2019年8月20日火曜日

夏休みの自由研究に求めるもの


お盆に実家に帰ったら、小学三年生の姪から「夏休みの宿題の自由研究の書き方を教えてほしい」と頼まれた。

よっしゃよっしゃと引き受けて「大卒学士様の力見せたるわい!」と教えはじめたんだけど、まああれだね。これはストレスフルな作業だね。

姪の中で『飼っているカブトムシの研究』という内容は決まっていたので、まずは姪の話をヒアリング。
「カブトムシはいつから飼ってるの?」
「どうやって捕まえたの?」
「エサは何をいつあげてる?」
「カブトムシAとカブトムシBのちがうところは?」
なんて質問をして、
「じゃあ『カブトムシをどうやって捕まえたか』『飼ってみて気づいたことはなにか』『カブトムシごとの性格の違い』という三部構成で書いてみようか」
と、全体の設計図を引いた。三年生でこの内容なら上出来だろう。


ここまではよかった。

「よし、それじゃあさっそく書いてみようか」
といったものの、姪の鉛筆が進まない。顔にも疲れが見られる。
全体の構成を考えただけで、すっかり疲れているのだ。

ぼくからしたらこんなの準備運動みたいなものでやっとここからがスタートなのだが……。
三年生ってこんなにも集中力がないものなのか。

少しだけ休憩をはさみ、姪は書きはじめる。
見ながら「その漢字ちがうよ」「ぜりーはカタカナで書くんだよ」などと指摘すると、あからさまにイヤそうな顔をされる。
ぼくとしては、表現の不自然さや言い回しのつたなさには目をつぶり、明らかな間違いだけ指摘するように配慮してるつもりなのだが……。

カブトムシの捕まえ方の項では、姪が
「ゼリーを木に塗っておいたら朝カブトムシが集まっていたのをつかまえた」
と書いていたので
「もっと細かく書いたほうが伝わるとおもうよ。『七月下旬の朝六時頃、〇〇神社のクヌギの木の幹に集まっていた』とか。カブトムシの他にどんな虫が集まってたかとか。絵を描いたらもっとわかりやすくなるとおもうよ」
とアドバイスしたのだが、
「いいっ。もう書いちゃったし」
とにべもない。

「でもこれはまだ下書きでしょ。隙間に書きたせばいいじゃない」
と言っても
「もういいの」
と迷惑そうにする。

おい教えてやってるのになんだその態度は、とむっとするが「ふーん、だったらまあいいけど」とぐっとこらえる。
これが他人だったら「もう知らんわ。自分でやれよ」となるだろうし、我が子だったならきっと喧嘩になっている(こちらだけでなく向こうの言い方ももっときつくなるだろう)。



どうにかこうにか自由研究は完成した。

「メスのAちゃんは男好きなのでずっとオスといちゃいちゃしてる」
「オスのBはCちゃんにふられたのに次の日にはAちゃんに近づいていってた」
という、カブトムシの生態よりも各個体の恋愛模様にスポットをあてた『あいのり』『テラスハウス』みたいな研究報告になったけど、それはそれで女子っぽくていい。

完成したときの姪の晴れ晴れとした顔を見て、自分が勘違いしていたことに気づいた。

自由研究に対して求めるものがぼくと姪とではまったくちがったのだ。

ぼくの目的は「文部科学大臣賞を獲れるようなすばらしい自由研究を書いてもらうこと」だったが、姪の目的は「最小限の労力で宿題を終わらせること」だったのだ

そうだった。忘れてた。
ぼくが小学生のときもそういうマインドだった。
とりあえず怒られない程度のレベルのものをできるだけ少ない労力で作れればそれでいい、とおもっていた。
すばらしい自由研究を提出して褒められようなんてこれっぽっちもおもっていなかった。

そうだったそうだった。
小学生ってそうだった。忘れてた。
叔父さんを頼ってくれたのがうれしくて、ついついすばらしいレポートにしてやろうと意気込んでしまった。
そういうの求められてないんだよね。

次に手伝ってくれと頼まれたときは「楽にそれっぽいレポートをしあげるコツ」を教えてあげよう。
おじさん、どっちかっていったらそっちのほうが得意だぜ。



2019年8月19日月曜日

母との対立、父の困惑


娘(六歳)は、おかあさんの云うことを聞かない。

おかあさんに「手を洗ってきて」「早く着替えないと置いていくよ」と云われると、いちいち反発する。
「わかってる!」
「いっぺんに言わんとって!」
「おかあさんだってそんな言い方されたらいややろ!」
「ひとのことは言わんでいい!」
「いま忙しい!」

いちいちつっかかる。それか無視するか。
他の保護者に聞いても、「母と娘」は対立しやすいらしい。


でもおとうさん(ぼく)のいうことには、たいていおとなしく従ってくれる。

理由はいくつかある。
まずぼくのほうが厳しい。おとなげないと言ったほうがいいかもしれない。
「置いていく」といったらほんとに置いていく。
「じゃあごはん食べなくていいよ。おとうさんが食べるから」といったらほんとに娘の分まで食べてしまう。
妻はそこまでしないので、何をいっても口だけだと見透かされているのだ。

あとぼくのほうが力が強い。
駄々をこねる娘を引きずって風呂場まで連れていって力づくで服を脱がせてシャワーをぶっかけたこともあるし、わがままの度が過ぎるときに抱きかかえて押し入れに閉じこめたこともある(三分ぐらいね)。
幼児といえども本気で暴れたらけっこう激しいから、こういうことは力が強くないとできない。
妻にはむずかしい。


妻と娘が対立していると、困ったものだ、とおもう。
でも同時にちょっと優越感もくすぐられる。

けんかの仲裁に入るときは「しょうがないな。やっぱりおとうさんがいないとだめだな」と顔がにやけてしまいそうになる。

ほんとに困ったものだ(そんな自分が)。


2019年8月16日金曜日

【読書感想文】ブスでなければアンじゃない / L.M. モンゴメリ『赤毛のアン』

赤毛のアン

L.M. モンゴメリ (著)
村岡 花子 (訳)

内容(e-honより)
りんごの白い花が満開の美しいプリンスエドワード島にやってきた、赤毛の孤児の女の子。夢見がちで、おしゃべり、愛情たっぷりのアンが、大まじめで巻きおこすおかしな騒動でだれもが幸せに―。アン生誕100周年をむかえ、おばあちゃんも、お母さんも読んだ、村岡花子の名訳がよみがえりました。世界一愛された女の子、アンとあなたも「腹心の友」になって!

ご存じ、赤毛のアン。子どもの頃に読んだはずだけど「赤毛を黒く染めようとして髪が緑になった」というエピソードしか記憶にない。子ども心に「変な染料を使っても緑にはならんやろ」とおもったのをおぼえている。
で、三十代のおっさんになってから再読。
例の「赤毛が緑に」はかなりどうでもいいエピソードだった。



アンがいちご水とまちがえてぶどう酒をダイアナに飲ませてしまう、というエピソードがある。
これを読んでおもいだした。

まったく同じことをぼくもやった!

小学生のとき。
母が青梅に氷砂糖を入れ、そこに水を入れて「梅ジュースやで」とぼくに飲ませてくれた。おいしかった。

翌日、友人のKくんが遊びにきた。
台所に行ったぼくは、昨日の「梅ジュース」が瓶に入って置いてあることに気づいた。
ぼくは「梅ジュース」をKくんにふるまった。あの後母がホワイトリカーを注いで梅酒にしていたとも知らずに

Kくんは一気に飲み、顔をしかめた。「なんか変な味がする」
「え? そんなことないやろ」ぼくも少しだけ口をつけた。昨日とちがう味がする。おいしくなくなってる。
「あれ。なんでやろ。昨日はおいしかってんけどなあ」

しばらくして、Kくんは気分が悪いといって家に帰った。
後からKくんのおかあさんに聞いた話だが、Kくんは自宅に帰ったあとに大声でなにかをわめきちらし、まだ夕方だというのにグーグー寝てしまったそうだ(Kくん自身も記憶がなかったそうだ)。
赤毛のアンのエピソードそのままである。
おもわぬところで昔の記憶がよみがえった。まさかぼくと赤毛のアンにこんな共通点があったなんて。


ちなみに、『赤毛のアン』を翻訳した村岡花子の生涯を描いた朝の連続テレビ小説『花子とアン』にも友人にお酒を飲まされて酔っぱらうエピソードが描かれていたそうだ。



ところで、最近の『赤毛のアン』について言いたいことがある。
『赤毛のアン』は今でも人気コンテンツらしく、各出版社からいろんな版が出ている。
中にはイラストを現代風にしたものも。

講談社青い鳥文庫(新装版)
集英社みらい文庫(新訳)
学研プラス 10歳までに読みたい世界名作

まったくわかってない。
アンをかわいく描いちゃだめでしょ

現代的なイラストをつけることに文句はない。古くさい絵だとそれだけで子どもが手に取ってくれなくなるからね。
だから、こんなふうに『オズのまほうつかい』のドロシーを現代的なかわいい女の子に描くことは大賛成だ。


でもアンはだめだ。

「やせっぽちで赤毛でそばかすだらけの見た目のよくない少女が、持ち前の明るさと豊かな想像力で周囲の人間を惹きつける」
これがアンの魅力だ。

アンを美少女に描いてしまったら設定そのものが崩れてしまう。
「アンは生まれついての美少女だったのでみんなに愛されました」だったなら、ここまで世界中の子どもたちから愛されなかったにちがいない。
 まもなくアンが、うれしそうにかけこんできましたが、思いがけず、見知らない人がいましたので、はずかしそうにへやの入り口のところに立ちどまりました。
 そのすがたは、とてもきみょうに見えました。
 孤児院から着てきた、つんつるてんのまぜ織りの服の下から、細い足がにょきっと長くでていますし、そばかすはいつもより、いっそうめだっていました。
 かみは風にふきみだされて、赤いこと、赤いこと、このときはど赤く見えたことはありませんでした。
「なるほど、きりょうでひろわれたんでないことはたしかだね。」
と、レイチェル夫人は力をこめていいました。
 夫人はいつでも、思ったことをえんりょえしゃくもなしに、ずけずけいうのをじまんにしている、愛すべき、しょうじき者の一人だったのです。
「この子はおそろしくやせっぽちで、きりょうが悪いね。さあ、ここにきて、わたしによく顔を見せておくれ。まあまあ、こんなそばかすって、あるだろうか。おまけにかみの赤いこと、まるでにんじんだ。さあさあ、ここへくるんですよ。」
 すると、アンは一とびに、レイチェル夫人のまえにとんでいって、顔をいかりでまっかにもやし、くちびるをふるわせて、細いからだを頭からつまさきまでふるわせながら、つっ立ちました。そして、ゆかをふみならして、
「あんたなんか大ききらい──大きらい──大きらいよ。」
と、声をつまらせてさけび、ますますはげしくゆかをふみならしました。

この描写からもわかるように、アンは初対面のおばさん(しかも“しょうじき者”)から「きりょうが悪い」と言われるぐらいのブスで、そのことを自覚してコンプレックスに感じている少女だ。
だからアンの挿絵は美少女であってはいけない。『美女と野獣』の野獣がグロテスクなビジュアルでなければ話が成立しないように。

赤毛のアンの魅力をきちんと理解している本もある。

ブティック社 よい子とママのアニメ絵本

徳間アニメ絵本

ここに描かれているアンは、美少女キャラのダイアナにくらべて明らかに見劣りしている。アンを、がんばってブスに描いている

身も蓋もない言い方をすれば、赤毛のアンは「ブスが美人より輝く物語」だ。

『白雪姫』や『シンデレラ』のような生まれながらの美女がいい目を見る物語が素直に受け入れられるのはせいぜい幼児まで。成長するにつれ、自分が「お妃さまに嫉妬されるようなこの世でいちばん美しい存在」でないことがわかってくる。
だからこそ、自分の見た目に悩みを抱える十一歳のアンの物語が世界中で読まれてきたのだ。

他の作品はどうでもいいけど『赤毛のアン』だけはちゃんとブスっ子にしてくれよな!


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