2025年11月11日火曜日

孫引きの功罪

 引用の引用をすることを「孫引き」といい、原則としてしないほうがよいとされる。

 内容が誤って伝わったり、著作権の侵害とみなされたりするからだ。

 孫引きとはつまり「知り合いの知り合いから聞いたんだけど……」みたいな話だ。そりゃ信憑性は低い。



 が、現実的に孫引きは多くおこなわれている。

 たとえばスタンフォード監獄実験と呼ばれる有名な実験がある。被験者を看守役と囚人役に分けて行動させていると、次第に看守役は看守らしく、囚人役は囚人らしくふるまうようになり、さらには看守役は囚人役に対して暴力をふるうようになった……みたいな実験だ(ただし実験の信憑性にはいろいろ疑いが持たれている)。

 

 有名な実験なので、いろんな本でお目にかかることができる。お手軽心理学とか安っぽいビジネス書にもよく出てくる。

 だがそれらの本の著者のうち、いったいどれだけの人がオリジナルの文献を読んでいるだろう。きっと1%もいないだろう。

「こんな実験があるらしいよ」と書いてある本を読み、「へーそうなんだ」と引用して、それをまた別の人が引用して……と、孫引きどころか曾孫引き、玄孫(孫の孫)引き、来孫(孫の孫の子)引き、昆孫(孫の孫の孫)引き……という感じだろう。

 もちろんぼくだって原典にあたったことはないので、上で紹介したスタンフォード監獄実験の説明も孫引きだ(めんどくさいので孫引き以下の引用はすべて孫引きと呼ぶことにする)。えらそうに語ってごめんなさい。


 ただ、ちゃんとした論文や著作ならともかく、日常会話なら「テレビで言ってたんだけど……」「友だちから聞いたんだけど……」「新聞に書いてあったんだけど……」で十分だ。

 孫引きは決して悪いものではない。むしろ「知り合いの知り合いの話」を信じる能力があるからこそ人類は進歩してきたといえるだろう。

 三平方の定理の証明方法を知らなくたって「教科書にそう書いてあるから正しいものとして扱う」として定理を使ってもかまわない。ありがとうピタゴラス。

 あらゆるものの原典にあたるなんて不可能だし、そんなことをしてたら原典を読むだけで一生が過ぎてしまい新しいものを生み出すことはできない。



 なので個人的には孫引きには寛容な立場だ。

 ただ「孫引きをするときはちゃんと孫引きであることを記せ」とはおもう。孫のくせに子のふりをするな、ってこと。


 具体的にどういうことかというと、White Berryがジッタリンジンの『夏祭り』をカバーして、それを聴いたまたべつのアーティストが歌うときに「White Berryの『夏祭り』をあのアーティストがカバー!」っていう歌番組は許せない、って話。



2025年11月10日月曜日

【読書感想文】江崎 貴裕『数理モデル思考で紐解くRULE DESIGN ~組織と人の行動を科学する~』 / 「集合知」はみんなで話し合うことじゃない

数理モデル思考で紐解くRULE DESIGN

組織と人の行動を科学する

江崎 貴裕

内容(e-honより)
なぜ、人は想定通りに動かないのか。経営戦略/ビジネスモデル=ルールデザイン?AIで社会のルールはどう変わる?人を活かすルールデザインとは?経営科学、行動経済学、複雑系科学、機械学習・AI、etc.分野横断で「ルール」をとらえる。

 こないだ読んだ松岡 亮二『教育格差 階層・地域・学歴』 に、2000年頃に実施されたゆとり教育の話が載っていた。

 詰め込み教育からの脱却を目指し、子どもたちが自ら考える力を養おうということでスタートしたゆとり教育。

 ゆとり教育では学校での授業時間が減らされた。その結果何が起こったかというと、教育熱心で経済的余裕のある親は、子どもを塾に通わせるようになった。授業時間の短い公立校が避けられ、私立校受験の競争が高まった。

「ゆとり」を目指した結果、余計に受験競争は白熱し、成績上位層はよりゆとりがなくなった。その一方で、元々勉強していなかった下位層はさらに勉強しなくなった。

ゆとり教育は大失敗に終わった(少なくとも「勉強しすぎな子どもたちにゆとりを与える」という目的の達成においては)。失敗に終わったのは、データではなくえらい人(ただし賢くはない)の思いつきで実施された結果、ルールの設定を誤ったからである。


 世の中には、そんな「賢くないけど権力だけはある人」のいいかげんな思いつきでまともに機能していないルールがたくさんある。機能しないだけならまだしも、ゆとり教育のように逆の効果を生んでしまったり、適切でないルールのせいでとりかえしのつかない重大な事故を引き起こすこともある。

 ルールの失敗はなぜ起こるのか、防ぐにはどうしたらいいかを数々の事例から説明した本。理論よりも実践向けです。



 たとえば人に何かをさせるためにインセンティブ(動機づけ)ルールを設定することがある。

 企業における成果報酬型給与なんかがわかりやすい例だ。「鼻先にニンジンちらつかせればやる気出すだろ」とはバカでもおもいつく発想だ。バカでもおもいつく発想なので、当然ながらうまくいかないことが多い。

 報酬は、成果に見合った形で与えられないと逆効果になってしまうということが知られています。社員の成果に応じた給与を支払おうと思っても、業務の内容が多岐にわたる場合、その人の貢献を正しく測定することができずに、逆に不満につながったり、内発的動機づけによる頑張りをやめさせてしまう恐れもあります。したがって、納得感のある成果報酬を与えられる状況であることが重要となります。
 報酬はうまく与えられれば、その人のパフォーマンスを大きく上げることができますが、一方で安易に設定してしまうと意外な落とし穴にはまり、全くの逆効果になってしまうことを是非覚えておいてください。

 そうなんだよねえ。ぼくが前いた会社でもインセンティブ制が導入されていたが、その査定基準が不透明で、身も蓋もない言い方をしてしまえば「上司に気に入られたら高い評価を受けて給与が上がる」というシステムだった。

 これでやる気が上がるわけがない。かえって逆効果だ。みんながまったく同じ仕事をしていれば「こいつは同じ時間で平均より高い成果を上げたから高評価」と判断できるが、たいていの会社では人によってやる仕事がちがう。同じ仕事でも条件がちがう(担当エリアが違うなど)。誰もが納得する公平なジャッジなど不可能だ。

 では査定基準を明確にすればいいのかというとそうともかぎらず、ルールが明確だとそれをハックするやつが現れる。たとえば「1ヶ月に500万円の売上を上げたら給与アップ」というルールがあれば、500万円の売上を達成した人はそれ以上売上を伸ばそうとせず、超過分は翌月に回したりする。

 数十年前に「日本企業は年功序列制だからダメなんだ! 成果報酬型にすればうまくいく!」という言説が流行った。さすがに最近ではそんなことを言う人も減ってきた。成果報酬型給与はよほどうまく運用しないと機能しないということがわかってきたのだろう。失敗から学ぶのはいいことだが、その失敗が与えた傷は大きい。



 ルールの作成手順について。

 次に、集団のルールをその構成員で決めることについて考えてみましょう。選挙で投票を行なったり、組織の構成員の待遇を決めたりすることもこれにあたります。こうした状況では、一見「全員にとってフェアな決め方」でも、実際にはそうなっていないケースがよくあります。
 少子高齢化の進行で、日本を始めとする先進諸国では選挙における世代間格差が問題となっています。高齢者が有権者の人口に占める割合が大きいと、高齢者向けの政策が優先される「シルバー民主主義」と呼ばれる状態になります。こうなると、特に子育て世代への福祉が手薄になり、さらに少子化に拍車をかけます。
 実はこの問題は、「もっと若者が選挙に行けば解決する」といった単純な話ではないのです。2020年の統計によると、日本で選挙権を持つ人口は約1億400万人です。この中で、18歳から29歳までを合わせた人口は約1400万人と、全体の約15%にすぎません。一方、5歳以上の高齢者は約3600万人と全体の34%を占めています。さらに、有権者の平均年齢(中位年齢と言われ、選挙公約で重要なターゲットになります)はなんと約52歳です(なお、若い世代の投票率の低さを考慮すると、実際に投票を行なった人の平均はさらに上昇し、50代後半となります。)。つまり、若者の投票率が100%だったとしても、全体に占める割合は小さく、その意味では「若者を優遇する政策」が優先されることはないのです。
 
 さて、高齢者が優遇されても、人口の年齢割合がずっと変化しないのであれば、さほど問題ではないということもありうるでしょう(「若い世代に負担がかかっても、やがその世代が高齢者となったときには恩恵を受けられる社会」を目指すという形も選択肢としてはありえます)。しかし、実際に起きているのは強烈な少子化です。人間は残念ながら若返ることができないので、自分よりも上の世代が優遇されることには寛容(いつか自分もその世代を経験する)ですが、自分より下の世代が優遇されることには反発しがちです(自分が恩恵を受けることができない)。さらに、若い有権者世代より下の年齢(17歳以下)の国民には選挙権が無いので、政治家には彼らが18歳になったときに得をする政策を提示するメリットが少ないのです。その結果、若い世代の低所得化婚化・未婚化が進み、出生率が低下する事態となっています。
 
 こうなってしまうと、将来の世代の人数が減り、さらにこの傾向に拍車がかかるという悪循環に陥ります。ここでは、「将来の世代を代表する人がルール決めに参加できていない」ということが、1つの問題となっています。
 諸外国では、これを是正するためにさまざまな対策が検討されています。例えば、ドイツやハンガリーで検討された「デメーニ投票」という投票方法があります。これは、18歳未満の子供にも選挙権を付与し、その選挙権を親が行使できるようにするというものです。これによって、若者世代にとって有利になる政策を推進することができるのではないかというアイディアでした。ちなみに、同様の制度は日本でも「ゼロ歳選挙権」として注目を集めたことがあります。
 また、投票の世代間格差を是正するための別のアイディアとして、平均余命に応じて投票を重みづけするというものもあります「余命投票」)。余命の期待値が長い若者は多数の票を、短い高齢者は少数の票を投じることができるという制度です。
 いずれの方法も世代間格差を縮小するためのアイディアとして有望ですが、「一人一票の原則が保たれない」、「高齢者という理由だけで選挙権を制限することが許されるのか」といった議論があり、未だ実現していません。

 そう。今の中年以下って高齢者から搾取されてるわけだけど、そのルールって自分たちで決めたものじゃないんだよね。知らない間に決められたルールで知らない間に給与のうちのかなりの部分を高齢者へと回されている。

 これを「ルールなんだから守れ」ってのはかなり横暴な話だよな。今の話を決めるのなら多数決で決めるのもまだ納得できる(多数決はぜんぜん公平な制度ではないが現実的には採用せざるをえない)が、数十年後の話を決めるのに「今いるメンバーでやりましょう」ってのはまったくもってフェアじゃない。

「投票の結果、あなたはクラスの学級委員に選ばれました」

  「えっ、そんな投票いつやったの」

「始業時刻の十五分ぐらい前です」

  「そんなの聞いてないよ」

「はい、あなたはまだ登校してきてませんでしたからね」

  「そんなの仕方ないじゃん。うちは家が遠いんだから始発に乗ってもぎりぎりになっちゃうんだよ」

「とにかくこれはみんなで決めたルールですから守ってくださいね」

  「その“みんな”の中に俺は入ってないんだけど。それなのに負担だけ押しつけられるのかよ……」

「嫌なら学級会で提案してもう一回投票するしかないですね。ただ早く来ていたおかげで面倒な委員から逃れられた過半数の生徒が賛同するとはおもえないですけど」

 年金とか社会保険制度ってこれと同じぐらい無茶なルールだよね。




「話し合って決める」ことの弊害について。

 集合知効果は、ある意味「3人寄れば文殊の知恵」とも言えそうですが、実は少し違っています。このことわざは、「愚かな者でも3人集まって相談すれば、素晴らしいアイディアが浮かぶものである」という意味ですが、「限られた範囲の中で正しい答えを出す」という課題においては、実は「集まって相談してはいけない」のです。既に説明した通り、「回答する人に多様性があることによって、間違った方向の意見が打ち消されて平均として正しい答えが浮き出てくること」がポイントとなるため、(前節で紹介したように)相談によって意見を集約してしまうと間違った意見に流されてしまう危険性が生じるのです。

 学校で「みんなで話し合って決めましょう」と言われるせいで勘違いしている人が多いが、話し合いは往々にして間違える。個々人がそれぞれ考えるよりも劣った結論に至ることも多い。

「三人が別々に(お互いの意見を知ることなく)意見を出す」は一人で考えるよりも優れた結論を出せるが、「三人がお互いの意見を聞いて話し合う」だと、誤った考えに引っ張られてやすくなる。

 後者を“集合知”だと勘違いしている人が多い。すぐに「その件は会議で話し合いましょう」と言ってみんなの時間を食いつぶすタイプの人だ。みんなで話し合えば正しい結論を導きだせる、なんてSNSでの議論を見ていたらどれだけアホな考えかすぐわかる

 必要なのは「会議で話し合いましょう」ではなく「各自の意見を出しあった後、会議で検討しましょう」だ。




 ほとんどが失敗する会議。そんな会議で成果を出す方法。

 さて、会議における集団思考を防ぐために、次のような対策が提案されています。
(1)メンバー各々に「評価する側」の役割を与え、反対意見や質問を言いやすくする
(2)リーダーが最初に自分の考える正解を示さない、また議論に影響を与えないように、会議に出すぎないようにする
(3)計画を策定するグループと評価するグループを分ける
(4)検討するグループを複数のサブグループに分ける
(5)同じ組織でグループ外の仲間や外部の専門家の意見を仰ぐ
(6)多数派の意見に反対や疑問を呈する役割(「悪魔の代弁者」)のメンバーを用意する
(7)まとまった時間を取って、ライバルや敵対する組織の分析を行なう
(8)一度議論がまとまったら第2ラウンドの会議を行ない、残された懸念事項についてチェックする
 例えば、ジョン・F・ケネディ大統領はキューバ危機の際に集団思考を避けるため、実際にこれらを実践し、外部の専門家を招いて見解を聴いたり、メンバーが所属する別々の部門でも解決策について議論することを奨励、またグループをさまざまなサブグループに分けて議論させたり、自ら意図的に会議に欠席するなどし、柔軟な意思決定を目指しました。

 ぼくはかつて裁判員をやったことがある(一生のうちに裁判員に選ばれるのは60人に1人だそうだ。強運の持ち主!)。

 裁判官と裁判員が討議をするのだが、その討議の方法がまさにここに書かれているようなやり方だった。

  •  裁判長がうまく司会をして、発言の少ない人に意見を求める。
  •  素人である裁判員が先に意見を述べ、本職の裁判官は後に意見を述べる。その中でも裁判長は最後。
  •  裁判長はあえて少数派の立場に立って議論を活発にする。
  •  一度話し合った議題について、日を改めて見落としがないか検討する。

 おかげですごく話しやすかった。議論も深まった。裁判員制度ってよくできてるよ。



 後半はAI時代におけるルールのありかたについて。

 スコア化による差別や偏見の問題は、我々の身近にも存在します。
 2014年、アマゾン(Amazon)社が自社の採用活動に利用するために開発した採用AIツールが男女差別をしていたことが話題になりました。このツールは応募者の履歴書から、その人の職業適性をスコア化するものです。利用された機械学習モデルを詳しく調べると、履歴書に女性を想起させる単語が含まれているだけで、その候補者の評価が下げられていることが判明したのです。
 このAIは同社の社員のデータを元に作られましたが、その際「男性社員が多く、女性社員が少ない」という現実のパターンを学習し、「男性は多く、女性は少なく採用するようにスコアを調整する」ことが行なわれてしまったのです。
 計算機科学の世界では、"Garbagein,Garbageout.という言葉があります。これは、直訳すると「ゴミを入れると、ゴミが出てくる」という意味ですが、システムの入力として欠陥のあるデータを入れてしまうと、その出力は使い物にならないということを端的に表すフレーズです。
 AIを構成する機械学習のモデルにも同じことが言えます。機械学習モデルは「現実のあるべき姿」を出力するのではなく、あくまで「データとして与えられたパターン」を出力します。現実のデータには、既にさまざまな偏見や差別による偏りが含まれていることが多いため、それをそのまま学習させたAIを利用すると、そういった偏見や差別が維持・強化されてしまうリスクがあるのです。

 そうなのよね。ぼくも仕事でAIを利用しているけど、AIって過去から学習することは得意だけど、未来の変化を予測することはすごく苦手なんだよね。「これまでの傾向が今後も続くもの」として予測することしかできない。

 たとえば人材採用をしようとしてWeb広告を出稿する。最近のWeb広告は機械学習が進んでいるので、AIがターゲットを設定して予算を配分してくれる。

 でもそれだと、

高齢者が多く応募してくる(高齢者は採用されにくいので若い人より応募率が高い)
 ↓
AIが「高齢者は応募率が高い」と学習する
 ↓
高齢者に対して多く広告が出稿される
 ↓
ますます高齢者の応募が増え、AIがさらに「若い人より高齢者を狙ったほうがいい」と学習する


みたいなことが起こっちゃうんだよね。「応募しやすい人は採用されにくい人」ということが表面的な数字からはわからない。

 応募後の採用率も学習させればいいんだけど、あらゆるパラメータを入力するのは不可能だし、人間なら「若い人を集めたい」の一言で済む話なのに、AIに対してそのニュアンスを伝えるのはかなり手間がかかる。


 AIが犯罪捜査をすることもできるだろうが、それを進めると

ある属性(居住地や階層や家族構成)の人たちが犯罪率が高いことがわかる
 ↓
AIが、その属性に対して特に厳しくアラートを出すようになる
 ↓
その属性の検挙率が上がり、より犯罪率が上がる
 ↓
その属性の人たちが差別され、社会の中で不遇の扱いを受ける。そのため犯罪に手を染めやすくなる

……というループに陥ってしまう。犯罪率が高いことで差別され、差別されることでますます犯罪に近づいてしまうのだ。

「過去からの学習」を進めると、差別や格差がますます拡大してしまう。

 このへんはまだまだこれから考えていかなくちゃならない問題なので興味深い。「AI時代のルール設計」についてはそれだけで一冊の本にしたほうがいいぐらいのテーマだな。


【関連記事】

【読書感想文】松岡 亮二『教育格差 階層・地域・学歴』 / ゆとり教育は典型的な失敗例

【読書感想文】まちがえない人は学べない / マシュー・サイド『失敗の科学』



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2025年11月7日金曜日

エジソンが一度も泳がなかったプール

 フロリダ州フォートマイヤーズには「Edison and Ford Winter Estates(エジソン&フォード冬の別荘)」という観光地がある。

 ここはエジソンと自動車王ヘンリー・フォードが冬を過ごした邸宅と庭園が保存されている。

 ここには「エジソンが一度も泳がなかったプール」として有名なプールがある。


 エジソンはこのプールを設計して作らせたものの、自分は水に入ることを好まず、一度も泳がなかったのだそうだ。 

 このエピソードのおかげで「エジソンが泳がなかったプール」として観光案内やガイドツアーで紹介されているらしい。


 すごい話だ。

「○○が××した」で有名な場所は世界中に山ほどある。○○が生まれた家、○○が撃たれた場所、○○が俳句を詠んだ土地……。

 だが「しなかった」ことで有名なのはここぐらいじゃないだろうか。


 「しなかった」ならなんとでも言える。

 日本中にあるすべてのプールは「エジソンが泳がなかったプール」だ。同時に「ジョン・レノンがこの場所で作曲しなかったプール」でもあるし「ジョン・F・ケネディが暗殺されなかったプール」でもある。

 「エジソンが一度も泳がなかったプール」はなんてことのないことをすごいことと思わせるのがすごい。


 ぼくも「あの織田信長に一度も叱られなかった男」を名乗って生きていくことにしよう。


2025年11月6日木曜日

新語・流行語大賞の選考委員の先生方のご年齢

 今年も、場つなぎのためにあたりさわりのない話題を探している日本中の人たちが待ちに待った新語・流行語大賞のノミネート作品が発表された。


 ノミネートされた言葉のことは書かない。自分で調べてくれ。

 ぼくが調べたのは、選考委員の年齢(2025年11月6日現在)だ。


  • 神田伯山(講談師)42
  • 辛酸なめ子(漫画家・コラムニスト)51
  • パトリック・ハーラン(パックンマックン、お笑い芸人)54
  • 室井滋(女優・エッセイスト・富山県立高志の国文学館館長)67
  • やくみつる(漫画家)66
  • 大塚陽子(『現代用語の基礎知識』編集長)

 うーん、すばらしい。シルバー民主主義国家・日本の流行語を決めるのにふさわしい年齢構成だ。大塚陽子さんがおいくつか知らないが、歴史ある本の編集長をやっているので20代30代ではないんじゃなかろうか。

 大塚さんを除いた5名の平均年齢は56.0歳。昭和なら停年退職(昭和時代は定年のことを停年と書いていた)している年齢だ。ちなみに伊藤博文が初代内閣総理大臣に就任したのは44歳だ。

 せめて一人か二人は若い人を入れたほうがいいんじゃないかとも思うが、今の50代は昔の50代よりもぜんぜん元気だ。なにより気持ちが若い。なんたって自分たちが世の中の流行について選考できる立場にあると思っているのだ。すばらしい。なんて若いんだ。気持ちは。


 ぼくはこの5名の中の最年少である神田伯山さんと同い年だが、とてもとても世間の流行語について物申せる立場にあるとはおもえない。娘たちが学校で仕入れてきた「エッホ、エッホ」とか「チョコミントよりもあ・な・た」とか言っているのを聞いて「なんじゃそりゃ。それのどこがおもしろいんだ」と思っている人間なので、とっくに流行にはついていけていない。それでも小学生の娘がいるだけかろうじて世間一般のおじさんよりはマシなほうかもしれない。

「新語」のほうはニュースを見ていたらなんとなく耳に入ってくるけど、「流行語」のほうはむずかしい。テレビなどで取り上げられるのはとっくに流行のピークを過ぎて収束に向かってからの場合がほとんどだからだ。新奇な言葉は若い人、特に学生のような狭いコミュニティに属している人たちが仲間意識を高めるために使いたがることが多いので(ぼくも学生時分は仲間内だけで通じる符丁のような言葉をよく使っていた)、若い人同士の言葉をよく耳にする人じゃないとなかなか耳に入ってこない。

 教師や塾講師のように日常的に学生と接する職業の人であれば何が流行しているか知りやすいだろうが、それでも学生が仲間内で使う言葉と大人に対して使う言葉はちがう。若者向けのSNSやYouTube動画にどっぷり浸かっているような“大人としてはちょっとアレな人”でないと流行りにはついていけなさそうだ。


 そんな中、50代60代になってもまだ自分が流行語をジャッジする資格があると思える人は、くりかえしになるがほんとにすごい。多くの人が20代半ばぐらいで「ちょっと学生のノリがわからないことが増えてきたな。自分ももう時代の最先端にはいないな」と気づくものだけど、そんなことは感じずに「大人だけど若い人の感性にもついていけるぜ」と思えるなんて、なんという自信だろう。自分の感覚がずれているのではとか、いい歳して若者の流行についていこうとするのは恥ずかしいとか、そんなことは考えないのだろう。そのみなぎる自信、見習いたいものだ。


 新語流行語選考委員の先生方の姿勢を見習いたいがとうてい真似できないので、ぼくは「年寄りの冷や水」という旧語を噛みしめて生きていくことにする。




2025年11月5日水曜日

【読書感想文】阿部 朋美・伊藤 和行『ギフテッドの光と影 知能が高すぎて生きづらい人たち』 / なんとなく書かれたぼんやりした本

ギフテッドの光と影

知能が高すぎて生きづらい人たち

阿部 朋美  伊藤 和行

内容(e-honより)
没頭しやすい、情報処理が速い、関係づくりが苦手…高IQが「生きづらい」のはなぜ?特異な才能の一方で、繊細さや強いこだわりを併せ持つ彼ら。時代、社会、環境に翻弄されてきた実情に迫るノンフィクション!

 ギフテッドとは、生まれつき(または幼い頃から)卓越した能力を持った人のことを指すらしい。知能の高い人を指す場合が多いが、知能に限らず芸術的才能などに秀でた人にも使われるのだそうだ。


 そんなギフテッドたちに取材してその生きづらさを紹介する本……なのだそうだが、あまりに内容がひどかった

 まず、“ギフテッド”をきちんと定義していない。医学界でも教育界でも正式に認められた言葉ではないのであたりまえなのだが、誰がギフテッドなのか、誰がギフテッドじゃないのかの明確な基準がない。「ギフテッドたちに取材」というこの本の前提からしてあやふやだ。

 結局この本では「誰かに『ギフテッドです』と言われたことのある人」を“ギフテッド”としている。なんじゃそりゃ。

 それって「生まれてから一度は『天才』って言われたことのある人」と同じくらい信頼性の低い基準じゃない? たぶんほとんどの人が該当するだろう(そしてそのほとんどは天才ではない)。

 せめて「世界的に多く用いられている○○という知能テストでIQ120以上と診断された人をこの本の中ではギフテッドとして扱います」みたいな定義があればまだ信頼できるんだけど。


 定義がないから「自称ギフテッドさんたちに話を聞いてみた」でしかないんだよね。



 前提があいまいなので、もちろん内容もぼんやりしている。

 同時に、IQを検査してくれた医師から、IQに差がある子どもたちと過ごすということは、学年が異なるクラスで過ごすようなものだと教えてもらった。「学年が違うクラスで過ごすような感覚が日常なのは、それは息子にとって苦痛だなと、やっと息子のつらさがわかりました。IQが高いのは、いいことだと思ったこともあるのですが、話が合わない、関心事が合わない集団に日常的にずっといるっていう息子のつらさを初めて知った気がします」(純子さん)
 そして、IQが高い人は、ほかの人よりもセンサーが敏感で、相手が何をしてほしいかを察知することに優れ、それに応えようとして疲れてしまうとも聞いた。
 授業の内容は、都央さんにとって学びが多いとは言いがたいものだったという。「授業は淡々と受けて、教室にいればいいので楽だなと思う一方で、楽しい時間ではないのでつらい場所でもある」とこぼす。

 こんな話が並ぶんだけど……。

 もちろん「IQが高い人は、ほかの人よりもセンサーが敏感で、相手が何をしてほしいかを察知することに優れ、それに応えようとして疲れてしまうとも聞いた」を裏付ける根拠はまったくない。IQが高い人たちを対象にした大規模な調査結果、みたいなものはまったくない。ただのうわさ話。


 だいたいさあ。「IQが高い人が生きづらさを抱えている」自体がかなり怪しいんだよね。

 日本においては全児童に共通でIQテストを受けさせたりしていない。IQテストを受けるのは、(学校になじめないなどの)問題があって専門医を受診する子ぐらいだろう。

 であれば、IQが高いと診断された子が生きづらさを抱えている率が高いのはあたりまえだろう。だって周囲とうまくやっていける子は精神科に行ってIQテストを受けたりしないんだもの。


「精神科に連れていかれた結果IQが高いと診断された人」ばかり取材している。そりゃ「ずっと生きづらさを抱えていました」っていうエピソードが出てくるのはあたりまえだろう。

 IQが高くて社会でうまくやっていける人はわざわざ病院に行って知能テストを受けたりしないし、テストを受けたとしても己のIQの高さを大っぴらに発信したりしない。自慢話は嫌われるだけだから。



 この本で紹介されている「ギフテッドがもつ才能」もかなりいいかげんなんだよね。

「8歳で量子力学や相対性理論を理解」なんてのは(ほんとだとしたら)たしかに常人離れしたエピソードだけど、「4歳で九九を暗記、6歳で周期表を暗記」「2歳で歌を作り、4歳で絵本を作った。小5の現在はアプリを作成中」なんてのはぜんぜんふつうの子だ。 著者は子育てしたことないのかな。

 電車の名前に詳しい子どもとか恐竜の名前をおぼえまくってる子なんてそのへんにごろごろいるよ。子どもは、親に褒められたら周期表ぐらいすぐおぼえるよ。「6歳にして一からほぼ正確な周期表をつくる」ぐらいじゃないと天才的なエピソードとは言えないだろ……。



 ずっと進学校に通って苦労しなくても勉強ができたけど社会人になってから大変な思いをした人の話。

 自分のアイデアや課題を解決するための踏み込んだ思考をもとに主体的に動くと、上司や先輩たちの考えと合わなくなり、低評価を受ける。「人の気持ちが理解できない」「思考能力がない」「自分の頭が悪いことを受け入れろ」とののしられることもあり、体調が悪化。休職した。経緯を聞いた重役と他の上司からは「あなたのような人材が会社に必要だ」と言ってもらえた。嬉しい半面、「だったら、なぜ守ってもらえないのか」という悔しさも入り交じった。
 上司と吉沢さんの間には、見えている視点や仕事のやり方に大きな違いがあった。吉沢さんには、保身のためにやり方を変えようとしない上司の思考が見て取れた。一方で、上司や周囲の人には、会社やグループ企業全体のことを考えて提案する吉沢さんの考え方は理解できなかったのかもしれない。
 吉沢さん自身は、上司や同僚と衝突するたびに悩んだ。「自分は正しいことをしているはずという思いと、自分ができないから悪いんだという葛藤をずっと続けてきた」という。
 自分の能力を発揮できたと感じた時ほど「頭が悪い」「使えない」と批判された。既存の方法にとらわれずに効率の良い方法を考えようとすると、受け入れてもらえない。そんな思いがずっと頭をめぐった。

 いやあ、こんなの誰もが経験する話でしょ……。百年前からサラリーマン小説のテーマになっていることだよ。

 たぶんほとんどのサラリーマンは「おれは頭が良くて効率のいいやりかたができるのに周囲がバカばっかりで理解されない」と感じたことあるよ。




 著者が第2章で書いている。

「小学校に入る前に外国語が話せるようになる、相対性理論を完全に理解する、など超人的な才能を見せる子どもがギフテッドだと誤解されているように感じます」
 メディアで取り上げられるのも、若くして英語や数学の検定に合格した子どもや飛び級で大学に入学した子どもなどで、やかで実年齢と大きく乖離した結果を残した子どもがフォーカスされやすい。珍しいがゆえに、ニュースとして取り上げられてしまうのだ。私自身も、当初ギフテッドに抱いた印象はそうした「超人」だった。
 このような情報を見聞きするうちに、「ギフテッドー人並み外れた超人的な才能を持った天才」といったイメージが先行しているのかもしれない。しかし、そうした超人的な才能があるのはギフテッドの中でもごく一部で、極めてまれな存在なのだという。
「学校の先生が『教師人生でそんな才能の子どもを見たことがない」とつぶやいたと聞いたことがあります。この先生の感覚は決して間違っておらず、ギフテッドのイメージが超人的なものに限定されてしまったことに誤解の原因があると思います」角谷教授。
 つまり、超天才がギフテッドだと誤解をしてしまうと、学校の先生たちは自分たちの教え子の中にギフテッドがいるにもかかわらず、気づかない可能性があるということになる。
 角谷教授によると、ギフテッドとされる子どもは様々な才能において3~10%程度いるとされている。35人がいる教室では、1~3人のギフテッドがいることになる。「教師人生で見たことがない」どころか、今の教え子の中にもギフテッドがいるかもしれないのだ。ギフテッドのうち、9割を占めるのがIQ120~130の人で、「人並み外れた超人的な才能を持った天才」とイメージされるIQ160を超えるような人は、ギフテッドの中でもごくごくわずかだという。
 「学校の先生であれば、毎年ギフテッドに出会っている可能性が高い。想像よりも多くの子どもたちが『学校の勉強は知っていることばかりでつまらない」という悩みや自分の特性を理解されずに困っている可能性があります」

 3~10%の子をギフテッドとしちゃうんだ。それだけいたら生きづらさを抱えている子もいっぱいいるだろう。そしてそれよりずっと多くの「さほど生きづらさを感じていないギフテッド」も。


 この本のサブタイトルは「知能が高すぎて生きづらい人たち」だけど、ずいぶんな暴論だ。正しくは「知能が高くて、生きづらい人たち」だ。

 似ているようでぜんぜんちがう。「絵がうまくて生きづらい人たち」がたくさんいるからと言って「絵がうますぎて生きづらい」とは言えませんよ。


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