2019年4月26日金曜日

【短歌集】デブの発想


「これぐらい残していてもしょうがない」 デブへといざなう魔法の言葉



頼まないやつはぜったい損してる デブで良かった大盛無料



太れども太れども猶わが生活楽にならざり太い手を見る



太るほど消費カロリー増えるから 太るはむしろ痩せへの近道



鉄道のチケット大人と小人だけ 「1.5人」のチケットなくてもいいのか



「唐揚げにレモンかけてもいいですか」 なぜ我に訊く 代表者じゃない



お土産に買ったサブレが不人気で 我が身を挺して責任をとる



妊婦より重い身体を持ちあげて お腹の我が子をやさしく撫でおり



2019年4月25日木曜日

ぼくの優しさ


ぼくは毎月UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)というところに寄附をしている。月二千円だけど。

近所のお好み焼き屋さんが「こども食堂」というのをやっていて、いろんな事情で満足に家で食事をとることができない子どもたちにごはんを提供している。
店頭に「子ども食堂のためのカンパをお願いします」と書かれた募金箱があるので、行くたびに五百円ぐらい寄附している。

我ながらえらいぜ。




さて。
近所にGくんという小学三年生の男の子がいる。

どこに住んでいるのかは知らないが、近くの公園でよく会う。
娘(五歳)やその友だちと遊んでいると「ぼくも入れてー」と近寄ってくるので、「人なつっこい子だな」とおもっていた。

だが、何度かいっしょに遊んでいるうちに首をかしげたくなることが増えてきた。

Gくんが親といっしょにいるところを見たことがない。
同級生と遊んでいるわけでもない。
いつもひとりで公園に来ている。

小学三年生の男の子が、三歳下の女の子たちが遊んでいるところに「入れてー」というものだろうか。
ちょっとふつうじゃない気がする。

娘やその友だちも、はじめはいっしょに遊んでいたのだが、あからさまに嫌がるようになってきた。
「Gくんと遊びたくない」と言うようになった。

だが避けられていることも気にせず、Gくんは「入れて―」と近寄ってくる。

その場にいる大人たちが「うーん、ちっちゃい子だけで遊びたいみたいだからごめんね」と断るのだが、Gくんは「大丈夫だよ、おれ手加減してあげる」などと食い下がるので閉口してしまう。

妻に聞くと、Gくんは平日もやはり一人で公園をうろうろしているそうだ。
学童保育にも行っていない。しかし親といっしょにいるところを誰も見たことがない。



一度、ぼくと娘で買い物に行く途中で、Gくんに会った。
「どこいくの?」と訊かれて「スーパー」と答えると、Gくんも後からついてくる。
娘はGくんと目を合わせようともしない。

娘とぼくが「お菓子買って」「一個だけだよ」と話していると、Gくんが「あーお菓子かー、おれもほしいなー」と言う。
あきらかに「買ってあげるよ」と言わせたがっている。

ぼくはその意図に気づかぬふりをして「家に帰って食べたら?」と言う。
するとGくん、「誰もいないもん。おかあさんは家に来てないし」。

おかあさんが家に来てない
「家にいない」とか「帰ってきてない」だったらわかるが、「家に来てない」なんて言い方をするか?
幼い子ならまだしも、三年生だったらそんな間違いはしないだろう。つまり、おかあさんといっしょに住んでいないんじゃないだろうか。
いろいろ事情がありそうだ。

よく見ると、Gくんの靴はボロボロだ。
食うに困るほど家が貧しいわけではないのだろう、このまえ携帯ゲーム機を持って公園に来ているのを見た。

ネグレクト、という言葉が頭に浮かぶ。

年下の女の子と遊びたがる、同世代・同性の友だちといるところを見たことがない、親といるところも見たことがない、いつも一人で公園にいる、靴がボロボロ、よく知らない大人にお菓子をねだる。
ひとつひとつは大したことじゃないのかもしれないが、これだけ積み重なると心配になる。


しかしそれ以上は訊くことはしなかった。
質問してややこしい話が出てきたら困るな、とおもった。

Gくんはスーパーまでついてきたが、Gくんがお菓子売場に走っていった隙に、ぼくは娘の手を引いて隠れるように他の売場へ移動した。



どこか遠くの難民や、会ったことのない貧しい子どもには寄附をする。
でも目の前にいる、問題を抱えていそうな子どもからは目を背ける。

ぼくの「優しさ」はそんなもんだ。


2019年4月23日火曜日

五歳児の描く絵の構図


こないだ娘の保育園で発表会があった。

後日、教室の壁に園児たちの絵が飾ってあった。
それぞれが発表会の絵を描いたものらしい。

ほとんどの子の絵は、こんな構図だった。

A

舞台の上に、自分を含む園児たちがいる。
それを舞台下から保護者が観ている。

ぼくが描くとしても、こんな構図にするとおもう。

でもSくんという男の子だけ、まったくちがう構図の絵を描いていた。

B
こんなの。
手前に自分たちがいて、奥に保護者を描いている。

おおっ、と感心した。



感心した理由はふたつ。

ひとつは、Sくんが目にしたとおりの構図で絵を描いていたこと。
舞台の上にいた園児たちには、Bの光景が見えていたはず。

見えたものを見えたままに描くことは案外むずかしい。

前髪が長い人だと視界に自分の前髪が入っているが、「見えたままをそのまま描いてください」と言われても、まず自分の前髪は描かない。
無意識のうちに消してしまうのだ。

逆に、見えていないものを描いてしまうこともある。
馬を見る。自分のいる位置からは脚が三本しか見えない。
けれどその馬を描くときは、無意識のうちに見えていない脚を補完して四本脚の馬を描いてしまう。
「馬は四本脚」という常識が、見えたとおり三本脚の馬を描くことを妨げるのだ。

見たままのことを描くことはむずかしい。脳が勝手に補完修正してしまうから。

だから、見たとおりの構図で絵を描いたSくんに感心した。
子どもならではの視点かもしれない。
(とはいえSくんには見えていなかったはずの"自分"も描いているのでその点は見たままじゃないが)



ぼくが感心したもうひとつの理由は、
他の子たちが客観的な視点を持ちあわせているということ

Aの構図の絵を描こうとおもったら、「自分がどう見ているか」だけでなく「自分がどう見られているか」という意識を持たなくてはいけない。

五歳児がそんな意識を持っているとは、おもってもいなかった。
うちの娘を見ていても「常に世界は自分を中心にまわっているんだろうなあ」とおもっていたので、「他者の視点」を持っているということが驚きだった。

大人でも「他者の視点」が欠けている人は多い。

後ろから人が来ているにもかかわらず電車に乗ったところで立ちどまる人や、階段をのぼりきったところで立ちどまってきょろきょろする人は、「他者の視点で自分を見る」という意識がまったくないのだろう(少なくともその瞬間は)。

へえ。ちゃんと客観的に自分の姿を見られるんだ。



五歳児が子どもであることに感心して、同時に五歳児が大人であることにも感心した。


2019年4月22日月曜日

女装おじさんは何色か


街中でたまに女装しているおじさんいるんじゃないですか。

あれ、たいてい派手な赤やピンクのスカート穿いてるんだよね。なんでなんだろうね。

派手な赤やピンクのスカートなんて女の人でもほとんど穿いていない。
穿くのは幼い女の子か、女装おじさんだけだ。

幼い女の子と女装おじさんに共通するのは、どちらもまだ「女の恰好」に慣れていないこと。



娘が三~四歳のとき、もう恥ずかしいぐらいにピンクの服を着ていた。
「女の子はピンクを着なきゃ!」という意識に憑りつかれていたんだと思う。ピンクのシャツにピンクのスカート、ピンクの靴下。

「ピンクでかためるより、ワンポイントぐらいでピンクをとりいれたほうがより強調されてかわいいよ」とアドバイスしたこともあるが、幼児にわかるはずもなく。
ずっと林家パー子みたいなファッションをしていた。

そんな娘も五歳になってようやくピンクの波状攻撃から卒業して、黒の上下に靴下だけピンク、のようなまともなコーディネートをしてくれるようになった。

ようやく「女の子でいること」に慣れてきたのかもしれない。
慣れたことで「ザ・女の子らしい恰好」から脱却できたのかな。



慣れていないからこそ形にこだわる、という現象はよく見られる。

二十歳ぐらいの人のほうが「社会人たるもの、スーツのときはいちばん下のボタンをはずして、靴とベルトの色はそろえて、財布は……」と細かく気にしている。
スーツ生活の長いおじさんはそんなことは言わない。靴なんか歩きやすければなんでもいいやとか色の組み合わせなんかどうでもいいやとか思うようになる。よほど変じゃなければいいじゃないか。
それこそが板についてきたということなのだろう。自分のものにしたからこそ型をくずすことができる。
古い例えになるが、王貞治の一本足打法や野茂英雄のトルネード投法やイチローの一本足打法は基本をきっちりものにしたからこそたどりついた境地で、野球をはじめたばかりの人がそのスタイルだけを真似してもうまくいかない。初心者は型をきっちり身につけるののが上達へのいちばんの近道だ。

女装おじさんが「女らしい恰好」という型をくずすことができないのは、まだ「女であること」に慣れていないからだろう。



では、女装に慣れた女装おじさんはどうだろう。
もう三十年女装やっています、というおじさん。
たぶん派手なピンクはとっくに卒業して、ブラックとかグレーとかシックな恰好をしているんだろう。
フリルのついた服やスカートにこだわらず、Tシャツとかジーンズとかパンツスーツとかを上手に着こなしているはずだ。

その結果、傍目にはもうほとんど「女装おじさん」と認識できなくなる。

女装おじさんがみんなピンク色の服を着ているのではなく、ぼくらが「女装おじさん」と認識できるのは女装おじさんの中でもピンク色の服を着ている初心者だけなのだ。

もしかしたらそこにいるTシャツにジーンズのおじさんや黒のスーツのおじさんも、じつは女装おじさんなのかもしれない。

2019年4月19日金曜日

【コント】ケルベロスが現れました


「至急応援願います!」

 「まずは状況を報告せよ」

「寺町交差点にケルベロスが現れました!」


 「ケルベロス……? なんだそれは」

「神話に出てくる生物であります!」

 「なんだと! あれか、上半身が人で下半身が馬の……」

「お言葉ですが、それはケンタウロスであります! ケルベロスは頭が三つの犬であります!」

 「なるほど。キングギドラみたいなやつか……」

「キングギドラ……。それはなんでありますか!?」

 「ほら、ゴジラ映画に出てくるやつだよ。有名だろ」

「お言葉ですが、自分はゴジラ世代でないであります!」

 「いやおれだって世代じゃないけどそれぐらい知ってるだろふつう……」

「勉強しておきます!」

 「まあいいや、で、キングギドラがどうしたって?」

「キングギドラではなくケルベロスであります!」

 「ああそうか、ケルベロスだったな。何頭いる?」

「三頭であります!」

 「三頭もか。三頭とも寺町交差点にいるのか?」

「お言葉ですが隊長、ケルベロスの頭はつながっております。ですから当然ながら三頭とも同じ場所にいます」

 「待て待て待て。なに? 三頭って頭の数の話か?」

「そうであります!」

 「つまり身体は一つ?」

「そうであります!」

 「だったらおまえ、三頭ってのはおかしいだろ。それは一頭だろ」

「お言葉ですが、自分は頭基準で数えるべきだとおもいます! なぜなら一頭二頭の"頭"は"あたま"という字だからです!」

 「そうだけどさ。じゃあおまえ寿司はどう数えるの? 寿司一貫っていったら何個のこと?」

「一個であります!」

 「えーまじで? 一貫イコール二個でしょ」

「一個であります!」

 「ほんとに? おれは二個だとおもってたけど」

「自分、回転寿司でバイトしてたんですが、そのへんの解釈は人によってちがったであります! だから自分がいた店では"一個"や"一皿"と呼んで、"一貫"は使わないようにしていたであります! そもそも寿司を"一貫、二貫"と数えるようになったのは1990年頃の話で、それまでは"一個、二個"でありました!」

 「おまえくわしいな。寿司の例えはまずかったな。でもケンタウロスの場合は……」

「お言葉ですがケンタウロスではなくケルベロスであります!」

 「そうか。ケルベロスの場合は胴体基準で数えるもんじゃない? 頭三つでひとつの個体でしょ? たとえばさ、ヤツメウナギっているじゃん。あれ眼が八つあるからって四匹っていわないでしょ」

「ヤツメウナギはエラが眼のように見えるからヤツメウナギと呼ばれていますが、実際の眼は二つであります!」

 「えっ、そうなの。知らなかった。おまえウナギのことやたらと知ってんな」

「ヤツメウナギは生物学上はウナギではないであります!」

 「へーそうなんだ、知らなかった……」

「では頭の数基準で三頭ということでよろしいでしょうか!」

 「いや待て待て。まだ納得いってないぞ。……じゃああれはどうだ、鳥。鳥は一羽二羽って数えるだろ。でも羽根一枚につき一羽じゃないよな。つまり羽根が一枚でもあれば一羽」

「……」

 「な? だから頭がいくつあっても胴体がひとつなら一頭なんだよ」

「お言葉ですが隊長、ではウサギはどうなるのでしょう?」

 「ウサギ?」

「羽根が一枚でもあれば一羽とおっしゃいましたが、ウサギには羽根がありません。ですが一羽二羽と数えます。この点についてはどうお考えでしょう!」

 「いやおまえ、ウサギ持ってくるのはずるいだろ……。あれは例外中の例外というか……」

「もしも胴体がふつうのウサギで頭が三つあるケルベロウサギが現れたら、どう数えたらよいのでしょうか! 一頭か、三頭か、一羽か、三羽か……」

 「それ今決めなきゃだめ? 一体なんの話してんだよ……」

「あっ、隊長、それです!」

 「それ?」

「一体、ですよ。一頭二頭と数えるからややこしいのであります。一体、二体と数えれば解決であります。ケルベロスが一体現れました!」

 「あーよかった」

「お言葉ですが隊長、解決した気になるのはまだ早いであります!」