2020年2月27日木曜日

修羅場発表会

小学校お受験をさせた友人から聞いた話。

人気の附属小学校ということで、倍率は五倍を超えていたそうだ。
当然合格発表の会場には落ちた側の人のほうが圧倒的に多いわけで、その会場が修羅場だったそうだ。

「もうそこかしこで泣いてるわけよ。親も子も」

 「まあそういう人もいるだろうね。
  しかし六歳の子どもも泣くんだねえ。状況を理解してるんだろうか」

「理解してないからこそじゃない?
『これで合格しなかったら人生終わり』ぐらいに脅されてきたのかもしれない」

 「あーそりゃ泣くわ」

「怒ってる人もけっこういたなあ」

 「怒る? なにに?」

「子どもに向かって『ちゃんとやらなかったからでしょ!』って怒ってる親とか」

 「ひええ。落ちてから子どもに怒ってもしょうがないだろうに」

「あと捨て台詞を吐く母親とか」

 「どんな?」

「『こんな学校つぶれてしまえ』みたいな」

 「うわー……。こわっ」

「うちは合格してたんだけどね。
 でも喜べるような雰囲気じゃなかったから沈痛な顔して外に出てから喜んだ」

 「小学校受験って、親の様子も見られるんでしょ?」

「うん。親子でいっしょに取り組む課題とかあって」

 「じゃあ、落ちてから子どもに怒る親とか、捨て台詞を吐く親とかは、ちゃんと試験官がそういうところを見抜いて落としたのかもしれないね」

「あー。そうかも。だとしたら試験官、すごいなあ。
 ちゃんと本質を見抜いている」

 「ね。だから怒ってる母親に言ってやればよかったのに」

「なんて?」

 「『おかあさん、そういうとこですよ』って」

「殺されるわ!」


2020年2月26日水曜日

すさみソビエト

和歌山県にすさみ町という町がある。

ひらがなですさみ。すごい名前だ。
周参見(すさみ)町が1955年に他の村と合併して、ひらがなの「すさみ町」が誕生したらしい。

なんでわざわざひらがなにしたのだ。
どうしたって「荒(すさ)む」を連想してしまうのに。
周参見町でよかったのに……とおもったけど、Wikipediaを見たら周参見町の由来も「海を波風が激しく吹きすさんでいたことより。」とある。
なんと。もともと「荒む」だったのだ。

古くからの地名だと、ネガティブな名前がついていたりする。「墓」がつく地名があったり。ぼくの家の近くの交差点も、かつては「斎場前」という名前だったらしい。

しかし市町村の名前が「すさみ」って……。もしかしたら日本で唯一のネガティブ市町村名かもしれない。
鳥取県や茨城県あたりがよく自虐的なキャッチコピーでPRしているけど、さすがにネガティブな町名まではつけないだろう。
よくこの名前が六十年以上も生き残ってきたものだ。改名しようと言いだす人はいなかったのだろうか。

もしかしたらほんとに町民の心がすさんでしまって
「もういいんじゃねえか。どうせ若いやつはみんな出ていくんだし。おれたちにぴったりの名前だよ」
なんて会話が町議会でおこなわれているのかもしれない。

そのうち「心もすさむ すさみ町」なんてキャッチコピーでPRしだすかもしれない。いや、心がすさみすぎてそんな気力もないか。



それはそうと、このすさみ町のWikipediaページを見ていたら気になる記述を見つけた。
2014年8月1日、政府は当町沿岸にある小島の一つに、「ソビエト」と命名することを発表した。釣り人の間で言い習わされてきた呼称だが、その由来は不明であるという。
Wikipedia すさみ町より) 
ソビエト……?
なぜ和歌山にソビエトが……。
しかも政府公認の名称だ。

ふしぎだ。
オホーツク海の島とかならわかる。
地元の漁師が「あれはソビエト領だ」と勘違いしてそのまま「ソビエト」という名前になってしまった……みたいなストーリーが容易に想像できる。

しかし和歌山県の小島だ。太平洋にソビエト領があるわけがない(もしロシアが太平洋に拠点を持っていたら世界の勢力図は大きく変わっていたかもしれない)。

なぜソビエトが和歌山にあるのだろう。
地元漁師の間に伝わる通称としてあるだけでなく、政府公認の名称ということがまた驚きだ。
勝手によその国の名前をつけていいんだ。
まあアメリカ村とかドイツ村とかスペイン村とかオランダ坂とかトルコ風呂とかあるしな。いいんだろうな。
海外にも「ニッポン村」「ジャパン崖」みたいなのがあるのかもしれないな。

それに「ソビエト」はたしか固有名詞ではなく評議会を指すロシア語の一般名詞だったはず。
だいたいソビエト連邦はもうないしな。
うん、まったく問題ない。

よしっ。
今日から我が家の浴室は神聖ローマ風呂、トイレはオスマン・トイレだ!

2020年2月25日火曜日

【読書感想文】ネコが働かないのにはワケがある / 池谷 裕二『自分では気づかない、ココロの盲点』

自分では気づかない、ココロの盲点

池谷 裕二

内容(Amazonより)
脳が私をそうさせる。「認知バイアス」の不思議な世界を体感。たとえば買い物で、得だと思って選んだものが、よく考えればそうでなかったことはありませんか。こうした判断ミスをもたらす思考のクセはたくさんあり、「認知バイアス」と呼ばれます。古典例から最新例までクイズ形式で実感しながらあなた自身の持つ認知バイアスが分かります。
脳科学や行動経済学の本をほとんど読んだことのない人なら目からうろこの内容がてんこもりなんじゃないかな。

「かんたんにわかる心理学」みたいな本って玉石混交なんだけど(というか九割ゴミ)、池谷裕二さんの本は安定しておもしろい+根拠もしっかりしている。
『進化しすぎた脳』も『単純な脳、複雑な「私」』もわかりやすくおもしろかった。

『自分では気づかない、ココロの盲点』でも出典を明らかにしていて(また聞きではなくオリジナルの実験)、「こういう実験をしたらこんな結果が出ましたよ」と書くにとどめて「だから必ず〇〇のときは××になる!」みたいな乱暴な結論は書いていない。

さらにクイズ→解答+解説 という構成にすることで、多くのトピックをテンポよく紹介している。
よくできた本だ。講談社ブルーバックスなので中高生におすすめしたい。

とはいえ池谷さんの著書を何冊か読み、行動経済学の本も読んできた身としては毎度おなじみの話題が多くていささか退屈。『進化しすぎた脳』のほうがより深い知見が得られるとおもうな。



6種類の商品を販売したときと、24種類の商品を販売したときで売上がどう変わったかを示す実験。
 脳が同時に処理できる情報量は有限です。許容量を超えると、選ぶこと自体をやめてしまいます。
 6種類のブースのほうが、24種類のブースの7倍の売り上げがありました。
 通りかかった客が足を止める確率は、24種類のほうが上でした。おそらく商品棚が目立つからでしょう。しかし、実際に商品を買ってもらえる客の割合は、6種のブースでは30%だったのに対し、24種のブースでは3%に留まりました。
 さらに客の満足度も、品数が少ないブースのほうが、高かったのです。客のことを考えると、つい多くの選択肢を用意したくなりますが、それは偽善的な自己満足です。
「偽善的な自己満足」は言い過ぎだとおもうが、これはよくある話だ。

こないだiDeCo(個人型確定拠出年金)という金融商品の資料請求をおこなった。
iDeCoの説明が書いたパンフレットが送られてきて、ふむふむよさそうだな申し込んでみようかとおもってパンフレットの後半を見たら、商品が数十種類並んでいた。
わ、わからん……。
これが三種類ぐらいだったら「Cはないし、AとBだったらAのほうが良さそうだからAにしよう」とすぐ決められるのに。数十種類あったらはたしてどれがいちばんいいのかわからない。
で、結局パンフレットを放りだして申し込みをしないまま今に至る。
こういうときに誰かが「いちばん人気なのは××か△△ですね」と言ってくれたら「じゃあそれで!」と飛びついてしまうだろう。

こういうのってものにもよるけどね。
お昼の定食だったら五種類ぐらいでいいけど、居酒屋でおつみまみを頼もうとしたら五種類しかなかったらもう二度と来たくない。

選ぶ楽しみのある場合と、選ぶことに頭を使いたくない場合があるよね。



二つのグループに写真を見せる。片方のグループは写真を見て受けた印象を語り、もう片方は何も語らない。
しばらくして何枚かの写真を見せて「前回見た写真は?」と尋ねると、印象を語ったグループのほうが正解率が低かったという実験結果。
 言語は便利な道具ですが、完璧ではありません。たとえば、山頂から眺めた雄大な夕日の風景や、高尚な芸術作品に心を打たれたときの感動は、「言葉にならない」はずです。無理に言語化したところで、紡がれた言葉はどこかウソっぽく、もどかしい残余感があります。
 言語化とは、言葉にできそうな容易な部分に焦点を絞り、その一部を切り取って強調する歪曲化です。
 設問のケースでは、言葉で説明することによって記憶が歪められ、かえって想起しにくくなってしまいます。事件を目撃した人が、犯人の顔の特徴を警察に報告すると、あとで真犯人を見たときに正しく認識しにくくなることも知られています。
ぼくは文章を書くのが好きなので、言語化が得意だ。
映画を観終わってから「どんなストーリーだったか一分で語ってください」と言われたら、そこそこうまく要約できる自信がある。
一方、妻は言語化が得意でない。
ふたりで映画を観てから感想を語りあっても、妻からはあまり感想が出てこない。

ところが、映画のワンシーンや台詞や音楽のことをおぼえているのは圧倒的に妻のほうだ。
彼女が、目にしたもの、耳にしたものをそのままの形で記憶している。だから「あるシーンの二人の役者のやりとり」を一字一句正確に再現できたりする。
一方ぼくは観たものを自分の言葉に変換して圧縮してから脳に格納しているので、再現ができない。「たしかジャイアンとスネ夫が勝手にバギーに乗って出かけちゃって、朝になってそれを知ったドラえもんたちがあわてふためくんだよね」といった大まかな説明しかできない(『のび太の海底鬼岩城』を例にとると)。そのときドラえもんが発した台詞は圧縮時に削除されている。

どっちがいいという話ではないが、記憶の仕方は「おおざっぱにしか覚えないが、短期的に多くの情報を処理できる」と「正確に覚えられるが、記憶するのに時間がかかる」というべつのやりかたがあるのはまちがいない。
だから、何かを覚えるため要点をメモするのは考えものだ。要点メモは大まかに覚えるのには向いているけど、正確に記憶するためにはかえって足をひっぱることになるかもしれないから。



「レバーを押すと餌が出る装置」と「何もせずに餌が出る装置」があれば、ほとんどの動物は前者を好むという実験結果。
 不思議なことに、皿から餌を自由に食べられるにもかかわらず、わざわざレバーを押します。苦労せずに得られる皿の餌よりも、労働をして得る餌のほうが、価値が高いのでしょう。
 実は、これはイヌやサルはもちろん、トリやサカナに至るまで、動物界にほぼ共通して見られる現象で、「コントラフリーローディング効果」と呼ばれます。
 ヒトも例外ではありません。同様な実験を、就学前の幼児に対して行うと、ほぼ100%の確率でレバーを押します。成長とともにレバーを押す確率は減りますが、大学生でも選択率は五分五分で、完全に利益だけを追求することはありません。
(中略)
 ちなみに、これまで調べられた中で、コントラフリーローディング効果が生じない唯一の動物が飼いネコです。ネコは徹底的な現実主義で、レバー押しに精を出すことはありません。
ふははは。
さすがネコ。
賢いというか怠惰というか。

根っからの貴族体質なんだな。やはり人間はネコの従順たるしもべとして働くために生まれてきたんだな。

【関連記事】

【読書感想エッセイ】 ケリー・マクゴニガル 『スタンフォードの自分を変える教室』

【読書感想文】 ダン・アリエリー 『予想どおりに不合理』



 その他の読書感想文はこちら


2020年2月23日日曜日

悪意なき凶器


中学生のとき、田舎のおばあちゃんがうちに来た。
会うのは数年ぶり。

おばあちゃんはぼくの姉(中学生)を見るなり
「まーよう肥えたねー」
「ほんとによう肥えたわー」
とくりかえし言った。

ことわっておくが、姉は太っていなかった。どっちかといったら細身のほうだった。
そしておばあちゃんは決して意地悪な人ではなかった。むしろ孫には甘い顔しか見せたことのない人だった。

つまり、おばあちゃんには孫を傷つける意図は微塵もなかったのだ。
おばあちゃんの「よう肥えたね」は「大きくなったね」とか「すっかり大人の女性らしくなったわね」の意味だったのだ。

だがその言葉を肯定的に受けとる余裕は、思春期の女子中学生にはなかった。
姉は翌日からダイエットをはじめ、ごはんを残すようになった。



善意はときに凶器になる。
善意だからこそ傷つけることもある。

姉は決しておとなしいほうではなかったから、クラスの意地悪な男子から「やーいデブー」とはなしたてられても「うるせえバカ」と聞きながすことができただろう。

だが優しいおばあちゃんににこにこしながら言われる「よう肥えたねえ」は受けながすことができなかった。

悪意をまとっていないからこそ、言葉がダイレクトに胸に突き刺さったのだ。


だから、
「まあまあ、悪気があって言ったわけじゃないんだから」
「あの人も悪い人じゃないからね」
なんてことを言う人に対してはこう言いたい。

「悪気がないから傷つくんだよ!!」と。


【関連記事】

【エッセイ】無神経な父

2020年2月21日金曜日

狂牛病フィーバー


2001年のこと。

BSEなる病気が世間をにぎわせていた。

BSE。正式名称は牛海綿状脳症。日本での通称は狂牛病。

なんともおそろしい病気だ。
牛の脳がスカスカの海綿状(スポンジ状)になるという病気で、当時原因はよくわかっていなかった。その後判明したのかどうかは知らない。

何がおそろしいって、その名前。
狂牛病。狂犬病もおそろしいが「狂牛」はもっとおそろしい。アメリカバイソンみたいなやつが怒り狂って角をふりかざして暴れまわりそう。ドラクエにあばれうしどりというモンスターが出てくるが、あのイメージ。
じっさい狂牛病になったからってそんなことにはならないんだろうけど、でもそれぐらいインパクトのある名前だった。

潜伏期間が長いというのもおそろしかった。感染しても発症するまでに十五年ほどかかるという話だった。
今から十五年後に世界中の人たちの脳がいっせいにスカスカになって狂牛化する……。そんなイメージは多くの人を震えあがらせた(だから狂牛化しないんだってば)。

当時、日本中が狂牛病に大騒ぎしていた。ほんとに。
「牛肉を食べるとヤバい」みたいな話が出回って(きちんと処理されている牛肉は大丈夫だったのだが)、焼肉屋やステーキ屋の経営があぶなくなったなんて話も聞いた。


そんな狂牛病騒動のさなか、当時十八歳だったぼくは高校卒業祝いとして友人たちと焼肉を食いに行った。
風評被害のせいで客の来ない焼肉屋が「食べ放題半額キャンペーン」をやっていた。
金はないけどたらふく肉と飯を食いたい高校生にとっては「いつか発症するかもしれないおそろしい病気」よりも「目の前にある大量の焼肉」のほうが重要だったのだ。

客はぼくたち以外にいなかった。
ぼくらは他の客に遠慮する必要もなく、「狂牛の肉うめー!」「ほっぺたが落ちて脳がスポンジ状になるぐらいうまい!」なんて不謹慎な冗談を言いながら肉を腹いっぱい食べた。

ほんとはぼくも「狂牛病に感染したらどうしよう」という不安を抱えていたが、そのおそろしさをふりはらうための強がりでわざと不謹慎ジョークを飛ばしていたのだった。



あれから二十年弱。
今のところぼくの頭は正常に動いている。たぶん。
多少物覚えは悪くなったが、経年劣化にともなう正常な範囲だとおもう。

あのとき食べた牛肉はぼくに狂牛病をもたらさなかったのだろう。

しかし今でも「赤ちゃんの脳はスポンジのように吸収力がすごい」なんて言葉を聞くとぼくの頭の中に暴れまわるアメリカバイソンが現れてどきっとする。