2020年6月16日火曜日

映画の割引券を配ってるおっちゃん

まだいるのかな。
小学校の前で映画の割引券を配ってるおっちゃん。

ぼくが子どものころは夏休み前になると現れた。
朝早くから校門の前に立って、投稿してくる子どもたちにドラゴンボールとかの映画の割引チケットを配っていた。
割引ったって50円引きだか100円引きだかでたいして安くなってないんだけど。
でも小学生はばかだから、カラーで印刷された紙に
100円引き」
って書いてあるものを見て、
「この紙は100円の価値があるぜー!」
なんつって昂奮して集めてた。
おっちゃんはひとり一枚しかくれないから、校門を出たり入ったりして何枚ももらってるやつがいた。
そういうやつにかぎって映画観にいかないから無価値なんだけど。
でも男子小学生ってタダでもらえるもんなら病気でももらうって人種だから、「(映画を観にいく人にとっては)100円分の価値があるカラープリントの紙」をもらえることはめちゃくちゃうれしかった。

今でもあの類のおっちゃんいるのかな。
もういないかもしれないな。21世紀だもんな。
昔はどろくさい宣伝活動してたんだなー。

とおもったけど、よく考えたらあれはじつに効率的なマーケティング手段だ。



ぼくはWebマーケティングの仕事をしているけど、いちばん頭を悩ませるのは
「いかに狙ったターゲットだけに広告を配信するか」
だ。

たとえば弁護士が遺産相続の広告を出すとして。
・最近、親などの親戚が亡くなった(または亡くなりそう)
・遺産が多い
・親戚間でトラブルになっている(またはなりそう)
という条件をすべて満たしていないと、弁護士にとっては顧客になりえない。
トラブルにならないと弁護士に相談する理由がないし(司法書士とか税理士とかに頼んだほうが安い)、遺産が少なければ弁護士に相談したほうがかえって高くつく。

でも、条件をすべて満たしている人だけに広告を出すのはむずかしい。
「1億円 相続 トラブル」
みたいなキーワードで検索してくれたらいいけど、たいていの人はそんなに丁寧に検索しない。
「相続」「相続トラブル」「相続 相談」とかで検索する。
で、そのうち大半は弁護士にの顧客にならない。
相続額が少なかったり、親戚間でもめていなかったり、まだ親がピンピンしていたりする(芸能人が死んでその相続人が誰なのか知りたいだけ、なんて下世話なやつも多い)。

Web広告は基本的に配信した量に比例して料金が発生するから、関係ない人に配信すればするほど無駄なコストも増えることになる。
だからといって「1億円 相続 トラブル」で検索されたときだけ広告を表示する設定にしても、ほとんどクリックされない(おまけにそういうキーワードは競争も激しい)。

だから
「狙ったターゲットだけに広告配信をする」
ことができるかどうかが、マーケティングの成否のカギを握っている。
これはWebマーケティングにかぎった話ではない。
基本的にどの媒体でも、ターゲットじゃない人の目に増える回数が増えるほど広告の費用対効果は悪くなる



「小学校の前で男子だけにドラゴンボールの映画の割引券を配る」
は、すごく精度の高いマーケティング手段だ。

的確にターゲットだけにアプローチできる。

たとえば「新聞折りこみで割引チラシを入れる」と比べてみると明らかだ。
折りこみなら、子どものいない家庭にも配られる。
子どもがいたとしても、子どもが目にする前に捨てられる可能性も高い。
すべて無駄になる。
テレビCMならもっと無駄が多い(近くに映画館のない地域にも配信されるしね)。

インターネットの時代になっても、小学生だけにアプローチする広告手法として
「校門の前でビラ配り」ほど効率のいい方法は他にないだろう。

2020年6月15日月曜日

【読書感想文】人生の復習と予習をいっぺんに / ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』

アルジャーノンに花束を

ダニエル・キイス (著)  小尾 芙佐 (訳)

内容(e-honより)
32歳になっても幼児なみの知能しかないチャーリイ・ゴードン。そんな彼に夢のような話が舞いこんだ。大学の先生が頭をよくしてくれるというのだ。これにとびついた彼は、白ネズミのアルジャーノンを競争相手に検査を受ける。やがて手術によりチャーリイの知能は向上していく…天才に変貌した青年が愛や憎しみ、喜びや孤独を通して知る人の心の真実とは?全世界が涙した不朽の名作。著者追悼の訳者あとがきを付した新版。

知的障害者のチャーリイが、実験手術を受けた結果、知能が飛躍的に向上する。
平均的な知能になり、さらには常人をはるかに上回る知能を手に入れたチャーリイ。
だが彼の知能が向上するにつれて周囲の人々はよそよそしくなり、チャーリイ自身も失望や怒りを味わうことが増える……。

何度も映像化されている作品だからあらすじは知っていたのだが(鑑賞はしていない)、それでもやはり胸を打つ名作だった。

特にラストの一文の美しさは印象に残った。
物語すべてがこの一文のためにあったかのよう。この一文にチャーリイの優しさや苦しみがすべて現れている。
まちがいなく文学史上トップクラスの「ラスト一行」だ。

最後の最後でこんなに感動したのは漫画『モンモンモン』の単行本版ラスト一コマ以来だ……(下品なギャグ漫画なのにラストはめちゃくちゃ泣けるんだよ)。



自分の知能が人並みになったことを喜ぶチャーリイだが、やがて周囲の人たちと衝突するようになる。
知能レベルが低かったときには気づかなかった周囲の不正や悪意に気づくようになるのだ。
周囲もまた、これまでは「取るに足らない相手」と見下していたチャーリイが一人前にものを言うことに反発するようになる。

チャーリイと、パン屋の同僚との会話。
「いや」と私は食いさがった。「今――今でなくちゃだめだ。あんたたちは二人ともぼくを避けている。なぜだ?」
 フランク、早口の、女好きの、調停役のフランクがちらっとぼくを眺め、それからトレイをテーブルに置いた。「なぜだって? 言ってやろうか。なぜかっつうとな、おめえが、とつぜん、おえらいさんの、物知りの、利口ものになっちまったからよ! いまじゃおめえは、ご立派な天才の、インテリだもんな。いつだって本を抱えてよ――いつだってなんだって答えられないことはないもんな。いいかい、まあ開けよ。おめえは自分がここにいるおれたちよりえらいと思ってるんだろう? なら、どっかほかへ行きな」

ぼくには一歳と六歳の娘がいる。
どちらも楽しく過ごしている(と信じている)が、どっちがより楽しい日々を送っているかというと、一歳のほうだろう。

遊びたいときに遊んで、腹が減ったら泣けば食べ物を与えられ、眠くなったら寝て、嫌なことがあれば大声で泣き、楽しいときは満面の笑みを浮かべる。
楽しそうだ。

一方、六歳のほうは、嫉妬心とか虚栄心とか羞恥心とか自尊心とか複雑な感情にふりまわされて、怒ったり傷ついたりしている。
大人に比べたらよっぽど感情表現が素直だが、それでも「いろいろわかる」からこその苦しみからは逃れられない。

それが正常な発達だとはわかっていても、子どもの成長を見ていると
「成長って当人にとっては苦しいものだな」
と感じずにはいられない。



チャーリイの知能は常人を超え、誰も手の届かないレベルまで向上する。
「口をはさまないで!」声にこめられた真剣な怒りが私をひるませた。「本気で言ってるのよ。以前のあなたには何かがあった。よくわからないけど……温かさ、率直さ、思いやり、そのためにみんながあなたを好きになって、あなたをそばにおいておきたいという気になる、そんな何か。それが今は、あなたの知性と教養のおかげで、すっかり変わって――」
 私は黙って聞いてはいられなかった。「きみは何を期待しているんだ? しっぽを振って、自分を蹴とばず足をなめる従順な犬でいろというのか? たしかに手術はぼくを変えた、自分自身についての考え方を変えた。ぼくはもう、これまでずっと世間の人たちがお恵みくださってきたクソをがまんすることもなくなったんだ」
「世間の人たちは、あなたにひどいことはしなかったわ」
「きみに何がわかる? いいか、その中でいちばんましな連中だって、独善的で恩着せがましくて自分が優越感にひたって、自分の無能さに安住するためにぼくを利用したんだ。白痴にくらべれば、だれだって自分が聡明だと感じられるからね」

以前、高学歴大学のほうが学生の自殺率が高いと聞いたことがある。
その話が事実かどうかは知らないが、さもありなんという気がする。

ぼくの大学のサークルの三年先輩に、Kという人がいた。
ぼくはKさんに会ったことがない。なぜならKさんは、ぼくが入学する直前に自殺したからだ。
会ったことはないが、他の先輩を通してKさんの話は何度か耳にした。
「ばつぐんに頭の切れる人だった。ユーモアのセンスもあった」
「あんな頭のいい人はほかに知らない」

日本各地から学生の集まってくる国立大学だったので、学生たちはみんな多かれ少なかれ自分の頭脳に自信を持っている。
そんな人たちが口をそろえて「頭のいい人だった」と言うのだ。
亡くなった人だから美化されていた部分もあるのだろうが、それを差し引いても相当の切れ者だったのだろう。

Kさんがなぜ自死を遂げたのかぼくは知らない。他の先輩たちも詳しくは知らないようだった。
きっと、頭のいい人にしかわからない悩みや孤独があったのだろう。

ウィリアム・ジェームズという人の言葉に
「Wisdom is learning what to overlook.(知恵とは、何に目をつぶるかを学ぶこと)」
なるものがある。
なんでも知っている、なんでも理解できることは必ずしも幸福にはつながらないのかもしれない。



チャーリイの戸惑いは、自分自身の知能が短期間で急成長したこと、そして急激にまた衰えたことに由来している。

これはチャーリイだけが味わっている苦悩ではない。
スパンはもっと長いが、ほとんどの人間が味わっていることではないだろうか。


幼いころ、親は絶対的な存在だった。
決してまちがわない。なんでも知っている。進むべき道を知っている。親の言うことは正しい。

やがて、その考えが正しくないことに気づく。
親も知らないことだらけで、しょっちゅうまちがえて、感情のおもうままに行動し、怠惰で、嫉妬深くて、愚かな、どこにでもいるひとりの人間だと。

思春期の頃に親の不完全さに気づき、その矛盾に憤りを感じる。
「えらそうなこと言ってるくせに自分はぜんぜんできていないじゃないか!」
と。

そこで親と決裂する人もいるだろうが、たいていの人はときどき親と衝突しながらも徐々に受け入れてゆく。

親だけでなく、友だちの親も、親戚のおじさんおばさんも、教師も、テレビでえらそうな顔をしてしゃべっている人たちも、有名スポーツ選手も、作家も、いいところもあれば悪いところもある人間なんだということが少しずつわかってくる。
人間だからいいところもあれば悪いところもあるよね、完璧な人間なんていないよね、と。

社会に対しての接し方も同様。
どんなに正しくまじめに生きていても理不尽な不幸に見舞われることがある。その一方で悪いやつがのさばっていて甘い汁を吸っている。
世の中の不条理さに憤りを感じながらも、たいていの人はほどほどのところで折り合いをつけてゆく。


若いころはぐんぐん成長していくから、成長を止めた大人を見ると怠惰に見えて仕方がない。
ぼくも高校生ぐらいのとき、学業に関しては明らかにぼくより劣っているのにえらそうにふるまう父親を軽蔑していた。

やがて自らも老いると、(少なくとも学習に関しては)成長するのが難しくなり、停滞、そしてゆるやかな下降へと遷移する。
そして認知症を発症すると急激に記憶が失われてゆく。

ぼくのおばあちゃんも認知症になった。
症状が進行した今ではおだやかな痴呆老人になったが、初期の「ときどき正気に戻ることがある」ぐらいのときは不安やいらだちを隠そうともせず、ずいぶん攻撃的になっていたらしい(らしい、というのはその期間はぼくとはあまり会おうとしなかったし母も会わせようとしなかったからだ)。


  己の見分や思索が深まる
⇒ 周囲の矛盾や不正に気付く
⇒ 矛盾や不合理を徐々に受け入れる
⇒ 自身の衰えに気づく
⇒ 自身の衰えを受け入れる

この、ふつうの人間なら八十年ぐらいかけてゆっくり経験してゆくステップを、『アルジャーノンに花束を』のチャーリイはわずか数ヶ月で味わうことになる。

そのショックたるや、どれほど大きなものだろう。
小説の中では、チャーリイの独白という形で丁寧に苦悩を表現している。

ぼくは知的障害者の気持ちも天才の気持ちも認知症患者の気持ちも知らないけど、この状況に置かれたらこう考えるだろうな、といった苦悩がつづられている。
なんたる説得力。

ぼくが小説に対してもっとも重きを置くのは「いかにもっともらしいホラを吹くか」なのだが、『アルジャーノンに花束を』はその点でも超一流のSF小説だ。

説得力十分だからいやおうなく小説の世界に引きずりこまれる。
チャーリイの体験をなぞることができる。
そう、人生八十年をチャーリイと同じく超スピードで駆け抜けることができるのだ。

人生の復習と予習をいっぺんにやったような読後感だった。



改めて書くけど、大傑作。

テーマ、アイデア、構成、人物描写、どれをとっても一級品。

特におそれいったのは文体。
知的障害者の文章から天才の文章まで、変幻自在という感じ。
このエッセンスを受け継いだまま絶妙な日本語にしてみせた翻訳も見事。

魂を揺さぶってくれる小説だった。

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2020年6月12日金曜日

お世辞が過ぎる


六歳の長女とエレベーターに乗っていたら、同乗していたおばちゃんから
「お嬢さんですか?」
と訊かれた。

??

一歳の次女ならわかる。
まだ髪も短いし、赤ちゃんの顔なんて男も女も似たようなものだ。

けど長女はもう六歳だし、髪も肩まで伸ばしている。
おまけにそのときは赤いランドセルを背負っていた。
多様性を認めなきゃいけない時代なので「どっからどう見ても」とまでは言えないが、まあ誰が見たって99%女の子だろう。
「お嬢さんですか?」と訊いてくる意図がわからない。

戸惑いながら「はい」と答えると、おばちゃんは言った。
「まあ! ご兄妹かとおもいました! お嬢ちゃん、おとうさん若くてかっこいいわねえ!」

んなあほな。

お世辞が過ぎる。
いくらなんでもぼくが六歳の女の子のお兄ちゃんには見えるわけがない。
あと数年で四十歳。髪には白いものも増えてきた。
どんなお兄ちゃんやねん。
三十歳離れた兄妹だとしたら、おかあさんがんばりすぎやろ。


驚いたのを通りこしてなんだか怖くなった。
なんなんだこのおばちゃん。
目的はなんなんだ。
高校生の女の子とおかあさんが並んでいるのを見て「まあ、姉妹かとおもいましたわ」とおだてるならまだ理解できるが、知らないおっさんをつかまえて「お若いですねー」と言って、おばちゃんになんの得があるんだ。
いったい何を売りつけようとしてるんだ。
おだてたって、三千円ぐらいまでのものしか買ってやらんぞ。


2020年6月11日木曜日

無精卵


ごはんを食べていると、子どもに「この卵をあたためたらヒヨコが出てくるの?」と訊かれた。

ぼく「それは無精卵といって中に赤ちゃんのもとは入ってないんだよ。だからあたためてもヒヨコは孵らないよ」

子どもは「ふーん」と一応納得したようだったが、横で聞いていた妻が言った。

妻「でもなんで無精卵なんか生むんだろう。ニワトリからしたら資源の無駄でしかないのにね」

ぼく「月経みたいなもんじゃない? あれだって受精しなかった卵(らん)でしょ? 子どもを産む準備してたけどタイミングが合わなかったから準備してたものを捨てるんじゃないの」

妻「その言い方だとまるで月経が無駄なものみたいじゃ……。あっ、無駄だわ。あんなもの、無駄以外のなにものでもないわ!」

考えているうちになんだかいろいろと怒りがこみあげてきたらしく、

「くそう。いいなあ、ニワトリは。まだ月経が他の生物の役に立って……。人間なんてしんどいだけで何の役にも立たないのに……」

とぶつぶつ言いだしたので

「もし宇宙人が侵略してきて人間が家畜にされたら、月経で排出されたものもおいしく食べてもらえるかもしれないよ」

と言ったのだが、「それはそれでイヤ」とのこと。


2020年6月10日水曜日

【読書感想文】絶妙な設定 / 西澤保彦『瞬間移動死体』

瞬間移動死体

西澤保彦

内容(e-honより)
妻の殺害を企むヒモも同然の婿養子。妻はロスの別荘、夫は東京の自宅。夫がある能力を使えば、完璧なアリバイが成立するはずだった。しかし、計画を実行しようとしたその時、事態は予想外の展開に。やがて別荘で見知らぬ男の死体が発見される。その驚愕の真相とは?緻密な論理が織り成す本格長編パズラー。

西澤保彦氏の作品といえば、以前に『七回死んだ男』を読んだことがある。
たしか、1日前にタイムリープする能力を持った主人公が、何度も殺人事件に巻きこまれながら推理するという話だった。
「SF+ミステリ」「何度やりなおしても被害者が殺されてしまう」というアイデアはおもしろかったのだが、残念ながら謎解きや結末についてはまったく記憶に残っていない。
さほど性に合わなかったのだろう。


『瞬間移動死体』も、SFとミステリを組み合わせた作品だ。
主人公は思い描いたところに瞬間移動できる能力を持っている。

めちゃくちゃ便利じゃないか、どんな犯罪でもやりたい放題じゃないか、とおもうが、話はそうかんたんではない。
この能力には、大きく三つ制約がある。
  • 飲めない酒を飲んで酩酊したときしか瞬間移動できない(ただし瞬間移動と同時にアルコールは身体から抜ける)。
  • 身一つでしか瞬間移動できない。ものを持っていけないのはもちろん、着ていた服も脱げて移動先では全裸になってしまう。
  • 自分がA地点からB地点に瞬間移動するのと引き換えに、B地点にあったものがなにかひとつA地点に瞬間移動する。何を引き換えにするかは選べない。

この制約があるため、たとえば「銀行の金庫の中に移動して金を持って帰る」みたいなことはできない。
金庫の中に移動したとしても、移動先に酒がないから戻ってくることができない。
仮に酒があったとしても、札束を持ったまま瞬間移動することはできない。手ぶらで行って手ぶらで帰ることになる。
また日常生活にも使えない。遅刻しそうだから瞬間移動で……とやろうにも、向こうには全裸で現れることになるのだから。

意外と使えない能力なのだ。

だが、主人公が妻に対して殺意を抱いたときに気づく。
アリバイトリックに使えるじゃないか。

日本から瞬間移動でアメリカに行き、妻を殺す。
瞬間移動で戻ってくる。
パスポートには出入国履歴がないから鉄壁のアリバイを手に入れることができる。
完全犯罪だ。

ところが主人公がアメリカに瞬間移動したとたん、おもわぬ邪魔が入る。
やむなく殺害を先延ばしにするのだが、なんとまったく身に覚えのない死体が発見され……。

と、なんとも意外な展開に。



まったく先の読めない設定で、すばらしい導入。
能力の制約が絶妙なのだ。

だが……。

ううむ。
やっぱり性に合わなかったなあ。

なんでだろうな。

SF要素があるとはいえ、ミステリとしてはすごくフェア。
前半にすべての条件を提示し、その中で謎を生みだして解いてみせる。
事件発覚にも謎解き作業にも謎の真相にも、瞬間移動能力がからんでいる。
設定に無駄がない。

無駄がなさすぎるのかなあ。
小説というよりパズルみたいなんだよね。

瞬間移動に関係するトリックをまず作って、それを引き立てるためにおあつらえ向きの舞台とふさわしい登場人物を配置して、トリックを成功させるためだけに全員が行動する。
ハプニングも起こるけど、それもトリックを成立させるために必要不可欠なハプニング。予定通りのハプニング。

ピタゴラスイッチを観ているような気分になるんだよね。
「よくできてんなー」とはおもうけど「どうなっちゃうの?」って気持ちにはならない。
「最後はしかるべきところに収まるんだろうな」って気分で読んでいた(そしてじっさいそうなった)。

精密に作りこまれすぎたミステリって好みじゃないんだよね。
多少は無駄なストーリーとかどうでもいい会話とかがあったほうがいい。
や、『瞬間移動死体』にはあるんだけどね。
ものぐさな主人公とか、すごくいびつな夫婦関係とか、可愛さあまって憎さ百倍みたいな憎悪とか。
でもそういうのもとってつけたように感じてしまったな。

漫画『DEATH NOTE』を読んだときも同じようなことをおもった(ただ『DEATH NOTE』は後から小出しでルールをどんどん追加してくるのでぜんぜんフェアじゃない。『瞬間移動死体』のほうがはるかによく練られている)。
あの漫画を好きだった人なら楽しめるかもしれない。


よくできてるけど、ぼくの好みには合わない作品でした。ぺこり。


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