2019年7月2日火曜日
父の単身赴任
父は、三度単身赴任をしていた。
最初は、ぼくが二歳~三歳のとき。
一年間エジプトに行っていた。
一年間エジプトの地で過ごす父も苦労はあっただろうが、それより幼児ふたりを抱えて(ぼくの姉も四歳ぐらいだった)ひとり日本に残された母はたいへんだっただろう。
祖父母も近くに住んでいなかった。母はよくノイローゼにならなかったものだ(ぼくが知らないだけでなっていたのかもしれない)。
二度目は、ぼくが九歳ぐらいのとき。
「転校するかも」という話を聞いたぼくと姉は、泣いて嫌がった。結果、父がひとりで横浜に行くことになった。
このときは、わりと楽しく単身赴任を受けいれていた。ぼくらは毎日父親に宛てて手紙を書いていたし、たまに父が帰ってくると大喜びした。ゴールデンウィークには父のいる横浜に行って中華街を案内してもらった。
三度目は、ぼくが十五歳のとき。父は東京に行った。
二度目のときとちがって「転校するかも」という話すらなかった。子どもたちの知らない間に父の単身赴任が決まっていた。子どもたちが中高生だったので、交友関係や受験のことを考えると転校はありえないという判断だったのかもしれない。
なにより、当時はあまり家族の仲が良くなかった。
娘も息子も反抗期。両親もすごく仲が悪かった(今は仲がいいけど)。
父が単身赴任をすることに反対する人は誰もいなかった。口には出さなかったが、みんな「せいせいする」という気持ちだったんじゃないかな。
もちろん父への手紙など一度も出さなかった。電話すらほとんどしなかった。父は父で、東京で友人をつくり山登りやゴルフに明け暮れていたらしい。
いない間はそれなりにうまくやっていた。
その分、単身赴任を終えて父が帰ってきたときはそこかしこで衝突が起こった。
父のいない間に「新たな家族のルール」がいろいろできあがっていたのだ。
風呂に入る順番、トイレの順番、何曜日はどのテレビを観るか、休日の朝ごはんは何にするか、電話を使う時間……。
明文化はされていないけれど家族の間で共有されていた「家族のルール」。父が帰ってきたことでそれがすべて狂った。
「いつまでテレビ観てるんだ」「先に風呂入るぞ」父に言われるたびに、ぼくも姉も反発した。母もだ。
「今までは良かったのにダメになる」ことが増えて、ストレスになった。
父は父で「ここはオレの家だ」というプライドがあったのだろう、自分のいない間に決まっていたルールに合わせることを良しとはしなかった。
父が単身赴任をしていたのは一年間だったが、父が帰ってきてから衝突が収まるようになるまでには同じぐらいの時間がかかった。
自分が父親になったことで、当時の父の気持ちもいろいろ想像できるようになった。
その上でおもうのは、やっぱり単身赴任なんてロクなもんじゃねえなってこと。
「家族のメンバーが長期間別居してまた戻ってくる」という制度は家庭に対してとんでもない負荷をかける。
ぜったいにしないほうがいい。
うちの家庭がギスギスしたのは父の単身赴任だけが理由ではないが、大きな理由のひとつだった。
結果的に時間をかけて家族仲は良くなったが(ぼくや姉の反抗期が終わったり大学進学で家を出たこともあるが)、単身赴任きっかけでそのままばらばらになってしまう家庭も少なくないだろう。
だったら家族そろって引越すのがいいかというとそれはそれでいろんな問題があるはず。
いずれにせよ、本人の意思を無視した転勤辞令という制度はほんとに非人道的行為だ。
「江戸時代は斬り捨て御免がまかりとおっていたらしいよ」とか「古代ローマでは奴隷制があったんだって」みたいな感じで「昭和~平成時代の会社には強制転勤制度があったんだって。野蛮な時代だよねえ」と語られる日が来るといいな。
2019年7月1日月曜日
【読書感想文】低レベル検察官の身勝手な仕返し / ジリアン・ホフマン『報復』
報復
ジリアン・ホフマン(著) 吉田利子(訳)
法学生だったクローイは、覆面男にレイプされ心身ともに深い傷を負った。
数年後、C・Jと名前を変えて検察官に彼女は、連続殺人事件の容疑者として逮捕された男が自分をレイプした男だと気づく。
C・Jは男を死刑にするために検察官として戦いを挑むが……。
残虐な連続殺人事件を扱っているが、わりと早い段階で容疑者が捕まるのでたぶん多くの読者は「捕まったやつは犯人じゃないのでは」と気づくだろう。「謎の密告電話」というわかりやすいヒントもあるし。
これ以上はネタバレになるが、犯人はたいして意外な人物じゃない。
この本の読みどころは犯人捜しではなく(そもそも犯人を捜すのは検察官の仕事ではない)、検察官でありレイプ被害者であるC・Jが、連続殺人犯であり自分をレイプした男(とおぼしき人物)とどう立ち向かうかという心理描写のほうだ。
C・Jが心に傷を負うきっかけとなるのが学生だったC・Jがレイプされるシーンだが、これがとにかく恐ろしい。
丹念に描写されるので、もう読んでいられない。そこまで細かく書かなくてもだいたい何されたかわかるからもういいよ、とおもうのだが作者は筆を止めない。ひたすらC・Jが苦しむ姿が書かれる。これがきつい。
ぼくも娘を持つようになり(といってもまだ幼児だが)、性犯罪に対しては被害者側の立場で考える割合が増えた。
もしも娘が……とおもうと、つらすぎてそれ以上思考が進まない。
中盤以降には殺人被害者の描写や終盤の格闘シーンなどのヤマ場もあるのだが、プロローグの不快感に比べたらかすんでしまう。
冒頭が強烈すぎてしりすぼみの印象。中盤以降もおもしろいんだけど。
ここからはネタバレになるけど、もやっとしたところ。
容疑者を起訴する際に、検察が不正をはたらく。
「捜査の手続きが不正であれば、その捜査によって得られた証拠はすべて無効となる」
というルールがあるのだが(そうじゃないと警察がやりたいほうだいになっちゃうからね)、検察官であるC・Jは、警察官が逮捕時に必要な手続きを踏まなかったことを知りながら強引に起訴に踏みきる。
裁判では、警察官と口裏を合わせて嘘をつく。
C・Jは葛藤しながらも「大きな悪事を裁くためには小さな不正には目をつぶらなければならない」と不正をはたらく決断をする……。
いやあ、ダメでしょ。ぜったいにあかんやつ。
証拠はほとんどなし、容疑者は否認、逮捕時には警察側の不適切な手続き。あるのは検察官の直感だけ。
これで起訴したらダメでしょ。しかも有罪になれば死刑になる罪状で。
「大きな悪事を裁くためには小さな不正には目をつぶらなければならない」じゃねえよバカ。
100人の真犯人を見逃してでも、1人の冤罪を生みださないことを優先させるのが法治国家なんだよ。
小説にいちいち目くじらを立てるのもどうかとおもうけど、そうはいっても「裁判に私怨を持ちこむ」「私怨を晴らすために手続きの不正に目をつぶる」って、こいつのやってることは検察官として最低だ。
それならそれでハチャメチャ検察官として描くんならいいんだけど(両津勘吉が何やっても許されるように)、法制度をおもいっきり無視しといて「あたしは多くの犠牲者を救った正義のヒロイン」みたいな顔をすんじゃねえよ。身勝手な正義に酔って己のダメさに気づいてすらいない腐れ外道だなこの女。
ここまでダメ検察官だと、いくら被害者だったからといえまったく共感できない。むしろ被告人のほうが気の毒になってくる。
この検察官のやってることは『かちかち山』レベルの仕返しだよ、ほんと。
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2019年6月28日金曜日
虚言癖の子ども
娘の保育園の友だちに、Tちゃん(五歳)という子がいる。
あるとき、娘とTちゃんが鉄棒で遊んでいた。
娘はいちばん右端、Tちゃんは左端。
Tちゃんが手を滑らせて鉄棒から落ち、顔を地面に打って泣きだした。
それを見ていたぼくは、泣きわめくTちゃんを抱きかかえて、少し離れたところにいるTちゃんのおかあさんのところに連れていった。
おかあさんはTちゃんを家に連れてかえった。
翌日、Tちゃんのおかあさんに会ったので
「Tちゃん大丈夫でした?」
と尋ねた。
Tちゃんのおかあさんは「大丈夫でした。ありがとうございました」と言った後で、言いにくそうにこう口にした。
「Tが、Mちゃん(ぼくの娘)に突き落とされたって言ってるんですけど……」
ぼくはびっくりした。
事実無根だ。現場を見ていたのだからまちがいない。
「いやいやいや、落ちるとこを見てましたけど、そのときうちの娘とTちゃんはぜんぜん離れたところにいたので、押してなんかいませんよ!」
Tちゃんのおかあさんは「すみません」と頭を下げて、
「T! なんでそんな嘘つくの! Mちゃんに謝りなさい!」とTちゃんをきつく叱った。
ぼくはまだ驚いていた。
どうしてそんな嘘をつくのだ。
Tちゃんのおかあさんが言ってくれたから嘘だと判明したけど、そうでなければうちの娘が「友だちを鉄棒から突き落としてケガをさせたやつ」という汚名を着せられるところだった。
Tちゃんのおかあさんも言いにくかったとおもうが、言ってくれてよかった。おかげで誤解が解けた。
ぼくだったら黙って距離をとっていただろう。
また別の日。
Tちゃんのおかあさんと話していると、Tちゃんが通っていたプール教室をやめたと聞いた。
「なんでやめたんですか?」
と訊くと、
「Tちゃんが、プールのコーチにおぼれさせられたっていうんで。そんなところに通わせられないなとおもって」
とのこと。
えっ。
とっさにぼくがおもったのは「それまたTちゃんの嘘では……」ということ。
プール教室でコーチがわざと幼児をおぼれさせるなんてことするだろうか。
プール教室には他の子やコーチもたくさんいる。窓ガラス越しに保護者が見ることもできるそうだ。
もちろん真相はぼくにもわからないが、99%嘘だろう、とぼくはおもった。
せいぜい「Tちゃんがおぼれてしまったことに気付くのが遅れた」ぐらいだろう。それをTちゃんが「おぼれさせられた」といったんじゃないのか。
子どもなんて平気で嘘をつくし、自分が嘘をついたという自覚すらなくしてしまう。
だからTちゃんがそういう嘘(たぶん)をついたことはそれほど驚くに値しない。
それよりぼくが驚いたのは、Tちゃんのおかあさんが「プールのコーチにおぼれさせられた」というTちゃんの言葉を全面的に信じていることだった。
ぼくだったら「自分の子が嘘をついているんだろうな」とおもうし、仮に「万が一ということもあるから念のためプール教室を退会させよう」となったとしても「娘がコーチにおぼれさせられた」なんて不確かかつ他人に迷惑をかける情報(ソースは五歳児の発言のみ)を他人に言ってまわったりしない。
いや、それ信じちゃうの……?
こんなこと言ったらアレですけど、おたくのお子さん、ちょっと虚言癖があるんじゃないでしょうか……。
それなのに、信じちゃうの……?
いや、ちがうか。
「Tちゃんに虚言癖があるのにおかあさんが信じてしまう」のではなく、「おかあさんがなんでも信じてしまうからTちゃんが真っ赤な嘘をつくようになった」なんじゃないだろうか。
おかあさん、素直すぎるでしょ。悪い意味で。
とおもったけど、もちろんぼくは何も言わなかった。
こわいのでTちゃん母子とは距離を置いたほうがいいな、とおもっただけだ。
2019年6月27日木曜日
【読書感想文】最高の教科書 / 文部省『民主主義』
民主主義
文部省
昭和二十三年に文部省(現在の文科省)が中高生に向けて刊行した教科書の復刻版。
民主主義とは何か、なぜ民主主義の社会であるべきなのか、民主主義を根付かせるには何をしたらいいのか。こうしたことが丁寧に書かれている。教科書でありながらすごく重厚な本だ(刊行されたときは上下巻だったそうだ)。
昭和二十三年ということはまだ日本は独立国ではなく連合国の占領下にあった時代。
当然この教科書もGHQのチェックが入った状態で書かれたはずだ。
軍国主義の大日本帝国がこてんぱんにやられ、民主主義という新しい風が吹き込んでくる。その中で、当時の学者や官僚が若者に対してどんなことを期待をしていたのか。
この本を読むと、当時の「新しい時代の幕開け」という空気が感じられる。
当時の国の中枢にいた人たちが、いかに日本が民主主義国家として生まれ変わることに期待してひしひしと伝わってくる。
残念ながらその期待は七十年たった今もかなえられていないけれど。
七十年前に刊行された本だが、驚くほど今の世の中にあっている。
悲しいことに。
そう、ほんとに悲しい。
「七十年前はこんなことをありがたがっていたのか」と言える世の中であってほしかった。
「この頃は国民主権があたりまえじゃなかったんだねえ。政府が国民を押さえつけようとしていたなんて今では考えられないねえ」と言える世の中であってほしかった。
『民主主義』の中で「こんな世の中にしてはいけない」と書かれている社会に、今の日本はどんどん近づいている。
美しい国にしよう、国家秩序のために基本的人権を制限しよう、と叫ぶ連中が幅を利かせている。
増税や社会負担増加で今は苦しくても国家が経済的に成長すればやがては楽になる。君たち庶民もいつかはトリクルダウンにあずかれるのだから耐えなさい。
今の日本を支配しているのは、まさにここに書かれている「全体主義」そのものだ。
情報伝達手段は発達したはずなのに、資料は廃棄され、データは捏造され、公共放送機関は人事権という金玉を政府に握られ、権力者はなんとかして情報を隠そうとする。
個人的には「熱い正論をふりかざす人間」が苦手なのだが、今の世の中に欠けているのは理想論なんじゃないかとおもう。
こういうことって今、誰も言わないでしょ。
人権は大事だ、一人の生命は地球より重い、権力は弱者のためにこそ使うべきである。
そんなことあたりまえだとおもっているから誰も口にしない。
でもほんとはあたりまえじゃない。我々が享受している自由は先人たちの不断の努力によって支えられてきたもので、天からふってくるものじゃない。気を抜くと権力者によってすぐに奪われてしまうものだ。
めんどくさくてもちゃんと正論を言わなきゃいけない。
ぼくは星新一作品を読んで育ったので熱い意見に冷や水をぶっかけるような「シニカルな視点」が好きなのだが、シニカルな意見がおもしろいのは熱い議論があってこそだ。
みんなが冷や水をぶっかけてたら風邪をひいてしまう。
今って、国のトップに立つような人たちですら
「現実的に全員を救うのはムリっしょ」
「世界平和なんか達成されるわけないっしょ」
「立場がちがう人と話しあったってムダっしょ」
みたいなスタンスじゃないですか。
理想とかビジョンに興味がないし、そのことを隠そうともしない。
作家だとか落語家だとかが片頬上げながらそういうこというのはいいけど、でもそれを政治家がいったらおしまいでしょ。
「愛は地球を救う」ってのはきれいごとすぎて気持ち悪いけど、でももしかしたら愛は地球を救うんじゃねえかって気持ちも一パーセントぐらい持っておきたい。
ひょっとしたらほんとに愛が地球を救うかもしれない。そういう夢を見せてくれるのが政治家の仕事なんじゃないかとこのごろはおもっている。
この本、前半はビジョンを提示し、中盤以降は諸外国の民主主義の成り立ちや日本における政治・社会の変遷をたどることで民主主義国家の実現に向けた方法論を考察するという構成になっている。
この構成がすばらしい。ただきれいごとを語るだけではなく、過去の失敗例や外国の事例なんかがあることで具体的に考えるための手助けになっている。
GHQ検閲下にあったはずなのにアメリカの制度を手放しで褒めているわけではないのもすばらしい。
ほんとよくできた教科書だ。
よく「野党はなんでもかんでも反対してばかりだ」といって揶揄する人がいる。
ぼくは「野党はなんでもかんでも反対」でもいいとおもっている。野党が賛成ばかりになったらもうその国の民主主義は終わりだ。
自民党が下野したときも与党案に反対ばかりだった。それでいいのだ。反対意見にさらに反論することで議論が深まり、より完成度の高い法案ができる。
学生が論文を書いたら、指導教官がそれをチェックする。疑問を投げかけたり不備を指摘したり書き直しを命じたりする。
それを受けて学生は論文を書きなおす。より説得力を増した論文ができあがる。
この肯定を「教授は人の論文にケチをつけてばかりだ」といって否定する学生がいたらバカだとおもわれるだけだろう。法案も同じだ。
ぼくはこないだ「民主主義よりもっといいやりかたがあるんじゃないか?」という記事を書いた。
→ 「いい独裁制」は実現可能か?
この本では、そういった反論も予想した上で、それでもやはり民主主義が最善だと結論づけている。
ぼくは二大政党制を支持していない(当然小選挙区制も)。
それは、まちがいを認めなくさせるシステムだからだ。
政治における過ちは、ミスを犯すことではない。ミスを犯したことを隠すことだ。
「過ちを隠したい」という気持ちは誰しも持っている。それはなくせない。「権力者は過ちを隠そうとする」という前提で制度の設計をするしかない。
二大政党制は、為政者のミスで政党全体の権力が失われてしまうので、政党レベルで「ミスを覆い隠そうとする」力がはたらく。
集団が全力でミスを覆い隠そうとした場合、それを暴くのは並大抵のことではない。たとえば個人の殺人はほぼ間違いなく犯人が検挙されるが「村ぐるみで一致団結して殺人を覆い隠そうとした」場合はかなりの確率で逃げおおせることができるだろう。
民主主義国家にとって必要なのは嘘がばれやすくする仕組みなのだが、二大政党制は不都合な事実を隠蔽しやすくさせる。
党内で常に権力闘争が起こっているかつての自民党の状況のほうが、むしろ健全(いちばんマシ)なんだったとつくづくおもう。
人類の歴史を見ても、権力者が他者の人権を制限してきた時代のほうがずっと長かった。
今は「たまたま、例外的に民主主義が保たれているだけ」だ。
この本には「明治憲法の下でも民主主義国家になることはできた」と書いてある。少なくとも明治憲法をつくった人たちは国民主権の世の中にしたいという高邁な精神を持っていたはずだ。
けれど明治憲法にはいくつかの不備があり、二・二六事件などをきっかけにあっという間に軍部の暴走を許すことになった。今の日本国憲法も完璧ではない。その穴を拡げる改憲をしようと目論んでいる政治家もいる。
ちょっとしたことをきっかけに民主主義は崩されてしまうだろう。
すごくいい本だった。
今の中高生にこそ読んでほしい(まさかこれを読まれたら困ると考える為政者はいないよね?)。
しかし、戦争を経験している世代が民主主義の大切さを唱えていたのに、こういう教育を受けてきた世代が大臣や総理になったとたんに崩壊しはじめるってのはなんとも皮肉な話だよね。
教育って無力なのかもしれないと絶望的な気持ちになる。
まあ、今の二世三世大臣たちがまともに学校教育を受けていなかっただけ、という可能性も大いにありそうだけど……。
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2019年6月26日水曜日
【読書感想文】会計を学ぶ前に読むべき本 / ルートポート『会計が動かす世界の歴史』
会計が動かす世界の歴史
なぜ「文字」より先に「簿記」が生まれたのか
ルートポート
おもしろい本だった。
この本を読んだからといって会計の実務的な知識は身につかない。賃借対照表も勘定項目も出てこない。
ただ、会計の基本となる考え方はわかる。なぜ複式簿記が生まれたのか、なぜ複式簿記でなければならないのか、もし簿記がなければどういったことが起こるのか。
ぼくは少しだけ簿記をかじったことがあるが、すぐに投げだしてしまった。理由のひとつが、「なぜ借方貸方に分けて書くのか」がちっとも理解できなかったこと。
先にこの本を読んでいたらもう少し会計に興味を感じられていたかも。
漠然と、昔の人は物語や詩を残すために文字を発明したのだとおもっていた。
でもそんなわけないよね。
なぜなら物語や詩や哲学は、正確に伝える必要がないから。人から人に語り継がれるうちに不必要なものが削られ、おもしろいものがつぎたされ、少しずつ洗練されながら伝わってゆく。
でも商取引の記録はそういうわけにはいかない。「より良いもの」になってはいけない。
文字の最大の長所は、時代を超えて正確に記録できることにある。
「文字が商取引の記録のために生まれた」のは言われてみれば当然なんだけど、おもいいたらなかったなあ。
死亡率だけでなく、狩猟採集生活のほうが農耕生活よりも時間的余裕の面でも恵まれていたと聞いたことがある。
今も南米奥地などでは狩猟採集生活をする部族があるが、彼らはあまり働かない(特に男は)。
たまに狩りに出るが、それも一日に数時間。あとは酒を飲んだり遊んだりして暮らしている。
原始的な生活をしている彼らこそが真の高等遊民なのかも。
一方農耕民族はそうはいかない。決まった時期に種子を撒き、水をやり除草をおこない、害虫を駆除し、実をつければ急いで収穫をおこなわなければならない。
天候に左右される要素も大きいし、「今日はだるいからその分明日がんばるわ」が許されない生活だ。
どっちが楽かというと圧倒的に狩猟採集民族だ。
でも狩猟採集生活は、より多くの土地を必要とする。多くの人間が狩猟採集をはじめたら、あっという間に肉も魚も木の実もなくなる。
人類は増えすぎた人口を養うために、自然の摂理に逆らう農耕をはじめた。
農業を「自然な営み」だとおもっている人がいるが、とんでもない。
農業こそがもっとも自然と対極にある人工的な営みだ。
会計の歴史をふりかえる本なので数百年前のヨーロッパの話が多いが、現代の日本に通ずる話も多い。
生まれたときから「国民」として生きていると忘れそうになるけど、政府は一時的に権力を貸与されているだけで、主権は国民にある。
「徴税権」も政府が当然持っているものではなく、あくまで国民によって許されているだけの権利。「徴税してもいいよ。ただし公正にね」と、我々国民が政府に一時的な許可を与えてやっているにすぎない。
だから政府は徴税や税金を使う行為に対して、そのすべてをオープンにして正当性に関して国民の審判をあおがなければならない。
投資信託会社が運用実績を公表する責を負っているように。
だから書類を廃棄するとかデータの改竄をおこなうなんてのは正当性以前の問題だ。
投資信託会社を選べるように納税先(政府)も選べたらいいのになあ。
ぼくならぜったいに今の日本政府は選ばないな。
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