2019年6月13日木曜日

【読書感想文】なによりも不自由な職業 / 立川 談四楼『シャレのち曇り』

シャレのち曇り

立川 談四楼

内容(e-honより)
落語家になるため弟子入り志願した若者(のちの談四楼)に、憧れの立川談志が告げたのは「やめとけ」の一言だった。―なんとか入門を許されるも、「俺と仕事とどっちが大事だ!」と無理難題に振り回される談四楼。恋に悩み、売れないことに焦燥し、好敵手と切磋琢磨する中で、ついに真打昇進試験が…。しかしそれは、落語界を震撼させる一大事件の始まりに過ぎなかった。師弟の情を笑いと涙で描く傑作小説。

立川談志氏の弟子であった立川談四楼氏による自伝的小説。

おもしろく読めたが、時系列がばらばらで読みにくいこと甚だしい。
いきなり時代が飛んだりさかのぼったりするので、読んでいて「えっ、あの話はどうなったの?」と混乱する。
発表時期がばらばらだったかららしいけど、一冊の本にするときになんとかできなかったものか。これはちょっとひどいぜ。編集者仕事しろ。

話にまとまりがないのは落語的といえるかもしれないけどね。ストーリーに一貫性のない噺ってけっこう多いし。
上方落語の噺だけど、『こぶ弁慶』なんかその典型だよね。前半と後半でまったく別の噺になるからね。登場人物も入れ替わっちゃう。



個々のエピソードは読みごたえがあった。
特に立川談志一門の落語協会脱退のくだりはおもしろい。

上方落語派のぼくにとって立川談志という噺家は
「偉そうにふんぞりかえっていてなんか嫌い(『M-1グランプリ2002』の審査員の印象がひどすぎて)」「落語はすごいらしい」
というぐらいのイメージしかなかった。
一度CDを聴いたことがあるが、江戸っ子訛りがどうも聞きづらく途中でやめてしまった。

しかしこの本に出てくる立川談志は、人間性の良し悪しはべつにして、ずいぶん弟子思いのいい師匠である。
「何だとゥ、独演会ィ?」
 寸志がその見幕に思わず謝ろうとするよりも早く、談志は一気に続けた。
「やれやれィ、やらなきゃしゃあねェ。独演会が打てる、つまり客が呼べる芸人だけが一人前というこった。それが俺の認識だ。前座だろうが二ツ目だろうが構うこたねェ、遠慮は要らねえから派手にやれ。だいたいなあ、俺の他に独演会を打てる落語家が何人いるってんだ、いやしねえだろ。何にも行動を起こさねえで、ただ居心地がいいというだけで寄席に安住してやがる。こんなに客が減ったのもみんなそいつらのせいなんだ。やれやれ、どんどんやれ。ただ、ひとつだけ言っておく。ネタだけはキッチリしたものをやれよ、前座噺で逃げようなんて思うな。で、いつやるんだ、木戸銭はいくらだ、客は何人呼ぶつもりだ、ゲストは誰なんだ、俺が要るのか要らねえのか……」と、それはもう矢継早に言った。
「お願いします、是非出て下さい。十月の三十一日です」
 寸志がやっとの思いで伝えると、「よし、事務所へ電話してみろ。空いてたら行ってやる」
「ハイ、その日は何もありません。空いてます」
「そうか、そこまで調べがついてるんじゃ仕方がねえな。じゃ、行ってやる。おめえの会に俺が出るなんてもったいねえぐらいのもんだ」
弟子の書いたものだから美化されている部分はあるだろうが、それにしても気風がいい。
落語協会を飛びだしたのも「弟子が真打昇進試験に落とされたことに納得できず」だというのがかっこいい。
事あるごとに「おまえらはおれの弟子なんだから腕はある」と口にするところ、ここぞという局面では現状に甘んじている弟子を厳しく叱りつける姿など、いやいい師匠だなと感心するばかり。
金に汚いところは江戸っ子っぽくないが、独自流派を立ち上げて弟子たちを食わせていかなければならないというプレッシャーがあっただろうことを考えると、それもやむなしとおもえる。
ビートたけし、高田文夫、横山ノック、上岡龍太郎など著名人を弟子として高座に上げて客寄せに利用したところなど、ずいぶん商才もあったんだなと感心する。

この本を読んで、「傲慢な天才」という談志のイメージは大きく変わった。
繊細で、周囲の人間をよく見ていた人だったのだろう。
考えてみれば当然の話で、人間観察に長けているからこそ噺家として大成したんだろうね。



印象に残るのは、真田家六の輔のエピソード。
真田家六の輔という名前の落語家は存在しないので著者が創作した人物なのだが、そのエピソードがあまりに生々しいのできっとモデルとなる人物がいたのだろうと想像する。

苦労人である師匠をもった六の輔。師匠は芸はうまいが気が弱く、そのせいで落語協会の中でも不遇の扱いを受けていた。
だが真打昇進試験で落とされた談四楼の師匠(談志)が落語協会を飛びだしたのとは対照的に、六の輔の師匠は「こらえろ」という。協会に対しての不満は多いはずなのにそれをひた隠し、弟子にまで不遇を強いる師匠に絶望する六の輔は、自由に見える談志一門の談四楼がうらやましくてたまらない。
だが不満や嫉妬を表には出さない六の輔はやがて酒におぼれてゆき、身体を壊すまでに……。

長くないエピソードだが、落語家という商売の業がぎゅっと凝縮されたような話だ。
ひょうきん、お気楽、自由闊達であることを求められながら、一方で伝統、師弟制度、閉鎖された組織という環境に身を置かなければならない落語家。
不満を感じながらも、表には出せない。ずいぶん因果な商売だ。

噺家という人種は自由に見えて、何よりも不自由な職業なのかもしれないな。


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2019年6月11日火曜日

無一文の経験


小学校一年生のとき、お祭りに行った。
近所のスーパーの駐車場でやっている小さなお祭りだ。小さなお祭りとはいえ小学一年生にとっては小さくない。
夜店をまわり、あれこれ食べてゲームをして、めいっぱい楽しんだ。

そろそろ帰ろうか、最後にあと一軒ぐらいまわろうか、という段になって気がついた。
財布がない。

母や友だちのおかあさんといっしょにさがしたが見つからない。

ぼくは号泣した。
財布には三百円ぐらい入っていた。

母や友だちのおかあさんは「まあしょうがないね」という反応だった。そりゃそうだろう。大人にとって三百円なんてそんなもんだ。ちょっとさがして、見つからなければ諦める。五分もすれば忘れてしまう。それぐらいの金額だ。

でも一年生のぼくにとって三百円を失うというのは、絶望的な出来事だった。
なにしろそのときのぼくの全財産だったのだから。


全財産を失ったことはあるだろうか。
無一文、すっからかん、すってんてん、すかんぴん、一文無し、オケラ(日本語ってやたら無一文に関する表現が多いな)。

ぼくは小学一年生にして無一文を経験した。
それはもう、絶望的な気分だった。これから先どうやって生きていけばいいんだよ……と地面に両手をついておいおい泣きたい気分だった。




今にしておもうと、いい経験だったとおもう。

無一文の気分なんてなかなか味わえるものではない。
ぼくは今三十代だが、今無一文になったら冗談にならない。誇張でもなんでもなく生きていけない。

小学一年生にして無一文の絶望感を知ったぼくは、お金に細かくなった。
お年玉にも半分ぐらいしか手をつけない。何かを買うときはじっくり検討してからにする。見栄のために金を使わない。借金はしない。ギャンブルもしない。リボ払いもしない。
財布を落としていないかも執拗に確認するようになったので、あの日以来一度も財布をなくしたことがない。
一度身についた倹約の精神は大人になっても残っている。


我が娘にも、大人になってから散財することがないよう、ぜひダメージの少ないうちに無一文の恐怖を知っておいてもらいたい。

こっそり娘の財布を隠して……ってそれはさすがにひどいか。


2019年6月10日月曜日

ニュースはいらない


ニュースを見るのをやめた。


新聞はもう十年ほど前からとっていない。
新聞を読むのは好きなのだが、
・廃品回収に出すのがたいへん
・新聞はその日のうちに読まないといけないので、読みたい本が後回しになってしまう
というのが新聞購読をやめた理由だ。

それでも社会人としてニュースは知っておかなければ、とおもって
・朝のテレビニュース
・夜のNHKニュース
・新聞社のオンライン記事
をみるようにしていたのだが、どれもやめた。

胸糞悪いニュース(政治の腐敗とか身勝手な犯罪とか痛ましい事件とか)を観るのがいやになったのと、
どうでもいいニュース(芸能人のスキャンダルとか地方のお祭りとかパンダの成長とか同じ話題を延々やるのとか)を観るのがいやになったのが理由だ。

ぼくは事実だけを淡々と伝えてほしいのに、やたら情緒に訴えかけようとしてくるのにうんざりしたのだ。

くだらないニュースは、ほんとになんとかならんのか。
NHKですら芸能ニュースとかやるし。
こっちは憤慨したり感動したりしたくてニュース観てるんじゃねえよ。だったらバラエティ番組観るほうがマシだわ。



そんなわけでニュースを観るのはやめた。
テレビのニュースも新聞のニュースも観ない。ネットニュースは目に入ってくることはあるが、見出ししか見ない。

朝はEテレを観ている。
これが実にいい。
気持ちの良い一日のスタートを切れるようになった。
夜は読書やパズルにあてる。

そしてわかった。
ニュースを観なくなっても一切困らない。
もう二ヶ月ぐらい観ていないけど、そのせいで困ったことなんかひとつもない。

「ニュースぐらいみとかなきゃな」とおもってがんばってみていたけど、害悪でしかないものだったのだ。
気分は悪くならないし、読書のペースは上がるし、静かに過ごせるし、いいことずくめ。


ニュースを観るなとは言わないけど、「ニュースぐらいみとかなきゃな」って気持ちで観てる人は、いっぺんやめてみるといい。
たぶん何も困らないから。
有意義に過ごせる時間が増えるから。

2019年6月7日金曜日

【読書感想文】ただのおじいちゃんの愚痴 / 柳田 邦男『「気づき」の力』

「気づき」の力

生き方を変え、国を変える

柳田 邦男

内容(Amazonより)
「孤独な時間」はなぜ大切か。人は孤独な時こそ悩み、苦しみ、寂寥感にとらわれ、それらを乗り越えるために懸命に考える。孤独なしに、考えるという「心の習慣」は身につかない。ネットの便利さやコンピュータが作る疑似体験に浮かれて、自己の内面と向き合う静かな時間や、現場体験によって自ら気づくことの意義を見失う現代人に、「目を覚ませ」と呼びかける警世の書。

ひさしぶりにどうしようもない本を読んだ。

そもそも、民俗学者の柳田國男氏の本だとおもって手に取ってしまった。
読んでいるうちに「あれ? 柳田國男さんってこんなに最近の人だったっけ? 明治とかじゃなかったっけ?」とおもって著者経歴を見てやっとまちがいに気がついた。

國男じゃねえのかよ! 誰だよ邦男って! まぎらわしい名前名乗りやがって!(本名なんだろうけど)



まあ、勘違いから出会った本が案外すばらしい本だったりして……とおもって読みすすめていたのだが、これがとにかくひどかった。

たとえば冒頭。
看護学生のエッセイを紹介し、その瑞々しい感性を絶賛する。そしてこう書く。
 佐藤さんは、自分の「気づき」をこう整理している。学生って、ひたむきだなあと、私は思った。「最近の若者は」などと、若者を一絡げにして批判するのは間違いだろう。いや、若者は捨てたものではない、希望をもてるぞ、と私は感じるのだ。
 高尾さんも佐藤さんも、進行したがん患者を担当するという厳しい試練を受けた中で、生涯の生き方にまで影響が及ぶような重要な「気づき」を経験している。とくに高尾さんは、患者の死というショッキングで悲しい体験をしている。そのことは若者にとっていかに現場体験が心の成長・成熟のために重要かを示している。これは看護学生だけの問題ではなかろう。
 このことは、広がりつつあるネットを利用する教育では、骨身に沁みて開眼するような学びは得られないということを示している。
は? なんで?

ことわっておくが、紹介されている看護学生のエッセイには、インターネットのイの字も出てこない。
実習を通して知り合った老人との交流と死別をつづったものだ。

それがなぜ「広がりつつあるネットを利用する教育では、骨身に沁みて開眼するような学びは得られない」になるんだ?
たぶんエッセイを書いた看護学生だってインターネットは使ってるだろうに(エッセイが投稿されたのは2007年だそうなので使っていないはずがない)。

どうしたの、おじいちゃん。
どうして、顔を合わせた交流だけが心の成長につながる体験で、ネットを通したらそうならないという短絡的思考なの? ゲームのやりすぎ?


この邦男おじいちゃんはその後も、手を変え品を変え「昔はよかった」をくりかえす。
「自分の頭の中にある美化された過去のイメージ」と「脳内でつくりあげた現代のかわいそうな境遇におかれた子ども」を対比しているのだから、前者のほうがいいのは当然だ。

そして、やたらとインターネットや携帯電話を目の敵にしている。
その攻撃材料がまた、「心が伝わらない」だの「忙しくて心のゆとりがない」だの「インターネットの便利さに漬かった若者は思考が浅い」だの、ことごとくうすっぺらい。もちろんなんのデータも示していない。
「よくわかんないけどおれが子どものときはなかったものをみんなやってるのが気に入らねぇ」なのがまるわかりだ。

きっとこういう人はいつの時代にもいたんだろう。
二十年前だったら「今の子どもたちはテレビゲームばっかりで……」と言ってただろうし、四十年前には「テレビばっかり……」と言ってたんだろう。そして六十年前は「今の子どもは漫画ばっかり読んで……」でそれより前は「小説ばっかり読んでるから……」だったんだろうな。
 私は、英文のこの絵本を持ち帰って、ゆっくりと再読すると、アメリカ人の作家と画家が、今という時代にこの絵本を創作して何を伝えようとしたのか、その意図がしっかりと私の心の中に浸み渡ってきた。そして、《これは日本の子どもたちはもとより大人たちにも、ぜひ読んでほしい絵本だ》という思いがこみあげてきた。
 ケータイ、ネット、ゲーム、勉強、競争主義といった一刻の余裕もない環境に取り巻かれ、何事につけ親から「はやく、はやく!」と急かされる今の子どもたちの状況に対し、何を取り戻さなければならないか、この絵本は、大事なキーワードを提示している。

昔の人は苦労していた。金や時間よりも大切なものを知っていた。それにひきかえ効率主義と拝金主義に洗脳された現代人は……。
こんな愚痴がひたすら並べられている。
いやいや、昔の人だってラクをできる方法があればぜったいそっち選んでたって! 昔の人は好きで苦労してたとおもってんのかよ、このおじいちゃんは。


まあ年寄りの愚痴に対していちいち目くじらを立てるのもどうかとおもうが、驚くべきはこのおじいちゃんがノンフィクション作家を名乗っていることだ。おまけに「私はノンフィクション作家として論理的な思考ばかりを重視していたが、もっと人の心を見つめなければならない」的なことも書いている。

……。
論理的っていったいなんなんでしょう。



ことごとくゴミみたいな本だった(後半の河合隼雄氏の言葉を紹介しているところは興味深かったが、だったら河合隼雄氏の本を読めばいいことだ)。

この本から得られたものはただひとつ。

自分はこういう年寄りにならないようにしよう、という戒めだけだ。

ほんと、気を付けないとね。
五十年後に
「昔は連絡するためにはわざわざ携帯電話を使っていた。ものを調べるためにはパソコンやインターネットを使って一生懸命調べていた。たしかに面倒だったがその過程で得られるものも多かった。苦労していたからこそ、情報の裏にある人の心に気づくこともできた。それにひきかえ今は……」
とか言っちゃわないように。


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2019年6月6日木曜日

かぎりなくスパムに近いメール


2001年頃のお話。

当時、インターネットはあったものの主流はまだまだ「個人のホームページ」「趣味の掲示板」程度だった。

その頃ぼくは携帯電話を手に入れて(電話とメールと電卓ぐらいしか機能がないやつだ)、当時みんながそうだったようにメールに夢中になっていた。

もちろん必要事項の連絡にもつかっていたけど、それより情報発信の手段としてよくつかっていた。

おもしろい(と自分ではおもう)ことをおもいついたら、それをメールにして友人たちに送りつけるのだ。
「おもろいな」とか「またしょうもないことやってるな」とか返信があることもあれば、スルーされることもある。
それでもぼくは、コントやばかばかしいクイズを思いつくたびに、それを友人たちに送りつけていた。


そして2019年。

今もぼくはくだらないことをおもいつくたびに、パソコンや携帯電話で発信している。

変わったのは、送り先が友人ではなく、ブログやTwitterになったことだ。


すばらしい変化だ。

なぜなら、友人たちはぼくが書いたしょうもないことを読まなくてもよくなったのだから。

見たいときだけ読みにくればいいし、見たからといって気を遣ってコメントを返す必要もない。
ずっと見たくないならミュートにすればいい。

ぼくの友人たちは、もっとSNSに感謝したほうがいい。