2020年2月19日水曜日

【読書感想文】思想弾圧の化石 / エレツ・エイデン ジャン=バティースト・ミシェル『カルチャロミクス』

カルチャロミクス

文化をビッグデータで計測する

エレツ・エイデン
ジャン=バティースト・ミシェル
阪本 芳久 (訳)

内容(Amazonより)
Googleがスキャンした過去数世紀分の膨大な書籍データから、年ごとに使われている単語・フレーズの使用頻度をグラフに示す「グーグル・Nグラム・ビューワー」が誕生した。この技術の登場で、文献をビッグデータとして活用するまったく新しい人文科学が誕生した。実現に導いたふたりの科学者は本をビッグデータとして扱い、研究に活用する新しい学問を「カルチャロミクス」と名づけ、その誕生の経緯と意義を熱く語る。人文科学が「定量化」時代に突入する“文系”フロンティアの幕開けだ!
Google Ngram Viewer なるサイトがある。

過去100年以上に世界中で出版された大半の本に使われた言葉をデータ化し、その言葉がどれぐらい使われたかを年ごとにグラフ化できるサービスだ。無料。
(残念ながら2020年2月時点で日本語は非対応)

たとえばこれは、1800年以降に[America][USA][China][Japan]という言葉がどれだけ本に使われたかを示すグラフ。

19世紀、世界的に中国も日本も重要な国ではなかった。日本などほぼ話題にされていないに等しい。
ところが1900年頃から[China]と[Japan]に関する記述が増えはじめる。日清戦争(1894-1895)を経て、世界的に存在感を増してきたことが原因だろう。
その後、第一次世界大戦(1914-1918)と第二次世界大戦(1939-1945)の時期には三国とも記述が増える。おそらくこの時期は大戦に参加したすべての国が多く言及されたことだろう。
その後[China]は横ばい。
戦後になって急激に[USA]が増える。[USA]は戦後に使われるようになった言葉なんだね。[USA]にとって代わられた[America]は微減。
Japanは戦後一定を保つが、1980年頃から急上昇。ジャパン・アズ・ナンバーワンの時代。この時期はじめて[China]を超える。
が、バブル崩壊とともに[Japan]は失速。急激に世界からの関心を失い、入れ替わるように存在感を増した[China]に大きく水をあけられている(ちなみにこのグラフの右端は2008年なので、現在はもっと大差をつけられているはず)。

こんなふうに、人名、俗語、一般名詞など、いろんな言葉の隆盛が手に取るようにわかる。
ふうむ、おもしろい。
早く日本語版をリリースしてくれー。



『カルチャロミクス』は、このNgram Viewerを開発したふたりの研究者による、開発の顛末とそこから導き出される知見についての本。

Ngram Viewerを生みだすまでには並々ならぬ苦労があったようだ。
まずこれまでに出版されたありとあらゆる本を電子データ化すること。これはGoogleが既にやっていたプロジェクトらしいが、何人ものスタッフが1ページずつ本をめくってスキャンしていったそうで、とんでもない労力だ。
金になるかわからないけど莫大な労力のかかるプロジェクトに金を出すなんて、さすがはGoogleだよなあ。でも金になるんだろうなあ。
国家がやらなきゃいけないことを私企業がやってるんだもんなあ。[Google]の影響力が[Japan]を上回るのも時間の問題かもしれない。

ちなみにGoogle Ngram Viewerにおける[Toyota][Sony][Google]の1950-2008年のグラフがこちら。

Googleの躍進ぶりがいかにすごいかがよくわかる(何度も言うけどグラフの右端は2008年だから今はもっと差があるからね!)。


Google Ngram Viewerが日本語に非対応なのは、スキャンデータを電子化するのが難しいからだろうね。アルファベットは形がシンプルだし種類も少ないから文字を自動判別するのが楽だろうけど、漢字は難しいんだろうな。
画数が多い字なんかはスキャンの仕方やフォントによって別の字とまちがえられてしまうだろうから(柿(かき)と杮(こけら)なんか見分けるのはほぼ不可能だろう)。



技術的な問題だけでなく、法的な問題も立ちはだかったらしい。
本には著作権があるから、万が一スキャンデータが流出したりしたらとんでもないことになる。一億冊以上の本のデータが流出したら、数百万件の訴訟を起こされるリスクがある。
そのため、新しい本の情報は扱いにくい、単語単位での分析はできるが文章単位での分析はできないなどいろんな制約がかかったらしい。

たいへんだあ。
いくらGoogleとはいえ数百万件の訴訟を起こされたらひとたまりもないだろう。
そりゃ扱いも慎重にもなるわな。

そんな幾多の試練を乗り越え、完成した Ngram Viewer。
著者たちは、まるで新しいおもちゃを与えられた子どものようにNgram Viewerでいろんなことを調べている。


たとえば不規則動詞について。
ふつうの動詞は[-ed]をつければ過去形、過去分詞形になるが、たとえば[go]は[go-goed-goed]ではなく[go-went-gone]という不規則な変化をする。

英語を勉強した人なら、きっと誰しもが「なんで不規則動詞があるんだよ」とおもったことだろう。ぼくもおもった。
すべてが規則動詞なら英語の勉強もぐっと楽になったのに。

ところが、不規則動詞が今も残っているのにはちゃあんとわけがあるのだ。
drive(その過去形がdrove)は英語の不規則動詞の一つである。不規則動詞には意外なところがある。不規則動詞も他の品詞に属す大半の単語と同じようにジップの法則に従うのなら、不規則動詞の大半はめったに使用されないと考えていいだろう。ところが実際には、ほぼすべての不規則動詞がきわめて頻繁に使用されている。不規則動詞は動詞全体の三パーセントを占めるにすぎないが、使用頻度の上位一〇位までに入る動詞は、すべて不規則動詞なのだ20。簡単に言えば、不規則動詞はジップの法則の印象的な例外なのである。不規則動詞こそ、われわれが追い求めていたものにほかならなかった。ティラノサウルス・レックスの骨格のありかが、うまいぐあいに統計的データという目印によって示されたのと同じように、調査すべき対象が見つかった。
元々動詞の活用の仕方はばらばらだったらしい。
だがあるときから[-ed]をつければ過去形、過去分詞系になるという法則ができ、次第に動詞の活用は置き換わっていった。
まっさきに置き換わったのは、めったに使われない動詞だ。
めったに使われないので「これの過去形ってどうだったっけ? まあ[-ed]つけときゃいっか!」みたいな感じで、あっさり置き換わってしまうのだ。

その結果、現在生き残っている不規則動詞はよく使われるものばかり。
[be] [do] [go] [think] [have] [say] など、使用頻度の高い動詞ほど規則的な活用をしにくいのだ。
使用頻度が高いから、イレギュラーな活用をしても忘れられないからだ。

筆者たちは過去のデータを元に、今後も不規則動詞はどんどん減っていくと予想する。既にいくつかの不規則動詞が消滅(規則動詞化)に瀕しているらしい。
未来の中高生はちょっとだけ英語学習が楽になるね。



思想弾圧があると、ある種の単語の使用頻度が急激に減る。
 検閲や抑圧・弾圧といった行為は、どの地で行なわれているかにかかわらず、特徴的な痕跡を残す場合が多い。特定の語や言葉が突然メディアに登場しなくなるのだ。このような語彙の欠落は、出現頻度の統計的データに顕著に現われる場合が多いので、何が抑圧の対象になっているのかを解明する一助として、ビッグデータの「数の力」を利用することができる。
 この手法の仕組みを理解するために、ナチス・ドイツの時代に戻ってみよう。ここでの目標は、一九三三年から一九四五年までの第三帝国の時代に、知名度(名声)がシャガールと同じように下がった人物を探すことである。知名度の下落の大きさは、ある人物の第三帝国時代の知名度と第三帝国成立前および消滅後の知名度を比較すれば、数値として表わせる。たとえば、ある人物の名の本の中での言及頻度が一九二〇年代と一九五〇年代は一〇〇〇万語当たり一回だったのに、ナチス政権下では一億語当たり一回だったとすれば、知名度は一〇分の一に下がったことになる(下落の大きさは一〇という数値で表わせる)。これは、その人物の名前が検閲の対象となって削除されたか、当人が何らかの形で抑圧されていたことを示唆している。逆に、一〇〇〇万語当たり一回だった言及頻度がナチス政権下では一〇倍の一〇〇万語当たり一回に上昇していれば、その人物は政府による宣伝の恩恵を受けていた可能性がある。このように、ナチス政権下での知名度とその前後の時代での知名度を比較すれば、さまざまな人物の名を取り上げて、それぞれに知名度の下落の大きさ、ないしは上昇の大きさを表わす「抑圧スコア」を割り当てることができる。こうしておけば、次はこの抑圧スコアが、社会的に抑圧されていた人物を割り出すのに一役買ってくれる。
一部の芸術家、思想家、ユダヤ人学者などはナチス政権下で弾圧されたため、その期間のドイツ語の本に登場する頻度ががくっと下がる。

「急に注目されるようになった人物・事象」は話題にのぼることが多いので目に付くが、「話題にならなくなった人物・事象」には気づきにくい。
死語といえば? と尋ねたら「ナウなヤング」といった答えが返ってくるだろうが、そういう言葉は意識されているのでほんとには死んでいない。ほんとの死語は死語として意識されることすらないのだ。

だが Ngram Viewerを見れば、特定の国・時代だけで不自然に使われなくなった言葉がわかる。それはつまり「抑圧された思想」なのだ。
弾圧が化石として残る。これは後世のためにもぜひ残しておかなければならないプロジェクトだ。国家を挙げてでも。
でも、権力者からすると弾圧の痕跡が残ってしまうのは避けたいだろうから無理かもしれない……。



Ngram Viewerで得られた考察を見ても「ふーん。おもしろいねー」とおもうだけで特に何の役に立つわけでもない。だが研究とはそういうものだ。それでいい。

著者たちが楽しんでいることだけは存分に伝わってくる。
Ngram Viewerみたいなおもちゃ、言語マニアにはたまらないだろうなあ。

国語辞典が好きな人なら一日中 Ngram Viewer で楽しめるはず。

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2020年2月18日火曜日

鉄道マエストロ


電車乗客の指揮者になりたい。

満員電車でタクトをふりまわして他の乗客たちの行動を指揮するのだ。


ほらそこ、もっと奥に詰められるだろ。おまえがそこでふんばってるせいでこっちがぎゅうぎゅう詰めなんだよ。

そこのおっさん、おまえが右か左に寄ればあと一人座れるんだぞ。寄らんかい。

そこのおばちゃん、リュックは胸の前で持つか網棚に上げるかせんかい。じゃまだよ。

スマホ見てる少年、目の前にマタニティつけた女性が立ってるぞ。ちゃんと見ろよ、ただのでぶじゃないぞ。

おねえちゃん、傘は自分の前で持たんかい。人に当たるから。

にいちゃん、壁にもたれて内側を向くんじゃない。他人の顔面と向き合わなきゃいけない人の気持ちも考えんかい。外側を向くのがルールなんだよ。鉄道乗客法で定められてるのを知らんのか。そんなのないけど。



ぼくの的確な指揮で、乗客たちに六方最密充填構造原子のように最適なフォーメーションをとらせるのだ。

マエストロのタクトは片時も休まない。



さあ。もうすぐ駅に着くぞ。降りるやつは準備しろよ。到着してからあわてるんじゃないぞ。

こらこらおっさん。だからといって今から出口に向かおうとするんじゃない。
扉が開いてないのに隙間をつくれるわけないだろ。
どうせ次はターミナル駅。いっぱい降りるんだからそれを待ってから向かっても十分間に合うぞ。

出口横のにいちゃん。そのポジションをキープするんだったらいったん降りんかい。

うわうわうわ。おばちゃん、並んでる人を押しのけて乗りこもうとするんじゃない。よしそこの大学生、そのおばちゃんを一発どついていいぞ。

おいそこの変なやつ、狭い電車内でタクトをふりまわすんじゃない! 周囲の迷惑だろ!
指揮者はぼくひとりで十分だ!


2020年2月17日月曜日

【読書感想文】雑誌で読むならいいかもしれないけど / 渋谷 直角『ゴリラはいつもオーバーオール』

ゴリラはいつもオーバーオール

渋谷 直角

内容(Amazonより)
レジ横でターンテーブルをまわすコンビニ店員の異様な情熱、スティーヴィー・ワンダーのものまねをしながら文化祭のステージ上で火を噴いた友人の狂気―。何気ない日常に潜む、バカバカしくも愛おしい、イビツな人々のエピソードが満載!先入観や思い込みを捨て、何かに「気づくこと」の楽しさと大切さを再認識させてくれる珠玉のエッセイ集。

渋谷直角氏の漫画『カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生』も『奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール』もおもしろかったので(タイトルなげえな)エッセイも読んでみたのだが、読んだ後に残るものがなかった。

『ボサノヴァカバー』も『民生ボーイ』も底意地の悪い視点が随所にあふれかえっていたのだが、『ゴリラはいつもオーバーオール』はずいぶんライトでポップなエッセイで、「こんな変わったやつがいましたー!」「こんなおもしろ出来事があったんですよー!」ってな感じで、決してつまらないわけではないのだが突き刺さってくるものがなかった。

雑誌のコラムの寄せ集めらしいのだが、そのまま本にしたらこうなってしまうのもしょうがないのかな。
雑誌のコラムは主役じゃないから、アクが強すぎてはいけない。極端な主張や身勝手な思いこみはじゃまになる。
この本に収録されたエッセイはどれも収まりがいい。暴言も妄言もない。主張も弱い。「ぼくはこうおもうんですけど、ぼくだけですかね、アハハ……」みたいな感じで、雑談のトピックとしては合格だけど一冊の本にまとめられると退屈だ。
雑誌コラムの宿命かもしれない。


駆け出しライターだった頃の顛末も、せっかくのいい題材なのにただ事実を並べて書いてるだけだ。各方面に気を遣って書いた結果こんな毒にも薬にもならないお話になっちゃったのかな。

もっと人を小ばかにしたものを期待していたのになー。



おもうに、フィクションを書く才能ととエッセイを書く才能はまったくべつのものだ。

ほんとにごくごくまれにどちらもおもしろいものを書く人もいるが(今おもいつくのは遠藤周作と北杜夫ぐらい)、たいていの書き手はそのどちらかの才能しかない(両方ない人もいる)。

小説家がエッセイを書いても日記みたいな内容だったり、エッセイのおもしろい作家の小説を読んだらだらだら文章が並んでいるだけでヤマ場も落ちもなかったりする。

漫画家とか学者とか翻訳家とか歌人とか、小説家じゃない人の書くエッセイのほうがおもしろいことが多い(まあこれは「エッセイを書く小説家」と「とびきりおもしろいエッセイを書く他の職業の人」を比べてるから当然なんだけど。他の職業でエッセイがつまらない人にエッセイの仕事はまず来ないだろうから)。

フィクションとエッセイはまったく別の筋肉を要する作業なんだろう。
小説家だからといって安易にエッセイ執筆を依頼するのは、「マラソン速いんだから短距離走も速いでしょ」というぐらい乱暴なことなのだ。


で、渋谷直角さんはフィクション畑の人なのだとおもう。
自分でも雑誌ライター時代に「インタビューをとってそのまま書いてもつまらないから全部妄想で書いた」なんて話をしてるから、きっとそっちのほうが向いているんでしょうね。

ということで、今後は毒っ気の強いフィクション漫画を描いていってもらいたいものです。以上。

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2020年2月14日金曜日

【読書感想文】“OUT”から“IN”への逆襲 / 桐野 夏生『OUT』

OUT

桐野 夏生

内容(e-honより)
深夜の弁当工場で働く主婦たちは、それぞれの胸の内に得体の知れない不安と失望を抱えていた。「こんな暮らしから脱け出したい」そう心中で叫ぶ彼女たちの生活を外へと導いたのは、思いもよらぬ事件だった。なぜ彼女たちは、パート仲間が殺した夫の死体をバラバラにして捨てたのか?犯罪小説の到達点。’98年日本推理作家協会賞受賞。
いやーよかった。
すごくイヤな小説だった。イヤなところがよかった。イヤな気持ちになる小説、好きなんだよなあ。

ある女性が、夫婦喧嘩の末に夫を殺害してしまう。死体の始末に困った犯人は、パート仲間である中年女性の雅子に相談をもちかける。
雅子は「なんとかするよ」と答えて、別のパート仲間とともに死体を自宅風呂場で解体し、遺棄する。
警察は別の男を逮捕。雅子たちの死体遺棄は見事に成功したかに見えたが、事件の裏側を知った貸金業者や誤認逮捕されたカジノ経営者が雅子に近づき……。

と、かなりぶっとんだ設定。
これ以上はネタバレになるので説明しないが、ここからさらにすごい展開になってゆく。

すごいのは、死体遺棄の首謀者である雅子が、夫を殺した女性と何の利害関係もないこと。
ただのパート仲間で、すごく仲の良い間柄でもない。
「金をくれたら死体を処分してあげる」といった取引をしたわけでもなく、脅したり脅されたりしたわけでもない。
「車で来てるから送っていってあげるよ。ついでだし」ぐらいの感覚で「夫の死体処分してあげるよ」とやっているのだ。

傍から見ているとまったく理解できない。
だからこそ逆にばれないのだろう。そこに奇妙なリアリティがある。

もしもじっさいにこんな事件があったら、やっぱり捜査は難航するだろうな。
まさか何の利害関係もない赤の他人が無料で死体処理を手伝うとは誰もおもわないもん。

完全犯罪でいちばんむずかしいのは死体の処理だと聞く。
でかい、おもい、目につく、腐る、臭う、ばらしにくい、怖い。そういうものを人知れず処分するのは相当むずかしいだろう。

赤の他人が死体を処理してくれるのなら完全犯罪も意外とかんたんなのかもしれない。
大人がひとりいなくなったって死体が出てこなければ警察もまともに捜査しないだろうし。

本格ミステリって「どうやって殺すか」「どうやって殺した場所から立ち去るか」「いかにして証拠を残さないか」などに重点が置かれるけど、現実には「いかに死体を消すか」がもっとも大事かもしれない。そこを成功すれば九割方成功したようなものかもしれない。
完全犯罪を試みるときのためにおぼえておこう。



赤の他人の死体を風呂場で切り刻んでばらばらにしてゴミ捨て場に捨てるというめちゃくちゃ残酷なことをやっているのにもかかわらず、そのへんの描写はどこかユーモラスで、その後主人公たちが警察の捜査からまんまと逃れるあたりは痛快ですらある。

死体遺棄犯側に肩入れしてしまうのは、それをやっているのが「冴えない中年女性たち」だからだろう。
社内のいじめが理由で会社をやめて夫や息子との交流もなくなった女、憎い姑の介護と身勝手な娘に苦しめられながらも家から逃げられない女、物欲に歯止めが利かず借金を抱えて男にも逃げられる女。
若くもなく、美しい容姿もなく、技能があるわけでもなく、誇れる家族がいるわけでもない。
男中心の社会から見れば「とるにたらないおばさんたち」だ。

だからこそ彼女たちの大胆な犯罪は常識の盲点をつき、警察たちは彼女たちを疑うことすらできない。
『OUT』に出てくる刑事は女性たちにセクハラを平気でおこなうデリカシーのない男として描かれているが、彼こそが「男社会における中年女性への扱い」を体現している。
彼にとって女は「家庭を守るもの」か「性欲を満たすもの」であって、まさかバラバラ事件のような大胆なことをしでかす存在ではないのだ。だから犯人を捕まえられない。

この刑事は、『OUT』に出てくるほぼ唯一の「まっとうな仕事をしている男」だ。
他の登場人物といえば、街金業者の元暴走族、殺人の前科のあるカジノ経営者、ブラジルからの出稼ぎ労働者などで、彼らは社会の周縁にいる“OUT”な人間だ。なにしろ社会は、正社員の男性を中心にまわっている(ことになっている)のだから。

だが彼らは“OUT”だからこそ、死体遺棄の首謀者である雅子の本質に気づくことができる。
決して男のいいなりにならない女、直接の利害がなくても死体をばらばらにできる女の本質に。
そして三人ともが雅子の本質に惹かれ、三者三様の形で雅子に近づくことになる。

これは追いやられた女たちから男へ、“OUT”の男たちから“IN”の男たちへの逆襲の物語なのだ。



死体遺棄、警察との攻防、その後の“ビジネス”、姿の見えない敵から追い詰められる犯人たちとどのパートもおもしろく読んだのだが、ラストの展開だけは好きになれなかった。

〇〇と雅子の魂の触れあいはさすがに異常すぎて理解不能で……。

でもまあ、それでいいのかもしれない。
結局ぼくは“IN”の人間だしな。だから『OUT』をフィクションとして楽しめるんだし。
これが心底理解できるようになったらぼくももう“IN”ではいられないだろうから……。


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2020年2月13日木曜日

気の毒な苗字


ぼくの苗字はごくごくありきたりの苗字だ。
日本の多い苗字トップ10に入っている。

めずらしい苗字にあこがれたこともある。
星野とか桜井とか月島とかの美しい苗字がうらやましい。

しかし「苗字をランダムに変えられるボタン」があってもぼくは押さない。
今より悪い苗字になるのが怖いからだ。

親が様々な想いを込めてつける名前とちがい、苗字は「なんでこんなのにしたんだろ」とおもうものがちょこちょこある。

その苗字で生きている人には悪いが、毒島とか大尻とか。
毒島なんて漢字もひどいし読みも「ぶすじま」で二重苦だ。つくづく「毒島じゃなくてよかった」とおもってしまう。ごめんやで。

江口とか。
ぜったいに小学生のときのあだ名は「エロ」で確定だもんな。

大学生のとき、同級生に田尾さんという女の子がいた。
田尾さんはあまり字がきれいではなく、漢字のヘンとツクリが離れてしまう、横に間延びした字を書く人だった。
あるとき友人のひとりが、左右離ればなれになった「尾」という字を見て「田尾さんの毛がはみでてる」と云った。
ぼくは大笑いしながら「名前が田尾じゃなくてよかった」とおもった。

前の会社に毛尾さんというおじいちゃんがいた。
苗字に毛がふたつも入っている。
当人は少し薄毛で、ぼくは毛尾さんに会うたびに「名前はあんなにふさふさなのに」とおもっていた。

もちろん口に出したりはしない。いい大人なので。
でもこれからも江口さんに会えば心の中で「エロ」と呼んでしまうだろうし、大尻さんに会えばこっそりお尻の大きさを観察してしまうのだ。