2020年1月10日金曜日

【読書感想文】逆に野球が衰退しない理由を教えてくれ / 中島 大輔『野球消滅』

野球消滅

中島 大輔 

内容(e-honより)
いま、全国で急速に「野球少年」が消えている。理由は少子化だけではない。プロとアマが啀み合い、統一した意思の存在しない野球界の「構造問題」が、もはや無視できないほど大きくなってしまったからだ。このままいけば、三十年後にはプロ野球興行の存続すら危ぶまれるのだ。プロ野球から学童野球まで、ひたすら現場を歩き続けるノンフィクション作家が描いた日本野球界の「不都合な真実」。
いっときは熱心なプロ野球ファンだった。
小学生のときは毎年春になると選手名鑑を買い、新聞の結果をチェックして、テレビで試合を観戦して、スポーツニュースも観て、ときには『週刊ベースボール』を買うこともあった(なぜか新聞の結果を毎日ノートに書き写していた時期もある)。プロ野球関連の本も読みあさった。

人生の最大の楽しみが野球だった。
公園でも友人たちと野球をし、その成績をノートに記録していた。
家でもひとりでプロ野球カードゲームなる遊びをしていた。自分と自分で対戦して、その結果をノートに記録していた(もしかしたら野球よりも記録することが好きだったのかもしれない)。

中学生になってそれほど熱心なプロ野球ファンではなくなった。他にいろいろ楽しみができたからかもしれない。
とはいえ新聞の結果は欠かさず見ていたし、テレビでタイガース戦をやっていれば(他に観たい番組がなければ)観ていた。

高校一年生のとき、横浜高校の準々決勝での延長17回の死闘、準決勝での6点差逆転ゲーム、決勝でのノーヒットを観て高校野球ファンになった。
反比例するようにプロ野球を観る機会は減った。高校野球を観た後だと、プロ野球の試合は冗長で観ていられないのだ。

そして今。プロ野球はまったく観ない。知っている現役選手は十人いるだろうか。
そもそもテレビでやっていないのだから観る機会がない。新聞もとっていないので結果もわからない。テレビのニュースも観るのをやめたのでまったく情報が入ってこない。ふだん観ないのに日本シリーズだけ観たっておもしろくない。日本シリーズもオールスターゲームもWBCも観ない。昨年どのチームが優勝したのかもしらない。
二十数年前の選手はよく知っているが、現役選手のことはそこらへんのOLと同じくらいの知識しかない(負けるかも)。



野球への興味をなくしているのはぼくだけでないようだ。
 プロ野球の営業面を短期的に見るなら、CRMビジネスを回していけば成果は出るだろう。ただし中期的、長期的な視点に立ったとき、「ファンの延べ人数は増えているけれど、実人数が増えていない」のは大きな課題になる。
「2017年スポーツマーケティング基礎調査」(出典:三菱UFJリサーチ&コンサルティングとマクロミル)によると、日本のプロ野球ファンは2009年の3780万人から2017年には2845万人に減少。この調査は男女各1000人から回答を得て、年齢階層別のファン率と年齢階層別の人口を掛け合わせて算出した数字だ。
 スタジアムに足を運ぶ人の延べ人数が増え続けている一方、同調査における「プロ野球ファン」が減少しているという対極的な事実は、球場には行かなくてもテレビ観戦やニュースで結果を確認するといったライトファンが少なくなった可能性を示唆している。
球場に足を運ぶ熱心なファンは増えている一方、「テレビでやっていれば観る」程度のライトなファンは減少しているという。
ぼくの体感とも合致する。
ぼくが子どもの頃、プロ野球は大人の男のたしなみだった。熱心なファンではなくても「好きな球団は?」と訊かれたら答えられる必要はあったし、「好きな選手は笘篠です」「おっ、渋いですなあ」みたいな会話のひとつもできなければいけなかった。ぼくは子どもだったのでよく知らないけど、たぶんそう。
ぼくなんか兵庫県で育ったので阪神タイガースの話題はあいさつみたいなものだった。
「ノムさんはあきませんな」「久慈を出したのは痛かったなあ」とやっていた。

でも今、少なくともぼくの周りにはあいさつ代わりに野球の話をする人はいない。
前置きなしに「今年もあきませんな」だけで阪神のことだなと伝わる時代ではなくなったのだ。
 1990年代から社会が激変し続けるなか、当たり前のように、人々(特に子ども)と野球の関わり方も大きく変わった。
 40年前の少年は誰もが気軽に野球遊びを行なっていた一方、高校まで続ける割合は5%に満たなかった。それでも野球のルールや楽しみ方を知っており、テレビで「見る」スポーツとして熱中した。そうして巨人戦のテレビ視聴率は1970年代後半から平均20%を記録し、多少の増減はあれども2000年まで同等の数字を維持している。
 しかし、イチローがMLBに移籍した2001年に年間平均15.1%を記録すると、徐々に下落していく。遂には地上波から姿を消し、同時に「見る」スポーツとしての野球は日本で存在感を薄めている(視聴率はビデオリサーチ調べ、関東)。
 そうした環境で生まれ、野球少年は減り続ける一方、子どもの頃に野球を選択した少年の1割が高校生になっても野球を続けている。「する」スポーツとしての野球は、いまだ一定の支持者がいると言える。
 では、残り9割の高校生はどうだろうか。子どもの頃に触れなかった野球を大人になり、「見る」ようになる割合が高まるとはなかなか考えにくい。彼らが就職した後、可処分所得を有料放送中継観戦に使う割合は減っていくはずだ。そうしてプロ野球は収入を減らすと、現在のような規模を維持するのは難しくなる。
人々が野球離れを起こしたのはテレビの影響が大きい。
デーゲームの中継がなくなり、ナイター中継もなくなり、プロ野球ニュースもなくなった。
昔なんかオープン戦を中継していたんだぜ。サンテレビ(兵庫県のテレビ局)なんてタイガース戦の中継を再放送してたんだぜ。スポーツ中継の再放送って。今じゃ信じられん。

みんなが野球を観なくなったからテレビ中継がなり、テレビ中継がなくなったことで野球はますます観られなくなった。
野球は「テレビをつければやっている」スポーツではなくなり、「お金を払ってわざわざ観にいかないといけない」スポーツになった。

『野球消滅』ではその原因をいろいろ挙げているのだが……。


ちょっと待てよ、と言いたい。
筆者は野球ファンとして「日本人の野球離れ」の原因をあれこれ考えているけど、ぼくからすると理由はひとつだ。

今までがおかしかっただけ。


だってそうでしょうよ。
子どもたちが集まれば野球をし、中学高校では健康な男子は野球部に入って丸刈りにし、テレビでは昼も夜も野球を流し、他の番組をつぶして野球を流し、野球が延長すればまた別の番組をつぶし、ついさっき中継が終わったところなのに夜のニュースでは野球の結果を長々と報じ、翌朝のニュースでも野球の話題を報じ、会社ではおっさんたちが野球の話に興じている……。
どう考えたってそっちのほうが異常な世界でしょ。昭和の人間、どれだけヒマなんだよ。もっとやることなかったのかよ。なんで一スポーツの地位がそこまで高いんだよ。

しかも野球をやるには高価な道具が必要で、グローブ、ミット、バット、ボール、ベース、スパイク、プロテクターをそろえれば数十万円かかる。
専用のスタジアムも必要だ。野球場は特殊な形なので基本的に野球しかできない。サッカースタジアム兼陸上競技場のように、他の競技との兼用はむずかしい。
ボールは遠くまで飛んでいくし当たると危険なので周囲に民家や道路のある場所でやるためには高いフェンスがいる。
試合をするためには最低十八人の選手が必要で、控え選手、審判、監督を入れたら三十人近くはいないと成立しない。
費用、人数、場所などゲームをするまでのハードルがとにかく高い。

野球自体は嫌いじゃないけど「野球を好きにならないなんて何かがおかしい!」という傲慢さを見せつけられると「そういうとこだぞ」と言いたくなる。
野球離れに理由なんてなく、適正値に近づいただけなんだよ。



この本の中では、子どもを野球から遠ざける原因、それに対する提言も書かれている。
怪我をするまで選手を酷使することとか、うまい子(というより早熟な子)ばかり起用されてそうでない子に出番がまわってこないこととか、野球をやるために金銭的・時間的なコストが大きいとことか。

中でもぼくが大きくうなずいたのはこれ。
 現在の日本野球界の問題は、勝利至上主義のチームばかり存在していることにある。第三章で「高校野球の二極化」について取り上げたが、勝亦准教授は高校野球のそもそものあり方について指摘する。
「高校野球の二極化という話になるのは、『強い・弱い』という軸だけで見るからです。そこにもう一つのY軸をつくって、例えば『競技性が高い・レクリエーション(楽しむことを重視)』という軸があるとします。そうなると、『うちはレクリエーションがすごく高くて、同時に強いチームを目指そう』というチームが出てきます。チームが2軸のマトリクス表の中でどの辺に位置しているかがわかると、子どもたちは選びやすいし、自分はどこで野球をやりたいかをもっと考えるようになると思います。
 今は『甲子園優勝』という軸しかなく、その軸から離れた人が軟式野球をやっていたりしますよね。だから、選択肢を増やせばいい。子どもたちが自分の進路を考えるという意味でも、高校野球こそ理念が大事だと思います」
そうなんだよねえ。中学高校ぐらいで「楽しく野球をやる」環境がないんだよね。

ぼくが高校に入学した時。
ぼくは野球が好きだった。だが野球部には入りたくなかった。体育会系のノリも厳しい練習も丸坊主も休みの日の試合も朝練もなにもかもイヤだったからだ。
ソフトボール同好会があったのでそこに入ろうかとおもったのだが、顧問の先生から「うちは女子だけ。男子は野球部に入りなさい」と言われた。
しかたなくぼくは野外観察同好会に籍を置き(活動は半年に一回)、放課後友人たちと公園で野球の真似事をして過ごした。

勝たなくていい、そんなにうまくならなくていい、だからきつい練習をしなくていい、練習は楽しいのだけでいい、気軽に休んでいい、気が向いたときに参加するだけでいい、手を抜いてもいい。
そういう場がないんだよね。

大人になってから草野球チームに助っ人として何度か参加したことがあるが、そこでもやはり勝利至上主義が幅をきかせていた。
ぼくらのチームは半数近くが野球未経験者だったので適当に楽しくやっていたのだが、相手はすごくいいバットを使って、へたなぼくら相手にも全力でプレーして(キャッチャーが野球未経験者なのに盗塁までしてくる)、味方のエラーや凡退には容赦ない罵声を飛ばしていた。
ああいやだ、なんで楽しく野球をできないんだろう。「ちょっと力の差があるのでそっちの攻撃時は6アウトで交代にしましょう」とかあってもいいのに。


今までが人気スポーツだったから、「野球は野球道だから楽しくなくていいんだよ。厳しい練習についてこれないやつはやらなくていいよ。やる気がないならやめちまえ」って言ってきたのが野球の世界なんだよね。
それで「じゃあやめます」って子どもが増えてきて、今になって「えっ、ちょっと待って、ほんとにやめるやつがあるか」ってあわててるのが今の状況。ざまあみろとしかおもわない(野球という競技自体は好きなんだよ、ほんとに)。

著者はあれこれ改善提案を挙げているけど、まず野球界(特に学生野球)は悪い意味で伝統ある組織だからなかなか変われないだろうし、仮に変わったとしても野球が国民的人気スポーツになる日はもう来ない。

過去の栄華にすがって見苦しくあがくよりは、さっさと「一部の愛好家からの人気の高いスポーツのひとつ」に舵を切るほうがまだうまくいく可能性が高いんじゃないだろうか。
今のラグビーやテニスみたいに。
ま、無理だろうけど。

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2020年1月9日木曜日

【読書感想文】河童の魔導士のソムリエ / 岸本 佐知子『ひみつのしつもん』

ひみつのしつもん

岸本 佐知子

内容(e-honより)
奇想天外、抱腹絶倒のキシモトワールド、みたび開幕!ちくま好評連載エッセイ、いよいよ快調な第三弾!

何度も書いてるけど、ぼくがいちばん好きなエッセイストが岸本佐知子さん(本業は翻訳家だけど)。
とはいえはたしてこれはエッセイなのか……?
元々嘘成分のほうが多いエッセイを書く人だったけど、最近その傾向がよりいっそう強くなり、この本に収録されている話など妄想のほうが多いぐらい。どこまでが真実でどこまでが嘘かわからないのが魅力なんだけど、とはいえさすがに嘘がすぎないか。
もう短篇集といったほうがいいかもしれない。

ぼくが特に気に入ったのは、

粗末な部屋にあこがれるあまりマーラーの作曲小屋をのっとる『大地の歌』

劇場で目にしたボブとサムがいつのまにか脳内に居すわってしまう『カブキ』

物干し竿が壊れて中からドロドロの液体が流れるのを目にしたとたんに自我の分裂がはじまる『洗濯日和』

……そうだね、意味わかんないね。
でも説明しようがないんだよね。岸本さんの摩訶不思議なエッセイって。
読んでくれというしかない。

すごいなあ。こんなキレのある文章書きたいなあ。思いつくままに書きなぐってるようで綿密に構築してるんだろうなあ。
本業の翻訳をしながら、ようやるわ。


 数人でレストランに行った。何かワインを頼もうということになった。
 胸にソムリエのバッジをつけた店の人がテーブルにワインを四、五本持ってきて並べ、端から順に説明を始めた。
 知り合いでも紹介するようにボトルの肩にほんぽんと手を置きながら、「これは○○地方の××という村でしか採れない特別のブドウを使っていて」とか「これは喉ごしはすっきりとしているんですが、後から洋梨とかベリーといった果物系の香りが鼻に抜けて」とか、果ては「じつはここのシャトーは一度経営が苦しくて廃業しかけたんですが、たまたま末の娘さんが結婚した相手が経営学の博士号を持っていて」などといった話まで、一本ずつじつに事細かに懇切丁寧に解説してくれる。
 ソムリエってすごいなあ。さすがだなあ。と思って耳を傾けているうちに、ふいに愕然となった。
 これ、全部作り話なんじゃないか。
 いったんそう気づいてしまうと、もうそうとしか思えなくなってくる。
これは『河童』の書き出しだが、この導入の鮮やかさよ。

「気づいてしまう」って書いてるけど完全に妄想だからね。
ふつうはこんなこと考えないし、考えても一秒で海馬から抹消してしまう。
ここから、ソムリエの正体が河童の魔導士だ、と話が展開していくのだが、うん、そうだね、意味わかんないね。
でもそのとおりなのだから他に説明しようがない。

読んでくれというしかない。

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2020年1月8日水曜日

詰将棋と成功者


六歳の娘が将棋の駒の動かし方をおぼえたので何度か対局したのだが、勝負にならない。
ぼくも決して強いわけではないが、娘の指し方がでたらめなので十枚落ち(つまりこちらは王将と歩兵のみ)でも完勝してしまう。ゲームにならない(ぼくも負けず嫌いなのでわざと失策するような手は指したくない)。

娘の指し方は、とにかく駒を大事にする。歩兵一個でもとられないように全力を尽くす。結果、歩兵を守ろうとして角をとられる、なんてことになる。
あえて駒を捨てるなんてぜったいにできない。

また、せっかく取った駒を使わない。後生大事に抱えている。結果、守りはどんどん薄くなる。
たしかに初心者にとって「駒を打つ」のはむずかしい。盤上の駒が動ける範囲は限られているが、持ち駒を打てる箇所は数十個もある。ルール上は、空いている場所であればどこにでも打てる(歩兵、香車、桂馬には一部制約があるが)。
五種類の駒を持っていれば打てる場所は理論上数百になるわけだから、そこからひとつに定めるのはむずかしい。
ある程度慣れた差し手なら「現実的に意味のない手」ははじめから除外するので選択肢はぐっと狭くなるのだけど、慣れていなければ選択肢がありすぎて混乱する。
「カレーとハヤシライスどっちがいい?」なら答えられても「ばんごはん何がいい?」だと悩んでしまうのと同じだ。

そういやAI将棋ソフトは、「ベテラン棋士なら無意識に除外する手」も含めて検討すると聞いたことがある。
六歳児はAIと同じことをしているのだ。そう考えるとすごいな。すごかないけど。


ということで、「駒の捨て方を身につける」「駒の打ち方を身につける」練習のために、子ども向けの詰将棋の本を買ってきた。
一手詰めや三手詰めの問題を盤上に並べ、娘に解いてもらっている。

詰将棋をやっていると、ぼくも子どもの頃に父と詰将棋をしたことを思いだす。
だが、ぼくはちっとも詰将棋を好きにならなかった(今はわりと好きだが)。
そのわけは、父が出題する問題が難しすぎたことにあった。
父は新聞に載っている詰将棋の問題をぼくに解かせようとした。好きな人なら知っているとおもうが、新聞に載っている問題はけっこう難しい。七手詰めとか九手詰めとか。そこそこやっている人でもじっくり考えないと解けないレベルだ。
とうぜんぼくはさっぱり解けなかった。まちがえたとしてもどこでまちがえたのかわからない。七手目がちがったのか、五手目がまずかったのか、三手目が誤っていたのか、それとも初手からやりなおすべきなのか。
七手詰めだと可能性がありすぎてちっともわからない。娘の本将棋と同じ、「選択肢がありすぎてわからない」状態だった。

その経験を踏まえて、まずは一手詰めの問題ばかりを娘に出している。
一手詰めだと王手の方法は四通りぐらいしかない。これはダメ、これもダメ、これもダメ、じゃあこれだ。ってな具合に総当たり消去法でも答えが出せる。
娘がまちがえるたびにぼくは「それだと王様はここに逃げるよ。じゃあここに逃げられないようにするためにはどうやって王手をすればいいかな」とヒントを与えてもう一度指してもらう。
いろんな問題に挑戦しているうちに、娘の腕も少し上がってきた。

困るのは、娘がいきなり正解を出してしまったとき。
じっくり考えてあらゆる可能性を検討した上で正解を導きだしたのであればたいへん喜ばしいことなんだけど、そうではなく、何も考えずに指した手が正解だったとき。

正解なので褒めてやる。
で、その上で「そうだね。たとえばこの手だったらこう逃げられるからダメだもんね。こっちに行った場合はこう逃げられるしね」と説明する。
……のだが。
後半の台詞を娘はぜんぜん聞いてくれない。
「やったー! さっ、正解したから次の問題!」
という感じで済ませてしまう。
ぼくが「なぜこの手がいい手だったのか」を説明しても「わかってたし」と言って耳を貸そうとしない。

これでは学びが得られない。

ああ、これか、と。
野村克也氏が言ったとされる「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」だ。
失敗には原因があるが成功はたまたま成功してしまうこともあるのだ。

成功者は成功の秘訣を真剣に考えない。
スポーツでもビジネスでもそうだ。
なぜ成功したのかをつきつめない。「おれがすごかったからだ」「がんばったからな」で済ませてしまう。他の選択肢を選んでいたらもっと良かったのではないか、他の選択ではどこがだめだったのかを考えない。
真剣に考えるのは今までのやり方がうまくいかなくなったときだけだ(そしてそのときにはもう遅い)。

詰将棋を通して、うまくいっているときこそ他者のアドバイスに耳を傾ける謙虚さを持ちなさいと伝えたいんだけど、まあ無理だわなあ。
だからぼくは、娘がまちがえた手を指してくれることをいつも願っている。


2020年1月7日火曜日

チェーホフの銃

最近のディズニー作品って、すごく人種に配慮してるじゃない。

たとえば『アナと雪の女王2』には肌の黒い兵士が出てくる。
はっきりとは描かれていないけどあの話の舞台(アレンデール王国)は中世の北欧っぽい雰囲気だから、黒人が出てこなくても不自然ではない。というか出てくるほうが不自然。
でも出てくる。
2015年の『シンデレラ』(実写版のほう)にもやはり黒人が出てくる。
どちらも、その役が黒人である必然性はない。「彼は移民の息子だ」みたいな説明もなく、ただいる。

それがいいとか悪いとかは言わない。
おもうところはあるけど、はっきり書くとややこしいことになりそうなのでやめておく。

まあいろんな事情があるのだろう、製作者もたいへんだ。


ところでこの傾向はどこまでいくのだろう。

この「あらゆる人種を平等に」を求めていけば、
「盲人がいないのはおかしい」
「どうして知的障害者が出てないのか」
「これだけの人がいれば同性愛者だって一定数いるはずだ」
「くせ毛の登場人物が少なすぎないか」
「どうしてこのミュージカルには音痴の人が登場しないんだ。現実には一定数いるはずなのに」
みたいな話になる。まちがいなく。

で、「いろんな人種の人をまんべんなく登場させろ」という声に抵抗しなかった製作者は、そういった声に反論することができない。だって前例に倣えば従うしかないんだもの。


演劇界には『チェーホフの銃』という言葉がある。
劇作家のチェーホフが「舞台に銃を置くのであればその銃は劇中で必ず発砲されなければならない」と語ったことに由来する。

つまり「意味ありげなものを出すなら必ず使えよ」「なくてもいいアイテムはなくせ」ということだ。
あえて意味ありげなものを置いて使わないことで観客の予想を裏切るというシチュエーションもあるだろうが、それはそれで「観客をミスリードする」という効果がある。

使われない、ミスリードにもならないアイテムなら使うな。観客が余計なことを気にするから。
ルールというより、「芝居をおもしろくするために守ったほうがいいこと」だ。

政治的な配慮のためだけにストーリーに関係のない属性の人をむやみに登場させた映画は、[発砲されない銃]や[昇られないハシゴ]や[撮影されないカメラ]だらけの映画だ。

その先にあるのは、[観られない映画]なんじゃないかな。


2020年1月6日月曜日

ノーヒットノーランの思い出


今から15年前のこと。
当時つきあっていた彼女(今の妻)と甲子園球場に行った。

ぼくは高校野球が好きで、毎年甲子園球場に足を運んでいた。
彼女のほうはテレビ観戦すらしたことがないぐらい野球に無関心。「一回ぐらい球場の雰囲気を知っておきたい」というので一緒に行くことになった。

2004年3月26日のことだ。
ぼくらは外野席に座り、東北ー熊本工の試合を観戦した。
特にこの試合を選んだ理由はない。二人の予定があったから。それだけ。
東北にはダルビッシュ有投手がいた。当時から注目されていたので、東北側スタンドは客が多いだろうとおもい、あえて逆の熊本工側のスタンドに座った。

熱心な高校野球ファンならピンときたかもしれない。
そう、ダルビッシュ投手が熊本工相手にノーヒットノーランを成し遂げた試合だ。

五回ぐらいからスタンド全体が「おいおいまだノーヒットだぞ」という雰囲気になり、七回、八回になると「まさか……」と観客席全体が浮足立ち、九回には全員が固唾を飲んで見守っていた。
もちろんぼくも大興奮。
「まさかノーヒットノーランを目の前で観れるなんて……!」と色めきたっていたのだが、ふと傍らの彼女に目をやると、なんともつまらなそうな顔でグランドを眺めている。

「このままいくとノーヒットノーランっていう大記録になるんだよ! 十年に一度ぐらいしか達成できないすごい記録! 1998年には横浜高校の松坂大輔が決勝で……」
とぼくは熱く語ったのだが、彼女は「ふーん。すごいねー」と気のない返事。

そこでぼくは気づいた。
そうか、ノーヒットノーランのゲームは野球に興味のない人にとってはすごくつまらないゲームなのだ。

ぜんぜん得点が入らない。ほとんどランナーも出ないから盛りあがりどころもない。おまけに熊本工側のスタンドに座っているからすぐ隣のアルプススタンドはお通夜のような状態。
野球ファンにとってはたまらないノーヒットノーランも、ルールもよくわかっていない人にとってはほとんど動きのない退屈な試合。
シーソーゲームの末に8対7でサヨナラ、みたいな展開であればルールがよくわからなくても楽しいのだろうが。

とうとうダルビッシュ投手はセンバツ大会史上12人目となるノーヒットノーランを達成。
感動に打ち震えるぼくと、つまらなそうにあくびをする彼女。その大きな温度差によって巨大な上昇気流が発生した……。



東北ー熊本工の試合だけ観て帰り、その後も彼女と球場に行ったことはない。
退屈なゲームに懲りたのか、二度と野球場に行きたいということはなかった。

ということでぼくの妻は、「ノーヒットノーランゲームしか野球の試合を観たことがない」というめずらしい人間だ。