2025年5月23日金曜日

【読書感想文】川上 和人『無人島、研究と冒険、半分半分。』 / スペシャリストたちが結集

無人島、研究と冒険、半分半分。

川上 和人

内容(e-honより)
鳥類学者(川上和人) VS 南硫黄島(本州から約1200kmの無人島)。闇から襲いくる海鳥!見知らぬ、斜面。血に飢えたウツボ!史上最強の冒険が、今はじまる。

 鳥類学者が南硫黄島と北硫黄島を研究調査のために訪れた記録。

 以前別の本(『鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』)を読んだときもおもったけど、文章がいちいちおもしろい。

 そういう目で周囲を見回してみると、崖のほど近くには角張った石がたくさん落ちている。もちろん調査隊員たちは、熟睡しながら寝返りをうって偶然落石を避けるイメージトレーニングもしてきているが、おそらく役に立つまい。テントは、崖下から一定の距離をとって設置するのが無難である。
 さて、テントを張ったはいいが、薄いシートの下はゴロゴロの玉石である。しかも、玉石は昼間の灼熱の太陽でアッツアツに熱されている。こんなところで寝たら、遠赤外線でじっくり美味しくグリルされ、注文の多い料理店南硫黄島支店が初出店してしまう。
 「おーい、ミナミイオウえもーん。たすけてよー」
 てってれー。
 「おりたたみベッドー!」
 島の環境は事前に把握していたため、我々はキャンプ用の折り畳みベッドを島に持ち込んでいた。一つのテントに二つのベッドを入れ、即席ツインルームを作る。
 南側から登ってきた私たちは北側を知らない。南半球だけを訪れてコアラに満足して地球を知ったつもりになった火星人のようなものだ。
 北半球にパンダがいるとも知らずに一生を終えていくとは哀れな火星人である。彼らの二の舞になるわけにはいかない。


 こういうギャグってえてして読んでいるとうすら寒くなるんだけど、その点、研究者は得だ。

 ふざけた文章でも、読んでいて「そうはいってもこの人の本職は研究者だもんな。余技としてふざけてるけど、まじめに研究もしてるんだろ。おもしろい人だな」と軽く受け止められる。

 プロのエッセイストの文章だと「この人はおもしろおかしい文章を書くのが仕事だから、なんとかして笑わせようと必死にふざけてるんだな」という魂胆が見えてしまって笑えない。

 そのへんのおじさんがバナナの皮ですべって転んだらおもしろいけど、プロの芸人が舞台の上で同じことをやっても笑えないのと同じだ。

 ぼくが文章を読んでおもしろいとおもうのは、研究者や歌人や翻訳者など、プロの作家・エッセイストでない人ばかりだ。文筆業の人の文章に対しては知らず知らずのうちに身構えているのかもしれない。




 この本の前半は小笠原諸島にある無人島・南硫黄島を訪れた記録であり、中盤は、そのすぐ近くにある北硫黄島の探索記、そして後半は最初の訪問から10年後に再訪したルポである。

 南硫黄島も北硫黄島も近い場所にある小さな無人島だが、その二島には決定的なちがいがある。北硫黄島にはかつて人が住んでいた(最大でも人口200人ほど)のに対し、南硫黄島のほうは有史以来ほぼずっと無人島(漂着して一時的に滞在していた人がいる程度)だったことだ。

 なので、この二島人が住んだことのない島に住む動物を比較すれば、「人間が生態系に与える影響」がわかるわけだ。


 これがおもしろい。

 基本的に人間は、「人間の影響を受けた自然」しか観察することができない。人間が行けない場所は観察できないのだからあたりまえだ。

 南硫黄島は、ほとんど人間の影響を受けていない。人は住んでいないし、ふだんは立入禁止の区域である(著者たちは特別な許可を受けて入島している)。そうでなくても、本土から1,000km以上離れているのでわざわざ訪れる人はまずいないだろう。

 そして周囲を海に囲まれているので哺乳動物も渡ってこれない。

 環境に大きな影響を与えるのは、実はネズミらしい。かつて自然豊かな島だったイースター島の森林が消滅したのは、人間の活動と、人間についてきたネズミのせいだそうだ。天敵のいない島で爆発的に増えたネズミが木の実を食べ尽くしてしまったのだとか。

 南硫黄島とよく似た地形でありながらかつて人が住んでいた北硫黄島にはネズミがいる。船に乗りこんでついてきたからだ。本来島にいなかったネズミの活動により、植生が変わったり、観測できる鳥の分布も変わったのだそうだ。地面近くに巣をつくる鳥は、ネズミがいる島ではヒナを食べられてしまうので生息できないのだ。

 人間がやってきたことで動物が絶滅したなんて話を耳にするが、人間が捕獲しすぎたからという理由だけでなく、人間が(意図しようとしまいと)連れてきた動物によって滅ぼされたというケースもあるのだ。

 惑星探索をするときは、宇宙船の中にネズミがいないかよく調べないといけないね。宇宙人を滅ぼしてしまわないように。




 南硫黄島と北硫黄島を探索しているのは鳥類学者の著者だけでない。昆虫の研究者、植物の研究者、カタツムリの研究者などが集まり、プロの登山家やNHKの撮影班などが加わり、探索チームを結成しているのだ。

 かっこいい。

 こういうの、あこがれるなあ。各分野のスペシャリストたちが結集して、それぞれが強みを生かして活躍する。ときにはそれぞれの目的に向かい、ときには力をあわせ、チームを高みへと導く。

 しびれるなあ。『七人の侍』みたいだ(観たことないけど)。


 ふつうは夜飛ぶオオコウモリが南硫黄島では昼間に飛ぶ、という話。

「じゃぁ、なんでこんなに昼間によく飛ぶんだろね。父島でも北硫黄島でも、こんなに昼間に飛んでることはないよね」
 いろいろな島でオオコウモリを見てきたハジメがそう言うのだから間違いない。
「捕食者がいないからじゃないですかね。父島にはノスリがいるし、北硫黄島では絶滅しちゃったけど昔はシマハヤブサがいたじゃないですか。でも、南硫黄にはシマハヤブサの記録もないし、昼間にも安全だから夜行性の縛りから解き放たれたってことで」
 これは鳥の研究者としての私の意見だ。
 シマハヤブサはハヤブサの亜種で、火山列島に固有の鳥だ。過去には硫黄島と北硫黄島にいたが、人間が入植してから絶滅してしまった。一方で南硫黄ではシマハヤブサの記録はない。この島には人間が影響を与えていないので、もしいたとしたら生き残っているはずだ。しかし、前回調査でも今回調査でも確認されていないので、もともといなかったと考えるのが合理的だ。私は捕食者不在説を唱えたが、ハジメの意見は違った。
「それよりも、食べ物が少なくて夜だけじゃ十分に食べられてないんじゃないかな。だから昼にも食物を探してるんだよ、きっと。さっき歯がボロボロだったじゃない。あれは、よほど食べ物がなくて、父島じゃ食べないような硬いもの食べてるんだよ」
 確かにそうかもしれない。
 オオコウモリは果実を好む動物だ。しかし、この島ではオオタニワタリというシダの葉にまで彼らの噛み跡があった。もちろん葉っぱは果実より栄養価が低い。食物が十分にある父島では見られない光景だ。こんなものまで食べるということは、相当に食物が不足しているのだろう。
 ただし、捕食者不在と食物不足は互いに相容れないものではない。両方とも正解ということにしておこう。
 食事をしながら議論をするのは楽しい。そして議論は調査地でするに限る。なぜならば生物の進化や行動は、それぞれの環境の中で育まれてきたものだからだ。

 コウモリの研究者と鳥の研究者。専門分野はちがえど、それぞれが知見を出しあうことで活発な議論が生まれる。他分野の専門家と話すことで、おもいがけないひらめきが得られることもあるだろう。

 すばらしい環境だ。

 マシュー・サイド『多様性の科学 ~画一的で凋落する組織、複数の視点で問題を解決する組織~』によれば、シリコンバレーでハイテク分野のイノベーションが次々に生まれたのは、会社同士の横のつながりがあったからだという。別分野の専門家たちが接することで多様な視点からのアイデアが生まれ、イノベーションに結びついたのだそうだ。

 南硫黄島のような場から偉大な発見が生まれるのだろう。

「いかにもすぐ金になりそうな研究」じゃなくてこういうところに国の金を使ってくれ!


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2025年5月21日水曜日

小ネタ36 (サクマドロップ / 超能力戦士ドリアン / 高校生になってラグビーを始めたジャイアン)

サクマドロップ

 サクマドロップには2種類の味がある。「ハッカ」と「ハッカじゃないやつ」だ。


超能力戦士ドリアン

 妻に「超能力戦士ドリアンのライブに行ってくる」と言われた。まったく知らなかったが、そういう名前のバンドがいるらしい。

「地球儀持ってライブやるんでしょ?」と訊いたら「それは宇宙海賊ゴー☆ジャス」と的確にツッコまれた。結婚して10年以上たつとここまで心が通いあうのだ。


高校生になってラグビーを始めたジャイアン

「ALL FOR ONE, ONE FOR ONE」


2025年5月14日水曜日

レベルアップがゲームの醍醐味

 ロールプレイングゲームで、ゲーム中盤で仲間が追加されるイベントが発生することがある。

 そのとき、仲間のレベルが高いとがっかりする。加入した時点でLV30とか。


 やめてくれよぉ。

 制作者は「ここで弱いやつを入れても足手まといになるだろうしレベル上げ大変だろうからLV30にしといたるわ」って感じなのかもしれないが、余計なお世話だ。LV1にしてくれ!

 RPGの楽しさはレベル上げなんだよ。


 現実世界では、スポーツでも楽器演奏でも勉強でも、なかなかレベルは上がらない。何ヶ月も続けていけばレベルは上がっているが、それは「いつのまにか」であって、「おっ、今おれレベル上がった!」という瞬間はそう訪れない。

 たとえば野球で「カーブを投げる」という目標に向けて練習するとする。

「曲がらんなあ」

「あれ今ちょっと曲がった気がする」

「けっこう曲がった……かな?」

「あ、今のは失敗」

「ちょっと曲がったけどぜんぜんストライク入らねえ」

「曲がってる!」

みたいな感じでグラデーション的に成長していく(ときには後退することもある)ので、はたしてどの時点をもって「カーブを習得した」と言えるのかよくわからない。

 でもゲームなら「ピロリロリン♪ やった!大谷はカーブを習得した!」みたいなメッセージがあって、そこからは自由自在に投げられるようになる。このわかりやすさこそがゲームの魅力だ。



 その楽しさをいちばんわかりやすく味わえるのがロールプレイングゲームだ。

 レベルが数値化されていて、レベルが上がればパラメータも変化して、レベル以外にも武器の強さとか魔法のパワーとかも数字でわかって、自分の分身が成長していることがはっきりわかる。

 レベル上げこそロールプレイングゲームの醍醐味だ。

「LV30で加入してくる仲間」はその楽しさを奪っている(あとゲームスタート時に主人公のレベルが5とかになってるやつも意味わかんない。序盤にレベルが下がることはまずないんだからスタートは1でいいだろ)。


 ぼくが大好きなのは、「中盤で加入してくるレベルの低いやつ」だ。

 たしかにレベルが低い仲間は足手まといだ。戦力にはならないし、それどころかどんどん回復してやらないとすぐ死ぬし。

 その代わり、敵を倒したときはぐんぐんレベルが上がる。一気に2以上もレベルアップすることすらある。ドラクエの「てれれれれってってー♪ てれれれれってってー♪ てれれれれってってー♪」が鳴りやまないときなんて、最高に楽しい。



『ポケットモンスター』が人気になった要因のひとつが、実はこの「レベル上げの快感をいっぱい味わえること」なんじゃないだろうか。

 ふつうのRPGならレベルが上がるのはせいぜい数百回だ。4人のキャラクターが1→100までレベルアップしたら、99×4で396回。じっさいはLV99まで上がらないこともあるし、前述したようにLV30から加入するやつもいたりするから、もっと少ない可能性もある。

(最近のゲームをやってないので昔のRPG基準で話してます)


 一方、『ポケットモンスター』では100を超えるポケモンを仲間にできるので、それぞれ育成させれば合計で数千、数万回もレベルアップする。

 さらにパラメータの上昇だけでなく「わざをおぼえる」や「しんか」といった、わかりやすい成長イベントも発生。

『ポケットモンスター』はレベルアップを楽しむためのゲームなのだ。



2025年5月13日火曜日

【読書感想文】村上春樹『回転木馬のデッド・ヒート』 / とりとめのない話をとりとめもないままに

回転木馬のデッド・ヒート

村上春樹

内容(e-honより)
現代の奇妙な空間―都会。そこで暮らす人々の人生をたとえるなら、それはメリー・ゴーラウンド。人はメリー・ゴーラウンドに乗って、日々デッド・ヒートを繰りひろげる。人生に疲れた人、何かに立ち向かっている人…、さまざまな人間群像を描いたスケッチ・ブックの中に、あなたに似た人はいませんか。

「著者が体験した、または知人から聞いた、小説にするほどでもないとりとめのない話」をつづった短篇集。

 うん、たしかに「とりとめのない」という言葉がしっくりくる。スリリングな展開も鮮やかなオチもストーリーから導かれる教訓もない。

 それでも読めるのは村上春樹氏ならではだよな。なんてことのない文章なのに、読んでいて退屈しない。というか村上春樹作品ってだいたいそんな感じだし。『回転木馬のデッド・ヒート』よりは起伏があるけど、山場というよりは丘といった程度。



 前書きがあまりに「村上春樹っぽい」文章で、おもわず笑っちゃった。

 他人の話を聞けば聞くほど、そしてその話をとおして人々の生をかいま見れば見るほど、我々はある種の無力感に捉われていくことになる。おりとはその無力感のことであ我々はどこにも行けないというのがこの無力感の本質だ。我々は我々自身をはめこむことのできる我々の人生という運行システムを所有しているが、そのシステムは同時にまた我々自身をも規定している。それはメリー・ゴーラウンドによく似ている。それは定まった場所を定まった速度で巡回しているだけのことなのだ。どこにも行かないし、降りることも乗りかえることもできない。誰をも抜かないし、誰にも抜かれない。しかしそれでも我々はそんな回転木馬の上で仮想の敵に向けて熾烈なデッド・ヒートをくりひろげているように見える。
 事実というものがある場合に奇妙にそして不自然に映るのは、あるいはそのせいかもしれない。我々が意志と称するある種の内在的な力の圧倒的に多くの部分は、その発生と同時に失われてしまっているのに、我々はそれを認めることができず、その空白が我々の人生の様々な位相に奇妙で不自然な歪みをもたらすのだ。
 少なくとも僕はそう考えている。

 うーん、村上春樹だなあ。いい意味でも悪い意味でも。

 このまどろっこしさよ。個人的には嫌いじゃないぜ。ビジネスの場で部下がこんな文章を書いてきたら「ふざけんな」と言うけど。




 八篇の「とりとめのない話」が収録されているが、ずっと退屈なわけではない。

 望遠レンズを使って好きな女の子の部屋をのぞいたり、毎日毎日嘔吐をくりかえしたり、両親が離婚したり、金をもらって行きずりの男と寝たり。

 めずらしい出来事が語られる。でも、ただそれだけなのだ。

「Aが起こったのはBが原因だったのです」とか「Aの結果、Cになってしまいました。Aをすべきではなかったのです」とかいったオチが用意されているわけではない。「Aが起こりました。おしまい」なのだ。

 起承転結の結がない。起・承・転・承みたいな感じでぬるっと終わる。


 これって逆にむずかしいんじゃないだろうか。

 人間って、物語が好きなんだよね。歴史的事実やスポーツニュースや政治を語るときでも、ついついそこに“物語”を求めてしまう。

 あの政治家がこんなことをしたのは〇年前に苦い思いをさせられたことの意趣返しだ、とか。苦節〇年のベテラン選手が期待のルーキー相手にプロの洗礼を浴びせた、とか。地震で誰かが命を落としたといったニュースにも、なぜ死ななきゃならなかったのかとか、死んだ人には幼い子どもがいて……みたいなストーリーを求める。「地震があった。死んだ」だけでは納得せず「〇〇だから死んだ」「〇〇なのに死んだ」といったお話を付与したがる。

 ストーリー仕立てにしたほうが記憶が定着しやすいとかのメリットもあるけど、物語は事実をゆがめてしまう原因にもなる。


『回転木馬のデッド・ヒート』は、見聞きしたとりとめのない話を、とりとめもないままに小説にしている。

 これって、かんたんなようで実はけっこうむずかしいことをやっているのかもしれない。

 

 ただ読んだ人の印象には残らないけどね。ぼくは数日前に読み終わったけど、もうどんな話だったか忘れかけてるもの。


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2025年5月12日月曜日

小ネタ35 (オヤジギャグ)

オヤジギャグ・1

 50代男性が「ワンチャンだか2ちゃんだか知らないけど」と言っていて、そのザ・オヤジギャグに感心してしまった。

 丁寧に解説をすると

  • 「若者言葉のワンチャンをわからない自分」を俎上に上げて楽しんでいる
  • くだらないダジャレ
  • 今思いついたのではなく何度か口にしているかのようにすらっと出てきた
  • 2ちゃんというのが絶妙に古い。2ちゃんねるが5ちゃんねるになったことには対応していない

と、これぞオヤジギャグという点が目白押しだ。


オヤジギャグ・2

 ところで最近オヤジギャグという言葉をあまり聞かなくなった。最近のオヤジはあまりダジャレを言わない気がする。

 少し前(といっても二十年前ぐらい。ぼくもオヤジなので二十年前は少し前なのだ)は「オヤジってすぐダジャレを言うよね。キモ~い」みたいな風潮があったのだが、「ダジャレを言うオヤジは嫌われる」という意識が浸透しすぎたからだろうか。

 それとも「1950年代のオヤジが特別にダジャレを好きだった」といった世代の特徴だったのだろうか。

「ワンチャンだか2ちゃんだか知らないけど~」のオヤジはいまや絶滅危惧種かもしれない。国を挙げて保護したほうがいい。


オヤジギャグ・3

 作業着をだましとったとして詐欺容疑で逮捕。