2018年3月5日月曜日
実に田舎の公務員のおっさん
以前、車を買って二ヶ月で事故を起こした。スピーディーだ。
田舎の住宅街を走っているとき、一時停止の標識に気づかずに交差点に侵入し、横から来た車のどてっ腹につっこんだ。後で、九対一でぼくが悪いという判定になった(しかしそれでも一割の過失があるとされるんだから相手はかわいそう。避けようがないだろうに)。
車は大きく破損したが、幸いお互いにけがはなかった。
相手のおじさんが「ちょっと急いでるから実況見分とかやってる時間ないねん。連絡先だけ教えて!」と言うので連絡先を教えあい、おじさんはその場から立ち去った。
加害者が逃げたんなら問題だけど逃げたのは被害者だしなあ、でも警察に連絡しないのはまずいんじゃないだろうかと思い、ぼくひとりでそのまま警察署に向かった。
事故に遭ったと報告すると「で、相手の人は?」と訊かれた。「なんか急いでるとかでどっか言っちゃいました」と伝えた。
たちまち相手のおじさんには警察から招集がかかり、おじさんはすぐにやってきた。「事故現場から勝手に離れたらだめでしょ!」と警察官からめちゃくちゃ怒られてた。被害者なのに加害者より怒られてた。かわいそうに。
ぼくも詳しい事情を訊かれた。五十歳ぐらいの警察官だった。
「どこからどこへ向かってたの?」
「市民病院に行ってて、その帰りでした」
「病院? どっか悪いの?」
「はあ。一週間ぐらい前から微熱が続いて吐き気がするので」
「で、医者はなんて?」
「一応検査はしたんですけど、異常は見つからなかったので精神的なものかもしれないそうです(デリケートなことをずけずけと訊いてくるなー)」
「なんで熱が出るの」
「さあ(医者がわからないのにわかるわけないだろ)」
「こりゃああれだな、どうせコンビニ弁当ばっか食べてんだろ。ちゃんとしたものとらないからだぞ」
「はあ(精神的な原因かもしれないって言ってんだろボケ。自炊しとるし)」
「彼女はいるのか? はやく結婚して奥さんにうまいごはんつくってもらえよ」
と、事故とまるで関係のないセクハラ説教をされた。
「この属性の人はこうだ」という差別的なことはあまり言いたくないが、いやあ実に田舎の公務員のおっさんらしい古くさい考え方だなあ、とすっかり感心したのだった。
2018年3月4日日曜日
あなたが私によこしたもの
高校生のとき、好きだった女の子に無印良品のバッグをあげたことがある。ぜんぜんかわいくないやつ。アタッシュケースみたいなシンプルなデザイン。ビジネスシーンで使えるぐらい不愛想なやつ。

しかも、そこそこ仲は良かったが付きあってたわけでもないのに。
高校生にしてはそこそこいい値段がしたと思う。まあまあ高くて使えないという、いちばん迷惑なプレゼントだ。キモかっただろうな。
プレゼントを選ぶセンスがない。
自分自身に物欲がないせいかもしれない。服は暑すぎず寒すぎなければなんでもいい。バッグはたくさん入るやつがいい。
その程度の執着しかないから人に何をあげたら喜ばれるのかわからない。
妻に誕生日プレゼントを贈っているけど、欲しいものを型番で指定してもらって、ネット通販で買うことが多い。買い物に行くのも嫌いなのだ。「買っといて、後でお金請求してよ」というときもある。妻がムードとかにこだわらない人でよかった。
プレゼントを選ぶセンスがないのに、プレゼントを贈ることは好きなのだ。困ったことだ。
毎年、親戚が集まると、子どもたちへのプレゼントの贈りあい、というイベントが発生する。うちの一族はみんな子どもにものをあげたがるのだ。
甥や姪、いとこの子どもたちにプレゼントを贈るのは楽しい。
でも、いつも困ってしまう。
赤ちゃんはかんたんだ。えほんを買えばいい。やつらに好みなんてないからだ(あるんだろうけどどうせ考えてもわからないから気にしない)。すでに持っている本を贈らないことだけ気をつけて、あまり有名でないえほんをあげる。
もう少し大きくなっても、男の子はなんとなくわかる。「九歳のとき何が好きだったかな」と自分の経験に照らし合わせて考えれば、大きくはずさないだろう。
女の子がむずかしい。いとこの娘が中学一年生なんだけど、何をあげたらいいのかさっぱりわからない。
小学校高学年から中学生ぐらいの女の子なんて、ぼくの人生ともっとも縁遠いところにいる存在だ。やつらは何を好きなんだろう。何をして遊んでいるんだろう。どんな話をしているんだろう。ネリリしキルルしハララしているのか。なにひとつわからない。
男子はばかだからいくつになってもボールを与えとけば喜んで蹴りまわしているけど、中学生の女の子はそうはいかない。
『トイ・ストーリー2』で、ジェシーというカウボーイ人形が思春期になった持ち主の女の子から遊んでもらえなくなるという描写がある。
いとこの娘にあげるプレゼントを選ぶとき、いつもこのシーンが頭に浮かぶ。
ああ、エミリー。おもちゃで遊ばなくなったエミリー。ジェシーの寂しさがぼくには手に取るようにわかる。
大人の女なら「とりあえずお菓子あげとけばいいや」となるんだけど、思春期の女子ってやたらとダイエットするでしょ。大人女性の口だけのやつとちがって、かなり本気のやつ。そんな人に甘いお菓子あげたら恨まれそうだし。
何あげたらいいかわかんねえ。かといって女子中学生に現金つかませるのもなんかやばいし。
2018年3月3日土曜日
本を嫌いにさせるフェア
書店で働いてるとき、読書感想文のシーズンになるとふだん本を読まなさそうな子ほど漱石とか太宰とか難解な本を買いに来ていた。
レジで太宰を手渡しながら、あーあ、この子たち余計に本嫌いになるんだろうなーと思ってた。
あれは夏の文庫百冊フェアとかやってる出版社にも責任があると思う。
ああいうところに、いわゆる文豪の作品を入れないほうがいい。
ほんとに好きな子は夏の百冊に入ってなくても買うし。
- 本を読まない子でも作者やタイトルは聞いたことがある
- 人気漫画家に描かせたポップな表紙
- 著作権切れの作品だから他より安い
夏の百冊フェアをやるのなら、とっつきやすい短篇集、ティーンが主人公の話、ユーモアあふれるエッセイなどだけでそろえたらいい。それも、教科書には載ってない現代作家の。
そしたら「学校で習わないけどおもしろい本が本屋にはいっぱいあるんだ」と気づいてもらえるのに。
ぼくが、ふだん本を読まない子のために文庫の中から選ぶとしたら……
村上 龍『69 sixty nine』
椎名 誠『わしらは怪しい探険隊』
原田 宗典『十七歳だった!』
東野 圭吾 『あの頃ぼくらはアホでした』
畑 正憲『ムツゴロウの青春記』
東海林 さだお『ショージ君の青春記』
みうら じゅん『正しい保健体育 ポケット版』
高野 秀行『異国トーキョー漂流記』
群 ようこ『鞄に本だけつめこんで』
北 杜夫『さびしい王様』
佐藤 多佳子『黄色い目の魚』
重松 清『ナイフ』
星 新一 『未来いそっぷ』
宮部 みゆき『我らが隣人の犯罪』
伊坂 幸太郎『陽気なギャングが地球を回す』
貴志 祐介 『青の炎』
小川 洋子『猫を抱いて象と泳ぐ』
誉田 哲也 『武士道シックスティーン』
筒井 康隆 『旅のラゴス』
清水 潔 『殺人犯はそこにいる』
大崎 善生『聖の青春』
橘 玲『亜玖夢博士の経済入門』
岩瀬 彰『「月給100円サラリーマン」の時代』
木村 元彦 『オシムの言葉』
スティーヴン キング『ゴールデンボーイ―恐怖の四季 春夏編』
こんなとこかな。
どれもおもしろくて、世界をちょっとだけ広げてくれる。ぐいっと。
おっさんが選んだ本だから古いリストだけど。
2018年3月2日金曜日
お誕生日会という風習
小学校低学年のとき、"お誕生日会"という風習があった。
ある日、同級生から招待状を渡される。「お誕生日会をやるから来てね」
赤紙と一緒で、招待状をもらったら欠席は許されない。手ぶらでの参加も許されない。
誕生日プレゼントを持って誕生日の子の家に行く。
その子のお母さんがケーキやお菓子やジュースを用意して待っている。参加者たちは主役であるその家の子にプレゼントを渡し、あとは飲み食いしてゲームで遊ぶ。帰り際には、来てくれたお礼ということでお土産を渡される。
今思うと、ずいぶん図々しい風習だ。
あたしの誕生日を祝うために集まりなさい、だなんて厚かましいにもほどがある。
常識的に考えれば、そんな暴挙が許されるのは王女様と西田ひかるだけだ。

たぶんあれは当人よりも母親が張りきってやっていたんだろうな。
「うちのかわいい〇〇ちゃんの誕生日なんだから盛大に祝わなくちゃ!」というある意味まっすぐな親心が、強制招集お誕生日会という暴挙につながっていたのだと思う。
「どれだけ豪華なケーキやおみやげを用意しているか」「どれだけいいプレゼントを持たせるか」という母親同士の見栄の張りあいもあったのだろう。
仲のいい数人を集めてわいわいやる、という程度ではなく、どのお誕生日会も十人以上集めて盛大にやっていた。クラスの男子全員が参加、ということもあった。
ある日、あまり親しくもない子のお誕生日会に呼ばれた。
お誕生日会に招待された、と母に言うと「じゃあ誕生日プレゼントを持っていかなきゃね。その子の好きそうなものを買ってあげなさい」と、五百円を渡された。
とりあえずおもちゃ屋に行ってはみたものの、親しくもない子に何をあげたらいいのかわからない。今なら無難にお菓子とかにするけれど、男子小学生にとっては「プレゼント=おもちゃ」である。
その子がガンダムのイラストの入った下敷きを持っていたことを思いだし、だったらガンダムだろうということでガンダムの安いプラモデルを買った。
誕生日会当日、プレゼントを渡すとなんとも微妙な顔をされ、子どもながらに「あっ、これははずしたな」ということがわかった。
じつはそんなにガンダムを好きではなかったのかもしれない。
ぼくはガンダムを観たことがなかったので、もしかしたらガンダムっぽい別のロボをプレゼントしてしまったのかもしれない。
またべつのある日、父親といっしょに犬の散歩をしていると、クラスメイトたちに出くわした。どうやら同じクラスの女の子の誕生日会をするところだったようだ。
クラスの女子ほぼ全員と、男子も何人かいた。一年生のときだったが、いわゆる「イケてる男子たち」も招待されていたらしい。
ぼくは招待されていないので気まずかった。軽くあいさつをして立ち去ろうとすると、あらゆることに楽天的な父親は
「なんだ、同じクラスの友だちか。だったらいっしょに遊んでこい」
とぼくの背中を押した。
「いややめとく」と言っても「恥ずかしがるなって。友だちなんだろ」と言い、あろうことか「ごめん、こいつもいっしょに入れてやってくれるかな」とクラスメイトたちに声をかけた。なんと無神経なんだろう。今でも恨んでいる。
イヤと言われることもなく(そりゃ言えないだろう)、急遽ぼくも誕生日会に参加することになった。
呼ばれてもいないお誕生日会への参加。地獄だった。
招かれざる客であるぼくは、もちろんひとりだけプレゼントを持ってきていない。誰も何も言わないが、その目が雄弁に語っている。コイツナンデイルノ。
ちがうんだ、ぼくだって来たくなかったんだ。
今思い返しても冷や汗が出る。
呼ばれなかったお誕生日会に参加することつらさたるや。
ぼくが魔女だったら、お誕生日を迎えた女の子に永遠の眠りにつく呪いをかけていただろうな。
2018年3月1日木曜日
【読書感想】アンソニー・プラトカニス他『プロパガンダ 広告・政治宣伝のからくりを見抜く』
プロパガンダ
広告・政治宣伝のからくりを見抜く
アンソニー・プラトカニス エリオット・アロンソン
単行本で333ページという分量、3,456円というそこそこする価格、そしてこの愛想のないタイトルと表紙。
政治・軍事的なプロパガンダを研究した学術的な本かと思いきや、意外とソフトな内容で、マーケティング的な内容が大半。後半は宗教団体やナチスの話も少し出てくるけど。
「さあ読むぞ!」と気合いを入れて読みはじめたので(難解な本に取りかかるのには気合いがいる)肩透かしを食らった。
時代劇の撮影に使う発泡スチロール製の岩を持ち上げたときの気分。
もっとも、こっちが勝手に想像していた内容とちがうというだけで中身はおもしろい。
心理学、マーケティングの知見がふんだんに載っている。
ぼくはWEBマーケティングの仕事をしているので、いくつかは参考になった。経費で買っとけば良かったぜ。
いちばん印象に残ったのは、サブリミナル効果の話。
”映画の合間に一秒未満の短いカットでコーラとポップコーンの映像をさしこんだら、その後コーラとポップコーンの売上が爆発的に伸びた”という話を聞いたことない?
ぼくもずっと昔にこの話を聞いて「へえ。サブリミナル効果ってすごいなー」と思っていた。
ところがこのエピソード、まったくのでたらめなんだって。これを広めた人も「あれは嘘だった」と認めているし、その後に同様の調査をした人もいたけど信用に足る結果は出なかったらしい。
完全にだまされてた……。すごくもっともらしい話だ。サブリミナル効果以上に人に影響を与えた嘘かもしれんね。
フェイクニュースがなくならないどころか増える一方なのは、それが効果があるからなのだろう。さっき書いたサブリミナル効果の話も、いまだ真実として語られているし。
少し前に「〇〇に募金するとそのお金が北朝鮮に行く」というデマをツイートした人がいて、それがあっという間に拡散されていた。デマツイート自体は一日で六万回リツイートされたらしい(閲覧されたのはその数百倍だろう)。
このデマの発信者は後日訂正していたが、訂正するツイートはほとんどリツイートされていない。デマのほうしか見ずにいまだに信じている人もいることだろう。
泉に毒を流すのはかんたんでも、泉から毒を取り除くのはほとんど不可能だ。通信手段の発達により、泉に毒を入れる行為がたやすくできるようになっている。
明らかなデマだけでなく、不正への関与を匂わされただけでもイメージが悪くなるのだそうだ。
事実かどうかに関係なく「〇〇が不正か!?」と書かれるだけでイメージダウンになる。さらにそれを発信したのが全国紙であってもまとめサイトであっても。
なんとも恐ろしいことだ。嘘でもなんででも、言ったもん勝ちってことだもんね。
『プロパガンダ』を読むと、人間って意外とばかなんだなあと思う。
自殺のニュースを見たら自殺が増える、内容よりもメッセージの長さのほうが重要、早口でしゃべる広告のほうが影響されやすい……。
うーん、人間ってばかだなあ(二度目)。
わかっていてもだまされるのが人間という生き物らしい。
まともな大人であれば「テレビコマーシャルには嘘・誇張が含まれてる」ってことはよく知ってるけど、じゃあ影響されないかって言ったらそんなことはなく、ちゃんとCMで見た商品は買ってしまうのだ。
ぼくは広告運用の仕事をしているけど、ふつうの人は「自分がいかに広告に引っかかっているか」を自覚していない。
広告からホームページにやってきて問い合わせをしてきた人に「広告なんか意味ないでしょ。あんなのクリックする人いないでしょ」と言われたことがあった。
こっちは苦笑するしかなかったけど、それが標準的な認識なんだろう。
「自分はコマーシャルに影響されない」と思ってる人ほど影響されちゃうんだよね。
株式会社電通『2017年 日本の広告費』によると、2017年に投じられた日本の広告費は6兆3,907億円。影響を与えないものにそんなにお金が使われるわけがないのにね。
「人間がいかにだまされやすいか」を知っておくのは大事だね。
重要なのは「自分はだまされない」と思うことではなく、「自分はだまされやすい」と知ることなんでしょう。
もっとも身震いしたのは、
「情報が過剰になると、膨大な情報を整理することができなくなり、目にした情報を感情や短略的な思考で処理してしまう」
という説明。
『プロパガンダ』の原著が発行されたのは1992年刊行。
現在は当時と比べ物にならないぐらい大量の情報があふれている。はたして、大衆は無知になっているんだろうか。じっくり考えることをやめているのだろうか。
残念ながら「そのとおり」と言わざるを得ないな……。
その他の読書感想文はこちら
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