2019年9月30日月曜日

【読書感想文】我々は万物の霊長にしがみつく / 吉川 浩満『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』

人間の解剖はサルの解剖のための鍵である

吉川 浩満

内容(e-honより)
人工知能、ゲノム編集、ナッジ、認知バイアス、人新世、利己的遺伝子…従来の人間観がくつがえされるポストヒューマン状況の調査報告。

タイトルだけで「これはおもしろそう!」とおもって買ってしまったので解剖学の本だとおもっていたのだが、ぜんぜんちがった。
人工知能、倫理学、行動経済学といった今流行りのキーワードを軸に「人間とは何か」「今後人間はどうなっていくのか」「あるいは人間は万物の霊長ではなくなるのか」などについて書いている本だった。

後半にいたってはいろんな雑誌に書いた文章や本の解説などが並んでいて、「雑多なテーマの文章を寄せ集めてなんとか一冊な本にしました」という感じがすごい。
ファンなら楽しく読めるのかもしれないけど……。
この内容なら、こんなおもしろそうなタイトルをつけずに「吉川浩満エッセイ集」みたいなタイトルにしてほしかったな。だまされた気分。



「人間の解剖はサルの解剖のための鍵である」という言葉は著者がつくったものではなく、カール・マルクスの言葉から来ているそうだ。
「カール・マルクスが『資本論』の草稿に書きつけた言葉に、「人間の解剖は、猿の解剖のための一つの鍵である」というものがあります。これはちょっと逆説的に響きます。普通に考えたら人間のほうが「高級」なんだから、逆ならまだしも、なんでわざわざ低級なものを理解する必要があるのかと思うかもしれません。この言葉はマルクスの歴史観を見事に表していて、深い含番があります。たとえば、猿のグルーミング(毛づくろい)には、順位制の維持や紛争の調停といった社会的コミュニケーションの機能があるといわれています。それを私たちが理解できるのは、私たちがすでにコミュニケーションにかんする高度な理論と実践を身につけているからです。マルクスはこう続けます。「より低級な動物種類にあるより高級なものへの予兆は、このより高級なもの自体がすでに知られているばあいにだけ、理解することができる」と。それと同じで、二〇世紀後半以降の学問上の認知革命を経たいまだからこそ、私たちは七万年前に起きた歴史上の認知革命の重大性をよりよく理解できるようになった。
なるほどね。われわれは動物の行動を見て「あれは求愛行動だ」とか「敵を威嚇している」とか理解することができるけど、それは人間の行動様式の中に求愛や威嚇があるからだ。
たとえばカマキリのメスは交尾の後にオスの頭を食べちゃうことがあるけど、人間はふつうそんなことしないので、カマキリの行動を観察して「ひょっとしたらこんな気持ちかも」と想像することはできても真に理解することはできない。

ぼくらは下等な生物を研究することで人間のような高等な生物を理解できるとおもっているけど、実は逆なのだ(そもそもその下等とか高等って考え自体が進化論的にまったく正しくないのだけれど)。



ポスト・ヒューマン、つまり我々の次に出現する知的生命体についてのくだりはおもしろかった。
 では、私はなにを望みたいのか。夢のような話ではありますが、まずはわれわれサピエンス自身が他者や他種にたいして節度と寛容さをもって接することができる存在になれないものかと思います。本書でも再三注意がうながされているように、実際に食物連鎖の頂点に君臨しているのですから、ノブレス・オブリージュ的な責任と義務は避けられないのではないでしょうか。つまり、幸福になるだけでなく、幸福になるに値する存在になることをも追求する。少なくとも後者について生物種としてのサピエンスの成績はこれまでのところ不合格ですよね。あるいは、そうでなければいっそのこと人間のちっぽけなプライドや偏見とは隔絶した存在に登場してほしいですね。そういうプライドや偏見は人間がもつ面白味ではありますが、それを他種や新種にまで無理強いする必要はないでしょう。すでに存在する掃除機やドローンなども人間のプライドや偏見から自由な存在でしょうが、しかし彼らには汎用的な能力が決定的に足りません。もし、ニーチェの超人のように高貴で自律的で、あわよくばノブレス・オブリージュを期待できるような存在が出現するならば、私たち旧世代の人間が結果として置いてけぼりを食らわされたり、場合によっては追い払われるようなことになったとしても、これまで人間がなしてきた悪行を思えば、それはもう、もって瞑すべしではないかと思います。ただ、そうした存在がどのような望みをもつことになるのか、あるいはそもそもなにかを望むなんてことがあるのかどうか、そのとき欲望の問題はどうなるのか等々、新たな疑問もわいてくるのですが。

もしも人間よりももっと高度な知性を持ったモノが生まれたら(モノと書いたのはそれが生物ではない可能性も十分高いからだ)。

著者は
「私たち旧世代の人間が結果として置いてけぼりを食らわされたり、場合によっては追い払われるようなことになったとしても、これまで人間がなしてきた悪行を思えば、それはもう、もって瞑すべしではないかと思います」
とクールに書いているけど、こうおもえる人は少数派だろうね。

多くの旧世代の人間(つまり我々)は、意地汚く万物の霊長の座にしがみつこうとするだろう。今も「AIに仕事をとってかわられる!」と見苦しくあがいているし。

こうした世代交代はずっとくりひろげられてきた。
古くはホモ・サピエンスが旧人類にとってかわった。
最近でいうと石炭エネルギーが石油に代わったり電卓がコンピュータにとってかわられたりして、そのたびに仕事を奪われる人がいた。権利を守るための反対運動もあったが、結局は無駄だった。
世代交代が終わってみれば「便利なもの、よりよいものに代わるのは避けられないのに、旧いものにしがみついてかわいそうな人」としかおもえないが、いざ自分が「とってかわられる側」になるとなかなか「じゃあ私は退場して新しい人にさっさと道を譲りますわ」とは言えないものだ。

ネタバレになるが、貴志祐介『新世界より』は現人類が滅びた後の世界を描いた小説だ。
その世界では旧人類(つまり今の我々)は新人類に虐げられながら、それでも虎視眈々と反撃のチャンスを窺っている。

じっさいの人間はこっちのほうが近いだろう、とおもう。
「これまで人間がなしてきた悪行を思えば、それはもう、もって瞑すべしではないか」なんて言えずに、「やだやだやだ! 人間が万物の霊長じゃない世界なんてぜったいやだ!!」とじたばたするんだろうな、と。


考えてみればどうせ自分はあと数十年以内に死ぬのだからその先の人類が虐げられようと滅びようと関係ないんだけど、でもやっぱり子孫繁栄してほしい、という心情は捨てられないんだよなあ。
しょせん人間なんて遺伝子の乗り物(by リチャード・ドーキンス)なんで。

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貴志 祐介 『新世界より』



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2019年9月26日木曜日

睾丸が痛すぎて救急車に乗った話


あいてててて。
起きて着替えていたら、突然下半身に痛みが走った。
すごく痛い。
どこが痛いのかというと、精巣。
まあわかりやすくいうと睾丸ですね。もっとわかりやすくいうとキンタマ。

虫に刺されたような鋭い痛みじゃなくて、鈍くて重たい痛み。
野球のボールが睾丸にあたって悶絶したことある人ならわかるとおもうんですけど、あの痛みをちょっと弱くしたやつがずっと続いてる感じです。

なんだなんだとおもって股間を触ってみたらとんでもなく痛い。右の睾丸だけがめちゃくちゃ痛い。
ぬわあああぁと悶絶して、目まいまでしたのでリビングで横になった。

妻が「どうしたの?」と訊くので、恥ずかしながら「なんかすごく痛くなった……。あの、えっと、いわゆる精巣というか睾丸というか……」と説明。

横になったままあわててスマホを開いて「睾丸 痛い」で検索したら、"精巣捻転" という病気の説明が見つかった。
なにかのきっかけで精巣がねじれてしまう病気だそうで(おそろしいことに寝ているだけでなったりするそうだ)、「6時間以内に治療しないと血流が止まって壊死します」ととんでもないことが書いてある。

え、え、壊死!?

まじかよやべえよ宦官じゃん。
ぼくはもう子どもが二人いて今のところこれ以上つくる予定はないのでもう睾丸がなくてもむしろ悩みの種が減っていいのかもしれないけど、そうはいってもちんちんが壊死してしまうのはイヤだ。
だってこわいもん。

間の悪いことに3連休の中日。ふつうの病院はやってない。
しかたない、救急車を呼ぶことに。
痛み自体は耐えられないほどではないが「6時間で壊死」の恐怖で頭の中がいっぱいになって、一秒でも早くとしか考えられない。
脳内で、ドラマ『24』みたいに6時間後のタイムリミットに向けて時が刻まれていく。

119に電話をして「すみません、急に精巣に激痛が……」と説明したのに、「え? どこが痛いとおっしゃいました?」と聞き返されてしまった。羞恥プレイかよ。「あの、いわゆる睾丸というかキンタマというか……」ともごもごと説明してようやく伝わる。

まもなく救急隊員がやってきた。
隊員から「ヘルニアかな」と言われておもいだす。
そういえば2日前から腰がすごく痛かった。
ヘルニアだったらいいな。や、ヘルニアもたいへんなんだろうけど、そうはいってもちんちんが壊死する病気よりはマシだろう。
「そういえば関係あるかどうかわかりませんけど、2日前から腰が痛かったです」と説明する。
腰が痛いことなど、完全に忘れていた。睾丸の痛みの前には腰痛など蚊に刺されたぐらいの痛みでしかない。気づいたら腰の痛みはふっとんでいた。

寝てくださいと言われるが、寝ると痛いので付き添い者用の椅子に座って泌尿器科のある救急病院へ向かう。右睾丸が圧迫されると痛いので、左尻だけを椅子につけた変な格好で。
救急車があってよかった、と心からおもう。
救急隊員に感謝。救急車のために道をあけてくれるドライバーたちにも感謝。森羅万象に感謝をしているうちに病院に到着。
救急隊員に何度もお礼を告げる。

看護師さんに病状を説明したのだが、そこからとんでもなく待たされる。
どうやらぼくの痛みは大したことなさそう、と判断されたらしい。ほかの患者が次々に診察室に呼ばれてゆく。
いやたしかに痛みは大したことないんだけど、ちんちんが壊死するかもしれないですよ、制限時間は6時間しかないんですよ、看護師さんには睾丸がないんでこの恐怖がわからないでしょうけどね、と叫んで暴れたくなる。
しかしぼくのような患者を想定しているのか、待合室の壁には「大声を上げたり暴行を振るったりセクハラ行為をする方に対しては医療行為をお断りする場合があります」と注意書きが貼りだされている。
「ちんちんが!」と叫びながら暴れたら、[大声] [暴行] [セクハラ]のスリーアウトで即チェンジだ。
仕方なく、左尻だけを椅子につけた変な格好で待ちつづける。


1時間半待たされてようやく診察室へ呼ばれた。
待っていたのはずいぶん若い男性医師。まだ二十代半ばぐらい。名札を見ると研修医と書いてある。
救急外来なのでしかたないんだけど、大丈夫か、研修医におれの睾丸が救えるのかと不安になる。

まず問診。
精巣が痛いんです、と説明。
「なにかぶつかったりとかしました?」と訊かれて「いいえ」と返答。
すると医師は「あのたいへん申し訳ないんですが……」と口をにごす。
ん? なんだなんだ、もう手遅れだとか言いだすんじゃないだろうな、まだ診てもいないのに!
とおもっていたら、研修医くん、「あのぅ……、最近、性交渉とかは……」と恥ずかしそうに言う。

おーい!
おまえが照れんなや!
性器が痛いって言ってるんだから性病を疑うのも当然のこと。こっちだって三十年以上生きてるおっさんなんだからそんなことわかっとる!
だから堂々と訊いてくれ! 照れるな! 「申し訳ないんですが」とか言うな!
事務的に「最近性交渉はしましたか」と訊いてくれ。ぼくのことは人の心を持たない機械として扱ってくれ。

その後も研修医くんは「あの、えー、風俗とかは……行かれてないです、よね……?」などと照れながら質問してくる。
こっちも恥ずかしくなって「あっ、はい、ないです、ほんとに……」と照れながら答えてしまう(ほんとにないからね!)。

「じゃあ、えー、横になってズボンを下ろしてもらっていいですか……」とやはり緊張しながら研修医くんが言う。初体験かよ。
やべえ、恥ずかしい。
しかもよく見たらこの研修医くん、なかなかのイケメンじゃないか。なんだかいけないことをするようでドキドキする。

で、研修医くんにいろいろ診られて触られた。しかも「おずおず」という感じですごく優しく触るものだから、おもわず「もっと乱暴に扱ってください! ぼくのことは人体模型だとおもってください!」と言いたくなった。

いろいろ調べた研修医くん、「たしかにちょっと腫れてますね……」と言っただけで、あとはなんにも説明してくれない。

ははーん、さてはおまえ、ちっともわかってないな?

「ではまた待合室でお待ちください」と言われる。
おいおい、こっちは壊死がかかってるんだぞ、しかももう痛みだしてから2時間半はたってるからあと3時間ちょっとしか猶予はないんだぞ。
とおもうが、気がつくとほんのちょっとだけ痛みがマシになっているような気がする。少なくとも痛みは増してない。
血流が止まって壊死するならきっと痛みはこんなもんじゃないだろう。ってことは精巣捻転じゃないのかな。

30分ほど待っていると、また診察室に呼ばれた。
現れたのは60歳を過ぎているであろうおじいちゃん先生。おお、頼もしい。ギターと医者は古いほうがいい。

ベテラン医師、問診をしながら「女遊びとかしてない?」と訊いてくる。
そうそう、これだよ。このデリカシーのなさ! これを求めてたんだよ! 変に気を遣わないのがすごくありがたい! このデリカシーのなさを見習え研修医!

さすがはベテラン医師、触診も乱暴だった。
「右の睾丸が触るとすごく痛いんです」と言うと、「これは痛いね?」と言いながらぎゅっと触ってくる。さすがだ。研修医くんの童貞のような手つきとはまったくちがう。
しかし痛すぎる! そんなに睾丸握られたら平常時でも痛いぞ!

で、超音波検査や血液検査などをされた結果、「どうも精巣上体炎じゃないか」ということになった。
ぼくがおそれていた精巣捻転ではないとのことなのでとりあえず一安心。
精巣上体炎というのはばい菌が入ることでなるものらしいが、ほんとに心当たりがない。
かっこつけてるわけじゃなく、ほんとに。女遊びもしてないし昨年子どもが生まれてから妻ともセックスレスだし。

でも、医師によると「すごく力んだりすると尿が逆流して雑菌が入りこむことがある」のだそうだ。
あっ、そういえば2日前から腰が痛い! 立ったり座ったりするたびに腰に激痛が走るのでめちゃくちゃ力んでいた!

原因もわかって一安心。
薬を飲んでいたら少しずつ痛みも引いてきた。

それから二日以上たった今でも壊死する気配はないので、精巣捻転ではなさそうだ。でも「じつは内側が壊死してて突然ぽとりと落ちたらどうしよう」という恐怖は少しある。


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2019年9月24日火曜日

【読書感想文】役に立たないからおもしろい / 郡司 芽久『キリン解剖記』

キリン解剖記

郡司 芽久

内容(ナツメ社ホームページより)
長い首を器用に操るキリンの不思議に、解剖学で迫る!「キリンの首の骨や筋肉ってどうなっているの?」「他の動物との違いや共通点は?」「そもそも、解剖ってどうやるの?」「何のために研究を続けるの?」etc. 10年で約30頭のキリンを解剖してきた研究者による、出会い、学び、発見の物語。

世界で一番多くキリンを解剖したんじゃないか、と自負する若きキリン研究者(1989年生まれだそうだ)が、「キリンの8番目の首の骨」を発見するまでの話。

 これまでの研究では、肋骨が接しておらず動きの自由度が高い頸椎だけが、首の運動に関係していると考えられてきた。しかしキリンでは、筋肉や骨格の構造が変化することで、本来ほとんど動かないはずの第一胸椎が高い可動性を獲得したのだ。
 キリンの第一胸椎は、決して頸椎ではない。肋骨があるので、定義上はあくまで胸椎だ。けれども高い可動性をもち、首の運動の支点として機能している。キリンの第一胸椎は、胸椎ではあるが、機能的には「8番目の“首の骨”」なのだ。

哺乳類の首の骨は基本的に7本だ。
キリンのように首の長い動物でもそれは例外でない。子どもの頃、本で「キリンもブタも骨の数は一緒」と読んで「へえ」とおもいつつも「ほんまかいな」とちょっと疑わしくおもったのをおぼえている。
だってあんなに首が長いのに7本で足りるの?

この本の著者である郡司芽久さんはキリンの解剖を重ねるうちに、胸骨のひとつが首の骨のはたらきをしていることに気づいたのだそうだ。
なので「首の骨は7本」というのは間違いではないのだけれど、首の骨じゃないところが首の骨の代わりをしているから「分類的には7本だけど機能的には8本」ということらしい。

しかしキリンの解剖をした人は古今東西たくさんいる。
どうして誰もそのことに気が付かなかったのか。
 第一胸椎が動くかを確認するには、実際に遺体の首を人力で動かして骨の動きを確認してみるのが一番だ。けれども、大人のキリンの首は強力な項靭帯で引っ張られているため、私1人の力で動かすのは不可能だ。おそらく2、3人がかりでも難しいだろう。とはいえ、筋肉や靭帯を全て取り外してしまったら、本来の可動性からはかけ離れてしまう。
 そこで目をつけたのが、キリンの赤ちゃんだ。赤ちゃんならば、項靱帯はあまり発達していないだろうし、私でも首を動かしてみることができるに違いない。
 しかも、キリンの赤ちゃんの遺体には当てがあった。

キリンは首が長いので、解剖室へ運ぶ前に身体をばらばらにする。
長すぎてトラックに積みこめないから。
で、ふつうは首と胴体をばらして運ぶ。だから「胸の骨が首を動かすはたらきをしている」ことに誰も気づかなかったのだ。

きっと、小型動物であればもっと早く誰かが気づいたのだろう。
身体を切り離さずに解剖できるし、生きたままレントゲンやCTスキャンを撮ることもできたかもしれない(よう知らんけど)。

でもキリンは首が長いからこそ、誰も気が付かなかった。
なるほどー。このへんの謎解きはミステリ小説を読んでいるようでおもしろかった。

郡司さんがそこに気づいて「次にキリンが死んだら首と胴体を切り離さずに運んできてください」と動物園にお願いしたり「キリンの赤ちゃんを解剖する」という発想にいたったのは、やっぱり誰よりも多くキリンを解剖してきたからなんだろうね。さすがだなー。


「で、それがわかったところで何の役に立つの?」と訊かれたら困ってしまうけど(たぶん何の役にも立たないんだろう)、でも何の役にも立たたないからこそのおもしろさ、ってのはあるんだよな。わかんない人には永遠にわかんないだろうけど。


ということで、読んだところでたぶん人生において役立つことはないであろう本だけど、内容はおもしろかった。
ただ、文章はちょっと遊びがないというか、無駄がない気がして、なんだか窮屈な感じがしたな。若いからこそなんだろう。
きっとこの人は歳を重ねてきたら、川上和人さんの『鳥類学者 無謀にも恐竜を語る』みたいに学術的にも文章的にもめっぽうおもしろいものを書く人になるような気がする。

そうなるよう、今後もキリンの本をたくさん書いてほしいな。


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2019年9月20日金曜日

【読書感想文】暦をつくる! / 冲方 丁『天地明察』

天地明察

冲方 丁

内容(e-honより)
徳川四代将軍家綱の治世、ある「プロジェクト」が立ちあがる。即ち、日本独自の暦を作り上げること。当時使われていた暦・宣明暦は正確さを失い、ずれが生じ始めていた。改暦の実行者として選ばれたのは渋川春海。碁打ちの名門に生まれた春海は己の境遇に飽き、算術に生き甲斐を見出していた。彼と「天」との壮絶な勝負が今、幕開く―。日本文化を変えた大計画をみずみずしくも重厚に描いた傑作時代小説。第7回本屋大賞受賞作。

いやあ、すごいなあ。
「算術」「天体観測」「改暦」といった、小説としては地味なテーマを描いているのに、こんなにおもしろくなるんだから。

冲方丁さんはSF作家で、時代小説はこれがはじめての作品だそうだ。
以前に「時代小説はファンタジーだ」という持論を書いたけど(【読書感想文】時代小説=ラノベ? / 山本 周五郎『あんちゃん』)、この主張を裏づけてくれるかのようなSF作家の時代小説。
「星はときに人を惑わせるものとされますが、それは、人が天の定石を誤って受け取るからです。正しく天の定石をつかめば、天理暦法いずれも誤謬無く人の手の内となり、ひいては、天地明察となりましょう」
 自然と、いつか聞いたその言葉が口をついて出た。あの北極出地の事業で、子供のように星空を見上げる建部と伊藤の背が思い出され、我知らず、目頭が熱くなった。
「天地明察か。良い言葉だ」
 正之が微笑んだ。先ほどの殺伐とした枯淡さはなく、穏やかで、ひどく嬉しげだった。そしてその微笑みのまま呟くように言った。
「人が正しき術理をもって、天を知り、天意を知り、もって天下の御政道となす……武家の手で、それが叶えられぬものか。そんなことを考えておってな」
 半ば盲いた正之の目が、そのとき真っ直ぐに春海を見据え、
「どうかな、算哲、そなた、その授時暦を作りし三人の才人に肩を並べ、この国に正しき天理をもたらしてはくれぬか」
 それが三度目の、そして正真正銘の落雷となって、春海の心身を痺れる思いで満たした。
「改暦の儀......でございますか」
 すなわち八百年にわたる伝統に、死罪を申し渡せということだった。

「新しい暦を作る」と言われても現代人にはぴんとこない。ぼくらは生まれたときからずっと同じ暦(グレゴリオ暦)を使いつづけているのだから。
「暦を変えたらカレンダー屋さんや手帳を作っている出版社はたいへんだろうな」とおもうぐらいだ。
しかしこれがとんでもないことなのだ。

当時の日本では八百年にもわたって宣明暦という暦が使われていた。
しかし当初の計算が正確ではなかったため、八百年も使いつづけているうちに実際の天体の動きとの間に二日間のずれが生じてしまったのだ(九世紀に作られた暦が八百年で二日しかずれなかったってのもすごいけど)。

そこで、主人公である渋川春海がより正確な暦をつくることを命じられ、数学や天文学などを駆使して新暦を作りつつも朝廷らとの政治争いにも巻き込まれ……。

と、ストーリーを説明してもこれがスリリングな展開になるということがなかなか伝わらないだろうなあ。
うーん、申し訳ないけど一度読んでみてというほかない。



しかし暦をつくるのってたいへんなんだなあ。
あたりまえのように使っている暦だけど、天体の動きを表したものであり、人々の生活の土台であり、統治者の威光を示すものであり、未来を予測するためのものなんだもんなあ。
 膨大な数の天測の数値を手に入れ、何百年という期間にわたる暦註を検証した結果、太陽と月の動きが判明したのである。
 太陽と惑星は互いに規則的に動き続けている。そのこと自体は天文家にとって自明の理である。
 だがその動き方が、実は一定ではないということを、春海は、おびただしい天測結果から導き出したのだった。
 太陽は、地球に最も近づくとき、最も速く動く。逆に最も遠ざかるときには、最も遅く動いているのである。これは、厳密に秋分から春分までを数えるとおよそ百七十九日弱なのに対し、春分から秋分までは、およそ百八十六日余であることから、明らかになっていた。
 後世、″ケプラーの法則″と呼ばれるものに近い認識である。このいわば近地点通過、遠地点通過の地点もまた、徐々に移動していく。となると、その運航はどんな形になるか。
 楕円である。
「……そんな馬鹿な」
 思わず呟きが零れた。だがそれが真実だった。今の世の誰もが、星々の運行を想像するとき、揃って円を思い描く。真円である。それが、神道、仏教、儒教を問わず、ありとあらゆる常識の基礎となっている。そのはずではなかったのか。星々の運行、日の巡り、月の満ち欠けにおいて、いったい誰が、こんな、奇妙にはみ出したような湾曲した軌道を想像するというのか。
今のように優れた観測器具やコンピュータもない江戸時代に、観察と計算だけでこんなことまで明らかにしていた人がいたなんて。
ただただ感心するばかり。


そういえば、地理人(今和泉隆行)さんという人のトークイベントを聴きにいったときのこと。
地理人さんは「存在しない街の地図を精密に描く」という趣味を持っているのだが、最近はよりリアルな街の地図を描くためにプレートテクトニクスを学んでいる、と語っていた。
なぜこんな街並みなのか。それはここに川があるから。
なぜここに川があるのか。それはあそこに山があるから。
なぜあそこに山があるのか。それはプレートとプレートがぶつかって……。
ということで、地図を知るためには地球そのものについて学ぶ必要があるのだ、と。

もちろんプレートテクトニクスだけではいけない。
街がその形になったのには、いろんな原因がある。それをつかむためには歴史、文化、経済、法律、軍事、宗教、さまざまなことを知らなくてはならない。
精密な地図を書こうとおもったら、森羅万象を知らなくてはならないのだそうだ。

暦も同じなのだろう。
あらゆる方面に深い造詣を持ちながらも謙虚さを崩さない渋川春海の姿に、同性ながら惚れ惚れする。

『天地明察』には主人公の渋川春海と並んで、和算を興した関孝和という天才も出てくる。
登場シーンは少ないのだが(話題にはよくのぼる)、この天才の姿もまたかっこいい。

いやあ、江戸時代にもとんでもない天才がいたんだねえ。
なめてたよ、江戸を。すんませんでした。


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2019年9月19日木曜日

21世紀の健康診断


健康診断に行くたびにおもう。


血液を採取されて、レントゲン検査で被曝して、バリウムを排出させるために下剤を飲む。
身体にいいわけがない。

健康のために不健康なことをしている。
なにやってるんだろうという気になる。

特に診断結果が出て「異状なし」だと、余計にその思いが強くなる。
だったらやらなくてよかったじゃん。
これがもし「ガンが見つかりました。でも早期発見なので今から治療すれば治ります」だったら「健診受けといてよかったー!」とおもうはず。
健康だったらがっかりして深刻な問題があれば喜ぶ。ずいぶんおかしな話だ。

昔は瀉血といって、病気になった人の血を抜いていたらしい。
悪い血が病気の原因になっているから血を抜けば病気が治る、という考えにもとづいて。
もちろん血を抜くことは身体にダメージを与えるから具合は悪くなる。瀉血によって死ぬ人も多かったそうだ。

今われわれは病気の原因が細菌やウイルスだと知っているから、病気になっても血を抜いたりしない。
健康のために不健康なことをしていたなんて、昔の人はばかだなあ。


きっと未来人も、同じことを我々にたいしておもうのだろう。
21世紀の人は健康のために血を抜いたり食事を抜いたりバリウムを飲んだり下剤を飲んだりしてたんだって。
まじで? 越死ばかじゃん。(「越死」は「すごく」の意味の未来の言葉)

令和人って長生きしたいって言いながら塩食ってたらしいよー。千万ー。(「千万」は「ウケるー」みたいな意味の未来の言葉)

令和人って健康のためにジョギングしてたんだって。越死アホだよね。

令和人って必死こいて勉強してたんだけどね、それが21世紀物理学なんだって§§(「§§」は笑っている様子を表す記号)。


そんなふうに未来人にばかにされるんだろうな。

でもな、未来人。
これだけは言っておく。

健康診断で血を抜かれるのって、痛いし怖いし不健康だけど、でもちょっとだけ快感もあるんだぜ。
蚊に刺されたときにおもいっきりかきむしったときや自分の足のにおいをかいだときに感じるのと同じような、不快なのになぜかちょっと気持ちいい感じもほんのちょっとあるんだぜ。

自分でも越死千万だけど。


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