2018年6月8日金曜日

【読書感想】内田 樹 ほか『人口減少社会の未来学』


『人口減少社会の未来学』

内田 樹 池田 清彦 井上 智洋 小田嶋 隆
姜 尚中 隈 研吾 高橋 博之 平川 克美
平田 オリザ ブレイディ みかこ 藻谷 浩介

内容(Amazonより)
21世紀末、日本の人口は約半数に――。人口減少社会の「不都合な真実」をえぐり出し、文明史的スケールの問題に挑む〝生き残るため〟の論考集。各ジャンルを代表する第一級の知性が贈る、新しい処方箋がここに。

内田樹氏の呼びかけに応じて、幅広いジャンルの人たちが人口減少社会について論じた本。
人類の歴史、経済、建築、地方文化、イギリス、農業などさまざまな分野の専門家たちが各々の立場から語っている。
当然ながら「人口減少社会に向けてこうするのがいい!」なんて正解は出ないけれど(出たら大事件だ)、考えるヒントは与えてくれる。

大規模な移民の受け入れでもしないかぎりは今後も日本の人口が減るのはまちがいないわけで(これから一組のカップルが五、六人ずつ子どもを産んだら増えるらしいけど)その時代に生きるつもりでいるぼくも、いろんな知見に触れておきたい。

こういう本を読んだからって人口減少はストップできないけど(保健体育の教科書に書いてあったところによるとセックスってものをしないと子どもはできないらしい)、どう生きるかということにあらかじめ見当をつけておくのは大事だね。
ぼくも高橋博之氏の文章『都市と地方をかきまぜ、「関係人口」を創出する』を読んで、地方農業のために何かしようという気になり、とりあえず野菜を取り寄せてみた。まずはそこから。


目次は以下の通り。
・序論 文明史的スケールの問題を前にした未来予測 (内田 樹)

・ホモ・サピエンス史から考える人口動態と種の生存戦略 (池田 清彦)

・頭脳資本主義の到来
 ――AI時代における少子化よりも深刻な問題 (井上 智洋)

・日本の“人口減少”の実相と、その先の希望
 ――シンプルな統計数字により、「空気」の支配を脱する (藻谷 浩介)

・人口減少がもたらすモラル大転換の時代 (平川 克美)

・縮小社会は楽しくなんかない (ブレイディ みかこ)

・武士よさらば
 ――あったかくてぐちゃぐちゃと、街をイジル (隈 研吾)

・若い女性に好まれない自治体は滅びる
 ――「文化による社会包摂」のすすめ (平田 オリザ)

・都市と地方をかきまぜ、「関係人口」を創出する (高橋 博之)

・少子化をめぐる世論の背景にある「経営者目線」 (小田嶋 隆)

・「斜陽の日本」の賢い安全保障のビジョン (姜 尚中)

立場も議論の方向性もばらばらで、だからこそ人口減少社会に対する知見が深まる。

小説だといろんな作家があるテーマについて書いた短編を集めたアンソロジーがよく出ているけど、ノンフィクションや評論だと少ない。科学や社会学の分野でもアンソロジー本がもっと出たらいいのにな。
ひとつのことについて考えようと思ったら、立場の異なる人の意見を読むのがいちばんいいからね。



内田樹氏の項より。

 そして、その反対の「根拠のない楽観」にすがりついて、あれこれと多幸症的な妄想を語ることは積極的に推奨されています。原発の再稼働も、兵器輸出も、リニア新幹線も、五輪や万博やカジノのような「パンとサーカス」的イベントも、日銀の「異次元緩和」も官製相場も、どれも失敗したら悲惨なことになりそうな無謀な作戦ですけれど、どれについても関係者たちは一人として「考え得る最悪の事態についてどう対処するか」については一秒も頭を使いません。すべてがうまくゆけば日本経済は再び活性化し、世界中から資本が集まり、株価は高騰し、人口もV字回復……というような話を(たぶんそんなことは絶対に起きないと知っていながら)している。思い通りにならなかった場合には、どのタイミングで、どの指標に基づいてプランBやプランCに切り替えて、被害を最小化するかという話は誰もしない。それは「うまくゆかなかった場合に備える」という態度は敗北主義であり、敗北主義こそが敗北を呼び込むという循環的なロジックに取り憑かれているからです。そして、この論法にしがみついている限り、将来的にどのようなリスクが予測されても何もしないでいることが許される。

これはつくづくそう思う。新聞やテレビを観ていても、「悪い未来を語るな」という同調圧力のようなものを感じる。
楽観的であることと悪い状況から目をそらすことは違う。みんなもっと悪い未来を語ろう。

東日本大震災の少し後、漫画『美味しんぼ』で福島県内で原発事故の影響による健康被害が出ているという話が描かれた。たちまち「風評被害を煽るな!」と炎上していた。
だがぼくは「いいじゃないか」と思っていた。警鐘を鳴らすのは悪いことではない。根も葉もないデマはだめだが、「もしかすると危険かもしれない」という警告を発することは重要だ。
「だからよくわからないけど福島県に行くのはやめよう」となるのは良くないかもしれないが、「だからしっかりとした調査をしよう」という発想に達するのであれば、警鐘を鳴らすことは無意味ではない。たとえ結果的にその警告が誤りだったとしても。
レイチェル・カーソンが『沈黙の春』で環境破壊に対して警鐘を鳴らしたときも多くの批判があったという。「確かな根拠もないのに産業活動を邪魔するな」と。だが彼女が『沈黙の春』を書いていなければ、地球の状況は今よりずっと悪かっただろう。

少なくとも「偉い学者が福島は安全って言ってるから大丈夫に決まってるだろ!」という反応よりは「今の時点では判断がつかないから不要不急の用事がないかぎりは行かないようにしよう」という行動をとるほうがよほど賢明だ。
ビジネスなら「わかんないけど大丈夫」で突っ走ってもいいが、健康や教育など取返しのつかないことに関しては「わかんないから様子見しよう」でいたほうがいい。


オリンピックが失敗した場合はどうやって挽回しようとか、再びリーマンショック級の不況が襲ったときはどうなるとか、そんな「アンハッピーな未来」についてももっと語ろう。
そうじゃないと年金制度のように「誰もがもうだめだとわかっているのに誰も手をつけない」状態になる。
年金制度は三分の一まで浸水した船だ。しかも大きな穴が開いている。ここから船が持ちなおすことはない。冷静に考えれば、問題はいつ脱出するか、脱出した後にどの船に移るかだけなのだが、誰もその話をしない。
きっと誰も責任をとらないまま、ゆっくりと沈没してゆくのだろう。年金制度は日本の未来の縮図かもしれない。



井上智洋氏の章。

 世界では熾烈な頭脳獲得競争が起きており、それも頭脳資本主義の表れである。例えば、ディープマインド社は元々イギリスの会社だが、2014年にグーグル社に4億ドル以上で買収されている。ディープマインド社は、2016年3月に韓国人のチャンピオン李世を打ち負かして有名になった「アルファ碁」という囲碁AIを開発した会社である。
 2014年当時、ディープマインド社は社員が100人もおらず、工場や資産を有しているわけでもなかった。ただ、創業者デミス・ハサビス氏を初めとする社員の頭脳が4億ドル以上の価値を持ったのである。
 こうした頭脳獲得競争に日本の企業や大学は取り残されている。世界から頭脳を獲得できていないどころか、日本からの頭脳流出を防ぐこともできないでいる。

この本を読んでいるうちに気づいたんだけど、じつは人口現象自体が問題なのではなく、日本がいまだに「人口が増加することに依存したシステムに依拠している」ことのほうが問題なんじゃないだろうか。

どう考えたってAIは今後伸びる分野なのに、いまだに国を挙げて自動車とか銀行とか時代遅れになった業界を必死に保護している。イギリスやフランスは「2040年までにガソリン車の走行を禁止する」という指示を出しているのに、日本は今ある技術を守ろうとしている。どちらが将来の繁栄につながるか明らかなのに。

衰退してゆく産業を守っているうちに、日本全体が「かつて炭鉱で栄えた町」になってゆくんじゃないだろうか。


小田嶋隆氏の章でも書かれているが、「日本の人口が減る! たいへんだ!」と騒いでいるけど、よくよく考えたらぼくらの日常生活においては人口減少のメリットのほうが多そうだ。
通勤は楽になるし、働き手が不足すれば労働者の権利は強くなるし、土地も家も安くなる。
百年前と同じ人口に戻って、でも科学は発達しているので昔より少ない労働で大きなアウトプットが生まれる。多くの財を少ない人で分け与えることになるんだから、むしろハッピーなことのほうが多いんじゃない?

じゃあ誰が「人口が減る! 困る!」と思っているかというと、たくさん雇って使い捨てにするビジネスをやっている経営者が困る。石炭から石油にシフトしたときに炭鉱の所有者が困ったように。
時代の変化にあわせて切り替えられなかった人たちが困っていても「あらあらお気の毒やなぁ。考えが古いとたいへんどすなぁ」としか言いようがない。



福岡 伸一『生物と無生物のあいだ』に「動的平衡」というキーワードが出てくる。
生物はずっと同じ細胞を保有しているわけではなく、発生、回復、代償、廃棄などの行為を頻繁におこなうことで平衡状態を保っている、ということを指す言葉だ。
人間ももちろん動的平衡状態にあるし、「日本人」という大きなくくりで見たときにもやはり動的平衡は保たれている。生まれたり、死んだり、出ていったリ、入ってきたりして、全体として見るとそれなりの調和が保たれている。

そう考えると、人口が減るのは決して異常なことではなく、むしろ増えつづけていた今までのほうが異常だったのだと思う。一個体でいうなれば体重が増えつづけていたようなものだ。
人口減少はむしろ正常な揺さぶりのひとつなのだ。体重が増えた後に走ってダイエットをするようなもので、当然その最中には苦しみをともなうけど決して悪いことではない。


今までのやりかたが通用しなくなったら(もうなっているが)政治家や経営者は困るだろうが、そんなことはぼくらが気にすることじゃない。それを考えるために政治家や経営者は高い給与もらってるんだから。
「たいへん! 少子化をなんとかしなきゃ!」という声に踊らされることはない。産みたきゃ産めばいいし、産みたくないなら産まなくていい。

案外、ぼくらは「人口が減ったら夏も涼しそうでよろしおすなあ」とのんびりお茶をすすっていればいいのかもしれない。


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少子化が解決しちゃったら

【読書感想文】福岡 伸一『生物と無生物のあいだ』



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2018年6月7日木曜日

ばかのメールで御座います


偏見なんだけどさ。

挨拶や補助動詞や副詞を漢字にするやつはもれなくばかだと思ってる。

「させて頂きます」
「有難う御座います」
「宜しくお願い致します」
「多分(たぶん)」
「暫く(しばらく)」
「漸く(ようやく)」
とか。

仕事でこういうメールをけっこう受けとる。漢字に変換できるところは全部変換しているメール。

あー漢字知らないんだなー、と思う。
コンプレックスの表れなんだろうなー。漢字知らないばかだと思われたくない、という気持ちが必要以上に漢字変換に走らせちゃうんだろうなー。
結果、字面だけは文豪みたいなメールになっちゃってる。
そのうち「一寸(ちょっと)見せて貰おうかしら」「あァ可笑しい」とか大正ロマンあふれる文章を書きはじめるんじゃないだろうか。

彼らにとっては、内容を伝わりやすくすることより自分がばかだと思われないことのほうが大事なのだ。

そういうところがばかなんだぞ、と言ってあげたい。


2018年6月6日水曜日

時計の長針の読み方をどう教えるか問題


娘にひらがなもカタカナもたし算も教えたのだが「時計の読みかた」だけはどうやって教えたらいいのかわからない。
自分自身、どうやって覚えたのだろう。


短針はかんたんだ。
「短い針が3を指していて、長い針がいちばん上にきていたら3時」
これは娘もすぐ理解した。

だが長針がむずかしい。
大人に教えるのはむずかしくない。「長い針が指している数字を5倍した値が分を表すんだよ」でいい。
だがひき算も理解していない四歳児に「5倍」は伝わらない。

これはもうただただ暗記させるしかないのだろうか。
「3を指していたら15、5を指していたら25だよ」と。
ぼくもそう教えてみた。すると娘は言う。「なんで?」

なんで? そりゃそうだよね、当然の疑問だよね......。

なまじっか数字があるのがよくない。
これが「カメは5分、アヒルは10分、ウサギは15分……」だったら子どもはすぐに覚えてしまうだろう。子どもの記憶力は大人とはくらべものにならないから。
だが「1は5、2は10、3は15……」と言われると、「なんでそんなややこしいことするの?」となってしまう。

どうやって教えたらいいんだろう、とあれこれ考えてみた結果、達した結論はこれ。

「まっ、そもそも幼児が分刻みで行動することもないから今のところは読めなくてもいっか」

2018年6月5日火曜日

【DVD感想】『ピンポン』(映画)


『ピンポン』

(2002)
内容(Amazon primeより)
才能にあふれ、卓球が好きで好きでたまらないペコ。子供の頃から無愛想で笑わないスマイルにとってペコはヒーローだ。だが、ペコはエリート留学生チャイナに完敗。インターハイでも、幼なじみのアクマに敗れてしまう。一方スマイルは、コーチに才能を見い出され、実力をつけていく。現実の壁にぶつかったペコと強さに目覚めたスマイル。それぞれの道を歩き始めた彼らに、またインターハイの季節がやってきた…。
2002年の映画を鑑賞。
同じくらいの時期に原作漫画を読んだが、ずっと読み返していなかったので「あーこんなエピソードもあったようななかったような」と、新鮮な気持ちで楽しめた。

映画のほうが漫画よりわかりやすいね。CGも見事だし話もシンプル。ストーリー自体はそんなにひねりのない熱血スポ根なんだけど、卓球という題材、違和感のないCG、個性的なキャラクターのおかげで既視感を与えない。

ちょっと残念なのは、ペコもスマイルもイケメンだったこと。
原作ではもっとキモかったはず。そしてそのキモいやつらがラケットを握ると輝いて見える……というのが魅力だった。卓球という「いまいちかっこよくないスポーツ」をかっちょよく描いていたのにな。それをイケメンが演じたら「はいはい、イケメンだからかっこいいんでしょ」になっちゃうじゃないか。


青春ど真ん中ストーリーなんだけど、歳をとってから観るとアクマとか卓球部の先輩とかバタフライ・ジョーとか、「主役になれなかった人たち」に感情移入してしまう。
なんちゅうか、ぼくの青春は終わったんだなあとちょっぴり寂しい気もするぜ。


2018年6月4日月曜日

打ちどころが良かった


高校時代の友人たちと服部緑地公園でバーベキューをした。
おっさんになると集まるのも家族単位だ。
五歳、五歳、四歳、三歳、三歳、一歳、六ヶ月の子どもたちが集まった。

服部緑地公園には巨大遊具がたくさんある。
子どもたちをさんざん遊ばせて、そろそろ帰ろうかという段になって誰かが言った。
「あれ、ひとり足りない」
子どもが六人しかいない。一歳八ヶ月の男の子がいない。

ぞっとした。
公園はとても広い。甲子園球三十三個分もあるそうだ(関西の人間は東京ドームではなく甲子園球場を広さの単位として使う)。
公園には段差もある。池もある。柵はしてあるが一歳児だからちょっとした隙間から出ていかないともかぎらない。
大人たちが必死で走りまわって探した。

幸い、一歳児は三分ほどで見つかった。
百メートルほど離れたすべり台まで歩いていったらしい。もしものことがあったらと思うと肝を冷やした。

三歳以上になると勝手にあちこち走りまわるので、絶えず大人がつくようにしていた。
一歳児は遠くに行かないだろうと思って誰も気に留めていなかった。その一瞬の隙をついて行方をくらましたのだ。その場にいた全員が油断していた。



子育てをしてわかったのは「子どもが怪我したり死んだりしないのは運がいいだけ」ということだ。
やつらは一瞬の隙をついて怪我をする。

娘が二歳のとき、すべり台から転落した。
ついさっきまですべり台の上に座っていたのに、たった二秒目を離した間に後ろにひっくりかえって階段を転げ落ちたのだ。
けっこう高いすべり台で高さは二メートルぐらい。真っ青になった。

近くにいたおっさんがやってきて「今見てたけどすごい落ちたで。えらいこっちゃ」と何の役にも立たない上に不安だけあおる言葉をかけてきた。うるせえ。たいへんなのはわかっとるわ。
娘はびっくりして大泣きしているが、痛がっている様子はない。また意識もはっきりしている。
どうしよう、救急車を呼んだほうがいいだろうか、しかし見たところなんともなさそうだし。
とりあえず妻に電話をして状況を説明した。「救急を呼ぶかどうか迷ったら7119に電話しろって言われたよ」と的確なアドバイスをもらった。
ケガや病気で迷ったときに相談に乗ってくれる救急安心センターというところそうだ。
電話をしたところ「泣いているなら様子を見ていても大丈夫です。ずっと泣きやまなかったり吐いたりしたらすぐに救急車を呼んでください」と言われた。
不安は残ったが、少なくとも見知らぬおっさんの「えらいこっちゃ」よりは安心させてくれた。
幸い打ちどころがよかったらしく、娘はかすり傷ひとつ負っていなかった。後に残る怪我をしていたら一生後悔していただろう。心の底から安堵した。


高いすべり台にひとりで上っているときに目を離したぼくの不注意が原因だが、言い訳をさせてもらうとそれまで何十回も上っていたが一度も落ちたことがなかった。たまたま二秒だけ目を離したすきにバランスをくずして転げ落ちたのだ。

娘ひとりと遊んでいるときでもこんなことが起こる。まして複数の子どもを見ていたら、一秒たりとも目を離すなというのは無理な相談だ。

子どもを無事に育てあげるって、「たまたま打ちどころがよかっただけ」の積み重ねだね。