2019年2月26日火曜日

不公平な姉弟


ぼくの姉には子どもがふたりいる。
八歳の姉と四歳の弟。きょうだいでありながら性格はぜんぜんちがう。一言でいうと、お姉ちゃんは神経質、弟はおおらか。

お姉ちゃんは弟に厳しい。自分と同じものを求める。
大人からすると八歳と四歳なんてまったく違うのだから、何をするにも弟はできなくて当然。だけどお姉ちゃんはそれが許せない。
「なんでわたしはできないと怒られるのに弟は許されるのよ!」という不満を抱えて生きている(ように見える)。

こないだその姉弟とすごろくをした。
やはりお姉ちゃんは弟に厳しい。
「待ってるんだから早くサイコロ振って!」「4が出たんだからそこじゃないでしょ!」と弟を叱責する。
さらに間の悪いことに、弟はいい目が出てお姉ちゃんは悪いマスにばかり止まる。
弟はトップ、お姉ちゃんはビリ。すごろくは運ですべてが決まるのでこればっかりはどうしようもない。

お姉ちゃん、だんだんイライラしてきて、露骨に弟に当たりちらしはじめた。
サイコロを弟に投げつけるように渡したり、弟のコマをわざと倒したり。
しかし弟のほうは、姉が自分に向けてくる悪意にまるで気づかない様子で、いつもと同じようににこにこしながら「やったー、6だー!」と喜んだり「お姉ちゃんがんばれー!」と応援したり(しかしそれがお姉ちゃんには煽っているように感じるのだが)。

もしこれが、悪意に気づきながら華麗にスルーしているのだとしたら相当な大物だ。


さてさて。
当然ながらその場にいる大人は、弟に気を遣う。
お姉ちゃんに「もっと優しくサイコロを渡しなよ」と注意をし、弟に「ゆっくりでいいからね」と声をかける。親も、おじいちゃんおばあちゃんも、叔父(ぼく)も、弟に気づかう。
その結果、お姉ちゃんはますます不機嫌になる。
きっとお姉ちゃんからしたら「弟がやるべきことをできてないから注意してやってんのに、周りの大人は弟ばかり甘やかす」というふうに映っているのだろう。

弟に厳しく当たる → 周囲の大人が弟に優しくする → ますますイライラして弟に厳しく接する

というスパイラルだ。
しかしお姉ちゃんは、自分の行動が「弟甘やかされすぎ」現象を生んでいるとも知らず、今日も弟に冷たくあたる。
つくづく損な性格してるなーと傍から見ていて思う。



子どもは、不公平であることに異常に敏感だ。
いつも周りと見比べて、自分が享受すべき利益が他人に渡っていないかを厳しくチェックしている。
「よそはよそ、うちはうち!」
と言われずに育った子どもはまずいないだろう。

世の中は不公平なものだが、それを認めるには時間がかかる。
世界は不公平だと学ばぬまま大人になってしまっている人も多い。
「おれをスピード違反で捕まえるんだったら他のやつも捕まえなきゃだめだろ!」
「私は努力してるのになんで大した努力もしてないあいつがいい目にあってるのよ!」
と考えてしまうタイプは一生幸せになれない。
完全に公平であってほしいという気持ちを満たそうと思うなら、誰もが不幸な国に行くしかないのだから。

かわいい姪にはそんな不幸な大人になってほしくないと思うので、
「弟に優しいお姉ちゃんって思われたら、みんなが優しくしてくれるよ」
と言ってみたのだが、はたしてどこまで伝わっているのやら。

2019年2月25日月曜日

【読書感想文】貧乏クジを引かされたのは読者だよ / 香山 リカ『貧乏クジ世代』

貧乏クジ世代

この時代に生まれて損をした!?

香山 リカ

内容(e-honより)
その数、なんと一九〇〇万人!「第二次ベビーブーマー」「団塊ジュニア」と称される一群を含む70年代生まれ。いま二十代後半から三十代前半の彼らは、ひそかに「貧乏クジ世代」とも揶揄される。物心ついたらバブル景気でお祭り騒ぎ。「私も頑張れば幸せになれる」と熾烈な受験戦争を勝ち抜いてきたが、世は平成不況で就職氷河期。内向き、悲観的、無気力…“自分探し”にこだわりながら、ありのままの自分を好きになれない。「下流社会」「希望格差社会」を不安に生きる彼らを待つのは、「幸運格差社会」なのか。

この本でとりあげられる「貧乏クジ世代」とは、いわゆる第二次ベビーブーマーであり、いわゆる団塊ジュニア世代であり、いわゆるロストジェネレーション世代である。
1970年代生まれ、だいたい中高生ぐらいにバブルを経験している時期。「大人たちがバブルに浮かれているのは見ていたけど、自分たちが社会に出たときにはバブルははじけていてその恩恵にあずかれなかった世代」だ。

その世代について分析した本……かと思いきや。

いやあ、ひどい本だった。
ぼくもいろんなひどい本を読んできたという自負があるけど(どんな自負だ)、この本は相当上位にランクインするな。

なにしろ「こんな話を聞いた」とか「私の周りにこんな人がいる」とか「私はこうだった」レベルの話がひたすら並び、それをもとに世代論を展開している。
 ところが貧乏クジ世代の場合、どうもその視線がいきなり現実の未来や社会を越えて、霊的世界や運命的世界にまで飛んでしまうことがあるようなのだ。「私がツイていないのは守護霊がよくないから」「今年は私みたいな水星人は最悪の運勢らしい」「オレはAB型だから対人関係がうまくいかないのはしたない」。こうやって、「うまくいかないのは家族や周りの人のせい」から、「社会のせい」を飛び越えて、いきなり「霊や宿命のせい」と結論づける。内向き志向と並んで、貧乏クジ世代の思考パターンにはこの“超越志向”もあるようだ。
 考えてみれば、彼らが生まれた一九七〇年代は、七三年のホラー映画『エクソシスト』の公開や『ノストラダムスの大予言』(祥伝社)の出版、UFOや宇宙人の大ブームなど、オカルトや超常現象への人びとの関心が一気に高まった時代でもあった。
 しかし、このころは高度成長に支えられ、「私にも未知なる超能力があるかもしれない」「いつかUFOに乗れる日がくるかもしれない」と、人びとはそこに自分たちの新しい可能性や未来を見つけようとしていた感がある。そして貧乏クジ世代は、七九年に創刊されたオカルト雑誌『ムー』(学習研究社)を眺めたり、「口裂け女」のウワサを聞いたりしながら、子ども時代を過ごすことになったのである。
は?
言っておくが、この文章の前後のどこにも「70年代生まれはオカルトにはまりやすい」ことを示すデータはない。ないのはあたりまえだ。著者の頭の中にしかない思いつきなんだから。
だいたい70年代にオカルトへの関心が高まったんなら、オカルトにはまってたのは70年代生まれじゃなくてその上の世代じゃねえか。乳幼児がオカルトブームを牽引してたと思ってんのか?
著者の頭の中がいちばんの “超越志向” だよ。

 いまはどうなのだろう。国内にも世界にも、問題は山積み。むしろ私の時代以上に、大きな事件や戦争が次々に起きる。しかし、貧乏クジ世代の人たちは、内面化しがちなこの年齢特有の視線を、なかなか外向きに変えられずにいるように見える。
 書店に行っても、その世代向けに書かれた本の多くが、「社会をこう読む」ではなくて、「上司とはこう話す」「彼女にはこう接する」といった、あまりといえばあまりに等身大なマニュアル本。あるいは、いわゆる自分探し、自己啓発系の本。視線はさらに足下に、もしくは心のなかにと向きつつあるようだ。
 これはいったいどうしてなのか。私が三十歳だったころのように、彼らは「こうしちゃいられん!」などとそう単純には立ち上がらないということか。そうやって立ち上がっては結局、社会をよくすることができなかった”先輩“たちを、あまりにもたくさん見すぎたということか。いずれも理由の一つだとは思うが、もうちょっと別の原因もありそうだ。
これもひどい。ツッコミどころしかない。
私の時代」ってなんなんだよ。それ言っていいのは天皇だけだよ。
その世代向けに書かれた本」ってどうやって判断したんだよ。
ように見える」「あるようだ」「ありそうだ」って大学生が論文に書いてまず怒られるやつだよ。Wikipediaなら[要出典][未検証]とかタグつけられまくるやつだよ。
大きな事件や戦争が次々に起きる」「本の多くが~」も根拠ゼロ。「最近の若者はなっとらん」レベルの意見。

「自分の観測範囲内の人たち+根拠のない推測」と「私が三十歳だったころ+美化された思い出」を比較して、「この世代は~」と語っている。あきれて話にならない。

また、この「この根拠ゼロの分析」の後に、「精神科医からのアドバイス」みたいなのがくっついていて、余計に不愉快。
著者の妄想でしかない症状に対して、対策を教えられてもねえ。

この根拠ゼロ+クソつまらない話が延々続いて、この前置きはいつまで続くのかとおもっていたら、とうとう中盤までこの調子だった(半分ほどで読むのをやめたので最後がどうだったかは知らない)。
ぼくは「よほどのことがないかぎりは一度読みはじめた本は最後まで読む」ことを心がけているので途中で投げだすのは五百冊に一冊ぐらいなのだが、これはその貴重な本の一冊に見事光り輝いた。

エッセイとしてならまだしも、これを新書として出すなよ……とため息が出る。ここまでひどいと、もう著者に対しての怒りは湧いてこない。どうしようもない人なのだから。
これをノーチェックで出版した出版社に怒りが湧いてくる

この本の刊行は2005年。そういやその頃って新書ブームとか言われて質の低い新書が濫造されていた時期だったなあ……。新書貧乏クジ世代だ。

いやあ、ほんとひどい本だった。この人の本は二度と読まんぞ!

2019年2月22日金曜日

男子が死にかけたことと殺しかけたこと

死にかけたこと1


十歳のとき、同い年のいとこと川で遊んでいた。
ぼくは泳げたので「深いほうに行ってみようぜ」といとこを誘った。いとこは「よし行こう。おもしろそうだな」と言ってついてきたが、いきなり溺れた。
後で知ったのだが、泳げないくせに見栄を張ってついてきたらしい。

ぼくはいとこを助けようと腕をつかもうとしたが、パニックになったいとこはぼくの腰にしがみついてきた。
おいなにすんねんこいつ。助けようとしてやってんのに、腰をつかまれたらこっちも溺れるだろ。
溺れるならひとりで溺れろよ。勝手に人を巻きこむな。やばい、川底に引きずりこまれる。

一瞬死が脳裏によぎった。ぼくはいとこを蹴とばしてその手をふりほどき、浅瀬まで泳ぎついた。
ただならぬ様子に気づいた父と伯父が助けに向かい、いとこは無事救出された。

教訓:救助訓練を受けていないなら、溺れるやつは放っておけ



死にかけたこと2


小学六年生のとき。
近所の銀行の裏の壁にはしごがあった。はしごがあればのぼりたくなるのが男子。
はしごを伝って銀行の屋上にのぼって遊んでいた。
三階分くらいの高さがあったので、手をすべらせたりしたら軽いけがでは済まなかっただろう。

当時は大したこととおもっていなかった(びびっていると思われないようになんでもないふりをしていた)が、今考えるとぞっとする。

教訓:男子の手の届くところにはしごを置くな




殺しかけたこと


中学生のとき。
同じクラスのやんちゃ者、オオガキが窓枠に腰をかけていた。校舎の三階。もちろん落ちたらただではすまないが、彼は強がってわざと危険なことをしていたのだ。男子とはそういうものだ。

ぼくはそれを見て、くだらねえことしてるなと思いつつ、ちょっとびびらせてやれと思って「わっ」と言いながらオオガキを軽く押した。
するとぼくの想像していたよりもはるかにオオガキはバランスを崩し、「ヤバい」という顔をして必死に窓枠にしがみつき、すんでのところで体勢を立てなおした。

オオガキもあわてていたが、ぼくもめちゃくちゃびびった。その一瞬、世界がスローモーションになるのを感じた。

「……あ、あぶなかったなー!」
ぼくらは顔を見合わせて安堵のためいきをついた。あとほんのちょっとバランスを崩していたら、彼は死者、ぼくは殺人者になるところだった。
もう二度とこんな悪ふざけはやるまいと固く心に誓った。

今でもあの瞬間のことを思い返すとドキドキする。彼がバランスを立て直してくれてほんとによかった。あそこでオオガキが転落していたらぼくは今とはまったく違う人生を送っていただろう。

教訓:命にかかわる冗談はぜったいにやっちゃいかん


2019年2月21日木曜日

【読書感想文】米軍は獅子身中の虫 / 矢部 宏治『知ってはいけない』

知ってはいけない

矢部 宏治

内容(e-honより)
この国を動かす「本当のルール」とは?なぜ、日本は米国の意向を「拒否」できないのか?官邸とエリート官僚が国民に知られたくない、最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」とは?3分でわかる日本の深層!私たちの未来を危うくする「9つの掟」の正体。4コママンガでもわかりやすく解説。
『知ってはいけない』とはずいぶん陰謀論めいたタイトルだ。そして書かれている内容も陰謀論っぽい。

・米軍は日本の好きなところに基地をつくることができる
・在留米兵にとっては、日本全土が治外法権。米兵が日本でおこなった犯罪を日本の警察や裁判所は裁くことができない
・米軍が必要と判断したら、日本の軍(つまり自衛隊だね)は米軍の指揮の下で戦わなくてはならない

これが陰謀論ならいいんだけどね。
しかし孫崎享『戦後史の正体』など他の本の記述と照らしあわせると、この本に書かれていることはたいていが真実なんだろう。日本人としては残念ながら。
実際、戦後日本の動きを見ているかぎり、否定しようがないし。

『知ってはいけない』では、戦後(占領下にあった時期を戦後と呼んでいいのであれば)に日米間(というより日本政府と米軍間)でとりかわされた条約や密約をもとに、こうした事実を明らかにしていく。
 ところが日本だけは、米軍ヘリやオスプレイの墜落事故のケースを見てもわかるように、敗戦後七〇年以上たってもなお、事実上、国土全体が米軍に対して治外法権下にあるのです。
「何度もバカなことをいうな」
 と言われるかもしれません。
 しかしこれもまた、確かな根拠のある事実です。このあとご紹介する日米合同委員会という秘密会議で、左のような密約が日米間で合意されているからです。

「日本国の当局は、所在地のいかんを問わず米軍の財産について、捜索、差し押さえ、または検証をおこなう権利を行使しない」
(日米合同委員会の公式議事録 部分 一九五三年九月二九日)
 つまり、この会談でクラークは、
「戦争になったら日本の軍隊(当時は警察予備隊)は米軍の指揮下に入って戦うことを、はっきり了承してほしい」
 と吉田に申し入れているのです。そのことは、次の吉田の答えを見ても明らかです。

「吉田氏はすぐに、有事の際に単一の司令官は不可欠であり、現状ではその司令官は合衆国によって任命されるべきであるということに同意した。同氏は続けて、この合意は日本国民に与える政治的衝撃を考えると、当分のあいだ秘密にされるべきであるとの考えを示し、マーフィー〔駐日大使〕と私はその意見に同意した」

 戦争になったら、誰かが最高司令官になるのは当然だから、現状ではその人物が米軍司令官であることに異論はない。そういう表現で、吉田は日本の軍隊に対する米軍の指揮権を認めたわけです。こうして独立から三ヵ月後の一九五二年七月二三日、口頭での「指揮権密約」が成立することになりました。
社会の教科書では憲法、その下にある法律にもとづいて国は動くと書かれているけど、本当は、戦後日本はそうなっていない。
日米間の条約や、あるいは公式な文書ですらない "密約" が法律、さらには憲法よりも高い地位を占めていて、その方針によって戦後日本の枠組みが作られているのだ。

どうして政治家がこんなに憲法を軽視するのか疑問だったのだけれど(特に現政権は)、戦後数十年にわたって憲法を無視した密約に従って動いてきたんだもんな。そりゃないがしろにされるわ。

よく自虐的に「日本はアメリカの植民地だ」なんて言うけれど、大げさでもなんでもなく、アメリカ軍が日本で好き勝手にしていいというルールが幅を利かせているわけだから、ほんとうに植民地なのだ。
アメリカ軍は日本の好きなところに基地をつくれるのだ。基地問題は沖縄だけの話ではない。



アメリカの植民地だった国は他にもたくさんあるが、独立後も「アメリカ軍が好きなときに好きなだけ飛行機を飛ばせる」なんて条件を受け入れているのは日本と韓国だけだそうだ。

それは、朝鮮戦争が大いに関係がある。
日本が占領下にあったときに朝鮮戦争が起こったため、アメリカ軍はぜったいに日本に基地を残しておきたかった。だから「基地を置いてもよい、軍用機を飛ばしてもよい、有事の際は日本軍がアメリカ軍の指揮下に入る、という条件を呑むのであれば日本を独立させてやってもよい」という取り決めがなされ、かくして日本は実質的な植民地となることを引き換えに独立を果たした(それを独立といっていいのかわからないが)。
そして朝鮮戦争はまだ終わっていない。「休戦」しているだけだ。だからアメリカ軍による実効支配は今も続いている。

矢部宏治さんはこれを戦後レジームならぬ「朝鮮戦争レジーム」と呼んでいるが、なるほど、そういう視点で見ると日米の関係がすっきりと見えてくる。



思想の左右に関係なく、こういった歴史背景は知っておかないといけないよね。
こういうことを知らずに憲法改正なんて議論できるわけがない。
 こうした大西洋憲章の理念を三年後、具体的な条文にしたのが、国連憲章の原案である「ダンバートン・オークス提案」でした。この段階で「戦争放棄」の理念も条文化され、世界の安全保障は国連軍を中心に行い、米英ソ中という四大国以外の一般国は、基本的に独自の交戦権は持たないという、戦後世界の大原則が定められました(第8章・12章)。
 これはまさしく日本国憲法9条そのものなんですね。ですから憲法9条とは、完全に国連軍の存在を前提として書かれたものなのです。
 日本ではさまざまな議論が錯綜する憲法9条2項についても、この段階の条文を読めば、あっけなくその本来の意味がわかります。要するに、日本国憲法は国連軍の存在を前提に、自国の武力も交戦権も放棄したということです。

これすごく大事。
「日本国憲法は国連軍の存在を前提に、自国の武力も交戦権も放棄したということです」

なるほどなー。「みんなが銃の代わりに花束を持てば世界中がハッピー!」なんて能天気なもんじゃないんだなー。
ということは国連軍が誕生しなかった以上(今後もたぶん創設されないでしょう)、憲法九条を維持しつづけるのはかなり苦しいものがある。
だったら憲法改正! というのも短絡的で、今の日米関係のまま自衛隊を正規軍にしたってアメリカ軍の下部組織になるだけ。

日米安保条約を破棄して、自衛隊なんていう嘘ではなく「軍」として憲法に明記。ただし侵略戦争は明確に否定、みたいなことができたらいいんだろうなー。
すごくむずかしいけど、でもそれって他の国がみんなやってるごくごくふつうのことなんだよな。ふつうの国がやってることを日本だけができてないってのが相当異常なんだとまずは理解することから始めなければ。


歴史を見ると、米軍が日本人を守る気なんてさらさらないことがよくわかる。
中国やロシアが脅威だと言ってるけど、アメリカもそれと同じくらいの脅威だ(国家元首の理性だけを見たらアメリカがいちばん危険だと思う)。
米軍基地だらけの日本は、獅子身中の虫を飼ってるようなものだ。
「憲法九条があるから日本は大丈夫!」もかなりおめでたい思考だけど、「アメリカ軍が守ってくれるから大丈夫!」はそれ以上におめでたい。


歴史の教科書の副読本にしてほしい一冊。
これを読むと戦後日本の歩んできた道がクリアに理解できるようになる。

【関連記事】

【読書感想文】 池上 彰 『この日本で生きる君が知っておくべき「戦後史の学び方」』



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2019年2月20日水曜日

第二次性徴の本のおもいで


中学生のとき、友人たちと図書室で遊んでいた。
友人のひとりが、「保健体育」コーナーから第二次性徴について書かれた本を持ってきて「うわ。なんだこれ」と言った。
彼が指したページにはしゃがみこんで手鏡を持って自分の股間をのぞきこんでいる少女のイラストが描かれており、「自分の性器を知ろう」みたいなキャプチャがついていた。
「なんじゃこりゃ。この女なにやってんねん」
とぼくらはげらげら笑った。
しかしぼくは、笑いながらすごく昂奮していた。

まじめな内容の本だった。扇情的な絵ではなかった。イラストの少女はかわいくもないし無表情。股間そのものは手鏡に隠されてまったく描かれていない。
昔、ぎょう虫検査キットにキューピーちゃんが尻に検査シールをあてがっているイラストが描かれていたが、それに似ていたような気がする。色気もへったくれもない。


だが、そのことがかえってぼくの想像力を刺激した。エロいマンガに出てくる美少女だと「しょせんこれはエロ本の世界よね」というどこか醒めた目で見てしまうが、平凡な少女が股間を覗きこんでいるイラストには、かえって「ということはクラスのあの子やあの子もこんなことを……」と想像させるリアリティがあった。

同時に「女ってこんなことしないと自分の性器を見られないのか!」ということも衝撃だった。
男は自分の性器をよく知っている。鏡を使わなくても見られるし、立っておしっこをするときにも必ず目に入る。毎日何度となく顔をあわせる。いたってよく知る顔なじみだ。
ところが女は手鏡を使ってしゃがみこまないと自分のものが見えないらしい。しかも本にわざわざ「自分の性器を見てみよう」なんて書かれているということは、一度も見たことのない女も多いのだろう。

自分ですら見たことのない秘密の場所……。
その情報は、中学生にとってたまらなく刺激的だった。
「女の子は自分の性器を自分で見れない」という話は「力士が自分の尻を自分で拭けない」という話とよく似ているが、ぼくを昂奮させる度合いはまったくちがっていた。



図書室で見た第二次性徴の本が気になってしかたがなかった。
まだ精通のなかったぼくは、発散することもできず、悶々とした気持ちを抱えたまま暮らしていた。
またあの本を見たい。
だがひとりで図書館に行って第二次性徴の本を見るには、ぼくの自意識は高すぎた。

ぼくが性教育の本を見ている間、いつなんどき誰がやってくるかわからない。
しかも「保健体育」コーナーは図書カウンターから見えるところにあった。図書室が開放されている時間帯は、カウンターには教師か図書委員がいる。
誰も他の生徒の動向なんて気にしていないとは思いつつも、万が一「あいつ図書室で性教育の本を見てたぞ」なんて思われたら生きてゆけない。エロ本を拾っているところを見られるより恥ずかしい。

図書室で見るなんてできないし、まして借りるなんてもってのほか。性教育の本の貸出履歴カードに一生ぼくの名前が残ってしまう。



ぼくは図書委員になった。すべてはあの本をもう一度見るために。

誰にも見られないようにあの本を見るためには、人のいない時間を狙わなければいけない。
それには図書室にずっといてチャンスをうかがう必要があるが、それまでほとんど図書室に行ったことのないぼくが突然入りびたるようになるのは不自然だ。
図書室にずっといても不自然ではない人物、それは図書委員。

図書委員は放課後に図書室に待機して貸し借り手続きをする必要があるので、ほとんどの生徒はやりたがらない。委員決めのために手を挙げると、すんなりと図書委員になることができた。
「立候補なんてまじめだなー」
なんて友人から言われたが、
「もっとめんどくさい文化祭実行委員とかをやりたくないからな」
と言い訳をして、「ほんとはやりたくないんだけどな」というスタンスをくずさなかった。

数日後、さっそく図書委員としての仕事がまわってきた。
ぼくはTくんという隣のクラスのおとなしい生徒といっしょに貸出カウンターに座ることになった。委員は二人一組で貸出業務にあたるのだ。これは誤算だった。ひとりっきりになるチャンスがない。

初日は様子見。
ぼくが知ったのは、放課後に図書室に来る生徒は意外に多いということだった。
自分の放課後生活は、部活をやるか友人と遊びにいくか家に帰るかだったので、図書室に滞在する生徒がこんなにいるとは思いもよらなかった。常に数人が本を読んだり勉強したりしている。

その後も何度か図書委員としてカウンターに座ってチャンスをうかがっていたのだが、図書館に誰もいなくなる時間はなかった。
Tくんは決してサボることなく委員の仕事をこなし、毎日のように図書室にやってきて勉強をする三年生もいる。おまけに図書室担当の国語教師が図書室にいることも多かった。放課後の図書室はわりと繁盛しているのだ。

「他に誰もいないときを見はからってこっそり性教育の本を見る」というぼくの作戦は実現不可能のように思えた。
べつの方法を考えるしかない。

ある日、ぼくは返却された本を棚に戻しにいくついでに、そっと例の性教育の本を手に取り「誰だよこんなところにこの本入れたのは」と小さくひとりごとをつぶやきながら図書室の奥へと移動した。
誰も見ていないのに、「あるべき場所でない棚にある本を見つけた図書委員」の芝居をしながら。
そして性教育の本を、いちばん奥の棚へと移した。郷土資料があるコーナー。誰も見ないような本の棚。
そしてその日はそのまま帰った。
ほんとはすぐにでも読みたいところだが、万が一誰かに見られて「あいつ性教育の本を手にして隅っこに長時間いたぞ」と思われないために。

十日ほどたって、またぼくの貸出カウンター当番の日がまわってきた。
どきどきしながら頃合いを待った。奥の棚から人が少なくなる時間。
本を棚に返却しにいこうとするTくんをぼくは押しとどめた。「後でまとめていくからいいよ」と。

そして時はきた。何人かの生徒はいるが、自習机で読書や勉強にふけっている。そこから郷土資料コーナーは視界に入らない。
返却棚には数十冊の本。ぼくは「けっこう溜まってるなー。じゃあカウンターよろしく」とTくんに向かってクサい芝居をしながら書架へと向かった。これで少しぐらいカウンターに戻ってくるのが遅くなっても不自然に思われずに済む、はず。

そしてぼくは、何冊かの本を棚に戻してから郷土史コーナーへと向かった。隠しておいた本が本来の位置に戻されているのではないかということだけが懸念点だったが、本は依然そこにあった。やはり郷土史の本など誰も見ないのだ。

足かけ半年。ついにこの日が来た。
ぼくは、自分の姿を視認できる位置に誰もいないことを確認してから、おもむろにページを開いた。



そこから先のことはあまりおぼえていない。
とにかく、がっかりしたことだけはおぼえている。
「あれ? こんなんだっけ?」
というのが正直な感想だった。

はじめて見たときは「なんてエロいイラストなんだ!」とおもった。
その後、幾度となくこのイラストのことを思いえがいていた。その結果、ぼくの中で例のイラストのエロさがどんどん肥大化していったのだろう。
半年ぶりに実物を見てみると、「なんかおもってたほどじゃないな」としかおもえなかった。この程度のもののために半年も周到に準備してきたのが急にばかばかしくなった。

だがこの経験はぼくに大切なことを教えてくれた。
真のエロとは自分の頭の中にあるのだ、と。