2020年6月1日月曜日

緊急事態宣言下の生活について


緊急事態宣言下の生活についてのふりかえり。
備忘録的に。

仕事について


丸々二ヶ月ほど、完全リモートワークだった。
元々パソコンと電話さえあればほとんどできる仕事だった。
ときどき客先に行って打ち合わせをすることはあったが、「こんなご時世ですので訪問するのもかえって迷惑かとおもいますので電話かビデオチャットで打ち合わせさせていただけないでしょうか」と言って断られたことはない。
なので比較的スムーズにリモートワークに移行できた。

後輩から教えてもらったChrome リモートデスクトップを使用。
Googleアカウントにログインしてさえいれば自宅PCから会社PCを動かせるのだ。社内ネットワークにもアクセスできるので支障はない。
会社ではデュアルディスプレイにしていたが自宅はモニターひとつなので(二台も並べられるスペースがない)少しストレスだったが、社長に愚痴ったら大きいディスプレイを買ってくれた。
気前がいいなとおもったが、リモートワークになれば交通費や電気代やドリンク代(うちの会社では飲み物を自由に飲んでいい)の会社負担が減るわけだからそれぐらいどうってことないのかもしれない。

業務自体はほとんど支障はなかった。
むしろ平常時より効率が良かったかもしれない。
サボってしまうんじゃないかとおもっていたがそれなりにちゃんとやれたし(短時間はサボる。でもそれは会社にいても同じ)、余計な電話や通勤時間がなくなった分、仕事をしている時間が増えた。

インターネット広告の仕事をしているのだが
「こんなご時世なのでインターネットで集客したい」
みたいな問い合わせがちょこちょこあり、ふだんより業績はいいぐらいだった。

体調面について


新型コロナウイルスには感染しなかった(とおもう)のだが、ずっとリモートワークだといろいろと不具合が生じる。

まず痔が再発したこと。
はじめのうちは適当な椅子に座っていたのだが、てきめんにケツがいたくなった。脱肛して、切れ痔になって出血までした。
こりゃやばい。以前にも痔で病院に行ったことがあるが、こんなご時世なのでなるべく病院に行きたくない。こんなご時世じゃなくても痔で病院には行きたくない。
あわてて痔の薬と、痔にいいというクッションを買う。適当な台に座っていたのだがちゃんとした椅子に座ることにする。
座り方を変えたら痛みも治まった。あぶねえ。
「入院することになったんですよ」「え!? コロナですか!?」「いや痔で……」なんてやりとりをしたくない。
椅子は大事だね。

運動不足について。
元々インドア派の人間なのでさほどストレスは感じなかった。
とはいえさすがにこれは運動不足が過ぎるな、とおもった。なにしろ1日の総移動距離が100メートルにも満たないぐらいなんだもの。
そこで朝、子どもと外に出て遊ぶことにした。
すぐ前の公園に行って遊ぶ。といってもボールを軽く蹴ったりいっしょにすべり台をすべるぐらいでほとんど運動にはならないが。まあ一日中家にいるよりはマシだろう。
あと長女の学校の宿題で「毎日ラジオ体操をすること」とあったので、ぼくもいっしょにおこなう。
ううむ、いい運動になるなあ。大人になると肘を肩より上にあげることなんかほとんどないもんなあ。

子どもとのかかわりについて


六歳(一年生)と一歳の子どもがいるのだが、どちらも家にいた(保育園はやっているがなるべく来るなと言われたので)。

六歳のほうは「今から大事なお電話するからちょっと向こうに行っといて」と言えば聞いてくれるが、それ以外のときはぼくの近くにいる。じゃまこそしないが横で本を読んだり勉強をしたりしている。
気が散るが一応おとなしくしてくれているのであっちに行けとも言いづらい。

一歳に関しては当然聞き分けなどないので電話中だろうがビデオチャット中だろうがおかまいなしに叫ぶし寄ってくるし膝に乗ってくるしキーボードや携帯電話をさわる。
幸いふだん使用していない部屋があったのでそこにこもって突っ張り棒で中からロック。子どもたちを締めだした。
すまん娘たちよ、それ以上にすまん妻よ(妻は育休延長した)。

……だが一週間もしたら子どもたちも父親が一日中家にいることに慣れて(そして仕事中の姿をのぞいてもおもしろくないことに気づいて)あまり寄ってこなくなった。ちょっと寂しい。

娘の学習について


長女(小学一年生)のために、妻や娘といっしょに時間割をつくった。
学校に慣れられるよう、なるべく学校と同じ時間配分で。
45分ドリルをやったら10分休憩、次は45分パズル。休憩の後は45分読書。勉強ばかりでは飽きるだろうと体育(近くの公園)や音楽(ピアノの練習)や家庭科(お菓子作り)や図工(絵を描いたり工作をしたり)の授業も入れた。

はじめは順調にこなしていた。
さすが我が娘、なんて優秀なんだ。

だが一週間、二週間経つうちに疲れが見えてきた。
しょっちゅうおかあさんと喧嘩をしている。怒りくるって床にひっくりかえったまま三時間目、なんてことも起こるようになった。学級崩壊だ。

考えてみれば、学校であれば45分授業といってもそのうち35分ぐらいはぼーっと先生の話を聞いているだけだ。ほんとに集中して問題を解いている時間は10分にも満たないぐらいだろう。
だが家庭でドリルをやる、横にはおかあさんがマンツーマンでついているとなると、ずっと集中しないといけない。これは疲れるだろう。
じっさい、保育園ではまず昼寝をしなかった娘が、自宅待機中はちょくちょく昼寝をするようになった。保育園や学校に行くよりも精神的に疲れるのだろう。

これはいかんと勉強時間を減らしたり、テレビを観る時間を設けたりした。
また学校が週二回だけ(しかも90分だけ)始まったり、習い事(ピアノとバレエ)が再開したりで、気がまぎれるようになったらしい。
娘の精神状態も落ち着いてきた。
あと前にも書いたけど進研ゼミのタブレットが届いたのも大きい。おかげで楽しく勉強できるようになった。

うちはぼくが自宅勤務(しかもかなりゆるいので30分ぐらい席を外しても大丈夫)、妻が育休延長で家にいて、かなり恵まれた環境にあったとおもう。
それでもずいぶん手を焼いた。
親ひとりで見なきゃいけない家とか、子どもの多い家とか、仕事の融通を聞かせづらい人とかはめちゃくちゃたいへんだっただろうなあ。

休校の判断については賛否両論あるけど、ぼく個人的には学校はやってほしかったな。
子どもの感染者はほとんど出てなかったし、休校にしたってどっちみち学校内で子どもを預かったりしていたので。

まあこれは収束しつつある(ように見える)今だから言えることで、休校せずに子どもの感染者が大量に出ていたら
「だからあのとき休校にしていればよかったんだ!」
なんて言ってたかもしれないけど。

困ったこと


意外に困ったのが散髪だった。
散髪屋に行くのを自粛。密接するし、マスクをするわけにもいかないし、どう考えたってリスク高いもんなあ。
で、髪が伸びてきた。まあ人に会うわけじゃないからいいんだけど、しかし前髪が長くてじゃまだ。
で、妻に切ってもらったり(娘の髪を切ってるのでへたではない)、娘のヘアピンを借りて前髪を止めたり。
わずらわしい。

で、緊急事態宣言も解除されたので久々に床屋に行ってみた。
あれ? 満員を覚悟していたのに意外とお客さん少ないぞ。みんなまだ自粛モードなのか?
とおもって店に入ったら「2時間半待ちですけどいいですか」と言われた。
「え? でもそんなにお客さんいないですよね」
「感染リスク下げるため店の外で待ってもらってるんですよ」
とのこと。
10分カットの店で2時間半待ちか……。
「また今度にします」と言ってすごすごと帰ったんだけど、帰ってから気が付いた。
しまった。整理券だけもらってから帰宅して2時間半後にまた出直してきたらよかったのか。

楽しみ


せっかくのリモートワークなのでふだんできないことをしよう、ということでヒゲを伸ばしはじめた。
うちの会社はヒゲ禁止じゃないけど、でも中途半端に伸びたヒゲは見苦しいからね。
で、2ヶ月近く伸ばしてみたけどぜんぜん濃くならない。もともと薄いのだ。
さすがに2ヶ月も伸ばしたので長さはそこそこになったけど、長いヒゲがひょろひょろとまばらに生えているだけでぜんぜんかっこよくない。男らしいヒゲではなく仙人みたいなヒゲなのだ。
ということで久々の出社前に剃ってしまった。
ま、ヒゲを伸ばしたところでどうせ毎日の手入れが面倒になってやめたとおもうけど。

2020年5月28日木曜日

ツイートまとめ 2019年10月


覆水盆に返らず

CM

遊び

どうぶつしょうぎ棋士

手料理

ウミガメ

試験紙

挿絵

東京

冬服

木の実

貧乏

馬1万頭分

要求

被告人

出木杉

トマソン

サイヤ人

鍵盤ハーモニカ

廃刊

惜しんで

留守電

2020年5月27日水曜日

今どきの進研ゼミ


昔、進研ゼミにお世話になっていた。
ぼくは人の話を聞くのが苦手なので、塾や予備校はどうも性にあわない。
進研ゼミのように自分の部屋で自分のペースで学習できる教材がいい。
ぼくが第一志望の大学に合格できたのは、進研ゼミ高校講座のおかげだ。

中一~高三まで進研ゼミをやっていた。
だが、それより前、小学三年生ぐらいのときにもやっていた。一年か二年。
で、やめてしまった。
ものすごくよくある話で恐縮なんだけど、

 ポストに進研ゼミのダイレクトメールが届く。
  ↓
 載っている漫画を読み、興味を持つ。ポイントシールを貯めてもらえるプレゼントも魅力的。
 ↓
 親におねだり。絶対にちゃんとやるからと言って始めさせてもらう(子どもに「勉強したい!」と言われて断れる親はなかなかいないよね)。
 ↓
 はじめはちゃんとやるがそのうち読み物だけ読んで問題には手をつけなくなる。ポイントシール欲しさに添削問題だけ出す。
 ↓
 なかなかポイントが貯まらないことに嫌気がさして添削問題すら出さなくなる。
 ↓
 親に怒られる。ゼミ解約。

毎年何万人もの小学生が同じことをやっていたとおもう。ぼくもその一人だった。

中学講座から再開したが、中学生以降はちゃんとやれるようになった。
学校の定期テストというわかりやすい目標があり、自宅学習の習慣もそれなりについてきたからだ。
小学生には早すぎたのだ。



娘が小学校に入った。
「低学年の間は勉強は学校だけで十分!」とおもっていたのだが、そうも言っていられなくなった。
そう、コロナ騒動のせいで授業がなくなったのだ。
「学校だけで十分」と言っていたが、その学校がないのだ。
一応宿題は出されるが一日三十分で終わってしまう。
緊急事態宣言下なので遊びに行かすこともできない。
放っておくとずっとテレビを観ている。

あわてて通信教育の資料請求をした。
進研ゼミ、Z社、S社の資料を取りよせた。
資料を見比べて感じたのは、S社はかんたんそうなので授業についていけない子の補習に使うにはいいがたっぷり時間のある今やるにはものたりなさそう、Z社は問題がよく練られている感じがしたが娯楽要素が少なすぎて低学年には魅力が乏しいのではないか、という印象。
基礎~発展まで幅広く対応していて、ごほうびや読み物も充実していた進研ゼミを申し込むことにした。
なにより、かつてぼくがお世話になったということが大きい(ちなみに妻はZ社を受講していたのでZ社を推していたが「今は勉強嫌いにさせないことが大事だからおもしろいほうがいい!」と言って説きふせた)。

ただ申し込もうとしたら、受講の申し込みが殺到しているので教材の到着が遅れるとの連絡があった。
そりゃあなあ。学校授業がないんだもの。塾にも行けないし。そりゃあ通信教育に群がるわ。
どの家庭も考えることは同じだ。
進研ゼミ小学講座にはタブレットコースと紙のテキストコースがある。
おもしろいほうがいいだろうとタブレットコースにしたのだが、4月上旬に申し込んだのにタブレットの発送は5月下旬になるとのこと。いたしかたなし。

タブレット到着が遅れているので、到着までのつなぎとして紙のテキストを送ってくれた(その分の料金はサービス。ありがたい)。
娘にやってもらう。
はじめは順調だった。
一年生なので「ひらがなをかいてみよう」とか「いくつあるかかぞえてみよう」みたいな問題ばかり。
娘も「かんたん、かんたん、また百点」と言いながらやっていた。

だが少し発展的な問題になると足踏みするようになった。
答えがわからないのではない。問題がわからないのだ。
「①に『かなしかった』とありますが、だれがかなしかったのでしょう。あてはまることばをぬきだしましょう」
みたいな問題が出る。
だがテスト問題を解いたことのない小学一年生には
「本文の中から①を探す」
「その前後の文章を読んで主体をさがす」
「見つけたらそのまま“ぬきだす”」
といった作業ができないのだ。
そういうのはある種のテクニックが必要で、いくつか数をこなしていかないと身につかない。慣れてくると「“ぬきだしましょう”ときたら改変せずに一字一句そのまま書く」とかわかってくるけど、一年生にはわからない。
問題について考える以前に「何を問われているか」がわからないのだ。

横について教えていたのだが、娘もだんだんうんざりしてきた。
「そもそも何を問われているかわからない。その都度人に教えてもらわないといけない」
というのはなかなかのストレスなのだ(ぼくだってそんな仕事イヤだ)。
またぼくも妻も家にはいるがリモートワークをしなければいけないのでつきっきりで教えてあげられるわけではない。


やはり小学一年生に自宅学習は無理があるなと感じはじめていた矢先、ようやく学習用タブレットが届いた。

これがすごい。
食いつきがちがう。
まずアニメで例題の解き方を教えてくれるので「何をどう答えていいかわからない」とならない。
正解/不正解のフィードバックがすぐにあるのものいい。
まちがえた問題はすぐにもう一度出題されるのでまちがえたままにならない。

さすがプロが集まって考えている教材だ。飽きさせない工夫、何度も挑戦したくなる工夫が随所に見られる。
紙の教材だと親がつきっきりで教えてあげないといけない(教えてもうまくいかない)のに、その代わりをタブレットがやってくれるのだ。

分量も多い。
基礎編が終わったら、演習編、発展編の問題も用意されている。
学校の勉強についていけない子は基礎編、もっとやりたい子は演習編や発展編で骨のある問題にチャレンジできる。

またタブレットは勉強をできるだけじゃない。
動画が視聴できたり(猫の動画とか交通安全動画とか子ども向けニュースとか無害なものばかり)、電子書籍が1,000冊読めたり、勉強になるパズルゲームができたり、いろんなコンテンツがある。
とにかく毎日タブレットを起動してもらうことが大事なのだろう。スマホゲームがログインボーナスを与えているのと同じだ。

機能もすごいが、それ以前に小学生からしたら自分専用の端末を持てるというだけでうれしいだろう。
うちの娘は、ぼくが「ちょっとがんばりすぎだから今日はそれぐらいにしときや」と言ってしまうぐらい毎日タブレットの課題に取り組んでいる。


で、ぼくはおもう。
くそう。
どうしてこんないい教材がぼくが小学生のときはなかったんだよ!
いいなあ。
これがあったらぼくだってもうちょっとゼミを続けたのになあ。
ゲーム感覚で勉強できたのになあ。
うらやましいなあ。

だからぼくは娘に「ゼミの勉強もいいけど、本を読んだりピアノを弾いたり、ちがうこともしようね」と言う。
だって横でこんないいものをずっとやってるの、くやしいんだもん。


2020年5月26日火曜日

ツイートまとめ2009年9月



命あってのものだね

1パック

ステータス

しまっていこう

うこそいら

不要急

この手で

庶民

深い

むちむち

冥途の土産

バグ

不審者

言い伝え

広報


例外ホームラン

ブックオフ

ピラミッド

初手

2020年5月25日月曜日

【読書感想文】現生人類は劣っている / 更科 功『絶滅の人類史』

絶滅の人類史

なぜ「私たち」が生き延びたのか

更科 功

内容(e-honより)
700万年に及ぶ人類史は、ホモ・サピエンス以外のすべての人類にとって絶滅の歴史に他ならない。彼らは決して「優れていなかった」わけではない。むしろ「弱者」たる私たちが、彼らのいいとこ取りをしながら生き延びたのだ。常識を覆す人類史研究の最前線を、エキサイティングに描き出した一冊。
人類700万年(サヘラントロプス・チャデンシス~ホモ・サピエンス)の歴史を駆け足で走り抜ける一冊。
ものすごくわかりやすくまとめられていて、かつ随所に挟まるトピックスもおもしろい。
人類史の入門書としてこれ以上ない(といっても他の本をほとんど知らないけど)本だ。


ぼくも学生時代に歴史の授業の最初のほうで人類の歴史を習ったはずだが、ぜんぜんわかっていなかった。
アウストラロピテクスとかジャワ原人とかクロマニオン人とかネアンデルタール人とかの名前をおぼえていただけ。
恥ずかしい話、ぼくはネアンデルタール人がヒトになったんだとおもっていた。我々の直系の祖先なのだと。
でもそうではなかった。ネアンデルタール人とヒト(ホモ・サピエンス)は別の種だったのだ。同時代に生きていたが、ヒトはその後繁栄し、ネアンデルタール人は滅びた。いってみればライバルのような存在だったのだ。
人類史をやっている人からしたら常識なんだろうけど、そんなことすらわかっていなかった。



「万物の霊長」という言葉が表すように、ぼくらは今のヒトがあらゆる生物の中でいちばん優れている、いちばん賢い存在だと考えてしまう。
賢かったからこうして地球上で繁栄しているのだと。優れているから今こうして快適な暮らしを送っているのだと。

ところが人類の歴史を見てみると、その考えが誤りだということがわかる。
 現在の日本でも、クマが山から人里へ下りてくることがある。でもそれは、クマが希望にあふれて、人里で美味しいものをたくさん食べようと思って、下りてきたわけではない。きっと山の食料が少なくなり、空腹でたまらなくなったのだ。それで仕方なく人里まで下りてきたのだ。ふつう動物は、食べるものがたくさんあって住みやすい場所があれば、その場所を捨てたりしない。いつまでも、そこにいようとするはずだ。今までいた場所を捨てて、他の場所へ移動するときは、そこにいられなくなった理由があるのだ。
 初期の人類が直立二足歩行を始めたときも、同じような状況だったかもしれない。そのころのアフリカは、乾燥化が進んで森林が減少していた時代だった。類人猿の中にも、木登りが上手い個体と下手な個体がいただろう。エサがたくさんあれば、少しぐらい木登りが下手でも困らない。しかし、森林が減ってくると、そうはいかない。木登りが上手い個体がエサを食べてしまうので、木登りが下手な個体は腹が空いて仕方がない。そうなると、木登りが下手な個体は、森林から出ていくしかない。そして、疎林や草原に追い出された個体のほとんどは、死んでしまったことだろう。でも、その中で、なんとか生き残ったものがいた。それが人類だ。
 草原で肉食獣に襲われたら逃げ場がない。でも疎林なら、なんとか木のあるところまで逃げられれば、木に登って助かるかもしれない。森林を追い出された人類は、生き延びるために疎林を中心とした生活を始めたと考えられる。
初期の人類は猿の中で劣った存在だったのだ。
劣っていたから競争に負けて森林から出ていかざるをえなかった。
ところが走るのも遅く、強い武器も持っていなかった人類は、森林を追いだされたらとても生きていけない。

だから群れて暮らす必要があった。
群れれば敵に気づきやすくなるし、襲われたときも食べられる可能性が減る。
そうやって群れて暮らすうちにコミュニケーション能力が発達した。

また外敵や厳しい環境から身を守るために道具をつくる必要も生まれた。
もしも人類が強かったら、今頃まだ森の中で暮らしていたことだろう。



ヒトは人類以外の動物より劣っていただけでなく、他の人類よりも劣っていた。
 ネアンデルタール人は私たちよりも骨格が頑丈で、がっしりした体格だった。その大きな体を維持するには、たくさんのエネルギーが必要だったはずである。ある研究では、ネアンデルタール人の基礎代謝量は、ホモ・サピエンスの1.2倍と見積もられている。基礎代謝量というのは、生きていくために最低限必要なエネルギー量のことで、だいたい寝ているときのエネルギーと考えればよい。つまりネアンデルタール人は、何もしないでゴロゴロしているだけで、ホモ・サピエンスの1.2倍の食料が必要なのだ。もしも狩猟の効率が両者で同じだとしたら、ネアンデルタール人はホモ・サピエンスより、1.2倍も長く狩りをしなくてはならない。

(中略)

 昔は、よかったのかもしれない。狩猟技術が未熟なころは、力の強いネアンデルタール人の方が、獲物を仕留めることが多かったのかもしれない。行動範囲の狭さを、力の強さで補って、ホモ・サピエンスと互角の成績をあげていたかもしれないのだ。
 しかし、槍などの武器が発達して、力の強弱があまり狩猟の成績に影響しなくなってくると、状況は変わった。力は弱くても、長く歩けるホモ・サピエンスの方が、有利になったのだ。その上、もしも狩猟技術自体もホモ・サピエンスの方が優れていたとしたら、両者の差は広がるばかりだ。力は強くても、長く歩けず、狩猟技術の劣るネアンデルタール人は、いつもお腹を空かせていたのではないだろうか。
ネアンデルタール人はホモ・サピエンスより体格が良かったらしい。しかも脳の大きさもネアンデルタール人のほうが大きかった(ただし脳が大きいから賢いとは言い切れないが)。

ホモ・サピエンスはネアンデルタール人より劣っていたからこそ、よりよい道具を作ることが求められた。
そうして道具を生みだし、またホモ・サピエンス間のコミュニケーションによって道具の作り方を伝えていった人類は、総合力の差でネアンデルタール人を追いぬいた。

またネアンデルタール人は体格が良かったからこそ、その大きな身体を維持するのにより多くのエネルギーを必要とした。
食糧が豊富にあるときはいいが、飢餓期には身体が小さいほうが有利だった。

 それにしても、昔の人類の脳は大きかった。いや、大き過ぎたのかもしれない。ネアンデルタール人の脳は約1550ccで、1万年ぐらい前までのホモ・サピエンスの脳は約1450ccだ。ちなみに現在のホモ・サピエンスは約1350ccである。時代とともに食料事情はよくなっているだろうから、私たちホモ・サピエンスの脳が小さくなった理由は、脳に与えられるエネルギーが少なくなったからではない。おそらく、こんなに大きな脳は、いらなくなったのだろう。
 文字が発明されたおかげで、脳の外に情報を出すことができるようになり、脳の中に記憶しなければならない量が減ったのだろうか。数学のような論理が発展して、少ないステップで答えに辿り着けるようになり、脳の中の思考が節約できたのだろうか。それとも、昔の人類がしていた別のタイプの思考を、私たちは失ってしまい、そのぶん脳が小さくなったのだろうか。
 ただ想像することしかできないが、今の私たちが考えていないことを、昔の人類は考えていたのかもしれない。たまたまそれが、生きることや子孫を増やすことに関係なかったので、進化の過程で、そういう思考は失われてしまったのかもしれない。それが何なのかはわからない。ネアンデルタール人は何を考えていたのだろう。その瞳に輝いていた知性は、きっと私たちとは違うタイブの知性だったのだろう。もしかしたら、話せば理解し合えたのかもしれない。でも、ネアンデルタール人と話す機会は、もう永遠に失われてしまったのである。
われわれの脳はネアンデルタール人より小さいばかりでなく、昔のホモ・サピエンスと比べても小さくなっているのだそうだ。

ここに紹介されているのはあくまでひとつの説だが、文字という記録装置が生みだされたことで大きな脳を必要としなくなったという説はおもしろい。
だとしたら、この先どんどん脳は小さくなっていくのではないだろうか。
ここ百年間で計算機やコンピュータなど外部のOSやメモリが次々に生まれたのだから。


我々は有史以来もっとも優れた生物だとおもっているが、とんでもない。
もしかしたら史上まれにみるほど、生物として劣った存在なのかもしれない(なにしろ餌をとらなくても敵から逃げなくても生きていける生物なんて他にいないのだから)。

今の人間はたしかに地球上で支配的なポジションにいる。
でもそれは我々が優れているからではなく、たまたま環境に適応できた、運がよかっただけなのだ。

もしも地球上がもっと過ごしやすい環境だったら、覇権を握っていたのはホモ・サピエンスではなくネアンデルタール人だったかもしれない。
いやそれどころか恐竜が跋扈していて哺乳類自体が生態系ピラミッドの下のほうでひっそりと生きていた(あるいは絶滅していた)かもしれないね。


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