2020年1月8日水曜日

詰将棋と成功者


六歳の娘が将棋の駒の動かし方をおぼえたので何度か対局したのだが、勝負にならない。
ぼくも決して強いわけではないが、娘の指し方がでたらめなので十枚落ち(つまりこちらは王将と歩兵のみ)でも完勝してしまう。ゲームにならない(ぼくも負けず嫌いなのでわざと失策するような手は指したくない)。

娘の指し方は、とにかく駒を大事にする。歩兵一個でもとられないように全力を尽くす。結果、歩兵を守ろうとして角をとられる、なんてことになる。
あえて駒を捨てるなんてぜったいにできない。

また、せっかく取った駒を使わない。後生大事に抱えている。結果、守りはどんどん薄くなる。
たしかに初心者にとって「駒を打つ」のはむずかしい。盤上の駒が動ける範囲は限られているが、持ち駒を打てる箇所は数十個もある。ルール上は、空いている場所であればどこにでも打てる(歩兵、香車、桂馬には一部制約があるが)。
五種類の駒を持っていれば打てる場所は理論上数百になるわけだから、そこからひとつに定めるのはむずかしい。
ある程度慣れた差し手なら「現実的に意味のない手」ははじめから除外するので選択肢はぐっと狭くなるのだけど、慣れていなければ選択肢がありすぎて混乱する。
「カレーとハヤシライスどっちがいい?」なら答えられても「ばんごはん何がいい?」だと悩んでしまうのと同じだ。

そういやAI将棋ソフトは、「ベテラン棋士なら無意識に除外する手」も含めて検討すると聞いたことがある。
六歳児はAIと同じことをしているのだ。そう考えるとすごいな。すごかないけど。


ということで、「駒の捨て方を身につける」「駒の打ち方を身につける」練習のために、子ども向けの詰将棋の本を買ってきた。
一手詰めや三手詰めの問題を盤上に並べ、娘に解いてもらっている。

詰将棋をやっていると、ぼくも子どもの頃に父と詰将棋をしたことを思いだす。
だが、ぼくはちっとも詰将棋を好きにならなかった(今はわりと好きだが)。
そのわけは、父が出題する問題が難しすぎたことにあった。
父は新聞に載っている詰将棋の問題をぼくに解かせようとした。好きな人なら知っているとおもうが、新聞に載っている問題はけっこう難しい。七手詰めとか九手詰めとか。そこそこやっている人でもじっくり考えないと解けないレベルだ。
とうぜんぼくはさっぱり解けなかった。まちがえたとしてもどこでまちがえたのかわからない。七手目がちがったのか、五手目がまずかったのか、三手目が誤っていたのか、それとも初手からやりなおすべきなのか。
七手詰めだと可能性がありすぎてちっともわからない。娘の本将棋と同じ、「選択肢がありすぎてわからない」状態だった。

その経験を踏まえて、まずは一手詰めの問題ばかりを娘に出している。
一手詰めだと王手の方法は四通りぐらいしかない。これはダメ、これもダメ、これもダメ、じゃあこれだ。ってな具合に総当たり消去法でも答えが出せる。
娘がまちがえるたびにぼくは「それだと王様はここに逃げるよ。じゃあここに逃げられないようにするためにはどうやって王手をすればいいかな」とヒントを与えてもう一度指してもらう。
いろんな問題に挑戦しているうちに、娘の腕も少し上がってきた。

困るのは、娘がいきなり正解を出してしまったとき。
じっくり考えてあらゆる可能性を検討した上で正解を導きだしたのであればたいへん喜ばしいことなんだけど、そうではなく、何も考えずに指した手が正解だったとき。

正解なので褒めてやる。
で、その上で「そうだね。たとえばこの手だったらこう逃げられるからダメだもんね。こっちに行った場合はこう逃げられるしね」と説明する。
……のだが。
後半の台詞を娘はぜんぜん聞いてくれない。
「やったー! さっ、正解したから次の問題!」
という感じで済ませてしまう。
ぼくが「なぜこの手がいい手だったのか」を説明しても「わかってたし」と言って耳を貸そうとしない。

これでは学びが得られない。

ああ、これか、と。
野村克也氏が言ったとされる「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」だ。
失敗には原因があるが成功はたまたま成功してしまうこともあるのだ。

成功者は成功の秘訣を真剣に考えない。
スポーツでもビジネスでもそうだ。
なぜ成功したのかをつきつめない。「おれがすごかったからだ」「がんばったからな」で済ませてしまう。他の選択肢を選んでいたらもっと良かったのではないか、他の選択ではどこがだめだったのかを考えない。
真剣に考えるのは今までのやり方がうまくいかなくなったときだけだ(そしてそのときにはもう遅い)。

詰将棋を通して、うまくいっているときこそ他者のアドバイスに耳を傾ける謙虚さを持ちなさいと伝えたいんだけど、まあ無理だわなあ。
だからぼくは、娘がまちがえた手を指してくれることをいつも願っている。


2020年1月7日火曜日

チェーホフの銃

最近のディズニー作品って、すごく人種に配慮してるじゃない。

たとえば『アナと雪の女王2』には肌の黒い兵士が出てくる。
はっきりとは描かれていないけどあの話の舞台(アレンデール王国)は中世の北欧っぽい雰囲気だから、黒人が出てこなくても不自然ではない。というか出てくるほうが不自然。
でも出てくる。
2015年の『シンデレラ』(実写版のほう)にもやはり黒人が出てくる。
どちらも、その役が黒人である必然性はない。「彼は移民の息子だ」みたいな説明もなく、ただいる。

それがいいとか悪いとかは言わない。
おもうところはあるけど、はっきり書くとややこしいことになりそうなのでやめておく。

まあいろんな事情があるのだろう、製作者もたいへんだ。


ところでこの傾向はどこまでいくのだろう。

この「あらゆる人種を平等に」を求めていけば、
「盲人がいないのはおかしい」
「どうして知的障害者が出てないのか」
「これだけの人がいれば同性愛者だって一定数いるはずだ」
「くせ毛の登場人物が少なすぎないか」
「どうしてこのミュージカルには音痴の人が登場しないんだ。現実には一定数いるはずなのに」
みたいな話になる。まちがいなく。

で、「いろんな人種の人をまんべんなく登場させろ」という声に抵抗しなかった製作者は、そういった声に反論することができない。だって前例に倣えば従うしかないんだもの。


演劇界には『チェーホフの銃』という言葉がある。
劇作家のチェーホフが「舞台に銃を置くのであればその銃は劇中で必ず発砲されなければならない」と語ったことに由来する。

つまり「意味ありげなものを出すなら必ず使えよ」「なくてもいいアイテムはなくせ」ということだ。
あえて意味ありげなものを置いて使わないことで観客の予想を裏切るというシチュエーションもあるだろうが、それはそれで「観客をミスリードする」という効果がある。

使われない、ミスリードにもならないアイテムなら使うな。観客が余計なことを気にするから。
ルールというより、「芝居をおもしろくするために守ったほうがいいこと」だ。

政治的な配慮のためだけにストーリーに関係のない属性の人をむやみに登場させた映画は、[発砲されない銃]や[昇られないハシゴ]や[撮影されないカメラ]だらけの映画だ。

その先にあるのは、[観られない映画]なんじゃないかな。


2020年1月6日月曜日

ノーヒットノーランの思い出


今から15年前のこと。
当時つきあっていた彼女(今の妻)と甲子園球場に行った。

ぼくは高校野球が好きで、毎年甲子園球場に足を運んでいた。
彼女のほうはテレビ観戦すらしたことがないぐらい野球に無関心。「一回ぐらい球場の雰囲気を知っておきたい」というので一緒に行くことになった。

2004年3月26日のことだ。
ぼくらは外野席に座り、東北ー熊本工の試合を観戦した。
特にこの試合を選んだ理由はない。二人の予定があったから。それだけ。
東北にはダルビッシュ有投手がいた。当時から注目されていたので、東北側スタンドは客が多いだろうとおもい、あえて逆の熊本工側のスタンドに座った。

熱心な高校野球ファンならピンときたかもしれない。
そう、ダルビッシュ投手が熊本工相手にノーヒットノーランを成し遂げた試合だ。

五回ぐらいからスタンド全体が「おいおいまだノーヒットだぞ」という雰囲気になり、七回、八回になると「まさか……」と観客席全体が浮足立ち、九回には全員が固唾を飲んで見守っていた。
もちろんぼくも大興奮。
「まさかノーヒットノーランを目の前で観れるなんて……!」と色めきたっていたのだが、ふと傍らの彼女に目をやると、なんともつまらなそうな顔でグランドを眺めている。

「このままいくとノーヒットノーランっていう大記録になるんだよ! 十年に一度ぐらいしか達成できないすごい記録! 1998年には横浜高校の松坂大輔が決勝で……」
とぼくは熱く語ったのだが、彼女は「ふーん。すごいねー」と気のない返事。

そこでぼくは気づいた。
そうか、ノーヒットノーランのゲームは野球に興味のない人にとってはすごくつまらないゲームなのだ。

ぜんぜん得点が入らない。ほとんどランナーも出ないから盛りあがりどころもない。おまけに熊本工側のスタンドに座っているからすぐ隣のアルプススタンドはお通夜のような状態。
野球ファンにとってはたまらないノーヒットノーランも、ルールもよくわかっていない人にとってはほとんど動きのない退屈な試合。
シーソーゲームの末に8対7でサヨナラ、みたいな展開であればルールがよくわからなくても楽しいのだろうが。

とうとうダルビッシュ投手はセンバツ大会史上12人目となるノーヒットノーランを達成。
感動に打ち震えるぼくと、つまらなそうにあくびをする彼女。その大きな温度差によって巨大な上昇気流が発生した……。



東北ー熊本工の試合だけ観て帰り、その後も彼女と球場に行ったことはない。
退屈なゲームに懲りたのか、二度と野球場に行きたいということはなかった。

ということでぼくの妻は、「ノーヒットノーランゲームしか野球の試合を観たことがない」というめずらしい人間だ。

2020年1月3日金曜日

娘と銭湯

六歳の娘とよく銭湯に行く。

娘は銭湯が好きだ。
風呂も好きだし、水風呂も好きだし、お湯と水がいっぺんに出るシャワーも好きだし、風呂上がりに牛乳やジュースを買ってもらうのも好きだし、それを飲みながらテレビを観るのも好きだ。

三歳ぐらいのときから何度も銭湯に連れていった。
妻はあまり公衆浴場が好きではないので行くときはたいていぼくと二人。
娘の友だちを連れていったこともある。幼児六人の面倒を一人で見たときはさすがにゆっくり風呂に漬かるどころではなく閉口した。

ぼくにとっても楽しい「娘との銭湯」だが、もうそろそろ行けなくなる。娘を男湯に入れることに気が引けるからだ。
条例では十歳ぐらいまでセーフだそうだが、さすがに十歳の女の子を男湯に連れていくのはまずいとおもう。自身も嫌がるだろうし。

六歳の今でも、「娘の身体をじろじろ見るやつはいねえだろうな」と周囲に目を光らせ、娘が歩くときはさりげなく前に立って身体を隠し、脱衣場ではすばやくタオルを巻きつけ、なるべく娘の身体が人前にさらされないように配慮している。

「娘を男湯に連れていくのは小学校に入るまで」と自分の中で決めている。
こうやっていっしょに銭湯に浸かれるのもあとわずかだなあ、と少しさびしい気持ちになる。


そんなふうにして、娘といっしょにできることが少しずつ減ってゆく。
手をつないで歩くとか、いっしょに公園で遊ぶとか、肩車するとか、おんぶするとか、寝る前に本を読んでやるとか、手をつないで寝るとか、娘の友だちの話をするとか、娘から手紙をもらうとか、髪をくくってやるとか、ピアノの連弾をするとか、朝起こしてやるとか。
今あたりまえのようにやっていることも、あるとき、娘から「今度からは一人でやるからいい」と言われて終わる。
(肩車やおんぶに関してはぼくのほうからギブアップする可能性もあるが)

いや、そんなふうに終わりを告げられるならまだこちらも感慨深く受けとめられる分まだいい。よりさびしいのは「気づけば終わっている」ケースだ。たぶんこっちのほうがずっと多い。

ふと「そういや最近娘と手をつないでないなあ」とおもう。最後につないだのはいつだったっけ。おもったときにはもう「最後のチャンス」は永遠に失われている。
「これが最後」と感じることもなく。
今までだって、おむつを替えるとか自転車の後ろを持って支えてやるとか、「これが最後のおむつ替えだな」とか意識することもなくいつのまにか終わっていた。今後もそうなのだろう。

娘の中でのぼくの居場所がちょっとずつ削りとられてゆく。娘もぼくも気づかぬまま。
あたりまえなんだけど、やっぱり寂しさはぬぐえない。
死ってある日突然訪れるものではなく、ちょっとずつ死んでゆくものなんだろうな。ぼくは今もゆるやかに死んでいっている。


2019年12月31日火曜日

【読書感想文】フィクションの検察はかっこいい / 伊兼 源太郎『巨悪』

巨悪

伊兼 源太郎

内容(e-honより)
東京地検特捜部の検事・中澤源吾と特捜部機動捜査班の事務官・城島毅。高校時代野球部のダブルエースだった二人は、ある事件をきっかけに「検察」の道を選ぶ。二人の前に立ちはだかる、政治家、企業、秘密機関―「消えた二兆円」。真相に辿り着く過程で明らかになる現代の「巨悪」の正体とは。元新聞記者の著者渾身の検察ミステリー巨編。
元新聞記者の小説だけあって、文章が硬っくるしくて読みにくかった。
そんなにちゃんと書かなくていいよ、適当にはしょってくれていいよと言いたくなる。
すごくちゃんと調べてしっかり構想立てて一生懸命書いてるんだろうなーと伝わってくる(もちろんそれはマイナス)。司馬遼太郎かよ。

小説としてはあんまり好きじゃなかった。登場人物がやたらと多くて、説明が事細かで、とにかくまだるっこしい。
主人公ふたりの背景にあるものも、「ああよくある悲しい過去ね」としかおもえなかった。

この半分の分量だったらスピーディーで楽しめただろうなあ。
 復興予算は東日本大震災発生の二ヵ月後、瓦礫処理費用などに第一次補正予算の四兆円が計上され、さらに第二次補正予算で約二兆円、十一月には第三次補正予算の約九兆円が加算されている。財源は半分以上が所得税や法人税、個人住民税などで、主に国民への増税で賄われている。今後三十年近く続く増税を、誰もが「復興のためなら」と受け入れたのは記憶に新しい。
 それにもかかわらず、当初は被災地以外にもその復興予算が投じられた。特に生活再建の本格的な予算として位置づけられた第三次補正予算では、九兆円という大枠が決められると、各省庁が競い合って要求を出し、それを積み上げる形で中身が作られ、いわば、予算の奪い合いが公然と行われた。
 各庁の予算要求の根拠は、政府が作成した復興基本方針だ。その冒頭に掲げられた理念は「被災地における社会経済の再生や生活の再建に国の総力を挙げて取り組み、活力ある日本全体の再生を図る」という立派な一文。このうち、『活力ある日本全体の再生』という文言によって、被災地以外にも復興予算投入が可能になった。
 当時の第三次補正予算で組まれた約五百事業のうち、四分の一が被災地とは無関係の事業だったと現在判明している。例えば、法務省は北海道と川崎の刑務所で職業訓練を拡充するために、文部科学省は今や跡形もない旧国立競技場の補修費に、農林水産省は反捕鯨団体の対策などに大金を使用している。
ノンフィクションだったらめちゃくちゃおもしろいんだろうけどなあ。復興予算について調べてみたくなった。

告発っぽいネタもあるんだけど、自由共和党とか民自党とか言われてもなあ。フィクションだからしょうがないんだろうけど、たぶんモデルもいるんだろうけど。これが実名だったら最高なんだけど。
「検事さん。なにゆえ過去の特捜部では都合の悪い証拠を隠したり、調書を捻じ曲げたりしたんですか」
「簡単に言うと、それができるからでしょう」
「怖い話だ」
「ええ。できるからといって何でもやっていいわけではないのに、それを忘れてしまった検事が複数いた。これは特捜部だけでなく、誰もが陥りかねない問題です。私が言うのも妙ですが、国民全体が特捜部の不祥事を反面教師にすべきでしょう」
 自分の吐いた台詞が中澤の胸に重たく響いた。海老名が幕を下ろすように結論づける。「政治家も特捜部も、お互い責任重大ですな」
この小説の検察はかっこいい。小説の検察
実際の検察組織の中にも巨悪に挑もうとがんばっている人がちょっとはいるんだろう。と、おもいたい。

とはいえ税金で支援者を接待して、あからさまに証拠を隠蔽していることが誰の目にも明らかな政権を今も放置している以上、現実の検察はまるごとダメ組織と言わざるをえないよねえ。悲しいことに。

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