2018年9月7日金曜日

【読書感想文】原発維持という往生際の悪さ/山本 義隆『近代日本一五〇年』


『近代日本一五〇年
―科学技術総力戦体制の破綻』

山本 義隆

内容(e-honより)
黒船がもたらしたエネルギー革命で始まる近代日本は、国主導の科学技術振興による「殖産興業・富国強兵」「高度国防国家建設」「経済成長・国際競争」と国民一丸となった総力戦体制として一五〇年続いた。近代科学史の名著と、全共闘運動、福島の事故を考える著作の間をつなぐ初の新書。日本近代化の歩みに再考を迫る。
近代化以後、日本の科学がどのように発展してきたかを追う書籍。
科学の中身のほうではなく、どちらかというと科学が政治や経済や軍事とどのように関わってきたかという点が主題。

これを読むと、日本の科学ってつくづく戦争とともに歩んできたんだなと思う。
 軍は幕府や西南雄藩が設立した兵器工場や造船所を接収し、官営の軍事工場としての大阪砲兵工、東京砲兵工、海軍造兵、横須賀海軍工に改変した。軍工の最大の目的は、もちろん兵器の自給化にある。日本の近代化の軸は、産業の近代化・工業化であると同時に軍の近代化・西欧化であった。通常、産業の近代化がすなわち日本の資本主義化と見られているが、軍の近代化が日本の資本主義化にはたした役割は、きわめて大きい。「当時の日本の技術全体の前進にあたって、政府の軍事工場は、部分的に指導的な役割をはたす立場にあった」(星野、一九五六)。実際、軍による兵器自給化の欲求、およびもともとは軍事から始まった造船業こそが、明治期日本の重工業・機械工業・化学工業への大きな推進力であった。軍と産業の近代化が同時並行で上から進められたことが、日本の資本主義化を特徴づけている。そして軍によるこの兵器自給の欲求が、やがて、そのための資源を求めてアジア侵略へと日本を駆り立ててゆく。
初期からしてこうだった。
学者や職人の間から勃興した科学を戦争に活用した西欧と違い、日本の場合ははじめから「他国に勝つ」という目的のために科学研究を国策として推進してきた。

兵器を作るために近代化し、兵器を作るための資源を求めてアジアへ侵出する。
「兵器を作るために戦争をする」なんて目的と手段が逆転しててばかみたいな話だけど、でも当時の日本人はそうでもしないと列強に食い物にされるという危機感を抱いていたのだろう。



戦争に巻きこまれたことで日本の科学は大きく発展した。
第一次世界大戦以降、戦争は総力戦となり、科学者も無関係ではいられなくなった。
戦場では化学兵器が用いられ、兵や軍備の輸送のために車や飛行機や船が使われ、それらは人力や馬力ではないエネルギーを必要とした。兵士の救護には医療知識が必要で、船や潜水艦を航海させるためには海洋知識が必要。戦闘機を飛ばすには航空物理学や気象学を知らなくてはいけない。
数学、化学、機械工学、地学、物理学、地学、気象学などありとあらゆる学問が戦争に駆りだされた。

そして日本が本格的に科学を学びはじめたのが、ちょうどその時代だった。
まだ黎明期だった科学界に国から多くの研究資金が支給されたのは、研究結果が戦争に役立ったからだ。学者たちは喜んで軍に協力した。

軍への貢献がすなわち悪だとは思わない。
結果的に日本の科学は大きく発展して、それが戦後の復興につながった部分も大きい。
ただし戦後の復興もまた戦争とともにあった。朝鮮戦争やベトナム戦争が勃発したおかげで、アメリカの日本統治はずいぶんゆるくなり、一度は禁止された科学研究も許された。戦争のおかげで大量の金が入りこんできて、工業製品を作るのに役立った。「ものづくり大国ニッポン」は、「戦争に使えるものづくり大国」だった。
高度経済成長という平和な発展の裏には、他国の戦争という犠牲があったということを知っておかなくてはならない。決して平和に発展してきたわけではないのだ。



こうした歴史的経緯が、基礎研究や文系の学問に対する軽視につながっているのかもしれない。
日本はもう七十年も直接的な戦争をしていないが、「戦争に勝つために研究しろ」が「経済競争に勝つために研究しろ」になっただけで、やっていることはたいして変わっていないように見える。
戦時は戦争に役立たない学問がないがしろにされていたように、戦後は経済競争に役立たない学問もまたないがしろにされつづけている。

「科学、学問は国家が統制して発展させていくもの」という考えは今も日本に深く根を張っている。
それがときには、公害病のような「経済成長のために科学を暴走させる」事態も引き起こす。科学が政治や経済に対して中立であったならば、公害の原因はずっと早く明らかになっていただろう。
こうした姿勢は今も変わっていない。原発は日本経済のためになるんだからイチャモンつけんじゃねえよ、の理屈がいまだ幅を利かせている。

こうなってしまったのは、科学者を必要以上に研究にストイックな存在として持ちあげてきたことがあるのかもしれない。
科学者も人間である以上、世俗にまみれた存在だから金や地位や名声を欲しがるし、そのために嘘をついてしまうことや権力者に都合の良い解釈をしてしまうこともあるだろう。
……という認識を持っておけば、大学教授という肩書に騙されることも減るだろう。

科学は善でも悪でもない。
工事の道具として発明されたダイナマイトが武器として多用されたように、使い方によって科学は善にも悪にもなる。
原子力は原爆にもなるしエネルギーにもなる。そしてそのエネルギーには周辺一帯を人の住めない土地に変えてしまうほどの力がある。



この本では、最後の一章を割いて原子力について書いている。
この章だけでも多くの人に読んでほしい。
そもそも原発は、軽水炉にかぎらず、燃料としてのウラン採掘の過程から定期点検にいたるまで労働者の被曝が避けられないという問題、運転過程での熱汚染と放射線汚染という地球環境への重大な影響、そして使用後にはリサイクルはおろか人の立ち入りをも拒む巨大な廃炉が残され、さらには数十万年にわたって危険な放射線を出し続ける使用済み核燃料の処分方法が未解決であるという、およそ民生用の商品としては致命的ともみられる重要な欠陥をいくつも有している。通常の商品では、このどれひとつがあっても、市場には出しえない。
軍事研究と原子力研究に共通するのは「市場を通さずに国から金が下りてくる」という点だ。
税金で賄うから市場競争がはたらかず、どんなに高くても言い値で買ってくれる。電機メーカーからすると兵器と原子力は金のなる木なのだ。

メーカーからするとそんなおいしいものを手放すわけがないし、この利権を守るためならどれだけでも金をばらまく。どれだけ高くついたってかまわない。その分を兵器と原発関連の代金に上乗せすれば国が払ってくれるのだから。また電力会社は総括原価方式によって決してマイナスにならないように電気料金を設定できるから経費なんか気にしなくていい。
かくして巨大な利権が生まれ、あり余る金で政治家も報道機関も研究室も抱きこめる。

SNSなんかを見ていても、ちょっと原発に批判的なコメントをすると、とたんに「原子力堅持主義者」「武力強化主義者」が湧いてくる。
ことあるごとに「地震で停電になった! 原発があればよかったのに!」「北朝鮮がミサイルを撃ってくるぞ! 防衛費を上げろ!」と危機感をあおる。はたまた「福島の人を傷つける気か!」という感情論に持ちこもうとする。

金のなる木があればそれを守りたくなる気持ちはわからんでもないが、大学の研究者や報道機関までがそれに加担しているのを見ると悲しくなる。
研究資金ほしさに軍に協力していた時代、国や大企業を守るために公害病のでたらめな原因を上げていた時代から何も変わっていない。

過去に国のお抱え研究者がどんな嘘をついてきたかを知ればとても「原発は絶対に安全だ」なんて話を信じられる気になれないと思うが、それでも人は悲惨な現実からは目をそむけたくなってしまう。

専門知識がなくたって絶対安全なものなんてないことぐらいはわかるし、だったら「もしも事故が起こったら広範囲に数十年以上も回復不能なダメージを与えるもの」なんてやめようとなるのがふつうの感覚だろう。
「このボタンを押せば100万円あげます。でも1%の確率であなたは死にます。押しますか?」って訊かれたら、よっぽどお金に困っている人以外は押さない。
しかし原発に関しては目先の金欲しさにハイリスクな道を選びつづけている。日本という国はそこまでお金に困ってるのだろうか。

こんなリスキーダイス、いつまで振りつづけるつもりなんだろう。



また著者は、日本が頑なに原発を放棄しようとしないのは、軍事転用するためではないかと指摘している。
 一九九二年一月二九日の『朝日新聞』には「日本の外交力の裏付けとして、核武装選択の可能性を捨ててしまわないほうがいい。[核兵器の]保有能力は持つが、当面、政策として持たないという形でいく。そのためにもプルトニウムの蓄積と、ミサイルに転用できるロケット技術は開発しておかなければならない」という外務省幹部のまことに正直というか、あからさまな談話が記されている。核燃料サイクルにたいする日本の「異常なまでの執着心」の根っ子に潜在的核武装路線があるという想定は、けっして無理なこじつけではない。すくなくとも、外国からそのように受け取られても不思議はない。自覚していないのは、日本人だけである。
じっさいに転用可能な資源も技術も十分にあるし、核兵器禁止条約に署名しないのも将来的に核兵器を持つ可能性を考えてのことではないかと。
言われてみればそうかもしれない。
国民が「日本には非核三原則があるから」なんてのんきに構えているうちに、とっくに核武装の準備を整えているのだ。これが杞憂ならいいんだけどね。


原発をめぐる状況は第二次世界大戦末期とよく似ている。

こっぴどい敗戦を喫した理由としては、物資不足だとか科学力が劣っていたとか精神論重視だったとかいろいろあるけど、ぼくは「負けを認められなかった」ことに尽きると思う。
負けを認めないから正しい情報が共有されず、負けを認めないから過去の失敗から学ばず、負けを認めないから国土を焼き尽くされた。

原発も同じだ。とっくに「負け」フェーズに入っている。
安全神話が嘘だったことは福島第一原発事故ではっきりと露呈したし、いまだ廃炉の道は見えない。すでにヨーロッパ諸国は原発を放棄しつつあるが、負けを認められない日本はボロボロになった神話に必死にしがみついている。

電力消費量は減少しつつあり、代替エネルギーも増えている。もはや原発にこだわる理由はなくなっているのだが、それでも日本が原発を捨てられない理由は「ここで負けを認めたら今までやってきたことが無駄になる」という一点のみだ。
一言でいうなら往生際の悪さということになる。かくして戦況はどんどん悪化してゆく。

今のぼくらが大日本帝国軍の軍部を愚かだったとあざ笑うように、百年先の日本人も今のぼくらをあざ笑うだろうか。それともその頃の日本は人が住めない土地になっているだろうか。



科学技術は資本主義とともに成長してきた。
だが、人口減少社会に突入した今、資本主義は破綻をきたそうとしている。
「いいものをたくさん作ってたくさん売れば人々の暮らしも良くなって経済も成長する」というハッピーな時代はとっくに終わった。
経済成長をするためには、今の政権が力をやろうとしているように武器やカジノで「いかに他人から奪うか」または原発のように「いかに未来から奪うか」というやり方しかなさそうだ。

この先、科学の発展は人々の幸福に寄与してくれるのだろうか。
それとも一部の人がその他多数から富を搾取するために科学は使われるのだろうか。

残念ながら後者である可能性が高いような気がする。

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2018年9月6日木曜日

【読書感想文】自分の中にあるダメな部分を突きつけられる/サレンダー橋本『明日クビになりそう』


明日クビになりそう

サレンダー橋本

内容(Amazonより)
「会社のコピー機で私物を刷る」「出張でクオカードをパクる」――。
稀代の意識低い系漫画家・サレンダー橋本が贈る、︎クズ社員あるあるGAG‼︎
「仕事をサボって個室ビデオへ」「忘年会のお店の予約を忘れる」などウォーターサーバー会社の生意気なサラリーマン、宮本の小狡く愚鈍な言動の数々を現役サラリーマン漫画家である作者がコミカルに描く!
現代社会を生き抜くリーマンたち、そしてこれから働こうとする人々へ向けた――
クズ会社員のおバカ処世術、ここに爆誕‼︎

どうしようもないクズが現実から逃げまわるだけの漫画……。ということで石原まこちん『The3名様』を思いだした。どちらもギャグなのに哀愁がある。

自分の中にある、見ないようにしているダメな部分を突きつけられるような気がする。
「確認」と「検討」
 何て便利な魔法の言葉…!
 ただ全てを先送りにしているだけなのに
 ビジネスの場が成立している雰囲気になるぜ
「オレはいつも目の前の仕事をやらない理由を血眼で探し
 少し未来の自分に全てを押しつけて生きているんだ」
小学生のとき、出さなければいけない書道の課題を提出しなかった。
先生に咎められたとき「出したはずですけど」と嘘をついた。先生は「ほんとか? じゃあもう一回調べてみるわ」と言った。
どうしよう、すぐばれる。怒られる。やってなかったことも、嘘をついたことも。息ができない。胸がキリキリと痛む。

あのときの気持ちを思いだした。
ぼくもそれなりに成長したので「めんどくさいことは先延ばしにするとよりめんどくさいことになる」ということを知っている。だからめんどくさいことは早めに処理するようにしている。

だけど「めんどうなことは先延ばしにしたい」という誘惑は、今もぼくの中に巣食っている。隙あらば首をもたげるのを、大人としての理性が必死に抑えこんでいる状態だ。

仕事に関してはそこそこちゃんとやるようにしているが、家事となるとそうではない。部屋の片づけとか不用品の整理とか換気扇の掃除とか、めんどうなことからは目をつぶりつづけている。
「今忙しいから」「疲れてるから」「子どもと遊べるのは今だけだから」そんな理由をつけて、家事から手を抜こうとがんばっている。

だからぼくは知っている。自分にとって、仕事の手を抜くことだってまったくやぶさかではないということを。
仕事のやりがいや、周囲の目や、叱咤する上司や、そういったものから解放されたならばぼくは平気で手を抜くだろう。

ああ、この漫画に描かれているのはぼくのことだ。
『明日クビになりそう』を読みながら自分自身のダメさをひとしきり笑い、そして心が痛くなる。


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2018年9月5日水曜日

【読書感想文】類まれなる想像力/テッド・チャン『あなたの人生の物語』


あなたの人生の物語

テッド・チャン

内容(e-honより)
地球を訪れたエイリアンとのコンタクトを担当した言語学者ルイーズは、まったく異なる言語を理解するにつれ、驚くべき運命にまきこまれていく…ネビュラ賞を受賞した感動の表題作はじめ、天使の降臨とともにもたらされる災厄と奇跡を描くヒューゴー賞受賞作「地獄とは神の不在なり」、天まで届く塔を建設する驚天動地の物語―ネビュラ賞を受賞したデビュー作「バビロンの塔」ほか、本邦初訳を含む八篇を収録する傑作集。

映画『メッセージ』の原作となった『あなたの人生の物語』を含め、八篇の作品を収めたSF短篇集。

とにかく想像力がすごい。
この歳になって小説に驚かされるとは。

「すごく高い塔を建てたら」「知能がものすごく高くなったら」なんて想像をしたことは誰しもあるだろうが、ここまでつきつめて考えた人はそういないだろう。
なぜなら現実や知識がじゃまをするから。テッド・チャン氏はその制約を軽々と飛びこえ、壁を一枚隔てたところにあるまったく新しい世界へと連れていってくれる。この飛躍がじつに気持ちいい。



ぼくはかつて大喜利を趣味にしていた。ネット上でたくさんの人たちが大喜利をする世界があったのだ。
そこではとにかく現実離れした想像力が求められた。
たとえば「大相撲力士が副業で殺し屋をはじめた。どんな殺し方をする?」みたいなお題が出される。
現実的にはありえないシチュエーションだ(現実に殺し屋をやってる力士がいる可能性は否定できないが)。

現実の地続きで考えるなら「張り手で殺す」「上に乗って押しつぶす」「日馬富士にビール瓶で殴ってもらう」みたいな回答になるが、これではまったくおもしろくない。
大喜利として成立させるためには、現実の延長ではないまったく別の世界を構築しなければいけない。たとえば「番付表の下のせまいところに追いこんで四股名と四股名で挟み殺す」のような(この回答がおもしろいかどうかはおいといて、少なくとも大喜利としては成立する)。

今ぼくらが持っているのとはべつの常識を築かないといけないのだ。

『あなたの人生の物語』で描かれるのは、まさにこの大喜利的な発想だ。
奇抜なアイデア、ずば抜けた想像力、そしてそれを支える重厚な知識。どれをとっても一級品の作品集だった。ほれぼれする。



たとえば『バビロンの塔』。
文字通り天まで届く塔を建てる人々を描いた作品だが、情景描写がなんともすばらしい。
 何週間かが過ぎるうちに、毎日空を渡る太陽と月の旅の頂点が、しだいしだいに低くなってきた。月は塔の南面を銀色の光で染め、こちらをながめるヤハウェの目のように輝いた。まもなく鉱夫たちは通過する月ときっかりおなじ高さに達した。最初の天体の高さにたどりついたのだ。鉱夫たちはあばたになった月の表面をながめ、どんな支えをもはねつけたその堂々たる動きに驚嘆した。
 やがて、彼らは太陽に近づいていった。いまはバビロンからだと太陽がほぼ真上に見える夏の季節なので、太陽はこの高さで塔の間近を通るわけだ。塔のこの部分には家族がまったく住んでおらず、またバルコニーもない。なにしろ大麦でさえ炒られてしまうほどの暑さだ。塔の煉瓦のすきまを埋めるモルタルは、瀝青だと融けて流れるので、粘土が使われている。これだと熱で文字どおりに焼き固められるからだ。日中の気温からみんなを守るため、柱の幅がひろがり、ほとんど斜路をおおい隠すほどの連続したトンネルになった。ところどころにあいた細いすきまが、ひゅうひゅう唸る風と、刃のようにぎらつく金色の日ざしを塔の中に通していた。
小説を書く才能とは、いかにうまくほらを吹くかだ。この文章はなんと見事なほらだろう。
「ものすごく高い塔を建てたら?」というお題に「高すぎて折れる」とか「地面が沈む」とか「上のほうは酸素が薄くなる」なんて回答ではおもしろくない。

「月や太陽の高さを超える」「あまりに高すぎて塔の下のほうから少しずつ夜になる」という大胆な発想。そして、まるでその世界に行ってきたかのような丁寧な描写。
月や太陽より高い塔など建てられないことを知っているのに、この文章を読むと月よりも高い塔の姿が浮かんでくるようだ。感服。



『理解』も、作者の類まれなる想像力が存分に発揮された小説だった。

天才が登場する物語は少なくないが、我々の想像力を上回る天才というのはめったにいない。
ただ単に物事をよく知っている人だったり、計算が速かったり、あるいは神のようになんでも言い当てる人だったりで、それって「博識」「頭の回転が速い」「予言者」なだけで天才とは違うよね、と言いたくなる。
作者の想像力が足りないから天才を描けないのだ。
小学一年生に「どんな人が天才だと思う?」と訊いたら「計算が速くてまちがわない人」というような答えが返ってくるだろうが、ぼくらの思いえがく天才もそれと大差ない。

『理解』はあるきっかけで天才的な頭脳を手に入れた男を描いた物語だが、ここではちゃんと天才が描かれている。

子どもと大人は頭の使い方が違う。成長するにつれてより抽象的、深遠な思考が可能になる。大人が抽象的な思想の話をしても、五歳児にはまるで理解できないだろう(できない大人も多いけど)。
それと同じように、ぼくらよりはるかに頭のいい人が難解な話をしていたら凡人にはまったく理解できないだろう。どれだけ時間をかけたって。
だからほんとの天才はぼくらには理解できない。「天才だ」と思わせるように描いてしまったら、それはもう天才じゃないのだ。

この物語の主人公はぼくらの生きる世界の数段上の次元で物事を考えている。もちろん読んでいるぼくにはまったく理解できない。だが「すごすぎて理解できない」ということは理解できる。それだけの説得力がこの文章にはある。
独自の言語を作る、音楽によって他人の精神に任意の影響を及ぼすことができる、短い言葉で相手の精神に攻撃を加えることができるなど、「自分の延長の天才」とはまったく違う天才の姿を見ることができる。



表題作『あなたの人生の物語』もすごい話だった。
地球にやってきた宇宙人とコミュニケーションをとろうとする話。これ自体はSFではおなじみの設定だが、言語学者のアプローチを通して描いているのがおもしろい。

宇宙人の言語が地球のものとはまったく異なる。
  • 発話用の言葉と文字がまったく別の文法から成っている。
  • 文字は複雑な線の組み合わせから成っている。長い文章がひとつの文字で表せてしまうぐらい。
  • 宇宙人は因果律によって物事を考えていない。過去と現在と未来を同時に把握している。
……と説明してもなにがなんだかわからないが、とにかく地球人の感覚ではまったく理解できない言語を持っているのだ。
言語が異なるということは、彼らはまったく異なる感覚を持っていることになる。ということは……。
この先はぜひ読んでいただきたいが、異星人ものだと思っていたら時間もののSFになっていくのがすごい。

いやあ、「よくこんな設定思いついたな」とただただ感心するばかり。
「原因があって結果がある」ことなんてあたりまえだと思うじゃない。それを疑わないじゃない。ふつうは。



『顔の美醜について』はわりとポップなSF作品。
「カリー」と呼ばれる美醜失認処置をめぐる話。カリーを受けた人は、人の顔の美醜の判断がつかなくなる。人の見分けはつくが、相手が美人なのがブサイクなのかがわからなくなるのだ。
カリーによって容姿にとらわれずに人と接することができると主張する人々、それに対して人を道徳的にさせるのは医療措置ではなく教育であるべきだと反論する人や、誰もがカリーを受けたら商売が成り立たなくなる広告業界や化粧品業界の妨害が加わってさまざまな議論が展開される……。

美容整形のような「自分の容姿が良くなる」ではなく「他人の容姿の良さがわからなくなる」処置ってところがミソだね。
他人には道徳的になってほしいけど、自分が道徳的になることには二の足を踏んでしまうからね。「人を見た目で判断するな」と言っている人でも、じゃあ世界一醜い外見の人を恋人にできるかっていわれたら躊躇してしまうだろう。
人を見た目で判断しなくなるのは善なのか、それとも美的感覚という優れた能力を放棄することなのか。
ぼくだったら……。うーん、仕事のときはカリーをして、プライベートでははずすかなー。



ここで紹介した作品だけでなく、総じて高いレベルのSF短篇集。

驚くべきは、これが選りすぐりの傑作選ではなくデビューしてから発表された短篇を順番に集めた作品集だということ。
すべての作品が高い水準を保っているというのがすごい。

他の本も読んでみたいと思ってすぐ調べたが、寡作にしてテッド・チャン氏の単著はこれだけなのだとか。
ううむ、もっとテッド・チャン氏の想像力に触れたいぜ。

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2018年9月3日月曜日

【DVD感想】『アヒルと鴨のコインロッカー』


『アヒルと鴨のコインロッカー』

(2006年)

内容(Amazon Prime Videoより)
大学入学のために単身仙台に引っ越してきた19歳の椎名(濱田岳)はアパートに引っ越してきたその日、奇妙な隣人・河崎(瑛太)に出会う。彼は初対面だというのにいきなり「一緒に本屋を襲わないか」と持ちかけてきた。彼の標的はたった一冊の広辞苑。そして彼は2年前に起こった、彼の元カノの琴美(関めぐみ)とブータン人留学生と美人ペットショップ店長・麗子(大塚寧々)にまつわる出来事を語りだす。過去の物語と現在の物語が交錯する中、すべてが明らかになった時、椎名が見たおかしくて切ない真実とは・・・。

注意:この記事は、小説及び映画『アヒルと鴨のコインロッカー』のネタバレを盛大に含みます。



伊坂幸太郎の同名小説の映画化。

原作を読んだ人ならわかると思うが、原作の大きな要素として叙述トリックが占めており、「はたしてこれをどうやって映像化するのか?」という点が気になった。

ネタバレをするが、小説『アヒルと鴨のコインロッカー』には河崎という男が出てくる。
この河崎という男が主人公に語る話の中に、たびたびブータン人が登場する。
ところが後になって、河崎はすでに死んでいることがわかる。河崎と名乗った男こそがブータン人だったのだ。

単純な入れ替えトリックだが「日本に来て数年の外国人が日本人に成りすますのは不可能」という思いこみがあるせいで読者は気づきにくい。
この入れ替えトリックが小説『アヒルと鴨のコインロッカー』の肝である。


じつはAとBが同一人物だった。
文章ならこの一行で済むトリックも、映像で表現するのは至難の業だ。なぜなら顔が一緒であれば見ている側は同一人物であることに一瞬で気づいてしまうのだから。
だからこそ「映像化不可能」と言われていたのであり、はたして監督はこの部分をいかに料理したのか――。



結論から書くと、最低の手法だった。

映画『アヒルと鴨のコインロッカー』には回想シーンがたびたび出てくる。
そこに登場する「今の河崎」と「回想シーンに出てくるブータン人」はまったく別の役者が演じている。本当は同一人物であるにもかかわらず、べつの役者が演じているのだ。

嘘じゃん。

いや、嘘をつくことがだめなわけではない。
登場人物の台詞としてであれば、どれだけ嘘が語られてもかまわない。
だが映像で嘘をついてはいけない。小説でいえば、台詞や独白は嘘でもいいが、地の文(状況描写)が嘘であってはならない。それはフィクションとして最低限の"お作法"だ。ここを破ったらなんでもありになってしまう。
こんなのはトリックでもなんでもない。ただのインチキだ。
ルール内で観客をだますから「だまされた!」と気持ちよく叫ぶことができるのであって、ルール無視でだまされたって楽しくもなんともない。ポーカーはルール内で駆け引きをするのがおもしろいのであって、イカサマトランプを使うやつは出入り禁止にするべきだ。

過去に原作を読んでいたぼくは回想シーンで別人が登場してきた時点で「ひでえ!」と叫んでまともに観るのを放棄したが、知らずに観てた人はかわいそうだ。
たとえば「自称河崎が人形劇仕立てで過去のエピソードを語る」みたいな説明方法にすれば、ルールを破ることなく(嘘の)回想シーンを描くことができただろうに。
あまりにもお粗末。知恵がないなら映像化困難な作品を映像化するなと言いたい。

余計な音楽がなくかなり原作の雰囲気を忠実に再現できていたのに、たったひとつの致命的なルール違反のせいで映画全体が台無しになっていたのがもったいない。

あと琴美ちゃんはかなりおバカさんだよね。
ことごとく殺してくれと言わんばかりの愚行を犯してたら、そりゃ殺されるぜ。あまりにおバカな殺され方をしたせいで悲劇性が薄れてしまったのも残念。
変にかっこよく描こうとしたせいでかえってバカみたいになっちゃった。


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【DVD感想】『カラスの親指』


2018年9月2日日曜日

手が鉤爪になってる人あるある

手が鉤爪になってる人あるある



暑い日は鉤爪がさわれないぐらい熱くなる


暑い日は鉤爪を冷やすと全身冷える


寒い日は鉤爪を友だちの首筋にあてて嫌がられる


大根がよく煮えたか確かめるために鉤爪を刺しちゃう


電車の吊り革を持たずに、上の棒に鉤爪をひっかける


鉤爪とったら内側がめっちゃくさい。でもついにおいを嗅いじゃう


ギター弾くときピックいらず


ちくわは一回鉤爪に刺してから食べる


学生時代のあだ名は「船長」


金属探知機に引っかかるが、機内持ち込み禁止物リストに鉤爪は載ってないので許される


初対面の人に「じゃんけんできないですね」って言われるけどいや反対の手あるから


よくズボンのポケットに穴が開く


鉤爪のカーブにぴったりはまるグラスがあるとちょっと嬉しい


みんなでごはん食べるときは鉤爪側に人が来ないように端っこに座る


花粉症シーズンは鉤爪にティッシュを何枚か刺しといてすぐに取りだせるようにしとく