2025年8月28日木曜日

モアイゆるキャラ説

 プラスチックはなかなか自然には分解されないそうだ。数百年たてば紫外線によって分解されるらしいが、土の中など紫外線があたりにくい場所であれば何千年も残ってもおかしくない。

 千年後の考古学者が千年前(つまり現代)の人々の暮らしぶりを想像するときに、プラスチックは大きな手掛かりになるはずだ。自然界にはないものだから、プラスチックが多く出土する場所は確実に人々が暮らしていたはず。貝殻が残りやすいので貝塚が昔の集落を知る手掛かりになるのと同じように。


 プラスチックについた色や絵も残るのだろうか。

 残ってほしいな。そしたらそれも、人々の暮らしを未来に伝えるための重要な情報源になる。

 プラスチックって子ども向けの製品が多いから、特に子ども向け文化が未来に伝わりやすい。

 未来の考古学者は、出土したプラスチック製品に描かれたミッキーマウスやハローキティやリラックマを見てどんなことをおもうんだろう。

「これは当時の人々が信じていた神様の姿ですね。当時はアニミズム信仰がさかんで、ネズミやネコやクマの姿に神聖なものを感じていたのでしょう。これらの食器は神にさ捧げる供物を載せるのに使われていたのでしょう」なんてことを言うかもしれない。

 そんなことを想像すると楽しい。


 はっ、待てよ。

 ってことは、今我々が数千年前の出土品や壁画を見て「これは神々への祈りのためにつくられたものです」なんて言ってるのもまるで見当違いで、あれは当時の人気キャラだったんじゃないだろうか。

 モアイなんて、今のくまモンみたいなものでイースター島のご当地ゆるキャラだったのかもね。



2025年8月25日月曜日

ダンスの著作権

 ふとおもったんだけど、ダンスに著作権ってあるんだろうか。聞いたことがない。

 たとえば、他人の曲を歌って金儲けをしようとおもったら、ちゃんと楽曲使用料を得ないといけないじゃない。同様に、他人の描いた絵や、他人の書いた文章や、他人の撮った写真を商用目的で勝手に使うことはできない。


 でも、ダンスってみんな勝手に使ってない? よくヒット曲のダンスが流行って、SNSとかYouTubeとかでみんな真似するじゃない。中にはそれで収益を得ている人もいる。あの人たち、ダンスの振付師に金を払っているんだろうか。そんな話、聞いたことがない。

 まあ厳密には著作権が発生するのかもしれないが(答えを出しちゃうとつまんないので調べない)、現実的には厳密に運用されていない。


 個人的な考えを言えば、ダンスにはあんまり著作権うんぬん言ってほしくない。

 ダンスって身体表現じゃない。それを著作権で保護しちゃうと、体操とか発声方法とか筋トレとか歩き方とか、あらゆるものが著作権保護の対象になっていく可能性があるわけで、「おまえの呼吸方法はおれが考案した呼吸の権利を侵害しているから今すぐその呼吸方法をやめろ」なんて言われる未来がくるかもしれない。





2025年8月22日金曜日

【読書感想文】熊代 亨『人間はどこまで家畜か』 / 家畜化というより年寄り化じゃなかろうか

人間はどこまで家畜か

熊代 亨

内容(e-honより)
自己家畜化とは、イヌやネコのように、人間が生み出した環境のなかで先祖より穏やかに・群れやすく進化していく現象だ。進化生物学の近年の成果によれば人間自身にも自己家畜化が起き、今日の繁栄の生物学的な基盤となっている。だが清潔な都市環境、アンガーマネジメント、健康や生産性の徹底した管理など「家畜人たれ」という文化的な圧力がいよいよ強まる現代社会に、誰もが適応できるわけではない。ひずみは精神疾患の増大として現れており、やがて―。精神科医が見抜いた、新しい人間疎外。

 精神科医による、“ヒトの自己家畜化”傾向と、それによって生まれる病理についての本。

 自己家畜化とは、たとえばイヌやネコがペットとして飼われるうちに人に好かれる特徴をより強く発露させるようになること。小さく、かわいく、噛まず、人の言うことに従う。野生で生きるには不利な特徴だが、ペットとしてはそういう特徴を持っている個体のほうが有利なので、世代を重ねるごとに増えていくらしい。

 そして、ペットだけでなく、ヒト自身が自己家畜化しているのではないか。より理性的、合理的で、安定した感情を持ち、衝動的・暴力的な行動をとることが減っているのではないか。

 これが“ヒトの自己家畜化”だ。この著者の熊代亨氏が言いだした概念ではなく、もっと前から提唱されている考え方だ。


『人間はどこまで家畜か』の前半では、数々の文献などをもとに「ヒトが自己家畜化している」根拠をあげていく。

 正直、このパートはちょっと強引だ。「ヒトは自己家畜化している」という結論ははじめから決まっていて、そのために都合の良い証拠を方々から集めてきているだけ、という感じがする。

 そもそも「自己家畜化」というワードの定義自体があいまいで、どうなったら自己家畜化なのか、どこまでは自己家畜化じゃないのか、という基準がない以上、著者の言ったもん勝ちじゃないのという気がする。


 論としては少々乱暴であるとはいえ、「ヒトが自己家畜化している」、もっとあけすけにいえば「飼いやすい存在になっている」こと自体はぼくの感覚とも一致している。

 もし、自分が絶大な力を持つ宇宙人で地球人たちを支配するとしたら、千年前の地球人よりも現代の地球人のほうが支配しやすそうだもん。

 ここ数十年に限っても、古い本や映像を見ると(それが生活の一部しか描いていないことはさしひいても)昔の人って現代人よりもずっと暴れている。他人にからんだり、暴力をふるったり、徒党を組んでものを壊したり、そういうことをするハードルが今よりずっと低い。人々がルールを守って暮らしている社会のほうが暮らしやすい可能性は高い。もちろんそれはルールが適切であることが条件なので、ルールに従順であることが必ずしもいいとは言えないけれど。

 我々がテレビで昭和の映像を見て「昭和ってなんて野蛮な時代だったんだ」とおもうように、五十年後の人々もまた「令和ってなんて野蛮な時代だったんだ」とおもうことだろう。またそうあってほしい。それはすなわち社会から暴力、暴言、怒りの発露が消えてゆくことだから。




 ただ人々の「自己家畜化」により多くの人にとっては生きやすい社会になったとしても、それがすべての人の救済になるかというと、それはまた別の話である。

 ただし、進化にはさまざまな制約もあります。人間の身体は哺乳類共通のメカニズムから成り立っていて、そのひとつが衝動や感情です。読者の皆さんも身に覚えがあるでしょうけど、これらは私たちを穏やかならざる行動へと導いたり、理性では制御しづらい気持ちを生み出したりします。どんなに進化しても人間が哺乳類をやめられるとは思えませんから、これからも人間には衝動や感情がついてまわるでしょう。そのうえ人間は世代交代に長い時間がかかるため、進化のプロセスも非常にゆっくりとしか進みません。ラジオの時代からテレビの時代へ、そしてスマホの時代へと早足で変わっていく文化や環境の変化に比べれば、過去に起こった自己家畜化のスピードも、現在進行形で起こっているだろう自己家畜化のスピードも、スローベースと言わざるを得ません。
 だから自己家畜化というトピックを眺める時、私はこう思わずにいられないのです。文化や環境が変わっていくスピードが速くなりすぎると、人間自身の進化のスピードがそれに追いつけなくなるのではないか? 実際、現代社会はそのようになってしまっていて、動物としての私たちは今、かつてない危機に直面しているのではないか? と。
 たとえば令和の日本社会は暴力や犯罪が少なく、物質的にも豊かで、安全・安心な暮らしが実現しています。過去のどんな時代より法や理性に照らされたこの社会は、一面としてはユートピア的です。ところがその裏ではたくさんの人が心を病み、社会不適応を起こし、精神疾患の治療や福祉による支援を必要としているのです。
 精神医療の現場にいらっしゃる患者さん(以下、患者と略します)の症状から逆算するに、現代人はいつも理性的で合理的でなければならず、感情が安定しているよう期待されているようです。都会の人混みでも落ち着いていられ、初対面の相手にも自己主張でき、読み書き能力や数字的能力も必須にみえます。ですが、それら全部を誰もが持ち合わせているわけではなく、このユートピアでつつがなく生きるのもそれはそれで大変です。

 かっとなって大声を出したり、手を出したりするのは良くない。冷静になるべきだ。できることなら感情的にならないほうがいい。多くの人が賛成するだろう。

 だが、ついつい大声を出したり手を出したりしてしまう人がいるのもまた事実。直したほうがいいけど、かんたんに直せるものではない。そういう人の居場所はどんどん減っている。昔はもっと“荒くれ者たちが働く職場”があったはず。

「理性的な行動ができない人」が減るのはいいことかもしれないけど、「理性的な行動ができない人の居場所」まで減るのはいいことなのだろうか。


 家畜化というより、規格化といったほうがいいかもしれない。昔は大きさも形もばらばらだったキュウリが、今では大きさも形もそろったものばかりスーパーに並ぶようになったもの。それはつまり“スーパーの棚に並ぶことのできないキュウリ”が増えたことを意味する。




 著者は精神科医の立場から「自己家畜化」の流れについていけない人たちの処遇を心配するが、中でも子どもたちの社会への適応について警鐘を鳴らす。

 確かに文化や環境は人間の行動を変え、世代から世代へ受け継がれ内面化されながら洗練の度合いを高めてきました。しかし変わっていったのは大人たちの行動、それと子どもたちに内面化されていくルールまでです。新しく生まれてくる子どもは必ず、生物学的な自己家畜化以上のものは身に付けていない野生のホモ・サピエンスとして、〝文化的な自己家畜化〟という観点ではいわば空白の石板として生まれてきます。
 赤ちゃんは本能のままに夜泣きや人見知りをし、母親の抱っこを求めます。危険や外敵の多かった時代には、そのような行動形質こそが生存しやすく、夜泣きも人見知りもせず抱っこも求めない赤ちゃんは自然選択の波間に消えていったでしょう。
 ところが赤ちゃんの行動形質は現代社会ではまるきり時代遅れです。第二章でも参照した進化生物学者のハーディーは、著書『マザー・ネイチャー』のなかで、働く母親にとって都合の良い架空の赤ちゃん像を描いてみせましたが、それは朝夕に簡単な世話さえすれば良く、昼間は放っておいても構わない、そのような赤ちゃん像でした。
 今日の文化や環境に最適で、社会契約や資本主義や個人主義にも都合の良い赤ちゃんとは、きっとそのようなものでしょう。しかし実際の赤ちゃんは文化や環境の手垢がついていない状態で生まれてきますから、そんな行動形質は望むべくもありません。
 幼児期から児童期の子どもも、まだまだ真・家畜人には遠いといえます。教育制度ができあがる前の子どもたちは、大人たちの手伝いや集団的な遊びをとおしてルールも技能も身に付けていきました。第一章でも触れたように、人間の子どもは文化や環境をとおしてルールを内面化したり、年長者を模倣したりする点ではとても優れています。しかし、教室に静かに座って学ぶのは教育制度以降の新しい課題ですし、拳骨を封じること、感情や衝動を自己抑制することも近現代以前にはあまりなかった課題です。
 現代社会は座学のできない子どもを発達障害とみなし、感情や衝動を自己抑制できない子どもを特別支援教育の対象とするでしょう。ですがそれは、社会契約の論理が子どもの世界にまで闖入した管理教育以降の文化や環境に適応できていないからであって、ホモ・サピエンスのレガシーな課題に適応できていないからではありません。

 社会がより洗練された人々を求めるようになった結果、社会に適応できない子どもが増えた。なぜなら子どもは動物として生まれてくるから。

 だから発達障害とみなされる子どもが増えたのではないか、と疑問を投げかける。




 ここまで読んで「『自己家畜化』というより『年寄り化』じゃないのか」とおもった。

 社会はどんどん年寄り化している。

 暴力的でない、感情を抑制して冷静、理性的。これって一般に年寄りの特徴じゃないか。脳が壊れてすぐキレちゃう老人もいるけど。

 少子化、超高齢化で社会の平均年齢がどんどん上がっていることと関係あるのかわからないが、社会はどんどん年寄り化している。だから子どもほど社会に適用できない。

 昔は十数年で「社会が求める大人」になれたが、社会が年寄り化して求められる精神年齢が上がった。二十代なんてまだまだ子ども。だから大人のルールについていこうとするとそのギャップに苦しむことになる。


 ぼく自身のことを考えても、歳をとって生きやすくなった。自己顕示欲や性欲や社会の矛盾に対する怒りが薄れて、年寄り化した社会の求める“大人”の姿に近づいていったから。

 今の日本において、人口のボリュームゾーンは50代だ。40~70代ぐらいの人が「平均的」とされる。10代、20代が社会に適応しづらいのもあたりまえかもしれない。

 すまんなあ、若者たちよ。


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2025年8月20日水曜日

私はいつも他人の幸福を考えて生きている

 善行自慢をさせてほしい。

 ここ十年の間に私は落とし物を拾って交番または警察署に届けたことが四度ある。交通系ICカード、スマートフォン×2、財布だ。スマートフォンを落とした人はすごく困っただろうし、財布にいたってはちらっと中をのぞいたら数万円と各種カードが入っていた。

 相当な善行だ。もし私が地獄に落ちてもお釈迦様は縄ばしごを垂らしてくれるにちがいない。ヘリコプターで逃走する怪盗のようにハハハハハと高笑いしながら極楽に上がってゆける。


 スマートフォンを拾ったときに何か手掛かりがないかと起動してみたら、ハングル文字が表示された。たぶん韓国人のものだったのだろう。もしかしたら落とし主がこれを機に親日家になり、さらにその人が将来韓国の大統領になるかもしれない。そうすると私の善行が日韓関係の改善に大きく貢献することになる。すばらしいことだ。


 こうして拾得物による善行を重ねる一方、私は落とし物をして警察のお世話になったことがない。落とし物をしたことがないわけではないが、せいぜいマフラーとか折り畳み傘とか、「ちょっと惜しいけど買い替え時だとおもえばあきらめもつく」ぐらいのものばかりだ。

 折り畳み傘の場合は「もしかしたら私が落とした傘を誰かが拾って使っているかもしれない。そうすると私は傘を損したが人類全体で見ると幸福の総量は変わっていない」とおもえばちっとも悔しくない。私はいつも人類全体の幸福を考えて生きているのだ。あの日私が失ったマフラーだってホームレスのおじさんの首元を温めているかもしれない。

 落とし物でいちばん悔しかったのは買ったばかりの食パンを落としたことだ。会計後に買い物袋に入れたことははっきりおぼえているのに、家に帰ったら袋になかったので道中で落としたのだろう。パン屋さんで買った、ちょっといい食パンだった。三百五十円ぐらいのものだが、値段以上に悔しかった。なぜなら食パンの場合は、拾った人もたぶん食べてくれないからだ。きっとそのまま廃棄されているにちがいない。私も悔しいが、丹精込めてパンを焼いてくれたパン屋さんもさぞ悔しかろう。私はいつも他人の幸福を考えて生きている。


 私は一度も落とし物をして警察のお世話になったことがないので、“落とし物貯金”はずいぶん貯まっているはずだ。逆に「落とし物をしたが親切な人が届けてくれたおかげで無事に返ってきたけど、自分は一度も落とし物を警察に届けたことがない人」もいるはずだ。そういう人は、私がうんこを漏らしそうになっているときにはトイレの順番を譲るぐらいのことをしてもらいたい。なぜなら私がうんこを漏らしたらそのにおいによってあなたたちも不幸になるからだ。私はいつも他人の幸福を願って生きている。



2025年8月19日火曜日

【読書感想文】松岡 享子『子どもと本』 / 物語の種明かしをするなよ

子どもと本

松岡 享子

内容(e-honより)
財団法人東京子ども図書館を設立、以後理事長として活躍する一方で、児童文学の翻訳、創作、研究をつづける第一人者が、本のたのしみを分かち合うための神髄を惜しみなく披露します。長年の実践に力強く裏付けられた心構えの数々から、子どもと本への限りない信頼と愛が満ちあふれ、読者をあたたかく励ましてくれます。


 今から60年ほど前のアメリカの児童図書館で勤務し、日本に帰国後も児童向け図書館の設立などに携わった著者によるエッセイ。

 前半は「あたくしはこんな苦労をしてきたのよ」ってな感じの話が長々と続くので、あーおばあちゃんの自分語り本かーこれはハズレだなーとおもっていたのだが、中盤の児童文学論はおもしろく読めた。



 口承の物語について。

 ストーリーテリングの研究者で、恵まれた語学の才能を生かして、世界各地の語りの実状を調べたアン・ペロウスキーさんから聞いた話ですが、語りの伝統が生きているアフリカでは、たいていの子どもたちが、ひとつやふたつ物語を語ることができるものだそうです。ところが、地域に学校ができて、子どもたちが字を習うようになると、語れなくなってしまう、というのです。どうやら、わたしたちは、文字を獲得するのと引き換えに、それまでもっていた能力を失うのではないかと考えざるをえません。失うというよりは、その能力を十全に発達させる機会を失うということでしょうか。その「失う」能力は、実は、読書のためには欠かすことのできない力ことばをこころに刻む力、ことばに対する信頼、想像力を目いっぱい伸ばしてことばの奥に世界を創り出す力なのです。
 学校へ行くまでに、人より半年、一年ほど字をおぼえるのが早かったり、遅かったりすることが、十年後にどれほどの差を生むでしょうか。子どもが興味をもって習いたがったり、ひとりでにおぼえてしまったりするのはよいとして、耳からのことばをまず蓄えるべき幼児期に、無理に字を教え込もうとすることは、けっして賢明なことではないと思います。

「語りの伝統が生きているアフリカでは」ってめちゃくちゃ雑なくくりかただなー。さすが戦前生まれ(これも雑なくくり)。

 それはさておき。

「文字を獲得するのと引き換えに、それまでもっていた能力を失う」というのは興味深い考察だ。というのも、最近似た話を読んだからだ。

 鈴木 宏昭『認知バイアス』によれば、多くの幼児には写真のように見たものをそのまま記憶する能力があるのに、成長して言語を習得すると同時にその能力は失われてゆくのだそうだ。

 幼児は未熟で大人になるにつれ様々な技能を身につけていく、つまり成長とは一方的な能力アップだと思いがちだが、案外そうでもないのかもしれない。多くのステータスはアップするが、中には能力ダウンするステータスもあるのではないだろうか。


 うちの下の子は小学一年生だが、今でも寝る前には本の読み聞かせをしている。すると一度聞いただけの言い回しを正確におぼえていたりして、驚かされることがある。

 ぼくはまとまった文章を読んで内容を理解するのは得意な方だと自負しているが、その反面、他人の話を聞いて理解するのはめっぽう苦手だ。仕事でセミナーを聞いたことがあるがまったくといっていいほど頭に入ってこない。学生時代も、授業を聴くのをやめて教科書を読んで独学するようにしてからぐんぐん成績が上がった。

 そんな、「耳よりも目から情報を入れるほうが圧倒的に得意」なぼくからすると信じられないぐらい、娘は耳から聞いた情報をしっかりおぼえている。学校で先生から言われたこともちゃんと伝えてくれる。ぼくなんかまったく聞いていなかったのに。

 娘は一年生なのでもう一人で(ふりがながあれば)本を読めるが、それでもまだ耳から聞くほうが得意なのだろう。なのでぼくのところに「本読んでー」と持ってくる。

 そのうち目で読むほうが得意になって、父親のもとに「本読んで―」と言ってくることもなくなるのだろう(上の子はもうない)。さびしいことだ。




 昔話の特性について。

 また、リュティは、昔話の主人公には個性がないといいます。それは彼らに名前がないことからもわかるでしょう。昔話に登場する人物は、ただ「男とおかみさん」、「王さまとお妃さま」であって、名前がある場合でも「太郎、次郎、三郎」「ジャック」「イワン」など、性別や、兄弟の順を示すだけのもので、それらの人物の年齢、顔かたち、背格好、さらには、性格や、好みなどがくわしく描写されることはありません。せいぜい「世界一美しいお姫さま」「見あげるような大男」といった程度です。これらの人物は、ひとりの人間であるより、ひとつのタイプを示していると考えられます。
 タイプである人物には、「いいおじいさんと、わるいおじいさん」「やさしいおかあさんと、意地悪なまま母」「働き者の姉に、怠け者の妹」というふうに性格も極端に色づけされています。現実社会では、善良と見える人が、別の場面ではずるく立ち回ったり、相手によっては悪意をもって行動したりと、ひとりの人間のなかに違う性質が重層的に存在しているわけですが、昔話では、複雑なものを単純化し、ひとつの性質をひとりの人物にあてはめ、それをひとつの平面にならべて、違いを際立たせて見せています。リュティは、これを「平面性」と呼んでいます。単純になったことで、人の性質がつかみやすくなり、個性の縛りのないことで、聞き手(読者)の主人公との一体化が容易になります。これも、昔話が子どもに受け入れられやすい理由のひとつです。

 なるほどね。たしかに昔話の悪人って「四六時中悪いことを考えている徹底した悪」として描かれるよね。

 でも現実の悪はそんなんじゃない。たとえば賄賂を贈って東京オリンピックを誘致したやつらはすっごい悪だけど、一部の業界には利益をもたらしてくれる“いい人”なわけだし、家に帰れば善良な父や母や友人であったりするのだろう。

 大人になると、「いいやつに見えて悪いことをしてるやつ」が成敗される物語のほうがおもしろいけど、子どもにとってはもっと単純なほうが理解しやすくておもしろいのだろう。そういえばうちの子も小さいとき、映画などを観ていると「これいい人? 悪い人?」と聞いてきたものだ。すべての人はどちらかに分類できるとおもっているのだ。


 最近のディズニー映画やドラえもん映画などを観ていると、“完全なる悪”が減ってきているのを感じる。少子化の影響や大人もアニメを観るようになった影響だろう、ディズニーやドラえもんの映画でも「一見いい人の顔をして近づいてくるけど実は悪だくみをしている敵キャラ」や「こっちサイドにとっては悪だけど向こうには向こうの事情があって形は違う理想を描いている敵キャラ」が出てくる。敵に深みがあると物語に奥行きが出て大人にとってはおもしろいんだけど、はたして子どもにとってもおもしろいんだろうか。

 たとえば白雪姫の妃やフック船長のような、「己の欲望にしか興味のない、誰がどう見ても悪いやつ」のほうが、子ども向けコンテンツの敵役にはふさわしいんじゃないだろうか。

 近年はアニメ映画なんかがヒットしているけど、ほんとに子ども向けのコンテンツはかなり少なくなっている気がする。




 昔話、おとぎ話における“先取り”について。

 ビューラーは、予言、約束と誓い、警告と禁止、課題と命令、の四つを効果的な先取りの様式としてあげています。なるほど、「いばらひめ」は、予言が軸になって物語が展開しますし、「おおかみと七ひきの子やぎ」は、警告と禁止がきっかけで物語が動きはじめます。そのほかの項目についても、少しでも昔話に親しんでいる人なら、すぐにいくつかの例を思いつくでしょう。もし、首尾よくこれをなしとげたら、三つのほうびを約束しておこう。この三つのなぞを解いたら、娘を嫁にやろう。ほかはよいが、この扉だけは開けてはならぬ。これをなしとげるまで、けっして口をきいてはならない。ひとことでもしゃべれば、命はないぞ……。
 これらは、昔話のなかで、わたしたちが何度も耳にすることばです。そして、これらのことばが発せられるたびに、わたしたちの心には、期待、不安、怖れなどの感情が生まれ、緊張感をもって話の先へ注意を向けることになるのです。
 
 (中略)
 
 一般的にいって、子どもたちの注意の集中力は長くありません。先を見通す力も十分ではありません。そんな子どもたちに、話の先を知らせ、注意をそらすことなく、いつも話の中心に関心をひきつけておく、それが先取りの方法だと思います。先取りの示すヒントに従っていけば、注意力の散漫な子どもでも、話についていけます。
 歩きはじめた子どもは、いきなり長い距離を歩きとおすことはできません。でも、母親が、ちょっと先に立って、手招きしてやれば、そこまではたどりつくことができます。そして、母親がそのたびに、少しずつうしろへ下がって同じように誘えば、そこまで、またつぎのところまで……と歩き、結果として、かなりの距離を歩くことになるでしょう。先取りは、この母親役なのです。幼い子でも、昔話であれば集中して聞けるのは、この先取りがうまく作用しているからではないでしょうか。

 たしかにね。昔話って、この「予言」あるいは「警告」が頻繁に出てくる。「○○するだろう」と言えばその通りになるし、「決して××してはいけない」と言えば必ず××することになる。

 あれは物語におけるガイド役なんだね。歩くときに子どもの手を取って「そこに段差があるからこけないように気を付けて」「車が来るからちょっと待ってね」と先導してやるように、上手に歩けるように助ける役割を果たしているわけだ。

 毎日絵本の読み聞かせをしているけど、気づかなかったなあ。




 著者のエッセイ部分で、大きくうなずいたところ。

 国語力をつけるという面では、多くを負っている先生なのですが、たったひとつ、恨めしく思うことがあります。それは、副読本でその一部を読んだメーテルリンクの「青い鳥」についての説明のなかで、作品がいわんとしているのは、幸福は結局家庭にあるということだと種明かしをしてしまわれたことです。
 それまで、どんな物語も、ただただ「おもしろいお話」として読んできたわたしに、これは手痛い一撃でした。ふぅーん、そうなのか! 幻滅といっていいのか、裏切られたといっていいのか、「青い鳥」が一瞬にして色あせた気がしました。F先生は、わたしがよもやそこまで幼いとは思っていらっしゃらなかったのでしょうが、大げさな言い方をすれば、これはわたしの読書生活史のうえで、無邪気で幸せな子ども時代の終焉を告げる忘れがたい出来事でした!

 そうそう、物語って教訓とか意図とかを言語化されると急に色あせてしまうんだよ!

 以前にも書いたが(魔女の宅急便と国語教師)、物語に込められた作者の意図を説明してしまうという行為は、マジックの種明かしをするようなものだ。種明かしをされたら感心するし種明かしをするほうは気持ちいい。でも、それをしてしまうとマジックのおもしろさは永遠に損なわれてしまう。

 物語の種明かしはやめてくれよな! 特に国語教師!


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魔女の宅急便と国語教師



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