同僚の女性が言っていた。
「わたしが前いた会社、結婚してる男の人はみんな愛人がいたんですよ」
翌日、また別の人から聞いた。
「こないだテレビでやってたんですけど、80パーセント以上の既婚男性が不倫をしたことがあるんですって」
なんてこった。
こうしちゃおれん。
恥ずかしながら、ぼくには愛人がいない。ただのひとりも。
いってみればチェリー。チェリー・ハズバンド。
知らない間に自分が『出遅れている20パーセント』に入っていたなんて。周りに流されがちな日本人のひとりとして、このムーヴメントにはぜひとも乗っておきたいところ。
お金ならある! 月に4,000円までなら出す!
今からでも遅くはない。やなせたかしが『アンパンマン』を発表したのは50歳のときだもん。
やなせ先生、勇気をありがとう!
しかし愛人ってどうやって募集するんだろう。
80パーセントの既婚男性はどうやって募集したんだろう。
街ゆく女性に「ねえ君、愛人にならない?」と声をかけるとか?
そんないかがわしいこと、人見知りのぼくにはできない。
どっかに求人広告を載せるのかな。
リクルートあたりが愛人情報専門のフリーペーパーとか出して駅に置いてそうだな。
それともあれかな。
『Oggi』『25ans』みたいな満たされない女が読んでそうな雑誌にそういうコーナーがあるのかな。ぼくが知らないだけで。
誰か、愛人を紹介してくれる人を紹介してください!
2016年2月2日火曜日
【エッセイ】オール・フォア・お茶漬け
予兆はいくつもあった。
周囲の居酒屋がどこも満席なのにその店だけ空いていたし、さほど客が多いわけでもないのにおしぼりを持ってくるのがやけに遅かったし、やっと現れた店員はものすごく愛想が悪くて化粧の濃いねえちゃんだったし。
「なんかこの店やばそうだな」
ぼくと友人はひそひそと話した。
しかし席に着いてしまった以上は注文せずに店を出るわけにはいかない。それに腹もへっている。
「一杯だけ飲んで、次の店に行こうか」
ということで我々は、ビールを一杯ずつとフライドポテトとお茶漬けを頼んだ。
最小限のつまみと、ふつうは締めに頼むお茶漬けをいきなり注文するという、早期撤退ムードを全面に出したオーダーだ。
これなら大丈夫だろうと我々は思った。
この注文なら、どんな店だろうとまちがいない。
ところが。
ときに現実は、想像をはるかに凌いでくるものだと我々は思い知らされた。
まずビールがぬるかった。
まあこれぐらいは想像の範囲内だ。
付き出しの枝豆が、冷凍していたのだろう、水っぽい。
これもたまにあることだ。
次に、フライドポテトがしょっぱすぎた。
このへんで「思っていた以上にやばい店だな……」と、ぼくらはささやきあっていた。
「冷凍食品をレンジでチンしただけでももっとおいしいけどな」
いつもならなんでもうまいうまいと云って食べる友人が、首をかしげた。
そして。
お茶漬けがまずかった。
ぼくは、腹立たしさを通りこして、思わず笑ってしまった。
ちょっとした感動さえおぼえた。
だって。だって。
お茶漬けがまずいんだよ?
みなさんに訊きたい。
みなさんは生まれてこのかた「まずいお茶漬け」を食べたことありますか!?
ないでしょう?
そうでしょう。そりゃそうでしょう。
だってお茶漬けだもの。
ご飯にお茶をかけるだけだもの。
ご飯はあったかくてもいいし、冷えててもそれはそれでうまい。
かけるお茶だって、熱くてもぬるくても成立する。
それがお茶漬けという料理だ。
まずくなりようがない。
失敗のしようがない(せいぜいお茶をこぼすぐらいだ)。
ところが。
ぼくらが食べたお茶漬けはまずかったのだ。
奇跡としか言いようがない。
勝手にわさびはお茶に溶かれてるし、しかもわさび多すぎだし、お茶っ葉がぷかぷか浮いてるし、ご飯は芯が残ってるし、お茶はこぼれてるし(失敗の基本もちゃんと押さえてる)、ふた口と食べられるような代物ではなかった。
お茶漬けのすべての要素が、失敗という目標に向かって一丸となっている。
すごい。
ワンフォアオール、オールフォアワン。
ノーサイド(お茶とわさびの垣根がなさすぎるという意味で)。
現代技術の粋を集めてまずいお茶漬けを作りました、というようなハイスペックなまずいお茶漬けなのだ。
日本の技術って、もうこんなところまで進んでいたのか……!
2016年1月31日日曜日
【エッセイ】ぼくのHong Kong
小学三年生のとき、家族で香港旅行に行った。
香港がイギリスから中国に返還されたのが1997年。ぼくが訪れたのは香港返還の少し前、まだイギリスの租借地だった時代だ。
(ところで「香港」は英語で「Hong Kong」だから、「香港返還」は「Hong Kong Heng Kang」だ)
住んでいるのはアジア人でありながら統治はイギリス。あくまで租借地なので植民地ともまたちがい、中国とイギリスの文化が入りまじった独特の雰囲気があり、たいへんおもしろかった。
……のだろうけど、当時8歳だったぼくにはそんなことまったくわからなかった。なにしろ日本国内さえろくに旅行したこともないのだ。香港の文化が独特かどうかなんてわかるわけがない。
覚えているのは、旅行中ずっと雨が降っていたこと、泥棒市と呼ばれる市場で折り畳み式のはさみと、折り畳み式の時計を買ってもらったこと(香港人は折り畳むのが好きなのだろう)、そして満漢全席を食べたことだ。
満漢全席とは。
Wikipediaによると、
だ、そうだ。
さすがにぼくが食べたのは数日かけて食べるようなものではなかったが、それでも30以上の料理が順に出てくるコースだった。
電子レンジが古くなって、10分稼働させないとごはん一杯をあたためられなくなってもまだ買い替えず、ついにはお茶を温めながらぼかんという音を立てて大量の真っ黒い煙を噴きだすという、20人以上から一斉に刺されて死んだカエサルに匹敵するぐらいの壮絶な最期を遂げるまでボロい電子レンジを使いつづけた我が家からすると、一家心中前夜かと思うほどの贅沢だった。
まずはじめにフカヒレスープが出てきた。
フカヒレスープを食べるのは生まれてはじめて。
一口すすって、驚いた。
世の中にこんなにうまいスープがあったなんて。
スープといえば、家で出てくる具だくさんすぎて豚汁みたいになってるコーンとかぼちゃとにんじんのポタージュか、給食で出されるねじで出汁とってんのかってぐらい機械油くさいワカメスープしか飲んだことのなかったぼくにとって、はじめて口にするフカヒレスープは衝撃的なお味だった。
ものすごくうまかったフカヒレスープだが、そのときのぼくは半分ほどしか飲まなかった。
なぜなら、両親からこう言われていたから。「30種も料理が出てくるコースだから、全部食べてたら途中でおなかいっぱいになっちゃうよ」と。
なるほど。
30種のコースの最初に出てくるスープなど、しょせんは序ノ口。この後、二段目、三段目、十両、前頭、小結、関脇、大関、横綱、親方と徐々に手強い相手が出てくるにちがいない。
ぼくはさらなる美味に備えるため、フカヒレスープには半分しか手をつけなかった。
そして。
その後に出てきた料理は、ことごとく口にあわなかった。
子どもの味覚は保守的だ。食べなれた味を好み、珍しいものはあまり食べようとしない。動物の本能が濃く残っているのかもしれない。
そんな味覚保守党の8歳のぼくの口には、外国の料理などもちろんまったくあわなかった。
これはおいしくない。
これは辛すぎて食べられない。
これは風味にクセがありすぎる。
次から次へと出てくる料理を次から次へと残す。
さっき残したフカヒレスープをまた飲みたいと思うが、コースだからとっくに皿は下げられたあとだ。
こうして、途中でおなかいっぱいになるどころか最後までおなかに余裕を残したまま、ぼくの満漢全席デビュー戦は終わった(そしていまだに再戦を果たしていない)。
あれから二十余年。
今ではぼくも毎日おやつ代わりにフカヒレをかじれるぐらいの収入を手にするようになったが(サメ絶滅するわ!)、あのときの味を超えるフカヒレスープにはいまだに出会っていない。
やはりあのとき、後のことなど考えずにフカヒレスープを飲みほしておくべきだったと、今でもZang Nengでならない。
2016年1月30日土曜日
【読書感想】Newton別冊 『統計と確率 ケーススタディ30』
Newton別冊『統計と確率 ケーススタディ30』
統計の本は何冊か読んだけど、入門書としてはこの本が優れているように思う。
正規分布や標準偏差といった基本中の基本から、疑似相関や標本誤差といった陥りがちな失敗例まで取り上げている。
株価の変動、新薬の開発、スポーツの八百長調査、生命保険の掛け金の決め方、世論調査、ギャンブルで理論的に儲ける方法、迷惑メールの振り分け方、DNA鑑定が間違う確率など、社会のあらゆる分野で統計と確率は根幹を支えている。
この本では、ケーススタディというだけあって、それらをひとつひとつ、事例と図と数式で懇切丁寧に説明している。
統計を専門的に学ぼうという人よりも、むしろ数学も統計も苦手という人に読んでもらいたい。
なにしろ、さっきも書いたようにこの社会のありとあらゆるところで統計と確率は使われている。
ということは裏を返せば、統計と確率を知らなければ、さまざまな局面で不利益を被るということなのだから。
この本の中で紹介されている「疑似相関」について紹介。
上の文章は、すべて間違ってはいないが、誤解を招く内容になっている。どこが問題か、わかるだろうか?
これらはすべて疑似相関で、因果関係があるように見えるのは以下の理由によるものだ。
1)年収が高いのは体重のためではなく、男性は年齢を重ねると体重が増える傾向にあり、年齢が高いほど年収も増えるので、因果関係があるように見える。
2)男性には人差し指が短い人が多く、男性には理系が多い。
3)図書館が作られるのは人口が多い街で、人口が多い街ほど犯罪の検挙数も多い。
わからなかった方は、統計にだまされないようにご注意を。
テレビで伝えられている統計なんか、こんなのばっかりですよ。
2016年1月28日木曜日
【読書感想文】橘 玲 『「読まなくてもいい本」の読書案内 ー知の最前線を5日間で探検するー』
橘 玲『「読まなくてもいい本」の読書案内 ー知の最前線を5日間で探検するー』
あとがきで橘玲氏がこう書いている。
この本の主張はほとんどこれに要約されている。
ぼくが大学時代、一般教養の授業で「囚人のジレンマ」に代表されるゲーム理論や、マルクス経済学や、フロイトやユングなんかを学んだ。講義で指定されているテキストは何十年も前に発刊されたものだった。
コンピュータの世界だと、十年前のテキストなんか何の役にも立たない。
ところが経済学や心理学の世界では、へたしたら百年前の理論が幅をきかせていたりする。あれだけ多くの人が研究しているのに、何の進歩もないのか?
まさか。
もちろん古いものが役に立たないわけではない。ダーウィンの進化論は(誤りもあるにせよ)大枠のところでは今でもさまざまな進化論の土台になっている。
だが、この本では、こんな例を説明している。
役に立たないならまだしも、誤解を生むだけのまちがった理論がずっと教育の現場では栄えつづけていたりする。
ぼくが中学校のときの教科書には「原子はそれ以上細かく分けることができない。ある原子から新たにべつの原子をつくることもできない」と書いてあったが、もちろんこれは真っ赤な嘘だ(たぶん今の教科書にも書いてあると思う)。
古い教科書で学んだ人が教師になり、自分が教わったことをそのまま次の世代にも教える。教科書を作っている人も今の研究なんか学んでいないから、何十年たっても何も変わらない。
新しいことをやっている人は学生に教えている時間がないし、教えている人は新しいことを学ぶ時間がない。
ぼくは、学生のときにリチャード・ドーキンスの『利己的な遺伝子』と池谷裕二の『進化しすぎた脳』を読んで、めまいがするほどの衝撃を受けた。
新しい知見を得て、学校で習ってきたことはなんだったんだ! と叫びたくなった(ドーキンスはそのときでもすでに生物学の世界では古典だったけど)。
「人はなぜ生きるのか」という問いに対する答えは、科学の世界ではとっくに明らかになっている。「遺伝子を残すため」が答えであり、脳はそのために設計されているから、人の行動はそれで説明がつく。もっと早く教えてほしかった。
以下、再び『「読まなくてもいい本」の読書案内』より引用。
ぼくもやはりAとDを選んだ。
シンプルだが、明快で力強い考え方ではないだろうか。
こういうことを知らずにミクロ経済学を論じた本をいくら読んでも無駄だとわかるだろう。
はたまた、「正義」についての脳の研究。
人間が善行をするのも罪を犯すのも、すべては「脳が遺伝子を残すための設計になっているため」だ。
ほどほどに正義感を持ち、ほどほどに悪いことをする人間が遺伝子を残す上で有利であったため、そういう人間だけの世の中になった。
すべては遺伝子を残すための戦略だ。
その事実を知っているかどうかで、ものの見え方はまったくちがう。
「ゴミの排出を減らすには」「臓器提供者の割合を増やすには」「脱税をさせなくするには」といった問題に対する進化行動学からの見事な解答も、この本では紹介されている。
最新の脳研究については、医学や薬学だけでなく、哲学や倫理学、心理学、経済学、政治学、法学、教育学なと、あらゆる学問に携わる人間が知っておくべきことだ。
古くて役に立たない考え方がわかるようになるし、なにより、新しい見方で世界をとらえられるようになるのはおもしろいことだから。
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