2024年9月8日日曜日

【読書感想文】清水 由美『日本語びいき』/社長も召し上がりたいですか?

日本語びいき

清水 由美(文)  ヨシタケシンスケ(絵)

内容(e-honより)
「させていただく」は丁寧か、馬鹿丁寧か。「先生」の読み方は本当に「センセイ」?よく知っているつもりの言い回しも、日本語教師の視点で見るとこんなにおもしろい!ヨシタケシンスケさんの、クスッと笑える絵とともに、身近な日本語のもうひとつの顔をのぞいてみませんか?

 日本語教師として外国人に日本語を教えている著者の、日本語エッセイ。

「日本語を学ぶ外国人のエピソード」は少なく、日本語まわりの話が中心。教師として誠実だ。

 昔、やはり日本語教師をしている人のコミックエッセイを読んだことがあるけど、「外国人がこんな言い間違いをしたんだよね。おかしいでしょ!」って感じがちょっと嫌だったんだよね。そりゃあ外国語を学んでるんだから間違えるでしょ、外国語を学ぶ日本人だってネイティブからしたら失笑ものの間違いをするだろうし、間違えた生徒を教師が他所で笑いものにしているとおもったら学ぶ気なくすわ……とおもったものだ。

 まあおもしろおかしく話したくなる気持ちはわかる(ぼくが日本語教師だったら絶対に話してる)けど、家族や友人に話すぐらいにとどめておくべきで、本にしちゃいかんよな。

 その点、この人は「日本語のおもしろさ」については語っているけど、生徒のことは極力書かないようにしている。必要に応じて書く場合でも匿名性を持たせて。いいスタンス。



 よく「日本語は敬語がむずかしい」と言われるが、実際は敬語(というより丁寧語)のほうがくだけた表現よりもずっとかんたんなんだそうだ。

 初級の日本語のテキストを見ると、会話文に次のような例が出てきます。
「スミスさん、お昼を食べに行きませんか?」
「いいですね。行きましょう」
「どこに行きますか?」
「きのうはミドリ食堂で食べましたから、きょうは……」
 これを不自然だ、ヘタな三文芝居を見ているようだ、と非難するのは簡単です。職場の同僚だったら、もうちょっとくだけた感じになるだろう、と。
「スミスさん、お昼食べに行かない?」
「いいね。行こう」
「どこ行く?」
「きのうはミドリ食堂で食べたから、きょうは……」
 確かにそうかもしれません。でも、「不自然な会話」には、理由があるのです。
 最初の例では、動詞はすべてマス形(=国文法でいうところの連用形)で使われています。「行き(ます)」という形さえ覚えてしまえば、活用ループの別に関係なく、あとは「ます」の部分を「ませんか/ましょう/ました」に入れ替えるだけです。それだけで、提案や誘いかけ、過去など、かなりのことが表現できます。一方、くだけた感じの二番目の例では、「行く」、「行かない」、「行こう」というように、動詞の本体部分を活用させなければなりません。しかも活用のさせ方は所属グループによって違うのですから、まずは所属の見極めが必要になってきます。
 さらに格助詞の省略も問題になります。「お昼を食べる」の「を」や、「どこに行く」の「に」は省略できるし、省略した方が自然ですが、「ミドリ食堂で食べた」の「で」は、どんなにざっくばらんな会話でも省略できません。助詞ごとに省略の可否を判断するのは、案外たいへんです。

  なるほど、「~ます」でしゃべるようにすれば、動詞の活用はひとつだけ覚えればいいわけか。

『食べる』なら『る』を取って『ない』に変える、
『行く』の否定形は『く』を取って『かない』に変える、
『走る』なら『る』を取って『らない』に変える、
『する』や『くる』は不規則に『しない』『こない』になる……と活用を覚えるのはたいへんだ。

 その点『食べます』『行きます』『走ります』『します』『きます』のような形でおぼえておけば、否定形にするときはすべて『ます』を『ません』に変えるだけなのでかんたんだ。

 またお店や駅の案内、ビジネスシーンで使うのたいてい丁寧語なので、日本で旅行したり仕事をする上では、丁寧語をマスターしておけばそんなに不自由はないかもしれない。

 それに「敬語でしゃべるべき場でくだけた言葉遣いをする」と「くだけた言葉がふさわしい場で敬語をしゃべる」だったら、後者のほうがずっとマシだしね。

 というわけで日本語初級をめざすのであればまずは敬語を学ぶのがよさそうだ。ただ最近は日本のアニメを原語で観たい! という動機で日本語を学ぶ人も多いらしく、そういう人にとってはくだけた言葉遣いのほうが大事のようだ。



 日本語には形容詞(形容動詞)がすごく多いという話。
 この谷の浅さを利用して、ルール違反ギリギリの、生きのいい表現を試みる例は数多く見られます。たとえば「昭和」という語をそのまま名詞として使って「昭和の歌」と言えば、それは昭和の時代に作られた歌ということになりますが、形容詞として「昭和な歌」と言ったらどうでしょう。実際には平成の御世に作られた曲かもしれなくても、昭和っぽい、昭和の空気をまとった歌ということを言いたいのだろうな、とわかります。「昭和」が遠のき、その属性が一般に認知されるようになってきた今だから、使える手です。
 (中略)
  ある名詞をめぐってこのように共通認識が成り立つかどうかというのが、それをそのままナ形容詞にできるかどうかのカギになります。だから「猫な色」は無理があります。全猫共通の色はありませんから。でも「猫な生活」、「猫な奴」、「猫な態度」は、なんとなく理解される気がする。少なくとも猫もちさんならわかるでしょう。

 概念を表す名詞はたいてい形容動詞化できる。自由な、博識な、優秀な……。さらに外国語の形容詞もほとんどそのまま形容動詞になる。ビューティフルな、アンビバレントな、ポップな……。そのまま形容動詞化するのがするのがむずかしい一般名詞であっても、「的」「風」をつければ、パンダ的、スマホ風、などになる。アメリカ的な、坂本龍馬チック、など、固有名詞でさえも。さらにさらに、「ちょっと背伸びしたい的コーディネート」のように文章ですら形容動詞になってしまう。うーん、むちゃくちゃ自由。

 いくらでも形容詞が作れる、ってのは他の言語にはなかなかなさそうな日本語の特徴だ。



 あまり知られていない日本語のルール。

 教室に入っていくと、初めて京都に行ってきたという学生がお約束の生八橋をクラスメートにふるまって、みんなでキャイキャイ騒いでいる。ほほえましく見ていると、 「先生もほしいですか?」
 え? あ? う、うん、嫌いじゃないけども、......あ、ありがとう、いただきます。
 内心で一私、そんなに物ほしそうな目をしてたかな」と激しくうろたえながら、片手に出席簿、片手に三角の生八橋をぶら下げて立ちつくす教師なのでした。
 日本(語)社会のルールその二、です。「目下は目上の感情(とくに欲望)を生々しく言挙げしてはならぬ」
 8章で触れた感情・感覚形容詞のルールに、他者の感情や感覚をストレートに表現することは日本語ではできない、というのがありました。「(寂しい)ようだ」、「(かゆ)そうだ」、「(痛い)らしい」とか、「(うれし)がっている」のように、間接化の手段を講じなければならないというルールです。
 しかし、こと目上の人の感情の場合、とくに「ほしい」とか「~したい」のような願望・欲望に関する表現の場合は、いくら間接化してもだめです。「先生もほしそうですね」とか「あの先生も食べたがっていました」のように言ってはいけない。たとえ文法的には正しくても、ダメ。ダメったらダメ。ひどくぶしつけに響いてしまいます。

 たしかになあ。「社長も召し上がりたいですか?」という表現、日本語文法的には正しいけど、実際に(社長の前で)使うのはNGだよなあ。

 こんなこと、学校では(たぶん)習わない。敬語の本にも書いてない。「社長も召し上がりたいですか?」はテストでは丸だが実社会ではNGだ。ほとんどの日本人は避ける。意識していないけど、まずい表現だと知ってはいるのだ。

 きっと日本語以外の言語でも、こういうのがいろいろあるんだろうな。「間違いとは言えないけどネイティブなら避ける表現」というのが。外国語学習ってむずかしいなー。


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2024年9月5日木曜日

小ネタ25(求人サイト / 演技プラン)


求人サイトはいつもひとつ 

「私が犯人だって? はっはっは、君、その想像力を活かして小説家にでもなったらどうだ? 小説家が嫌なら脚本家でもいいし、漫画の原作者という道もあるぞ。絵が描けるのなら漫画家になったらいいし、最近だと映像作品を作って世に出る人も少なくないな。またCMプランナーなんかも想像力を活かせるだろうからマーケティングの勉強をしてみるのはどうだ? 大学に入りなおすという手もあるがやはり近道は広告代理店に就職することかな。大手は狭き門だが中小企業なら今はどこも人材不足だから中途未経験でも決して無理ではないだろう。まずはこちらからかんたん60秒登録で君にぴったりの仕事が見つかるぞ!」


演技プランはいつもひとつ

探偵「そう、犯人はおまえだ!」

「私が犯人!? はっはっは。はーはっはっはっはっ。あははははははは。いーひっひっひっひっ。あは。あははは。あはは。えっ、ちょっ、まじで言ってんの、ひひひひ。待って待って腹痛い。ひいっ、ひいっ、いひひひ。やばいやばい、ふははははは、はあ、苦しい、わ、わたしが、はんにんひひひひひひうはははは。ありえんありえん、ははははんにんはははは。ぎゃははははふはーはっはっはっ」

探偵「これが芝居だとしたらすごい演技力だな。その演技力を活かして俳優にでもなったらどうだい?」



2024年9月4日水曜日

【創作】マングースバスターズのその後

 奄美大島でマングース根絶が完了した、というニュースを見た。

 かつて沖縄でハブやノネズミの駆除のために海外から持ちこまれたマングース。だがマングースは昼行性、ハブは夜行性だったために期待していたような効果は得られず、それどころかマングースが貴重な固有種を捕食するようになり、害獣化していた。そのマングースが海を渡って奄美大島にもやってきて繁殖していたため、奄美大島では“マングースバスターズ”というチームを作り、猟、罠、猟犬などの手段を使いついに奄美大島からマングースを根絶させたという。


 人間の都合で海外から連れてこられ、人間に害をなす外来種として目の敵にされ、そして人間の都合で滅ぼされる。

 マングースにしたらなんとも理不尽な話だ。気の毒に。

 だがそれは遠く離れたところにいるから言える話で、奄美大島に住んで被害を受けている人からしたら「マングースは何も悪くないから許してやろう」という気にはなれないだろう。


 とにかく奄美大島のマングースは滅ぼされ、一件落着した、かのように見えたのだが……。

 行き場を失ったのはマングース根絶のために結成されたマングースバスターズだった。狩るべき相手を失ったマングースバスターズたちは、マングースの代わりにべつの動物たちを狩りはじめた。困った島民たちはマングースバスターズに対抗するため武装して義勇軍を結成。血で血を洗う闘いが続き、ついに義勇軍はバスターズを壊滅させることに成功した。だが武力を持て余した義勇軍は……。





2024年9月2日月曜日

小ネタ24 (成人式 / 世界一どうでもいいニュース / ジェンダーフリー)


成人式

 知人が「来週、四十九日の法要があって、次の日は結婚式に参列して、その次の日はフェスに行く」と話していた。

 あと成人式さえあれば冠婚葬祭全制覇だ。

 ただ結婚式や葬儀に参列する機会はまあまああるが、市長にでもならない限り成人式に出席するのはたいてい一生に一度(かゼロ)なので連続コンプリートはむずかしい。


世界一どうでもいいニュース

 ニュースで「アイドルグループ××を卒業した○○さんを直撃! 卒業後に最初に食べたものとは!?」という世界一どうでもいいニュースをやっていた。

「出た後最初に何を食べた?」と訊かれるのは、アイドルグループを卒業した人と刑務所から出た人ぐらいだろう。


ジェンダーフリー

 テレビで男子高校生がスカートを履いてダンスを披露していて、審査員として来ていたおじいちゃんの某演出家が「ジェンダーフリーで良かったです」とコメントしていた。

 いやいや、ジェンダーフリーって言っちゃったらジェンダーフリーじゃないんだよ。それをジェンダーフリーだと明示するということは「ふつう男はスカートを履かないもの」という意識を明らかにするのと同じなわけで。

 「私は黒人も差別しません」と言うようなもので、その発言自体がフリーじゃない。



2024年8月31日土曜日

【読書感想文】ブレイディみかこ『他者の靴を履く』 / 他者に共感しないことも大事な能力

他者の靴を履く

アナーキック・エンパシーのすすめ

ブレイディみかこ

内容(e-honより)
「自分が生きやすい」社会に必要なものとは?感情的な共感の「シンパシー」ではなく、意見の異なる相手を理解する知的能力の「エンパシー」。この概念を心理学、社会学、哲学など様々な学術的分野の研究から繙く。うまく活用するために、自治・自立し相互扶助を行うアナキズムを提唱。新しい思想の地平に立つ刺激的な一冊。


「エンパシー」について語った本。

「エンパシー」とは何か。日本語では「共感」と訳されることがある。一方、「シンパシー」もまた「共感」と訳される。

 だが英語ではエンパシーとシンパシーは異なる意味を持つ言葉である(ただネイティブでも混用する人はいるそうだ)。

 英文は、日本語に訳したときに文法的な語順が反対になるので、エンパシーの意味の記述を英文で読んだときには、最初に来る言葉は「the ability(能力)」だ。
  他方、シンパシーの意味のほうでは「the feeling(感情)」「showing(示すこと)」「the act(行為)」「friendship(友情)」「understanding(理解)」といった名詞が英文の最初に来る。
 つまり、エンパシーのほうは能力だから身につけるものであり、シンパシーは感情とか行為とか友情とか理解とか、どちらかといえば人から出て来るもの、または内側から湧いてくるものだということになる。

 エンパシーもシンパシーもどちらも「他社の気持ちになって考える」に近い意味なのだが、エンパシーのほうは能力で、シンパシーのほうは感情、つまり自然に湧いてくるものだ。

 かわいそうな人を見て我がことのように胸を痛める、これはほとんどの人が共通しておこなうことだろう。程度の差こそあれ。

 だが「憎い人間の心情を察して、あいつにもやむにやまれぬ事情があるんだろうなと考える」は誰にでもできることではない。成熟していない人間にはできない。

 この「(半ば意識的に)他者の内面を洞察する能力」がエンパシーだ。著者はこれを「他者の靴を履く」と表現している。他者そのものになることはできないけど、他者の靴を履くことでその事情を想像してみよう、ということだ。



 といって、エンパシーはすばらしいものですよ、みんなもっとエンパシーを持っていきましょうね! ……という心もおつむもハッピーな本ではない。


 子どものころから「相手の気持ちになって考えなさい」とはよく言われるが、相手の気持ちに立ったからといって人にやさしくできるとはかぎらない。

 そもそも、我々は往々にして「相手の気持ち」を見誤るのだ。

 いくら相手の気持ちになろうとしても、己を捨てることなんてできない。

「あいつはつらそうだけど、俺だったらこれぐらいの状況ならぜんぜん耐えられる。だからあいつは大したことないのにつらそうなふりをしているんだな」なんて発想に至ることもよくある。これだって相手の気持ちになって考えた結果だ。

 人々の表情を見せてどんな感情かをあてるテストをおこなったところ、人間よりもAIのほうが正答率が高かったそうだ。

 さらにエンパシーとシンパシーの対象の定義を見ても両者の違いは明らかだ。エンパシーのほうには「他者」にかかる言葉、つまり制限や条件がない。しかし、シンパシーのほうは、かわいそうな人だったり、問題を抱える人だったり、考えや理念に支持や同意できる人とか、同じような意見や関心を持っている人とかいう制約がついている。つまり、シンパシーはかわいそうだと思う相手や共鳴する相手に対する心の動きや理解やそれに基づく行動であり、エンパシーは別にかわいそうだとも思わない相手や必ずしも同じ意見や考えを持っていない相手に対して、その人の立場だったら自分はどうだろうと想像してみる知的作業と言える。
 しかし、考えてみれば、AIのほうが生身の人間よりも他者の感情を正確に認識できるのは不思議なことではない。わたしたちが他者に対するエンパシーを働かせようとするとき、自分自身の経験や思想の問題を完全に取り去ることは難しい。人間である以上、どうしても「自分がその立場ならこう感じるに違いない」という「マイ価値観」に立脚したものになりがちで、開かれたフラットな考察にはならないことが多いからだ。これは自己を対象に投射したエンパシーは本物ではないと前世紀半ばの心理学者たちが言ったことでもある。
 他方、AIには生身の人間としての人生経験や思想はないので、「マイ価値観」や「自分だったら」に目を曇らされず、ニュートラルに他者の感情を読むことができる。AIのエンパシーには「こんな汚い靴は履きたくない」という先入観もない。つまり、エンパシーのカテゴリー分けで言うところのコグニティヴ・エンパシー(認知的エンパシー。感情的にならずに理性的に他者の立場に立って想像してみる)という分野では、人間よりもAIのほうが能力的に上なのだ。

 人間は視覚的情報に「自分だったらこうおもう」という価値を付与してしまうのでまちがえる。

 「自分だったらどう感じるだろう?」と想像することはできても、想像はどこまでいっても想像でしかない。


 そのへんの「想像のまちがい」をぼくがよく感じるのは、街頭演説や政治デモだ。

 街頭演説やデモ行進を見るとぼくはたいてい「うっせえな」とおもう。政治に興味がないわけではない。人一倍あるほうだとおもう。それでも往来で自分の主張を大きな音で垂れ流している人に感じるのは「うっせえな」だ。比較的同意できる主張であってもやっぱり「うっせえな」だ。

 そう感じているのはぼくだけではあるまい。街頭演説やデモ行進などは「基本的に嫌い」が多数派だとおもう。

 じゃあ大きな音で自分の主張を垂れ流している人は、想像力がないのだろうか。他人のことをまったく考えていないのだろうか。

 そんなこともないだろう。主張はちがえど、みんなそれぞれより良い世の中にしたいと考えているから政治活動をしているのだ。自分さえよければ他はどうでもいいとおもっている人は、政治に熱心にならないだろう。

 じゃあ他人を思いやれる人がなぜ街頭演説やデモ行進などの“迷惑行為”をするのかというと、他人の気持ちを想像はしているが、その想像がまちがっているからだとおもう。

 自分は日本の未来を憂いている、政治を変えることが重要だとおもっている、大きな音で他人の主張を聞かされることは迷惑かもしれないがその迷惑を上回るだけの利点があるとおもっている、だからもし自分が「街頭演説を聞かされる側」だったとしたら許す、だから許してもらえるはず。こう考えているのだろう。

 他者の気持ちを想像することはできるが、その想像がまちがっていることはよくある



「人の立場に立って考えてみましょう」というお説教にはうさんくさを感じる。

 それって、人の気持ちを勝手に想像してるだけじゃないの? へたしたら何も考えないほうがマシじゃない?


 よく見るのは、恵まれない出自だったのに努力と才能と運に恵まれて成功を収めた人が、弱者にやさしくなるどころか、もともと裕福だった人以上に厳しくなること。

 あれってまさに「人の立場に立って考えている」からこそだよね。

 おれは不利な環境からがんばって成功を収めたんだ、おれがあいつの立場なら努力してそこから抜け出してる、やればできる、すなわちできないやつはやらなかったやつだ! という思考。


 よく言われることだけど、人は自分が通ってきた道に厳しいんだよね。子育てについて口やかましく非難するのは四十代~五十代ぐらいが多い、とか。

 あと自分が心がけていることをないがしろにしている人が許せない、とか。たとえばこんな経験がないだろうか。

 レジに並ぶときに、少し前から財布を取りだしてお金も取り出しすぐに支払えるようにしておく。するとひとり前に並んでいた老人が「〇〇円です」と言われてからようやく財布を取りだしゆっくりお金をさがしはじめる。「あらかじめ用意しとけよ!」と腹が立つ。

 ぼくはしょっちゅうある。これは「相手の立場に立って考えているからこそ許せない」だよね。



 もちろんエンパシーにはいい面もある。必ずしも悪いことではない。

 ぼくが言いたいのは「他者の立場に立つのはいいことと悪いことが同じぐらいある」ということ。だから「人の立場に立って考えましょう」はただの怠慢だとおもう。ぼくがそのお説教を垂れる側の立場に立って考えたら。


 他に、エンパシーを強く感じることの悪い面は「自分自身がしんどい」ということだ。

 あそこに貧しい人がいる、そこにも身体の不自由な人がいる、あの人は家を失った、この子はひどい家庭環境にある、世界の遠く離れた国では戦争で子どもたちが死んでいる……。

 世の中は不幸であふれているから、いちいち他者のために己の胸を痛めていたら身が持たない。マザーテレサはえらいかもしれないけど、みんながマザーテレサだったら人類はあっというまに絶滅するだろう。

 エンパシーを感じすぎれば、罪悪感をおぼえる。そんなに不幸でない自分が悪いことをしているような気分になる。

 つまり、わたしたちはguiltから解放されたいのだ。エンパシーの能力が高い人ほどguiltは強い。遠くの見知らぬ人々の靴まで履こうとするともう先進国の人間は罪の意識を感じるしかないからだ。そんな社会では、できればエンパシーのことは忘れたい。そんなものはないほうが楽に生きられるからだ。しかし、災害時にはエンパシーが罪の意識を伴わないものになる。それは互いを生き延びさせるポジティヴな力になるからだ。guiltの意味をオックスフォード・ラーナーズ・ディクショナリーズのサイトで見ると、こう書かれていた。
 
  自分は何か間違ったことをしたと知っていること、または思うことによって生ずるアンハッピーな感情
 
 このシンプルな定義を読むと気づく。罪悪感とか罪の意識とか言うとひどくヘヴィだが、guiltとは大前提としてアンハッピーな感情なのである。
 「助けなかった」というアンハッピーな気分に曇らされずに人生をハッピーに送りたいという欲望が人を利他的にさせるのだと考えれば、むべなるかなという気持ちになってくる。利他的であることと利己的であることは、相反するどころか、手に手を取って進むのだ。
 「迷惑をかけたくない」という日本独自のコンセプトは、一見、他者を慮っているようで、そうでもないのだろう。人を煩わせたくないという感覚は、ここに書かれている通り、人にも煩わされたくないという心理の裏返しだからだ。

 言われてみれば、ぼくは半ば意識的、半ば無意識的にエンパシーから逃げようとしている。

 悲劇的なニュースはあまり見ない(ただし凄惨な事件を扱った小説を読むことはけっこうある。フィクションなら被害者にエンパシーを感じなくて済むからね)。難民の支援をしている国連UNHCR協会に毎月寄附をしているが、会報はほとんど読んでいない。つらくなるだけだし、恵まれた環境にいるのに月数千円の寄附をしただけでいいことをした気になっている自分の罪深さをつきつけられるから。

 エンパシーを感じるのはしんどいのだ。

 ぼくは極力他人にお願いをすることはない。べつに自分を厳しく律しているわけではなく、なるべく迷惑をかけないから、こっちにもあんまり迷惑をかけないでねという自分勝手な思いがあるからだ。

 そういう生き方ができるのも、今のところぼくがまあまあ健康で、それなりに経済的に余裕がある、社会的「強者」の側でいるからだ。

 だがどんな人でも永遠に強者でいることはできない。老い、不健康になる。事故や天災で財産を失うことだってある。そんなとき、ぼくは他人に頼ることができるだろうか。

 エンパシーを感じないようにして生きてきたかつての自分自身の「なるべく迷惑をかけないから、こっちにもあんまり迷惑をかけないでね」という呪いから逃れることができるだろうか。



 他者に対してエンパシーを感じやすい人には、他者に従属しやすくなってしまうという一面もあるそうだ。

 そう考えると、エンパシーは個人を組織に従属させるツールにもなる。人間は常に一人の他者の靴しか履けず、複数の他者の靴をいっせいに履くことはできないという「エンパシーのスポットライト効果」を指摘したのはポール・ブルームだったが、逆にたった一人の靴を大勢の人間が履くことは可能だ。これを利用し、トップに立つ一人の人間に組織を象徴させれば、大人数の組織でも構成員の忠誠心を獲得することができ、政治的システムが出来上がって行く。トップが亡くなると構成員とのエンパシーによる忠誠を引き出す役割は、二代目、三代目のトップへと引き継がれる。だとすれば、どれほどAIが進化して人間よりも適切な判断を下すことができるようになったとしても、企業のトップに据えることはできないだろう。人間がAIの靴を履くことができるようになるまでは無理だ(もちろん、そうなる日が来ないとは誰にも言えない)。

 自信たっぷりな強烈なカリスマを前にすると、その人物にエンパシーを感じてしまう。それがよい方向に転ぶこともあるが、ブラック企業の経営者や、某元アメリカ大統領のような〝自身たっぷりの悪〟がほとんど信仰の対象になってしまうということもありうる。


 結局、エンパシーはそれ自体が善でも悪でもなく、使い方によって善にも悪にもなるんだよね。

「世間で叩かれる人にエンパシーを抱いて事情を理解しようとする」人もいれば、「被害者に過度の共感をおぼえてしまい炎上に参加する」みたいなケースもある。

「他者の気持ちになって考える」ことは重要な能力だけど、同時に「他者の気持ちにならずにいる」こともまた大事な能力だよね。


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