2025年8月20日水曜日

私はいつも他人の幸福を考えて生きている

 善行自慢をさせてほしい。

 ここ十年の間に私は落とし物を拾って交番または警察署に届けたことが四度ある。交通系ICカード、スマートフォン×2、財布だ。スマートフォンを落とした人はすごく困っただろうし、財布にいたってはちらっと中をのぞいたら数万円と各種カードが入っていた。

 相当な善行だ。もし私が地獄に落ちてもお釈迦様は縄ばしごを垂らしてくれるにちがいない。ヘリコプターで逃走する怪盗のようにハハハハハと高笑いしながら極楽に上がってゆける。


 スマートフォンを拾ったときに何か手掛かりがないかと起動してみたら、ハングル文字が表示された。たぶん韓国人のものだったのだろう。もしかしたら落とし主がこれを機に親日家になり、さらにその人が将来韓国の大統領になるかもしれない。そうすると私の善行が日韓関係の改善に大きく貢献することになる。すばらしいことだ。


 こうして拾得物による善行を重ねる一方、私は落とし物をして警察のお世話になったことがない。落とし物をしたことがないわけではないが、せいぜいマフラーとか折り畳み傘とか、「ちょっと惜しいけど買い替え時だとおもえばあきらめもつく」ぐらいのものばかりだ。

 折り畳み傘の場合は「もしかしたら私が落とした傘を誰かが拾って使っているかもしれない。そうすると私は傘を損したが人類全体で見ると幸福の総量は変わっていない」とおもえばちっとも悔しくない。私はいつも人類全体の幸福を考えて生きているのだ。あの日私が失ったマフラーだってホームレスのおじさんの首元を温めているかもしれない。

 落とし物でいちばん悔しかったのは買ったばかりの食パンを落としたことだ。会計後に買い物袋に入れたことははっきりおぼえているのに、家に帰ったら袋になかったので道中で落としたのだろう。パン屋さんで買った、ちょっといい食パンだった。三百五十円ぐらいのものだが、値段以上に悔しかった。なぜなら食パンの場合は、拾った人もたぶん食べてくれないからだ。きっとそのまま廃棄されているにちがいない。私も悔しいが、丹精込めてパンを焼いてくれたパン屋さんもさぞ悔しかろう。私はいつも他人の幸福を考えて生きている。


 私は一度も落とし物をして警察のお世話になったことがないので、“落とし物貯金”はずいぶん貯まっているはずだ。逆に「落とし物をしたが親切な人が届けてくれたおかげで無事に返ってきたけど、自分は一度も落とし物を警察に届けたことがない人」もいるはずだ。そういう人は、私がうんこを漏らしそうになっているときにはトイレの順番を譲るぐらいのことをしてもらいたい。なぜなら私がうんこを漏らしたらそのにおいによってあなたたちも不幸になるからだ。私はいつも他人の幸福を願って生きている。



2025年8月19日火曜日

【読書感想文】松岡 享子『子どもと本』 / 物語の種明かしをするなよ

子どもと本

松岡 享子

内容(e-honより)
財団法人東京子ども図書館を設立、以後理事長として活躍する一方で、児童文学の翻訳、創作、研究をつづける第一人者が、本のたのしみを分かち合うための神髄を惜しみなく披露します。長年の実践に力強く裏付けられた心構えの数々から、子どもと本への限りない信頼と愛が満ちあふれ、読者をあたたかく励ましてくれます。


 今から60年ほど前のアメリカの児童図書館で勤務し、日本に帰国後も児童向け図書館の設立などに携わった著者によるエッセイ。

 前半は「あたくしはこんな苦労をしてきたのよ」ってな感じの話が長々と続くので、あーおばあちゃんの自分語り本かーこれはハズレだなーとおもっていたのだが、中盤の児童文学論はおもしろく読めた。



 口承の物語について。

 ストーリーテリングの研究者で、恵まれた語学の才能を生かして、世界各地の語りの実状を調べたアン・ペロウスキーさんから聞いた話ですが、語りの伝統が生きているアフリカでは、たいていの子どもたちが、ひとつやふたつ物語を語ることができるものだそうです。ところが、地域に学校ができて、子どもたちが字を習うようになると、語れなくなってしまう、というのです。どうやら、わたしたちは、文字を獲得するのと引き換えに、それまでもっていた能力を失うのではないかと考えざるをえません。失うというよりは、その能力を十全に発達させる機会を失うということでしょうか。その「失う」能力は、実は、読書のためには欠かすことのできない力ことばをこころに刻む力、ことばに対する信頼、想像力を目いっぱい伸ばしてことばの奥に世界を創り出す力なのです。
 学校へ行くまでに、人より半年、一年ほど字をおぼえるのが早かったり、遅かったりすることが、十年後にどれほどの差を生むでしょうか。子どもが興味をもって習いたがったり、ひとりでにおぼえてしまったりするのはよいとして、耳からのことばをまず蓄えるべき幼児期に、無理に字を教え込もうとすることは、けっして賢明なことではないと思います。

「語りの伝統が生きているアフリカでは」ってめちゃくちゃ雑なくくりかただなー。さすが戦前生まれ(これも雑なくくり)。

 それはさておき。

「文字を獲得するのと引き換えに、それまでもっていた能力を失う」というのは興味深い考察だ。というのも、最近似た話を読んだからだ。

 鈴木 宏昭『認知バイアス』によれば、多くの幼児には写真のように見たものをそのまま記憶する能力があるのに、成長して言語を習得すると同時にその能力は失われてゆくのだそうだ。

 幼児は未熟で大人になるにつれ様々な技能を身につけていく、つまり成長とは一方的な能力アップだと思いがちだが、案外そうでもないのかもしれない。多くのステータスはアップするが、中には能力ダウンするステータスもあるのではないだろうか。


 うちの下の子は小学一年生だが、今でも寝る前には本の読み聞かせをしている。すると一度聞いただけの言い回しを正確におぼえていたりして、驚かされることがある。

 ぼくはまとまった文章を読んで内容を理解するのは得意な方だと自負しているが、その反面、他人の話を聞いて理解するのはめっぽう苦手だ。仕事でセミナーを聞いたことがあるがまったくといっていいほど頭に入ってこない。学生時代も、授業を聴くのをやめて教科書を読んで独学するようにしてからぐんぐん成績が上がった。

 そんな、「耳よりも目から情報を入れるほうが圧倒的に得意」なぼくからすると信じられないぐらい、娘は耳から聞いた情報をしっかりおぼえている。学校で先生から言われたこともちゃんと伝えてくれる。ぼくなんかまったく聞いていなかったのに。

 娘は一年生なのでもう一人で(ふりがながあれば)本を読めるが、それでもまだ耳から聞くほうが得意なのだろう。なのでぼくのところに「本読んでー」と持ってくる。

 そのうち目で読むほうが得意になって、父親のもとに「本読んで―」と言ってくることもなくなるのだろう(上の子はもうない)。さびしいことだ。




 昔話の特性について。

 また、リュティは、昔話の主人公には個性がないといいます。それは彼らに名前がないことからもわかるでしょう。昔話に登場する人物は、ただ「男とおかみさん」、「王さまとお妃さま」であって、名前がある場合でも「太郎、次郎、三郎」「ジャック」「イワン」など、性別や、兄弟の順を示すだけのもので、それらの人物の年齢、顔かたち、背格好、さらには、性格や、好みなどがくわしく描写されることはありません。せいぜい「世界一美しいお姫さま」「見あげるような大男」といった程度です。これらの人物は、ひとりの人間であるより、ひとつのタイプを示していると考えられます。
 タイプである人物には、「いいおじいさんと、わるいおじいさん」「やさしいおかあさんと、意地悪なまま母」「働き者の姉に、怠け者の妹」というふうに性格も極端に色づけされています。現実社会では、善良と見える人が、別の場面ではずるく立ち回ったり、相手によっては悪意をもって行動したりと、ひとりの人間のなかに違う性質が重層的に存在しているわけですが、昔話では、複雑なものを単純化し、ひとつの性質をひとりの人物にあてはめ、それをひとつの平面にならべて、違いを際立たせて見せています。リュティは、これを「平面性」と呼んでいます。単純になったことで、人の性質がつかみやすくなり、個性の縛りのないことで、聞き手(読者)の主人公との一体化が容易になります。これも、昔話が子どもに受け入れられやすい理由のひとつです。

 なるほどね。たしかに昔話の悪人って「四六時中悪いことを考えている徹底した悪」として描かれるよね。

 でも現実の悪はそんなんじゃない。たとえば賄賂を贈って東京オリンピックを誘致したやつらはすっごい悪だけど、一部の業界には利益をもたらしてくれる“いい人”なわけだし、家に帰れば善良な父や母や友人であったりするのだろう。

 大人になると、「いいやつに見えて悪いことをしてるやつ」が成敗される物語のほうがおもしろいけど、子どもにとってはもっと単純なほうが理解しやすくておもしろいのだろう。そういえばうちの子も小さいとき、映画などを観ていると「これいい人? 悪い人?」と聞いてきたものだ。すべての人はどちらかに分類できるとおもっているのだ。


 最近のディズニー映画やドラえもん映画などを観ていると、“完全なる悪”が減ってきているのを感じる。少子化の影響や大人もアニメを観るようになった影響だろう、ディズニーやドラえもんの映画でも「一見いい人の顔をして近づいてくるけど実は悪だくみをしている敵キャラ」や「こっちサイドにとっては悪だけど向こうには向こうの事情があって形は違う理想を描いている敵キャラ」が出てくる。敵に深みがあると物語に奥行きが出て大人にとってはおもしろいんだけど、はたして子どもにとってもおもしろいんだろうか。

 たとえば白雪姫の妃やフック船長のような、「己の欲望にしか興味のない、誰がどう見ても悪いやつ」のほうが、子ども向けコンテンツの敵役にはふさわしいんじゃないだろうか。

 近年はアニメ映画なんかがヒットしているけど、ほんとに子ども向けのコンテンツはかなり少なくなっている気がする。




 昔話、おとぎ話における“先取り”について。

 ビューラーは、予言、約束と誓い、警告と禁止、課題と命令、の四つを効果的な先取りの様式としてあげています。なるほど、「いばらひめ」は、予言が軸になって物語が展開しますし、「おおかみと七ひきの子やぎ」は、警告と禁止がきっかけで物語が動きはじめます。そのほかの項目についても、少しでも昔話に親しんでいる人なら、すぐにいくつかの例を思いつくでしょう。もし、首尾よくこれをなしとげたら、三つのほうびを約束しておこう。この三つのなぞを解いたら、娘を嫁にやろう。ほかはよいが、この扉だけは開けてはならぬ。これをなしとげるまで、けっして口をきいてはならない。ひとことでもしゃべれば、命はないぞ……。
 これらは、昔話のなかで、わたしたちが何度も耳にすることばです。そして、これらのことばが発せられるたびに、わたしたちの心には、期待、不安、怖れなどの感情が生まれ、緊張感をもって話の先へ注意を向けることになるのです。
 
 (中略)
 
 一般的にいって、子どもたちの注意の集中力は長くありません。先を見通す力も十分ではありません。そんな子どもたちに、話の先を知らせ、注意をそらすことなく、いつも話の中心に関心をひきつけておく、それが先取りの方法だと思います。先取りの示すヒントに従っていけば、注意力の散漫な子どもでも、話についていけます。
 歩きはじめた子どもは、いきなり長い距離を歩きとおすことはできません。でも、母親が、ちょっと先に立って、手招きしてやれば、そこまではたどりつくことができます。そして、母親がそのたびに、少しずつうしろへ下がって同じように誘えば、そこまで、またつぎのところまで……と歩き、結果として、かなりの距離を歩くことになるでしょう。先取りは、この母親役なのです。幼い子でも、昔話であれば集中して聞けるのは、この先取りがうまく作用しているからではないでしょうか。

 たしかにね。昔話って、この「予言」あるいは「警告」が頻繁に出てくる。「○○するだろう」と言えばその通りになるし、「決して××してはいけない」と言えば必ず××することになる。

 あれは物語におけるガイド役なんだね。歩くときに子どもの手を取って「そこに段差があるからこけないように気を付けて」「車が来るからちょっと待ってね」と先導してやるように、上手に歩けるように助ける役割を果たしているわけだ。

 毎日絵本の読み聞かせをしているけど、気づかなかったなあ。




 著者のエッセイ部分で、大きくうなずいたところ。

 国語力をつけるという面では、多くを負っている先生なのですが、たったひとつ、恨めしく思うことがあります。それは、副読本でその一部を読んだメーテルリンクの「青い鳥」についての説明のなかで、作品がいわんとしているのは、幸福は結局家庭にあるということだと種明かしをしてしまわれたことです。
 それまで、どんな物語も、ただただ「おもしろいお話」として読んできたわたしに、これは手痛い一撃でした。ふぅーん、そうなのか! 幻滅といっていいのか、裏切られたといっていいのか、「青い鳥」が一瞬にして色あせた気がしました。F先生は、わたしがよもやそこまで幼いとは思っていらっしゃらなかったのでしょうが、大げさな言い方をすれば、これはわたしの読書生活史のうえで、無邪気で幸せな子ども時代の終焉を告げる忘れがたい出来事でした!

 そうそう、物語って教訓とか意図とかを言語化されると急に色あせてしまうんだよ!

 以前にも書いたが(魔女の宅急便と国語教師)、物語に込められた作者の意図を説明してしまうという行為は、マジックの種明かしをするようなものだ。種明かしをされたら感心するし種明かしをするほうは気持ちいい。でも、それをしてしまうとマジックのおもしろさは永遠に損なわれてしまう。

 物語の種明かしはやめてくれよな! 特に国語教師!


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【読書感想文】鈴木 宏昭『認知バイアス 心に潜むふしぎな働き』 / 言語は記憶の邪魔をする

魔女の宅急便と国語教師



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2025年8月18日月曜日

【読書感想文】長岡 弘樹『傍聞き』 / ふつうのミステリだと周縁の人たち

傍聞き

長岡 弘樹

内容(e-honより)
患者の搬送を避ける救急隊員の事情が胸に迫る「迷走」。娘の不可解な行動に悩む女性刑事が、我が子の意図に心揺さぶられる「傍聞き」。女性の自宅を鎮火中に、消防士のとった行為が意想外な「899」。元受刑者の揺れる気持ちが切ない「迷い箱」。まったく予想のつかない展開と、人間ドラマが見事に融合した4編。表題作で08年日本推理作家協会賞短編部門受賞。


 四篇のミステリ短篇を収録。

 表題作『傍聞き』以外は、登場人物たちの職業が刑事ではなく、救急隊員、消防署員、更生保護施設の施設長など「ふつうのミステリだと出てきても脇役程度の人たち」なのがおもしろい。

 いいところに目をつけたなあ。救急隊員や消防署員ってけっこう“事件”を目撃する機会がありそうだもんな。刑事よりも先に現場に駆けつけるわけだから、刑事以上に重要な手掛かりをつかむことだってあるだろう。「なんだこの奇妙な現場は」とおもうようなミステリに遭遇する機会だって、ふつうの人よりずっと多いはず。

 そう考えるとミステリ小説の主人公としてはけっこう適役かもしれない。



迷走

 刃物で刺された人物のもとへ駆けつけた救急隊員。刺された人物はなんと救急隊長と因縁のある人物だった。病院へ搬送する最中、隊長はなぜか病院とは違う道へ車を走らせるよう指示を出す。病院へ向かわずに迷走を続ける救急車。はたして隊長の目的は……。


 これがいちばんおもしろかった。舞台設定に偶然が過ぎる部分もあるが、真相が明らかになる種明かしは実に鮮やか。今まで見えていた景色が一瞬にしてまったく別の姿に変わる。

 ただ隊長が他の隊員に説明しない理由がちょっと弱い。最後にいっぺんに種明かしするほうがミステリとしてはおもしろいけどさ。


傍聞き

 娘と二人暮らしの刑事。留置所の窃盗常習犯から面会の申し出があるが、会いに行ったのに何も語らない。

 一方、刑事の家庭では反抗期の娘は不満があると口を聞かなくなり、要件はメモで伝えてくる。さらに最近はわざわざ手紙を投函して刑事の仕事に対する文句を言って来るようになる……。

 

 ミステリとヒューマンドラマを上手に組み合わせている、のか……? 高く評価された作品らしいけど、ずいぶんまどろっこしいことしてんなーという印象だった。


899

 消防士の男は、近所のシングルマザーに恋愛感情を抱いている。ある日、そのシングルマザーの家が火事に。乳児が取り残されているとの通報が。駆けつけた男は、最近子どもを亡くした部下に自信を取り戻させるため乳児の救出を任せる。だがいるはずの乳児の姿がなく……。


 種明かしは鮮やかではあるけれど、現実的かというと、かなり無理がある。(理由があったとはいえ)乳児をわざわざ危険にさらすようなことを消防士が行動に移すかというとなあ……。恋心を抱いている相手の家が火事になって消防士として駆けつけるのも偶然が過ぎるし(主人公が犯人だったらわかるが)、部下がとった行動も無理があるし、その行動の結果も狙い通りにいきすぎだし。

 いろいろとやりすぎな小説。


迷い箱

 元受刑者を受け入れる更生施設の施設町は、ある入所者が自殺するのではないかと心配していた。就職先を世話した後も気がかりで、あるとき彼の後をつけると……。


 ここまでハートフルな結末が続いていたのでこれもそうだろうなとおもっていたら、案の定。いちばん意外性のない作品だった。



 個人的な好みの差はあったが、どれもよくできた短篇ミステリだった。ちょっとした驚きもあって、後味も悪くなくて、主人公の心の揺れも描かれている。“傍聞き”“迷い箱”といったキーワードの使い方もうまい。そして文章に無駄がなく、過不足なくまとまっている。

 この作者の作品を読むのははじめてだったが、他のミステリも読んでみたいとおもわされる出来だった。


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2025年8月8日金曜日

【読書感想文】高橋 克英『なぜニセコだけが世界リゾートになったのか』 / 誰もが楽しめるリゾートの時代は終わった

なぜニセコだけが世界リゾートになったのか

「地方創生」「観光立国」の無残な結末

高橋 克英

内容(Amazonより)
地価上昇率6年連続日本一の秘密は何か。
新世界「ニセコ金融資本帝国」に観光消滅の苦境から脱するヒントがある。
富裕層を熟知する著者の知見「ヒトより、カネの動きを見よ!」
ローコスト団体旅行によるインバウンドの隆盛はただの幻想だった。かわりにお金を生むのは、国内に世界屈指のリゾートを作ることだ。平等主義に身も心もとらわれた日本人は、世界のおカネのがどこに向かっているのか、その現実にそろそろ目覚めるべきではないだろうか。
ニセコ歴20年、金融コンサルタントとして富裕層ビジネスを熟知した著者による、新しい地方創生・観光論。バブル崩壊以降、本当にリスクを取ったのは誰だったのか?

 上質なパウダースノーがあることからオーストラリア人スキーヤーの間で人気となり、それに伴って次々にリゾート開発がおこなわれ今や日本を代表するリゾート地となっている北海道・ニセコ。地価はどんどん上がり、超高級ホテルやコンドミニアムなど開発が進んでおり、コロナ禍を経てもその勢いは止まらない。

「上質なパウダースノー」という自然環境もあるが、それだけではニセコの成功は説明がつかない。ニセコ開発の歴史や他の観光地との比較を通して、成功の要因を探る本。




 ニセコの成功の要因のひとつは、外国資本が入ってきたことだ。

 海外の企業が投資して宿泊施設、サービスなどを提供したことで、海外富裕層が訪れやすくなった。日本企業、あるいは国や自治体などが主導していたならこううまくはいかなかっただろう。

 現在、日本各地に死屍累々と存在する「バブル期につくったでっかいハコモノの跡地」がそれを証明している。

 こうしてバブル期に東急グループや西武グループなど日本企業によって作られたニセコの礎は、バブル崩壊後、豪州や米国資本の手を経て、今は香港、シンガポール、マレーシアなどアジアの財閥グループなどによって、更なる大規模開発が続くに至っている。
 地元への還元という意味では、「外国資本」も「日本資本」もあまり変わらないのかもしれない。むしろ海外資本のほうが、景観など自然環境や地元還元、ダイバーシティに理解があったりする。概してビジネスライクで、合理的ではあるが、ロジカルであったりもする。長期的関係を重視する姿勢もニセコにおける開発計画にはみられる。
 ニセコの歴史を振り返ってみる限り、日本資本のほうが短期的でビジネスライクだったといえるのかもしれない。以前の日系ホテルのレストランでは、ニセコ産以外の食材を使う傾向があったが、外資系ホテルに代わってからは地元食材を使ってくれるようになったという。

 外国資本だからうまくいったというのもそれはそれで極端な意見だが、少なくとも海外富裕層を呼びこむためのノウハウは日本企業よりもずっと豊富に持っているだろう。もちろん官庁主導なんて話にならない。

 著者は、国や自治体が主導するリゾート計画の失敗を痛切に批判する。

 官主導、地元自治体主導の観光策やリゾート計画だと、卓上のこうあるべき論や、調査やアンケートやイメージなどから始まり、デメリットやリスクも考え、結局、総花的で「幕の内弁当」のような施策となり、肝心の需要が置き去りにされて、失敗するケースがほとんどだ。いつまでも勉強ごっこと資料収集ばかりしないで、実需を生む営業をし、収益を生む仕事にフォーカスすべきであり、まずは見切り発車すべきだ。
 走りながら考え、実践しながら修正してきたのが、まさにニセコの軌跡だ。行政を筆頭に日本の観光当事者には、事なかれ主義や完璧主義の弊害から、見切り発車をし、走りながら修正するという、スピーディーに顧客ニーズに応えるスタイルが著しく欠けているのではないだろうか。

 そうなんだよね。日本が豊かになった1980年代、あちこちにリゾート施設ができた。「あそこはあんなのを作ったそうだ。おらの町も負けてらんね」的な発想で、次々に。地元の需要も地域の特性も無視して、日本中に同じようなテーマパークができた。

 結果、ほとんどつぶれた。だって同じようなものがあちこちにあるんだったら、わざわざ遠くのテーマパークに行く必要ないんだもん。


 また、多くのリゾート施設の失敗は、すべての人をターゲットにしようとしてあれもこれもと詰めこむ「幕の内弁当」化にあると著者は指摘する。

 猫も杓子も押し寄せる場所に富裕層は来ない。彼らが望むのは特別扱いであり、待たずに済むことである。庶民が大勢来る場所ではそれは叶えられない。

 幕の内弁当にすればたしかに観光客数は増える。だが人が増えれば交通は渋滞し、景観は乱れ、環境は破壊される。観光客の満足度が下がるだけでなく、住民の生活にも支障が出る。京都などで現在起こっているオーバーツーリズム問題だ。

 ニセコがうまくやったのは、富裕層にターゲットを絞ったことで、観光客数を絞りつつ地元に落とさせるお金を増やせたことだ。

 ニセコの場合は雪質が良かったからできたことなのですべての観光地がまねできるわけではないけれど、参考にはなるだろう。


 べつに富裕層にターゲットを絞らなくたって、「長時間並ぶし料理が出てくるのも遅い入場料5,000円のテーマパーク」と「並ばずに済む入場料10,000円のテーマパーク」だったら後者を選ぶ人も少なくないとおもう。ぼくはどっちかっていったら後者だ。めったに行かないからこそ、行くときはストレスなく楽しみたい。

「入場料5,000円で1日200人来場」と「入場料10,000円で1日100人来場」だったら売上はどちらも100万円だけど、後者のほうがコストは少なくなる。つまり利益は大きくなる。来た人の満足度も後者のほうが高いだろう。

 これから働き手はどんどん少なくなる。外国人観光客を呼びこんだって受け入れ先に従業員がいなければどうしようもない。「誰もがそこそこ楽しめる施設」は淘汰され、「ターゲットを絞って満足度と使うお金を高める施設」が生き残ってゆくのだろう。



 この本が刊行されたのは2020年12月。コロナ禍まっただなかである。

 だが海外旅行客がほぼゼロになったときですら、ニセコ開発の速度は陰る様子もなかったという。

 コロナショックにより、日本だけでなく米国、欧州の政府と中央銀行により、史上最大規模の金融緩和策と財政出動策がとられている。コロナ禍から国民の生命はもちろんのこと、
 「雇用と事業と生活」を守るためにはあらゆる手段を尽くすとの意思表示である。
 金融緩和とは、極めてシンプルにいってしまうと、「人工的にカネ余り状態を作り経済を浮揚させる」ことだ。このため、極論をいってしまえば、日米欧が大規模な金融緩和策を採っている限り、おカネはジャブジャブ状態にあり、国際金融市場は悪くなりようがないということだ。
 各国の中央銀行から、おカネが際限なく供給されているわけであり、水の流れと同じように、おカネは必ずどこかに流れ着く。本来は銀行貸し出しなどを通じて設備投資や運転資金に回り、経済や雇用の活性化につながるのがベストではあるが、そこから余り溢れたおカネは、余剰資金として、株式市場や不動産市場に流れることになる。
 金融緩和策とは、言い換えれば低金利政策であり、今はゼロ金利政策やマイナス金利政策が日米欧でとられている。このため、余剰資金を定期預金や国債など債券に預けても、雀の涙ほどの利息にしかならないどころか、マイナス金利の預金のように、逆に金利を払ったり、手数料を払ったりする必要がある場合もあるほどだ。だから、少しでも高い利回りを求めて世界中のおカネが動くことになる。とはいえ、ハイリスク・ハイリターンはご免だ。せいぜいミドルリスク・ミドルリターンを狙いたい、ということで、日米欧といった先進国の株式市場や不動産におカネが日々流れ込んでいるのだ。途上国よりも先進国の株式、過疎地より都市部や高級リゾートの不動産という選択となり、その流れのなかにニセコも含まれている。それがコロナ禍下で、実体経済はダメながら金融市場は活況であるからくりだ。

 なるほどねえ。コロナ禍で株価がすごく高くなってたのをふしぎにおもってたけど、こういうからくりか。みんなが困っている時代でも(そんな時代だからこそ)お金が余って余ってしかたない人がいるんだなあ。




 札幌市が開催地として手を挙げている冬季オリンピックについて。
  2020年1月、日本オリンピック委員会(JOC)により、札幌市が2030年冬季オリンピック・パラリンピックの開催地に立候補することが正式に決まった。札幌の計画には輪のマラソン会場を受け新設の競技会場は一つもなく既存施設を活用すること、東京夏季五輪のマラソン会場を受け入れたことなどもあり、IOCの評価も高いとされている。
 もし開催されれば、1972年以来となる札幌五輪のアルペンスキーの会場候補地には、富良野など並み居る競合地を抑え、ニセコが挙がっている。4種あるアルペン競技の中で、滑降とスーパー大回転は湯の沢地区(ニセコビレッジスキー場とニセコアンヌプリ国際スキー場の間)に新コースを造る方向で検討、大回転と回転はニセコビレッジスキー場の既存コースを活用するという。ニセコビレッジでは、今後リフトやゴンドラ増設などが検討されることになる。
 なお、札幌では、サッポロテイネスキー場、札幌国際スキー場などが、フリースタイルやスノーボードの会場として計画されている。大会開催に伴う経済波及効果は、北海道内で約8850億円、雇用誘発数は同じく北海道内で約7万人と試算されている。
 ニセコでの五輪競技開催は、ニセコの地を、欧州や北米など海外スキーヤーや富裕層に、強くPRすることになる。2030年は北海道新幹線が札幌まで延伸され、ニセコに新駅が誕生する年でもある。五輪と新幹線の効果で、北海道、札幌、そしてニセコの活性化とブランド力の更なる向上につながることになろう。

 なるほどなあ。一般市民の反対の声が強くても、東京五輪が汚職まみれになっても、それでも開催したいのはそれだけ儲かる人がいるからなんだなあ。


 小林一三(阪急電鉄の創設者)は、鉄道路線を敷くと同時にその周辺に百貨店・遊園地・劇場などをつくり、鉄道の利便性を高め、施設利用者を増やし、地価を上げるという相乗効果を生みだした。

 この手法は他の会社でも踏襲され、鉄道会社が不動産開発をしたり、商業施設をつくったり、新聞社がスポーツ大会を開催したりした。

「イベントが開催されることによって儲かる会社が、自ら金を出してイベントを主催する」という手法だ。

 ところが今はあまりそういう会社はない。

「政党に献金をして税金をたんまり使ってイベントを開催させ、それによって甘い汁だけ吸う」というやり方にシフトしている。

 オリンピックや万博のまわりに群がっている連中だ。万博なんて「営業黒字になるかも!」とかわけわからんこと言ってるけど、あれ、用地費用とか建設費用はすべて税金だからゼロ円計算だからね。何千億という税金をもらって「やったー黒字だ!」って言ってるんだよ。黒字にならなきゃおかしいでしょ。


 ニセコのリゾート開発がうまくっているならけっこう。ぜひその調子で税金でアホなイベントを開催せずにがんばってもらいたい。


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2025年8月6日水曜日

変な名前に対する処世術

 六歳の娘が「こどもが生まれたらどんな名前をつけるか考えた」と言う。


「へーどんなの」

  「女の子だったら、かりん」

「へー。かりんちゃんかー。かわいい名前だね」

  「でしょ? で、男の子だったら、さいかわ!」

「さ、さいかわ……?」

  「そう!さいかわ!」

「(苗字みたい……)へー、えーっと、とってもめずらしい名前だねー」

  「でしょ!」

 そして娘は、母親のところへ走っていき、「ねえ聞いて、こどもが生まれたらどんな名前にするか考えた! めずらしい名前!」とうれしそうに語っていた。

 どうやらぼくの言った「めずらしい名前」という感想が気に入ったらしい。


 だが娘よ。

 君はまだ人生経験が浅いから知らないだろうが、おとうさんの言った「めずらしい名前だね」は褒め言葉じゃないぞ!

 悪いとは言えず、かといって良いとも言いたくないときに使う苦しまぎれの感想だ!

 おとうさんは、知人からこどもの名前を聞いて「変な名前」とおもったときは「へーめずらしいですねー」とか「クラスの誰ともかぶらなさそうですよね」とかで切り抜けてるぞ!

 変な名前をつけるやつは「唯一無二な名前であること」に異常に誇りを持っているから、そんな感想でもけっこう「そうなんですよー☆」と喜ばれるぞ!

 おぼえとくといいぞ!