2025年9月29日月曜日

昔の曲を主題歌に使うドラマ

  とあるテレビドラマの主題歌にポルノグラフィティの『アゲハ蝶』が起用され、新しいドラマの主題歌に昔の曲が使われるなんてめずらしい! と話題になっている。

……という記事を読んだ。


 え、べつにめずらしくないよね?

 ぼくはテレビドラマをまったく見ない。最初から最後までリアルタイムで見たドラマはひとつもない。放送終了後にDVDや配信で観たものも片手で数えられるほどしかない。

 そんなぼくでも、いくつか挙げられる。

 古くは、1993年の『高校教師』に使われた森田童子『ぼくたちの失敗』(1976年発表)。

 1993年・1997年の『ひとつ屋根の下』に使われたチューリップ『サボテンの花』(1975年発表)。

 1996年の『白線流し』に使われたスピッツ『空も飛べるはず』(1994年発表)。あんまり古くないけど。

 調べたところ、他にもいろんな例があった。書き出すときりがないのでもう書かないけど、『ふぞろいの林檎たち』(1983~1997年)に使われたサザンオールスターズ『いとしのエリー』(1979年)とか。

 いずれも大ヒットした有名ドラマだ。上記4ドラマはどれも観たことがないけど、それでも誰が出ていたかとか、どんなストーリーだったかとかはなんとなく聞いたことがある。それぐらい有名な作品だ。

 マイナー作品も挙げていったら山ほどあるはず。


 ここからは完全に憶測の話になるけど、もしかすると「古い曲を主題歌にするドラマはヒットしやすい」のかもしれない。

・古い曲/すでにヒットしている曲を起用することで幅広い年齢層を取り込める

・曲をよく知った上で起用しているのでドラマの雰囲気と曲がマッチしやすい

・レコード会社が売りだしたい新曲を使わなくていい=しがらみにとらわれずにドラマを作れるぐらい制作側(監督、脚本家など)が力を持っている、すなわち実力のある人が余計な配慮をせずに作っているからおもしろい


 ということで、『アゲハ蝶』が主題歌のドラマもおもしろいはず! タイトルも出演者もストーリーもまったく知らないけど!



2025年9月25日木曜日

おじさんが助けてもらうには


 駅の構内でひとりのおじさんが座りこんでいた。五十歳ぐらいだろうか。赤いシャツを着て、地べたに座りこんでいる。靴が片方脱げている。

 眠りこんでいる、という感じではない。まだ17時過ぎだし、飲み屋の多いエリアでもない。


 これは……どっちだろう。

 迷うところだ。もしこれが若い女性だったら、ほとんどの人が「なんとかしてやらなくちゃ」とおもうところだろう。なぜなら、若い女性が自分の意志で駅構内の地べたに座りこむことはまずないだろうから。「のっぴきならない状況が発生して座りこまざるをえないのだな」とおもう。

 だがおじさんの場合は「自分の意志で地べたに座りこんでいる」パターンもけっこうある。「おれは好きでここに座ってんだよーほっとけー」パターンだ。特にここ、大阪市にはこういうおじさんがめずらしくない。

 だが、ほんとに具合が悪くなってしまったということも考えられる。立っていられないほどしんどくなり、座りこんでしまった。脱げた靴を履きなおす余裕もない。その場合ならすぐに救急車を呼んだほうがいい。



 ちょっと迷ったが、おじさんに「すみません、大丈夫ですかー」と声をかけてみた。救える命を救わなくておじさんが死んだら寝覚めが悪いし。

 まったく反応がない。ぴくりともしない。うつむいたままだ。ぐったりしている、ととれないこともない。

 医療の知識があれば何かわかるかもしれないが、あいにく子どものときに読んだ『ブラック・ジャック』の知識しかない。これでは無免許オペぐらいしかできない。


 うーん、どっちだろう。救急車を呼んだほうがいいのか。放っておいても大丈夫なのか。

 よしっ! こういうときは誰かに委ねよう!

 ということで駅長室へ行き、駅員さんに「すみません、あそこに座りこんでいる男性がいるんですが、声をかけても反応がなくてぐったりしていて……」と深刻そうに伝えた。

 実直そうな駅員さんは「わかりました。見に行きます」と言ってくれた。よっしゃ、これでぼくの手を離れた。あとは頼んだぞ、駅員さん!



 というわけでぼくのほんのちょっぴりの勇気のおかげで、ひとりの未来あるおじさんの命を救った(もしくは酔っ払いのために駅員さんの余計な仕事を増やしてしまった)わけだが、ぼくが気になったのは「みんなおじさんに冷たい」ということだ。

 靴が片方脱げて座りこんでいるおじさん。その前を何十人もの人が通っていたが、みんなちらりと見るだけだった。17時過ぎ。時間に余裕のある人だって多かっただろう。

 現代人は薄情だ、などと嘆く気はない。ぼくだって声をかけようか迷ったし。声をかけて酔っ払いのおじさんにからまれても面倒だな、とおもったし。



 だからぼくが言いたいのは、「おじさんに優しくしよう!」ではなく「我々おじさんが助けを必要としているときはどうするのが正解か?」ということである。


 さっきも言ったように、これが若い女性ならもっと多くの人が声をかけるだろう。

 若くなくたっていい。おばさんがたったひとりで駅構内の通路に座りこんでいる。これでも「大丈夫ですか?」と声をかける人はけっこういるだろう。おばあさんならもっと心配されるかもしれない。

 また、男でも高校生ぐらいだったら心配されそうだ。男子高校生がひとりで道端で座りこんでいたら「大丈夫?」と声をかけたくなる。

 声をかけづらいのは、おじさん、もしくはおじいさんだ。

 

 厄介なことに、おじさんやおじいさんは「自分の意志で座りこんでいる人」が多い。「単独行動をとっている人」も多い。

「自分の意志で座りこんでいるおばさん」はめずらしいが、
「自分の意志で座りこんでいるおじさん」はそんなにめずらしくない。公園とか繁華街にけっこういる。

 だから声をかけてもらいにくい。

 さらにその手のおじさんは危険物扱いされやすい。急に攻撃的になるんじゃないか、とおもわれる(ぼくもおもっている)。攻撃的なイメージがあるし、おまけにおばさんよりも攻撃力がある。だから近寄りがたい。


 だから道端で座りこんでいるおじさんに声をかけづらいのはしかたない。

 だが。おじさんにだって、ほんとに助けを必要とするときがある。熱中症だとか心臓発作だとか。すぐに救護を必要とするときもある。自分で救急車を呼べないことだってあるだろう。

 そんなときに見知らぬ人に助けてもらうにはどうしたらいいだろう。


 ひとつは「身なりを良くする」だ。

 なんだかんだいっても人は見た目で判断する。ぼろぼろの服を着ているひげもじゃのおじさんよりも、きれいなスーツを着ているこざっぱりしたおじさんのほうが、声をかけてもらいやすいだろう。

 きれいな身なりをすることで「突然攻撃してくるタイプのおじさんではなさそうだ」とおもってもらいやすくなる。


 だが残念なことに世の中には“酔っ払い”という人種がいる。ふだんはちゃんとしているのに、酔っぱらうと「自分の意志で座りこむ人」になるおじさんがいる。おまけに酔っぱらうと「攻撃的になる」おじさんもいる。

 スーツを着ていても、座りこんでいたら酔っ払いと判断されるかもしれない。特に夜は危険だ。そうなると助けてもらえる率が下がる。


 だからぼくは考えた。道端で急に具合が悪くなったときに、助けてもらえる確率を上げる方法を。

 それは「うつぶせに倒れる」だ。

 道端にうつぶせに倒れていたら、いくらおじさんといえども、“ただことじゃない”感がぐっと増す。なぜなら「路上で自分の意志でうつぶせに寝るおじさん」や「路上でうつぶせに寝るおじさん」はめったにいないからだ。

 急に気分が悪くなったときはうつぶせで。



2025年9月24日水曜日

【読書感想文】ラック金融犯罪対策センター『だます技術』 / 知れば知るほど詐欺を見抜けないことがわかる

だます技術

ラック金融犯罪対策センター

内容(e-honより)
「自分がひっかかるわけない」そう思ってる人が、なぜカモになるのか?被害者が年々増える一方の特殊詐欺で使われる手口を体系化。・本物と錯覚させる・美味しい話で惹きつける・話術と仕掛けで信用させる・考えられない状況に陥れる 被害例をもとに、だましのテクニックとだまされる心理の仕組みがわかる。あなたを、親を、子どもを、被害から守るための知識を金融犯罪対策のプロ集団が解説。

 様々な詐欺被害の手口を紹介する本。

 タイトルは『だます技術』だが、もちろん詐欺グループ向けの本ではなく、詐欺にだまされないようにするための本。


 数々の詐欺の手口を紹介しているのだが(ほとんどが振り込め詐欺やカード情報を引き出すフィッシング詐欺)、あたりまえだが過去にあった手口しか紹介されていない。ほとんどがニュースなどで見たことのあるやり口だった。

 なのでニュースや情報番組などを見ていたら得られる知識がほとんどだった。ただし知識があることと詐欺に引っかからないことはまた別なのでわかっていても冷静さを失って引っかかってしまうことはあるのだろう。


 当然ながら、いくらこういった本を読んだところで「これから登場する新しい手口」はわからない。まったく新しい手口で詐欺を仕掛けられたら、そして複数の人間が大規模に仕掛けてきたら、詐欺だと気づいて逃れることはむずかしいだろう。

 たとえばぼくはコンビニで買い物をするときにクレジットカードで支払いをするけど、もしそのコンビニ自体が詐欺のためにつくられた建物で、商品も店員も本物のチェーン店そっくりに配置していたら、何の疑いもなくレジでカードをかざしてしまうだろう。さすがの詐欺グループもそこまではやらんだろうけど(割に合わないだろうから)、でもこういう「そこまではやらんだろう」という思い込みこそが足元をすくわれる要因になるのだろう。


 たとえばこんな手口が紹介されている。投資セミナーなどから株式投資アプリをインストールさせるやり方。

 被害者が指定された口座に入金すると、犯罪者はそれを確認して、アプリ側にも反映し、儲けが出ているように見せかけます。
 被害者が投資で得た利益を引き出そうとした場合、犯罪者は引き出し金額を確認して、実際にその金額分を被害者の口座に直接振り込みます。
 犯罪者にとっては、アプリに表示している数字をいじるだけに比べて手間がかかることになりますが、被害者が実際にお金が動くところを目にする効果は非常に大きいです。特に、被害例のように、最初は本当に利益が出ているのか、アプリの画面を見ただけでは疑問を抱く被害者には効果的です。
 資金が引き出せることを確認した被害者は、「この投資にはなにも問題はない」と安堵します。場合によっては、「もっと投資すればさらなる利益が期待できるのではないか」と考えるようになります。犯罪者からすれば、より多くの資金をだましとることができる可能性が高まるわけです。

 本物の投資アプリそっくりのアプリまでつくって入金させ、さらには(最初だけ)出金もちゃんとできるようにしているのだ。ここまでされたらアプリが偽物だと疑うことはほぼ不可能だろう。




 この本には詐欺に遭わないための心構えも書いてあるが、結局「すべてを疑ってかかれ」しかないんだよね。

 電話への対応の基本は、「知らない番号からの電話には出ない」ということです。
 「電話ぐらい出ても大丈夫だろう」と思うかもしれませんが、犯罪者の会話術は日々進化しており、今後も新しい詐欺の手口が出現する可能性があります。そうした手口に引っかからないためには、犯罪者との接触を極力減らすことが大切です。
 「大事な電話を取り逃してしまうのではないか?」と不安に思われるかもしれませんが、知人や家族の連絡先は登録しておき、留守番電話の設定をしましょう。

 よくわからない人に近づくな、信頼できないサイトを見るな、余計なアプリは入れるな、あまり自分のことを話すな。

 つきつめていえば「何もしないのがいちばん」ということになる。

 うーん、まあそりゃそうなんだけど。でもそれって新しいものから得られるメリットも放棄することになるわけで。

 結局、どれが詐欺でどれがそうじゃないかなんて判断するのはむずかしいので(情報に精通した人でも引っかかることがあるので)、リスク覚悟で信じるか、リスクを重く評価してすべて疑ってかかるかのどっちかしかないことになる。

 詐欺だけを遠ざける方法なんてないということが改めてわかった。じゃあこの本の意義ってなんだったんだろう。


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2025年9月18日木曜日

【読書感想文】小川 哲『ゲームの王国』 / わからないがおもしろい。なんなんだこれは!

 

ゲームの王国

小川 哲

内容(e-honより)
サロト・サル―後にポル・ポトと呼ばれたクメール・ルージュ首魁の隠し子、ソリヤ。貧村ロベーブレソンに生まれた、天賦の「識」を持つ神童のムイタック。運命と偶然に導かれたふたりは、軍靴と砲声に震える1975年のカンボジア、バタンバンで邂逅した。秘密警察、恐怖政治、テロ、強制労働、虐殺―百万人以上の生命を奪い去ったあらゆる不条理の物語は、少女と少年を見つめながら粛々と進行する…まるで、ゲームのように。

 ううむ。わけのわからない小説だ。ほんとにわからない。だがおもしろい。なんなんだこれは!


 話があっちこっちにいく。登場人物も変わる。時代も変わる。それぞれがまじわることもあればそうでないこともある。テーマに一貫性があるわけではない。とにかくとりとめがない。

 小説というより神話を読んでいるような感覚になる。神話とか古い物語って「そのエピソードいる? それ本筋にはまったく関係ないからまるまるカットしても問題ないんじゃない?」みたいなエピソードがあるじゃない。ちょうどそんな感じ。枝葉末節だらけ。ほとんど幹がない。でもその枝葉末節がおもしろい。


 カンボジアの歴史についてすごく丁寧に調べて書いているくせに、史実にまじってとんでもない嘘も語られる。

 土を食べることで土の声を聴くことができて土を自在にあやつれる男とか、輪ゴムに触れることによって未来を正確に言い与えることができる男とか。罪のない人々が次々に理不尽な死を遂げてゆく(クメール・ルージュ支配下のカンボジアの話だからね)シリアスなストーリーなのに、ユーモアがあふれている。

 しかもそれらはストーリー上欠かせない要素というわけでもない。おもしろいからこのエピソードも入れてみた、みたいな感じ。なくても物語としてはぜんぜん成立する。だけどやっぱりそのエピソードこそがこの小説を魅力的なものにしている。

 手塚治虫『ブッダ』はぼくの好きな漫画なんだけど、それに通じるものがある。大胆な嘘と入念に調べられた史実が入り混じり、読んでいて虚構と現実の境目がわからなくなる。

 だけど、ぼくらが現実とおもっているものだって案外虚構なのかもしれない。記憶は容易に書き換わる自分が体験したとおもっていることだって作り話なのかもしれない。そう、自分の人生だって何が本当か何が嘘かわからない。

『ゲームの王国』を読んでいる気分は、まるではるか遠く昔の“記憶”をたどるような感覚だった。




 ひとつひとつのエピソードがおもしろい。たとえば。

 すべてを聞き終えたムイタックは「――まず、そもそも俊足ペンは足が速いわけじゃない」と言った。
「どういうこと?」
「言葉のままだよ。俊足ペンはむしろ鈍足だよ」
「何を言ってるの? 君は普段一緒に遊んでないからそう思うのかもしれないけど、覚えてる限りペンが捕まったのを見たことは一度もないよ」
「そう、問題はそこだ。ペンは、何よりもその『一度も捕まったことがない』という名声のおかげで、不当に鬼ごっこに勝利している」
「どういうこと?」
「つまり、鬼は『俊足ペンを追いかけても、どうせ勝てない』と考えて、最初からペンを追おうとしないんだ。君もそうなんじゃない? 自分が鬼のときを思い出してみてよ。いつも無意識にペン以外を追いかけてない? たしかにペンはそこそこの初速だけど、持久力はまったくないよ」
 クワンはこれまでの鬼ごっこの記憶を思い出した。たしかにその通りだった。
「ペンはそのことがよくわかっているから、常に誰かと一緒に行動するんだ。現にさっきも君と一緒に逃げていた。もし鬼に見つかったとしても、一緒に行動しているやつが狙い撃ちにされるから、自分は悠々逃げることができるってわけ」
「たしかにそうだ。ペンは常に誰かと一緒に逃げている」
「だからペンは自分の名声を守るために、他の誰かとサシの駆けっこをしようとしない。正直に言って、純粋に駆けっこをしたら君の方が速いと思う。距離にもよるけど」
「そんなことはないよ。僕はいつも捕まってしまうから」
「ペンが鬼ごっこに強いのは『足が速い』という評判のおかげだ。この話をひっくり返すと、さらに多くのことがわかる」
「何がわかるの?」
「つまりね、一度足が遅いと評判になった者は、不当に追われ続けるってこと。君は足が遅いわけではないのに、『足が遅い』という評判のせいで、集中的に鬼に狙われている。鬼ごっこは基本的に追いかける側が有利だから、一度狙われれば捕まりやすい。そのせいで足が遅いというイメージが強くなり、さらに捕まりやすくなるってわけ。君だって鬼のときは無意識に『足が遅い』とされている人を探してるはずだよ。豆フムとか、ルットとか、蟹ワンとか。蟹ワンは左足だけ拾った靴を履いているせいで、蟹みたいな走り方をしてるから目立つしね。あいつ、実は結構足速いと思うけど」
「なるほど。たしかにその通りだ。僕はいつも豆フムやルットや蟹ワンを探してる。それに実際には、いつも蟹ワンを捕まえるのに苦労してた」
「この話にはさらに続きがある。この世の中のなんだってそうなんだ。王様だってね。一度偉くなってしまえば、そのおかげでみんな彼が正しいと思いこむ。何か間違ったことをしているように見えても、自分の方が間違っているのではないかと思い直す。そうして王様の権威は増していき、本当の実力とは関係のない虚構のイメージが作り上げられていく。そしてそれは、たとえば俊足ペンみたいに、王様がひとりで作り上げるものではなく、周囲と連動して勝手に作り上げられていくものなんだ」

 鬼ごっこについてここまでじっくり考えたことがなかったけど、たしかに無意識のうちに「あっちは速い(らしい)からこっちを追いかけよう」という判断をくりかえしてるよなあ。子どもの言う「足が速い」は「初速が速い」とほぼ同義なので、足が速いとされている子でも長時間にわたって追い続ければ捕まえられるかもしれない。ただ鬼ごっこにはなんとなく「ひとりだけを集中的に追いかけると他の子がつまらないからやめよう」という不文律があるからみんなやらないだけで。

 こんなふうに、我々が意識の隅っこのほうでなんとなく捉えていることを言語化するのが小川哲さんはすごくうまい。


「オンカーは理想郷を作ろうとしている。そしてそれはとても危険な考えなの」
「どうしてですか?」
「理想郷は無限の善を前提にしているから」
「素晴らしいことじゃないですか」
「違う。最低の考えよ。無限の善を前提にすれば、あらゆる有限の悪が許容されるから。無限の善のために、想像以上の人が苦しみ、そして死ぬことになる。もっとも高い理想を掲げている人が、もっとも残酷なことをするの」

 うーん、端的にして的確。善行をしようとする人間が往々にして悪事に走る理由を簡潔に説明してる。その最たるものがポル・ポト。




 話があっちこっちにいくので先の展開がまったく読めなかったんだけど、巻末の橋本輝幸氏による解説を読んで腑に落ちた。

 実は、本書の執筆行為自体がゲーム的だった。この小説は「いくつかの道のどれを選ぶか迷ったら、もっとも険しい道を選ぼう」(小川哲による第三十八回日本SF大賞「受賞の言葉」、二〇一八年)というルールの下に書かれた。著者は最もありえざるルートをたどり、未知の先にある物語を目指した。小川は展開の分岐に差しかかると、思いついた中で一番先がなさそうな道を選んで続きを書いてみたという。
 そうすると何が起こるかというと、しばしば書き進められなくなり、詰む。そうして小川は、完成稿の三倍ほど書いては捨てる作業を途中まで繰り返した。物語の選択肢は「九〇パーセント死んで、一〇パーセントが生きた」(京都SFフェスティバルにおける小川一水との対談より、二〇一九年)という。数百枚書いて破棄したこともあるそうだ。

 なんと「いくつかの道のどれを選ぶか迷ったら、もっとも険しい道を選ぼう」というやり方で書いたのだという。なんでそんな苦行を……。

 道理で、せっかく構築した世界もすぐ壊れてしまうし、登場人物もようやく活躍しだしたとおもったとたんに死んでしまう。まるで意識的に読者を置いていこうとしているかのように。

 すごく粗削りなんだけど、「なんだかすごい小説を読んだ!」という気になる本だった。ひとりの人間がこれだけのものを作れるということに驚く。


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2025年9月16日火曜日

小ネタ40(お願いという言葉の意味を知らない人のお願い / 不倫デート / 例外の例外の例外)

 お願いという言葉の意味を知らない人のお願い


 不倫デート

 小学生の娘が友だちと遊園地に行ったところ、学校の先生(男性・既婚)と別の先生(女性・既婚)が歩いているところを目撃したらしい。

 不倫デート⁉ 見ちゃいけないものを見てしまった! とあわてた娘たちだが、その後、他の先生たちにも遭遇。話を聞くと、六年生の卒業遠足(毎年遊園地に行く)の下見に来ていたらしい。業務でした。


例外の例外の例外

 トゲアリトゲナシトゲトゲは例外の例外だ。トゲトゲの中の例外がトゲナシトゲトゲで、そのさらに例外がトゲアリトゲナシトゲトゲ。

 西暦2000年に2月29日があるのは例外の例外の例外だ。通常、2月は28日まで。その例外が4の倍数年で、2月29日まで。例外の例外が100の倍数年で、2月28日まで。例外の例外の例外が400の倍数年で、2月29日まで。

 例外の例外の例外というすごいことなのに、当時ほとんどの人はただの例外(つまり単なるうるう年)だと認識していた。2000年問題のせいでそれどころじゃなかったのだろう。