなことを考えていない。「売れ残ったら返品できるんだから売り切れにならないように多めに仕入れよう」と思っている。
そもそも、毎日毎日書店には取次から新刊が勝手に配送されてくる。頼んでもいない本が続々と入ってくる。「どうせ返品できるんだからいいでしょ」という具合に。
ぼくが働いていたときは、この件でよく本部や取次と喧嘩をしていた。
「このジャンルではこの出版社の本は一切いりません」と再三伝えていた。しかし要望は聞き入れられず、相も変わらず頼んでもいない本がどんどん送りつけられてくる。そういう業界なのだ。
ぼくは一度も売場に並べることもなく即座に返品にまわしていた。なんと無駄なコストだろう。
他の業界だったら考えられない話だ。勝手に商品を送りつけておいて「金払ってくださいよ」だなんて、そんなことするのは詐欺師とNHKだけだ。
出版社はばかみたいに新刊書を作って送りつけてきた。
たとえば料理の本。毎年春になると、ひとり暮らしを始める人が増えるので料理の入門書が刊行される。
それ、新刊で出す必要ある?
十年前と今とで、初心者向け料理の方法がどれだけ変わった?
客は新刊かどうかで買っていない。実用書に関して、客が求めているのは新刊ではなく「多くの人が買っている実績のある定番書」だ。
PCやファッションみたいに日進月歩の分野はともかく、料理や洋裁だったら十年同じでもいい。どうせ買う人は毎年違うのだ。それなのに輪転機の停止ボタンが壊れたのかと思うぐらい新刊が出つづける。
出版社は競合他社に負けたくないから他社のヒット商品をパクった本を次々に出してくるが、誰もそんなものを求めていない。
取次はごまんとある内容の"新刊"を送ってきて、書店員はそれを店頭に並べて、ほぼ同じ内容の"既刊"を返品する。
何かをやった気にはなるが、売上に対しては何も貢献していない。
書店員の作業はこういう「プラスにもマイナスにもならないこと」であふれている。
書店の仕事はハードワークだが、原因の大半は入荷にある。
余計な本のせいで品出しや返品に追われている。
それでポップを書くとか本をタワー状に積むとか売上につながらないことをがんばっている。
雨漏りで家の中が水浸しになっているのに、屋根を直そうとせずに一生懸命床を拭きつづけるようなものだ。
ぼくが書店を辞めて六年。
詳しくは知らないが、まちがいなく当時よりも内情は悪くなっているだろう。
本が好きだから書店はずっとあってほしい。
だから、だからこそ、一度みんな潰れたらいいのに、と思う。
そして取次がなくなれば、書店も「無意味な新刊をどんどん出す」ことから脱却できるだろう(オンライン書店では既刊がよく売れる)。
そしてその後に再び書店が立ちあがってほしい。もっと時代にあったやり方で。もっと書店員の努力が正しく実るような形態で。
2018年6月8日金曜日
【読書感想】内田 樹 ほか『人口減少社会の未来学』
『人口減少社会の未来学』
内田 樹 池田 清彦 井上 智洋 小田嶋 隆
姜 尚中 隈 研吾 高橋 博之 平川 克美
平田 オリザ ブレイディ みかこ 藻谷 浩介
内田樹氏の呼びかけに応じて、幅広いジャンルの人たちが人口減少社会について論じた本。
人類の歴史、経済、建築、地方文化、イギリス、農業などさまざまな分野の専門家たちが各々の立場から語っている。
当然ながら「人口減少社会に向けてこうするのがいい!」なんて正解は出ないけれど(出たら大事件だ)、考えるヒントは与えてくれる。
大規模な移民の受け入れでもしないかぎりは今後も日本の人口が減るのはまちがいないわけで(これから一組のカップルが五、六人ずつ子どもを産んだら増えるらしいけど)その時代に生きるつもりでいるぼくも、いろんな知見に触れておきたい。
こういう本を読んだからって人口減少はストップできないけど(保健体育の教科書に書いてあったところによるとセックスってものをしないと子どもはできないらしい)、どう生きるかということにあらかじめ見当をつけておくのは大事だね。
ぼくも高橋博之氏の文章『都市と地方をかきまぜ、「関係人口」を創出する』を読んで、地方農業のために何かしようという気になり、とりあえず野菜を取り寄せてみた。まずはそこから。
目次は以下の通り。
立場も議論の方向性もばらばらで、だからこそ人口減少社会に対する知見が深まる。
小説だといろんな作家があるテーマについて書いた短編を集めたアンソロジーがよく出ているけど、ノンフィクションや評論だと少ない。科学や社会学の分野でもアンソロジー本がもっと出たらいいのにな。
ひとつのことについて考えようと思ったら、立場の異なる人の意見を読むのがいちばんいいからね。
内田樹氏の項より。
これはつくづくそう思う。新聞やテレビを観ていても、「悪い未来を語るな」という同調圧力のようなものを感じる。
楽観的であることと悪い状況から目をそらすことは違う。みんなもっと悪い未来を語ろう。
東日本大震災の少し後、漫画『美味しんぼ』で福島県内で原発事故の影響による健康被害が出ているという話が描かれた。たちまち「風評被害を煽るな!」と炎上していた。
だがぼくは「いいじゃないか」と思っていた。警鐘を鳴らすのは悪いことではない。根も葉もないデマはだめだが、「もしかすると危険かもしれない」という警告を発することは重要だ。
「だからよくわからないけど福島県に行くのはやめよう」となるのは良くないかもしれないが、「だからしっかりとした調査をしよう」という発想に達するのであれば、警鐘を鳴らすことは無意味ではない。たとえ結果的にその警告が誤りだったとしても。
レイチェル・カーソンが『沈黙の春』で環境破壊に対して警鐘を鳴らしたときも多くの批判があったという。「確かな根拠もないのに産業活動を邪魔するな」と。だが彼女が『沈黙の春』を書いていなければ、地球の状況は今よりずっと悪かっただろう。
ビジネスなら「わかんないけど大丈夫」で突っ走ってもいいが、健康や教育など取返しのつかないことに関しては「わかんないから様子見しよう」でいたほうがいい。
オリンピックが失敗した場合はどうやって挽回しようとか、再びリーマンショック級の不況が襲ったときはどうなるとか、そんな「アンハッピーな未来」についてももっと語ろう。
そうじゃないと年金制度のように「誰もがもうだめだとわかっているのに誰も手をつけない」状態になる。
年金制度は三分の一まで浸水した船だ。しかも大きな穴が開いている。ここから船が持ちなおすことはない。冷静に考えれば、問題はいつ脱出するか、脱出した後にどの船に移るかだけなのだが、誰もその話をしない。
きっと誰も責任をとらないまま、ゆっくりと沈没してゆくのだろう。年金制度は日本の未来の縮図かもしれない。
井上智洋氏の章。
この本を読んでいるうちに気づいたんだけど、じつは人口現象自体が問題なのではなく、日本がいまだに「人口が増加することに依存したシステムに依拠している」ことのほうが問題なんじゃないだろうか。
どう考えたってAIは今後伸びる分野なのに、いまだに国を挙げて自動車とか銀行とか時代遅れになった業界を必死に保護している。イギリスやフランスは「2040年までにガソリン車の走行を禁止する」という指示を出しているのに、日本は今ある技術を守ろうとしている。どちらが将来の繁栄につながるか明らかなのに。
衰退してゆく産業を守っているうちに、日本全体が「かつて炭鉱で栄えた町」になってゆくんじゃないだろうか。
小田嶋隆氏の章でも書かれているが、「日本の人口が減る! たいへんだ!」と騒いでいるけど、よくよく考えたらぼくらの日常生活においては人口減少のメリットのほうが多そうだ。
通勤は楽になるし、働き手が不足すれば労働者の権利は強くなるし、土地も家も安くなる。
百年前と同じ人口に戻って、でも科学は発達しているので昔より少ない労働で大きなアウトプットが生まれる。多くの財を少ない人で分け与えることになるんだから、むしろハッピーなことのほうが多いんじゃない?
じゃあ誰が「人口が減る! 困る!」と思っているかというと、たくさん雇って使い捨てにするビジネスをやっている経営者が困る。石炭から石油にシフトしたときに炭鉱の所有者が困ったように。
時代の変化にあわせて切り替えられなかった人たちが困っていても「あらあらお気の毒やなぁ。考えが古いとたいへんどすなぁ」としか言いようがない。
福岡 伸一『生物と無生物のあいだ』に「動的平衡」というキーワードが出てくる。
生物はずっと同じ細胞を保有しているわけではなく、発生、回復、代償、廃棄などの行為を頻繁におこなうことで平衡状態を保っている、ということを指す言葉だ。
人間ももちろん動的平衡状態にあるし、「日本人」という大きなくくりで見たときにもやはり動的平衡は保たれている。生まれたり、死んだり、出ていったリ、入ってきたりして、全体として見るとそれなりの調和が保たれている。
そう考えると、人口が減るのは決して異常なことではなく、むしろ増えつづけていた今までのほうが異常だったのだと思う。一個体でいうなれば体重が増えつづけていたようなものだ。
人口減少はむしろ正常な揺さぶりのひとつなのだ。体重が増えた後に走ってダイエットをするようなもので、当然その最中には苦しみをともなうけど決して悪いことではない。
今までのやりかたが通用しなくなったら(もうなっているが)政治家や経営者は困るだろうが、そんなことはぼくらが気にすることじゃない。それを考えるために政治家や経営者は高い給与もらってるんだから。
「たいへん! 少子化をなんとかしなきゃ!」という声に踊らされることはない。産みたきゃ産めばいいし、産みたくないなら産まなくていい。
案外、ぼくらは「人口が減ったら夏も涼しそうでよろしおすなあ」とのんびりお茶をすすっていればいいのかもしれない。
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