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2021年6月15日火曜日

【読書感想文】求められるのは真相ではない / 奥田 英朗『沈黙の町で』

沈黙の町で

奥田 英朗

内容(e-honより)
北関東のある町で、中学二年生の名倉祐一が転落死した。事故か、自殺か、それとも…?やがて祐一が同級生からいじめを受けていたことが明らかになり、家族、学校、警察を巻き込んださざ波が町を包む…。地方都市の精神風土に迫る衝撃の問題作。


 中学生の学校内での転落死、その中学生は同級生からのいじめに遭っていたらしい……というショッキングな事件をきっかけに、地方都市の中学生、保護者、教師、警察のそれぞれの思惑を描いた群像劇。

 自分の中学生時代を思いだした。それぐらい、中学生の生態をうまく描いていた。


 少し前に重松 清『十字架』という小説を読んだ。中学生がいじめを苦に自殺した後に残された者たちを書いた小説なので、テーマとしては『沈黙の町で』よく似ている。だが『十字架』は教科書のようだった。ありていにいえば現実感に欠けていた。

『十字架』のいじめは、一般的にイメージされるいじめだ。
 たちの悪い不良が、気の弱い同級生をいじめる。暴力で脅して金銭を要求する。周りは気づいているけど見て見ぬふり。
 いじめ自殺のニュースを見たときに多くの人が想像するのはこういういじめだろう。つまり、大人が「こうであってほしい」とおもういじめである。

「どこかにすごく悪いやつがいる」「そいつは自分とはまったく別の人種だ」と考えるのは楽だ。それ以上問題について考える必要がないから。
「ヒトラーがいたから大虐殺が起こった」「政治家が強欲だから政治が悪い」「公務員が怠けてるから財政が厳しい」と、一部の誰かを諸悪の根源と見なして善悪の間にはっきりと線を引いてしまえば、複雑に入り組んだ現実に目を向けなくて済む。

 でも、多くの問題と同じようにいじめもそんなに単純な問題じゃない。
 強いやつが弱いやつにいじめられることもある。いじめられっ子が悪人である場合もある。いじめっ子にやむにやまれぬ事情がある場合もある。またいじめる/いじめられるの関係も容易に逆転する。

『沈黙の町で』は、その複雑な構造を丁寧に書いている。




 小説の序盤で見えてくるのは、「よくある中学生のいじめ」だ。身体が小さくて喧嘩の弱い子が、同級生からいじめられていた。背中をつねられたり、ジュースをたかられたり。
 こういっちゃなんだが、「よくある話」だ。本人にとってはただごとでなくても。

 だが、小説を読み進めるにつれて徐々に真相が浮かびあがる。
 いじめの被害者は「気が弱くて立ち向かえないかわいそうな少年」ではなかったらしい。小ずるく、自分より弱いものに対しては攻撃的で、平気で他人を傷つける言葉を口にし、他人を裏切る卑怯者で、すぐに嘘をつく少年だったことが明らかになってくる。またいじめっ子グループにつきまとわれていたのではなく、むしろ逆に自分からいじめっ子グループについてまわっていた。

 一方のいじめっ子の首謀者とされた少年たちにも別の顔が見えてくる。いじめられっ子が不良にからまれているのを助けたり、いじめられっ子の罪をかばってやったり。
 彼らは積極的にいじめをはたらいていたのではなく、むしろいじめに引きずり込まれたのだ。

 だが、いじめられっ子の少年が死ねばそんな事情はすべてなかったことになる。
「いじめられていたかわいそうな少年」と「いじめていたひどい少年」という単純な図式の中に置かれてしまう。

「AがBの背中をつねったことがある」と「Bが校舎の屋上から転落死した」というまったく別の出来事が、いともたやすくわかりやすい因果関係で結ばれてしまう。




 ぼくが中学生のとき、休み時間に金を賭けてトランプをするのが流行っていた。といっても中学生なので賭け金は一回百円とかそういうレベルだ。
 男子中学生の、大人ぶりたいとかスリルを味わいたいとかの気持ちを満たしてくれる遊びだ。ぼくも何度かやったことがある。やっていたのは不良グループではなく、ちょっと背伸びしたいだけのふつうの生徒だった。

 あるとき何人かがトランプをしていると、Tという男が「おれも入れて」と言ってきたそうだ(ぼくはその場にいなかった)。Tはクラスでいちばん背が低く、運動も勉強も下の上といったところでみんなから軽んじられていた。
 Tも加わり何ゲームかした。勝負に弱かったのか運が悪かったのか、Tは負けが続いて五百円か千円ほど負けた。
 金を払うように言われたTは「今は持ってない」と言った。翌日、勝った生徒が「払えよ」と言うと「明日持ってくる」とTは言う。そんなことが何日か続いた。勝った生徒も、そうでない生徒も「早く払えよ」とTに言った。
 するとTは担任教師に報告した。金を要求されているが払えなくて困っている、と。
 もちろんゲームに参加していた生徒は全員怒られた。当然Tの借金はチャラ。

 Tの告げ口によって叱られた生徒たちはおもしろくない。Tに参加を強制したわけでもない。Tが自分からやりたいと言ったのだ。イカサマをしてTだけを負けさせたわけでもない。
 学校にトランプを持ってくるのは校則違反だし、金を賭けるのはもちろんダメだ。でもそんなことはみんなわかった上でやっている。もちろんTも。
 もし自分が勝ったらだまって金をもらっていただろうに、負けたときだけ教師に告げ口するTは卑怯だ。
 それ以来、クラスの男子はしばらくTと口を聞かなくなった。トランプに参加していなかったメンバーも含めて。ぼくも、その話を聞いて「Tはなんてずるいやつだ」と感じた。
 また教師に告げ口されたら困るから殴ったり蹴ったりといった直接的な行動はなかったが、みんなでTを無視していたのだからこれもいじめといえばいじめだろう。
 もしもこれでTが自殺でもしていたら、「中学生の陰湿ないじめ」と報道されていただろう。Tのずるさはまったく語られることがないまま。




 いろんなケースがあるからいじめは一概に語ることはできない。
 中には同情の余地もないぐらい一方的な加害がおこなわれるケースもあるだろう。

 でも、たいていの場合、いじめる側も無作為に相手を選んでいるわけではない。
 周囲に迷惑をかけたとか、嘘をついたとか、約束を破ったとか、過失があるものだ。

 ぼくが中学生のとき、ちょっとヤンチャなやつらに囲まれてこづかれたことがある。きっかけは、「ぼくが友人の教科書だとおもって油性ペンで落書きをしたら、ヤンチャグループの一員の教科書だった」だ。完全にぼくが悪い。
 まあそのときは長期的ないじめには発展しなかったが、人やタイミングによってはそこからいじめが続いていたかもしれない。

 もちろん「いじめはあかん」は大前提として、きっかけとなった出来事自体は「いじめられる側が悪い」ことも多い。

 ネットでの中傷なんかを見てもわかるけど、暴走しやすいのは悪意じゃなくて正義なんだよね。
 誰かを集中攻撃する原因は、往々にして「あいつは悪いやつだ」だ。

 悪意はそこまで暴走しない。たいていの人には良心があるから悪意にはブレーキがかかる。でも正義にはブレーキがかからない。制裁を下すとか正義の鉄槌を下すとかの大義名分があると、人はどこまでも攻撃的になる。
「外国を侵略しよう」で虐殺はできなくても、「愛する祖国を守るため」であれば見ず知らずの人たちを虐殺できるのが人間だ。

 皮肉なことに「弱い者いじめをするな」が、いちばんいじめにつながりやすいのだ。


 いじめ自殺事件があると、新聞やテレビの報道は「いじめられた子は純粋無垢で全面的にかわいそうな子」というスタンスになる。
 死者に鞭打つわけにはいかないのもわかるが、「イノセントないじめられっ子」「悪いいじめっ子」という単純な構図に落としこむのも危険だとおもう。

 「いじめはあかん」と伝えることが大前提だし、いじめ自殺した子に鞭打つ必要はないけど、いじめた子を「同情の余地のない極悪非道な生徒」と扱うことは事実を覆い隠すことにつながる。

 悪意だけでなく正義感のほうがいじめにつながりやすいんだよ、悪を悪ということがいじめになることもあるんだよ、と教えることもまた大事なんじゃないだろうか。

「どっかの悪人が悪いことをした」だけだったら「自分とは関係のないこと」になってしまう。そうじゃなくて「わたしやあなたと同じぐらいの優しさを持った子が、優しさのために行動してもいじめの加害者になる状況がある」と教えることのほうが大事だとおもうな。

 とはいえ、それを自分が中学生のときに教えられて理解できたかというと……。




 『沈黙の町で』では、死亡した中学生の遺族が「真相を知りたいだけ」という言葉をくりかえす。この気持ちは理解できる。

 だが、調査する中で明るみに出るのは遺族にとって都合の悪い真実だ。
 死亡した中学生は他の生徒から嫌われていた、女子には攻撃的にふるまうタイプだった、当初いじめの首謀者とおもわれていた生徒はむしろかばう側だった……。

 結果、遺族は知りたかったはずの「真相」から顔をそむけてしまう。都合の悪い真相には耐えられない。
 このあたりの心境、すごくよくわかる。
 そうなんだよね。人間、真実なんて知りたくないんだよ。
 知りたいのは「自分が望む真相」だけ。
「死んだ息子がかわいそうないじめられっ子だった」は受け入れられても、「死んだ息子はときに加害者であり嫌われ者だった」には耐えられない。


 ぼくはこの遺族の愚かさを嗤うことができない。
 たぶん自分も同じ状況に置かれたら目をそむけてしまう。信じたいことだけ信じてしまう。子どもを亡くしてつらいときならなおさらそう。現実なんて受け入れられない。

 ミステリ小説は「真実を明らかにすること」が主目的だけど、現実はそうじゃないんだよね。
 求められるのは真実ではなく、「こうあってほしい」ストーリーなのだ。




 いじめの関係だけでなく、親同士の微妙な敵対関係、大人には意味不明な男子中学生の行動原理、教師の派閥争い、記者や検察や弁護士の見栄や欲、地方都市の人々の関心事など、細部にわたってリアリティがすごい小説だった。
 まるで、ほんとうにあったことをそのまま書いたんじゃないかとおもうぐらいに。

 奥田英朗さんの書いたものって、ユーモア小説や軽いエッセイしかほとんど読んだことがなかったけど、こんな重厚な小説も書けるのか……。


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2021年6月10日木曜日

ツイートまとめ 2020年12月



初対面

関西弁

上方浸水大賞

泣いて馬謖を斬る

GoToキャンペーンのおかげ

言い逃れ

ウイルス側

指の名前

ピスタチオ

DV

2021年6月8日火曜日

オリジナルの公園あそび

 子どもたち(小学校低学年)と遊んでいるときに思いついた、オリジナルのあそび。


スパイおにごっこ

(5人~)

1. まず鬼を決める。
 くじ引き、または鬼が選ぶことで、スパイをひとり決める。
 みんなが目をつぶって後ろを向き、鬼がこっそりスパイの背中をタッチする。鬼とスパイにだけは、誰がスパイかわかる。他の子には誰がスパイかわからない。

2. 全員ばらばらに離れた状態になってからおにごっこスタート。
 鬼は他の子を追いかける。スパイは鬼から逃げるふりをしながら他の子に近づいてタッチする。
 タッチしているところを他の子に見られると鬼だとばれるので、なるべくこっそりと。

3. タッチをしても鬼は鬼のまま。タッチされた子はスパイになる。
 どんどんスパイが増える。

4. スパイはうそをついてもいい。

5. 最後のひとりが捕まったら終わり。


 子どもは嘘や芝居が上手でないので、たいていすぐにばれて中盤からはふつうのおにごっこ(増え鬼)になる。
 鬼とスパイが会話をしているところを見られたりして、すぐにばれる。




全員おにごっこ

(4人~)

1. 全員が鬼であり、鬼から逃げなければならない

2. 他の子の背中をタッチすれば1点。背中以外はタッチしても無効。
 腕などをつかむのは禁止。

3. 同じ子をタッチできるのは1回まで。
 また、協力してお互いにタッチしあうのは禁止。

4. 最初に3点稼いだ子の勝ち。


 タッチをされてもマイナスにはならないので、積極的に攻めたほうがいい。ずっと背後を守っていると点が稼げない。




じゃんけんおにごっこ

(基本的に3の倍数。6人がベスト)

1. グーチーム、チョキチーム、パーチームに分かれる。

2. グーチームはチョキチームをタッチする。チョキチームはパーチームをタッチする。パーチームはグーチームをタッチする。

3. 標的となるチーム全員をタッチしたチームの勝ち。


 ずっと逃げていると勝てないのでこれまた積極的に攻めたほうがいい。
 足が遅い子でもうまく立ちまわれば捕まらずに済む(グーチームの子はチョキチームの近くにいるかぎりパーチームは近寄りづらい)。

 四チームでもできる。AがBを狙う、BがCを狙う、CがDを狙う、DがAを狙う。こっちのほうがより戦略が重要になる。AとCはお互い標的ではないので、いっしょにいることで「B・Dに襲われにくい」というメリットがある。そうなるともちろんB・Dも手を組むことになる。




ボールあてサバイバル

(3人~)

1. あまり広すぎないスペースでおこなう。ボールがふたつ以上あるといい。

2. 他の子にボールを当てる。先に三回当てた子の勝ち。


 すごくシンプルだが非常に熱くなる。いちばん無防備なのはボールを投げようとしているときなので、積極的に攻めすぎても狙われやすくなる。
 同盟を結んだり、裏切りが発生したりといった展開もある。
 たいへんアグレッシブな遊びなので、男の子は大好きだが女の子は敬遠しがち。




ワニのいる川を渡る

(3人~)

1. ワニチームと人間チームに分かれる。ワニチームは1~3人。川の幅などによって調整する。

2. 10メートルほどの間隔をあけて2本の線を引く。その線の間が川、線の外側が陸地。

3. ワニチームは川の中しか移動できない。

4. 人間チームは片方の陸地からもう片方の陸地に移動する。途中でワニにタッチされたら、元の陸地に戻る。

5. ワニ以外チームは、制限時間(3分ぐらい)の間に2人(ここも人数によって調整)が川を渡れば勝ち。制限時間内に渡れなければワニチームの勝ち。


 個人戦ではなく「何人かは捕まってもいい」というのがポイント。
 誰かがおとりになっている間に他の子が川を渡れば勝てる。
 何度捕まっても再スタートできるので、小さい子もいっしょに遊べる。

 今回紹介した遊びの中では、これがいちばん誰もが楽しめる遊び。



2021年6月7日月曜日

【読書感想文】中学生の気持ちを思いだす / 津村 記久子『まともな家の子供はいない』

まともな家の子供はいない

津村 記久子

内容(e-honより)
気分屋で無気力な父親が、セキコは大嫌いだった。彼がいる家にはいたくない。塾の宿題は重く、母親はうざく、妹はテキトー。1週間以上ある長い盆休みをいったいどう過ごせばいいのか。怒れる中学3年生のひと夏を描く表題作のほか、セキコの同級生いつみの物語「サバイブ」を収録。14歳の目から見た不穏な日常から、大人と子供それぞれの事情と心情が浮かび上がる。

 中学生女子の日常を描いた小説。
 家にいづらくて図書館に行ったり、あまり親しくない同級生に塾の宿題を写させてもらったり、男子の尾行をする友人につきあったり、特に何が起きるわけでもないが、おもしろかった。
 中学三年生の夏ってこんな感じだったなあ。けだるいしむかつくことだらけだし特に大人には腹が立ってばかり。何かしないといけないような気もするし、でも何にもなれないし。

 スガシカオの『奇跡』という歌がよく似合う小説だ。何か起こりそうな予感だけがあって何も起こらない。




 タイトルの通り、『まともな家の子供はいない』に出てくる大人はみんな問題を抱えている。不倫、買い物中毒、失業、別居、子どもへの無関心……。
 でも問題といえば問題だけど、大人からすると「まあそんなこともあるよね」という程度の問題だ。わりとよく聞く話だもん。
 他人事であれば些細な問題。でも子どもからすると、親の失業や不倫は大問題だ。自分の人生が大きく揺らいでしまう。だけどどうすることもできない。

 中学生って、いちばん親に対する目が厳しくなる時期だよね。
 小学生とちがって親のダメなところとかいろいろ見えてくるしさ。といって「家を出る」とか「自分でバイトする」とかの選択肢はないしさ。何をするにも、最後は親にお伺いを立てなければならない。
 高校生ぐらいだったら「卒業して実家を出るまでの辛抱」と耐えられるかもしれないけど、中学生からしたら親元を離れられるまでは途方もなく長い。

 それに高校生ぐらいだと「教師も親も自分らとたいして変わらない人間なんだからおかしなところもだめなところもあるさ」とおもえるようになってくるんだけどね。
 中学生にとっては、親や教師は立派な人間でいてほしいという願望と、親も教師はだめなやつだという現実の両方が存在する。だから大人が許せない。




 あとさ、自分が中学生のときはそんなこと想像もしなかったけど、今自分が親になっておもうのは
「親も十数年やってたら疲れてくる」
ってこと。

 ぼくはまだ親になって八年ぐらいだけどさ。でも新人親の頃に比べるといろいろとだらけてきている。
 たとえば親になったときは「子どもの前で極力スマホは使わないようにしよう」っておもってたんだよね。子どもをほったらかしでスマホに興じてる親を蔑んでた。
 で、実際必要なとき以外は子どもの前ではさわらなかった。ゲームをしたり娯楽の動画を観たりなんてもってのほか。
 でも今は子どもの前でスマホを見ちゃう。ゲームをすることもある。ああ、だめな親だ。

 そんな感じで「こういう親になろう」という決意は、時とともにどんどんくずれてゆく。子どもの前で不機嫌になってしまったり、よく確かめもせずに叱ったり、ごろごろだらだらしてしまう。

 ちゃんとした親をやりつづけるのもしんどいんだよな。
 だから子どもが中学生になったときにはもっとダメな親になってるとおもう。自分が嫌悪してた大人になるとおもう。

 それに、まだうちの娘は七歳だから「おとうさんあそぼー!」と言ってくれるし、「買い物に行くけどいっしょに行く?」と訊いたら二回に一回ぐらいはついてきてくれる。
 なついてくれるからこっちもいい父親であろうとするけど、反抗期を迎えて口も聞いてくれなくなったら、こっちも人間だから「立派な父親でいる」モチベーションも低下するだろう。

 おもいかえせば中学生のとき、親が離婚した同級生が何人もいた。うちの親は離婚しなかったが、当時はしょっちゅう喧嘩していた(今は仲がいい)。

 子どもが親に依存しているように、親もけっこう子どもに依存しているんだよね。だから子どもが離れていったら親もよりどころを失う。
 だから子どもが中学生ぐらいになると親も離婚したり不倫したりするんじゃないかな。中学生のときはそんなこと想像だにしなかったけど。
 ぼくも気をつけねば。




 この小説を読んでておもいだしたんだけど、中学生のとき、毎月親からおこづかいをもらうのが嫌だったなあ。
 もちろんこづかいはほしいんだけど。でも、毎月1日はこづかいの日って決まってるんだけど、父親は1日にくれないんだよね。忘れてるのかそれともわざと忘れてるふりをしてるのか。だからこっちから「おこづかいちょうだい」と言わないといけない。
 それがすごく恥ずかしかった。
「保護者と被保護者」という立場を否が応でもつきつけられるわけじゃない。おこづかいをあげる側ともらう側なんだから。「おい、こづかい」なんて言うわけにはいかない。
 だから日頃どれだけ「父親なんてうっとうしいぜ」「おれはひとりでも生きていけるぜ」「親となんか口も聞かねえぜ」ってスタンスを気取ってても(不良ではなかったけど)、毎月1日だけは「おこづかいちょうだい」とおねだりする息子にならないといけない。それが嫌だった。
「こうありたい」自分と「この程度の」自分のギャップをまざまざと見せつけられる日だったんだよね。毎月1日は。




 この物語自体がおもしろいというより、「自分が中学生だったときの気持ち」を思いだしたり「自分が中学生の親になったときの気持ち」を想像したりさせてくれる小説だった。

 こういう小説もいいよね。いろんな感情を引き起こすトリガーとなる小説。


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