2019年8月4日日曜日
ショールームとエロ動画の本棚
いっとき、家を買おうとおもって住宅展示場やマンションのショールームをいくつか見にいったことがある。
ショールームなので、どの部屋もすてきな内装が施されている。
品のいい家具、シックな壁紙、高級そうな食器。住みたい! とおもわせてくれるインテリアだ。
だが、いくつかのショールームを見ているうちに気がついたことがある。
本がない。
どの部屋にも本がない。本棚がない。
なんてこった!
まあわかるんだけど。
本棚は場所をとるから、ショールームにそんなものを置いてしまうと部屋が狭く見えてしまう。だから置かないんだろうけど。
にしたって。
本棚がない家って、やっぱりなんか嘘っぽい(ショールームだから嘘なんだけど)。
世の中には本をまったく読まない人がいることはぼくも知ってるよ。
でも、まだまだほとんどの家庭には本棚の一架や二架や三架ぐらいは置いてあるもんじゃないだろうか(そうでもないのか?)。
ショールームにはワイングラスを逆さ吊りにするやつ(なんて名前か知らない)もあるのに、本棚はない。
ワイングラスを逆さ吊りにするやつ(名前は知らない)よりは本棚のほうが多いだろ!
それ以来気になって、部屋の写真を見ると本棚をさがしてしまう。
で、気づいたんだけど、じっさいに人が住んでいる部屋には本棚があり、そうでない部屋には本棚がないことが多い。
インテリア雑誌の写真とかテレビコマーシャルの部屋とかには本棚がない。
あっても洋書が数冊並べてあるぐらいで、インテリアとして存在するだけだ。読むための本ではない。
つくりものの部屋に本がないのは、本が住む人をイメージさせてしまうからではないだろうか。
「新書と自己啓発本ばっかりだな。おもしろみのないやつが住んでるんだな」
「うわあ。ハヤカワSFがこんなに。ちょっとめんどくさいSFオタクってかんじだな」
「この人は郷土史に興味があるのか。おじいちゃんかな」
「岩波、ちくま、河出……。おお、これはなかなかの読書家だな」
というように、持ち主の人となりが想像されてしまう。
とたんに生活感というかなまなましさが生じてしまうので、つくりものの部屋には本がないんだろうね、たぶん。
話は変わるけど。
エッチな動画では「部屋」が舞台になっていることが多い。
マンションの部屋に酔っぱらった女の子を連れこんで……とか。
家庭教師の先生の大きく開いた胸元に昂奮してしまって……とか。
シェアハウスに引っ越したら男はぼくひとりで……とか。
そういう動画には本が映っていることが多い。
本好きとしては、ついついそちらに目が行ってしまう(もちろん女性の裸にも目が行ってしまうんだけど)。
たいていは漫画とか漫画雑誌なんだけど、ときどき文庫が並んでいたり、ごくまれにハードカバーの小説が映ることもある。
おっ。こんなの読むんだ。
なんだか親近感が湧く。
エロ動画なんて「つくりもの」の典型のような作品なのに、意外にもちゃんと本が並んでいる。
あれはたぶん撮影のためにつくられた部屋ではなく、予算節約のためにスタッフとかがほんとに暮らしている部屋を提供しているんだとおもう。
だから本があるのだ。置物としての本でなく、読むための本が。
エロ動画の背景に映る本棚、ぼくはあれが大好きだ。
すごくリアリティを与えてくれる。バックに本棚があるだけでエロさが二割増しになる気がする。
ところで、エロ動画に映る本ってモザイクがかかっていることが多いんだよね。
だからタイトルまではわからなかったりする。
出版社や著者から「うちの本をエロ動画に勝手に使うな!」というクレームがつかないようにという配慮なんだろうけど、女の人のおっぱいにはモザイクがかかってないのに文芸書の背表紙にはモザイクがかかっているのはなんかおもしろい。
エロ動画制作の人たちからしたら本って裸よりセンシティブなものなんだなあ。
2019年8月2日金曜日
けったくそわるい
「けったくそわるい」という言葉がある。
たぶん関西弁。
意味としては、不愉快だ、胸くそ悪い、反吐が出そうだ、虫唾が走る、といったところだろうか。強い嫌悪を表す言葉だ。
用例としては、
「けったくそとは漢字で書くと[卦体糞]。[卦体]とは元々……なんてインターネットで三十秒で拾ってきた蘊蓄をならべてえらそうにすなや、けったくそわるい!」
のように使う。
ぼくは関西で生まれ育ったのでときどき耳にする。若い人やきちんとした身なりの人はあまり使わない。
昼間からハイボールを飲んでいるおじさんが口にする言葉、というイメージだ。
ただでさえお近づきになりたくない人が不快感をあらわにしているわけだから、「けったくそわるい」という言葉を聞いたらとるものもとらずにすぐその場を離れたほうがいい。「海辺で地震が起きたら高台に向かって走れ」と同じだ。
危険をあらわすシグナルではあるが、ぼくはこの「けったくそわるい」という言葉が好きだ。
なぜなら、「けったくそわるい」という言葉自体にけったくそわるさがにじみでているから。
「けったくそわるい」とつぶやいてみてほしい。
吐きすてるような言い方になるはずだ。「けっ」で痰がこみあげてきて「たくそわるい」でそれを吐きだすようなイメージ。
「けったくそわるい」と口にしたとき、自然にしかめっつらになるはずだ。
「けったくそわるい」と言いながら笑顔にはならないはずだ。
発声と身体動作が結びついている言葉はほかにもある。
「にやにや」というとき、自然と顔がにやにやしてしまう、とか。
「のらりくらり」と口にするときは無意識に顔の力が抜ける、とか。
「COOL」とつぶやくと体温が少し下がる、とか。
「クラムチャウダー」と言うと口の中でクラムチャウダーができる、とか。
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| 「けったくそわるい」の顔 |
2019年8月1日木曜日
【読書感想文】小田扉『団地ともお』
小田扉『団地ともお』
漫画の魅力を文字で伝えるのはなかなか困難だが、『団地ともお』という漫画の魅力は、センスのいい笑いと不条理な世界観の融合にある。
昔はトンカツのようなこてこてのギャグも好きだったが、歳をとると「どやっ、おもろいやろっ! わろてや!」って感じのギャグはもう胃もたれして受けつけなくなってきた。
その点『団地ともお』の笑いはぜんぜんもたれなくていい。うどんのようにおなかにやさしい。
主人公のともおは、団地に住む小学生。
団地というと高度経済成長期のイメージだが、ともおは現代に生きる小学生だ。
アイテムとしてパソコンも出てきたりするが、基本的にぼくが小学生だった1990年代とあまり変わらない生活をしている。
虫を集め、カードゲームに興じ、単身赴任中の父さんが帰ってきたら飛びあがって喜び、宿題を娯楽に変えられないかと頭を悩ませ、野球やサッカーで泥だらけになっている。
ぼくも同じような遊びをしていた。
ところがふしぎと、ノスタルジーを感じない。
ひとつには『団地ともお』を読んでいるときはぼくも男子小学生の気持ちに戻っているから。小学生が小学生の生活にノスタルジーを感じるわけがない。
そして『団地ともお』の世界は日常的でありながら非日常だから。
基本的に一話完結なのだが、突然パラレルワールドが描かれたり、過去に行ったり、幽霊が出てきたり、モノや動物が意識を持ったりする。そのことに対して、たいていの場合なんの説明もない。あたりまえのようにファンタジー世界が描かれる。
読んでいるうちに「どうやら今回はパラレルワールドの話らしいな」となんとなくわかるだけだ。
で、翌週には何事もなかったかのように現代の団地に戻っている。
かつてラーメンズの小林賢太郎氏が自分たちのコントについて「日常の中の非日常ではなく、非日常の中の日常を描いている」と語っていたが、それに近い。
奇妙を奇妙と感じさせないように描く、ってなかなか易しいことじゃないよね。
これもまた小学生っぽい。子どものときって、異世界がもっと身近にあった気がする。
ふとした瞬間に妙な世界に行ってしまうことがたびたびあったんじゃないかな。たぶん気のせいだろうけど。
『団地ともお』には、しばしば死が描かれる。
死者が幽霊となって出てくる、みたいな軽快な話が多いが、中にはすごく現実的な描き方をしていることもある。
印象に残っているのは、どちらも初期の名作だが、
「過去に子どもをなくした夫婦がともおを預かり、冗談めかして『うちの子になっちゃう?』と言うエピソード」と
「担任の先生が、自分の恩師の葬儀に子どもたちを連れていくエピソード」
だ。
どちらもセンセーショナルな死ではなく、日常からすごく身近なところにある死だ。
「過去に子どもをなくした夫婦」は、もう悲嘆にくれてはいない。子どもを亡くしたのは何年も前のことだからだ。悲しい思い出ではあるがそれなりに自分の中で消化して、日常を取り戻している。
しかしともおが遊びにきたことでかさぶたになっていた傷口が開いて、様々な思いが少しずつ流れだす。
この表現がさりげなくてすばらしい。
「担任の先生が、自分の恩師の葬儀に子どもたちを連れていくエピソード」が伝えるのも、悲しみというより喪失感に近い。
ぼくは数年前旧友を亡くした。くも膜下出血による突然死だった、と聞いた。
亡くなった彼とは教室で言葉を交わす程度で、すごく仲が良かったわけではない。高校卒業後は同窓会で一度会ったことがあるだけ。死んでいなかったとしても、もしかしたら一生会わないままだったかもしれない。
けれど、訃報を耳にしたときは胸にぽっかりと穴が開いたような寂しさを感じた。そうか、あいつはもういないんだなあ。涙を流すほど悲しいわけではない。病死なのだから誰かを恨むような気持ちでもない。ただ茫々とした寂しさがあった。
たいていの死はそんなものなのだろう。悲しくないわけじゃないけど、号泣したり憤ったりするほとではない。
子どものころに戻りたいとおもっても戻れないのと同じで「寂しいけどしょうがないな」ぐらいの感覚。
この感覚を漫画で表現できる(しかもユーモアで包みながら)漫画家はそう多くないだろう。
『団地ともお』にはときどきこうした文学としか言えないような回がある。
ばかばかしいギャグの間に質の良い文学がはさみこまれるのだから、たまらない。
主人公が男子小学生なので「男子から見た世界」が描かれることが多いのだが、『団地ともお』に出てくる女子もまた魅力的だ。
小田扉の初期の傑作『そっと好かれる』や『男ロワイヤル』で描かれていたような自由自在に生きる女性も魅力的だが、『団地ともお』の女子のリアルなたたずまいもいい。
乱暴者で男子にも喧嘩で勝つ女の子、まじめで先生からのウケはいいが男子からは嫌われている女の子、言いたいことをはっきり口に出せない女の子、集団になると強気な女の子、人の嫌がる仕事を人知れず引き受ける女の子。
どのクラスにもひとりはいたような子ばかりだが、彼女たちの悩みが丁寧に描かれている。
そういえば小学生のときって、男子にとっては女子という存在はひとしく"敵"だったよなあ。なにかというと男子と女子が対立。おとなしい子ややさしい子でも、女子というだけで敵だった。
彼女たちにもそれぞれの悩みがあるなんて、当時はまったく考えなかった。からっぽだとおもっていた。実はぼく自身がからっぽだっただけなんだけど。
そうかあ、あのおとなしい女の子たちもこんなことに悩んでたんだろうなあ。数十年遅れで女子小学生の気持ちがちょっと理解できたような気がする。
最終回もいつも通りの『団地ともお』だった。『団地ともお』らしい。
あんまり終わった、という感じがしない。まるではじめから自分自身の過去の思い出だったような気がする。
ときどきでいいから、また続きが読みたいなあ。
2019年7月31日水曜日
【読書感想文】犯人が自分からべらべらと種明かし / 東野 圭吾『プラチナデータ』
プラチナデータ
東野 圭吾
ミステリとおもって読みはじめたが、近未来SF+サスペンス+サイコ小説って感じだった。
多重人格の主人公、素性不明の謎の少女、DNA捜査システム、新技術をめぐる日米の攻防、裏に隠れた大物の陰謀……と東野圭吾氏にしてはずいぶんケレン味の強い設定。
ただ、どぎつい設定のわりにストーリー展開は平凡。ある研究者が冤罪で追われ、警察から逃亡しながら真犯人を追う……。と、今までに何度も読んだことのあるような展開。真犯人も「まあ順当だよね」という人選だし、謎となっている“プラチナデータ”も想像を超えてくるものではなし。
まあそれだけなら「そこそこのサスペンス」だったんだけど、ラストでがっかりして大きく点数を下げた。
「主人公を追い詰めた犯人が自分からべらべらと種明かし」があったからだ。
これやられたらほんと興醒めなんだよなー。
「おまえはどうせ死ぬのだから冥土の土産に教えてやろう」ってやつね。
聞かれてもないのに自分に不利になることを長々と語るやつね。
計算高くて慎重なはずの犯人なのに、その瞬間だけは相手に逃げられるとか録音されてるとか一切考えないやつね。
『プラチナデータ』の犯人は、典型的なこのタイプだった。
まあしゃべるしゃべる。
全部教えてくれる。なんて親切なんだ。
おまけに、抵抗した主人公と格闘している間もべらべらしゃべる。
これ、信じられないかもしれないけど、犯人と主人公が銃を奪いあって格闘しているときに、犯人が主人公の首を絞めながらいうセリフだからね。
生きるか死ぬかの格闘をしながらいうセリフかね、これが。
つまりこれは作中で交わされている会話じゃなくて読者に対する説明なんだよね。
無理のあるストーリーをごまかすために、言い訳がましいセリフを登場人物に吐かせてるわけです。
「素手での格闘になったら警察官が勝つだろ」「絞め殺したらすぐばれるだろ」というツッコミを封じるために説明させているわけです(ちなみに「この扼殺痕を神楽君の仕業に見せかける」方法は一切説明されない。思い浮かばなかったんでしょう)。
コントを演じている役者がいきなり客席のほうを向いて「えー今のは何がおもしろかったのかといいますと……」と説明しだしたようなものなのです。
だせえ。
東野圭吾作品って初期作品はともかく最近はどれも一定の水準をキープしてるとおもってたんだけど、これはめずらしくその水準に達してなかったなー。
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2019年7月30日火曜日
【読書感想文】平面の地図からここまでわかる / 今和泉 隆行 『「地図感覚」から都市を読み解く』
「地図感覚」から都市を読み解く
新しい地図の読み方
今和泉 隆行
地図界では有名人の地理人こと今和泉隆行さんの本。
先日、この人のトークショーに行ってきた。『新しい地図の読み方』もトークショーの会場で買ってきたものだ。
地理人氏は、存在しない町の地図を描いた「空想地図」で有名だ。三時間早口で地図のことを語ってくれた。— 犬犬工作所 (@dogdogfactory) June 11, 2019
地図マニアの見識に圧倒されるばかり。
ぼくが見ている地図と地図好きの人が見ている地図は、二次元と四次元ぐらいの差があるんだろうな。
彼らは地図から歴史やら住人の人となりまで見ている。
空想地図については以下のサイトなどを参考にされたし。
地理人研究所
空想都市へ行こう!
空想地図もおもしろいのだが(トークショーで知って驚いたのだが、空想地図を描く人はけっこういるらしい。日本にひとりかとおもっていた)、『「地図感覚」から都市を読み解く』では空想地図の話はほとんどなく、「地図感覚」について語られている。
突然ですが、ここで問題。
この本、紙の本だけで電子書籍版は出ていない。
電子書籍にできない理由があるんだけど、それは何でしょうか?
(答えはこの記事の最後に)
地図感覚とは何か。
「地図を見て多くの情報を読み取る能力」のことらしい。
ぼくなんか地図を読むのが苦手で、地図を見るのは目的地までの経路を調べるときぐらい。
それも「ええと、駅を出て電車の進行方向に向かって進んで、ふたつめの角を左、で、公園の次の角を右にいったところか」と、必要な経路をみるだけでせいいっぱいだ。空間認知能力が低いので、情報を言語化しないとおぼえられないのだ。しかも「来たときは犬がいたところを右に曲がった」とか、まったくあてにならない情報に頼ってしまう。
もっとも最近はGoogleマップのおかげでほとんど迷うことはなくなった。ありがたい。
だが地理人氏のような地図感覚に長けた人は、ぼくと同じ地図を見ても
「このへんは古くから住んでいる人の多い地域だ」
「この道は週末は渋滞するね」
「ここは都市計画に失敗したところだな」
とかわかるらしい。
平面の地図から、街並み、人の流れ、住人の気質、歴史、将来の展望などもわかるのだ。ただただ驚くばかり。
そういえば、サッカー好きの知人と話していたときのこと。
「サッカーって観てても退屈じゃない? なかなか点が入らないし、0ー0で終わることすらあるじゃない」
というと
「退屈なのはボールの動きしか追ってないからですよ。ボールを持っていない人の動きを見ていると戦術がわかるし、戦術がわかれば両チームの駆け引きが見えてくる。そこを楽しむのがサッカー観戦です。将棋は王将をとるのが目的ですけど、王将の動きだけ見ていてもぜんぜんおもしろくないでしょう。それといっしょですよ」
と言われた。
なるほど、と感心した。それを聞いたところでぼくには戦術なんてわからないわけだが、とにかくサッカー通は素人とはぜんぜんちがうところを見ているのだとわかった。
地図も同じようなものなのだろう。
地図感覚に長けた人にいろいろ解説してもらいながら街をぶらぶら歩いたら楽しいだろうなあ。
駅前が栄えている街と、そうでない街があることについて。
高度経済成長期以降に開けたような新しい街だと駅が街の中心になっていることが多いが、古くからにぎわっていた街だと駅は市街地のはずれにつくられたのだという。
そういえば、人気のない商店街を通るたびに
「なんでこんな微妙な位置に商店街があるんだろう。こんなに駅から遠かったらシャッター街になるのは当然だろ」
とおもっていたが、あれは順番が逆だったんだな。駅があってそこから離れたところに商店街がつくられたのではなく、商店街が先にあって、商店街のすぐそばには駅をつくる土地がないから離れたところにつくったらそっちのほうがにぎわうようになったのだ。
なるほどねー。
ぼくは京都市に住んでいたことがあるが、JR京都駅は街のはずれにある。
JRを利用するたびにバスで京都駅まで行かなくてはならないので「なんでこんな不便なところに」とおもっていたが、京都のように古い街だと中心部に駅や線路をひけないんだよな。建物も文化財も多いし。
だから京都の中心部である四条河原町付近には地上を走る鉄道はない(阪急や京阪が通っているが河原町付近では地下を走る)。
鉄道は新参者なんだね。
ぼくは鉄道網が整備されてから生まれたし、幼少期は戦後に開発された街に住んでいたので「鉄道があってその周りに人が住む」という感覚だったんだけど、逆パターンも多いのかー。
こういうことを知っていると、街歩きも楽しくなるね。
この人は「地図とは文章や写真と同様に表現手法のひとつだ」と書いていて、はじめはあまりぴんと来なかったのだが、講演や本の内容を見ているうちになんとなく共感できるようになってきた。
地図は事実をありのまま伝えているように見えるけど、三次元のものを二次元に落としこむ、大きなものを小さく縮尺するという過程で、必ず「何を載せて何を載せないか」と絶えず選択を迫られているはずだ。
情報をそぎ落とし、ときにはつけくわえる過程には必ず「車を運転する人が迷わないように」「住人が生活に困らないように」「山歩きをする人の助けになるように」といった作者の意図が入るわけで、そう考えるとたしかに地図は表現手法のひとつだよなあ。
考えたこともなかったが、自分とはまったく異なる考え方をする人の話を読むのはすごくおもしろい。
世界がほんのちょっと広がったような気がする。
(クイズの答え)
電子書籍だと、閲覧者の環境によって地図の大きさが変わってしまうので、「1/25,000」といった縮尺が嘘になってしまうんだよね。
ところでこないだ『チコちゃんに叱られる!』で「これがトウモロコシを400倍に拡大した画像です」ってやってた。
ディスプレイのサイズがばらばらなのに、すべてのテレビで400倍に見えるわけないだろ!
その他の読書感想文はこちら
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