2020年6月29日月曜日

ラテン語きどり


学者ってやたらとラテン語使いたがるじゃない。
動植物の学名とか。恐竜の名前とか。

ラテン語なんて今や誰も使ってないのに。

なんだよ、きどっちゃって。
あれでしょ。
自分は教養があるぜって言いたいんでしょ。
庶民とは違うんだぜって言いたいんでしょ。
とはいえじつはラテン語なんて知らないからこそこそラテン語辞典引いて、まるではじめから知ってましたけどなにか? みたいな顔で発表してるんでしょ。
まったく、素直じゃないんだから。

……とおもってたら。

更科 功『絶滅の人類史』にこんなことが書かれていた。
ただ、学名をラテン語にしたことには理由がある。言葉が時代とともに変化することは、昔から知られていた。でも学名は、何百年も何千年も、ずっと使えるものにしたい。だから学名には、変化しない言語を使いたい。そこで、もはや変化することのない死んだ言語、つまりラテン語を使うことになったのである。
あー……。
なるほど……。

たしかに言葉って移りかわるものだもんね。
昔の「をかし」と今の「おかしい」はちがう意味だもんね。

そっかそっか。
死んだ言葉には死んだ言葉なりの使い道があるのか。

そっかー。
きどってたんじゃなかったのね。

素直じゃないひねくれ者なのはぼくのほうでした。
ごめんなさい。


2020年6月26日金曜日

ツイートまとめ2019年12月


公園

憲法

きつね色


ストレス

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You

ミニマム


なぞなぞ

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におう

薬物


てへっ

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世論調査

ロベカル


トラウマ




ペイ

正邪


隠滅

無限のファンタジー!


洞窟

シェアハウス


コッシー

2020年6月25日木曜日

しゃぼん液の恐怖

公園にいた親子。
おねえちゃん(四歳ぐらい)がしゃぼん玉を飛ばしている。
その横には一歳ぐらいの男の子。

とつぜん、男の子が火が付いたように泣きだした。
しゃぼん液の容器を手にしている。
どうやらしゃぼん液をおもいきり飲んでしまったらしい。

しかしおとうさんは悠然としている。
「おー。しゃぼん液飲んじゃったのかー。それはあんまり栄養ないぞー」
なんてのんきなことを言っている。

まあしゃぼん液なんて決して身体にいいものではないだろうが、かといって大あわてするほどのものでもない。

ということはわかっている。
わかっているのだが。

ぼくの心臓はばくばくしている。



なぜならぼくは子どものころにしゃぼん玉あそびをするとき、母親から
「それ飲んだら死ぬよ!」
と脅されていたからだ。

うちの母親はことあるごとに「死ぬよ!」と息子を脅していた。

「道路に飛びだしたら死ぬよ!」とか「勝手に火を使ったら死ぬよ!」とか。

まあそれはあながち嘘でもない。
道路に飛びだしたり火遊びをしたりして命を落とす子どももいるのだから。
また「死」は子ども心にもこわいので、その脅しはちゃんと効果があった。

「道路に飛びだしたらタイミングが悪ければ車にひかれて、打ちどころが悪ければ命を落とすこともあるよ」
よりも
「死ぬよ」
のほうがずっと効果がある。

しかしそれに味を占めたのか、「はよ寝ないと死ぬよ!」とか「ほこりまみれの部屋で生活してたら死ぬよ!」とか「死ぬよ」を乱用するようになり、その使用頻度に反比例して脅し効果も薄れていった。

だが幼いころに言われた「しゃぼん玉の液飲んだら死ぬよ!」という言葉は、ぼくの心の奥底に恐怖心といっしょに深く刻まれたままだ。
五歳ぐらいのときだったとおもうが、うっかりしゃぼん液を少しだけ飲んでしまい、号泣しながら
「おかあさん! しゃぼん玉の液飲んじゃった!」
と母のもとにかけつけた記憶がある。
あのときは本気で命の危険を感じたのだ。

いまでもしゃぼん液はこわい。

もちろん理屈ではそんなはずないとわかっている。
しゃぼん液なんて界面活性剤さえあればつくれると。しょせんは石鹸や洗剤だと。
石鹸にしても洗剤にしても多少は口に入ることを想定してつくられているのだからよほど大量に飲用しなければどうってことないと。
だいたい本当に危険なものだったら子どものおもちゃにするわけがないと。

わかっているが、だからといって心の奥底に染みついた恐怖心が薄れるわけではない。

罰なんてあたらないとわかっていてもお地蔵さんを蹴ることができないのといっしょで、ぼくはいまでもしゃぼん液を口に入れるのがこわい。



息子がしゃぼん液を飲んだというのに悠然としているおとうさんの傍らで、ぼくはおろおろしている。

救急車呼んだほうがいいんじゃないでしょうか。
胃洗浄とかしてもらったほうがいいんじゃないでしょうか。
せめて救急安心センター事業(#7119)に電話して相談したほうがいいんじゃないでしょうか。

よそのおとうさんに、言いたくて仕方がない。

2020年6月24日水曜日

【読書感想文】叙述トリックものとして有名になりすぎたせいで / 筒井 康隆『ロートレック荘事件』

ロートレック荘事件

筒井 康隆

内容(e-honより)
夏の終わり、郊外の瀟洒な洋館に将来を約束された青年たちと美貌の娘たちが集まった。ロートレックの作品に彩られ、優雅な数日間のバカンスが始まったかに見えたのだが…。二発の銃声が惨劇の始まりを告げた。一人また一人、美女が殺される。邸内の人間の犯行か?アリバイを持たぬ者は?動機は?推理小説史上初のトリックが読者を迷宮へと誘う。前人未到のメタ・ミステリー。

<ネタバレあり>


叙述トリックものの話になると必ずといっていいほど名前の挙がる『ロートレック荘事件』。

正直、その前評判と“叙述トリック”という前提知識のせいで、「期待外れ」というのが正直な感想だ。

叙述トリックミステリというやつをいくつも読んできた。
ナントカラブとかナントカの季節とかナントカ男とかナントカにいたるナントカとか。
その後で『ロートレック荘事件』を読むと、「なんでこれが評価高いんだ?」とふしぎにおもう。

とはいえそれは今だからこその感想であり、発表当時(1990年)には『ロートレック荘事件』のトリックはたいへん斬新だったのだろう。
(さっき一部だけ挙げた叙述トリックミステリたちも『ロートレック荘事件』以後の作品だ)



ということで、ミステリ史を語る上では欠かせない作品なんだろうけど(そしてそれを書いたのがSF作家の筒井康隆氏というところがまたすごい)、残念ながら2020年のミステリファンを納得させられる作品ではない。

叙述トリックを読んだことのある読者なら、けっこう早い段階でタネがわかっちゃうんだよね。

一人称小説、同じ人物に対する呼び名が変わる(苗字で呼ばれたり下の名前で呼ばれたり「画伯」と呼ばれたりする)、誰の発言か明記されていない台詞が多い、そろっていない章タイトルなど、あからさまにあやしいことだらけ。

これで「この“おれ”とこの“おれ”は同一人物ではないな」と気づかないわけがない。

それだけでも2020年の読者にとっては野暮ったいのに、さらにクサいのがタネ明かしパート。

「ほらほら。じつはこれも伏線だったんやで」
「ここの記述は〇〇とおもったやろ? じつは××やねんで」
「ここは語り手が入れ替わっていたんでしたー。どやっ」
みたいな説明がくどくどと続く。
これがもう寒くて見ていられない。

昨今は「たった一行ですべてをひっくりかえす」みたいなスマートなミステリがたくさんあるからなあ。

まあこの泥臭さも筒井康隆氏らしいといえばらしいんだけど。
ミステリ作家ではない人のミステリ、って感じだな。



ってことで、ミステリとしてはイマイチ(あくまで今読むと、の話ね)。

でも小説としてはけっこう好きだった。
犯人が判明してからの、ラストの意外な事実とやるせないエンディングはしびれた。

身体障碍者ならではの卑屈さ、かわいさあまって憎さ百倍といった複雑な心境などは、表現のタブーに挑戦しつづけてきた筒井康隆氏ならでは。
障碍者を犯人に据える、しかも犯行動機にも障碍が深くかかわってくる……となると書くのに腰が引けてしまいそうなものだけど、ネガティブな部分をしっかり書ききっているのはさすが。

あと、いとこ同士の「他人でありながら一心同体に近い関係」という設定もうまいね。
この関係だからこそ、「相手のことを我が事のように書く」ミスリードが不自然でない。

とはいえ、「いとこが自分から離れるのがイヤだから」という理由でいとこと結婚しそうな女性を殺していくのはさすがに動機として無理があるやろ……。
無限に殺しつづけなあかんやん……。
いとこのほうも、いくら贖罪の気持ちがあっても自分の婚約者を殺した人物をかばおうという気になるだろうか……。


ということで、叙述トリックものとして有名になりすぎてしまったこともあって犯人当てミステリとして読むと賞味期限切れ感は否めないけど、心情の揺れや人間関係を描いた小説としては今読んでも十分楽しめる小説でした。

あ、随所に掲載されているロートレックの絵画がなにかのカギかとおもったら、ぜんぜんそんなことなかった。
小説にわざわざ絵を載せるんだからぜったい意味があるとおもうじゃないか……。
なんだったんだあれは……。

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2020年6月23日火曜日

【読書感想文】作家になるしかなかった人 / 鈴木 光司・花村 萬月・姫野 カオルコ・馳 星周 『作家ってどうよ?』

作家ってどうよ?

鈴木 光司  花村 萬月  姫野 カオルコ  馳 星周

内容(e-honより)
鈴木光司、馳星周、花村萬月、姫野カオルコ。四人の人気小説家が語る“作家の打ち明け話”。「“カンヅメ”ってつらいの?」「休日は何をして過ごしてる?」「本が一冊出ると、どのくらいお金が入ってくるの?」「“直木賞待ち”って、どんな感じ?」「文学賞の賞金は何に使うの?」などなど、ここでしか読めない赤裸々トーク。一見華やかそうに見える「作家業」も、いろいろ大変なようで…。作家志望者必読のエッセイ集。
2004年刊行。
当時の人気作家たちによる「作家」についてのエッセイ。
2004年の鈴木光司さんなんて、『リング』シリーズの映画化などでウハウハの時期だったはず。
当代きっての売れっ子、という勢いの良さがエッセイからも伝わってくる。
まあ正直今はあんまり名前をお見かけしないけど……。ぼくが知らないだけかな……。

この本を読んでいるタイミングで、馳星周さんが2020年下半期の直木賞候補に選出されたというニュースを目にした。なんと七回目のノミネートだとか。

この本にも『夜光虫』で直木賞にノミネートされながら落選したエピソードが書かれているが、なかなかしんどいものらしい(本人が、というより周囲が落胆するのがつらいそうだ)。
部外者からすると、もう五回ノミネートされたら数え役満で受賞扱いでいいじゃないか、とおもうんだけど。

ちなみにぼくは四人とも、ほとんど作品を読んだことがない。
鈴木光司さんはなにかのアンソロジーで短篇を読んだことあったような気がするけど……。



「作家」に関するエッセイ集とあるけど、要は雑多な身辺エッセイ。
趣味とか好きな食べ物とか好きな音楽とかについて書いている。

以下は姫野カオルコさんの文章。
 やがて一人暮らしをしている時に、郵便局の通信販売で地方の名産品が買えるというのを発見しました。さっそくたらば蟹一キロを申し込み。確か七二○○円でした。それが箱に入ってやって来まして、食べる計画をした夜は、まずお昼を手短に済ませ、ジョギングをして程よくお腹を減らしました。いよいよ蟹を食べるにあたり、一部はポン酢で一部は焼いて、最後の一部は鍋、というふうに準備をいたしました。
 そして全ての準備が調ったら、電話を留守電にして誰にも邪魔されないように蟹に取りかかりました。シーンとした邪魔者のいない部屋で蟹を心行くまで口に含んで呑み込む時、蟹のあの白い淡白な、ちょっと素っ気ないような熱のない身が、ツルンと喉を落ち込んでいく……それを一人で何度も何度も繰り返しながら、やがてじわーって涙が出てくるんですよ、おいしくて。ああ、大人になってよかった。一人で蟹を全部食べられてよかった。
 皆さんの中には「おばさんになるの嫌だな、大人になるの嫌だな」と思っている若い人がいるかもしれませんが、いえいえ、大人になったら楽しいことばかり。大人になった時のほうが蟹がおいしく味わえます。蟹、大好きです。
ぜんぜんおもしろくないんだけど、その「どうってことなさ」が逆に新鮮だった。
今、なかなかこういう「発見も新しさもオチもない」文章って読めない気がする。
いや、もちろん読もうとおもえばいくらでも読めるんだけど。
このブログなんてまさにその典型なんだけど。

でもわざわざ読まないでしょ。
ネット上に山のように「話題の情報」や「役に立つ情報」や「短時間で読めるおもしろコンテンツ」がある中で、よく知らない人が書いた「わたしの好きな食べ物の話」なんて。
もっとおもしろいものがいっぱいあるんだもの。

でもほんの二十年前まではお金出してこういう文章を読んでいたんだよなあ、とずいぶん懐かしくなった。
「刺激の少ない文章」も、たまに読むには悪くない。



あと、「思想の古さ」が味わえるのもおもしろい。

「自分探しをしても自分なんて見つからない。自分探しをしている自分こそが本当の自分だ」
とか
「携帯電話でずっとつながってなきゃ不安になるような関係なんてむなしくない?」
とか。

ふるっ! と声を上げてしまう。
2020年の今、こんなことをドヤ顔で言う人なんて誰もいない。
とっくの昔にみんなが通りすぎた議論だ。

2005年はこんなのが「切れ味鋭い意見」だったのかなーとおもってなんだか逆に新鮮。

五十年前の体操選手の映像とか見ると「えっ、こんな低レベルでオリンピック出られたの!?」とびっくりするけど、その感覚に近い。

時代って変わってないようでちゃんと進んでるんだなあ。



花村萬月さんのエッセイだけは、他の三人とは一線を画していて素直に興味深かった。
 そうしたらその時に、愛用している“洩瓶(しびん)”が見つかってしまいまして(笑)。もうバレてるので恥さらしで言ってしまいますが、それはカッコ良く言えば、執筆のときにトイレに行くのがめんどくさいので、そのままジャーっとしちゃうっていう物なんですけれども、本音を言えば寝てる時もそれを使ってて、ベッドに上半身を起こして跪いてやってました。洩瓶といってもちゃんとした洩瓶じゃなくて、イトーヨーカドーで買ってきた漬物を漬けるような容器か何かなんです。いろいろ試行錯誤したんだけど洩瓶に一番いいのはやっぱり口が広いことで、見栄張るわけじゃないんですけど、起きてる時は割とどうにでもなるんですけど、寝てる時はちょっと固くなってたりして上を向いてたりするわけですよ。そうすると、初期の頃はペットボトルにジョーっとしてたんですが上を向いているとペットボトルのあの狭い口とは相性が非常に悪くて、つまりペットボトルの口を下に向けて本体を上に向けると逆流してくるということで、それは不可能だと。自分を無理やりひん曲げてしなきゃなりません。口が大きければ大きいほど融通が利くので、その漬物容器みたいな物にしてるんです。
 そんなのが見つかってしまって、まあ業界ではうまく誤解してくれて「あいつは執筆に集中するあまりトイレ行く時間も惜しんで仕事をしてる」と(笑)。でもそんなことはなくて日常でもベッドの脇にもそれがあるし、テレビ見てる時にも椅子の脇にそれがあるし。つまり、単純にトイレに立つのがだるいというだけなんです。
ううむ、クレイジー。
無頼派というかなんというか。
西村賢太さんと同じ人種のにおいがするなあ。
そういや花村萬月さんも西村賢太さんも中卒だ。

作家って、ずっと作家にあこがれていてなった人が多いとおもうけど、花村萬月さんとか西村賢太さんはそうじゃないんだよね。
他の道でまともに生きていけなかった、作家しかなれるものがなかった、作家になっていなかったらホームレスになるか犯罪者になるかしかなかった、っていう人たちなんだよね。

かっこいいなあ。
絶対にこうはなりたくないけど。
だからこそ、あこがれる。

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