2019年5月1日水曜日
ノーヘルと警官
大学生のときのこと。
原付で駅まで行き、駅前の駐輪場に原付を止めて電車で出かけた。
駅まで帰ってきたのは23時頃。
「あれ? ヘルメットがない」
原付の座席下のヘルメット入れに荷物を入れていたので、ヘルメットはカゴの中に入れていた。
それがなくなっている。
周りを見まわしたが見つからない。
どうやら盗まれたらしい。
「ヘルメットなんか盗むやつがいるのか。しょうもないことするやつがいるなー」
ショックではあったが、そんなに高価なものではない。
すぐに気を取り直した。どうせ古いヘルメットだ。また買えばいい。
だが問題は今のことだ。
駅から自宅までは原付で二十分。
この距離を原付を押して歩くのはたいへんだ。
「しょうがない。ノーヘルで行くか」
田舎、それも深夜なので車通りは少ない。
ほとんど車ともすれちがわない。パトカーとも出くわさない。順調だ。
だが十五分ほど走ったところで、ぼくは原付を降りた。
この先に交番がある。
さすがに交番の前をノーヘルで通るのはまずいだろうとおもい、そこからは原付を押しながら歩いた。
交番の前を通ると、中にいた警官のおっちゃんが出てきて呼びとめられた。
「なんでバイク押してんねん」
夜中に原付を押しながら歩いているのだから警官が不審におもうのも無理はない。
ぼく「〇〇駅前に原付止めてたんですけど、ヘルメット盗まれたんですよ」
警官「そっか。でも一応調べさせてもらうで」
といって盗まれたものでないかの確認をはじめた。
もちろん盗難車でないことはすぐに判明した。
警官「それで〇〇駅からずっと押してきたんか。だいぶ遠かったやろ」
ぼく「でもノーヘルで乗るわけにはいかないですからね。しゃあないですわ」
警官「まあな」
ぼく「交番でヘルメット貸してもらえないですか」
警官「残念やけど貸せるヘルメットはないなー」
ぼく「そうですか。じゃあまた押していきますわー」
警官「そっか。がんばりやー」
よしっ、なんとか交番の前をやりすごした。
ここから家までは交番もないし車通りもほとんどない。
安堵して一息ついたぼくに、警官のおっちゃんがぼそりと言った。
「にいちゃん、原付のエンジンあったかかったで」
あっ、と声が出た。
最初からばれていたのだ。
警官のおっちゃんはわかっていて、騙されたふりをしてくれていたのだ。
あわててふりかえったが、おっちゃんはニヤリと笑って何も言わずに交番に帰っていった。
ぼくは心の中でおっちゃんに礼をいって、またバイクを押して歩いた。
そして交番から見えないところまで来ると、ノーヘルで走って帰った。
2019年4月30日火曜日
【読書感想文】爬虫類ハンターとぼくらの常識の差 / 加藤 英明『世界ぐるっと 爬虫類探しの旅』
世界ぐるっと 爬虫類探しの旅
~不思議なカメとトカゲに会いに行く~
加藤 英明
テレビ番組『クレイジージャーニー』でおなじみ、爬虫類学者である加藤英明さんの著書。
あの番組での加藤さんの姿があまりにすごかったので、本を手に取ってみた。
(どうすごいのか言葉では伝えようがない。番組を観たことがない人は加藤さんの回だけでもぜひ観てほしい。最高だから)
加藤さんの本は何冊か出ているが、番組でブレイクした後に出されたものは加藤さんの写真が多すぎる。
売るためにはしかたないのだろうが、加藤さんも本意ではないだろう。あくまで主役は爬虫類だ。
そこで『世界ぐるっと 爬虫類探しの旅』を購入。番組放送前に刊行された本なので著者の写真はほぼなく、爬虫類の写真が充実している。いい。
加藤さんにはとうてい及ばないが、ぼくも爬虫類が好きだ。
子どもの頃は、近所でつかまえたカメとトカゲを飼っていた。ヤモリもよく捕まえた。
大人になってからも、娘を連れて爬虫類展に行ったりしていた(ただ爬虫類を売るためのイベントだったのであまりおもしろくなかった)。
子どものときはどうしてあんなにトカゲを捕まえられたんだろう。
たぶん迷いがなかったからなんだろうな。「ケガをしないように身の安全を確保してから」とか「万一毒を持ってたらどうしよう」とか「強く握りしめて殺しちゃわないように」とか考えていなかったから。
「捕まえたい」という気持ちしかなかった。
そして、加藤英明さんはその気持ちを持ったまま大人になった人だ。
『クレイジージャーニー』では、爬虫類を捕まえるために茂みの中を猛ダッシュしたり滝つぼにダッシュしたり洞穴に躊躇なく腕をつっこんでいる加藤さんの姿を見ることができる。
あれはトカゲを追いかけていたときのぼくの姿だ。なつかしい。
砂漠に残ったわずかな足跡を頼りにこれだけの情報をつかむのだ。すごい。爬虫類採集界のシャーロック・ホームズだ。
こういう解析ができなければ爬虫類ハンターとしてはやっていけないのだろう。
剣の達人が「剣を抜く前に勝負は決まっている」なんてことを言うが、爬虫類ハントも「爬虫類を見つけたときには勝負は決まっている」んだろうな。
いやあ、自分とはまったく縁のない世界ではあるが、どの道でも熟練したプロの技術というのはすごい。
ヘビを捕獲したときの記述。
「ヘビのように執念深い」なんて言いまわしがあるけど、加藤さんはヘビよりずっと執念深い。
ヘビがいるかどうかもわからないのに炎天下に30分穴を掘り、20回もとびかからせ、ヘビが疲れきって逃げようとしたところを捕獲。
ヘビは命が賭かっているから必死になるのは当然だけど、加藤さん側は「ヘビを捕まえてみたい」という好奇心だけでここまでやってしまうのだ。
加藤さんに目をつけられたヘビは災難だな。つくづく同情してしまう。
加藤さんの行動はめっぽうおもしろいんだけど、この本、あまり読みやすくない。
なぜなら、加藤さんの文章が「爬虫類にくわしい人」に向けて書かれているから。
加藤さんが「これぐらいは一般常識でしょ」という感じであっさり書いていることがよくわからない。
加藤さんの一般常識とぼくの一般常識に大きなずれがあるのだ。
「ぺリングウェイアダーはアフリカアダーの仲間」
とか。
いやおなじみみたいに書いてるけど、まずアフリカアダーを知らないから。
「不思議なのは、島民がカメに関心がないこと」
とか。
いやそれを不思議と思うのは加藤さんだけだから。
食用にもならないし特に害もない生き物に関心を持たないのはふつうだから。
「トカゲの気持ちになって考えてみればどこにいるかわかる」
とか。
他の人間の気持ちですらわからないのに爬虫類の気持ちなんてわからないから。
爬虫類ハンターとそうでない人の間の「常識」に乖離がありすぎて、なんだか読みづらいんだよね。
加藤さんが「ほらこれおもしろいでしょ!」って力説してるところが、こっちからすると「はあそうですか……」みたいになってしまう。
やっぱりあれだね。
爬虫類と加藤さんは本で読むより、じっさいに動いているところを見るほうがずっとおもしろいな。
その他の読書感想文はこちら
2019年4月26日金曜日
【短歌集】デブの発想
「これぐらい残していてもしょうがない」 デブへといざなう魔法の言葉
頼まないやつはぜったい損してる デブで良かった大盛無料
太れども太れども猶わが生活楽にならざり太い手を見る
太るほど消費カロリー増えるから 太るはむしろ痩せへの近道
鉄道のチケット大人と小人だけ 「1.5人」のチケットなくてもいいのか
「唐揚げにレモンかけてもいいですか」 なぜ我に訊く 代表者じゃない
お土産に買ったサブレが不人気で 我が身を挺して責任をとる
妊婦より重い身体を持ちあげて お腹の我が子をやさしく撫でおり
2019年4月25日木曜日
ぼくの優しさ
ぼくは毎月UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)というところに寄附をしている。月二千円だけど。
近所のお好み焼き屋さんが「こども食堂」というのをやっていて、いろんな事情で満足に家で食事をとることができない子どもたちにごはんを提供している。
店頭に「子ども食堂のためのカンパをお願いします」と書かれた募金箱があるので、行くたびに五百円ぐらい寄附している。
我ながらえらいぜ。
さて。
近所にGくんという小学三年生の男の子がいる。
どこに住んでいるのかは知らないが、近くの公園でよく会う。
娘(五歳)やその友だちと遊んでいると「ぼくも入れてー」と近寄ってくるので、「人なつっこい子だな」とおもっていた。
だが、何度かいっしょに遊んでいるうちに首をかしげたくなることが増えてきた。
Gくんが親といっしょにいるところを見たことがない。
同級生と遊んでいるわけでもない。
いつもひとりで公園に来ている。
小学三年生の男の子が、三歳下の女の子たちが遊んでいるところに「入れてー」というものだろうか。
ちょっとふつうじゃない気がする。
娘やその友だちも、はじめはいっしょに遊んでいたのだが、あからさまに嫌がるようになってきた。
「Gくんと遊びたくない」と言うようになった。
だが避けられていることも気にせず、Gくんは「入れて―」と近寄ってくる。
その場にいる大人たちが「うーん、ちっちゃい子だけで遊びたいみたいだからごめんね」と断るのだが、Gくんは「大丈夫だよ、おれ手加減してあげる」などと食い下がるので閉口してしまう。
妻に聞くと、Gくんは平日もやはり一人で公園をうろうろしているそうだ。
学童保育にも行っていない。しかし親といっしょにいるところを誰も見たことがない。
一度、ぼくと娘で買い物に行く途中で、Gくんに会った。
「どこいくの?」と訊かれて「スーパー」と答えると、Gくんも後からついてくる。
娘はGくんと目を合わせようともしない。
娘とぼくが「お菓子買って」「一個だけだよ」と話していると、Gくんが「あーお菓子かー、おれもほしいなー」と言う。
あきらかに「買ってあげるよ」と言わせたがっている。
ぼくはその意図に気づかぬふりをして「家に帰って食べたら?」と言う。
するとGくん、「誰もいないもん。おかあさんは家に来てないし」。
おかあさんが家に来てない?
「家にいない」とか「帰ってきてない」だったらわかるが、「家に来てない」なんて言い方をするか?
幼い子ならまだしも、三年生だったらそんな間違いはしないだろう。つまり、おかあさんといっしょに住んでいないんじゃないだろうか。
いろいろ事情がありそうだ。
食うに困るほど家が貧しいわけではないのだろう、このまえ携帯ゲーム機を持って公園に来ているのを見た。
ネグレクト、という言葉が頭に浮かぶ。
年下の女の子と遊びたがる、同世代・同性の友だちといるところを見たことがない、親といるところも見たことがない、いつも一人で公園にいる、靴がボロボロ、よく知らない大人にお菓子をねだる。
ひとつひとつは大したことじゃないのかもしれないが、これだけ積み重なると心配になる。
しかしそれ以上は訊くことはしなかった。
質問してややこしい話が出てきたら困るな、とおもった。
Gくんはスーパーまでついてきたが、Gくんがお菓子売場に走っていった隙に、ぼくは娘の手を引いて隠れるように他の売場へ移動した。
どこか遠くの難民や、会ったことのない貧しい子どもには寄附をする。
でも目の前にいる、問題を抱えていそうな子どもからは目を背ける。
ぼくの「優しさ」はそんなもんだ。
2019年4月23日火曜日
五歳児の描く絵の構図
こないだ娘の保育園で発表会があった。
後日、教室の壁に園児たちの絵が飾ってあった。
それぞれが発表会の絵を描いたものらしい。
ほとんどの子の絵は、こんな構図だった。
![]() |
A |
それを舞台下から保護者が観ている。
ぼくが描くとしても、こんな構図にするとおもう。
でもSくんという男の子だけ、まったくちがう構図の絵を描いていた。
![]() |
B |
手前に自分たちがいて、奥に保護者を描いている。
おおっ、と感心した。
感心した理由はふたつ。
ひとつは、Sくんが目にしたとおりの構図で絵を描いていたこと。
舞台の上にいた園児たちには、Bの光景が見えていたはず。
見えたものを見えたままに描くことは案外むずかしい。
前髪が長い人だと視界に自分の前髪が入っているが、「見えたままをそのまま描いてください」と言われても、まず自分の前髪は描かない。
無意識のうちに消してしまうのだ。
逆に、見えていないものを描いてしまうこともある。
馬を見る。自分のいる位置からは脚が三本しか見えない。
けれどその馬を描くときは、無意識のうちに見えていない脚を補完して四本脚の馬を描いてしまう。
「馬は四本脚」という常識が、見えたとおり三本脚の馬を描くことを妨げるのだ。
見たままのことを描くことはむずかしい。脳が勝手に補完修正してしまうから。
だから、見たとおりの構図で絵を描いたSくんに感心した。
子どもならではの視点かもしれない。
(とはいえSくんには見えていなかったはずの"自分"も描いているのでその点は見たままじゃないが)
ぼくが感心したもうひとつの理由は、
他の子たちが客観的な視点を持ちあわせているということ。
Aの構図の絵を描こうとおもったら、「自分がどう見ているか」だけでなく「自分がどう見られているか」という意識を持たなくてはいけない。
五歳児がそんな意識を持っているとは、おもってもいなかった。
うちの娘を見ていても「常に世界は自分を中心にまわっているんだろうなあ」とおもっていたので、「他者の視点」を持っているということが驚きだった。
大人でも「他者の視点」が欠けている人は多い。
後ろから人が来ているにもかかわらず電車に乗ったところで立ちどまる人や、階段をのぼりきったところで立ちどまってきょろきょろする人は、「他者の視点で自分を見る」という意識がまったくないのだろう(少なくともその瞬間は)。
へえ。ちゃんと客観的に自分の姿を見られるんだ。
五歳児が子どもであることに感心して、同時に五歳児が大人であることにも感心した。
登録:
投稿 (Atom)